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走り書き「新刊」読書メモ(48)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(2010.8.21~2010.11.27)

岩波明『文豪はみんな、うつ』内田樹+名越康文+釈徹宗『現代人のいのり』藤野眞功『バタス』
田中敬一『ぶらりミクロ散歩』長谷川三千子『日本語の哲学へ』島村菜津『エクソシスト急募』
西村賢太『人もいない春』青山圭秀『アガスティアの葉』よしもとばなな×ゲリー・ボーネル『光のアカシャ・フィールド』
赤瀬川原平『運命の遺伝子UNA』山折哲雄『悪と日本人』苫米地英人『なぜ、脳は神を創ったのか?』
マーク・ローランズ『哲学者とオオカミ』ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』宮迫千鶴『はるかな碧い海』
村上和雄『アホは神の望み』よしもとばなな『ごはんのことばかり100話とちょっと』興膳宏『漢語日暦』
阿部夜郎『深夜食堂 1』さかはらあつし『サリンとおはぎ』佐藤秀峰『海猿 2』
村上春樹『1Q84 BOOK1』西岡兄妹『カフカ KAFKA CLASSICS IN COMICS』中島義道『善人ほど悪い奴はいない』
井田徹治『生物多様性とは何か』原田実『もののけの正体』上野千鶴子『ひとりの午後に』
ロバート・フェルドマン『なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか』一坂太郎『わが夫 坂本龍馬』桜庭一樹『道徳という名の少年』




岩波明『文豪はみんな、うつ』(2010年7月30日発行・講談社 800)は明治から昭和初期にかけて活躍した作家たちの生涯を精神疾患との関連で紹介し、精神科医としての著者が診断した文芸評論。章別にとりあげられているのは、夏目漱石、有島武郎、芥川龍之介、島田清次郎、宮沢賢治、中原中也、島崎藤村、太宰治、谷崎潤一郎、川端康成の十名。タイトルとの関連でいうと、中原中也の「統合失調症」や谷崎潤一郎の「パニック障害」など、取り上げられているすべての作家がうつ病と診断されているわけではない。うつと診断されているのは、このうち六名で、漱石(「妄想性うつ病」)、有島武郎(「うつ病」)、芥川龍之介(「うつ病」)、宮沢賢治(「躁うつ病」)、島崎藤村(「反応性うつ病)、太宰治(「疲ばい性うつ病」)だ。芥川や中也などの診断は研究者には新解釈とされるのかもしれない。個人的には島田清次郎についての章が新鮮で、こんなふうに「社会的に葬りさられた」人がいたとは知らなかった。文章ははぎれよく、それぞれの作家の略歴が時代背景の説明などとともに簡潔に紹介されている。



内田樹+名越康文+釈徹宗『現代人のいのり』(2010年7月2日発行・サンガ 1400)は対談集。朝日カルチャーセンターや京都精華大学で行われた4回の公開講座(対談三本、鼎談一本)が収録されている。フランス現代思想や武道論、映画論などが専門の内田氏、宗教思想や人間学が専門で浄土真宗本願寺の住職も兼務する釈氏、思春期精神医学、精神療法が専門の名越氏と、三人の専門分野を異にする大学教授の鼎談や対談を収録した本で、「祈りと祝わい」「宗教的人格」「顔と人格」といったテーマをあげての内容になっている。ただテーマに関連しての学術的な見識が語られている箇所よりも、話題が逸脱して、ネットや風水や呪い落語や映画の話など、思わぬ方向にいくところに話者それぞれの個性や関心の向け方がでていて、セッショントークならではの臨場感が楽しめる内容になっている。



藤野眞功『バタス』(2010年4月28日発行・講談社 1500)はノンフィクション。マニラで旅行代理店を経営して日本人観光客むけの射撃・売春ツアーや「ジャパゆきさん」の斡旋など、マルコス政権にもコネをもちながら手広く事業を展開していた大沢努は、1986年に「営利誘拐、不法監禁」の罪状で逮捕され、死刑(のちに終身刑が確定)の判決をうける。本書はその後十九年にわたって二万人以上の囚人が収容されているフィリピン最大のモンテンルパ刑務所に服役し、所内で数千人の部下をもつ日本人として初のプリズン・ギャング(囚人たちの秘密組織)の頂点にのぼりつめたという、この大沢努の数奇な半生を、とくに刑務所内での出来事を中心に克明に綴った迫力満点のノンフィクション。「読者が突きつけられるのは、誰も示す事が出来なかった世界だ。文芸の未来はここからはじまる。」(福田和也)というカバーの言葉にもひかれて一気読みしてしまった。大沢努氏は1952年うまれとあってなにかと感慨も。



田中敬一『ぶらりミクロ散歩』(2010年4月28日発行・岩波新書 720)は科学エッセイ。最近では比較的小さくて性能のよい低真空走査電子顕微鏡が開発され、高校や工場などにも普及しているという。本書には顕微解剖学専攻の著者(現鳥取大学名誉教授)が、愛用の電子顕微鏡で撮影したという様々な身近ないきもの、物質のミクロの世界の写真を紹介しつつ、その写真にまつわるエピソードを綴ったエッセイやコラムが多数収録されている(「ミクロスコピア」誌に連載された文章が主)。見ているだけで痛々しい棘のある尿管結石の写真や、糸を伝わっていくテトラポットのようなマツヨイグサの花粉の写真など、はっとさせられるところがある。ミクロ世界の写真というのは、本来人間の自然状態(肉眼)では決してみられないものを強引にみているというような、一種秘密を覗くような奇妙な感触があるのだった。著者の家の庭の栴檀の木に巣をかけていたカラスのエピソードなど、写真をはなれたエッセイとしても印象深く読んだ。



長谷川三千子『日本語の哲学へ』(2010年8月20日発行・ちくま新書 780)は哲学批評。昭和十年に論文「日本語と哲学の問題」のしめくくりに和辻哲郎が書きしるした「日本語をもって思索する哲学者よ、生まれいでよ。」という言葉は、七十年の間放置され続けてきた、と著者はいい、本書は、その遺言、執行の試みであるという揚言が冒頭に記されている。「ある」、「もの」、「こと」といった日本語の意味について、西欧哲学の思索や和辻哲郎の哲学研究の成果を対照して批判的に検討しながらすすめられる論述ははぎれがよく、いかにも「知的バトル」「類をみない知的冒険」(カヴァーの言葉)とよぶのがふさわしい感じがする。「われわれは「もの」と「こと」という二つの語をもつことによって、この世界を、事物と事象という二つのジャンルに分けて眺めることができると同時に、この世界の生成と消滅との両側面を二つながらに凝視することができるのである。」(第6章「「こと」の意味」より)。



島村菜津『エクソシスト急募』(2010年8月31日発行・メディアファクトリー新書 740)はノンフィクション。70年代にイタリア半島全体でわずか20人ほどだったエクソシスト(カトリック教会の定めた正式な任命制度によって認可をえた「公式エクソシスト」)は、現在は300人を越え、ヴァチカンの教皇庁立大学では養成講座が開かれているほどだという。本書はノンフィクションライターである著者が、実際にイタリアの僧院でエクソシズムの儀式に立ち会った時の体験をふくめ、現代の西欧社会におけるエクソシスト増加の意味や、キリスト教内部でのその歴史、悪魔主義や精神医療との関係など、はばひろくエクソシズムについての関連情報を網羅した内容になっている。ホラー映画「エクソシスト」などの描写などからするイメージでは西欧の「悪魔憑き」はいかにも文化的な病という感じがするが、著者の対面した神父の話では、3000人の相談者のうち、20人程度、別の10年以上の経験をもつ神父の話でも、非常にまれで、「本物の悪魔と関係があったのは、たった84人でした。」とあって驚いた。



西村賢太『人もいない春』(2010年6月30日発行・角川書店 1600)は短編小説集。表題作の他「二十三夜」「悪夢--或いは「閉鎖されたレストランの話」」「乞食の糧途」「赤い脳漿」「昼寝る」の6編の作品が収録されている(いずれも初出は「野生時代」)。レストランの調理場に出没するネズミたちの受難と人間への復讐を描いたファンタジー「悪夢、、、」を除くと、いずれも主人公は作者の分身とおぼしき貫多という青年。中学をでて家をとびだし、主に日雇いの「港湾人足仕事」で暮らしていた17歳の寛太の製本所での短いアルバイト体験を描いた表題作のほか、32歳での恋愛体験を描いた「二十三夜」、そのご共に暮らすことになった秋恵という女性との日常の出来事が描かれている三作品。以前著者の『小銭をかぞえる』という小説集を紹介したことがあるが、この一連の秋恵ものは、その作品世界と地続きで、「私」の日々の生活のなかで他人との接触から生じる感情の揺れを戯文風な文体で誇張しながら味わい深くよませる「最新破滅型私小説」(帯文より)を楽しくほぼ一気読みしてしまった。



青山圭秀『アガスティアの葉』(2009年12月22日発行・三五館 1800)は著者のインドにおける体験や思索を綴った体験記的な内容の本。1994年に刊行された同名の著書の「完全版」とある。「アガスティアの葉」というのは、南インドのタミル語文化圏に残されている、数千年前に聖者アガスティアが椰子の葉に書き残したといわれる葉(葉の束の総称)のことで、選別を経て該当した葉には、読んでもらいにいった個人の名前や父母、配偶者の名前、生年月日のほか、前世もふくむ過去や未来の運命についての予言が記されているという。本書はグル・サイババの日本への紹介者でもある著者が、実際にインドに赴いてナディ・リーダー(古代タミル語で書かれた記述を読み翻訳できる訓練を受けた人)に自分のアガスティアの葉を読んで貰ったという体験を中心に、アーユルヴェーダ(インド医学)の研究家としての現地インドでの体験や著者の帰依するシヴァ神の化身といわれるグル・サイババとのやりとりなどが、著者の思索をまじえた回想記ふうに綴られている。私は知らなかったが、この「アガスティアの葉」は紹介当初日本ではちょっとしたブームになり、現地ツアーが組まれたり、代行業者も出現したという。



よしもとばなな×ゲリー・ボーネル『光のアカシャ・フィールド』(2009年7月31日発行・徳間書店 1600)は対談集。対談の最初から、「ボーデル  でも、イタリアの、ルネサンスのときを覚えているでしょう。」「ばなな  ちょっと覚えています。懐かしいなと思う場所はいっぱいあります。」というやりとりがでてきて、一瞬ええっと驚かされた。これはばななさんの前世についてのはなしなのだ。この本は小説家のよしもとばばな氏と、学者、企業家、催眠療法士にして神秘家、作家といった多彩な肩書きをもつゲリー・ボーネル氏の対談。ボーネル氏はアカシャ・フィールド(人類にまつわる2億6000年前から西暦6732年までの全記録が収められているという、地球をとりまく不可視な思考エネルギーの帯)についての著述で有名な人らしい(帯には「スピリチュアルおじさん」とある)。ということで、前世のことやエイリアンのことなどいわゆるスピリチュアル系の話題が満載の本だが、同時に何十年来の友人というおふたりの親密な対話から、それぞれの取り繕いのない人柄や感じ方がじかに伝わってくるような感じで楽しく読んだ。



赤瀬川原平『運命の遺伝子UNA』(2005年6月25日発行・新潮社 1400)はエッセイ集。雑誌「波」に2002年5月号から2004年12月号にかけて連載されたエッセイ「運命と運動」に書き下ろし一章を加えた内容になっている。連載エッセイということで、すべてがということではないが、台風の進路や旅先でかかった病気、プロ野球選手の成績など、多種多様な日常の経験や話題を「運」ということに結びつけて書き綴ったエッセイが多数収録されている。人の体質や容姿や性格までを形成する基本路線はDNAによって決定づけられているが、人の人生での経験というものは運命によって左右されることが多い。この運の作用因子のことを著者はUNA(運NA)と呼んでいるわけだが、結論をいえば「まだ何もわかっていない」ということで、種をあかすと何とも面妖なユーモア概念なのだった。テーマそのものがとらえどころのない話なので、煙にまかれる面白さ、といえばいいか。「考えたらあのDNAというのも、科学ではあるけれど、じつは運を物質的に見るという話なのである。」などという言葉があって、どきりとさせられる。



山折哲雄『悪と日本人』(2009年12月26日発行・東京書籍 1600)は宗教についての考察と対談。日本人の悪の観念を菊池寛の犯罪小説『恩讐の彼方に』『ある抗議書』や中山介山の『大菩薩峠』を紹介しながら考察する書き下ろしの第一章「悪と虚無」の他、宗教一般における悪の問題を扱った第二章「宗教の自殺」、第三章「神なき時代の信仰」を収録。あわせて宗教学者の島田裕巳氏、評論家の吉本隆明氏、小説家の平野啓一郎氏との、それぞれ、オウム真理教、親鸞、宗教とエロティシズム、をテーマにした対談が収録されている。宗教における罪や悪という難しい問題への誠実なとりくみかたに関心をひかれる。昨今「共生」という言葉が氾濫するようになったが、著者はそれだけではきわめて不完全だと指摘し、そこには生きることに執着するある種のエゴイズムの匂いさえ感じるという。「この不完全な「共生」という考え方はもうひとつ「共死」という考え方に裏付けられてこそ、はじめて本物になるのではないかと私は思う。」(第二章より)。



苫米地英人『なぜ、脳は神を創ったのか?』(2010年6月15日発行・フォレスト出版 900)は神と宗教についての概論風の考察。ジャンルにわけるとどういう分類になるのかよくわからない。エッセイのようなのりで、神や宗教についての著者の知見が披瀝され「宗教に頼らない幸福になるための生き方が提示」(はじめに)されている。軽い読み物風にわかりやすく書かれているが、該博な知識を背景に内容はかなり宗教の歴史や本質に踏み込んだものになっている。とくに興味深かったのは、「1991年は神が正式に死んだ年」という主張だ。これは宗教哲学者のパトリック・グリムの「グリムの定理」の発表をさしている。この証明は数学で記述されているというが、著者の要約によると「神を完全な系と定義するとゲーデル=チャイティンの定理により、神は存在しない」というものだという。詳しくは本書を。略歴欄をみると、著者は学者にして実業家、各国政府顧問など多分野で活躍されているスーパーマルチ人間のようだが、マッキントッシュの入力ソフト「ことえり」の開発者でもあると知って驚いた。



マーク・ローランズ『哲学者とオオカミ』(2010年4月20日発行・白水社 2400)はノンフィクション。著者はアラバマ大学の準教授だった24歳の時に、新聞広告で売りに出されていたオオカミの子を求め、飼い始める。ブレインと名付けられたこのオオカミはその後十年以上にわたって著者と生活を共にしたという。本書はその興味つきない生活記録をおりまぜながら、哲学者としての視線からオオカミと人間についての幅広い考察をちりばめた内容豊かな省察録になっている。オオカミと暮らそうとするとどんなことが起きるのか。ブレインをひとりにしておいたら、家財道具をこわされる、という理由で、著者はどこへいくにもブレインと行動を共にすることを決意する。かくてブレインは著者の職場である大学で居眠りをしながら哲学講義をきく学生のようなオオカミとなったのだった。本書の大きな魅力はこの希有な共生関係から著者が様々な人間の「動物性」をめぐる独自な考察をひきだしているところにあり、そこには生活世界と観念世界を往還する思考の確かな営みがしなやかな形で語られているのであった。



ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』(1997年9月30日発行・サンマーク出版 1800)はノンフィクション。1992年の春。私生活でも仕事の面でも行き詰まり、苦しみのあまり「神」にむけて「混乱と歪曲と罵倒に満ちた手紙」を書いた著者は、その直後に、ペンを持つ手が勝手に動き出すという感じで、「神」からの返事を書き記している自分に気がついたという。「あなたはほんとうに、すべての質問の答えを知りたいのか、それとも八つ当たりをしてみたいだけなのか?」本書はこうしてはじまったという三年にわたる「神」と著者による対話(「口述筆記」)をまとめた本。この対話はさらにつづき、三巻で完結。またのちに対話シリーズは五冊刊行され、2007年に完結している。超越的な存在から発せられたという言葉をきいて、著者が代弁者として伝える、という種類の本は多いが、こういう対話形式の本はユニークだと思う。「人生の意味とは自分を創造し、それを経験することである。」と語る本書の「神」は、原理主義的なところがなくて、きさくで親しみやすい。1998年時点で24ヵ国語に翻訳されているという(ウィキ)。



宮迫千鶴『はるかな碧い海』(2004年6月20日発行・春秋社 1900)はノンフィクション。父親のガンとの二年間の闘病生活とその死をきっかかけに、40代になった著者は、「本当の人生の意味」を知りたいと思い、直感を信じながら「スピリチュアルな旅」をはじめる。本書では、この著者40代からの日々の記録が収録されている。関西気功協会の理事で精神科医の加藤清氏や、アイヌのシャーマン青木愛子ババとの印象的な出会い、トランスパーソナル心理学、シルバー・バーチ、スピリチュアル・ヒーリングの研修旅行をはじめとした世界各地への旅行。内容は多岐にわたっているが、いわゆる「精神世界」に向けた著者の関心が、体験を重ねるにつれて強くなっていく様子がみてとれる。私の知っていた著述家としての著者は、「オカルト、スピリチュアルへの関心が一貫していた」(ウィキ)時期以前のこと。本書で印象深かったのは詩人田村奈津子の思い出に一章があてられていることだった。著者は2008年に他界されている。



村上和雄『アホは神の望み』(2008年9月30日発行・サンマーク社 1600)はエッセイ集。以前『生命のバカ力』(講談社+α新書)という本を紹介したことがある。糖尿病の患者に漫才を聞いてもらい、血糖値を測定すると、血糖値が下がったといった実験をふまえ、「笑い」の効用がとかれ、ひいては心の健康に、さらには「でくのぼう」とよばれるような愚かで深い生き方の必要性が説かれている本。また環境を変えることで、眠っているよい遺伝子をonにすることの効能も説かれている。「そういう人にこそ神は、偶然や幸運というかたちで恩寵を授けるような気がしてなりません。」とあるが、酵素「レニン」の遺伝子解読の業績で知られる著者(現筑波大学名誉教授)は遺伝子の研究していて自ら「サムシング・グレート」呼ぶ生命の摂理(神)の存在を直感したという人。「「利他的な活動を行え」という情報も遺伝子に書き込まれている」可能性があると著者は書いている。



よしもとばなな『ごはんのことばかり100話とちょっと』(2009年12月30日発行・小学館 743)はエピソード集。最初はだれの依頼も受けずに書いていたという、エッセイやコラムの下書きのような、もっと短い食にまつわるエピソード集。小説の素材や覚え書きとして書き留められたという感じもする。知人からもらった食材や料理、よく食べに行く店の料理、父母や姉のつくる家庭料理のこと、もちろん著者のつくる料理のはなしなども。また「子どもが二歳半から六歳になるまでの間」に書かれたということで、幼児の食にまつわるエピソードが何度もでてくるのもほほえましい。とにかく食べる話ばかりで、おまけにそれぞれのエピソードに何らかの率直な感動の起伏がこめられている。さすがに「キッチン」でデビューした作家というところ。



興膳宏『漢語日暦』(2007年7月21日発行・岩波新書 760)はコラム集。2009年4月1日から2010年3月31日まで京都新聞に連載されたコラム「漢語歳時記」に手をいれてまとめた本。一月一日から一二月三十一日まで、毎日「漢語」を日替わりでタイトルにした一コラムが二段組みの各頁に二遍づつ収録されている。ためしに一〇月の項のタイトルを一日から並べてみると、「華甲(かこう)」「耳順(じじゅん)」「三五夜(さんごや)」「月餅(げっぺい)」「十七夜(じゅうしちや)」「打稲(だとう)」、、、と、聞き慣れない言葉が多いのがわかると思う。コラムの内容は「その由来と意味を丁寧に解き明かす」ものになっていて、知らない言葉を知るときの意外な楽しさが手軽に得られるのだった。先日合評会で読んだ宮越妙子さんの詩にあった「溽暑」という言葉も紹介されていた。中国文学専攻の著者は京都国立博物館館長を歴任後、現在は京都大学名誉教授という人。



阿部夜郎『深夜食堂 1』(2007年12月31日発行・小学館 743)はコミック。初出は「ビッグコミックオリジナル」誌。第一話(第一夜)から十四話までが収録されている。深夜0時から朝7時まで営業している新宿の花園界隈の路地裏にある小さな飯屋が舞台で、そこにやってくる様々な客たちと、店をひとりできりもりしているマスターとの交流が、毎回客の注文で店でマスターがつくる酒の肴や料理をおりこんだエピソードとして語られる。第一話にでてくるのはタコの形に切ったウィンナーの炒めもの、と卵焼き。と書くと、いわゆるグルメまんが風だが、重点は盛り場近くの深夜営業のめしやを訪れるさまざまな職種の客たちの人情味あふれる人間模様の描写にある。ちょっと「いっぱいのかけそば」風といえばいいか。未見だが、2009年10月から小林薫主演でテレビドラマ化もされている。



さかはらあつし『サリンとおはぎ』(2010年3月8日発行・講談社 1500)は自伝。1966年生まれの著者は、京都大学を卒業後電通に入社、三年後に退社して渡米、カリフォルニア大学バークレー校大学院でMBAを取得。シリコンバレーでベンチャー企業で働いた後に帰国。以降携帯電話を使ったサービス事業などに携わったのち、映画脚本の勉強に打ち込みながら現在に至る、という経歴の持ち主。学歴や経歴をみるとエリート人生のように思えるかもしれないが、その内実は波瀾万丈。学生時代には二度の交通事故に遭遇したり、電通時代には地下鉄サリン事件にまきこまれ、以降後遺症になやまされる、という不慮の被害体験も描かれている。一方で、著者は学生時代から映画に関わっていつか「アカデミー賞をとる」という夢をてばなさない。映画シナリオも手がけているひとのようで、著者の前半生を彩る様々な場面場面がいきいきと描かれていて味わいふかい自伝となっている。



佐藤秀峰『海猿 2』(1999年8月5日発行・小学館 505)はコミック。作画・佐藤秀峰、原案取材・小森陽一による海上保安庁の青年職員を主人公にした熱血ヒューマンドラマ。海上保安庁福岡海上保安部に勤務する青年仙崎大輔が業務のうえで体験するさまざまな事件や出来事が描かれ、人との関わりを通して主人公が人間としても成長していく。第二巻の本書では荒海で転覆したプレジャーボートの船室に閉じ込められた少年を、海上保安庁のヘリや艦艇が捜索し、懸命の救助するというドラマ(第10話〜第27話)の前半が10話分収録されている(後半は第三巻)。海難救助現場の困難さや過酷さ、ボートに両親とともに乗っていた幼い姉弟が仙崎の知人であったことから生じる青年仙崎の動揺や葛藤などが迫力あるタッチで描かれている。このコミックを原作にしたテレビドラマや邦画もシリーズで制作されていて、さきに映画第一作「海猿 - UMIZARU」(2004)をビデオでみた。潜水士訓練を描いたその内容はコミックでは第3巻〜第4巻(28話〜39話)にあたっていて、こちらも後日一気読みで堪能したのだった。



村上春樹『1Q84 BOOK1』(2009年5月30日発行・新潮社 1800)は小説。スポーツクラブのインストラクターをしながら、実は秘密裏に知人の依頼をうけて連続殺人に手を染めている青豆という姓の女性の物語と、塾で数学の講師や雑誌のライターの仕事をしながら小説を書いている川奈天吾という男性の物語が、章を追うごとに交互に進行していくという長編小説。二人はともに29歳で小学校時代に同級生だったことがあり、それぞれ互いのことを深く記憶しているが、小説の舞台である1984(1Q84)年には、同じ東京に暮らしながら会うことがない。けれど彼らが関わる、ある宗教団体にまつわる異なる出来事を通して間接的に結びついているのだった。図書館では予約貸し出しが続いているのか、刊行後1年以上たつのに書棚にもみかけないベストセラー本のようで、本書BOOK1はブックオフをみつけて買った。現在BOOK3までが刊行されているが、続編はよみたくて新刊で購入しBOOK2まで読み終えたところ。厚い本だが、短い章立てで読みやすく、なかなかとまらない。



西岡兄妹『カフカ KAFKA CLASSICS IN COMICS』(2010年4月28日発行・ヴィレッジブックス 1300)はコミック。フランツ・カフカの短編小説9編(「家父の気がかり」「変身」「バケツの騎士」「ジャッカルとアラビア人」「兄弟殺し」「禿鷹」「田舎医者」「断食芸人」「流刑地にて」)をそれぞれコミック化した作品(書き下ろしの「変身」をのぞいては、「モンキービジネス」1〜8号に初出)が収録されている。著者の西岡兄妹とは、兄・智が原作を、妹・千晶が絵を担当するという合同ペンネームの漫画家とある。この作品集の文字の部分(セリフやナレーションすべて)は、池内紀訳『カフカ・コレクション』(白水ブックス)の訳文が底本にされているというので、文字をおっていても独特の格調や雰囲気があって読み応えがあるかんじだ。また、おおきな特徴は個性的な絵柄の魅力にあると思う。不条理ながらときにリアルな生活心情が顔をだすカフカの世界が、デフォルメされた図案風の絵柄に不思議にマッチしているのだった。。



中島義道『善人ほど悪い奴はいない』(2010年8月10日発行・角川oneテーマ21 724)はニーチェについての解説書。ニーチェの思想についての解説書や入門書は幾多出ているが、日本で出版されているそれらの本の多くに「あきたらなさ」を感じていたという著者が書き下ろした本。ニーチェの数多い著作のなかから、主に「善人」批判というテーマにまとをしぼり、善人の特性について言及されている一節を抜き出して、その文に解釈や解説を加えていく。時に著者自身の大衆批判を重ね合わせたり、著者と編集者のやりとりなどの実体験のエピソードが披瀝されていたりで、著者の「善人論」としても読めるような内容になっている。「ヒトラーが極悪人ならニーチェはその数百倍もの極悪人だと言いたい。」という著者は、一方で「本来は人並み以上に弱い男が、精神の鍛錬を重ねて自己改造し強くなった、、、だからこそ弱者=善人をあれほどまでに嫌ったのだ」という「推測を抑えることができない」と書いている。。



井田徹治『生物多様性とは何か』(2010年6月18日発行・岩波新書 720)は生物の多様性についての解説書。地球の現存生物の多様性の危機ということを、環境問題の立場から考えるという内容の本で、共同通信社の編集委員をしている著者が世界のホットスポット(自然保護団体コンサベーション・インターナショナルの研究グループにより、生物多様性が特に豊かであるなどの理由で指定されている地域。現在世界に34箇所で日本も含まれている。)を実際に取材した体験をもとにその現状を報告したところが特色になっている。これまで40億年ほどの生物の歴史のなかで、生物種の「大絶滅」といわれることが5回ほど起きている。いま地球上でこの5回に匹敵する規模の生物種の大絶滅が生じている(「自然の百倍から千倍の速度で絶滅が進んでいるとする見方が一般的になっている。」とある)、という。



原田実『もののけの正体』(2010年8月20日発行・新潮新書 720)は主に近世の読物などに登場する様々な「もののけ」たちを紹介解説した本。本書で「もののけ」と呼ばれているのは、化け物や妖怪、おばけ、、器物に魂のやどったつくもがみのようなものから、人間の幽霊、怨霊といったものまで、広範に含んでいる。鬼、天狗、河童(第一章「もののけはどこから来たか?」)、累、小幡小平次、玉藻前、化け猫、見越し入道、豆腐小僧、器物の怪(第二章「もののけ江戸百鬼夜行」)のほか、第三章では「絵本百物語」(1841)に登場するもののけたちが、第四章では琉球、第五章ではアイヌの伝承に登場するもののけたちが、紹介解説されている。著者は「と学会」会員とあり、もののけへのトンデモ本探索的好奇心が満たされる一冊。



上野千鶴子『ひとりの午後に』(2010年4月25日発行・NHK出版 1300)はエッセイ集。雑誌「おしゃれ工房」に2008年1月号から2009年12月号にかけて「マイナー・ノート」というタイトルで毎月連載されたエッセイを中心に、31編のエッセイが収録されている。これまで「わたしは研究者だから、「考えたことは売りますが、感じたことは売りません」といってきたという著者は、編集者にうながされて雑誌連載のかたちで書き下ろしたというこの本で、「禁を犯して感じたことを語りすぎたかもしれない。」と書いている。「思い出すこと」「好きなもの」「年齢を重ねて」「ひとりのいま」というふうに章わけされたエッセイ群からは、スキーやドライブといった著者の趣味や飼っていたペットのはなし、学生時代の思い出、一人暮らしのエピソードなど、プライヴェートに生きられた日々の時間のさまざまな様相がつたわってくる。「「けんかの達人」と呼ばれた社会学者が、その知られざる内面としなやかな暮らしを綴ったおとなのためのエッセイ集。」(帯文より)



ロバート・フェルドマン『なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか』(2010年2月25日発行・講談社 1600)は「嘘」についての心理学的な考察。著者(マサチューセッツ大学心理学部教授)は二人の教え子と共に、「平凡な生活を送る100人以上の人々」を対象にして実験を行った。その内容は互いに面識のない被験者二人づつを面会させ、10分間で親しくなるように指示するというものだった。会話がおわると、あらかじめ被験者たちには内緒にそのやりとりを録画してあったビデオを被験者たちにみてもらい、自分が「不適切」と思われる発言をしていたら、教えてくれるようにたのんだ。その結果大部分の人が、10分の会話で3回以上嘘をついていたことがわかったという。この実験結果は米国のメディアで取り上げられ大きく話題になったというが、本書は、この興味深い実験の報告の他、人間社会のさまざまな局面で行使されている「嘘」の実情と、「嘘」の流通する関係心理学的な構造について多面的な照明があてられている。



一坂太郎『わが夫 坂本龍馬』(2009年11月30日発行・朝日新書 700)は聞き書き集。坂本龍馬の妻おりょう(お龍)の残した二種類の回顧談、安岡重雄が聴取した「反魂香」「続反魂香」「維新の残夢」、川田瑞穂の聴取した「千里駒後日譚」「千里駒後日譚拾遺」を統一して再編集し、解説、注記を加えた本で、読みやすくするために改行したり、現代表記にあらためたり、原則として常用漢字で統一する、などとして成った本であることが、はじめに、に記されている。龍馬は慶応三年(1867)亡くなっており、おりょうの回顧談の聴取はその後三〇年余りたってのこと。おりょう五〇代後半のことになる。龍馬といえば、今はNHKテレビの大河ドラマ「龍馬伝」で人気のようだが、そちらは見ていない。本書はもとは口述を筆記したものなので、語り口に味わいや臨場感があって楽しく読んだ。



桜庭一樹『道徳という名の少年』(2010年5月20日発行・小学館 1300+税)は連作小説集。「1.2.3,悠久」(「タイムブックタウン」)、「ジャングリン・パパの愛撫の手」(「小説現代」)、「プラスチックの恋人」(「パピルス」)、「ぼくの代わりに歌ってくれ」(「読売新聞」)、「地球で最後の日」(「別冊カドカワ」)と、それぞれ異なる雑誌に掲載された五編の連作小説からなる。町でいちばんの美女がつぎつぎに産んだ母親そっくりの姉妹は、1,2,3,悠久と名付けられ、五番目に産まれた弟と悠久は愛し合って悠久は赤子を身ごもる。弟は産まれてくる子供のために家に火を放って我が身と母を焼き滅ぼし、残された四人の姉妹の魂は魔法の力で沼ネズミに姿をかえて集まって相談し、悠久から産まれた母親そっくりの子を「ジャングリン(道徳)」と名付ける。というのが第一話で、以降は、このジャングリンと名付けられた男の血族の幻想的な物語が年代記のように語られていく。メルヘンチックで観念小説風でもある語り口は、ちょっとミルハウザーを連想させるところがある。