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走り書き「新刊」読書メモ(47)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(2010.5.8^)

四方田犬彦『『七人の侍』と現代』塩野七生『日本人へ 国家と歴史篇』中村桂子・板橋涼子『生きもの上陸大作戦』
田沼靖一『ヒトはどうして死ぬのか』宮ノ川顕『化身』柴田元幸『ケンブリッジ・サーカス』
バーナード・ベケット『創世の島』佐伯一麦『誰かがそれを』山口謠司『ん 日本語最後の謎に挑む』
磯村毅『「禁煙脳」のつくり方』レイ・ブラッドベリ『永遠の夢』西寺郷太『マイケル・ジャクソン』
藤木久志『中世民衆の世界』バリー・エアグロー『たちの悪い話』松尾佑一『鳩とクラウジウスの原理』
岩明均『ヒストリエ 6』黒井千次『高く手を振る日』『半分売れ残るケーキ屋がなぜ儲かるのか』
丹下健太『マイルド生活スーパーライト』竹内政明『名文どろぼう』楊逸『すき・やき』
渡辺淳一『告白的恋愛論』内田樹・釈徹宗『現代霊性論』村山孚『孫子の言葉』
竹内一郎『ツキの波』椎名誠『アザラシのひげじまん』清水徹『ヴァレリー』
丘山万里子『ブッダはなぜ女嫌いになったのか』木村友祐『海猫ツリーハウス』松本大洋『竹光侍 八』




四方田犬彦『『七人の侍』と現代』(2010年6月18日発行・岩波新書 720)は、黒澤明監督の時代劇映画『七人の侍』(1954)を多面的に論じた映画評論。二〇〇四年に著者は文化庁の文化交流使として、前半をパレスチナ、イスラエルで、後半をセルビア・モンテネグロで過ごし、とりわけパレスチナとセルビアで黒澤映画が「日本やアメリカの映画研究者がアームチェアで分析を試みるような古典」としてではなく、「現実の惨事を認識し心理的な浄化を準備する現役のフィルム」として受容されていることを知った、という。本書はそうした認識をふまえて、これまで他の多くの映画に対して普遍的な物語を提供してきた『七人の侍』という特異な映画作品について、制作された時代背景や物語の構造、映画史における意義など、さまざまな視点から照明をあてる試み。



塩野七生『日本人へ 国家と歴史篇』(2010年6月18日発行・岩波新書 720)は、エッセイ集。初出は『文藝春秋』2006年10月号から2010年4月号。国家と歴史篇という副題がついていることからわかるように、どちらかというと政治むきの話題が中心のエッセイ集で、中には政治的な提言のようなものも含まれているが、どこをきっても著者のスタンスは明快で歯切れがいい。それは、このエッセイ集が、ちょうどそれまでライフワークのように書き続けられていた著作『ローマ人の物語』(全十五巻)が完結した2006年から、『文藝春秋』誌に連載されているという事情と関係があるのかもしれない。また著者はイタリアに四十年以上も住んでいて、これまでにヨーロッパの歴史や現代の政治のあり方を身近につぶさに観察してきたという体験がもたらしている部分も多いように思う。ワインやチーズの話、若い頃ヨットストップ(作業の手伝いをする条件でヨットに同乗させてもらうヒッチハイク)をして地中海沿岸都市をまわった話なども、楽しく読んだ。



中村桂子・板橋涼子『生きもの上陸大作戦』(2010年8月3日発行・PHPサイエンスワールド新書 860)は、生物の進化を上陸という視点から辿った解説書。本書は著者のひとりである中村桂子氏が館長を務める「JT生物研究館」で展示されている全長9メートルという絵巻「生きもの上陸大作戦絵巻」の図録・解説版として制作された、と、あとがきにある。この絵巻は本書冒頭でもカラー図版のかたちで紹介されているが、そういう制作事情とは別に、本書は最新の生物学や地球科学などの関連情報を分かりやすく紹介した読み物としても充実した内容になっているように思う。なかでも興味を惹かれたのは、生物進化の記述にときどき登場する「前適応」という現象(別の目的で生まれた特質が、新しい目的のために使用される現象)だ。四つ足動物の特徴の多くが水中にいる時代に形成されたり、鳥の特徴が恐竜時代に形成されたりしているのは、生物が未来の環境変化を予測しているかのようで、なんとも驚かされるできごとなのだった。



田沼靖一『ヒトはどうして死ぬのか』(2010年7月30日発行・幻冬舎新書 720)は、「死」を生物学的に研究する「死の科学」を紹介した本。細胞の死は、打撲や火傷といった外部刺激や、心筋梗塞などで生じる虚血から起こる細胞の事故死「ネクローシス」(壊死)ということのほかに、細胞自らが外部からの情報をうけて収縮し断片化して死んでいく「アポトーシス」という死に方がある(非再生系細胞の場合はアポビオーシス)。このことがカーの論文で発表されたのが1972年のことで、それまでは細胞の死は「壊死」でひとくくりにされ、誰も疑うものはいなかったという。この細胞の死の発見からまだ40年もたっていないというのも大きな驚きだ。本書では、この細胞の自殺のメカニズムの研究や、その仕組みを応用した難病治療のための新薬開発の現状などの紹介に多くのページがさかれている。また本書は、科学から照射された死のイメージの理解という意味でも興味深い内容になっているように思う。



宮ノ川顕『化身』(2009年10月31日発行・角川書店 1500)は、小説集。第16回日本ホラー大賞受賞作の「化身」(「ヤゴ」を改題)の他、書き下ろしの「雷魚」、「幸せという名のインコ」の3作品が収録されている。ジャングルの中にある円筒の底のような池に落ちてしまい、地上に戻れないままそこで暮らしているうちに、しだいに環境に適応進化をとげて変身していく男の日々を追った表題作は、映像的な情景描写がとくに印象的で、ある種の夢の世界のようにリアルなところがある。受賞後の二作品には、共通した叙情的なトーンがあって、本来は受賞作にみられるような不条理や奇想の世界というより、こうした日常の生活感覚にふれた世界を書きたい人なのかもしれないと思った。



柴田元幸『ケンブリッジ・サーカス』(2010年4月2日発行・スィッチ・パブリッシング 1800)は、エッセイ集。「初のトラベルエッセイ集」と帯にあり、旅にちなんだエッセイ多数が収録されている他、作家のポール・オースター、スチュワート・ダイベッグとの対話も読める。「ゲラにはとりあえずメモ代わりの仮題として『紀行集』と書いてあるが、旅をしたという実感はない。地元六郷にいようとアフガニスタンの山中にいようと、亀が甲羅のなかに半分首を引っ込めるみたいに、自分というものをあんまり殻から出さなかった気がする。」(あとがきより)。この首を引っ込めた感じが、旅で起きたことの記録性よりも、少年時の記憶の想起など表現の創作性を感じさせる このエッセイ集の特徴になっているといえるのかもしれない。著者は大学教授でオースター等の翻訳者としても著名だが、エッセイは小説作家的な工夫があって楽しい。



バーナード・ベケット『創世の島』(2010年6月10日発行・早川書房 1400)は、SF小説。人類の未来を案じた大富豪プラトンは、南太平洋の群島に資産を移しはじめ、21世紀なかばに最終戦争がはじまったころには、着々と自給自足体制を整えて、その群島に共和国を建設するにいたった。かくて世界戦争と疫病の流行で人類が絶滅してのちも、きびしく難民を拒否し続けたこの共和国だけが命脈をたもっていたのだった。物語はその共和国でアナクシマンドロス(通称アナックス)という少女がアカデミーの入学試験として3人の試験官を前に4時間の口頭試問を受けるという形で進行していく。アナックスはアダム・フォードという共和国の歴史的人物についての研究成果を問われるままに解説していくのだったが。ラストに明らかになる「驚天動地の真相」が話題になったという作品。たしか読み終えて深いカタルシスを味わえる一冊だ(^^)。

佐伯一麦『誰かがそれを』(2010年1月26日発行・講談社 1500)は、短編小説集。10年ぶりの短編集で、著者が東北の地方都市に暮らした十一年の間に生まれた八編の短編が収録されているとある(「あとがき」より)。臭木、エゴノキ、朴、ケンボナシなどの植物とそれにちなんだエピソードがちりばめられた「ケンボナシ」、深夜に聞こえる異音を主題にした「誰かがそれを」、(作中の)身内に生じたおれおれ詐欺のエピソードを綴った「俺」、マンションの管理人、タクシー運転手、リース会社専属の運送会社の長期アルバイト、といった仕事についている人々が主人公の、「ムカゴ」、「かはたれ」、「プラットホーム」。旅先でふらりと入った飲み屋での見聞を綴った「焼き鳥とクラリネット」。伊達政宗の奥小姓だった「私」が生前の主君の行状を綴ったという体裁の歴史小説「杜鵑の峯」からなる。ひっそりとした生活の地肌のような時間が息づいている感じの作品群が嬉しい。



山口謠司『ん 日本語最後の謎に挑む』(2010年2月20日発行・新潮新書 680)は、日本語の「ん」という言葉の使われ方を、その歴史的な変遷をふくめて探求した本。「古事記」にも「万葉集」にも、「ん」と読む仮名が一度もでてこない、という印象的なエピソードの紹介(第二章)から本書ははじまる。これはもちろん「ん」という発音がなかったのではなく、仮名文字がなかったということで、文字としての「ん(ン)」は、「民衆の文化が言語として写されるようになる平安時代末期、音を表すための文字として姿を現したのである。」とある。この普及に関して仏教(天台密教)の果たした役割についてや、江戸期や明治期に至るまでの「ん」についての研究の紹介も新鮮。また本書には、まだ「ン」を表すための文字がなかった時代に、空海は「吽」という字に託して、「後に「ん」や「ン」で書かれる文字を発明しようとしていたのではないか。」という興味深い指摘もある。



磯村毅『「禁煙脳」のつくり方』(2010年7月15日発行・青春新書 781)は、禁煙する方法を紹介した本。本書では、「リセット禁煙」という方法が紹介されている。これは「気づき」の力によって煙草を吸いたくなくする、というもので、「この本は、実際のカウセリングを元に、読書による効果を最大限に引き出すように工夫されて書かれています。」とあるのが、ユニークなところ。いってみれば本を読んで禁煙の一助とする「読書療法」を意識して書かれているといっていいのだと思う。脳のなかには「報酬系」とよばれるドーパミン(幸福感や安らぎを感じさせる作用がある物質)を分泌する神経の束があり、ニコチンにはこれを刺激して強制的にドーパミンを分泌させる作用がある。繰り返していると報酬系が刺激に慣れてきてこの反応が鈍るようになる(耐性がつく)。ところで、この状態ではすでにふだんの報酬系自体の機能も低下しているのではないか、というのが、「厳密には科学的に証明されたわけではない」と断ったうえで著者の提唱する仮説「依存症の報酬系機能不全仮説=失楽園仮説」で、著者のいう「気づき」は、この仮説の理解と密接に結びついているのだった。



レイ・ブラッドベリ『永遠の夢』(2010年5月10日発行・晶文社 1900)は、小説集。アリゾナ州の小さな町サマートンに降り立った記者カーディフが、その平穏な田舎町に滞在するうちに、町には子供の姿がみえないことなど、いくつもの謎に気づいていく「どこかで楽隊が奏でている」と、白い彗星との遭遇をまちわびる船長の指揮する宇宙船「シータス7号」にのりこんだ青年イシュメイルの体験を描いた「2009年の巨鯨」の二作品が収録されている。前者は著者の故郷の思い出を下敷きにした「たんぽぱのお酒」につらなる作品といわれるファンタジー小説で、後者はメルヴィルの「白鯨」の舞台を未来の宇宙船に置き換えたラジオドラマをもとにした作品。著者は「白鯨」の映画台本も書いていて、訳者によれば、両者には場面の選択や台詞に、多くの共通点がみられるという。こういう背景事情からうかがえるように、いずれも著者独自の構想やイメージがしっくり折り込まれていて、楽しめる作品集になっている。



西寺郷太『マイケル・ジャクソン』(2010年3月20日発行・講談社現代新書 800)は、評伝。2009年6月25日に急性麻酔薬中毒で亡くなった米国のミュージシャン、マイケル・ジャクソンの評伝。「マイケル・ジャクソンの50年の生涯を、時間軸に沿って追ってゆく」という構成をとりながら、ジャクソン家の兄弟グループ「ジャクソン・ファイブ」(のちの「ジャクソンズ」)のメンバーそれぞれのパーソナリティやエピソードの紹介、マイケルのいわゆる「少年虐待疑惑」について、13年ぶりに企画されていたショー「THIS IS IT」の練習風景を構成して話題となったドキュメント映画「THIS IS IT」について、などにも多くのページがさかれている。「世代を超えた広い層に、彼の魅力をより深く味わってもらうためのガイドブックとして書いた。」(はじめに、より)。偶然著者がテレビのトーク番組のゲストとして出演されているのをみて、そのマイケルおたくぶりに興味をもち、購入した本。



藤木久志『中世民衆の世界』(2010年5月20日発行・岩波新書 800)は、中世の民衆の社会生活のあり様を村の掟や生活誌の紹介を通して解説した本。戦国時代、村というのはどんなあり方をしていたのか。「領主は当座の者、百姓は末代の者」という言葉にあるように、かなり権利意識がしっかりして共同体として自立していた(一章 「村掟 暴力の克服」)一方で、村のはずれに建立される「惣堂」という空間を通して、外部からやってくる旅人にも開かれていた(二章 「惣堂ー自立する村」)。また3章「地頭 村の生活誌」では、村にのこされた「百姓の指出(さしだし)」と呼ばれる報告書(年中行事や年貢等のこまやかな記録)を通して、領主と村人との緊密な互酬関係がみえてくる。大名や領主に一方的に虐げられていた村落の民衆という紋切り型のイメージを、歴史資料の読み解きを通して、すこし改変してくれる民衆史の労作。



バリー・エアグロー『たちの悪い話』(2007年2月15日発行・新潮社 1600)は、短編小説集。ショートショートといっていいほどの長さの超短編作品が43作収録されている。10歳以上の児童むけに出版された作品集ということのようだが、内容はハッピーエンドで終わるような作品はひとつもなく、主人公が理不尽にひどいめにあったり、死んでしまったりするという、そういう言い方をすれば「たちの悪い話」ばかりが、手を変え品を変え、これでもかというほど収録されている。。どうも脳というのは自分やとりあえず関心を抱いた対象にとってつごうがよく物事が展開することに慣れきっているらしい。いずれもみひらきページに収まってしまうほどの超短編作品ばかりなので、じっくり読ませるようなストーリー性はのぞむべくもないけれど、それでも思惑を外される、ということだけで充分刺激的で、ついついかっぱえびせんのように次をよみたくなる作品集なのだった。



松尾佑一『鳩とクラウジウスの原理』(2010年4月30日発行・角川書店 1300)は、小説。大学をでて町の小さな広告会社に勤めていた青年磯野(「僕」)は、公園で鳩に餌をやっていて風変わりな老人と知り合いになる。ちょうど不況でコピーライトの仕事もへり、社長に気兼ねしていた「僕」は、やがて老人に誘われるまま、老人が室長を務める国土交通省航空局の管轄下にある鳩航空事業団という特殊法人で、大阪鳩航空管制部の管制官のアルバイトをはじめることにしたのだった。この仕事、名称こそいかめしいが、業務内容は伝書鳩の世話というもので、仕事場の管制塔は吉本興業のビルの屋上にあった。一方「僕」のアパートには、学生時代の友人ロンメルと、犬さんという男女二人が居候となって住み込みはじめ、「僕」の身辺もとつぜんにぎやかになっていくのだったが。通信や医薬品などの運搬用の伝書鳩の世話をする青年のファンタジックな生活をほのぼのと描いたユーモア小説。第一回野生時代フロンティア大賞受賞作。



岩明均『ヒストリエ 6』(2010年5月21日発行・アフタヌーンKC講談社 543)は、コミック。「月刊アフタヌーン」に2003年から連載されている長編コミックで、本書には2008年から2010年にかけて連載された11号分が収録されている。奇想天外の代表作「寄生獣」で好評を博した作者が、デビューまえから構想をあたためていたという、紀元前4世紀のギリシャやマケドニアを舞台にした長編コミック。マケドニア王国のアレクサンドロス大王に仕えた書記官エウメネスの生涯を描く作品というから、これまたどうしてこのような題材を、と思わせるところがある。本書は第二部で、マケドニア王フィリッポスにみこまれたエウメネスが、管理官見習いとして王宮に仕える日々を、額に蛇のあざのあるアレクサンドロス3世(13歳)のエピソードとともに描いている。コミックでもこれだけ時代設定がとんでいてじっくり描かれていると、ゆったりと別世界に入り込んだような時間がすごせるのが楽しい。



黒井千次『高く手を振る日』(2010年3月25日発行・新潮社 952)は、小説。初出は「新潮」2009年12月号。七〇代の老人嶺村浩平は、一人娘希美を嫁がせ、妻芳枝にも二〇年ほど前に先立たれて以来、悠々自適の一人住まいをしている。そんな浩平が学生時代のゼミ仲間で、妻の芳枝とも親しかった重子という女性と偶然再会し、やがて二人は携帯でメールのやりとりをするようになるのだったが。「70歳を越えた男女の純愛小説」と帯にある。作品のなかで浩平は「人生の行き止まり」という想念をなにかにつけて思い浮かべている。いかに身辺をみぎれいにして死を迎えるか、ということが、のこされた最後の倫理のように彼の大きな関心なのだ。「行き止まり」から生を確かめる、といった、こういう心理状態は、いかにもあり得そうなことのようにも思える。けれどそういう彼に対して重子は、生きている途中で終わりが来るのだから、そんなことを考えても意味がありません、と答えるのだった。



柴山政行『半分売れ残るケーキ屋がなぜ儲かるのか』(2009年4月10日発行・幻冬社 952)は、様々な企業や業界の会計のしくみを解説した本。著者は公認会計士で、この本は「不況でもリストラせずに儲かる会社は何が違うのか」という第一章のタイトルにあるように、「業界の儲けるしくみ」や「会計の秘密」を知ることで、ビジネスや就職活動に役立てよう、という趣旨の実用書という感じの内容なのだが、特色はといえば、書名にそのまま書かれているような素朴な疑問や、「普段はほとんど店内に客のいないルイヴィトンなどの高級ブランド店が高収入なワケ」、「客が長居すると喫茶店は潰れるが、マンガ喫茶は逆に儲かるパラドックスのからくり」といった、ちょっとどうなっているのか気になるような、様々な業種の「儲けのからくり=会計の秘密」が分かりやすく紹介されているところにあるように思う。ふだんなにかと買い手の側からものをみていると、売り手の側の会計のしくみがわかるというだけで十分に面白いのだった。



丹下健太『マイルド生活スーパーライト』(2010年2月18日発行・河出書房新社 1300)は、小説。主人公は契約社員をしている上田という20代の青年。「(あなたとの)未来が見えな」くなった、というよくわからない理由で恋人荒井にふられた上田が、3人の麻雀仲間の友人たちにそのいきさつを話すはめになり、四人は、荒井がいったという、川上から流れてくる木の葉を未来の上田にみたてた比喩を確かめるために、実際に深夜の河原に行って、木の葉を上流から流して下流でキャッチする、というゲームのような行動に没頭するのだった。。上田がふられた理由はよくわからないけれど、書かれている言動から想像すると、一種の主体性のなさ、のようなところかもしれない、と思う。酒の肴でも、遊びに行く場所でも、なんでもひとにきめさせて、自分はOKと気軽にうけおいながら、実際にそうなってみると、文句や不満をいわずにいられない、という屈折した気持ちの通路のようなもの。それはお互いに表面的な人間関係をこわさないことが、とりあえず優先すべき価値のようにみなされている、というところで、現代の「ダメ男子」(帯のことばより)たちを囲繞している関係世界の在り様に重なってくるところがありそうだ。



竹内政明『名文どろぼう』(2010年3月20日発行・文春新書 730)は、引用文主体のコラム集。著者は、読売新聞の看板コラム「編集手帳」の6代目執筆者で、新聞社に籍をおいて30年の間、さまざまなしゃれた言い回しや、気の利いた言い回し、味のある文章を「半分は仕事の必要から、半分は道楽で採集してきた。」(はじめにより)とある。本書は、その「竹内ノート」と呼ばれるコレクションの一部をテーマ別にコラム風に紹介する、という趣向になっている。本の表題がちょっと玄妙で、「名文」とか「どろぼう」という言葉についひっかかってしまうが、「ここでいう名文とは〈心をくすぐる言葉、文章〉のことで、世間一般の定義よりはいくらか幅が広いかもしれない。」(同)とあり、法律の条文、ダジャレ、子供の言葉、俳句や短歌や詩と、形式にこだわらず、あくまで内容本意(面白さ本意)で紹介されている。二百数十の引用文を紹介する文章の合間に著者もそっとまぎれこんでいる感じなのが楽しく、読んでいてつぼにはまると、まさに「日本語にまさる娯楽はない」(同)という感じになってくる。。



楊逸『すき・やき』(2009年11月25日発行・新潮社 1300)は、小説。日本人男性と結婚して東京に暮らす姉梅思智(ばいしち)をたよって来日した中国人留学生の梅虹智(ばいこうち)は、一年間の受験勉強の末、大学に合格して、ようやく姉からアルバイトしてもいいと許可をもらい、かって姉の働いていた高級牛鍋料理店「なごん庵」で女給として週4日のアルバイトをはじめる。作品はこの二十二歳になる中国人留学生のすきやき専門店でのアルバイト体験を中心にした春から夏にかけての半年間ほどの生活ぶりがていねいに描かれている。若い中国人留学生の目からみたアルバイト先での日本人客たちの人間模様や、自身の日常生活が描かれているだけなので、テーマとしてはとてもあっさりしているが、言葉の障壁を感じさせないほどに、人々の生活感のようなものが看取されていて、風通しのいい説得力を感じさせられる。そう思えるのは、とてもこなれた日本語で書かれているせいなのかもしれない。



渡辺淳一『告白的恋愛論』(2010年3月19日発行・岩波新書 720)は、著者の女性遍歴を記した回想記。全体はそれぞれ異なる女性の名前を冠した9つの章にわかれ、そのそれぞれの章には表題にある名前の女性と著者の恋愛関係を綴ったエピソードが、若年期の一章から、著者五十代の九章まで、時系列的に綴られている。関係者に配慮して名前や周囲の状況を多少かえてある、とあるものの、実質は告白的な色合いの濃い回想記で、著者自身「過去への哀惜と執着の思いから、書きはじめた」と、あとがきに記している。本書はもともと「渡辺淳一全集」の月報に連載されていた「告白的女性論」をまとめたもので、そういう発表形態からして、いわゆる「私小説」的作品をめざして書かれたものとは趣がちがうのがわかると思う。老境にいたって、自らの生涯の女性遍歴の数々を小説以前の実録というかたちで書き留めたい、というのは、やはり作家の業ということだろうか。妻や恋人がいながら不倫をする、そんなことが一度や二度ではない。時に洗われた追憶ということもあるのかもしれないが、著者はそういう自らの性向を卑下しながらも男の性(本性)のように淡々と記しているのだった。



内田樹・釈徹宗『現代霊性論』(2010年3月19日発行・岩波新書 720)は、対談型講義録。神戸女学院大学大学院で後期(半年間)開講されたという演者おふたりによる「かけあい講義」(おわりにより)の内容を収録した本で、9章(9回分)にわかれている。本のタイトルはちょっといかめしいが、毎回釈徹宗氏による霊性といった概念をはじめとする宗教的事象についての系統だった概説を主軸に、新宗教、占い、オカルトといったさまざまな関連・無関連の話題に話が飛躍していくという内容で、「、、二人が何のビジョンもなく、一度の打ち合わせもせず、毎回教壇に登場したのだった。」(おわりにより)というように、宗教関連の話題全般をめぐる即興性の強い対談形式の講義録になっている。かってWHO(世界保険機構)の「健康の定義」を述べた声明に、「霊性」(スピリチュアリティ)という言葉をいれるかどうかが委員会で議論になったという冒頭の話題を興味深く読んだ。また「霊性」という言葉を、いわゆる「メタ宗教性」(宗教をつくるもの、宗教以前の宗教)のことだとしたという鈴木大拙の説が紹介されていて、なるほどそんなふうに理解すると、特定の宗教や文化をこえた「人類」の健康の定義に入れられてもおかしくないような感じもしたのだった。



村山孚『孫子の言葉』(2006年6月23日発行・PHP研究所 500)は、二千四、五百年前の中国春秋戦国時代の呉の軍師だった孫武の作とされる兵法書の現代口語訳。『中国古典百言百話4 孫子』(PHP研究所)を改題、再編集したもの、と目次末にある。また冒頭には、本書は研究書ではないので、思い切った意訳をしている部分もある、と著者のことわりがある。構成は原著の十三篇を章わけで踏襲しており、現代語訳フレーズのそれぞれに、著者の解説がついている。現代語訳フレーズの中には「彼を知り、己れを知れば、百戦殆うからず」といった、良く知られた格言めいたものなども多々あって、いきとどいた解説つきで味わえるのが楽しい。現行の『孫子』は孫武の没後六百数十年ののち、三国志の時代に魏の曹操が整理し、註をつけたものと言われる。本書は、ブックオフで偶然みかけて、はまっているネットの三国志ゲームの副読本として興味本位に求めたのだったが、そういういわれを知ると、内容もいっそう身近に思えてくるのだった。



竹内一郎『ツキの波』(2010年3月19日発行・岩波新書 720)は、いわゆる「ツキ」について考察した本。とはいえ、アカデミックな思弁的考察というのではなく、物故した小説作家阿佐田哲也氏(本名色川武大 1929-1984)の著作の中にでてくる「ツキ」についての記載を紹介しながら、氏の「ツキ」についての人生哲学を読み解く、という趣向の本で、すこし変わった切り口からの作家論といってもいいのかもしれない。阿佐田哲也氏は、本名の色川武大の名前で文芸作品を書いて多くの文学賞を受賞した一方で、阿佐田哲也の筆名で、『麻雀放浪記』『ドサ健ばくち地獄』など、ベストセラーとなったギャンブル小説も多産していて、これが昭和四〇年代に流行した麻雀ブームの引き金となった、とされる。本書では、この主にギャンブル小説にちりばめられた「ツキ」に関するフレーズを阿佐田語録風にひろいあげ、氏がギャンブルや人生における「ツキ」ということをどんなふうに考えていたかを紹介している。著者は阿佐田氏を主人公にした漫画の原案者で、劇作家・演出家ともある。



椎名誠『アザラシのひげじまん』(2010年4月25日発行・文藝春秋 1571)は、エッセイ集。「週刊文春」に連載されている「”赤マント”シリーズ」の単行本化で、このシリーズ、本書が21冊目になるという。以前、同著者の「活字たんけん隊」(岩波新書)を紹介したが、そちらは「図書」の連載エッセイ集で、週刊誌連載の本書とは、微妙に感触がちがう。もっともベッドで寝ころんで就寝前などに気楽に楽しく読める、という点は同じで、旅行を題材にしたもの(マタタビもの)、料理に関するもの、身辺雑記的なものなど内容もバラエティに富んでいる。中には「若いおとこ」と「おじさん」のかけあい漫才という体裁で趣向をこらしたものや、文体実験風に凝ったものもあって、いつもながらさりげないようで高密度に推敲されている文章の芸には大いに笑えてしまうのだった。



清水徹『ヴァレリー』(2010年3月19日発行・岩波新書 720)は評伝。20世紀前半に活躍したたフランスの批評家で詩人のポール・ヴァレリー(1871-1945)のコンパクトな評伝。「最高の知性」と評されたヴァレリーの、生涯における4度の恋愛に照明をあてて、作品形成との関連を対応づけて考察したところが大きな特色になっているように思う。最近フランスで出版された書簡集や評伝など、多くの新資料が参考にされていることが、あとがきで触れられていて、それらを駆使して構成された本書からは、「知性と感性の相剋」に悩み苦しんだ人、という一面が浮き彫りにされている。ヴァレリーは生涯で三千通以上の恋文を愛人たちに送っていたという。なみはずれた知性の人は一方でなみはずれた情念の人でもあった、というのが本書から伝わってくるメッセージのようだ。自殺覚悟で懐にナイフをしのばせて女性のもとを訪ねるくだりなど、文芸映画の一こまにでもなりそうなエピソードが、評伝というより、やや物語めいたドラマチックな文体で綴られているのも楽しい。



丘山万里子『ブッダはなぜ女嫌いになったのか』(2010年1月30日発行・幻冬新書 760)はブッダの出家事情についての考察。王子シッダッタは27歳のとき(めでたく子息が誕生した日の夜)に出家して、森で6年の修行したのちに、悟りを得てブッダとなった。その動機はいわゆる少年時の「四門出遊」のエピソードから発し、人の老・病・死をみて世をはかなんだ結果とされる。けれど著者は本書で、『スッパ・ニパータ』(「ブッダのことば」)を中心とした原始仏教教典を参照しながら、出家当時のシッダッタのおかれた境遇(とりわけ亡母マーヤー、継母マハーバシャパティー、妃ヤショーダラーという3人の女性たちとの関係心理)を考察して、これは「出家」ではなく、むしろ「家出」に近い「出奔」ではなかったか、という大胆な説を提示しているのだった。著者は音楽評論が専門の人のようで、本書はちょっと異色なブッダの実像についての研究書となっている。仮説を軸に謎に挑戦していく熱意や勢いが伝わってきて、推理小説の謎解きのように楽しく読んだ。



木村友祐『海猫ツリーハウス』(2010年2月10日発行・集英社 1000)は小説。舞台は「東北の片田舎」の海に近い小都市。25歳になる「おれ」(沢田亮介)は、服飾専門学校を中退してのち、大工を営んでいる親元で暮らし、今では祖父母がかろうじて続けている農作業を手伝いながら、普段は主に「ツリーハウス」と名付けた樹上の小住宅群(通称海猫ヴィレッジ)の建築を発案して手がけている「親方」(本業は米屋)の工房で長期アルバイトのような形で働いている。そんな暮らしぶりをしているところに、これまで大阪でグラフィックデザイン関係の職探しをしていた5つ違いの兄の慎平が、農家を継ぎたいといいだして帰郷してくるところから物語がはじまる。兄は地元コミュニティの人気者で外面はいいが、弟の「おれ」には兄貴風を吹かせたがり、なにかと命令する。作品は、現代の地方都市に暮らす人々の生活風景や人間関係のまとうしがらみを、この兄弟の葛藤を軸に丁寧に描いている。「第33回すばる文学賞」受賞作。



松本大洋『竹光侍 八』(2010年5月3日発行・小学館 933+税)は長編コミック。これまでに、第四巻、第七巻の紹介をここでもしてきた本シリーズはこの第八巻をもってめでたく完結。本書には第七十一話から八十二話までと、後日談としての最終話が収録されている。わけあって故郷信濃国立石藩から江戸に出奔して下町の町人長屋で暮らす浪人瀬能宗一郎は、実は藩主のご落胤。彼を亡き者にしようとつけ狙う家老一派の放った豪放無双の刺客木久地は、瀬能の剣術家としての腕前に魅入られ、いつしか刺客としての仕事もすて、一対一で武術家として命を懸けて決闘したいと思うようになっていった。本書では、その瀬能と木久地の最後の対決に至るまでの、刻々と来るべき時にむけて潮がしだいに高まっていくような日々の両者の暮らしぶりと、迫力満点の決闘シーンが描かれている。決闘を終えての最後の瀬能のつぶやくような呻くような笑いの描写は、この作者にして、という感じで、大いに堪能したのだった。めでたし、めでたし。