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走り書き「新刊」読書メモ(53)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(2012.1.28~2012.5.5)

松尾剛次「葬式仏教の誕生」植木雅俊「仏教、本当の教え」さそうあきら「ミュジコフィリア 1」
古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」加藤典洋「3.11」谷口ジロー「猟犬探偵 1」
岸真理子・モリア「クートラスの思い出」森深紅「ラヴィン・ザ・キューブ」中野剛志「日本思想史新論」
高村薫・他「私と宗教」池上彰「池上彰の宗教がわかれば世界が見える」瀬戸内寂聴+稲盛和夫「「利他」人は人のために生きる」
ダライ・ラマ十四世+茂木健一郎「空の智慧、科学のこころ」廣中直行+遠藤智樹「「ヤミツキ」の力」松井孝典「我関わる、ゆえに我あり」
山田稔「別れの手続き」ファビオ・ジェーダ「海にはワニがいる」松本大洋「Sunny 2」
岡野玲子「陰陽師 玉手匣1」田中慎弥「共喰い」久間十義他「人はお金をつかわずにはいられない」
白石拓「透明人間になる方法」西村賢太「寒灯」田中真知「ひとはどこまで記憶できるのか」
豊田道倫「東京でなにしてる?」ハ・ジン「すばらしい墜落」柳澤桂子「いのちと環境」
藤谷治「我が異邦」辛酸なめ子「辛酸なめ子の現代社会学」小川洋子・岡ノ谷一夫「言葉の誕生を科学する」




松尾剛次「葬式仏教の誕生」(2011年8月10日発行・平凡社新書 700)は葬式仏教の成立事情とその意義についての考察。日本では中世まで死は穢れとして忌み避けられ、死体は河原や浜、道の側溝などに捨てられており、穢れに関わるとして僧侶が葬式に従事することも憚られていたが、中世になり、葬送に積極的に組織として従事し、五輪塔、板碑など石塔の墓がつくられることに寄与したのが鎌倉仏教であった、という。本書はその転換の経緯を具体的に辿っている。鎌倉仏教が日本の風土感性に根付く死者の「穢れ」を、「往生人に死穢なし」「清浄の戒は汚染なし」という言葉で乗り越えていく、という観念のドラマがすごい。



植木雅俊「仏教、本当の教え」(2011年10月25日発行・中公新書 800)は仏典の漢訳に関する解説書。サンスクリット語からもう一度、漢訳と日本語で語られた仏教というものを見直し、日中印の文化の違いを比較考察する。という趣旨で日中文化研究会で行われた講演を大幅に加筆したもの、とあとがきにある。原始仏典で語られている内容を論じた「インド仏教の基本思想」、中国、日本での仏典の漢訳を論じた「中国での漢訳と仏教受容」「漢訳仏典を通しての日本の仏教受容」、仏教受容の仕方からみた日本の国民性や文化的特質などを論じた「日中印の比較文化」の4章からなる。原始(初期)仏教の段階では修行する男女はまったく対等だったが、儒教倫理を重んじる中国で漢訳されるとき、女性を重視することが説かれた箇所は改変されたりしていた、と著者は指摘している。



さそうあきら「ミュジコフィリア 1」(2011年7月28日発行・双葉社 762)はコミック。京都芸術大学の美術学部に入学した漆原朔は入学早々に現代音楽研究会というサークルに勧誘され入部することになる。個性的な学生たちと朔の学園生活がはじまるが、数日後、そのサークルの部長を朔の腹違いの兄である作曲科4回生貴志野大成がつとめていることを知って朔の思いは揺れるのだった。高名な作曲家である貴志野龍の次男として生まれた主人公が、個性的な教師やサークルの仲間と交流し、腹違いの兄との葛藤をかかえながら、しだいに現代音楽や作曲の魅力にめざめていく様子をほのぼのと描いた学園ものの青春コミック。



古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」(2011年9月5日発行・講談社 800)は「若者論」。本書は生活満足度や幸福感が高いといわれる現代の日本の若者世代の実像に照明をあてた多面的な考察。戦前から現代までの「若者語り」をふりかえり、「モノも買わないし、海外にも行かないし、政治にも興味がないし、草食で内向き」といわれる現代の若者イメージを検証する。「本書は、「若者パーフェクトマニュアル[永久保存版]ではない。だけど現代の日本の若者を理解するための補助線にはなると思う。たとえば「若者資料集[2011年度版]」くらいには。」(「はじめに」より)。巻末には著者(26歳)と俳優佐藤健氏との対談も収録されている。紹介されている「幸福感」についての大澤真幸氏の説になるほどと。



加藤典洋「3.11」(2011年11月25日発行・岩波書店 1600)は評論・批評文集。3.11以前に書かれた3つの文章をふくめ、「ニューヨーク・タイムズ」誌や「朝日ジャーナル」、共同通信配信の連載コラム、「毎日新聞」などに掲載された10本の文章からなる本書の前半は「死に神に突き飛ばされる」という表題でまとめられており、後半には「祈念と国策」という表題の約90枚という書き下ろしの評論が収録されている。この論については「原爆投下と、犠牲者の思いと、核燃料サイクルと、技術抑止と、国策としての原発推進と、憲法九条の平和主義と。私のなかでは、一九八四年に書いた『アメリカの影』所収の「戦後再見-天皇・原爆・無条件降伏」、一九九六年に刊行した『敗戦後論』に続く、一連の問題意識の線上にくる論である」と「あとがき」でふれられている。この論のなかで著者は、日本の原子力平和利用における「技術抑止政策」の本質は、軍事的使用にあり、「核再軍備即応度」という考え方と等価の核抑止政策にほかならないとし、「核燃料サイクルの放棄は、「技術抑止」という日本のこれまでの核抑止政策の「放棄」であることを、世界に向けて宣言するかたちで、行わなければならない。」(「祈念と国策」の最終章「終わりに」より)と主張されているのだった。



谷口ジロー「猟犬探偵 1」(2011年12月25日発行・集英社 1000)はコミック。稲見一良(1931-1994)の小説の「猟犬探偵」ものの漫画化シリーズ作品で、第一巻の本書は、第12回日本冒険小説協会大賞最優秀短編賞を受賞した「セント・メリーのリボン」(1993)を原作にした作品が収録されている。主人公竜門卓は失踪した猟犬探しだけを請け負う私立探偵。5年ほど前に祖父の死によって相続した3万5千坪という広大な山地の一画に移り住み、人里離れた土地で愛犬のジョーとともに、半分世捨て人のような悠々自適の暮らしをしている。そんな彼が、知り合いのヤクザ組長の妻から、世話になっているさる資産家に飼われていたという盲導犬探しを依頼される。その犬は家の盲目の娘がいつも外出時に伴っていたのだが、ある日電話をかけるため数分リードを手放した間に失踪したというのだった。「猟銃と狩りという、なんとも男臭い小説だったが、寡黙で人間味がじっくりと染みる、ほのかな羞じらいのある物語」という、「あとがき」にある原作小説についての著者の印象は、そのままこのコミックの印象と重なるのだった。



岸真理子・モリア「クートラスの思い出」(2011年11月25日発行・リトルモア 1600)は評伝。フランス人画家ロベール・クートラス(1930~1985)の生涯について、画家と晩年生活を共にし、遺言で指定された「包括受遺者」として作品を保管している著者が、書き綴った本。生前に画家から直接きいた「聞き書き」の体裁を随所におりこみながら、生い立ちから青少年期の暮らしぶりを時系列にそって綴っていく本書の前半は、成長小説を読むような味わいがある。少年期に第二次世界大戦に遭遇し、10代で工員に、20代からは石工としてフランス各地で働きながら苦学してリヨンの美術学校で学び、やがてパリにでて絵画コンクールの受賞をきっかけに、画廊と契約し画家として注目され「現代のユトリロ」と評されるようになるが、絵の量産を強いられる毎日にたえきれず独立して窮乏生活のなかで「カルト」と呼ばれる独自な手札状の絵画作品を描き続けることになる。本書の後半では、著者がクートラスと知り合い共に暮らした時期のプライヴェートな出来事が綴られていて私的なメモワールという趣も。未発表デッサンも含むという図版も多数収録されている。



森深紅「ラヴィン・ザ・キューブ」(2009年2月8日発行・角川春樹事務所 1400)はSF小説。2050年、北海道の「極東シティ」にある世界最大のロボットメーカー「ファーイーストワークス」の生産管理部門でプロジェクトマネジメントの業務をこなしていた水沢依奈は、会長じきじきの指名で「特装機体開発室」にとつぜん異動を命じられる。水沢はアリーという認知行動研究用アンドロイドを秘書として使っている開発室室長の天才ロボット工学者佐原シンのもとで、会社が北米の医療機器メーカーから受注したアンドロイド10体を20週間で製造する、という極秘プロジェクトに「ロボット」の秘書として参加するように求められたのだった。。。天才にして変人ぞろいのロボット工学研究者チームと仕事をすることになった女性社員の奮闘を描いた、ロボットもののSF小説。はぎれのいいこなれた文体にひきこまれて読んだ。ただ中心はロボット開発に携わる人々の人間ドラマなので、いわゆる「セカイ系」的な構図はでてこない。主人公が認知症の老父の面倒をみていたり、派遣社員の話題がでてきたりと、現代の企業小説のSF版という感じも。第九回小松左京賞受賞作品。



中野剛志「日本思想史新論」(2011年12月3日発行・ちくま新書 780)は日本思想の系譜をたどった評論。「平成の開国」というスローガンを掲げた日本のTPP参加表明に対して、「TPP亡国論」でその弊害や危険性を指摘した著者が、「開国」という概念を洗い直す作業として、これまで封建反動思想(丸山真男)と評されてきた会沢正志齋の『新論』に代表される、水戸学の尊皇攘夷論に注目し、その思想的な系譜をたどった本。「伊藤仁齋が開き、荻生徂徠が発展させたプラグマティズムである古学こそが、後期水戸学のバックボーンであり、『新論』の国家戦略を支える哲学的基礎である。尊王攘夷論は、国家的危機を解決しようとしたプラグマティズムなのである。それを明らかにするのが本書の目的である。」(第一章より)。本書では、伊藤仁齋、荻生徂徠、会沢正志齋に加え、尊王攘夷思想の精神を継承するものとして、福沢諭吉の「実学」という考え方にも一章をもうけて論じられている。



高村薫・他「私と宗教」(2011年10月14日発行・平凡社新書 800)はインタヴュー集。初出は年刊の「宗教と現代がわかる本」2007年版〜2011年版。小説家、漫画家、写真家、映画監督、ノンフィクションライター、女優、といった多様な表現に携わる仕事をしている著名人に、「宗教」との関わりについてインタヴューした本。収録されている話し手は、高村薫、小林よしのり、小川洋子、立花隆、荒木経惟、高橋恵子、龍村仁、細江英公、想田和弘、水木しげるの各氏。立花隆氏のような徹底した無神論者から、「金光教」や「真如苑」といった宗教団体の信仰者まで、「宗教」との関わり方はまさに十人十色。プライヴェートな信仰生活を率直に語っておられる方もいて、興味深く読んだ。「自分より先の道の上に神様や仏様がいらっしゃるのではない。その方たちが自分の伴走者として走ってくださる、そのほうが日本の宗教のあり方として深まっていくと思います。」(小川洋子)。



池上彰「池上彰の宗教がわかれば世界が見える」(2011年7月20日発行・文春新書 800)はインタヴュー集。フリーライターの著者が、学者や宗教家に宗教を理解するための基礎的な知識となるような話を聞く、という内容の本。宗教が「よく死ぬ」ための予習」だとすると、本書は「予習への導入部分に当たる基礎講座」と、あとがきにある。インタヴューの相手は、島田裕巳(宗教学者)、釈徹宗(浄土真宗・住職)、高橋卓志(臨済宗・住職)、山形孝夫(キリスト教・宮城学院女子大学名誉大学教授)、安蘇谷正彦(神道・國學院大學前学長)、飯塚正人(イスラム教・東京外国語大学教授)、養老孟司(解剖学者)の各氏。質問者のほうがあらかじめ質問の答えを用意しているところがあって、破綻がない。島田氏の「葬式は、要らない」という著書(未読)が、「宗教界を震撼させた」とあり、とりわけ仏教関係者にインパクトをあたえたらしいことが、インタヴューからもうかがえる。養老氏の、「あの連中は、そう言うだろうな、って若い頃からわかってました。」というコメントもおかしかった。



瀬戸内寂聴+稲盛和夫「「利他」人は人のために生きる」(2011年12月3日発行・小学館 1200)は対談。作家と企業経営者の対談集。「震災後の苦悩を、どう乗り越えるか-作家として、経営者として、尽力し続ける二人の初の対談集」(帯の言葉)。週刊ポスト初出。おふたりには、作家と経営者という肩書きとは別に、仏教の帰依者・実践者としての共通性がある。この対話も、仏教徒の側から「生」をどのようにとらえるか、を柔軟に語り合った「法話」的な味わいのある内容になっている。「代受苦」「定命」といった仏教用語も多く出てきて、タイトルにとられている「利他」(忘己利他)もそのひとつ。自分のための祈りは届かないが、「利他のいのり」は間違いなく届く、という瀬戸内さんの言葉が力強い。善いことをすれば善いむくいがあるか、をめぐる、おふたりの微妙な相違はスリリング。



ダライ・ラマ十四世+茂木健一郎「空の智慧、科学のこころ」(2011年10月19日発行・集英社新書 700)は講演録と対談。ダライ・ラマ十四世が2010年11月に来日したおりに新居浜で行われた茂木氏との対談と、「般若心経」の解説を内容とするダライ・ラマ十四世の二回の講演が収録されている。日本では「般若心経」は亡くなった人のために葬式の折によく朗唱されるが、チベットでは「すべての現象には実体がない、という空を理解するための生きた智慧」である、とダライ・ラマはいう。「般若心経」の解説は仏教独自の用語の解釈にかかわるので、すんなりわかるとはとてもいえないが、チベット語の「般若心経」は広本で、漢訳のものは略本なので、文章に省略された部分や言葉があることなど、きめこまかな指摘にみちていて興味深く読んだ。対談でスリリングだったのは、意識が脳に影響を及ぼす可能性についての議論で、その存在をめぐるものだ。自分は仏教徒なので、この「微細なレベルの意識」が連続体として存在することを土台として「輪廻転生」を信じている、とダライ・ラマはいうのだった。



廣中直行+遠藤智樹「「ヤミツキ」の力」(2011年12月30日発行・光文社新書 740)は人が楽しみを求め、何かに夢中になる心理を多面的に考察した本。「やみつき」はもともと病に伏せる「病みつき」から転じて、特定の趣味や食べ物への嗜好など、病の症状のように「やめられない」状態をいうようになった。本書では、これを「人が何かに夢中になること」全般に拡張してその肯定面をとりあげている。「ほかにやるべきことがあると思ってもなかなかやめられないことは全部「やみつき」だ。」。快を感じるとはどういうことなのか。やみつきのメカニズムはどうなっているのか。さまざまな角度から「やみつき」をとらえ、各分野の研究や著者たちの体験談なども紹介されている。テーマは興味深いのだが、対象を限定したり、拡張することの難しさを感じさせられた本だった。薬物依存の研究者とかって彼の教え子だったというゲーム雑誌のライターが、原稿を分担ではなくキャッチボールのようにして共に手を入れながら書き上げたという、大森兄弟のような試みといえようか。



松井孝典「我関わる、ゆえに我あり」(2012年2月22日発行・集英社新書 777)は地球をシステムとしてとらえる「地球システム論」を提唱した本。著者は惑星物理学的な視点から、地球をプラズマ圏、大気圏、海、大陸地殻、マントル、コアといった物質圏、さらに有機物からなる物質圏として「生物圏」を加え、これらの諸要素間でたえずエネルギーが運ばれ、それに伴う物質の移動が起きて相互作用しあっている系を、「地球システム」ととらえる。また人類は、農耕牧畜という生き方の獲得によって生物圏から分化し「人間圏」を形成しているととらえる。こうした地球システムのなかで、人類の歴史や文明をふりかえると、なにがみえてくるのか。「地球を俯瞰する」視点からの「地球学的人間論」の試み。



山田稔「別れの手続き」(2011年5月10日発行・みすず書房 2730)は散文集。帯に「名作13篇を収めるベストオブ・ヤマダミノル」とある選集で、特定の人物との死別をきっかけに、そのひとにまつわる追憶や、追憶から派生して紡ぎ出されるさまざまな記憶のエピソードが内容になっている作品が選ばれているようだ。別れの相手として登場するのは、母親、著明な作家、旅先で知り合った人、文通相手と、さまざま。解説の堀江敏幸氏は「山田稔が固有名であると同時に、ひとつの文学ジャンルであることは、もはや疑いようがない。」と記し、その散文世界を「実践者がひとりしかいない、清濁あわせ持ってなお洒脱」と特徴をあげて称揚している。そういわれてみるとたしかに、この小説とエッセイの境界から親しみ深くふところにおちてくるような散文世界を、既成の文学ジャンルに分類してすますのは難しそうだ。



ファビオ・ジェーダ「海にはワニがいる」(2011年9月5日発行・早川書房 1400)は小説。アフガニスタンの小さな村ナヴァで少数民族ハザラ人として生まれた少年エナヤットは、タリバーンの迫害を恐れた母親のはからいで10歳のときパキスタンに連れ出されそこでおきざりにされる。その日から、ひとりで生きざるをえなかった少年は様々な仕事をしながら不法移民として国境をこえて、イラン、トルコ、ギリシャ、イタリアへと安住の地を求めて旅を続けたのだった。本書の主人公となっているエナヤットッラー・アクバリという実在の人物の体験を作家である著者がききとり、記録文学化したという作品で、本文でも聞き書きの体裁がとられている。現代のアフガン難民の人々のおかれた過酷で複雑な環境を雄弁にかたっていて、イランとトルコ国境の山越えや、トルコからギリシャへゴムボートで密航するといった、死の危険ととなりあわせの密入国の旅の描写はロードムービーのような臨場感にあふれている。



松本大洋「Sunny 2」(2012年3月5日発行・小学館 905)はコミック。初出は月刊「IKKI」2011年10月から2012年3月号にかけて連載されたもの。関西にある「星の子学園」という児童養護施設に入園している幼児から中学生までの十数人の子供たちの日常のひとこまを、毎回異なる子供にスポットをあてて描いたシリーズマンガの第二弾で、第七話から第一二話までが収録されている。様々な事情で親元をはなれて共同生活を送っている子供達それぞれが、ときどき自分のおかれた「現実」のきびしさをかみしめながらも、自分なりの心の構えをつくって順応してたくましく生きていく。登場人物達はみな個性的でとても実在感をもっている。人は意識としてあるように思っていても、実は意識にさきだつ空気のようなものから言動が生じることがよく描かれているからだと思う。だれにも覚えがあるような子供時代の心の普遍的なドラマが説得力をもって描かれているのにいつも驚かされる。



岡野玲子「陰陽師 玉手匣1」(2012年1月5日発行・白泉社 819)はコミック。初出は「メロディ」2011年2月号から10月号にかけて掲載。かって陰陽師ブームのきっかけともなったといわれる人気コミック「陰陽師」の続編。大きな櫻の木の根元で、大地に身を溶かして「四時の移ろいの夢」をみてまどろんでいた安部晴明が再びこの世にめざめ、平安京に戻ってくる。館で晴明を待ち受ける妻の真葛が付喪神の「マキモノ」に読んで聞かせる晴明の「玉手匣」に収められていた冊子のさる男女の奇縁を描いた幻想的物語から第一章がはじまり、章をかさねて、この男女の物語がかたちをかえて変奏展開されていく、という趣向。男女の物語は安吾の「桜の満開の下」などをちょっと連想させるところがある。原案は前シリーズ同様、夢枕漠。



田中慎弥「共喰い」(2012年2月3日発行・集英社 1050)は小説集。第146回芥川賞を受賞した表題作と、「第三紀層の魚」という作品が収録されている。初出はいずれも「すばる」。「共喰い」は地方の町の「川辺」と呼ばれる川沿いの地域で、女を殴る性癖をもった父親と暮らす一七歳の少年を主人公にした作品で、父の暴力のせいで離婚した少年の実母が、家の近所で魚屋を営み、少年がふだん行き来している、という環境がちょっと変わっている。家には今は琴子という後添えの女性がいるが、自営業の父親は女癖がわるく、近くのアパートにも通う女がいて、女を殴るという性癖もあらたまらない。思春期で女友達もいる多感な少年はそうした父の血が自分にも流れているかもしれないことを、ことあるごとに意識してしまうのだった。。二作とも方言が会話につかわれていて、ローカル色の濃い生活環境描写が特色になっている。



久間十義他「人はお金をつかわずにはいられない」(2011年10月24日発行・日本経済新聞出版社 1400)は金銭の消費をテーマにしたリレー小説集。日経新聞「電子版」小説シリーズの第二弾。業界通のサラ金業者の告白を描いた久間十義の「グレーゾーンの人」、ネットのバーチャルゲームにのめりこむ男を描いた朝倉かすみの「おめでとうを伝えよう」、消費にうしろめたさを感じる高収入のキャリアウーマンを描いた山崎ナオコーラの「誇りに関して」、人円という通貨を使う奇妙な共同体を描いた星野智幸の「人間バンク」、兄妹の遺産相続の顛末を描いた平田俊子の「バスと遺産」の5作品が収録されている。経済紙のネット版掲載だからといって消費翼賛というのでなく、消費の意味を考えさせるバラエティに富んだ作品が並ぶ。



白石拓「透明人間になる方法」(2012年2月3日発行・PHPサイエンス・ワールド新書 860)は近未来に実現可能かもしれない最先端技術を紹介解説した本。ハリー・ポッターに出てくるようなメタマテリアルの性質を利用した透明マントや、表面効果を利用して地上すれすれを飛ぶ列車エアロトレイン、脳波や血流のデータをもとに夢を再現する脳リーディングの研究、宇宙帆船や宇宙エレベーターの構想など、現在進行中の様々な科学技術の研究が、4段階の実現難易度ランク別に17項目解説紹介されている。リモコン昆虫の項で、生命力がつよく人間より数十倍の放射能耐性をもつというゴキブリに測定器をくみこんで事故現場等で放射能測定させることが可能かもしれないとあって、なるほどなあと。人のたちいれない放射能汚染現場で日進月歩のロボット技術が利用できないかとはよく思うところ。



西村賢太「寒灯」(2011年6月30日発行・新潮社 1300)は小説集。表題作他、「陰雲晴れぬ」、「肩先に花の香りを残す人」、「腐泥の果実」の4作品が収録されている。いずれも作者の分身のような北町貫多という男性と秋恵という女性の同棲生活のなかでの出来事が描かれている、いわゆる「秋恵もの」の私小説集。ただ「腐泥の果実」では、二人の同棲生活が「一年ちょっとの期間」だったことが明かされ、作品ではその生活を8年後からふりかえる、というかたちになっている。ささいなきっかけから発展して諍いになってしまう二人暮らしの男女の生活心理模様が、どの作品にもついかっとして激してしまう男性の側からドラマチックに描かれていて、様々なことを考えさせられる。「秋恵もの」の読者にはおなじみの、どこか時代がかった独特な滑稽味を醸し出す主人公の言葉遣いの味わいも随所に。



田中真知「ひとはどこまで記憶できるのか」(2011年5月25日発行・技術評論社 1580)は記憶についての脳科学や心理学の近年の知見を分かりやすく解説した本。著者は科学ライターで、全体は「忘れっぽい脳」「忘れなければ覚えられない」「消したい記憶、消せない記憶」など全6章に分けられ、それぞれがさらに12から14のこまかい話題別の読みやすい文章にまとめられている。海馬の短期記憶を長期記憶にかえる機能をアルコールが阻害するので、酔うと記憶が定着しにくくなる。したがって、忘れる、話がくどくなる、古い記憶が再固定化される。といった解説は明快で、経験的にもふにおちた(^^;。この本は、柳澤桂子「いのちと環境」にあった神秘体験と脳の後頭頭頂連合野の関連について何か記述がないかなと思って図書館で借りてみたのだが、そちらのほうは、その部位が「神を感じさせる部位」だとする説もある、として、数行だけ簡略に紹介されていた。



豊田道倫「東京でなにしてる?」(2011年6月20日発行・河出書房新社 1500)は短編小説集。「歌手」、「犬」、「音楽」、「新宿」、「帰省」の5編が収録されている。初出はいずれも「文藝」。著者名をウィキで検索すると「オルタナティブフォークシンガー」とある。ライブハウスで演奏し、インディーズレーベルでアルバムをだすなどフリーターをしながら音楽活動をしている「おれ」が主人公の巻頭作ほか、キャバレー勤めの若い女性や、ライブハウスの店長が主人公だったりと、都会を生活の場としていきる男女の日常と情感の深みをさりげなくきりとった作品集。



ハ・ジン「すばらしい墜落」(2011年4月5日発行・白水社 2400)は短編小説集。12編の作品が収録されている。ニューヨークにある大きなチャイナタウン「フラッシング」に暮らしたり、生活の場としてかかわりをもつ様々な中国系移民の人々。そういう共通項のもとで、作曲家、学生、大学教授、介護ヘルパー、税理士、アイロン工など、境遇の異なる中国系移民の男女の登場する生活感あふれる12の物語が紡がれている。「契約結婚」や大学教授の「終身在職権」といったコーエン兄弟の映画(「ディポースショー」「シリアスマン」)で知った話題がでてきたのも、いかにもアメリカだなあという感じで楽しかった。



柳澤桂子「いのちと環境」(2011年8月10日発行・ちくまプリマー新書 840)は科学エッセー。生命の誕生から進化の歴史をたどった第一章、生物の多様性や生態系を解説した第二章など、前半は科学啓蒙書のような感じだが、気候変動や人口爆発、核廃棄物の問題をあつかった中盤は、地球環境の陥っている深刻な現状を伝えている。また人類の意識の進化に希望を託す終章では、脳の進化や著者自らの闘病生活の経緯と神秘体験(世界との合一体験)が語られていて、脳の後頭頭頂連合野の機能抑制状態(「求進路遮断」)と「宇宙との一体感」との関連が指摘されていて興味深く読んだ。



藤谷治「我が異邦」(2011年8月30日発行・新潮社 1500)は小説集。表題作「我が異邦」のほか、「ふける」「日本私昔話より じいさんと神託」の3編が収録されている。初出はいずれも「新潮」。著者の作品をはじめて読み、なかでは医学文献の複写を業務とする会社に勤めていた「わたし」が、二年ほどアメリカに単身で出張滞在し、孤独で充実した「自由」を享受する体験を描いた表題作が味わい深く印象に残った。



辛酸なめ子「辛酸なめ子の現代社会学」(2011年11月10日発行・幻冬社 1200)はコミック。「ホラーM」「わしズム」「Beth」といった諸雑誌に2004年から2009年にかけて連載された風刺色の濃いコミックが29編収録されている。とりあげられているのは「モテブーム、純愛ブーム、スローライフ、ハンカチ王子、KY、モンスターペアレント、萌えブームなどなど、世の中を盛り上げた社会現象。」(まえがき) で、実地の見聞取材をベースにしたコミック版体験ルポという感じだ。へたうまタッチの描画には著者の批評精神が横溢していて随所でブラックな笑いを誘われる。それにしても一時話題にされ、たちまち消費されてしまう「ブーム」のとらえがたさ。この本でそういうことがあったんだ、と気がつくことも多い。



小川洋子・岡ノ谷一夫「言葉の誕生を科学する」(2011年4月30日発行・河出書房新社 1200)は対談。小説家の小川氏が東大教授で動物行動学者の岡ノ谷一夫氏の研究室を訪ね、「言葉の起源」などのテーマについて対談した内容が収録されている。岡ノ谷氏には『さえずり言語起源論』という著書もあり、鳥の歌の研究から言語の「歌起源説」を提唱されている。他にも人間の発声についての「産声起源説」とか「幼児擬態起源説」とか、様々な研究成果共々いろいろな氏の仮説が紹介されていて楽しいが、自己意識の発生についての「他者起源説」がとりわけ興味深かった。この説によると「社会性が高い動物は自己意識がある」ことになるようなのだ。