memo39
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走り書き「新刊」読書メモ(39)
ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。
index・更新順(08.1.19~08.4.26)
○ 香山リカ『ポケットは80年代がいっぱい』○ 松本大洋『竹光侍 四』○ 坪内祐三『アメリカ』
○ 谷口ジロー『冬の動物園』○ 中野美代子『ゼノンの時計』○ 金原ひとみ『星へ落ちる』
○ 中野美代子『契丹伝奇集』○ NHK『迷宮美術館』制作チーム『迷宮美術館アートエンターティメント』○ 中野美代子『眠る石』
○ 和田慎二『傀儡師リン 1』○ バラエティ・アートワークス『カラマーゾフの兄弟』○ 上野たま子『雑誌記者 向田邦子』
○ 遠藤誉『中国動漫新人類』○ 谷口ジロー『シートン 第四章『タラク山の熊王』』○ 林信之『アップルの法則』
○ レイ・ブラッドベリ『さよなら僕の夏』○ 東海林さだお『もっとコロッケな日本語を』○ 今市子『岸辺の唄』
○ 粕谷一希『作家が死ぬと時代が変わる』○ 富安陽子『さいでっか見聞録』○ 吉田秀和『永遠の故郷 夜』
○ 中野翠『本日、東京ロマンチカ』○ 中野京子『恐い絵』○ 波津彬子『雨柳堂夢咄(其ノ十二)』
○ 山田風太郎『昭和前期の青春』○ 三田完『俳風三麗花』○ 渡部周子『〈少女〉像の誕生』
○ 三浦展『下流社会 第2章』○ 里中満智子『オリュンポスの神々』○ 大江健三郎『作家自身を語る』
香山リカ『ポケットは80年代がいっぱい』(2008年3月11日発行・バジリコ株式会社 1500+税)は青春回想記。著者は大学に在学中に、高校の頃から愛読していた松岡正剛氏主宰の雑誌『遊』の編集部のある駒場の工作舎に通うようになり、編集作業を手伝ったりしているうちに、『遊』増刊号の編集責任者でもあった山崎晴美の自販機雑誌『HEAVEN』の原稿執筆や編集にも携わるようになったという。著者の筆名(リカちゃん人形のリカちゃんのフルネームからとられた)は、山崎氏が筆者のペンネームとしてつけたものだった。。本書は著者の東京医科大学在学時代の回想記。86年に北海道大学病院に研修医として勤務しはじめるので、ちょうど80年代前半(60年生まれの著者の20代前半)の青春回想記ということになるようだ。『遊』やYMOや、新人類、といった言葉がなつかしい。著者は精神科医としての立場から幅広い分野で評論やエッセイなど執筆されているようだが、こんな時代があったとは知らなかった。
松本大洋『竹光侍 四』(2008年4月2日発行・小学館 900+税)はコミック。連作ものの第四集にあたる。江戸の長屋暮らしをしている浪人瀬能宗一郎は、たびたび故郷の信濃国立石藩からくりだされる刺客につけ狙われていたが、これまで伏せられていたその理由が本書ではじめてあかされる、という意味で物語も中盤にさしかかった、というところだろうか。絵柄やデザイン感覚の卓抜さは相変わらず見惚れてしまう。また時代物としてのストーリー(作は永福一成)もよく練り込まれているのがこのくだりまでくるとよく分かる。昨年(第11回)の文化庁メデイァ芸術祭漫画部門で優秀賞を受賞したと帯にあったので、ネットで検索してみたら、他に優秀賞が四作、大賞は別。いずれも知らない作品で、漫画家も「海街diary」(優秀賞)の吉田秋生を知っているだけだった。アニメ部門もほぼ全滅の無知状態。コミックの紹介を最近よくここで載せているが、実際コミックシーンで何が流行ってるのかということにはまるで疎いのだった。
坪内祐三『アメリカ』(2007年12月10日発行・扶桑社 1680+税)は文芸評論集。初出は『en-taxi 』(01~03,05〜08、16号・エピローグは書き下ろし)。若い頃からサリンジャー『キャッチャー・イン・ザライ』やフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』といった作品に親しんできたという著者が、それらの作品の旧訳と村上春樹による新訳の比較や、江藤淳のアメリカ体験を綴った著作などの読み込みをとおして、現代社会における「ポップとしてのアメリカ」(論理や実感としてのアメリカでなく、直感としてのアメリカ、という意味あいで使われている)を論じた本。作品を時代ときりはなせないものとして読む著者の姿勢は、『キャッチャー・イン・ザライ』の(他人指向型人間が多数をしめる)世界は、訳出された1964年よりも、アメリカ化がいっそう進んだ高度成長期以降の日本に似ているとか、『グレート・ギャツビー』の村上訳は(作品のはらむ宗教的道徳性と消費社会との相克、という二重性がよく理解されるためには)バブル期にこそ出版されるべきだった、というような見解によく表れているように思う。
谷口ジロー『冬の動物園』(2008年4月2日発行・小学館 1000+税)は連作コミック集。初出はビッグコミックオリジナル増刊「ビッグコミック」(2005年12月号〜2007年12月号)。昭和41年、高校卒業後、京都のとある織物問屋に就職した少年が、さる事情で店に居づらくなって離職して上京し、たまたま学生時代の友人に紹介された売れっ子漫画家のアシスタントの職をえて、慣れない都会で生活するようになる。そいいうひとりの少年の青春時代が、爽やかながら抑制されたタッチで淡々と描かれている。読みおえた感じは良質の青春小説の読後感に似ている。すみこみ同然の状態で漫画家のアシスタントになって、周囲の年長の人々と肌を接するようにふれあいながら、新しい都会の生活にもすこしずつ馴染んでいく純朴な主人公のこころの動きが、1970年前後の都会のいまでは懐かしい風景にとけこんで、とてもリアルに、ある意味わがことのようにも(だれにも覚えがあるような青年前期の心の体験として)届いてくる。淡くてせつない初恋の物語のゆくえも気になって、余韻ゆたかな終わりかたも見事だ。
中野美代子『ゼノンの時計』(1990年12月20日発行・日本文芸社 2200+税)は小説集。「ゼノンの時計」(1970「北方文芸」初出)、「南半球綺想曲」(1974「文芸展望」初出)、「海燕〈かいえん〉」(1973・潮出版社刊)の三作品が収録されている。いずれも日本人が主人公で現代が舞台という小説を集めた作品集で、著者に多くある歴史を遡ったとある時代の異国(主に中国)の物語、といった作品を想像すると、ちょっと外れてしまう。もっとも文体のそこここには、著者の細部の文飾へのこだわりや、博物学者的な博覧強記ぶりが発揮されていていつもの特色といえるものになっているのだが、作品の色合いということでいうと、北海道のとある湖畔に佇む洋館を舞台にした複数のインテリ男女の織りなす心理ドラマ(「ゼノンの時計」)、久生十蘭のパロディ(種村季弘氏の評言)といわれる、古典的風味のユーモラスな冒険小説(「南半球綺想曲」)、分身(二重身)をテーマに、三億円事件や過激派セクトの活動など時事的話題も取り入れたミステリータッチの長編小説(「海燕」)と、これまたそれぞれかなり異なる読み味をもたらす趣向が存分に凝らされている。とくに面白かったのはつるっ禿げの二十日鼠が活躍する「南半球綺想曲」で、衒学趣味に満ちたなんでもありの空想物語の面白さというのを久々に味わった感じだった。
金原ひとみ『星へ落ちる』(2007年12月10日発行・集英社 1155+税)は連作長編小説。「すばる」二編、「PENZABURO」「マリ・クレール」と、それぞれ初出誌の異なる4編の作品と、書き下ろし一編からなる。語り手は小説作家の「私」(「星へ落ちる」「サンドスーム」「虫」)、「私」の恋人と暮らしている「僕」(「僕のスープ」)、「私」の以前の恋人「俺」(「左の夢」)、とかき分けられていて、新しい恋人「彼」をみつけ、それまで一緒に暮らしていた男の家をでて一人暮らしをはじめた主人公「私」と、「私」の現在の恋人と暮らしていて、「私」に恋人である「彼」を奪われた形になったゲイの「僕」、「私」の元の恋人で、「私」に突然出奔され、いつまでも「私」のことが思いきれない「俺」という、三者三様の若者たちの恋愛感情にまつわる葛藤が描かれている。誰もが自分の世界をもっていることをお互いに認め合って相手(恋人)のプライベートな世界にまで深入りしない、そういうルールをあたりまえのように(尊重しあって)生きている世代が、「嫉妬」の感情に苦しめられる。またそれぞれが仕事を持っているので、お互いに触れ合える時間はわずかなものだという現実が、ちいさな疑念を際限なく拡大して、この「嫉妬」に拍車をかけたり、自分という存在の卑小さや無力感の温床となってしまう。携帯電話でのやりとりだけが特異で万能な命綱のように危うい関係をとりもっている。そういう都会の若い生活者たちのおかれた環境や恋愛心理がよく捉えられているように思う。一人になるとついパソコンの一人遊びゲームに没頭して自分を忘れようとする、という主人公の心理もとても説得力がある。
中野美代子『契丹伝奇集』(1995年12月4日発行・中公文庫 840+税)は小説集。契丹は10世紀初頭に「遼」という帝国を建国した遊牧民族のことで、12世紀に滅亡後も名前は残り、シナ人一般をさすようになったという。本書は時代は様々ながらいずれも舞台を中国にした幻想小説集という感じだ(著者は「伝奇」という言葉を、「文学的な私小説ではない」という程の意味で使用したと「跋」に記している)。長沙国の宰相家の侍女頭の女性が綴った政治がらみの陰謀騒動を描いた「女俑」、宋代の中国と現代の日本の舞台にした窯変天目茶碗をめぐる人々の織りなす幻想的な物語「燿変」、湿地帯にあるル・ツァン国に迷い込んだ旅人の物語「青海〈クク・ノール〉」や、一頁で完結する散文詩的なショートストーリーなど、中短編あわせて16編が収録されている。全ての作品の舞台がそうだというわけではないのに、全体が茫漠とした砂漠で旅人がみる不可思議な夢のような雰囲気につつまれている。硬質の張りのある文体で情緒に流れるような心理描写が少ないせいだろうか。「青海〈クク・ノール〉」はカフカやボルヘスの邦訳書の文体そのもののパロディだと、高田宏氏が巻末に付されている書評で書かれているが、私は諸星大二郎のコミックや、昔読んだマンディアルグもちょっと思い出した。
NHK『迷宮美術館』制作チーム『迷宮美術館アートエンターティメント』(2006年3月11日発行・河出書房新社 980+税)は画家とその作品など、美術や美術史にまつわる様々な話題を紹介した本。2006年度からNHKテレビで毎週放映されているクイズ形式の美術夜話といった感じのエンターテイメント番組「迷宮美術館」の放映内容がもとになっていて、名画に秘められた謎や不思議、画家の人生に隠された真相といった番組内容のエッセンスを綺麗なカラー図版と文章で、問いと答えを示して判りやすく解説した大判の本。シリーズになっていて、これまで第四集(2007年10月刊)まで出版されているようだ。ネットでちょっと調べていて驚いたが、この番組は一本制作するのに2000万円以上かかるのだという(NHKによる制作費の公開データ)。何度かみた記憶でいうとレギュラーの俳優が画家に扮装したりする番組の芝居がかった雰囲気は、どうもいまひとつという印象だったのだが、内容の考証部分については手間暇かけて調べてあるのだろうことが推測されるような数字だ。個人的にいえば、思いつくまま挙げても、美術展(モジリアニ展)、小説(中野美代子「シャトー・ド・ポリシー」)、映画(グリーナウェイの「夜警」)と、最近見聞きした情報とリンクするところがあって楽しく読んだ。
中野美代子『眠る石』(1997年9月18日発行・ハルキ文庫 480+税)は短編小説集。93年に単行本として出版された本の文庫化。副題に「綺譚十五夜」とあり、「ロロ・ジョングラン寺院」「スクロヴィーニ礼拝堂」「楼蘭東北仏塔」「ボロブドウール円壇」「ビビ・ハヌム廟」「泉州蕃仏寺」「ウェストミンスター・アベイ」「シャトー・ド・ポリシー」など、十五編の綺譚小説が収録されている。それぞれの作品は、短編小説というより掌編とかショートショートといった短さで、それぞれ数分もあれば読み終えてしまえるほどだ。跋に「七世紀の中央アジアの砂漠から、現代のカンボジアの熱帯雨林まで旅をした。いずれも、地名への偏執の所産である。」とあり、作品タイトルにもみられるような作者の地名へのこだわりがあかされている。作品内容はそれぞれタイトルに付された実在の地名と、その土地に実在する(あるいはかって実在した)歴史的建造物(寺院、仏舎利、修道院など)にまつわる人々の織りなすドラマチックな寸劇だ。読者は、タイムマシンにでも乗った感じで、かって地球上のどこかで起きた(とされる)歴史の一場面に立ち会うことができる。そこでは登場人物は、主役というより、むしろ舞台背景によりそうシルエットのように演技をおえる。一部始終をみていた石造りの建物が、その遠い記憶の情景を思い返しているかのように。
和田慎二『傀儡師リン 1』(2006年10月15日発行・秋田書店 390+税)はコミック。「ミステリーボニータ」06年5月号〜8月号初出。浄瑠璃人形を独りで操る「独り遣い」の流派「鹿嶋操流」の家に生まれた少女鹿嶋凛が、家に伝わる3体の「木偶」を盗み、祖父や姉を殺した人形遣い浅丘雅と対決して人形バトルをくりひろげるというシリーズものコミック(雑誌連載中)で、08年3月現在、第5巻まで単行本化されている。人形師の操る人形バトルといっても動かすのに操作者が修練で得た念力をつかうといった意味では超能力もので、やがては人形が自分の意志で動きはじめるという点では、合理的な説明のつかないファンタジーものともいえそうだ。風変わりだが敵味方という判りやすい設定のなかで、回を追う事に新手の人形や脇役が登場して「お定まり」的に人形バトルの活劇が進行していく。いったん世界にはいりこむと、その「お定まり」的な様式が次に何がでてくるか、という感じで楽しい。どこか素朴で壺をおさえた展開は、子供の頃に読んだコミックの記憶のように、無心で楽しめる、という感じがする。逆に現代的だなと感じたのは、いじめ(一見普通の高校がいじめの巣のように描かれている)に負けない強い女の子、という主人公の造形(第4巻・第14巻)と、人形(人)の個性に欠点があってもそれは本来のもので修正すべきではないといったメッセージ(第3巻・第9話))で、今時の若い読者はこういうところにも共感するのではないかな、と思えたのだった。
バラエティ・アートワークス『カラマーゾフの兄弟』(2007年4月30日発行・イースト・プレス 876+税)はコミック。「漫画で読破」という文庫サイズのコミックシリーズの一冊。帯の広告によると、このシリーズの既刊本は、『人間失格』『こころ』『罪と罰』『蟹工船』『羅生門』『戦争と平和』『銀河鉄道の夜』『斜陽』、と、あり、豊富な品揃えで文藝作品の漫画化を企画しているようで興味深い。作画者の名前がバラエティ・アートワークスという会社の名前になっているのも、ちょっと目をひくところで、特定の漫画家が自分の好きな小説を翻案した、というのとは趣が違っている。そういう意味では作画家の絵柄や個性をみてとる楽しみは始めからそがれているが、ともあれ有名な文藝作品をマンガで手軽によんでみようというコンセプトは、いかにも今風といえるのかもしれない。本書をみたかぎりでは、青年漫画誌にありそうな劇画タッチの絵柄は、登場人物の類型化に忠実で、それなりにみやすい記号性をそなえている。このシリーズにもあるドストエフスキーの『罪と罰』は、手塚治虫や大島弓子によって漫画化されたものを読んだことがあるが、長編大作『カラマーゾフの兄弟』の漫画化というのは始めてのことだと思う。
上野たま子『雑誌記者 向田邦子』(2007年10月30日発行・扶桑社 1500+税)はエッセイ集。『向田邦子と黒い帽子----向田邦子の青春・銀座・映画・恋』(1999年KSS出版/絶版)を加筆・修正し改題したという本。脚本家・作家だった向田邦子(1929~1988)の20代から30代にかけて、映画雑誌『映画ストーリー』の編集者時代に同僚だった著者が、職場を共にした9年間の若き日をふりかえり故人の思い出を綴った本。「同僚というだけでなく、親友というえる間柄だった。」と著者は書いているのが、読んでいて、なるほど、と、うなずけるような、親密なエピソードが満載されている。そもそも映画雑誌社(雄鶏社)の編集者として毎日のように二人で行動(仕事ながら映画をみて、食事をして、、)を共にする、という生活ぶりだったようなのだった。読み物として面白かったのは、著者の向田さんの挙動をとらえる観察眼が時にはやや辛辣に感じられるくらい冷静なこと。二人の間には大人の距離のようなものがあって、けして故人の才能やひととなりの単純な礼賛にとどまっていない。そのことで、良くも悪くもひとつの個性としての人物像が浮き彫りにされてくる。著者は映画評論家で、放送台本もてがけ、俳句誌も主宰されている、と略歴欄にあって、これもなるほどなあ、と腑に落ちることではあった。
遠藤誉『中国動漫新人類』(2008年2月12日発行・日経BP社 1700+税)は現代中国の若者像を探求した本。『日経ビジネスオンライン』連載中の「中国動漫新人類」(2007年9月12日〜)を加筆したもの、と巻末にある。「動漫」とは中国語で、漫画やアニメの総称という。中国では1981年に手塚治虫原作のアニメ「鉄腕アトム」が放映されて以来、日本動漫の大ブームが続いていて、その影響を受けて育った80年以降に生まれた世代(中国では「80后」と呼ばれるという)の感覚が、それまでの世代とはっきりと違ってきているという。「日本動漫」はいかに中国に移入され、短時日の間に一般大衆に浸透していったのか。その背景にはどんな事情があったのか。また一方でこの「新人類」世代は、愛国主義教育によって、日本動漫に傾倒する一方、はげしい反日感情を受け継いでいる。彼らのこの「心のダブルスタンダード」をどう理解すればいいのだろうか。著者の探求はこうした様々な疑問にそれぞれ解答をみいだしていて、興味深く読んだ。現筑波大学名誉教授の著者は、中国関連の著書多数があり、大学でこれまで万単位の中国人留学生の世話もしてきたという中国通のひと。中国での最近の日本製アニメや漫画ブームの詳細を伝える、というやや時事的なテーマにとどまらず、中国政府の方針やネット社会化、華僑の新世代などにも関連させて「反日意識」の問題を探求した本書は、優れた現代中国論になっているように思う。。
谷口ジロー『シートン 第四章『タラク山の熊王』』(2008年2月12日発行・日経BP社 1700+税)はコミック。単行本化されている『シートン 旅するナチュラリスト』シリーズの4巻目にあたる。初出は『Web漫画アクション』(2006年10月17日配信〜2007年12月4日配信)。漫画でも単行本で420頁をこえるとなるとずしりと重い。「カリフォルニア最大のグリズリー、ジャックの生涯」と帯にあるとおり、全編に19世紀のおわりに実在した一頭のグリズリー(ハイイログマ)の生涯が描かれている。このジャックと呼ばれたハイイログマは、体長7フィート4インチ(死亡時)というから、2,2メートルを越える巨体で、広大なテリトリーを時には一日に数百キロも移動して放牧されている牛を襲ってまわった。物語は小熊の頃にこのジャックを飼っていたことのあるハンターが、数奇な運命で後年彼を追い続ける立場になるという因縁話でもあるのだが、絵柄の美しさやストーリーの起伏で読み始めると時間のたつのを忘れて一気読みしてしまった。このハイイログマはさしずめ海の鯨のように、大型哺乳動物としてまさに生態系の頂点にたつ地上の王者だったという感じだが、やはり天敵は奸智にたけた人間。現在ではカリフォルニア州のハイイログマは絶滅してしまい、アメリカでは北西部にわずかに生息するだけといわれる。
林信之『アップルの法則』(2008年3月15日発行・青春新書 730+税)は米国アップル社( Apple Inc.)の歴史を、おりおりの主力製品の開発経緯などもふくめてコンパクトに解説した本。スティーブ・ジョブズ(1955~)、スティーブ・ウォズニアック(1950~)といったパソコンマニアの若者たち(当時)が1977年に創業したアップル社(当初はApple Computer, Inc)は、アップル2という元祖パソコンの製造販売で人気を博し、その成功を受けてパソコン市場に参入してきた巨大企業IBMにシェアを奪われながらも、1984年マッキントッシュ(マック)の投入で再度失地挽回をはかる。このマックのシリーズは創業者のひとりジョブズが会社を去ったあとで大ヒット商品になるが、アップル社自体は他社との厳しいシェア争いの結果、しだいに経営が傾き、90年代半ばには身売り寸前の状態に陥いっていたという。しかし、ネクスト社の買収、ジョブズの復帰などによって、経営戦略を転換し、iMac(1998)、iPod(2002)などの製品化によって、奇跡ともいわれる成長をとげて今に至る。。。というような一企業の波乱の歴史を辿りつつ、アップル社製品の特徴や販売戦略まで含めて紹介することで、あとがきの言葉によれば「アップル流モノづくりのすごさ」が浮かび上がってくる内容になっている。私事だが私も94年のPerforma 630以来のマックユーザーなので、おりおりのマックライフにまつわる出来事をなつかしく思い出しながら読んだ。ただしiPodの成功以降の近年の動向については新知識ばかりで、いつのまにやらデジタル音楽業界を席巻して、いまやアップルが資産価値でIBMを追い抜いたときいても、なんだかぴんとこない。
レイ・ブラッドベリ『さよなら僕の夏』(2007年10月10日発行・晶文社 1600+税)は小説。著者には1957年に刊行された『たんぽぽのお酒』という小説があるが、本書は、もともとその作品と一体になっていたもので、当時その前半部分だけが『たんぽぽのお酒』として出版されたのだということが、著者の「あとがき」で明かされている。つまり本書は『たんぽぽのお酒』の第二部ということになり、主人公も同じく14歳になったダグラス・スポーディング少年だ。あとがきには、最初の執筆時から本書刊行まで55年とあるが、その間、作品はただ寝かされていたわけではなく、「私が世に出しても妥当だと思うまで発展するのにこれだけの年月がかかることになった。」「私はテクストに豊かさを加えるために、小説のここの部分がさらなる着想とさらなる隠喩を惹きつけるのを待ったのだった。」と書かれているのは、人気作家になった著者がその気になればいつでも本書を『たんぽぽのお酒』第二部として出版できただろうことを想像すると、深い愛着をもちながら本作品に手を入れ続けたという、作家としての本音を率直に語っているのだと思う。それにしても、本書刊行時に、著者は86歳になっていたのだったとは!。『たんぽぽのお酒』で描かれた少年期のまばゆい夏の思い出から、一年後の晩夏。永遠に続くかのように思えた黄金時代にもいつか終わりが来る。ダグラス少年の場合、そんな秋の訪れのような心の変化は、どんなきっかけと様相で訪れたのだろうか。。。
東海林さだお『もっとコロッケな日本語を』(2003年6月15日発行・日本経済新聞社 2200+税)はエッセイ集。「オール讀物」に2001年から2003年3月号にかけて連載された「男の分別学」を改題したもので、ゲストで登場した回の高橋春男、阿川佐和子氏との対談も収録されている。本書のタイトルは、著者の「お肉屋さんのコロッケみたいな文章を書きたいと思ったことはあるね。」という高橋春男氏との対談での発言(トンカツみたいな文章でなく、という意)からとられているようだ。やや古い本だが、図書館からこの本を借り出したのは、最近、鹿島茂「ドーダの近代史」(2007年6月7日発行 朝日新聞社出版局)という本を読んだからだった。その本では西郷隆盛や中江兆民の行動原理を「ドーダ」(自己愛に源を発する全ての表現行為で、外ドーダ、内ドーダ、陽ドーダ、陰ドーダなどに分類される)という心理類型から、読み解くというもので、そこでこの大きな風呂敷のような「ドーダ」という概念が、本書に収録されている東海林さだお氏のエッセイから借りられていることが明かされていたからだった。ドーダというのは要するに人が自分の知識や体験を誇示したり自慢する行為全般をさしていて、本書冒頭の三編のエッセイではいくつものおかしげな例(ブランド品自慢や学歴自慢など)をあげて、そうした類例を考察する「ドーダ学」なるものがユーモラスに提唱されている。水商売といわれる店で話される会話の8割は自慢話で、水商売の度合いが高くなるほど、この比率(ドーダ度)もあがる、というのは妙に説得力があるところ。東海林氏の「ドーダ」の類例には、自慢になっていない自慢(有名人と同じ出身地だとか)というのもあって、エスプリのきいた人間観察がたのしいのだが、これを応用して歴史的人物の行動の謎をとく、という本が書かれるとは、驚きの「ドーダ」なのだった。。。
今市子『岸辺の唄』(2002年5月29日発行・集英社 686+税)はコミック。「コミックアイズ」に掲載された二作「岸辺の唄」「予言」に、書き下ろし「氷の爪石の瞳」を加えた三作品が収録されている。魔物や鬼人(きじん)とよばれる一族が人間と共存している古代中国的なファンタジー世界を舞台にした連作コミック集。干ばつに襲われた村から、翠湖(すいこ)という湖に住むという水の神「河伯(かはく)」のもとに、人身御供として水乞いの旅をすることになったスリジャという少女と、彼女をかばう鬼人エンという青年の出会いと旅が描かれた「岸辺の唄」からシリーズははじまる。続く「予言」、「氷の爪石の瞳」では、エンに加えジンフアという少年剣士が登場して、二人の冒険が描かれているが、背景となっているのは同じ世界で、いずれも前作の後日談というふうな緩やかな繋がりのなかで、それぞれいりくんだ一話完結のストーリーが展開していく。著者はあとがきで、お城と王様、お姫様や王子様の登場する、なんでもありの「インチキファンタジー」が大好きで、それを描いてみたという意味のことを書いているが、「百鬼夜行抄」の作者にかかると、中世風ファンタジーもこんなふうになるのか、と思わせられる個性的な世界にしあがっている。なお、この西域シリーズは、単行本としては、いまのところ続編として、「雲を殺した男」(2005年3月発行 集英社)、「盗賊の水さし」(2007年4月発行 集英社 未読)が刊行されているようだ。
粕谷一希『作家が死ぬと時代が変わる』(2006年7月20日発行・日本経済新聞社 2200+税)は語りおろしの自伝。1967年から「中央公論」をふりだしに、「歴史と人物」「経営問題」の編集長を歴任し、「東京人」編集長を経て、現在(2006年)海外向け月刊誌「ジャパンジャーナル」編集長という経歴で、評論家としても著書多数のある著者が、水木楊氏、k氏を聞き手につごう3回のべ15時間ほどかけて語りおろしたテープに手をいれてなったという本。府立五中三年生で終戦を迎えたという話からはじまる本書は、出版社に就職、「中央公論」編集長に就任、と、ほぼ著者の編集者人生の歩みそのままに語られていくが、その内容の大半では、折々に関わりのあった様々な作家や学者との交流エピソードが綴られていて、戦後文壇・論壇史的な記述にもことかかない。戦後の文壇史的な記述の読める本は多いけれど、「中央公論」を中心にした論壇的なジャーナリズムの歴史というものが舞台裏をふくめて書かれているのは貴重だと思う。作家がデビューするように、学者もまたデビューして一種の論調の流行現象をつくり、時とともに世代交代していく。そんな論壇ジャーナリズムの潮流が学生や一般の知識人層に大きな影響を与えていた時代というものがあった。タイトルは三島由紀夫の死ののちに、文壇で「それまで黙っていた人が発言しはじめた」ことを指していて、かって嶋中鵬二氏が著者に語った言葉だという。そのあたりから「シラケ」が時代のキーワードになった、と書かれている。「七〇年代からバブル崩壊後までの日本というのは、腐敗と崩壊のプロセスを辿った。一方で成熟した文学なり学問が生まれた時代であった。成熟と、腐敗と崩壊が同時的に進行していったのだ。」と著者は書いている。
富安陽子『さいでっか見聞録』(2007年5月発行・偕成社 1200+税)はエッセイ集。雑誌「クーヨン」に2004年4月号から2006年1月号にかけて連載された同名エッセイ21編に書き下ろし5編が収録されている。子供時代の思い出や、育児のこと、ペットの話題など、童話作家歴25年という著者の生活日誌という感じのエッセイがならんでいる。「もの忘れの頃」では、著者が若い頃からいかに物忘れがひどかったか、人の名前が覚えられないか、ということが面白可笑しく書かれているのだが、他の多くのエッセイで、子供時代の出来事や親族のエピソードが生き生きと描かれているのを読むと、もの忘れがひどい、ということと、こういう長期型の記憶は性質がちがうものなのだなあと、あらためて再認されるところがある。図書館の新刊の棚から帯の「爆笑エッセイ」という言葉にひかれて借り出した本だったのだが、「爆笑」というより、微苦笑を誘うような、さくさくよめてほのぼのとした印象をのこす本だった。
吉田秀和『永遠の故郷 夜』(2008年2月10日発行・集英社 1600+税)は音楽(歌曲)エッセイ集。「すばる」に連載中の同名エッセイシリーズから、2006年7月号から2007年6月号までと、同年11月号、2008年1月号に掲載された分、全12編が収録されている。あとがきによると、この連載エッセイは、「薄明」「昼」「黄昏」と続く全四巻の構想で書きつがれているという。「もともと、この連載は肩に力を入れないでぶらぶら歩きをしているうちに、目に映り、記憶の底から浮かび上ってきた歌があったら、それを拾いあげてもう一度噛みしめ、味わってみたいと考えてやり出したのだった。」(「二つの愛」より)とあるように、いずれのエッセイでも歌曲がとりあげられ、ときにその曲にまつわる著者の思い出が味わい深く語られ、原詩と著者訳が示され、楽譜の一部を提示して曲のこまやかな印象や音楽的な特徴の解説が付されている。この巻でとりあげられているのは、フォーレ、シュトラウス、レハール、ヴォルフ、ブラームスなどの歌曲だが、なかでは、ヴォルフの曲、それも《メーリケ歌曲集》からのものが多い。「、、、それに私に言わせれば、とりわけて愛の詩と歌の領域で、その甘美と辛酸の両面に跨り、かって誰も踏みこんだことのないものの消息を伝える歌が、ヴォルフには数多くある。もちろん、ハイネ=シューマンの歌にも愛の機微にふれた至妙のものがある。だが、彼らのは主として「心の歌」「心理の微妙の歌」だ。ところが、メーリケ=ヴォルフのは肉と心の愛の呻きだったり叫びだったり、声にならない声だったりするのである。」(「二つの愛」より)。こういう個所を読むと、これは聞いてみたいなあ、という気にさせられてしまうのだった。
中野翠『本日、東京ロマンチカ』(2007年12月25日発行・毎日新聞社 1238+税)はコラム集。2006年12月から2007年11月まで、サンデー毎日に一年間連載されたコラムと、2007年に「家庭画報」に連載された「本のよろこび」という読書コラム5編が収録されている。あとがきによると、毎年一年分の週刊誌連載コラムを単行本にしてもらっている、ということで、本書もそのシリーズの一冊ということになる。偶然図書館の新刊書コーナーから借りだした本で、この一年間の出来事を時間をおって、リアルタイムの著者の感想つきでふりかえることができたのが、なかなか楽しい読書体験だった。本や映画の感想(2006年の収穫のトップにイーストウッドの硫黄島二部作があげられている)、政治や社会面のニュース報道から、スポーツ・芸能関係のゴシップ的話題、著名人の訃報に至るまで、もりこまれている話題は多岐に渡るが、芸能関連の話題の多くは始めて知る事が多かった(読んでもすぐに忘れていくが。。)ばらばら事件など犯罪手口の過激化や、幾多の企業の偽装工作の露見といった世相は、そのまま今につづいている感じだ。ところで、この人にして、「パソコンもケータイももっていない」(したがってネット関連の話題はほとんどでてこない)、というのには、ちょっと考えさせられた。つまり、著者の情報ソースは、パソコンや携帯電話が普及する以前のライフスタイルから得られるものに限られているのだ。それでいっこうにさしさわりがないというか、むしろさしさわりのエピソードが共感や親しみを感じさせる、というところがあって、それはそのまま今の情報の流れのありようの一面をよく象徴しているようなことなのだと思う。
中野京子『恐い絵』(2007年7月25日発行・朝日出版社 1800+税)は美術エッセイ。16世紀から20世紀に描かれた西欧絵画のなかから、「恐い絵」をよりすぐって、解説をほどこしたという本。収録されている画家と作品は、ドガ『エトワール、または舞台の踊り子』、ティントレット『受胎告知』、ムンク『思春期』、クノップフ『見捨てられた街』、ブロンツィーノ『愛の寓意』、ブリューゲル『絞首台の上のかささぎ』、ルドン『キュクロプス』、ボッティチェリ『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』、ゴヤ『我が子を喰らうサトゥルヌス』などなど、全20作品。絵画から感じる恐怖にもいろいろな種類がある。残虐だったり悲惨だったりする場面がリアルに描かれていることからくる直接的な「恐怖」の感情。あるいは、その場面を描いている画家の視線に込められた冷徹さや悪意のようなものが伝わってきて、人の暗い内面をみせられた時に似た「怖さ」をもたらすような絵画。また、これは絵画特有かもしれないが、「画面には何ら恐怖を感じさせるものは見あたらないし、描き手もそんなことは目指していないにもかかわらず----実は慄然とする秘密がかくされている」(まえがき)といった作品。本書には、こうした様々な種類の恐怖をもたらすような絵画がバラエティに富んで収録されている。作品が描かれた時代背景を知ることで「怖さ」もまた発見されたり発明されたりするのかもしれない。文字で絵画を描写する文章で正確な印象を与えるように思えるようなものはめったにないが、本書の描写には、かなりひきこまれるところがあった。それぞれの章は挿画入りなので、比較しながら味読することもできるのだった。
波津彬子『雨柳堂夢咄(其ノ十二)』(2008年1月30日発行・朝日新聞社 870+税)はコミック。2005年から2007年にかけて「眠れぬ夜の奇妙な話」に掲載された9編の短編作品が収録されている。単行本化は前巻以来二年ぶりで、あとがきの「雨柳堂裏話」によると、現在雑誌掲載は休載しており、再開は未定という。つまり本書がシリーズ最終巻となる可能性が示唆されている。とはいえ、はっきりした最終回が描かれているわけでなく、むしろ最終回というものがなければ、雨柳堂はずっと営業を続けていることにになるのではないか、「そんな浮遊感を私自身、楽しんでいたりします。」とあるのが、なんとも納得できるような気もする。本書では、最終回が描かれていない、というばかりではなく、シリーズを通じて登場してきた副主人公たち(贋作師の篁氏や柚月さん)も登場せず、ひたすら骨董屋雨柳堂店主の孫息子の蓮青年が遭遇する、骨董を巡る数奇な因縁話の数々が収録されている、という趣向になっている。これは、長期連載の予定がたたないので、副ストーリーのような幅をもった話の筋を展開できない、という事情もあったのかもしれないが、逆に一話一話で完結する物語としての完成度(本筋)に的をしぼった結果になっていて、内容的にもとても読み応えがあるものになっている、という感触だった。それにしても、この作家は人生の「不幸」というものを、物語の道具だてにするのが上手で特徴的だなあ、と。。。
山田風太郎『昭和前期の青春』(2007年10月25日発行・筑摩書房 1800+税)はエッセイ集。幼年期から少年時代のエピソードや郷里についてのエッセイを収録した第一部「私はこうして生まれた」、第二次世界大戦についてのエッセイを収録した第二部「太平洋戦争私観」、「ドキュメント・一九四五年五月」と、著者自筆の略年譜を収録した第三部「ドキュメント」からなる。著者には戦中期の日記を収録した『戦中派不戦日記』『戦中派虫けら日記』という著書があるが、本書は単行本未収録「戦争もの」エッセイの集成。大正十一年に兵庫県で生まれた著者は、五歳のときに医者だった父を、十三歳のときに母を失っている。故郷の旧制中学を寄宿舎で過ごし、家出同然に上京後軍需工場で働いていて、昭和十九年のはじめ、肋膜炎の診断を受け三月には召集されるが即日帰郷となり、その直後に合格した医科大学の生徒として昭和二十年の終戦をむかえている。「特に私など戦争時代にはまったく不向きで役立たずの人間で、あの時代二十歳前後の「死にどき」の世代でありながら、戦争にさえゆかなかった。それは医学生であったためではなく、召集は受けたのだが、病身のため帰されたのである。「不戦日記」の不戦は、誇り高い反戦の意味ではなく劣等児のはじらいをこめた不戦なのである。思えば戦争中は地獄であった。」「それにくらべれは今はまさしく鼓腹撃壌の天国である。」と書く著者は、同時に(自分の思惟の低音部では)単純な軍備否定論者とはいえない、と書いているのが興味深い。若年期に遭遇した多くの体験を「運命」のように受け取らざるをえない場所で思いを巡らせてきた、一人のひとが、ここにいる、という感じがするのだった。
三田完『俳風三麗花』(2007年4月25日発行・文藝春秋 2190+税)は小説。2005年から2006年にかけて「オール讀物」に掲載された「とら、とら、とら(俳風三麗花改題)」、「おんな天一坊」、「冬薔薇」に加え、書き下ろしの「艶書合」、「春の水」の全五編の連作小説が収録されている。時代背景は昭和七年七月から昭和九年の春にかけて。日暮里渡辺町(現JR日暮里駅南西の一帯という)にある暮愁庵で、暮愁こと秋野林一郎が主宰して毎月一度行われる句会には、暮愁の句仲間だった亡父の遺志をついで会に通うようになった阿藤ちゑ、女子医学専門学校の学生である池内壽子、芸者をしている金田テル(松太郎)という三人の二十歳そこそこの女性たちが参加していた。小説は彼女たちそれぞれの目線から、彼女たちと句会にまつわる日々の出来事の起伏をおっていく。「本邦初の句会小説!?」と帯にあるように、作品のそれぞれには、暮愁庵で催される句会の様子が、参加者それぞれの作品をふくめ、ことこまかに描写されているのが、この連作小説のひとつの楽しい特色になっている。タイプも生活環境も異なる三人の女性たち、それぞれにまつわる恋愛模様や、昭和初年の時事風俗の描写もおりこまれていて、雰囲気をもりたてている。句会の場面は、最近ではテレビでも実況したりしていて、その雰囲気がわかるようになっている。そういうのを漫然とみているだけの感触からいって、ほとんど違和感がない、という感じがした。ところで句自体の内容に昭和初年と今という時代との差はどこにあるのか、とは、ちょっと思ったことで、俳句好きなひとは、いろいろな角度から楽しめると思う。
渡部周子『〈少女〉像の誕生』(2007年12月25日発行・新泉社 3500+税)は女性史研究の論考。本書は著者(千葉大学大学院研究員)の学位論文「日本近代期における規範としての「少女」像の形成」の単行本化であることが、「おわりに」に記されている。「少女」像とは、「近代国家の産物」であり、「近代以前にはそれは存在しなかった。」(若桑みどり「解説」より)。現代あたりまえのように使われているイメージの起源をたどると、日本では近代(明治時代)以降に生まれた、というものが多い。本書で対象とされているのは「少女」というイメージだ。著者は、明治期に学校制度が確立し就学期間が相対的に長くなった結果生じた、「生殖可能な身体を持ちつつも結婚まで猶予された期間」を「少女期」ととらえる。近代国家では、国民としての女性に良妻賢母的役割が求められ、この役割を内面化するために、少女期特有の規範(著者は「純潔」、「愛情」、「美」をあげている)が与えられる。本書は二部にわかれ、第一部では、これらの規範がどのような必要によってうまれ、どんな形で与えられたのかを、ジェンダーの固定化という視点から、当時の女子教育論や教科書、少女雑誌などの分析を通じて考察し、第二部では、文学や美術における「花と女性」という表象に焦点をあてて考察されている。明治期に最初に開設された幼稚園で始まったという「園芸教育」について触れられている個所(第一部第五章)が新鮮で(近世では園芸は女性の趣味と考えられていなかったという)、また第二部の「白百合」という表象についての多面的な分析を興味深く読んだ。
三浦展『下流社会 第2章』(2007年9月20日発行・光文社新書 720+税)は現代社会論。ベストセラーになった『下流社会』(2005)の続編。前著で著者の提示した社会の階層分化という仮説を、「全国男性1万人を対象にした大規模アンケート調査」及び「28歳から32歳の女性に対する調査」を実施して得られた二つのデータの分析をつうじて検証する、というのが本書の骨子になっている。「男女ともに、調査結果から見える現実は単純ではない。下流だから不幸というわけでもないし、非正社員だから希望がないわけでもない。正社員より希望を持っていたりする。むしろ正社員のほうが幸福ではないように見えるし、希望もあまり持っていないように見える。このへんが単なる階級社会、下層社会ではない、下流社会の特質だ。」(「はじめに」より)。本書は図表満載で、アンケートの内容も詳細なので、結局大きな流れでなにをとらえるか、ということがやや把握しにくくなっているところがあるように思える。安定した収入と、制約をはかりにかけてその比重が性差や世代によってかわっていくが、全般には「正社員であることの価値が相当低下している」らしい。制約を軽減するような新しい柔軟で弾力的な正社員像(制度)が必要なのではないか、と著者は書いている。
里中満智子『オリュンポスの神々』(2003年11月15日発行・中公文庫 590+税)はコミック。「マンガ ギリシャ神話」シリーズ全八巻の第一巻で、神々の誕生から、プロメテウス、パンドラ、洪水神話など、7章にわたってエピソードが収録されている。ここで紹介したいのは、本書も含めた、このシリーズ全体(文庫版は2004年6月に完結出版されている)だ。それぞれの巻のタイトルをあげると、「オリュンポスの神々」「アポロンの哀しみ」「冥界のオルフェウス」「悲劇の王オウディプス」「英雄ヘラクレス」「激情の女王メディア」「トロイの木馬」「オデュセウスの航海」。全体を通してギリシャ神話の代表的な物語がわかりやすく網羅的に漫画化されている。ギリシャ神話のエピソードの多くは、印象的な神々や英雄たちの名前とともに、誰でも見たり聞いたりした覚えがあって、なんとなくわかったつもりでいることが多いと思う。しかしその多くはエピソードの性格上、断片的知識にとどまりがちだ。それがまとめて読めることで、様々な役割を分担する神々と人間たちが共存する独特の神話空間のひろがり、という大きな視野の中でみわたせるところまで、イメージをひきだしてくれる。これは著者の工夫もさりながら、神話をあるいみ記号的に絵解きしたコミックというメディアの賜物かもしれない。星座や花の名前からはじまって、美術・音楽・文芸・演劇・映画のテーマとして、また、心理学用語から地名・人名・商品名に至るまで、ギリシャ神話世界の痕跡は、現代文化のいたるところにちりばめられている。こういうシリーズ漫画を幼少期や青春前期に読んでいたら、きっと多くのことへの関心が増したに違いないと思う。
大江健三郎『作家自身を語る』(2007年5月30日発行・新潮社 1800+税)はインタヴュー集。CS放送で07年元旦から5夜連続で計5時間に渡って放映されたというインタヴュー番組の、番組未収録分を含めた録音内容に、2005年に「新潮」に掲載されたロングインタヴューも加え、全体を6章に再構成してなった本という。「自作小説の連続講義のようなインタヴュー」を、というのが番組制作時の企画だったということで、本書でも具体的な作品に即して、作品本文を引用しての質問に大江氏が回答するという形になっている。とりあげられているかなりの量の作品をつぶさに読んでいるわけではないのだが、それでも、忘れかけていた小説の内容を思い返したりしながら、執筆当時の事情や背景も含めた自作解説を興味深く読んだ。こういうロングインタヴューでは、作品解説という本題からややそれるようなこぼれ話がきけるのも面白い。「私の日本文の書き方がはっきり古いものとなる、新しい大きな波が押し寄せた年が、『懐かしい年への手紙』の出版された年(1987年)だったとしみじみ思います。」(第5章)。この年、『ノルウェイの森』や『キッチン』がうまれ、翌年1月に昭和が終わっている。当時の若い世代の作家にとっての外国文学の受けとめ方の変化が語られている個所だが、著者は「その(村上作品の)新しいめざましさは、私など達成することのできなかったものですね。」と率直に回顧している。あれから今年で20年になるのだった。