memo41
言葉の部屋へ 書名indexへ 著者名indexへ

走り書き「新刊」読書メモ(41)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(08.8.16~08.11.22)

 磯崎憲一郎『眼と太陽』 よしもとばなな『サウスポイント』 鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった』
 森博嗣『墜ちていく僕たち』 レイモンド・カーヴァー『必要になったら電話をかけて』 南伸坊『狸の夫婦』
 大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ』 森博嗣『工作少年の日々』 森博嗣『工学部・水柿助教授の解脱』』
 中沢新一『古代から来た未来人』 森博嗣『すべてはFになる』 黒田硫黄『あたらしい朝 1』
 セオドア・ゼノフォン・バーバー『もの思う鳥たち』 五木寛之+香山リカ『鬱の力』 マイク・モーウッド他『ホモ・フロレシエンシス(上下)』
 井上章一『日本に古代はあったのか』 ポール・ギャリコ『七つの人形の恋物語』 山松ゆうきち『インドへ馬鹿がやって来た』
 森博嗣『森博嗣のミステリ工作室』 森博嗣『スカイ・クロラ』 山崎ナオコーラ『カツラ美容室別室』
 清水玲子『秘密 トップ・シークレット 1』 内田樹『女は何を欲望するか?』 絲山秋子『ラジ&ピース』
 平野啓一郎『決壊』(上下) 宮崎駿・他『ジブリの森とポニョの海』 カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』
 河合隼雄『人の心がつくりだすもの』 山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』 押井守+岡部いさく『戦争のリアル』



磯崎憲一郎『眼と太陽』(08年8月20日発行・河出書房新社 1000+税)は小説。米国のミシガン州で仕事をしていた30歳になりたての「私」は、「日本に帰るまえに、どうにかしてアメリカの女と寝ておかなければならない。」と考えていた。そんな「私」が瞳の印象的な子もちの独身女性トーリと知り合い、同棲生活を送った末に結婚を決意して、家族3人で日本に帰ってくるまで。時期的にいうとそういう時期の「私」の生活に起きた様々な出来事が追想の形で描かれている。トーリと知り合ったいきさつ、いきつけのレストランでの出来事、米国で初めて免許をとって楽しんだドライブの様子、一年中クリスマス用品ばかり売っている巨大なマーケットに行ったこと。雪道で起きて裁判沙汰にもなった自動車事故のことや、会社の同僚で社長でもある遠藤さんの語った恋の物語。。。こんなふうに書くと今や珍しいともいえなくなった日本人青年の米国滞在体験をもとにした私小説的作品と思われるかもしれないが、読んだ感触はすこし違っている。エピソードの選び方が独特で、遠近法がゆがんでいる、というか、夢のように輪郭が鮮明だったりぼやけているといったらいいのか、全体がカフカ風に奇妙にひずんでいる感じなのだ。偶然の連鎖のなかで何か運命的なものに動かされている感じ、それが聖書世界のほのめかしと共鳴して、淡い光をあびている。そういうところに現代小説ならではの不思議な味わいのある作品。



よしもとばなな『サウスポイント』(08年4月25日発行・中央公論新社 1500+税)は小説。著者によるあとがきに、「この小説は『ハチ公の最後の恋人』という小説の後日談でもあります。それから、ハワイを描いたという点で『まぼろしハワイ』と対になっているものです。」とある。私はいずれも未読。美大を卒業してオーダーメイドのキルト作家をしながら独りで暮らしている「わたし」には、中学生の時に知り合った珠彦君という初恋の男性がいた。珠彦君とは相思相愛の恋人同士だったが、高校に入学してのち、彼がハワイに移住したこともあって次第に疎遠になり、こちらからふったような恰好になって別れたのだった。そんなわたしが、あるとき買い物にでかけた近所のスーパーの店内で、かって珠彦君にあてて書いた置き手紙の文面の言葉が、ハワイアン風の曲の英語の歌詞になって流れているのをきく。歌っているのはあの珠彦君なのだろうか。。。ということで、関係者をまきこんで「わたし」と「珠彦君」をめぐる運命的な恋の物語がはじまっていく。ずっと思い続けていると願いが叶う。そういう奇跡のようなメッセージと、作者にとっての聖地のように描かれるハワイの天上的なイメージ。いずれも浮き世離れしているといえばいえるかもしれないけれど、それらがが登場人物たちに負わされた現実の痛みと釣り合うようにおかれることで、いつものばなな節の説得力ある手触りで伝わってくる。



鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった』(08年9月29日発行・新曜社 2600+税)は「心理学の神話をめぐる冒険」と副題のある科学読み物。否定的な証拠があるにもかかわらず、何度もよみがえる文化人類学の特定の考え方を紹介しながら、それらを悪しき「神話」として批判したドナルド・ブラウンの『ヒューマン・ユニヴァーサル』(新曜社)という書物があるという。本書はその本の共訳者でもあった著者が、そうしたブラウンの姿勢に共感して、対象を心理学一般に広げて現代の「神話」を紹介、批判的に考察した本。本書でとりあげられているのは、オオカミに育てられたアマラとカマラという二人の少女の物語(「第一章 オオカミ少女はいなかった」)や、いわゆるサブリミナル効果というものの真偽について(「第二章 まぼろしのサブリミナル」)、言語・文化相対仮説(恣意的につくられた言語が人間の認識や知覚を決定するという説)について(「第三章 三色の虹?」)など、8つの項目にわたる。心理学の分野で画期的な学問的発見といわれたことが、のちに研究者のデータの捏造が発覚したりして疑問視されたり批判されることがあっても、一般にはそのまま受け入れられていることがある。そういう「神話」的ドラマの背景や学説の内部に踏み込んでわかりやすく検証していくという本で、ミステリーの謎解きに似た面白さがある。



森博嗣『墜ちていく僕たち』(01年6月30日発行・集英社 1500+税)は短編小説集。月刊誌「小説すばる」に2000年2月号、5月号、10月号、2001年1月号、4月号に掲載された5作品が収録されている。ファンタジック・ミステリと帯にあり、なるほどそういう言い方もできるのだなあと。あるとき、部屋でみつけた買ったおぼえのないラーメンを食べたところ、男が女に、女が男に変貌してしまう。というのは、由来の不可解さと言う意味でミステリーといえばミステリーだが、現実にはありえないということでいえばファンタジーというべきだろう。5編の作品はそれぞれ独立しているが、インスタントラーメンを食べて何かが起こる、という点で共通しているところが、ちょっと洒落ている。それぞれの作品の舞台設定も著者の趣味に関連することが多く、いかにも楽しんで書いている感じが伝わってきて、一気に読んだ。男女の性がいれかわる、という本当に起きたらすごく深刻かもしれないテーマを、きせかえ人形遊びのようにエンターティメントにしたてたという感じだ。「みっちゃん、確かに可愛いけどさ、ものすっごい馬鹿なんだよ。もうね、頭ん中で小鳥でも飼ってんじゃないかって思ったくらい。」作者の文章は、こういうさりげない会話のセンスに今ふうのおかしみがある。



レイモンド・カーヴァー『必要になったら電話をかけて』(08年7月10日発行・中央公論新社 1000+税)は短編小説集。新書版の大きさで「村上春樹翻訳ライブラリー」の一冊。もともと著者の没後十余年を経て発掘されたという未発表短編を集めた本で、これはすでに『必要になったら電話をかけて』(レイモンド・カーヴァー全集 第八巻 2004年刊)に訳出されていたものから、翻訳者の解題の一部とともにライブラリーに収録されたことがことわられている。初期作品と思われるもの二編(『どれを見たい?』『必要になったら電話をかけて』)、自宅の机の引き出しの中で眠っていたという、未完成の草稿と思われるもの三編(『薪割り』『夢』『破壊者たち』)。これは作者がまだ完成とみなしていなかった作品を死後公表したということで、どうなのかということもあるようだが、私のように愛読者といえるほどでもなくても、カーヴァーの小説世界の雰囲気(なつかしさ)は十分に堪能できる。アルコール中毒、家庭の崩壊と再生への願い。どの作品にも印象にのこる小風景とともに、孤独な現代人の心理世界が誠実な筆致で描かれている。。



南伸坊『狸の夫婦』(08年6月25日発行・筑摩書房 1500+税)はエッセイ集。月刊「日本橋」に掲載された連載エッセイ(2004年6月号〜2007年12月号)から、32編を選んで収録されている。「へーへーぼんぼんの日常生活」と帯にあるように、いわゆる身辺雑記的な題材をほのぼのと読ませるエッセイ集。大事にしていたパナマ帽を、地下鉄の構内で電車のおこす風にとばされてなくしてしまった話とか、ぐらぐらしていた前歯がついにぬけてしまった話。道端の塀の前に咲いていた香しいジンジャーの花を失敬してきてベランダで育てる話とか、近所に巣をかけた燕たちの巣作りに夫婦で一喜一憂する話などなど。。。月に一度というペースなら、日々の暮らしのなかでちょっと印象に残った出来事をこんなふうに書き留めること自体は、誰にでもできそうだと思わせるところがある。しかし書き留めることはできても、書き留めた文章が著者の人柄や「平凡な日々」にそそがれたたしかな生活感覚を感じさせるということはまた別のことだろう。



大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ』(08年8月20日発行・講談社現代新書 860+税)は対談集。2001年、2002年、2007年、2008年に収録された4つの対談が章わけして収録されている。「90年代から2000年代にかけて、おたく/オタクと呼ばれる現象をひとつの軸として、この国の文化には大きな屈折が生じた。その屈折に、大塚英志と東浩紀は、それぞれの世代を代表するおたく/オタク評論家として直面し、短い間「共闘」し、すぐに思想や立場の差異を発見することになった。」と東浩紀による「あとがき」にある。この本には、かなり長い時間をへだてての対談が収録されているので、批評家として、広義の「おたく/オタクと呼ばれる現象」への関心を持続されるおふたりの共通性とともに、とくにそうした現象をうむに至った(近代)社会そのものの把握のしかたについての「思想や立場の差異」をめぐる相互の発言が読みどころになっている。現象的にはインターネット体験(あるいみ実体化された体感的な感覚としての)の有無ということが、そういう言い方をすれば、世代的な差異をきわだたせている、という感じがする。大塚氏の、知識人の役割はなにか、という問いに対して、知識人はもういらなくなる。ネットでなら、ブロガーが新しい知識人像だと東氏は答えている。「じゃあなんで批評をやってるの、商売?」という大塚氏の挑発的な発言もあり、かなり白熱した個所もあって興味深く読んだ。



森博嗣『工作少年の日々』(04年7月30日発行・集英社 1500+税)はエッセイ集。月刊誌「小説すばる」に2002年11月号から2004年4月号にかけて連載されたエッセイ「工事中よ、永遠に」をまとめた本。著者初の連載エッセイ集という。工作全般が好きで、とりわけ模型飛行機、鉄道模型の制作が趣味という著者の、工作をテーマにしたエッセイが18編収録されている。工作少年というと牧歌的なひびきがあるが、かって工作少年だった人がそのまま大人になって子供の頃の夢を実現する機会に恵まれたらどうなるのか。著者は工作室中心のガレージを庭に建設し、工作機械(フライス盤や旋盤)を設置して、たとえば鉄道模型の貨車を自作する。「金属の素材から切り出し、削って形を整え、穴を開けてボルトをつないだり、溶接したりして組み立てた。」貨車二両の製作に30時間ほどかかったという記述もある。「これくらいは模型ではほんの軽作業に属するだろう。一人前の作品として見てもらえるものは、千時間や二千時間はかけないと駄目で、製品として売っているパーツをそのまま使ったりするとケチをつけられることも多い。ネジまですべて自作しないといけなかったりする。」なんとも凄い世界だが、そこまでいかなくても、本書からは、そういう著者の工作三昧の日々の楽しさが伝わってくる。「軽作業・重作業の差はともかく、ものを作ることは本当に楽しい。」



森博嗣『工学部・水柿助教授の解脱』(08年4 月25日発行・幻冬舎 1680+税)は小説。ジャンル的には一応小説ということになりそうなのだが、内容は、身辺雑記的なユーモアエッセイという感じで、とりあえず水垣氏という名前にかえて(奥さんの名前もかえてある)、著者本人に限りなく近いような生活環境にある人物の日々の出来事が中心に書かれている。本書はシリーズになっていて、『工学部・水柿助教授の日常』(2001年刊)、『工学部・水柿助教授の逡巡』(2004年刊)に続く完結編。この全体を読むと、めざすものがその時々でかわってきていて、一作目はミステリ小説(のパロディ化)をかなり意識したもの、二作目ははじめて小説家としてデビューして生活が激変した当時の体験が中心で、三作目の本書では作家としての「現在」に近づいて、ほとんど文章はエッセイ化している。時間がかかっているので文体のセンスに微妙な洗練や変化も読みとれる。哲学者土屋賢二氏の書くようなユーモアエッセイが好きな人には、どの巻も読み物として面白いと思うが、私としては現在に近いこの完結編をいちばん楽しく読んだ。工学部の助教授だったひとがある日突然人気作家になって10数年で十数億の収入を得たというのは現代のジャパニーズドリームとでもいうべきだろうか。虚実とりまぜて(嘘八百でなく嘘十八くらいと書かれている)その顛末を面白く語ったこのシリーズには、人の個性や現代人の幸福感の行く末について考えさせられるところが沢山ある。



中沢新一『古代から来た未来人』(2008年5月10日発行・ちくまプリマー新書 700+税)は作家紹介の本。全六章からなる本で、四章まではNHKテレビで2006年に放映された番組『私のこだわり人物伝 折口信夫』のためのテキスト、五章は『折口信夫全集 第二十巻』(中央公論社)の折り込み月報の文章にそれぞれ基づいていて、六章が書き下ろし、と、あとがきに記されている。折口信夫の古代世界についての考え方の特徴や、折口の提唱した「まれびと」や「常世(とこよ)」といった鍵概念、小説『死者の書』について、など、それぞれ読みやすくコンパクトな解説がなされている入門書、という感じの本だ。ただ中では書き下ろしの第六章「心の未来のための設計図」が、戦後ほどなく行われた折口の講演(NHKのラジオ番組に収録)に登場するムスビの神という概念に着目して、「未来の宗教(原理)」として独特の照明を当てているのが、人物伝という枠を超えている感じで興味深く読んだ。「折口信夫の文章のない世界なんて考えられない」と書く著者による「彼の思想のエッセンスを取り出す試み。」とまえがきにある。



森博嗣『すべてはFになる』(2008年8月26日改版初版発行・角川文庫 514+税)は小説。1998年に刊行された森博嗣のデビュー作となったミステリー小説。とある孤島で殺人事件が起きて、それを主人公の大学助教授犀川創平が解決する。密室殺人をテーマにしたミステリー小説を久々に読んだ。舞台は現代なので、インターネット、コンピューター制御によるセキュリティシステム、ロボット、といった小道具が沢山でてくる。そういう新しい技術の発展で、なにがどこまでできるのか、ということの輪郭がつかめない、ということが、ミステリー小説の世界にもはいりこんできた、ということがあるように思う。ロボットやコンピュータを登場させれば、常識で考えてそうした機械に何が何処までできるのかということが、専門家の常識と素人の常識がたぶんかけ離れてしまっていてよく分からない。わからない部分が謎解きに含まれてくると、素人にとっては推理小説というより、SF小説のような話になってしまう。逆にそういう世界や用語に親しんでいる人にとっては、今やそのほうが現実的ということがあるかもしれない。このへんは難しいところだと思う。



黒田硫黄『あたらしい朝 1』(2008年3月10日発行・角川oneテーマ21(新書) 705+税)はコミック。初出は、「アフタヌーン」(06年9月号から07年3月号)。時代は1930年代、第二次大戦前のドイツ。たまたま札束(政党の秘密資金)がぎっしりつまったバッグを路上でひろったちんぴら青年マックスとエリックの二人が、マックスのおさななじみのパン屋の娘ベルタと三人だけの秘密にして、とある倉庫の片隅に金を埋める。そういう犯罪もののような出だしではじまるが、そうこうするうちに戦争がはじまり、青年達は出征してしまい、一方の青年マックスが着任したドイツ軍の偽装船の洋上での活躍を描いた話になっていく。この一種の戦記ものコミックというのがこの第一巻の内容の大半をしめるが、二人の青年は日本の横浜港で再会し、埋めたお金のことも忘れたわけではなさそうなので、物語はいつかは戦後につづくのだと思う。へたうまイラストのような絵柄が個性的で、第二次大戦に実際に活躍したという仮装巡洋艦トールの作戦航海記という、ちょっと気が付かないマニアックな着眼点で楽しめるコミック。この先の展開がどうなるのか気になるところ。



セオドア・ゼノフォン・バーバー『もの思う鳥たち』(2008年6月5日発行・日本教文社 1514+税)は鳥類の知能に関する本。著者は、社会心理学者で催眠研究の第一人者とあり、「本書は、著者が認知比較行動学の見地から鳥類の知能と行動を6年間にわたり調査研究した成果をまとめたもの。」と、「著者紹介」にある。本書の内容は、おおまかにいえば、豊富な具体例を提示して、鳥類にも人間に似た知能があることを明らかにしようとした本といえると思う。本書には「鳥の擬人化」といった手法を使って記述されている個所もあり、人間と動物を本質的に異質なものと考える伝統を根強くもっている西欧のキリスト教文化圏では、研究者たちにとって、そうした「擬人主義」的記述につよい拒絶反応がある、ということを、訳者はあとがきで解説している。1993年に刊行された本書も、そうしたタブーにあえて挑戦したために動物行動の研究者や認知科学の専門家たちからは黙殺に近い反応をうけたという。文章がやや一本調子で読みにくいようにも感じたが、高い知能を保有する具体例としてあげられた鳥たちの様々な個性的エピソードを、楽しく読んだ。研究目的といっても鳥と親密なコミュニケーションできるようになるような事例というのは、そのまえに人の側から懇切な働きかけがある。もともと無関心に生きていたもの同士に、特殊な関係のとりかた次第で常識をこえた結びつきがうまれる、ということは十分にあるように思う。



五木寛之+香山リカ『鬱の力』(2008年6月15日発行・幻冬舎新書 740+税)は対談の本。作家の五木寛之氏と精神科医の香山氏の「鬱」をテーマにした長時間対談が収録されている。戦後60年の「躁」の時代がおわって、今後半世紀ほどは続くと思われる本格的「鬱」の時代に入った、と考えているという五木氏は、「鬱」の時代を生きるための哲学の必要性を説く。香山氏もそうした文化的な「鬱」のとらえ方に共感を示す一方、現場の精神科医として「病としての鬱」に関する様々な話題を提供して微妙な差異をうみ、和気藹々ながら読み応えのある対談集になっている。話は、鬱そのものから関連した日本社会や医療の現状、心の問題、宗教についてなど、広範にひろがっていくというお二人の体験談豊かな鬱問答集。医療をめぐる話題では、週三日くらいフリーで診療すれば、医者であれば月百万くらいになるので、フリーター医師がすごく増えた、とか、深夜だと待たなくてもいいからとコンビニ感覚で病院にやってくる患者の問題が指摘されていたりしていて、なるほどと。



マイク・モーウッド他『ホモ・フロレシエンシス(上下)』(2008年5月30日発行・NHKブックス 各970+税)は考古学者による調査研究の過程をまとめた本。2004年に「ネイチャー」誌に発表され話題になった新種人類ホモ・フロレシエンシス(通称ホビット)の発見者であり研究者である著者が、その発見と発表後にひろがった波紋を紹介しながら、人類および生物の進化についての解説もほどこした、啓蒙書をかねた発掘物語。インドネシアのフローレス島の洞窟で発見されホモ・フロレシエンシスと名付けられた新種の人類は、身長90センチほどで、脳もチンパンジー程度ということだが、約1万2000年前まで生存し、石器や火を使用して狩猟生活を行っていたらしい。この発見が研究者たちに当時いかに驚きをもってむかえられたか、ということには、いくつかの面で、それまでの人類進化の定説といわれてきたことを考え直す必要にせまられた、という事情があるらしい。もちろん本書では、そういう学問的背景も含めて解説がされていて、なかでは特に孤立した島での特殊な進化がどんなふうに起こるか、という解説個所を面白くよんだ。また本書では、発見のドラマとその後に起きた研究者どうしの確執というドラマもすくいあげていて、考古学研究者たちの置かれている研究現場の環境というものもリアルに伝わってくる。。



井上章一『日本に古代はあったのか』(2008年7月10日発行・角川選書 1600+税)は歴史評論。角川学芸WEBマガジン第1号〜14号に掲載された「日本の歴史とユーラシア」を改稿、改題した本、とある。西欧史でいうと西ローマ帝国の崩壊後(476)は、中世に区分される。日本史では鎌倉時代(12世紀末)から中世がはじまると中学高校で教えられる(最近の学会では院政期(11世紀末)とされるらしい)。この6〜700年のへだたりはどういうことなのか、と疑問を感じた著者は、日本史の歴史区分の成り立ちの事情を調べはじめて、「日本に古代はなかった」、という結論に達したという。本書にはその経緯が様々な学説を紹介する形で書かれている。古代がなかった、といわれると驚くが、西欧には中世から歴史がはじまる国がいくつもある、といわれると、なるほどそういう意味の時代区分の話なのか、とちょっと安心する(^^;。本書で興味深かったのは、東大と京大がとくに中国史の歴史区分をめぐって長い間対立してきて、今でもその学説の違いが継承されている、ということだ。こうした学派的な対立は、日本史の歴史区分をめぐっても続いているようで、武士階層の出現や鎌倉幕府の成立を重要視する考え方を、著者は江戸東京を中心とした明治維新のイデオロギーが投影された「関東史観」だとして批判している。



ポール・ギャリコ『七つの人形の恋物語』(2008年8月26日改版初版発行・角川文庫 514+税)は小説集。1978年に同名で出版された文庫本の復刻版。表題作と「スノーグース」の二編が収録されている。「スノーグース」は、英国のエルダー川の河口の灯台小屋に移り住んで世捨て人のように孤独に暮らしていた画家ラヤダーが、第二次大戦がはじまりダンケルクの海岸で救助をまつイギリス軍兵士たちのためにヨットででかけて英雄的な救援活動をする、という小品。この作品は1941年に発表されベストセラーとなったという。ダンケルクの戦いは1940年のことなので、当時この時事的なテーマ自体が生々しかったのがわかる感じがするが、一方でラヤターと地元の娘フリスの淡い恋がエピソードとして盛り込まれていて、作品のたたえる情緒には深い奥行きがある。表題作は、パリにでてきたものの仕事もなくセーヌ川に身投げしかけていたところを声をかけられ、旅の人形芝居一座に人形たちとかけあい話の相手役として雇われた貧しい娘ムーシュの物語。人形一座といっても腹話術師の人形使いキャップテン・コックと7体の人形たち、舞台道具を載せたシトロエンの運転手兼雑用係のセネガル人ゴーロという構成で、一座の座員はたったふたりだ。キャップテン・コックは人形たちを演じているときはムーシュに優しいが、上演が終わると人が変わったように罵倒し苛めぬく。この奇妙に性格のねじくれた人形使いとムーシュとの、愛憎の絡み合ったような関係が、個性豊かな人形たちを介在させてこまやかに描かれている。



山松ゆうきち『インドへ馬鹿がやって来た』(2008年3月20日発行・日本文芸社 1500+税)はノンフィクションコミック。コミックの部分は「月刊漫画ゴラクネクスター」(2005年9月号〜2006年12月号、2007年3~12月号)に初出。他にエッセイ、著者インタヴューなども収録されている。56歳の漫画家の著者はある日インドに漫画をもっていけば売れるに違いないと思いつき、一年ほどヒンディー語の勉強(『旅の指さし会話帳22 インド』を買って読み書きを覚える)をしたうえで単身デリーに赴く。自著も含めた数冊の漫画をもっていって当地で翻訳者をみつけてヒンディー語に翻訳してもらい、印刷屋をみつけてそこで印刷製本して売ろうという計画で、もちろん滞在期間は長期にわたるので、その間安いアパートを借りなければならない。当地に知り合いもつてもなく、言葉もほとんど話せない。著者には外国旅行の経験もない。はたまた日本の漫画が売れるという確証もなく、そもそも当地にそういう文化的な下地があるのかどうかもわからない。これがいかに無謀なことなのかは、なんとなく想像がつくが、実際その想像どうりのトラブル続出の面白ノンフィクション漫画になっている。「せんせいはおやじだけどこころはこどものこころだた。」(収録されているサージャンさん(著者が部屋を借りたインド人)からの手紙より)



森博嗣『森博嗣のミステリ工作室』(1999年3月18日発行・メディア・ファクトリー 1300+税)は作家読本。本当は作家読本という言葉が適当なのかどうかわからないが、これは特定の作家の様々な側面を紹介した内容なのでそんなふうに呼んでみた。著者は1996年にミステリ小説『すべてがFになる』でデビューした人で、本書は著者の選んだミステリ中心の小説ベスト100(第一部)、自作を語る(第二部)、森博嗣の多重な横顔(第三部)からなる。この第三部は、コラム集、萩尾望都氏との対談、自作コミックなどにわかれている。コラムも著者の趣味に触れたものから、作家になったいきさつに触れたものなど、幅広く網羅されている。1999年3月の刊行なので、情報としてはとても古いのだが、ひとりの作家のさまざまな側面を著者自ら編集紹介した本として、面白く読んだのでとりあげてみたくなった。面白く読んだ理由には、ベスト100の解説が簡明で説得力があったのと(萩尾望都、鈴木翁二!、諸星大二郎といったコミックや、石川啄木、三好達治の詩集も)、著者の経歴(学生時代にはアマチュア漫画家としてコミケを主宰し、某国立大学工学部助教授時代にミステリ作家としてデビューした)や趣味の幅広さ(模型飛行機、模型機関車、車、骨董品)ということがある。「子供の科学」をずっと購読していて、庭で模型機関車を走らせている工学博士のミステリ作家。映画「スカイ・クロラ」の同名原作小説を読んで、副読本的に著者についての知識を得ようと図書館で借りてみたのだが、こういう本をよむと、作品の理解もひと味かわってくるところがあって楽しい。



森博嗣『スカイ・クロラ』(2004年10月25日発行・中公文庫 590+税)は小説。アニメ映画化された「スカイ・クロラ」の同名原作小説であり、小説「スカイ・クロラ」シリーズ(08年9月現在6冊刊行されている)の第一巻にあたる。主人公はカンナミユーヒチという名前の戦闘機のパイロット。彼が新しい前線基地に赴任してくるところから物語がはじまる。彼の基地での暮らしぶりと出撃しての空中の戦闘シーンがおりまぜられている作品で、彼の前任者にあたるパイロットの消息についての謎が、ミステリータッチで物語を牽引していく。謎といえば、小説の舞台になっている世界全体も靄がかかったように謎めいていて、その全容を明示しない、という手法が、このシリーズ作品(08年9月現在全6巻が発売されている)の大きな構想を支えているように思えた。それは直接には読者の関心をひきつける役割をはたしていると同時に、主人公(たち)の、現在にしか関心がもてない、という心理を象徴しているようなところがあるからだ。大きな戦争から50年、舞台は日本で登場人物は日本人。世界は平和だが、一方で戦争請負会社が存在して、人々が平和を実感できるように、恒常的な局地戦争が人為的に行われている。こういう奇妙な近未来社会というか、プロペラ機同士が戦闘をする、という意味では、戦後の航空技術革新の道が逸れてしまったような、現代のパラレルワールドのような世界が背景にある。多くの戦闘機のパイロットたちは、「キルドレ」と呼ばれ、遺伝子操作で、永遠に子供のままで老いることのないクローン人間。戦争機械としてうみだされた彼らの生をその自意識とともに描くことで、現実の若い世代の閉塞感とバーチャル世界で満喫する開放感の振幅を叙情的にすくいあげているようにも感じられるのだった。



山崎ナオコーラ『カツラ美容室別室』(2007年12月30日発行・河出書房新社 705+税)は小説。初出は「文藝」2007年秋号。主人公のオレ(佐藤淳之介)は27歳のサラリーマン。知人の紹介で知り合ったフリーターでミュージシャンの梅田さんに誘われて行った美容院「カツラ美容室別室」で、店の人たち(店主の桂孝蔵氏、エリさん、桃井さん)とも知り合って、最初の日に一同で花見にいったのがきっかけで、店の常連客になっていく。やがてオレは同じ歳のエリさん(樺山エリコ)と親しくなってデートをするようになるが、恋人になるというまでには至らない。小説ではこの「妙齢の男女」の友達関係のようなものがほのぼのと描かれている。「男女の間にも友情は湧く。湧かないと思っている人は友情をきれいなものだと思い過ぎている。友情というのは、親密感とやきもちとエロと依存心をミキサーにかけて作るものだ。ドロリとしていて当然だ。恋愛っぽさや、面倒さを乗り越えて、友情は続く。走り出した友情は止まらない。」。登場人物がごく普通の善意のひとばかりで、ドラマチックな展開も、生死をかけるような大きな出来事も起こらない。それでいて普段着の人間関係のなかでの気遣いや配慮のようなものがこまやかに描かれている。男女の恋愛というより友愛関係に関心の秤が傾いている。これは先頃読んだ、絲山秋子『ラジ&ピース』にも共通していえることで、ある種の時代の微妙な空気(女性の感受性)の変化というものを表しているのかもしれない。



清水玲子『秘密 トップ・シークレット 1』(2001年12月24日発行・白泉社 676+税)はコミック。初出は月刊「メロディ」1999年3月号、2001年1月号、8月号。第一話の時代は2055年。米国57代大統領が暗殺され、読唇術の専門家ケビンが捜査の協力を要請される。この捜査というのが、死者の脳が記憶している映像を再現できる装置「MRIスキャナー」を使用して、スクリーンに投射された死者の記憶画像を解読するというもの。その際に音声は再現されないので、読唇術の専門家の協力が要請されたのだった。ということで、事件の真相が明らかになって第一話が終わるのだが、これはこの長編シリーズマンガのまえおきという感じだ。この事件から5年後という設定ではじまる第二話からは、同じMRIスキャナーを駆使して犯罪捜査に関わる日本の科学警察研究所の捜査員たちの活躍が描かれることになる。このコミック、なにが面白いかというと、やはり死んだ人の脳に残った記憶を再現できる装置を犯罪捜査に利用するという発想だろう(時代は未来社会なのでウィルス予防のために誰の脳にもチップが埋め込まれていて、「このチップにより脳が「見た」電気刺激を再現できる」とされている)。あとがきのようなおまけマンガをみると、著者は独自にこのアイデアを思いつかれたようだが、類似のアイデアはすでにSF映画にある。たとえば映画「ザ・セル」(2000 米)は、昏睡状態の連続殺人犯の心の世界に、心理学者が脳の神経回路を辿る機械を使って入りこんでいくもの。映画「ファイナル・カット」(2004 カナダ=独)は、脳のなかにマイクロチップを埋め込んで、当人の見た情景を全て記録することが普通になっている未来世界の話。その記録画像を葬式の時に故人を偲んで放映するのだが、その編集人が主人公という映画だ。この映画では、自分の言動が死後に記録として残るので誰も品行方正になる、というような悪夢めいた未来世界が描かれていたが、このコミックでも類似した人のプライバシーをめぐる問題がひとつのテーマになっている。登場するキャラクター(とくに捜査室長の薪警視正と捜査員青木一行のコンビ)が個性的なのもこのコミックの魅力。現在第五巻(08年8月5日発行)が最新刊というシリーズマンガだ。



内田樹『女は何を欲望するか?』(2008年3月10日発行・角川oneテーマ21(新書) 705+税)はフェミニズム論。2002年11月に径書房から刊行された同名の単行本を大幅に改訂、新書化した本。「フェミニズム言語論」「フェミニズム映画論」という二部構成の本書は、「「すぐれたフェミニストたち」の成し遂げた知的達成をたどることを通じて、これほどまでにラディカルに知的な企てがいつのまにか生成的なしなやかさを失ってしまった理由を探り当てようとするものです。」(新書版のための前書きより)ということで、ファミニズム批判の書なのだが、これは、特にボーヴォワールやイリガライ、フェルマンなどの言語論を紹介しながら批評した第一部にいえることで、映画「エイリアン」(シリーズ4部作)を、フェミニズム映画として読み解く第二部の映画論は、すこしスタンスが違っている。この映画論がとても読み応えがあって、圧巻という感じだった。もっともそれは、1979年、1986年、1992年、1997年、とそれぞれの時代感覚を吸収して制作された「エイリアン」というSFホラー映画シリーズの残像がまだこちらに色濃く残っているからかもしれない。論考は、シリーズを通してエイリアンと勇敢に闘う女性主人公リブリーに、制作時期それぞれの「フェミニストの理想像」のようなイメージが体現されているとしながら、一方で映画の背景に塗り込められている、その「悪夢」めいた否定面を浮き彫りにしていく。



絲山秋子『ラジ&ピース』(2008年7月30日発行・講談社 1300+税)は小説集。表題作と、短編「うつくすま ふぐすま」が収録されている(いずれも「群像」初出)。表題作の主人公は相馬野枝という32歳の女性。生まれも育ちも東京だが、大学卒業後仙台のラジオ局に6年間女性アナウンサーとして勤め、新天地をもとめて群馬県の「JOSHO-FM」に契約社員として入社するところから物語がはじまる。野枝が担当することになった毎週月曜日から木曜日までのトークと音楽番組「ラジ&ピース」をどんなふうにこなしていくのかが描かれ、野枝の日常生活が、新しい土地で知り合った友人で女医の狩野沢音や、番組のリスナー「恐妻センター」氏との交流エピソードを織り込みながら、ストーリーは淡々という感じで流れていく。なにか大きな事件が起こるというわけではないが、何の気負いもなく、地方ラジオ局のアナウンサーとして生きる道を選んだ若い女性の、どこか閉じこもりがちで冷め切っていながらも時に知友の善意にふれて充足感にみたされる、といった日常の気分の起伏がしっくりと描かれている。信用金庫に勤めている中野香奈という女性が主人公の短編「うつくすま ふぐすま」では、主人公が同姓同名の知友をえて、恋人と別れるといったことが描かれているのだが、こちらにも同じトーンが感じられる。そつのない現実感覚をもった若い女性がえがかれているようで、どこかすとんと生活感がぬけているところがある。その風来坊のような感覚がなにかをいいあてているように思えるのだった。



平野啓一郎『決壊』(上下)(2008年6月25日発行・新潮社 各1800+税)は小説。初出は「新潮」2006年11月〜2008年4月号。「2002年10月、全国で次々と犯行声明つきのバラバラ遺体が発見された。被害者は平凡な家庭を営む会社員沢野良介。事件当夜、良介はエリート公務員である兄・崇と大阪で会っていたはずだったが----。」(上巻の帯より)。作品は、いまやとりたてて猟奇的といった感じさえしなくなってしまった動機のよくわからなくて手口だけ妙に乱暴な殺人事件をテーマにしている。この殺人事件の犯人は誰なのか。最初から被害者沢野良介と兄・崇の精神的確執を含めた沢野家の家庭事情や、とりわけ性格的に謎めいていてきわだった特質のある沢野崇という人物像に照明があてられているので、彼が犯人なのかどうか、という古典文学的なミステリーの手法でストーリーが牽引されていくところがある。一方北崎友哉という14歳の少年が事件に関与していくことになるが、こちらにはそういう意味での謎のようなところはない。ここには現代の犯罪(最近いかにも頻発しているように感じられる犯罪)の特色の理解をめぐっての、難しいテーマがあるように思える。なにか理解しがたいような犯行が行われたとき、その背後に犯人の組み立てたそれなりの理路を汲み取ろうすること(そのことで理解したつもりになること)自体の意味が問われているようにも思えるのだ。上下巻で併せて800頁に近い力作長編。



宮崎駿・他『ジブリの森とポニョの海』(2008年8月8日発行・角川書店 1200+税)はインタヴュー集。映画「崖の上のポニョ」の監督宮崎駿とスタジオ・ジブリのプロデューサー鈴木敏夫の両氏に、ドキュメンタリー作家のロバート・ホワイティング氏がインタヴューした内容とホワイティング氏の感想文(英文入り)を中心に、映画製作スタッフ、近藤勝也(作画監督)、高坂希太郎(作画監督)、吉田昇(美術監督)氏の映画製作に関する鼎談、森達也(映画監督)、唐沢俊一(評論家)による映画レヴュー、映画の二人の主人公ポニョと宗介の声を演じた声優の少年少女たちの写真と感想紹介、スチール写真入りの映画のあらすじ紹介と、かなり欲張った内容の本になっている。あっと驚くような映画製作にまつわる裏話がきける、ということでもないのだが、敗戦直後の幼少年期から67歳の現在にいたる様々なエピソードを満載した聞き取りインタヴューからは、日頃ネットもみないし、Eメールもやらないという愛煙家の宮崎氏の個性がうかがわれて楽しい。バーチャルで育った世代には肉体の記憶に基づいたアニメがつくれないので「日本のアニメは終わりだな」という宮崎氏の持論的な発言が印象に残ったのと、いかにも現代の主婦という感じの映画の登場人物リサ(宗介の母)の描写についてのホワイティング氏の感じ方が、微妙に否定的なところ(乱暴な運転・子供のしつけ・飲酒)が面白かった。。



カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』(2001年9月15日発行・早川epi文庫 1600+税)は小説。1982年に刊行された著者のデビュー作。本書は最初1984年に『女たちの遠い夏』というタイトルで筑摩書房から出版され、94年にちくま文庫に収録、のちに再度手直しされて題名も改められて出版されたという経緯が訳者あとがきで触れられている。戦後、英国に移り住んでのち長女を自殺で失った女性悦子が、二十数年前に、日本の故郷長崎で知り合った佐和子という女性とのみじかいつきあいがあった頃のことを追想する、という形で物語はすすんでいく。佐和子はアメリカ人の恋人をもち、十歳ほどの女児万里子と暮らす三十歳位の女性。知り合ってほどなく、働き口の周旋をたのまれて引き受けたことから、ふたりは懇意になるが、そのみじかいつきあいも佐和子が恋人とともにアメリカに渡って暮らすために神戸に引っ越していくことで、幕切れになる。この追想は、直接は万里子という佐和子の娘の思い出(彼女の切ない身の上)に、自殺した長女への思いを重ねるとこで、浮かび上がってくる性質のものだが、同時に自分の母として、女としての生き方を境遇の似ていた佐和子に重ねて思い返すようなところがある。この作家は、「会話がうまい」、と池澤夏樹が解説に書いている。会話では、言葉が「場」(個別的な話者の背景事情)のなかから汲み上げられてくるところがある。この「場」がどこまでも不確かな場合、言葉はスポットライトのようにわずかにその周辺だけを照らすことしかできない。「薄明の世界」(訳者)とは、そういう会話の世界の感触をいいあてているようにも思える。



河合隼雄『人の心がつくりだすもの』(2008年6月23日発行・大和書房 1600+税)は対談集。広報誌「えるふ」に創刊時から連載された対談6つ(2001~2005)を再編集した本で、藤森照信(建築家)、南伸坊(イラストレーター)、玉木正之(スポーツライター)、森村泰昌(美術家)、宮田まゆみ(「笙」の演奏家)、今江祥智(児童文学作家)氏との対談が収録されている。「作者が思ったとおりを書いたっておもしろくない。そこに無意識な部分が出てくるところが面白いんです。」(第一章)。「無意識的に出てくるやつがあるんですよ。ぼくらの仕事は、そこをじっと待っているわけで、、」(第二章)、「もちろん、いろいろ考えてはいるけど、考えたとおりやろうと思う人はみな失敗します。」(第三章)「おもしろいことをやろうと思ったら、絶対に無駄をしないとだめ。それなのに、先まわりして、いちばんの近道を教えてしまうというようになっている。」(第六章)。対談相手はそれぞれで、相手の話に合わせていても、治療家としての体験からでてくる人間観のようなものが、時々さりげなくさしだされる。「おもしろさ」ということの重要性が、いろんな場面でいわれているが、それが単なる「楽しさ」ではないこと、一種「未知」にふれる体験であることが強調されている。対談としては宮田まゆみ氏の「笙」という楽器についての話や、演奏家としての体験談がとりわけ興味深く、こういう話を読むと聴いてみたくなる、というのはいつものこと。



山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』(2004年11月20日発行・河出書房新社 1000+税)は小説。主人公の「オレ」は美術の専門学校に通う19歳の青年。そんな「オレ」が、専門学校のデッサン授業の女性講師猪熊サユリ(ユリ)と恋に落ちるというストーリーだ。ユリは39歳で既婚。20歳年の離れた男女の恋愛関係が描かれているのだが、どこにもスキャンダルめいた雰囲気はなく、年齢差がもたらす深刻な矛盾のようなものもない。水のように淡い、年齢差の設定があまり意味のないような関係、といえばいいか。このことは、偶然先頃みた英国の映画「あるスキャンダルの覚え書き」(2006)と比較すると、あまりの落差を感じさせられて面白い。映画では、中学校の美術の女性教師と15歳の男子生徒との恋愛が描かれていて、ともに既婚である女性の配偶者が年長なことも似ている。違うのは映画では女性の家庭に子供がいること。この子供の(批判的な視点の)存在だけで、この浮気的恋愛の様相ががらりと変わってしまう。この作品では、妻の浮気を知っても14年連れ添っているという亭主は理解ある鷹揚な態度をしめすだけで、いわば自然の推移のようなめだった波の立たない(それゆえに無力感にうちのめされるような)この恋愛の情緒につごうよく設定されている。この作品と作者は『顰蹙文学カフェ』という連続文芸鼎談の本の中で言及されていて知って読んでみたのだが、そのときどうも不可思議なペンネームだなあ、と思っていたら、作者がコーラが好きで名前のあとにつけた、と略歴欄に書いてあって疑問が氷解したのだった。



押井守+岡部いさく『戦争のリアル』(2008年3月14日発行・エンターブレイン 1700+税)は対談。映画監督で作家でもある押井守氏と軍事評論家の岡部いさく氏の「戦争」を巡る対談。とはいうものの、実質的に精力的に語りまくっていくるのは押井氏で、独演といってもいいほどだ。内容は、兵器の性能をめぐる話題がほとんど。「戦争のリアリティ」とは、「勝つ予感」のことだと押井氏はいう。「勝つ予感だけの軍隊は手に負えないけれど、始末に悪い。だけど、勝つ予感がしない軍隊はもっと悪い。」その予感は与えられない限りもてないから、日本の国民は、「勝つ予感どころか戦争のリアリティすら持っていない」一方、「すべての戦争のリアリティが虚構のレベルで消費されている。」。こういう認識にたって、世界の現用軍事兵器(特に自衛隊の装備)を細部にわたって検証しながら、戦争のリアリティというものを考えていく。毎年海外で銃火器の射撃をしたり、戦闘機などに試乗したりしているらしい押井氏の知識は膨大で、軍事評論家の岡部氏に、導入兵器に関する疑問点を質問したり、独自の防衛構想などをぶつけて華々しい。軍事オタクというのが一番あたっているのかもしれないが、自衛隊の無駄遣いという時、そもそも装備の意味合いや兵器・車輌・艦船・航空機の性能を比較した上でなければ空論になってしまうわけで、被災地などへの平和転用という議論でも、こうした細部の違いが「みえる」ことの方が風通しがいいに違いない。こうした思考や発想が、映画やアニメやコミックの「虚構の戦争」のクリエーターたちからでてくる、というところにも、とても今風の感じをうけた。