memo42
言葉の部屋へ 書名indexへ 著者名indexへ

走り書き「新刊」読書メモ(42)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(08.11.29~09.3.7)

 笹間良彦『図説 龍とドラゴンの世界』 斎藤慎爾『寂聴伝 良夜玲瓏』 津原泰水『たまさか人形堂』
 内田樹『昭和のエートス』 押井守『凡人として生きるということ』 大塚英志+森美夏『八雲百怪』
 絲山秋子『ばかもの』 橋本治『あなたの苦手な彼女について』 四方田犬彦『日本の書物への感謝』
 山岸涼子『ツタンカーメン』 斎樹真琴『地獄番 鬼蜘蛛日誌』 西村賢太『小銭をかぞえる』
 栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史』 吉本隆明『「芸術言語論」への覚書』 マーゴ・ラナガン『ブラックジュース』
 福島聡『鵺の砦』 赤瀬川原平『昭和の玉手箱』 諸星大二郎『巨人譚』
 椎名誠『『十五少年漂流記』への旅』 榎本了壱『東京モンスターランド』 小田ひで次『拡散』(上下)
 中沢新一『鳥の仏教』 立川昭二『年をとって、初めてわかること』 魚戸おさむ『家栽の人』
 松岡正剛『白川静』 椎名誠『すすれ!麺の甲子園』 楊逸(ヤン・イー)『時が滲む朝』
 富田和彦『少々オカシクないですか?』 茂木健一郎+甲野善紀『響きあう脳と身体』 鴻巣友季子『カーヴの隅の本棚』



笹間良彦『図説 龍とドラゴンの世界』(2008年4月3日発行・遊子館 1800+税)は様々な歴史資料に登場する龍についての諸説や図像を紹介し簡明に解説した本。執筆途中で他界された著者の遺志をついで、編者である瓜坊進氏が残された草稿を補訂編集してなったと、はしがきにある。全十章からなり、第一章「龍の起源・西欧の龍・インドの龍」、第二章「中国の龍」、以降第三章から終章までが、先史時代・古墳時代から現代に至る日本の歴史にみられる龍の紹介で、それぞれの章は小見出しのついた複数の独立した項目からなる。それぞれの短文には、みひらきの片側ページにほとんど文章内容に即した龍の図版が付せられているので、解説文章の内容と引き比べて眺めながら読みすすむことができて、理解の度合いがぐっと深まる。「龍蛇的存在は、古代文明発祥のそれぞれの地(古代のマヤ、バビロニア、中国、インド)で、共通した観念と類似した造形として見られる。、、これらに共通するのは、大蛇の姿に、他の動物の優れた部分を加味した形態の造形である。」(「龍の起源を探る)。農耕文明とともに誕生した中央集権的権力が、この空想上の動物を、「自らの力を証明するシンボル的存在」として採用する。こういう由来をもつ龍の形象や図像が、時代の変化(特に日本の)とともに、どんな変貌をとげていくか、そういう美術史・文化史的な興味も満たしてくれる本で、多彩な歴史資料を駆使した解説には、龍に関する雑学の宝庫的なところもある。たとえば、中国の龍は九匹の異なる特性をもつ子供を産むという(「龍生九子」)。そのうち亀に似て重さによく耐える「贔屓(ひいき)」は、石碑の下などに装飾としておかれることが多いという。「贔屓の引き倒し」という言葉はここから来ている(贔屓を引っ張ると柱が倒れる)とあって、なるほどと感心したのだった。。



斎藤慎爾『寂聴伝 良夜玲瓏』(2008年7月25日発行・白水社 2800+税)は評伝。俳人の著者による四百頁ちかくある長編評伝。帯に「これほど心のこもった批評鑑賞を得たことは、わが生涯になかった。幸せである。」という瀬戸内寂聴の言葉がある。瀬戸内晴美(当時)の小説の単行本を最初に求めて読んだのは『吊り橋のある駅』(河出書房新社)で、これはまだ手元にある。年譜をみると、昭和四十九年、著者52歳の年に刊行されている。その前年得度して法名寂聴を名乗るようになっているから、僧籍にはいった女流作家ということで当時話題の渦中にあった時期のことだったと思いかえされるのだった。それから数えてみると、三十五年。平成十年の現代語訳『源氏物語』全十巻完結を含め、たゆまず旺盛に創作活動をされてきた作家だ。私生活を素材にした小説『花芯』で昭和三十三年に実質的に文壇にデビューし、毀誉褒貶なかばという評価を受けて文芸誌から五年間「干され」るというきつい体験をするが、『田村俊子』をはじめとする、岡本かの子、菅野須賀子、金子文子といった女性群像をとりあげた一連の伝記小説で高い評価を得て文芸作家として再起する。以降は、文芸作品のほか中間小説といった分野にも幅広く執筆し、僧籍にはいったのちも多方面の文化活動をふくめ精力的に活躍されて現在に至る、というのが、ごく簡略な作家としての経歴といえるだろうか。もっともそういうことは、テレビの出演番組などでもひろく紹介されている。本書では、瀬戸内氏の伝記文学についていうと、対象とされた作家の時代との関わりや時代背景へと、どんどん細やかに記述が踏み込んでいく勢いが印象的だった。論じられている対象が存命のうえ、「自伝をすでに幾編も執筆されている」(「あとがき」にかえて)作家についての評伝ということで、本書はちょっと特別な一冊といえるのかもしれない。



津原泰水『たまさか人形堂』(2009年1月10日発行・文藝春秋 1429+税)は小説。初出は「Beth」(Vol.1~8)。祖母の形見の零細人形店を祖父から譲られて、とつぜん店をきりもりすることになった元OLの澪が、人形マニアの青年富永くんと、わけありの人形職人師村さんという二人の従業員と個性豊かなチームをくんで、客のもちこんでくる様々な人形をめぐる騒動にまきこまれながら活躍する姿を描いた連作小説シリーズで、全六話からなる。活人形(いきにんぎょう)、テディベア、ラブドール、雛人形、マリオネット、浄瑠璃人形と、毎回異なる人形が登場して、それらの人形に関する蘊蓄がさりげなく挿入されて物語がすすんでいくので、人形好きには楽しい情報小説ともいえると思う。もっとも物語の内容は、ときに推理小説風の味がある人情小説という感じだ。人形の販売、修理を請け負う小さな店が舞台ということで、漫画でいうと、骨董の販売や修理を請け負う店が舞台の「雨柳堂夢咄 」に近い雰囲気がある。ミルハウザーが好みそうな(^^;、チェコの天才的マリオネット使いの出てくる「最終公演」、「ガブ」冒頭での人形の定義をめぐる主人公たちの談義など、印象に残る個所も多々あって楽しく読んだ。



内田樹『昭和のエートス』(2008年12月10日発行・バジリコ株式会社 1600+税)はエッセイ・コラム集。「ハードディスクの「注文原稿」というファイルをそのままバジリコの安藤聡さんに「どん」と送って、その中から安藤さんの趣味で選んでもらいました。」(あとがき)という本書成立の経緯がいかにも今風で、なるほどなあと思わされたが、その結果当然のごとく「様々な出自のテキストをとりまぜ」たバラエティ豊かな本となったようだ。全体は「昭和のエートス」「国を憂うということ」「情況への常識的発言」「老いの効用、成熟の流儀」という4章からなり、それぞれに9編から12編程度のコラムやエッセイが収録されている。内容は憲法論議から教育問題、人物論や趣味について、と、様々で、これは発表媒体の多様さ(総合誌、新聞のコラム、経済誌、教育関連の雑誌、音楽雑誌のアンケート、文庫本の解説文、などなど)にそのまま対応している感じだ。短文で様々な分野の問題や話題がとりあげられているので、印象はそのつど違ったものになるが、こうしてまとめてよむと、教育問題にせよ労働問題にせよ、本来、社会のうんだ制度的なものは、人が生き延びるためにこそある(そのことが忘れられてはいないか)、という著者の原理的なものへの関心の持ち方が、一貫して読みとれるように思えたのだった。



押井守『凡人として生きるということ』(2009年2月5日発行・幻冬舎新書 760+税)は評論集。「オヤジ論」「自由論」「勝敗論」「セックスと文明論」「コミュニケーション論」「オタク論」「格差論」の全七章からなる。「若さに価値などない。」「不自由は愉しい。」「友達なんか、いらない。」「いい加減に生きよう。」などなど、一瞬えっと思うような刺激的なことばが並ぶ。えっと思うのは、いわゆる世間に流布されている「常識」や「たてまえ」的なもののみかたが覆されているからだが、著者はそうした言辞の多くを社会によって巧妙にしくまれたウソやデマゴギーだと批判する。若さに価値があるとされるのは、経済効果を産むからで、自由は孤立した生活よりも、むしろ社会との関わりや人間関係のしがらみの中でしか得られない達成感や自在感からうまれてくる、と著者はいう。そこから「ひとりで生きることは本当に自由か」という問いかけや、「オヤジを目指して生き抜け」といった現代の若者にむけたメッセージが発せられている。体験的な生き方指南と、社会批評や人生論をおりまぜた評論集といっていいのだと思うが、本書の読みどころのひとつになっているのは、「オタク」的な生き方が若者世代を越えて当たり前になってしまった現代というものが、著者の議論の背景に常にみすえられているということだ。「僕には友達と呼べる人はいないし、それを苦にしたことはない」という、ある意味とても現代を象徴するような言葉は、「オヤジ」になりつつある「オタク」世代にむけて、どんなふうに届くのだろう。著者は映画監督で、『アヴァロン』(2001)など実写作品のほか、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(95)、『イノセンス』(2004)、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(2008)といったアニメーション映画の監督として著名。



大塚英志+森美夏『八雲百怪』(2009年2月5日発行・角川書店 1000+税)はコミック。原作大塚英志、作画森美夏というコンビによる、「『北神伝綺』、『木島日記』に続く民俗学ロマンシリーズの第3弾」(帯の言葉)。『北神伝綺』(上下巻・角川コミックス・エース:角川書店)には柳田國男、『木島日記』(1〜4・NT100%コミックス・:角川書店)には折口信夫が登場したが、この『八雲百怪』に登場するのは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。時は明治時代の半ば。帝大で英文学を講じる小泉八雲が旅先の村で東京専門学校(早稲田大学の前身)の学生会津八一や内閣法制局の嘱託の調査員甲賀三郎と知り合い、村で水無月に行われる神事「夏越(なごし)のお祓い」にまつわる事件にまきこまれる「夏越祓」と、八雲が橋の下で発見した他殺死体の謎をめぐり、日本の古い山の神(精霊)や、妖怪「百々目鬼(どどめき)」なども登場する「妖精名彙(ようせいめいい)」の二話が収録されている。隻眼だった小泉八雲には、見えない方の目で、人に見えないもの(精霊や妖怪)が見える。こういう超能力は、額に第三の目をもつ会津八一や、光に弱く普段でも両目に包帯を巻いている甲賀三郎にも授けられている。基本的には内閣法制局から密命をうけて日本の古い神々や妖怪たちをこの世界(近代国家に脱皮しようとしている明治期の日本)から放逐しようとしている、一種の「妖怪ハンター」ともいうべき探偵甲賀三郎が中心人物で、彼と知り合った小泉八雲や会津八一もそうした妖怪をめぐる事件や騒動に毎回まきこまれる、という設定のシリーズのようだ。甲賀三郎の名は「神道集」由来の諏訪地方に伝わる民話からとられているようで(推測)、妖怪のすむ異次元世界への扉を開くことができるキクリ(菊理媛神に由来すると思われる)と呼ばれる人形の姿をした精霊(妖怪)と暮らすところなど、原作者のいろいろな趣向がうかがえる。森美夏の絵はかなり個性的なので、異色のストーリーをさらに印象深いものに盛り上げている。



絲山秋子『ばかもの』(2008年9月25日発行・新潮社 1300+税)は小説。初出は『新潮』2008年1月号〜8月号。小説の舞台は群馬県で、ヒデと呼ばれる青年が主人公。彼が地元の大学に通う学生時代からストーリーははじまり、県内中心にチェーン展開している家電量販店に就職して、20代後半にアルコール依存症で仕事に支障が生じるようにになった末に退職し、失職中に飲酒運転で事故を起こし、依存症の専門治療で有名な病院に入院して、依存症の克服に成功するまでが、時間の経過にそって描かれている。もちろんこれはストーリーの時間的な推移を書けばそうなるということで、内容的に中心に描かれているのは、ヒデの異性とのつきあいをめぐる様々なエピソードだ。学生時代のヒデと恋人のようにつきあった末にヒデに理不尽なしうちをしたまま姿をけすが、後年運命的に再会することになる気性の激しい年上の額子、ヒデの大学の同窓生でひきこもりだったが、のちに大学を中退して上京して新興宗教に入信する山根ユキ、ヒデが就職後に友人の婚約者の紹介で知り合って同棲するが、ヒデのアルコール依存症が原因で結局別れることになる中学教師の翔子、といった、ヒデの人生と関わるそれぞれタイプの異なる女性たちが描き分けられている。このヒデの女性遍歴のようなことと、ふだんの飲酒癖がエスカレートしていき、いつのまにか人格崩壊寸前にまでおちこんでしまうというヒデの内面のドラマがいりくんで物語は展開していく。ヒデの心には天使とか天人とでも呼びたいような「想像上の人物」が住みついていて、この人物が不思議な方法で実在の彼の人生に介入する。そこが作品にファンタジーの味を加味しているが、この「想像上の人物」は、彼のアルコール依存の危機を克服する手助けをするわけでもなく、そういう意味での「守護神」ともいえない、ただエロスに関わる神のような不思議な性格を与えられている。



橋本治『あなたの苦手な彼女について』(2008年12月10日発行・ちくま新書 820+税)は現代女性論。著者は本書のタイトルの「あなた」という言葉について、「著者である私は、この「あなた」を「男」に限定していないのです。」(まえがき)と書いている。男からみてどうも苦手だと感じさせられる特定の女性のタイプ。同性である女性からみても「ああはなりたくない」と思われるような女性のタイプ(そういう女達は「必ずと言ってもいいほど、「私のあり方こそが、女として当たり前のあり方なのよ」と主張している」と著者は言う)。このふたつはもちろん厳密には重ならないが、その重ならない理由も含めて、現代における、そうした女性のあり方や、「この四十年の間に、日本の男女関係がたどってきた変遷を、ときに女帝の時代に遡って深く考察」(カバーの言葉)した本。著者の独特の文体で、現代の「女性」のあり方をめぐる難しい話題が縦横に論断されている。男にとって、「自分の恋愛の対象にしたいと思う女」だけが「女」で、そこからはずれたものは、ただ「どうでもい」だけだ(拒絶や差別の対象ということでもない)、と著者はいう。これは男にとって特別に意識もされないような「あまりにも自然な前提」なのだが、そのように分類された女性の側からすれば「差別」のように感じられてしまう。著者はそこで生じている認識のずれに「女性差別の根源」があるとしている(第一章)。この論旨は明快だが、一方で結論的に「もう「女性差別とはいかなるものか?」なんていう、単純な解明を求めない方がいいと思います。」と著者はいう。いってみれば、認識のずれに発する「女にだけ告発権」のある領域なので、男にとっては、あらかじめ対処のしようがない、という論旨なのだった。著者の「だから」という言葉の頻出する理詰めの文章は、テンポがよくて快適によめるのだが、いいまわしに微妙なニュアンスがこめられていることが多い。そのわかりやすいようで、どこか解ききれないしこりをのこすような文章の読み解きも、またファンには魅力なのだと思う。



四方田犬彦『日本の書物への感謝』(2008年10月30日発行・岩波書店 2300+税)はエッセイ集。「図書」2006年1月号から07年12月号にかけて連載された稿を中心に、『心をときめかす』(晶文社)から『枕草子』論を転載し、加えて書き下ろしの『源氏物語』論が収録されている、と後書にある。「わたしが少年時代に手に取った日本の書物について、再読を自らに課してみることにした。」(前書)、という趣旨で書かれたエッセイ集で、『古事記』『出雲国風土記』『竹取物語』『万葉集』『今昔物語集』『梁塵秘抄』など、書名をタイトルにした18編に、芭蕉、西鶴、蕪村、源内、秋成、南北と、作者名をタイトルにした文章6編が収録されている。エッセイ集としたのは、前書で著者がそう呼んでいるからだが、上記のように「論」と付けて表記している個所もあり、内容的には古典を対象にした文芸批評文集といったほうがかなっているかもしれない。多くは連載という性質上それぞれ短文ながら、実朝の歌に「独特の非現実感」をみたり(『金槐和歌集』)、晩年の秋成の姿勢に「かぎりなき共感」を感じたり(『上田秋成』)と、随所に読み応えのある考察や興味深い見解が披瀝されている。大学で宗教学を、大学院では比較文学を学び、現在では映画史の教鞭をとっているという著者が、おりおりにそうした専門領域との関連で古典を語っている個所も本書の魅力的な特徴かもしれない。『神道集』、『天地始之事』など、大学・大学院時代にはじめて読んだことが記されているものもあり、厳密には全てが少年時代に読んだ本の再読ということではないようだが、本書が時を隔てて書物を再読する体験のまとう独特の喜びと共になったものであること代わりはないように思う。二度目の読書というのは、「いつも遊び」であり、それを「幸福の証」のように感じるのは、「過ぎ去った歳月をも読むことになる」からだ、と著者は書いている。



山岸涼子『ツタンカーメン』(1997年7月25日発行・潮出版社 600+税)はコミック。「LaLa」94年4月号〜95年7月号、「コミックトム」96年5月号〜97年4月号にかけて断続的に連載された、単行本で全4巻からなる長編コミック。物語は1903年からはじまる。当時エジプトの考古局査察官だったハワード・カーターが、左遷、失職と生活面でも紆余変転の境涯に甘んじながら、苦心の末に1922年にツタンカーメンの王墓を発掘するまでが描かれている。物語には彼の運命を導くようなミステリアスなエジプト人少年のエピソードなども盛り込まれているが、全体を通してファラオ発掘の記録文学や人物評伝を思わせるほど、主人公ハワードの生活誌をなぞって進行し、当時のエジプトの王墓の発掘事情なども詳細に伝わってくる。登場する考古局の局長やハワードの後のパトロンなど、関係者たちの描かれかたも肉付けがしっかりしていて、相当参考にしたり下敷きにした文献があったように想像されるのだが、このコミックから関心を広げたい読者にとっては、そうした執筆背景の事情にはいっさいふれられていないのが、やや物足りなく思われるかもしれない。
 山岸涼子の独特のタッチの幻想味あふれるコミックを愛読したのは20年以上まえのことだと思う。さいきん、未読だった彼女の近年の作品を含めて、あらためて何作かを読みかえすという機会にめぐまれ、若い頃に読んだときの記憶も蘇ってきて楽しい体験だった。この作品は、まったくの創作コミックや、神話や伝説、古代の歴史上の人物に題材をとった彼女の作品の系列ともすこし違っていて、近代の一考古学研究家の半生を丁寧に描いた人物ドラマになっている。その半生の起伏自体にドラマ性があって、映画的なひろがりを味わえるコミックになっている。



斎樹真琴『地獄番 鬼蜘蛛日誌』(08年10月22日発行・講談社 1500+税)は小説。夜鷹をしていた母の娘として生まれ、自らも物心ついたころから女郎として生きてきた「私」が、死後に地獄におとされ、鬼蜘蛛の姿に変えられて鬼たちの使い走りを仕事として命じられる。そんな「私」が、閻魔さまから与えられた日誌に、自らの体験した地獄での日々を生前の思い出をからめながら書きつづった、という体裁の異色の幻想小説。賽の河原、釜茹で、なます、火焙り、火の車、針の山、血の池地獄、などなど、鬼が亡者を苦しめる地獄の様相がイマジネーションゆたかに描かれていて、吉原に売られ遊女として生きた「私」の境涯も困苦にみちたものであったように描かれているのに、鼻っ柱が強いわりに基本的に人情家で、しばしば商売用に身に付いた郭言葉で「わっち」とか「主様(ぬしさま)」などといいながら鬼たちとやりとりして、ときに閻魔様を蹴飛ばしたりもする「私」という主人公のキャラクターの造形が秀逸で、全般にユーモラスさと深刻さがいりまじったとても読み応えのある読み物にしあがっている。こうした幻想的な舞台設定をしつらえて、人の生きている意味について「私」に正面から考えさせているところも、おおきな魅力。「人を怨み続けると、やがて自分の心まで真っ黒になります。黒く黒く染まってゆき、いつしか自分が誰かを傷つけるようになり、全く関係のない相手を傷つけるようになるのです。そしていつの間にか、自分が人から怨まれるようになっている。、、心の中で何度も自分に問いかけました。生きてゆけると思えるような何かとは何であるのかを。怨みではなく、報復ではなく、間違いを犯す前に生きてゆけると思えるような何かを掴めるとしたら、それは一体、何であるのかを。」(本書より)。平成版「蜘蛛の糸」のような、第三回小説現代長編新人賞受賞作。。



西村賢太『小銭をかぞえる』(08年9月25日発行・文藝春秋 1571+税)は小説集。「焼却炉行き赤ん坊」(初出「文学界」2008年6月号)と、表題作「小銭を数える」(初出「文学界」2007年11月号)の二作品が収録さている。著者とその作品については本書ではじめて知ったのだが、「”私小説の救世主”が贈る、心に突きささる傑作。」と帯にあり、描かれているのが、いわゆる「私小説」的世界なのだと見当がつく。実際二編の作品は、6つ年下の元ウェイトレスの女性と同居している「私」の日常が描かれていて、たぶん他の作品とも地続きであるような作者特有の連作スタイルなのだろうという感じがする。著者略歴に「刊行準備中の『藤澤清造全集』(全五巻、別巻二)を個人編輯。」とあり、これも、作品の中にでてくることで、「小銭を数える」では、この全集出版の資金ぐりのために、せっぱつまった「私」が旧友を訪ねて借金を申し込むエピソードが印象的に語られているし、「焼却炉行き赤ん坊」では、「女」の立ち居振る舞いのさいのちょっとした弾みで、二度までも「私」の愛蔵する書籍の山が崩れたり、藤澤清造の著書が破損したことで、「女」との間に修羅場がくりひろげられる(実際には「女」の溺愛するぬいぐるみの犬たちが被害をこうむる)さまが描かれている。主人公は、自分のことを「ぼく」というのだが、その言葉だけがいつも妙に浮いている。というのは、相手(女)のことは「おまえ」呼ばわりで、どうにも話しぶりには「おれ」が似合っている感じなのだ。地の部分では、「私」が使われていて、主人公本人が気に入って無意識に「ぼく」をつかっているという設定なのだろうが、この微妙な落差が、人の尊大さやエゴイズムといった自己中心的な心の動きに照明があてられて露悪的にデフォルメされたような主人公の心の造形を象徴するような効果をうんでいるように思える。



栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史』(08年6月30日発行・新曜社 3800+税)は主に戦後の文学作品で盗作が問題になった事例を蒐集して経緯や背景を解説した本。「文芸における盗作事件のデータをここまで揃えた書物は過去に例がなく、類書が絶無に近いことだけは自信をもって断言できる。」と著者のまえがきにある。実際、明治期から戦前までの文学作品を扱った「序章 盗作前史」や、30の事例があげられている「第八章 その他の事件」をのぞいても、第一章から第七章までで取り上げられているのは、番号がうたれているものだけで16の事例にのぼる(その内容ではまた関連するいくつもの事例が紹介されていたりするので、総数はかなりの数になるように思う)。倉橋由美子『暗い旅』、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、山崎豊子「花宴」ほか、立松和平「光の雨」、寺山修司「チェホフ祭」、、、。読んでいて感じたのは、〈盗作〉事件というのは、半分くらいは(けして報道姿勢が公明正大とはいえそうにもない)マスコミがつくりあげるものだということと、確信犯的なひきうつしは別にして、ノンフィクションとフィクションの線引きの難しい境界に何度も燃え上がる火種のひとつがありそうだと思えたことだった。
「新聞や雑誌は、「盗作」「盗用」「無断引用」「借用」「無断使用」といったジャーゴンを、適宜、読者には差がよくわからないかたちで使いわける。」(まえがき)。マスコミの使う「盗作」その他の言葉が、「著作権法」とは無関係(そもそも著作権法三十二条の規定によれば「引用」するのに許可はいらない、という)であり、マスコミが断罪基準にしているのは「作家のモラル」という抽象概念であるということを著者はまえがきで強調している。あえて批評をおさえて引用や資料の紹介に重きをおいた、というつくりは500頁近い本書を読みやすいものにしている。とはいえ一週間くらいかけて読み終えたのだった。



吉本隆明『「芸術言語論」への覚書』(08年11月17日発行・李白社 1700+税)は評論集。「神話伝承と古謡」「おほうなばら」「人生への断章」といった、未発表原稿からなる第一部「神話と歌謡」と、2006~2008年に発表された単行本未収録の原稿(「詩人および作家についての追悼文、時局への発言を中心に選択した」、と松崎之貞氏の編集後記にある)からなる第二部「情況との対話」という構成の本で、古謡や昭和天皇の歌集『おほうなはら』が論じられ、清岡卓行、小川国夫への追悼文、漱石、鴎外、岡井隆、埴谷雄高、内村剛介など文学者とその作品について書かれた文があるかと思うと、靖国論争やいじめ自殺、憲法9条や二大政党制についての見解を述べた文、また主に男女の関係心理の諸相について体験的エピソードをからめて書かれた記述が印象的な「人生への断章」、愛猫に関する短文など、著者の近年の関心の所在を伝えるバラエティに富んだ内容になっている。本書には、タイトルの「芸術言語論」そのものを解説した文章はみあたらないが、今年の1月4日にNHKテレビで放映された「吉本隆明語る」という番組(2008年7月19日に開催された著者の講演会の様子を収録したもの)のなかで、「芸術言語論」という言葉が、著者の思想営為全体の道筋を統括するような意味合いでつかわれているのを知った。この番組冒頭でも象徴的にとりあげられているが、その言語観をたんてきに語った部分は、本書の「『蟹工船』と新貧困社会」という一文の末尾にも見いだされる。
 「僕は言葉の本質について、こう考えます。言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉の問題であって、根幹は沈黙だよ、と。
 沈黙とは、内心の言葉を主体とし、自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し、問いかけることが、まず根底にあるんです。」(本書所収「『蟹工船』と新貧困社会」より)



マーゴ・ラナガン『ブラックジュース』(08年5月20日発行・河出書房新社 1900+税)は短編小説集。「死んでいく姉さんを送る歌」ほか、全部で十編の作品が収録されている。河出書房新社の奇想コレクションの一冊で、著者はオーストラリアの作家。初短編集となる本書で「世界文学大賞(短編集部門・短編部門)」を受賞している。作品紹介などで「奇想」という言葉は時折みかけるが、それにふさわしい内容かというと、どうもそれほどでも、と思うことが多い。想像力に関して読む側もかなりすれっからしになっているのかもしれない。本書を読んでいて、まさにこれは「幻想」というより「奇想」のほうが似つかわしいなあ、という感触を、ひさびさに味わった。とくに巻頭の「死んでいく姉さんを送る歌」には唖然とするところがあった。村の刑罰としてタールの溜まった沼に生きながらにして沈められる「姉さん」を、その母親や「わたし」たち家族がみまもり、声をかけ、うたをうたい、、という刑罰執行の一部始終をリアルに描いた作品だが、こういう刑罰は現実には存在しないらしい。そこでなんのために、こういう奇妙な残酷劇をこの作者は思いつき、考え出したのだろうかと思うと、これは「奇想」というほかないように思えてくる。なぜか道化師ばかりあつまっている町で、彼等を遠くから狙撃してばたばたと撃ち殺していく男の話「赤鼻の日」や、「ヨウリンイン」にでてくる奇妙で凶暴なモンスターの造形、また劇的なことが起こるわけではないのに、文体の魅力でずるずるひきこまれていく「わが旦那様」や、「春の儀式」など、わすれがたい味をのこす作品も多い。



福島聡『鵺の砦』(08年3月6日発行・エンターブレイン 640+税)はコミック。「前作『少年少女』のある程度の成功と、現在連載中の『機動旅団八福神』のある程度の失敗の狭間で描かれたモノです。」(あとがき)とあるように、表題作をはじめとする五編の短編コミックが収録されている。このあとがきの文は、「いずれも暗い影を落とした、病んでいて棘のある作品が多いですよ。」と著者のやや自嘲気味の注解の言葉へと続いていて、思わず微苦笑を誘われた。たしかに暗さや、重たさを感じる作品が多いが、それはたぶん登場人物たちがそれぞれの過去をかかえ、それぞれの固有の事情を背後にかかえていきている、ということが、現在の登場人物たちの相互の関係のなかでときに堰ををきるようにかいまみえてくることから感じるような重たさや暗さだ。世間から身を避けるように軽井沢の一軒家でひとり暮らしをしている男(ネット批評家)のもとに、偶然たちよった旅行中の女子中学生二人が一夜の宿を乞う、という表題作は、そうしたふれあいやすれ違いを描いていて秀逸。これまで単行本化された近未来世界が舞台の長編コミック『機動旅団八福神』(「コミックビーム」誌に連載中)を読んで、ストーリーの運びや登場人物たちの描き方に独自の感覚を感じていたのだが、こういう多彩なテーマの短編集を読むと、作者の資質やこだわりのようなものがわかって、なるほどという感じがしたのだった。



赤瀬川原平『昭和の玉手箱』(08年6月5日発行・東京書籍 1400+税)はエッセイ集。「ひょうひょう」(1997年9月~2000年3月号)、「街のてざわり」(1998年4月~2000年3月号)に連載されたエッセイに書き下ろしの第一章分を加えたイラストや写真入りの短文エッセイ集。「銭湯」、「床屋」、「電報」、「野良犬」、「学生服、学生帽」、「インスタントラーメン」、「紙芝居」、「メンコ」、「ビー玉」、、。こうして第一章「昭和のぬくもり」のタイトルだけひろってみても、内容の想像がつくとおもう。ようするに筆者の少年期青年期の体験をからめて、戦後の昭和の時代を回顧した文章が、第二章「開け玉手箱」(洋式トイレや石油ストーブ、深夜喫茶、高速道路など、当時新しかった風物がテーマ)、第三章「街のてざわり」(信号機、電柱、郵便ポスト、公衆電話など、当時の街のたたづまいがテーマ)と、全編にわたって収録されている。著者は1937年うまれだから、日本が高度成長期をむかえる昭和30年代(55~65)を10代後半から体験されたことになる。モノも街も急速に変貌していった当時の風物は、随分世代の離れた私(昭和27年うまれ)の幼少年期の記憶にも重なるところがあって、微妙な出会い方の差異など比較しながら、懐かしくよんだ。時代というのは懐が深いものだなあと。



諸星大二郎『巨人譚』(08年12月15日発行・光文社 1600+税)はコミック。「「西遊妖猿伝」、「海神記」と並ぶもう一つの野心的なライフワーク、、」(帯のことば)。著者の解題によると「巨人の神話や伝説をモチーフに、一本の短剣が様々な時代や人々の間を渡っていく話」という構想は、30年前の「砂の巨人」(79)にはじまるらしい。このシリーズは「ロトパゴイの難船」(82)、「ミノスの牡牛」(86)と書き次がれ、いらい様々な事情から頓挫していたというが、今回新たに書き下ろしの「ギルガメッシュの物語」(08)を加えて、「纏まった形でシリーズの体裁を整えた」本書(第一部)の完成となったようだ。ギルガメッシュ叙事詩、クレタ島のミノタウロス伝説、オデュセイア、サハラに残る「白い巨人」などの岩壁画に材をとった物語。いずれも著者独特の解釈や想像力を駆使して歴史神話の世界から切り出された人々のたどる数奇な運命の物語が造形されている。第二部には、中国の伝奇物語(「諸怪志異」の系列に入るとある)風の、裕福な家の主人が旅の商人から買った不思議な美女人形に人生を狂わされる「阿嫦」と、凶運の星のもとに生まれた男が、運をかえてもらうために仙人のもとを訪ねる「星山記」が収録されている。これらは『巨人譚』シリーズとは毛色が違うが、完結した作品としての完成度はかなり高くて楽しめる。こういう話はいくつでも読みたくなるのだった。



椎名誠『『十五少年漂流記』への旅』(08年5月25日発行・新潮選書 1000+税)は紀行エッセイ集。季刊『考える人』2005年秋号〜2007年秋号連載の「黄金の十五人と謎の島」に加筆修正をくわえたもの、とある。小学生のとき、ヴェルヌの『十五少年漂流記』を読んで感動し、以来座右の書として何度も読み返してきたという著者が、物語の舞台である無人島チェアマン島のモデルとなった実在の島を探訪するという長編紀行エッセイ集。物語のモデルとなった島はこれまで、パタゴニアのマゼラン海峡にあるハノーバー島だとされてきた。しかしこれに近年、田辺真人氏がニュージーランドの東にあるチャタム島ではないかという異説を提出された、という。本書で記されている著者の旅は、この経緯をうけて、実際にこのモデルとされる二つの島を現地踏査した記録となっている。考えてみれば不思議なはなしで、ヴェルヌは、現地にはいかず、地図をみて机上の空想や想像だけで小説を書き上げている。だからモデルにした、といっても、それがどういう意味なのか。気候風土や島の動植物の記載などから異同をつきつめても、それらも原著者ヴェルヌの想像の所産なので当然矛盾がでてくる。もちろん本書はそういうところに拘泥しているわけでなく、なにか空想とリアルな現実のいりまじったような雲をつかむようなロマンの旅紀行なのだった。旅行中の食べ物の話などになると俄然文章が精彩を帯びてきて楽しく読んだ。



榎本了壱『東京モンスターランド』(08年10月30日発行・晶文社 2200+税)は自叙伝。あとがきによるとネットの著者の事務所のホームページに連載されていた「自叙伝的・東京サブカル記」という文章が母胎になっていることがわかる。「伝説のサブカルチャー雑誌『ビックリハウス』の仕掛け人・榎本了壱による、吃驚の20世紀追想録。少年時代より現代詩を創り、舞踊、デザイン、アングラ演劇、実験映画、出版、文化イベントのプロデュースなどに携わっていく。そのさなかに出会った粟津潔、寺山修司、団鬼六、萩原朔美、糸井重里、黒川紀章ら、錚々たる奇才、異才のカルチャーモンスター達。その多彩な交流から、20世紀文化の黄金時代を痛快軽妙に遍歴する!」(表紙扉の記載より)。本書冒頭は著者の小学校時代の回想からはじまり、演劇や美術(二科展グラフィックデザイン部門連続入選)や詩の同人誌「かいぶつ」にうちこんだ高校時代、武蔵野美術大学入学後の粟津潔との運命的な出会いへと続いていく。しかし「話は書くに連れて、サブカルを巡る青春回想記から、私の出会ったモンスター達の記述へと中心が変わっていった。」(あとがき)。私生活の起伏を含めた半生の回想記的な流れのなかに、数々の人物列伝的な記述が渾然とまじりあっている本書は、昭和のサブカルチャーや時代風俗の記録という意味でも貴重な一冊になるかもしれない。終章の「20世紀モンスターサミット」には50人を越える対談者との対話の抄録が収録されている。



小田ひで次『拡散』(上下)(08年12月10日発行・エンターブレイン 各巻760+税)はコミック。「アフタヌーン」誌に93年1月号から98年3月号にかけて、一年に一話づつ長期連載され、6年かけて完結したという長編コミック。瀬下あざみ、という中二の少女が父親の転勤あけで、5年ぶりに家族揃って故郷の我が家に戻ってくるところから話がはじまる。あざみにはかって近所に同年の東部克彦という幼な友達がいて、あざみは彼との再会を楽しみにしていたのだが、克彦は健在だったものの自分が拡散するというイメージにとりつかれ、周囲となじめずに登校拒否児童になっていたのだった。あざみはなんとか克彦を励まそうとするが、とうとうこの「拡散」が現実のものとなってしまう。克彦は死んだのでなく、文字通り身体が拡散して、世界に遍在し、ときに場所を選ばず地上に実体化して出現する、という存在になってしまったのだった。物語は、やがて別の地方都市に、またアフリカの原住民の村に、またアメリカの田舎町へと、さまざまな場所に現れ(させられ)ては数奇な運命に翻弄される克彦の姿を描いて「生きること」の意味を問う。「形而上ファンタジー」と帯にある、異色の力作コミック。



中沢新一『鳥の仏教』(08年11月30日発行・新潮社 1400+税)は仏典の翻訳本。17〜18世紀(ことによると19世紀初頭)に成立したと推定される、チベットの仏教経典『鳥のダルマのすばらしい花輪』が翻訳紹介されていて、訳者による「人間圏の仏教から生命圏の仏教へ」という解説文がつけられている。この仏典は鳥たちにも正しいダルマを説こうと、チベットでは鳥たちの王ともいわれるカッコウに姿をかえた観世音菩薩が白檀の木の根元で瞑想し、周囲に集まってきた鳥たち(オウム、ハゲワシ、鶴、雁、カラス、セキレイ、アカツクシガモ、ライチョウ、鳩、コクマルガラス、フクロウ、雄鶏、ヒバリ、ツグミ、孔雀、インド・チョウゲンボウ、などなど)に、ダルマを説いてきかせ、やがてその教えを感得した鳥たちも交互にたちあがってダルマの正しさをのべあう、というもの。この仏典は、「大乗仏教の経典を模して書かれた、いわゆるインド原典のない「偽教典」である」ことが示されているが、著者によると「仏教思想のエッセンスがほぼ満遍なく網羅されており、しかもその思想を鳥たちがやさしく語りだしてみせている」というもので、アミニズム的な思考に親しんでいるチベットの民衆に近いところで生きていた仏教徒たちの、仏教への深い理解が示されたものとして評価されているようだ。読みながらセオドア・ゼノフォン・バーバーの『もの思う鳥たち』をちょっと思い浮かべた。



立川昭二『年をとって、初めてわかること』(08年7月25日発行・新潮選書 1200+税)は老いをテーマにした文芸作品の紹介エッセイ集。タイトルからすると、なにか人生訓めいた内容を連想するかもしれないが、主に現代文学の小説家、詩人、俳人の作品のなかから、老いをテーマにしたものをピックアップして引用し、作品成立の背景事情にふれながら、それぞれ「老いの自覚」「老いと欲望」「老いの情念」「女の老い、男の老い」「老いとエロス」「老若の共生」「老いの価値」「老いの美学」「老いと看とり」「老いの聖性」、といった章だての中で紹介した構成になっている。収録作家は、斎藤茂吉、吉井勇、田村隆一、谷崎潤一郎、金子光晴、川端康成、三島由紀夫、幸田文、円地文子、田辺聖子、伊藤整、上田三四二、川上弘美、池波正太郎、水上勉、宮本常一、湯本香樹美、青山七恵、藤沢周平、山本周五郎、瀬戸内寂聴、永田耕衣、斎藤史、伊藤信吉、中勘助、耕治人、青山光二、井上靖、深沢七郎、森敦、村田喜代子。老いの諸相はさまざまで、老いを描いたひとつの作品からでも何を汲み取るのかは人によって異なるだろう。三十二名という数多くの作家の作品を取り上げている本書は、作品を丁寧によみこんだうえでそのエッセンスの紹介に徹しているところがあるので、ガイドブックのようにも読めると思う。



魚戸おさむ『家栽の人』(88年12月1日発行・小学館 780+税)はコミック。1988年から96年にかけて「ビッグコミックオリジナル」に連載された、単行本としては全15巻の長編マンガで、93年にテレビドラマ化もされ、96年、2004年にも番組が制作放映されている。地方裁判所に判事として勤務する桑田義雄という人物が主人公で、彼の扱う様々な裁判や調停にまつわる人間ドラマが、毎回のストーリーになっている。裁判ドラマとしての特色といえば、このどこか飄然とした主人公が大の植物愛好家で、毎回植物にちなんだエピソードが含まれていることだが、それ以前に舞台が現代日本の地方裁判所(家庭裁判所)で、判事が主人公という設定そのものが他にあまり例をみないような特色になっていると思う。そこでどんな業務が行われているのか、たとえば、少年犯罪や離婚調停という案件が持ち込まれたとき、どんなふうに調査され、審議され、最終的な審判が下されるのか、ということが、読み進むうちに、リアルにみてとることができるしくみになっているからだ。ストーリーはその過程で起こる複数の立場の異なる関係者たちの心理描写に重点が置かれていて、その審判の結末の部分は省略されたり、暗示に留められているだけの回も随分ある。そういう毛利甚八によるシナリオには、ときに法廷ドラマを描いた青年マンガという枠をこえて、人の業というものについての優れたメッセージがこめられている感じがする。。



松岡正剛『白川静』(08年11月14日発行・平凡社新書 780+税)は評伝をかねた白川静の学問的業績や思想の解説書。2008年2月にNHK教育テレビで4回にわたって放映された「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 白川静----漢字に遊んだ巨人」で著者が語った内容を、「新書のために換骨奪胎させ、いくつもの登攀口が見えるように」してみた、という書き下ろしの「白川静への初の入門書」(帯のことば)。文字の原型はどのようなものであり、その形にはどのような意味がこめられていたのだろう。白川静(1910~2006)という人は、そういうことを中国の「漢字」の世界を対象にして生涯をかけて探求した研究者、といえば、いちばんわかりやすいだろうか。漢字の体系(分類と説明)については、後漢の許慎の『説文解字』がずっとバイブルとされてきて、この紀元一世紀頃に著された書物をこえて、「白川静の登場に至るまで、甲骨文・金文を含めた漢字組織の「一つの体系」も「一定の原理」も探求できずじまいだったのです。」と、第一章にある。漢字の古い形にこめられた時代的な意味が、別の漢字と相互に関連し合ってセットワークをつくりあげ、そこに今までみえなかった古代社会像や当時の人々の精神世界が浮かび上がってくる。そういう読み解きの驚きや知的刺激に満ちた白川静の漢字探求の世界のエッセンスを紹介したコンパクトな解説書。



椎名誠『すすれ!麺の甲子園』(08年4月20日発行・新潮社 1400+税)は全国の麺料理(店)の味を食べ比べたレポート的エッセイ集。「小説新潮」に2006年3月号から2007年10月号にかけて連載された「麺の甲子園」を改稿・解題したもの、とある。「、、、日本各地にはさまざまなご当地麺があってみんな「おらんとこが一番うまい!」と言ってあとに引かない。ではどこの麺が本当に一番うまいのか、全国各地を実際に歩いて食って胃袋で考えてみよう。、、、そういう命題のもとに7人の「麺の甲子園審議団」が結成され、全国を十七エリアにわけ、一年半にわたって巡礼のように歩き、それぞれのブロックの優勝麺を決めてきた。」(本文より)ということで、本書はこの巡礼と審議のすえ優勝麺決定に至るプロセスを面白おかしく綴った食べ歩き紀行文的連続エッセイ集。食べ物のうまさの評価となると人それぞれで、決着のつきようのない話だが、その語り口がうまい麺料理のように味わえる楽しい一冊。「個室ラーメン」などというものもあり、当世の全国の食堂業界の工夫のほどや実情が伝わってくる。お店は実名ででてくるので、好きな人にはガイドブックにもなると思う。といって辛口の批評もあり、紹介されている店を誉めているばかりではない。全体をよむと、ちょうちん記事的人気の店紹介などというのとはちょっと違って芯が一本とおっているのがわかる。「行列のできる都会のラーメン屋でうまいと思った店はどこにもない。」(本書より)。



楊逸(ヤン・イー)『時が滲む朝』(08年7月10日発行・文藝春秋 1238+税)は小説。「文学界」2008年6月号に初出の芥川賞受賞作品。中国北西部の県城にある名門高校に通う謝志強と、梁浩遠というの仲のいい二人の青年が、統一試験を受験してめでたく合格し、こぞって泰都にある泰漢大学に入学して寮生活を始める、というところからストーリーがはじめる。二人は仲良く勉学に励んだり、女学生に恋心を抱いたりと、前半は明朗な青春小説のようだが、作品はやがて二人が後に天安門事件に発展する民主化運動の潮流にまきこまれていく中盤から、その苦い挫折の経緯と二人のその後を描いた後半に至るという広がりと起伏をもった内容になっている。主人公たちの父親の世代が「文革世代」にあたり、当時北京大学の学生だった浩遠の父親も、右派として西北の農村に「下放」されたとされている。読んでいてふと思い出したのは、ダイ・シージエ監督の「小さな中国のお針子 」(2002)というフランス映画だった。これは文革で地方の農村に「下放」された学生たちの生活を生き生きと描いた作品で、彼等の後の人生も描かれていると言う意味で、この作品に雰囲気が似ている。しかしこの小説で描かれているのは、彼等の子供の世代のことで、主人公たちの青春をいろどる歌もテレサ・テンや尾崎豊。いろんな意味で時代の推移を感じさせられた作品だった。



富田和彦『少々オカシクないですか?』(08年3月1日発行・鉄人社 1300+税)は突撃レポート集。著者が「裏モノJAPAN」誌に2005年5月号から連載してきた「この世の”不条理!に真っ向勝負! 少々オカシクないですか?」を単行本にまとめたもの、と「はじめに」にある。映画の宣伝で「全米ナンバーワン」をうたっているものが妙に多いように思える。福引きの大当たりは土日や夕方にしか出ないように思える。レトルト食品のパッケージの写真と中身がまるで違うように思える。回転寿司や100円ショップの商品はなぜあれほど安いのだろう。などなど、日常ふと感じる類の素朴な疑問にこだわって、関係各訪問に質問した結果を30本のレポートにまとめた本だ。その理由はもっともなものから、意外な内幕、というものまで様々だが、そうした解答の結果もさりながら、フリーライターの著者が体当たり的に関係各方面に取材活動した経緯がリアルに報告されているのが面白い。企業や役所の対応ぶりは、そっけなかったり、たらいまわしにされたり、怒り出したり、、、。けれどなかには少数だが誠実な対応をしてくれる人もいる。この比率は、何か問題が起きたときの、あらゆる人間関係にもいえそうな気もする。



茂木健一郎+甲野善紀『響きあう脳と身体』(08年10月13日発行・バジリコ株式会社 1400+税)は対談集。2007年3月と5月に行われた対談を収録したものとある。武術家(武道研究家)の脳科学者の対談。ということで、身体と意識(脳)の関係についての話題が満載されている。思考や意識は、情報を時系列的に処理しようとするが、人間の(無意識も含めた)運動は瞬間的に沢山の情報を同時並列的に処理することで成り立っている。かくて、運動を時系列的にとらえようとする身体の筋肉トレーニングなどのもたらす弊害についての甲野氏の批判から本書ははじまる。そこから話題は論文主義や科学信仰的な風潮に対する批判というふうにひろがっていくが、これが単純な身体性の復権というふうにはならないのは「脳はやはり身体の一部であって、切り離して言うのはナンセンスだと思います」(甲野)ということばからもわかる。なにもしないでいても、人間は身体をもって生きているので、技ということに関連づけて自分の身体の動きに注意すれば、退屈するということがない。稽古を通して自分の身体が「ハイテク機器」のように進化していく。技の進化がなければ、死んだほうがまし、と思うような「鬼」が自分のなかにいる。甲野氏が、武道研究家として、こういう独特の心身感覚を語っているところが、とても興味をひいたところだった。



鴻巣友季子『カーヴの隅の本棚』(08年10月30日発行・文藝春秋 1429+税)はエッセイ集。「文学界」に2006年4月号から2008年4月号にかけてと、2008年9月号に掲載されたエッセイ24編が収録されている。「文学とワインを同等に論ずることを目指し、この液体が目の奥でいかに世界を変えてしまうか、それを伝えることに努めた。」(著者まえがきより)。ということで、本書はこれまで『嵐が丘』など、50冊以上の小説の翻訳を手がけ、自著も数冊ある翻訳家の著者が、ワインと文芸というテーマで綴った連載エッセイの単行本化されたもの。「小説と創作言語。世界文学と越境作家。新訳と重訳。実作と批評。そうした重要な事柄を、ワインの世界で議論される諸問題----果実の栽培法、醸造法、テロワールから、味のグローバリズム、ワイン評論の行方など----を通して見たとき、それらが触媒となってなにが見えてくるか。」(まえがき)といったふうに、ちょっと風変わりな視点からの文芸批評的エッセイがならぶ。ただ毎回話題にされているのは、翻訳や文芸批評に関するかなり踏み込んだ事柄なので、本書を読みながら軽くワインを一杯、というわけにはいかないかもしれない。