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走り書き「新刊」読書メモ(50)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(2011.3.19~2011.6.25)

西本紫乃「モノ言う中国人」瀬戸内寂聴「奇縁まんだら 続の二」上杉隆「ウィキリークス以後の日本」
穂田川洋山「自由高さH」梁石日「Y氏の妄想録」西村賢太「一私小説家の弁」
大森兄弟「まことの人々」斉藤英喜・武田比呂男・猪股ときわ編「躍動する日本神話」楊逸「陽だまり幻想曲」
村上春樹「ねむり」多和田葉子「雪の練習生」山竹伸二「「認められたい」の正体 承認不安の時代」
高橋昌一郎「理性の限界」金子哲雄「「激安」のからくり」ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ 1」
日高義樹「アメリカにはもう頼れない」後藤正治「清冽 茨木のり子の肖像」北山修「最後の授業 心をみる人たちへ」
菅原正子「占いと中世人」佐野山寛太「追悼「広告」の時代」高田里恵子「失われたものを数えて」
さそうあきら「マエストロ 1」司馬遷 大木康訳「現代語訳 史記」村上龍×孫正義「カンブリア宮殿[特別版]」
武田尚子「チョコレートの世界史」村上春樹「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」野田秀樹「南へ」
木谷有希子「ぬるい毒」斉藤美奈子『月夜にランタン』外山滋比古『失敗の効用』




西本紫乃「モノ言う中国人」(2011年2月22日発行・集英社新書 760)は現代中国のメディア事情についての解説書。1972年生まれの著者は外務省専門調査員(在中国日本大使館)や中国系企業勤務などの職歴をもち、中国在住歴が十年に及ぶと略歴欄にある。そういう経歴の人ならではという感じでここ数十年の間に中国のメディアで話題になった事件や社会問題などがその背景ともども分かりやすくに解説されている。インターネットの普及によって中国が大きく変わろうとしている。その「話語権」(モノ申す権利)の担い手がこれまでのように社会運動家や知識人、学生、大都市住民といった層から、むしろ地方在住の「愛国主義教育をどっぷり受けて育った」若い一般大衆層に変わりつつあるという指摘が興味深い。



瀬戸内寂聴「奇縁まんだら 続の二」(2010年11月21日発行・日本経済新聞社 1905)はエッセイ集。初出は「日本経済新聞」日曜版に2009年10月4日から2010年8月29日にかけて連載されたもの。2007年から160回(2010年10月現在)も続いているというシリーズで、順次単行本化もされていてこの本は第三巻にあたる。毎回、著者が生前「一言でも言葉を交わしたことのある」各界の今では故人となった著名人についての思い出を書くという趣向の連載エッセイで、とりあげられているのは政治家、財界人、芸能人、小説家、建築家、画家など、まさに多士済々。袖ふれあうだけだった縁のような人でも、印象的なエピソードとともにさらりと一筆書きのようにまとめてあり、ついつい次を読んでしまう。小林秀雄と講演旅行で同道したときのエピソードなど臨場感あふれていて楽しんだ。



上杉隆「ウィキリークス以後の日本」(2011年3月20日発行・光文社新書 740)は内部告発サイト「ウィキリークス」についての解説書。2007年から実質的に活動を開始したとされるウィキリークスは、2010年にアメリカの軍事外交に関わる機密文書を大量に公開しはじめ、11月末にはアメリカ国務省の秘密文書25万点を公開しはじめた。11月30日にウィキリークスの創始者であるジュリアン・アサーンジが性的暴行の容疑でインターポールに国際指名手配され、12月7日に英国で出頭逮捕された。本書ではこうした創始者のスキャンダルを含む一連の出来事がアメリカを筆頭とする世界の関係各国政府やメディアに引き起こした波紋やその背景についてなど、詳細に解説されている。当初の日本のマスメディアの反応ではウィキリークスをこぞって「暴露サイト」と呼んでおとしめていたことが指摘されているが、今年の6月15日の朝日新聞では「内部告発サイト「ウィキリークス」と呼んで、なんとウィキリークスから提供されたという情報をもとに一面のトップ記事をつくっている。かわればかわるものだなあと。



穂田川洋山「自由高さH」(2010年8月30日発行・文藝春秋 1143)は小説。初出は「文學界」2010年6月号。かってばね会社の工場として使用されていた建物をゆくゆくは転居するつもりで借りて、人の住める状態にするために休日に通っては補修や改装作業にいそしんでいる須永英朗のもとに、隣家に住む大家の中曽根高大という老人がちょくちょく様子を見に訪れる。さらに時には須永の元恋人や中曽根夫人を交えての語らいや淡い交流を描いた作品。さりげない関係心理の描写や日本語カタログ的言葉へのこだわりを、じっくりゆっくり読みたい作品。大家の老人に気をつかいつつ親しくなっても、ふとこの人は息子のかわりのような他者を求めているのではないか、それはたまらないと感じてしまう大人の心理。タイトルの「自由高さ」とは、無荷重時のコイルばねの高さを意味する工業用語。



梁石日「Y氏の妄想録」(2010年12月15日発行・幻冬舎 1500)は小説。初出は「ポンツーン」誌(幻冬舎)に2008年12月号から2010年7月号まで掲載された作品。37年間勤続した会社を定年退職したY氏は、ハローワークにいっても職にありつけず、毎日デパートめぐりのよるべない散歩をくりかえしながら、しだいに鬱屈していく。定年退職したごく普通のサラリーマンの戸惑いや家族や社会との疎遠感といった心境を描いた作品かと思って読みすすむうちに、むしろ社会風俗や性的な妄想を凝縮してちりばめたようなかなり特異なY氏とその家族の物語世界に力業で連れて行かれるかんじなのだった。



西村賢太「一私小説家の弁」(2010年12月15日発行・講談社 1500)は随筆集。「小説を書き始める以前の、僅かなツテを頼っては厚顔に持ち込んでいた未熟な文章が多くを占めている。」(あとがき)とあり、全部で27編の文章が収録されている。随想集とタイトルの肩にもあるのだが、内容のほとんどは、著者が十代の頃に作品にであって以来私淑しているという、大正末期から昭和初期に活躍した私小説作家、藤澤清蔵(1889-1932)についての文章がしめている。詳細な年譜も収録されており、著者はこの作家の全集(全五巻別巻二)も個人編輯して刊行準備中ということで、ひとと書物との運命的な出会いということについて、あれこれと考えさせられる一冊。そういえば作品集『小銭をかぞえる』(2008)には、愛藏していた藤沢の著書が破損したことで奥さんのぬいぐるみにやつあたりするという小説も収録されていたのだった。



大森兄弟「まことの人々」(2011年2月18日発行・河出書房新社 1300)は小説。主人公「僕」の「彼女」は、女子大の演劇サークルに入っていて、次の公演で「エドモン軍曹」という男の役をすることが決まったばかり。劇は「まことの人々」というタイトルの中世ヨーロッパを舞台にした作品で、長い間戦争をしていた二つの国の王子と総大将が偶然であい、お互い戦争にうんざりしている本心をうちあけあって意気投合して、ふたりの努力で最終的に平和が訪れるというもの。台本を読むと登場する他の配役たちみんなが善良な人々なのに対して、そのなかで「エドモン軍曹」だけが胸が悪くなるような「ごみ野郎」として描かれている。人品劣悪なだけでなく、戦争のどさくさにまぎれて人肉の味を覚えて仲間を襲って次々に食べてしまうのだった。そんな役柄をふりあてられた彼女はセリフを覚えエドモン軍曹になりきろうと練習しているうちに、どうも言動に粗暴さや奇妙なところがめだちはじめる。。先がよめずにぐいぐいひきこまれてしまう大森兄弟による共作小説。



斉藤英喜・武田比呂男・猪股ときわ編「躍動する日本神話」(2010年5月6日発行・森話社 2400)は日本神話についての評論文集。3名の編者を含むに総勢12名の執筆者による日本神話についての研究論文・評論を集成した本で、主に「古事記」に登場する様々な神々のエピソードを論じた第一部「「日本神話」の世界」、中世以降にみられる「日本神話」の再解釈、その変容を論じた、第二部「「日本神話」の脱領域」からなり、あわせて12編の所論とそれぞれの章に付されたトピック的なコラムが収録されている。古代文学研究という分野での近年の研究成果や動向、様々なアプローチが紹介されているので、関心のある人には面白いと思う。中世における日本神話の読み替えや再解釈(「中世神話」と呼ばれている)の研究で、度会家行が天地開闢以前の境地!を「機前」と呼んでいた例(『類聚神祇本源』)が紹介されていて興味深く読んだ。今でいうならビッグバン以前というべきか。



楊逸「陽だまり幻想曲」(2010年12月15日発行・講談社 1500)は小説集。表題作と「ピラミッドの憂鬱」の二篇の作品が収録されている。初出は「群像」2010年8月号、11月号。「ピラミッドの憂鬱」は、2LDKのマンションに同居している二人の中国人留学生の物語。日本に留学して大学院で修士号を取得して日本の貿易会社に就職した鄭楓果と、同じコースを一年遅れで歩んでいる石南羽。二人は同じ中国湖北省の小都市眉谷の出身で、幼なじみ。共に裕福な家庭で育ち仕送りを受けているが、南羽の場合は父親が受け取った賄賂の隠匿目的をかねて送金されてくるのだった。表題作は妻のパートの通勤に便利な場所にある一戸建て住宅に引っ越した一家が、新しい転居先で子だくさんの隣家の騒音に悩まされるという話。裕福な中国人留学生たちの生活感覚や資本主義化した中国社会の現状が背景にかいまみえるような「ピラミッドの憂鬱」が新鮮で面白く読んだ。



村上春樹「ねむり」(2010年11月30日発行・新潮社 1800)は小説。「文学界」1989年11月号に掲載され、単行本『TVピープル』に収録されていた「眠り」という作品を、全面的に改稿して表題もひらがな表記に変更した中編小説。ドイツ語版を踏襲したというカット・メンシックによるイラスト挿画入り。歯科医の夫と幼い息子と暮らす三十歳の主婦である「私」が、ある晩ベッドの足元に立つ不思議な老人の幻覚をみたのをきっかけに、まったく眠ることができなくる。この不眠状態が17日も続いて。。という一見平穏な日常のなかで眠気が訪れないという異常事態に直面した主婦の内面心理がややホラータッチで描かれている。一見不眠症に悩まされる不安を拡張したような作品だが、作品では周到にこれは不眠症とはまったくちがう、と冒頭の主人公の体験談で語られている。つまり持続的な覚醒状態についての空想小説なのだった。



多和田葉子「雪の練習生」(2011年1月30日発行・新潮社 1700)は小説。3篇の独立した短編作品からなる連作小説。初出は「新潮」2010年10月号から12月号。ソ連のサーカスの花形から自伝作家に転身したホッキョクグマの「わたし」の物語「祖母の退化論」、「わたし」の娘である「トスカ」と女曲芸師ウルズラの物語「死の接吻」。「トスカ」の息子でベルリン動物園のアイドルになった「クヌート」の物語「北極を思う日」からなり、ソ連邦の崩壊から現代に至る時代背景のなかでホッキョクグマ三代の物語が綴られている。クマと人間の区別や境界が自在に越境されるウィットに富んだ文章の奇妙な味がすばらしい。三代のクマたちはサーカスや動物園など確かに現実感あふれる枠組みのなかで暮らしているのだが、ときに当たり前のことのように作家になったり亡命したり組合をつくったりもするのだった。



山竹伸二「「認められたい」の正体 承認不安の時代」(2011年3月20日発行・講談社現代新書 720)は「承認不安」という関係心理についての現象学的な考察。社会的な関係ばかりか家族においても、ありのままの自分を抑制し役割を演じ続ける「空虚な承認ゲーム」、すこしの批判にも自分が全否定されたように感じてしまう感性。著者は多くの例示をあげて「現代は承認の不安に満ちた世界である。」というところから分け入り(第一章)、二章では、ヘーゲルやコジェーブ、ラカンなどの指摘を紹介しながら、この他者の承認への欲望が、自己の生きる意味を与えてくれる、もっとも根源的な人間的欲望、自己価値への欲望であることを明らかにしていく。三章ではこうした承認欲望がいかにして生まれその内実を変えていくのかを発達史的に考察し、四章では承認不安の根底にある「自由と承認の葛藤」という心理学的テーマをフロイトの学説や近代史に即して考察し、最終章の五章では「自己了解」や「一般他者の視線」からの内省という方法で、こうした承認不安を克服する処方箋が提示されている。



高橋昌一郎「理性の限界」(2008年6月20日発行・講談社現代新書 740)は「理性の限界」について解説した本。完全に民主的な社会的決定方式が存在しないことを証明したアロウの「不可能性定理」の解説を含む第一章「選択の限界」、人間の観測には超えられない限界があることをしめしたハイゼンベルクの「不確定原理」の解説を含む第二章「科学の限界」、「数学の世界では「真理」と「証明」が一致しないことを明確にした」ゲーデルの「不完全性定理」の解説を含む第三章「知識の限界」の三章からなる。社会科学、物理学、数学と、いずれも専門的な学問分野での成果についてのはなしなので、腑に落ちるように理解するのは難しいことにかわりはないが、本書は架空のシンポジウムというかたちで、学者や一般市民からなる多種多様な人物たちの交わす対話形式で豊富なたとえ話をまじえて解説が記述されているので、とても読みやすく楽しめる本になっている。会場にはカント主義者という人もいてカントは既にこういっていると意見を述べるのだが、話が横道に逸れそうになると、いつも司会者から、そのお話は別の機会に、と遮られてしまうのだった。



金子哲雄「「激安」のからくり」(2010年5月10日発行・中公新書ラクレ 740)はいわゆる「激安」商品の販売や流通のしくみについて解説した本。「激安」商品の製造から流通、販売に至るまでのプロセスを、激安ジーンズや百円バーガー、低価格スーツや、2万九千円パソコンなど、個別商品別に具体的に紹介解説した第一章「「激安」の現場」、ダイエーの中内功氏、イトーヨーカドーの柳井正氏、ドンキホーテの安田隆夫氏といった、販売会社の創業者の人物像を紹介した第二章「「激安」の人物史」、未来の展望を試みた第三章「「激安」のこれから」からなる。流通する多くの商品が製品製造を人件費や原材料費の安いアジアの工場に委託しているというのはなんとなくわかっていることではあったが、こういう本を読むと、業種別に具体的な工夫や戦略やその展望がみえてきて面白い。穀物メジャーが人工衛星で地球をモニターして相場の動向を推測しタイミングをはかり原材料を調達して外食チェーンに供給しているという話など、合理性のきわみを追及した結果激安商品がうまれていることがわかってくる。一方で、衣料品などでは大手企業の発注取り消しという「取引先いじめ」の結果生まれている商品が少なくない、という不公正取引に関する指摘もあり、「フェアトレード」運動などにも言及されている。



ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ 1」(2009年12月8日発行・エンターブレイン 680)はコミック。時は紀元130年頃のハドリアヌス帝治世の古代ローマ。自分の公衆浴場の設計アイデアが古いといわれ怒って建築事務所をとびだした建築技師ルシウス・モデストゥスは、友人マルクスと行った公衆浴場で入浴中にとつぜん現代の日本の銭湯にタイムスリップして風変わりな体験をする。気がつくとローマにもどっていたルシウスは、この夢のような異次元体験の見聞をヒントにして、日本の銭湯風公衆浴場を設計し、これがローマ市民たちの評判を呼んで一躍人気建築家となったのだった。というのが第一話。以下毎回ルシウスが浴場や浴室設計の注文をうけて、そのたびに現代の日本にタイムスリップし、その時に得た見聞をヒントに古代ローマで浴場や浴室をつくって成功する、という話が延々と続くシリーズコミック。初出はコミックビーム誌で、単行本は第三巻まで刊行され、17話までが収録されている。古代ローマの浴場の設計技師が主人公という一風変わったほのぼのコミック。マンガ大賞、手塚治虫文化賞受賞作品。



日高義樹「アメリカにはもう頼れない」(2010年10月31日発行・徳間書店 1400)はアメリカの外交・軍事戦略を解説した本。著者はアメリカ在住で、95年から放映されている討論・インタヴュー形式のテレビ番組「日高義樹のワシントンレポート」でも活躍中というジャーナリスト。近年のアメリカの外交・軍事戦略の転換がいろいろな角度から詳しく解説されている。軍事戦略に関しては、国防費の削減を基本に、膨大な費用のかかるこれまでの上陸作戦タイプの戦略から、潜水艦や無人偵察機、海軍特殊部隊を主体にした抑止体制への転換ということが指摘されている。そうした軍事戦略の転換は、当然ながら全世界にある米軍基地体系の見直しを意味する。在日米軍基地の役割が終了し、「そのことはそのまま日米関係が疎遠になることを意味している。」というのが著者の指摘。関連して興味深く読んだのは横田基地返還の話で、一時は返還の可能性が強かったが、米軍による大がかりな住民調査が行われ、その結果周辺住民が返還を望んでいない(返還されて民間空港になれば夜中まで飛行機の騒音がうるさいという理由で)、ということで、話がたちきえになったというのだった。著者は周辺住民の「平和ボケ」とか「住民エゴ」と書いている。これははじめて聞く話で周辺住民としてはちょっとおどろいた。



後藤正治「清冽 茨木のり子の肖像」(2010年11月10日発行・中央公論社 1900)は評伝。詩人茨木のり子(1926-2006)の生涯を、随所に彼女の詩作品を挿入しながらその背景とともに辿っていく本格評伝。故人の親族や知友へのインタヴューも多数取材されていて故人の多面的な人物像が浮き彫りにされている。初出は「婦人公論」で、2008年3月22日号から11月22日号まで17回にわたって掲載されたものが骨格になっているとある。茨木のり子というと文庫化以前に十数万部を売り上げたという詩集『倚りかからず』(1999)や、今では学校教科書に掲載されている作品などで多くの人に知られているのだと思う。その詩集出版時に著者は73歳だったということに改めて感慨をもった。文中で批評家の吉本隆明氏が彼女の詩を「言葉で書いているのではなく、人格で書いている(持っている人間性そのものが、じかに表現に出ている)。」と評したということが紹介されているが、その「太陽の光をまともに受けたような立派な人柄」の背景を、作品からではなくその生き方から照射するような評伝になっている。



北山修「最後の授業 心をみる人たちへ」(2010年7月26日発行・みすず書房 1800)は講義集。著者が九州大学を退官するにあたって2009年から2010年にかけて行われた一連の授業や講義を編集、載録した本。北山修というと著者・訳書も多く著作集も刊行されている精神分析医というより、どうしても10代の頃に聞いたフォーククールセーダーズの大ヒット曲「帰ってきたヨッパライ」(1967年)の作詞者という印象が先にたってしまう。この最後の授業でも何度もこの若年時のミュージャンからの転身が人生の転機だったと触れられているのだが、その人が四半世紀をへて大学退官というのだから時の迅速さを思わずにいられないのだった。テレビ放映を前提にした精神分析の概論的な講義を収録した第一章、日本人の罪責感をめぐって古事記の神話や民話「つるの恩返し」の解釈を示した第二章、フロイトの分析を試みた第三章からなる。とくに特定のテーマを論じた二章に引き込まれて楽しく読んだ。



菅原正子「占いと中世人」(2011年2月20日発行・講談社現代新書 740)は日本の中世の占いに関する研究書。「本書では、中世の占いが実際の日常生活、政治の世界、合戦の場などでどのように活用されたのかを、当時の日記や古文書などから具体的に明らかにしていく。」(はじめに)。とあるように、記述は当時の記録文書の微細にわけいって状況を解説していくという研究論文風の内容だが、引用箇所の多くは分かりやすく現代語で翻訳されているし、かなり特殊な分野についてのことなので、朝廷や鎌倉、室町幕府での陰陽師たちの占いの実際、儒学や易占いを教えたという足利学校の存在や、戦国大名、特に武田信玄の易占いへの傾倒など、おおまかな占いの歴史の変遷や個々の具体的なエピソードを知るだけでも新鮮で、歴史や占いに興味があるひとには楽しめると思う。



佐野山寛太「追悼「広告」の時代」(2010年5月22日発行・洋泉社 740)は評論。「広告」の時代とは、別視点からいえば、「大量生産→大量流通→大量販売→大量破棄」の時代である、と著者は書いている。広告はそうした傾向を先導し加速し巨大化させてきたが、「その「巨大化」が限度をこえ、「広告による発展」が不可能になって、「広告」の時代そのものをゾンビ化させ」(序文より)てしまった、と著者はいう。本書はこうした現状の認識にたちながら、「広告」の時代の歴史をふりかえり、未来の展望を考察した社会評論。現状分析のためにテーマを絞った評論というよりも、広い意味で消費社会化と連動して発展してきた「広告」の果たしてきた役割やその戦略、大衆の心理に与えた影響の歴史的な意味あいなどが、私的な経験談をふくめ多様なエピソードを通して語られている。



高田里恵子「失われたものを数えて」(2011年2月28日発行・河出ブックス 1300)は文芸評論。うまくいえないが、「日本におけるドイツ文学研究とドイツ文学受容の歴史」(カバーの略歴より)が専門という著者が、その受容の歴史を、かってあった「教養主義時代」の変容としてとらえ、その過程でドイツ文学研究者や翻訳者、またその成果の受容者たちのなかで何が失われていったのか、というテーマで多面的に探求した本。「文学は、高学歴男性たちが携わるものでした。文学の社会への影響力も決して小さくはなかった。現在は、しかしそうではありません。」(第二章より)。大衆社会化にともなう価値観の変容という大きなスケールの問題を、日本におけるドイツ文学研究・ドイツ文学の受容史という専門的な分野から柔軟な視線で探求した読み物。



さそうあきら「マエストロ 1」(2008年8月17日発行・双葉社 619)はコミック。高名なオーケストラだった中央交響楽団が、スポンサーの連続倒産によって解散となり、団員たちはちりじりになってしまったのだったが、そんな折、楽団でコンサートマスターを務めていた香坂真一のもとに天道徹三郎という無名の指揮者がタクトを振るという条件で楽団再結成の話がまいこむ。かくて再度あつまった団員たちは、この謎の老指揮者のもとで一ヶ月後の演奏会にむけて練習を重ねることになったのだった。再結成されたオーケストラの構成員たちと謎の老指揮者との交流を、さまざまな楽器奏者の個別エピソードをちりばめながら描いた音楽ヒューマンコミック。普段の生活風景も描かれていて演奏家たちの世界に親しみがわきます。全三巻(22話)で完結。第12回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞作品。



司馬遷 大木康訳「現代語訳 史記」(2010年12月10日発行・ちくま新書 780)は「史記」の現代語訳。およそ2100年前の前漢の時代に司馬遷によって書かれた歴史書「史記」。この「史記」については、2000年以上にわたる歴史を通じて、さまざまな注釈書、研究書が刊行され、抄訳、全訳本も汗牛充棟のさまであると著者はまえがきで書いている。そういう状況のなかで、本書は、「史記」に登場する人物たちのキャリア、出世に至る過程に注目し、「彼らが若い頃のエピソード、そしてそこから次第に名をあらわしてていく過程にスポットをあててみた。」とある。5章に区分されていて、史記に登場する帝王、家臣、武将や文人、英雄など多士済々の、それぞれ興味深いエピソードが満載されている。電車の中でぱっとひらいて、適当なタイトルから読み進めて飽きず、またたくまに時間が過ぎたのだった。



村上龍×孫正義「カンブリア宮殿[特別版]」(2010年12月20日発行・日経プレミアシリーズ 850)は対談。テレビ東京系で放映されている対談番組「カンブリア宮殿」の放映内容を収録した本。このテレビ番組のことは知らなくて、一瞬カンブリア紀の生物の爆発的進化に関連した本かと思ったのだった。もちろんそんなわけはなくて、内容は番組レギュラーで作家の村上龍氏とサブインタヴューアーの小池栄子氏が、ソフトバンク創業者の孫正義氏に経営者としての理念や信条、青春期やこれまでの事業展開にまつわるよもやま話などを聞くというもの。学生時代にマイクロコンピュータのチップの拡大写真を見て感動のあまり10分ほど泣き続けたという話は、いかにも情報革命世代の申し子という感じだ。孫氏といえば最近震災の被災者支援のために個人資産を100億円寄付したということがニュースになっていたが、読み終えてこのひとなら、と思えるところも。



武田尚子「チョコレートの世界史」(2010年12月20日発行・中公新書 780)はチョコレートの歴史を解説した本。中南米原産でマヤやアステカ人の社会で薬理効果のある飲料として珍重され貨幣としても流通していたというカカオは、16世紀に当地がスペインの植民地となってからヨーロッパに渡り19世紀にココアパウダーや固形チョコレートが発明改良され、爆発的に普及するに至ったという。本書の前半ではこうしたココアやチョコレートの誕生から現在に至る栽培や改良、流通の歴史が記されていて、後半では特に1909年にチョコレートを売り出したというイギリスのチョコレートメーカー、「キットカット」チョコで有名なロウトリー社の社史が詳細に語られている。チョコレートは英国ではアルコールにかわるエネルギーの補給源として古くから労働者階級に受け入れられ、今でもチョコレートの自動販売機がごく普通にみられるという記述をよんでなるほどなあと。簡潔な文章でわかりやすくチョコの歴史を解説した小冊子だが、当然ながらというべきか、こういう本を読むとついついチョコをたべたくなるのだった。



村上春樹「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」(2010年9月30日発行・文藝春秋 1880)はインタヴュー集。1997年から2009年にかけて行われ、世界各国の活字メディアに掲載された18本のインタヴューが収録されている。特徴的なのは、「広告批評」「文学界」「モンキービジネス」といった日本の雑誌に掲載されたインタヴュー5本のほかは、すべて外国のメディアからの取材に応えたもので、その国籍もアメリカ、台湾、中国、フランス、ロシア、ドイツと、国際色豊かだ。もっとも内容はこなれた翻訳や推敲をへた丁寧な著者の受け答えのせいか歴史や文化の異なる外国の記者とのやりとりということを忘れてしまうような感じだ。それぞれのインタヴューには当時発表されて話題になっていた作品について語った部分が多いので、13年の間に発表された個別作品について、ああそういえばと、さまざまに思い起こさせられるのだった。読んでいて著者は推敲の鬼のような人なのだなあと、あらためて思った。このことも著者の作品の魅力に深く関わっているのだと思う。「僕は徹底的に書き直します。『スプートニクの恋人』だって、書き上げてから一年以上かけて、何十回か書き直している。」(「広告批評」のインタヴューより)。



野田秀樹「南へ」(「新潮」2011年3月号所収・新潮社 950)は長編戯曲。300年前に噴火していらい噴煙を上げ続けている活火山「無事山」の火口付近にある地震観測所では、火口に飛び込もうとしていた虚言病の少女あまねが3人の所員たちに保護されていたが、そこに新しい観測員南のり平が赴任してきて、あまねとはちあわせをすることになる。あまねのつく嘘が所員たちに混乱をまきおこすさなか、南のり平はこれまでの地震観測データを解析して火山の噴火がまじかにせまっていることを発見し、皆に訴えようとするのだが、そこに天皇行幸の視察団を自称する怪しげな一行と彼らの宿泊している地元旅館を経営する3人姉妹など、火山噴火のあるなしに利害のからむ人々が参入して、南のり平の火山噴火予知をめぐって、300年まえの噴火のときに起きた出来事の再現のような騒動がおこることになるのだった。この戯曲は、2011年2月10日から3月31日まで東京芸術劇場中ホールで公演中の同名の舞台劇のシナリオで、2月17日に舞台をみてから掲載雑誌「新潮」を書店で買い求めて読んだ。こういう経緯ははじめてのことで、文字でセリフを追いながら観劇時の記憶映像が脳裏によみがえるのは楽しい体験だった。公演は東北関東大震災の影響で4日間の休演をはさみ再開されたと公式ページにあった。



木谷有希子「ぬるい毒」(「新潮」2011年3月号所収・新潮社 950)は小説。短大に通う18歳の「私」(熊田由理)は、向伊と名のる青年から高校の時に借りた金を返したいのだが、という電話を受け取る。名前も覚えがなく金を貸した記憶もないのでそういうと、そのとき書いてもらったメモがあるのだが、その筆跡が本人のものかどうか知りたいので確かめて貰えないだろうか、といわれ、家の前で会うことになったのだった。メモは「私」の筆跡ではなく誰かの悪戯だと判明して向伊とは立ち話をして別れたのだが、その一年後、東京の大学に通っていて帰省中という向伊から「私」の高校時代の同級生だった友人たちと居酒屋にいるのだが飲みにでてこないか、という電話があり、「私」はでかけていくことになる。こんなふうに、一年、また一年と間をおいて、「私」と向伊のとりとめのないつきあいが続き、やがてさらに一年たって「私」が短大を卒業して二十歳になったとき、再会した向伊と「私」の恋人同士のような関係がはじまったのだった。地方都市に暮らす若い女性のちょっと風変わりな恋愛体験が描かれている。風変わりなのは向伊という青年がミステリアスに描かれていること。地方都市で両親と実家で同居して運送会社に勤めている女性と、東京の大学に通う同郷で同世代の青年のほろ苦いような恋愛エピソードの顛末といえばそうなのだが、それだけでいいたりないような被害感や閉塞感、不安の情緒の投影のようなものが全編に漂っている。



斉藤美奈子『月夜にランタン』(2010年11月20日発行・筑摩書房 1600)は書評集。初出はリトルマガジン「ウフ」(2006年7月号〜2009年5月号)、休刊後は「ちくま」」(2010年3月号〜2010年7月号)」などに連載された「世の中ラボ」。月に3冊の本を選んで読むというコンセプトで継続されたという連載書評の集成だ。対象のジャンルは広範囲にわたっていて、政治家の著書、若者論、品格本、脳科学本、子育て雑誌、マンガ評論、ケータイ小説、萌え本、うまいもの店ガイド本、経済書、純文学などなど、毎回テーマをかえて3章全40回分が収録されている。まさにクロスオーバー批評というか、連載当時、さまざななジャンルで話題になったり小ブームを起こした本をことごとく取り上げている感じだ。本好きの一読者という自由なスタンスからの批評のセンスもこきみよい。世の中のことを知りたいと思ったとき、著者は本屋に行ってなるべく書籍から情報を求める、と書いている。「なにかと規制が多いテレビや新聞に比べ、書籍にはまだ、はるかに自由な言論の場が確保されているからです。大手メディアが報じない事実が、少部数の書籍の世界では当たり前に論じられている場合も少なくありません。」(「あとがきにかえて」より)。



外山滋比古『失敗の効用』(2011年2月1日発行・みすず書房 2300)はエッセイ集。初出は雑誌「みすず」、日本経済新聞「あすへの話題」、「天理時報」への連載、山形新聞「直言」への寄稿で、初出の連載媒体を区分した4部構成になっている。エッセイというよりコラムといった感じの、みひらき二頁から3頁に収まるような短い文章が全部で62編収録されている。内容は主に日々の出来事に題材をとって、おりおりの感想や述懐をのべたいわゆる「随想」という言葉がしっくりくる文章が多い。読みやすさに配慮したゆきとどいた文章で、日常の見聞についてのさりげない感慨のなかに、表題のように、「失敗の効用」とか「挨拶の効用」、ユーモアの大切さといった、「生きるヒント」(帯のことば)が、さりげなくこめられていたりする。日本語について、教育問題について、など、英文学者らしい関心事もテーマにされていて、なかでは日本の人文系の学問は、日本語という障壁によって、外国の学者からの批評から守られている(外国人に知られたら著作権侵害や盗用などで問題になる業績がごろごろしている)、という指摘はなるほどなあと。著者は高齢で、健康についての話題や、早朝皇居一週の散歩をかかさないという日々の生活ぶりなども興味深く読んだ。