memo36
言葉の部屋へ 書名indexへ 著者名indexへ

走り書き「新刊」読書メモ(36)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(07.3.10~07.6.16)

 田中未知『寺山修司と生きて』 羽入辰郎『マックスウェーバーの犯罪』 アーザル・ナフィーレー『テヘランでロリータを読む』
 五木寛之『林住期』 小川洋子『海』 中沢新一『ミクロコスモス 1』
 日高敏隆『セミたちと温暖化』 北川登園『職業、寺山修司』 安岡章太郎『カーライルの家』
 川原由美子『観用少女 明珠』 近森高明『ベンヤミンの迷宮都市』 川本三郎『言葉のなかに風景が立ち上がる』
 養老孟司『小説を読みながら考えた』 新潮社編『人生の鍛錬 小林秀雄の言葉』 小峯和明『中世日本の予言書』
 佐藤優+魚住昭『ナショナリズムという迷宮』 諸星大二郎『私家版魚類図鑑』 アーサー・C・クラーク+スティーヴン・バクスター『時の眼』
 平野啓一郎『『あなたが、いなかった、あなたが』 東浩紀『『ゲーム的リアリズムの誕生』 絲山秋子『『エスケイプ/アブセント』
 今市子『『百鬼夜行抄(15)』 レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』 本城直季『スモールプラネット』
 小川洋子・阿部恒治・菅原邦雄・宇野勝博『博士がくれた贈り物』 米原万里『他諺の空似 ことわざ人類学』 吉本隆明『思想のアンソロジー』
 出口裕弘『坂口安吾 百歳の異端児』 吾妻ひでお『逃亡日記』 高橋源一郎『ニッポンの小説』


田中未知『寺山修司と生きて』(2007年5月4日発行・新書館 1900+税)は寺山修司についての追想録。著者は劇団「天井桟敷」の創設期からのメンバーで、秘書兼マネージャーとして、寺山の晩年まで16年間寺山の仕事を公私にわたって支え続けた人。本書は没後20数年の沈黙を破って書かれた、という本で、寺山の作品や劇団の活動について、寺山の母堂のこと、病没する前後ことなどについて詳細にふれられている。本書の執筆の理由のひとつとして、「寺山に関する多くの印刷物を目にしていると、まったく根も葉もないでっちあげや、名誉を傷つけるような中傷は黙って見逃しておくわけにはいかない、これだけは書いておかねばならないという衝動」(あとがき)にかられた、ということがあげられていて、文中にもそうした評言に対してのてきびしい批判がいくつも記されている。そういう個所を読んでいると、実際はこうだったのか、という驚きがあり、私的な体験に基づくとされるような文章の理解はつくづく難しいものだと思わされたことだった。ともあれ、本書は寺山をもっとも身近に知っていた人の回想録ということで、評伝的な意味でも現在のところ決定版といえそうな一冊だという感じがした。寺山を徹底して擁護しながら、その性格を推察する著者の個性もきわだっている。



羽入辰郎『マックスウェーバーの犯罪』(2002年9月30日発行・ミネルヴァ書房 1500+税)は論集。さいしょに、本書は著者の博士論文「マックス・ヴェーバーの『魔術』からの解放-『倫理』論文における資料操作について-」(原文は独文)を、原著者が翻訳、改訂・増補したものであることが記されている。マックス・ヴェーバーの「数ある作品のうちでも最も有名な」論文『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、厳密に解読することを試み、その論文が、なぜ「解読不能」であるのか、その理由をもあきらかにすることを試みる、という刺激的な「序文」のでだしからはじまるこの一冊は、一貫してウェーバーの学者としての知的誠実さを問う、という問題意識に貫かれている。内容は当然ながら専門的な学術論文ではあるのだが、原資料にあたってヴェーバーの「資料操作」の跡をかみくだいて指摘していくプロセスは、推理小説の謎解きのくだりを読むようで、おおいに知的興奮をさそわれるところがある。養老孟司氏の著書で「こんな面白い学術書をこれまで読んだことがない」という紹介をみて、ネットの古書店でもとめて興味深く読んだ。



アーザル・ナフィーレー『テヘランでロリータを読む』(2006年9月20日発行・白水社 2200+税)は文学的回想録。「回想録、文学批評、社会史といった分類を超えた本だが、、、(そのいずれにおいても)卓越している。、」(『パブリッシャー・ウィークリー』)という評がそのまましっくりくるという読後感だった。著者は1950年ごろテヘランの「知的名門」の家(父は元テヘラン市長、母はイラン初の女性国会議員のひとり)に生まれ、13歳で海外留学して米国で博士号を取得し、79年(イスラム革命の直前)に帰国する(翌年イランイラク戦争が勃発)。その後97年にアメリカに渡るまでの18年間、テヘラン大学や自由イスラーム大学などで英文学の教鞭をとるが、本書では、この18年間の回想が、当時のイラン社会のリアルな社会状況の描写をまじえて綴られている。イスラム革命後のきびしい監視社会化の風潮のなかで、95年にテヘラン大学を辞職した著者は、自ら選別した女子学生7人を自宅に集めて週に一度の秘密の読書会をひらき、ナボコフ、フローベル、ジェイムズ、オースティンなどの小説作品をとりあげる。本書のタイトルはそこからとられているのだが、読書会に参加した女子生徒たちの生き生きとした反応が、自らの生に照らして文学作品を読むことの意味をあらためて考えさせてくれる。自由だった社会が神権政治による全体主義国家に急激に傾斜していく。そのときどんなことが起きたのか。これがほぼ現代(同時代)の貴重な証言であるという意味も大きい。



五木寛之『林住期』(2007年2月22日発行・幻冬社 1400+税)はエッセイ集。2006年から2007年にかけて新聞や雑誌に掲載されたエッセイやコラムに書き下ろし分を加えて、集成された本、ということが記載からわかるけれど、全体がひとつの長編エッセイといってもいいほどテーマが一貫している。「林住期」というのは人生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の4つの時期に区分する古代インドの考え方からとられているが、現代にあてはめると、50歳から75歳の時期に相当するのではないか、と著者はいう。この時期を人生の黄金期ととらえて、自分を見つめ直し、新たな跳躍の時期にしよう、というのが本書の流れる著者の考え方だ。本書にも指摘があるとおり、日本では来年退職の時期をむかえる団塊の世代がそのなかに含まれる。そういう意味では、そうした世代を意識した応援の書、という感じもしないではない。人生の前半は「林住期」のための助走にすぎない、という考え方は、つきつめるととても革新的なところがあるが、耳にここちよいだけのキャッチフレーズに終わらせないためには個々の地味な努力が必要ということは、著者も強調しているところだ。



小川洋子『海』(2006年10月30日発行・新潮社 1300+税)は短編小説集。2001年から2006年にかけて諸雑誌に掲載された7編の作品が収録されている。物語の舞台はさまざまで、その自在な彩りが未知の世界にわけいっていく楽しみを与えてくれるのだけれど、主人公がなにかのきっかけで人と出逢い、その人の心の奥行きの一端にふれる、という場面に、作品がいつのまにか自然にたどりついていく、そんなふうに多くの作品がつくられている、といえるだろうか。恋人の実家の人々(「海」)、海外への観光ツアーで同室になった老婦人(「風薫るウィーンの旅六日間」)、和文タイプ会社の活字の管理人(「バタフライ和文タイプ事務所」)、列車で隣席になった老婦人(「銀色のかぎ針」)、口のきけない六歳の娘(「ひよこトラック」)、観光ツアーに参加した老人(「ガイド」)。世代も性別も経験も越えて、ひっそりと暮らしている他者の心の奥行きをかいまみること、心がふれあうことの豊かさを、しずかに綴った清涼感のある作品集。



中沢新一『ミクロコスモス 1』(2007年4月8日発行・四季社 1200+税)は短文集。2001年から2006年にかけて諸雑誌に掲載された「比較的に短い文章」が冒頭の書き下ろしの「夜の序曲」をふくめ11編収録されている。縄文時代の食事と現在も各地に残る「郷土料理」の共通性を指摘した「土器のなかのスローフード」、レビィ=ストロースの「構造」の概念の独自性を論じた「孤独な構造主義者の夢想」、1970年代に発見されたグノーシス文書「ユダの福音書』についての解説「常識に抗して書かれた福音書」、岡本太郎の芸術思想にふれた「超核の神話」、伊勢神道の神道論『類聚神祇本源』をグノーシス思想と関連させて論じた「哲学の背戸」など、多彩な対象に著者独自の「芸術人類学」的視野(というべきか)からきりこんだ刺激的な文章がならんでいる。現在二巻まで刊行されているこのシリーズが、「このさき何巻にまで膨れあがることになるか予想もつかない」(「短い序曲」より)というのは、楽しみなことだ。。



日高敏隆『セミたちと温暖化』(2007年4月25日発行・新潮社 1300+税)はエッセイ集。「波」に2003年1月号から2006年7月号にかけて連載された「猫の目草」42回分が初出。この「猫の目草」というタイトルで1996年から連載されているエッセイが単行本になるのは、『春の数え方』、『人間はどこまで動物か』に続いて本書で3冊目となるという。ちょっと調べてみたら、二冊ともこの読書メモで紹介しているので、このシリーズの愛読者といってもいいのかもしれない。今回も、同じ大型草食動物である牛と馬の、とくに消化機構の違い、同じみかけでもまったく別の習性をもつ蝶のはなし、昆虫と鳥の体内時計のしくみのちがい、などなど、興味深い話題がたくさん収録されている。ところで、動物の行動が「繁殖戦略」という言葉で説明されることが多くなって、どのくらいたつのだろう。そういう知見をつきつめていくと、もしかすると生き物全般をみる見方さえ変わってしまうように思えるのだが、そうした統合的な生命観、ということになると、まだしっくりくるようなイメージにであったことがないように思う。



北川登園『職業、寺山修司』(2007年5月30日発行・STUDIO CELLO 1500+税)は評伝的エッセイ集。1974年の夏、当時読売新聞文化部の演劇担当記者をしていた著者が、取材ではじめて寺山修司と対面したときの様子が印象深く序章に記されている。本書は、その時以降、寺山の知友として寺山の主宰していた劇団「天井桟敷」の活動をつぶさに見守り続けていたひとの、回想エッセイ。「本書は没後10年近くなったころ、彼の記憶を残そうとの薦めに従って、一気呵成に書いたもの、」(「再刊にあたって」より)とあるように、本書は『職業◎寺山修司』(日本文芸社・1993年刊)の増補改訂版だ。著者が立ち会ってきた天井桟敷の海外公演の様子など、主に劇団や演劇人としての寺山の活動の様子を生き生きとを伝えるもので、没後24年になる今(2007年現在)の増補改訂版の出版は、資料的にも意義のあることだと思う(同じ競馬ファンとしてのつきあいのエピソードも愉しい)。タイトルは、職業は、ときかれたときに寺山が答えたという「伝説的な」言葉だが、のちに当人に真偽を確かめると、肯定も否定もしなかったという。



安岡章太郎『カーライルの家』(2006年12月15日発行・講談社 2500+税)はエッセイ集。「危うい記憶」(初出は「本」に2002年から2003年にかけて「危うい記憶-小林秀雄と丸山眞雄」というタイトルで連載)、「カーライルの家」(初出は「群像」2002年1月号)という二編のエッセイが収録されている。タイトルと作家名にひかれて(たぶん小説だろうと思いこんで)図書館から借りて読んだ。「危うい記憶」は、交流のあった小林秀雄のエピソードと作者の戦争体験をおりまぜて綴ったような文章。著者は1963年に小林秀雄とソ連旅行をしていて、そのあたりの記述から、満州駐屯の部隊に配属された戦時のことへと「危うい記憶」がつながっていく。「カーライルの家」は、著者80歳の記念に行ったというロンドン旅行の際にカーライル博物館を訪ねたときのことが、漱石の『カーライル博物館』や、カーライルにまつわるエピソードにからめて綴られている。飄々としながらも崩れのない文章というのだろうか。本書と同時期に、偶然『漱石と世紀末美術』という本を併せ読んでいて、そこに『カーライル博物館』のことが詳細に論じられていたので驚いた。気まぐれな読書には、こういう思わぬ共時性に遭遇する楽しみがある。



川原由美子『観用少女 明珠』(2006年12月30日発行・朝日ソノラマ 1524+税)はコミック。1992年から2001年にかけて、「眠れぬ夜の奇妙なはなし」「ネムキ」に連載された、シリーズ漫画の単行本化(愛蔵版)で、『観用少女 夜香』と併せた前後編二冊に全作品(28話)が再編集されて収録されている。人間のように毎日ミルクや砂糖菓子を与えて愛情をこめて世話をしないと、「枯れて」しまうという「観用人形」(プランツドール)と呼ばれる不思議な愛玩人形を手にした人々にまつわる様々なストーリーが描かれている。かわいい顔の人形を持ち主がみて楽しみ世話をやいて心癒される、という設定は、ペット(愛玩動物)と飼い主の関係に似ているけれど、人形の側の反応がほとんど受動的だという意味では、むしろ(観葉)植物の世話をする、というのに似ているので、読んでいくとシリーズのタイトルがいかにもふにおちてくる。人でもなく、モノでもない、というこの人形に与えられた微妙な設定が、相対する人の心の愛憎の振幅を鮮やかに描きだしている。人形がすごく高価で資産家にしか買えない、という設定も、世の人形好きにはリアルなところかもしれない(^^)。



近森高明『ベンヤミンの迷宮都市』(2007年3月20日発行・世界思想社 2800+税)はベンヤミンの研究書。「多大な蓄積のあるベンヤミン研究の領野に、社会学の立場から挑みつつ、しかも社会学におけるモダニティ論の可能性を内在的に押しひろげようとする、著者の両面作戦めいた構え」(著者のあとがき)とあるように、ベンヤミンの都市論的テキストを対象に、フロイトとの関連で観察者の無意識の問題や陶酔体験といったことが論じられている。著者の博士論文を加筆訂正したもの、ということで、社会学におけるベンヤミンの思想の再解釈の試みといってもいいように思うが、ベンヤミンのテクストにでてくる都市を「観察」する者(遊歩者)は、「陶酔」する者でもあった(これまでの研究では、そうした観点が隠蔽されていたのではないか)、という主張は、門外漢としても興味深く読んだ。こういう本を読んでからベンヤミンのテクストにむかうと、けっこう複眼的に読める、ということになるかもしれない。



川本三郎『言葉のなかに風景が立ち上がる』(2006年12月30日発行・新潮社 1700+税)は文芸評論。「芸術新潮」誌に連載されたものをまとめたもの、とある。22名の現代作家(野呂邦暢、角田光代、井川博年(詩人)、重松清、堀江敏幸、佐藤泰志、水村早苗、後藤明生、長嶋有、江國香織、吉田修一、古山高麗雄、佐伯一麦、宮沢章夫、松本健一、車谷長吉、いしいしんじ、柳美里、丸山健二、多和田葉子、日野啓三、清岡卓行)とその作家の特定の作品がとりあげられていて、それらの作品のなかでの風景の描写や、作家にとってその風景がもつ意味、といったことが紹介されている。小説の世界の中に、実生活の体験を流し込むような作家にとって、自分の生きている特定の場所ときりはなせない風景(の描写)、ということがまだまだあるのだなあ、と思った。一方では抽象的なイメージでしかもう風景の実感がわかないような世界を描いている作家もいる。本書は理論的な枠組みから作品を論じるような「文学風景論」という感じではなくて、むしろ風景をとりあげるというテーマで自由に対象作品や作家について語った文芸エッセイという書きぶり。現代小説ガイドのような意味でも面白く読んだ。



養老孟司『小説を読みながら考えた』(2007年1月19日発行・双葉社 1600+税)は読書エッセイ。「小説推理」誌(隔月刊)に、2001年から2006年にかけて連載されたエッセイが収録されている。冒頭から虫の話がでてきて、これは推理小説談義と昆虫談義の本かな、と思って読み始めたら、それは一部分。この時期、著者はファンタジー小説の世界に目をむけていて、そちらの紹介が半分ちかくを占め、村上春樹や文芸批評についての文章も収録されている。『バカの壁』がベストセラーになった時期にも重なっていて、生活が多忙をきわめているなかで、外国旅行や講演などの移動中に読書する。相当分厚いファンタジー小説の原書を携帯していって、読んだ部分から破りすてていく。そんなエピソードも描かれているが、これは乱暴な話のようで、かなり著者の生活感覚や本書に流れるテンポ感覚を象徴しているように思えた。ファンタジー小説は空想物語にすぎないと人はいうが、もはや現実そのものがバーチャルなのだから、どうせなら愉しい世界に遊んだほうがいい。本物の戦争などするより、ゲームの中で戦争すればいい、そういう主張もめにつく。自動機械のような書きぶりだが、望んで作り上げた環境の速度感を楽しんでいる人の書きぶりで、おいまくられているような感じはしない。



新潮社編『人生の鍛錬 小林秀雄の言葉』(2007年1月19日発行・新潮新書 720+税)は評言集。新潮社編集部が、批評家小林秀雄の言葉を『小林秀雄全作品』(全二十八集別巻四、新潮社版)から選び、発表年月順に配列したという、コンパクトな箴言集のような体裁の本。小林秀雄が亡くなってほぼ四半世紀になる、という記載が「はじめに」にあって、もうそんなに、という意外な感じにさらされた。こういう時差感覚はよくあることだけれど、小林秀雄の場合、私が熱中した時期は生前のことだから、もうそんなに、という感慨がくっきりしているのだ。それにしても時間の経過が夢のようだというのは、普段それほど疎遠に感じていない、ということでもありそうだと、本書をぱらぱらやってみてあらためて感じた。「書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るのには、相当な時間と努力を必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、其処以外にはない。」(「読書について」)。読書の技術、といわれているが、ここではいわゆる書物の機能主義的な読みときへの批判的な一瞥をさっとなげかけている。そういう書物から人の顔を彫り出すような文芸批評を一生の仕事にした人だった。



小峯和明『中世日本の予言書』(2007年1月19日発行・岩波新書 740+税)は予言書(未来記)の研究書。中世の日本で一般にひろく受け入れられていたという「未来記」、そのうちの『野馬台詩(やまだいし)』、『聖徳太子未来記』をとりあげ、それらの成立事情や、当時の人々の受容の様相、ひいては日本の歴史文化全般において「未来記」の果たしてきた意味合いを探求した本。神仏が日本をみすてて去っていく、というイメージ(の可視化)が、中世の「未来記」の興隆と密接に関わっていたことを指摘した一章「去りゆく神仏、談合する神仏」など、興味深い記述がもりだくさんだ。予言書(日本で言う「未来記」)というと、今では娯楽のための読み物、ある種の「とんでも本」とか、せいぜいSF文学の一ジャンル、ということになるだろうか。しかしそういう見方がされるようになるのは近世以降のことで、中世日本では、人々が生きるための指針として重要な役割を果たしていたらしい。そのような「未来記」とは、未来のことを書くという形で、すでに現在起きていることや、過去のことを書く、という、一つの(現在の歴史概念とは異質の)歴史叙述の方法だった、と著者はいう。



佐藤優+魚住昭『ナショナリズムという迷宮』(2006年12月30日発行・朝日新聞社 1500+税)はロングインタヴュー。『野中広務 差別と権力』(講談社)などの著者でジャーナリストの魚住昭氏が、『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)、『獄中記』(岩波書店)などの著書、佐藤優氏に、「ナショナリズム」ということの意味をはじめ、関連する現代の政治社会の諸問題に関して様々な質問をなげかけて、佐藤氏が見解を披瀝する、という内容になっている。ふつう一般に「思想」だと思われたり言われたりしていることは、実は「対抗思想」であって、コイン二枚でコーヒーを買えるということに疑念をもたないこと、ふだん人々が「そんなもの思想だなんて考えてもいない、当たり前だと思っていることこそ「思想」」なのだ、という佐藤氏の印象的な発言からはじまるこのインタヴューは、とても面白く読んだ。ものごとが相対的にみえてしまう、ということは、それ自体時代の空気のようなところがあるけれど、そこからどんなふうに自分のよすがとなる意味や価値をつむぎだすことができるのか。インタヴューのちょっと歯切れのよすぎるほどの応答をつうじて、自力でものを考えるひとの新鮮な視座が読みとれるように思える。



諸星大二郎『私家版魚類図鑑』(2007年3月27日発行・講談社 1048+税)はコミック。2004年から2006年にかけて「別冊モーニング」「モーニング」誌に掲載された魚類をテーマにした作品6編と、書き下ろしの1編が収録されている。同じ趣向の作品集としては『私家版鳥類図譜』の続編にあたる。もっともテーマ性ということでは、二冊並べて書棚においたら気持ちがいいだろうと思ってまとめただけ、と、いかにも著者らしい解説があとがきにある。現代版人魚姫の「深海人魚姫」「深海に帰る」、中国の「捜神記」に記載のある人魚伝説に材をとった「鮫人」、未来社会で少年たちが冒険するSF調の「魚が来た!」、一種の不条理ドラマ「魚の夢を見る男」など、それぞれ見応えがある作品集になっている。いちいち確かめなかったけれど、初出の雑誌で読んでいるわけではないのに、読んだことのある作品が多いのは、別に単行本化された作品集で見ているからだとおもう。そういう重複が気になる人は、買うときに要注意だ。。



アーサー・C・クラーク+スティーヴン・バクスター『時の眼』(2007年12月315日発行・早川書房 2000+税)はSF小説。2037年、パキスタンとアフガニスタンの国境地域で、国連平和維持軍の監視官たちの乗ったヘリコプターが乱気流にみまわれ、同時に地元ゲリラの攻撃を受けて現地に不時着する。近くの砦で彼らが遭遇したのは1885年にその地域に駐屯していた英領インド軍に所属する一部隊だった。やがて一同は、紀元前四千年にその地域に侵攻していたアレクサンドロス大王の軍勢に相まみえることになる。。。突然不可解な異変にみまわれた地球が、特定の地域ごとに時間を越えて接合されたパッチワーク状態になってしまう。そんな世界に巻き込まれた人々の冒険を複数の視点から描いた、タイムトラベルテーマのSF小説。久しぶりに本格SF小説を読んでみた。本書は『2001年宇宙の旅』シリーズの前編でも後編でもなく、直角編をなすもの、と著者覚え書きにある。時空がつぎはぎ状態になった地球上で、相も変わらず殺戮や戦争をくりかえす人類を監視する銀色の球体の沈黙。若い頃『幼年期の終わり』を読んだときの、不条理な感覚がちょっと蘇った。映画むきのスケール雄大な作品だ。



平野啓一郎『『あなたが、いなかった、あなたが』(2007年1月30日発行・新潮社 1600+税)は短編小説集。2004年以降に「新潮」「群像」「野生時代」「すばる」などの諸雑誌に初出の作品が主に収録されている。「あなたの知らない小説が、ここにある--。、、、誰も読んだことのない、見たこともない世界をこの作品集で味わってみませんか」というのが帯の言葉で、どうも不思議な宣伝文句ではあるが、実際、かなり構成的に工夫された作品も含め、バラエティに富んだ作品群が収録されていて、読み応えのある作品集にしあがっている。人の体から老化とともに砂がこぼれる世界、とか、なぜか色というものがなくなってしまった世界、といったファンタジー的な味のある作品、コントのような作品、言葉に不慣れな作者の分身とおぼしき主人公がフランスを旅する、といった作品、文章の一部が空白になっている作品、一行!だけの書き下ろし作品など、さまざま。巻末におかれた作品「慈善」は、こういう自在な書きぶりの諸作品の中におかれると地味だけれど、著者の描写力や構成力の確かさが伝わってくる。



東浩紀『『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年3月20日発行・講談社現代新書 800+税)は、前著『動物化するポストモダン』の続編にあたる評論。「私たちはポストモダンと呼ばれる時代に生きている。そして、現代の日本では、オタクたちの作品や市場が、そのようなポストモダンの性格をもっとも克明に反映し、表現や消費のかたちをもっとも根底的に変えている。したがって筆者は、2000年代の物語的想像力の行方について考えるためには、まずは、その物語の衰退にもっとも近くで接しているはずの、オタクたちの表現に注目すべきだと考える。」(序章より)。こうした問題意識にたつ論者が、ライトノベル(マンガ的あるいはアニメ的なイラストが添付された、中高生を主要読者とするエンターテインメント小説)、美少女ゲーム(ひとりのプレイヤーを想定した、アニメ風のイラストで描かれた女性キャラクターとの恋愛の成就を目的とする、男性向けのアドベンチャーゲームあるいはシュミレーションゲーム)の作品分析を通して、「ゲーム的リアリズム」(著者の造語)の可能性を考察する。とりあげられているジャンルも個別作品についてもほとんど無知という状態で読んだが、問題意識や論点はとても説得力があり、考えるヒントにあふれた刺激的な内容になっている。



絲山秋子『『エスケイプ/アブセント』(2006年12月20日発行・新潮社 1200+税)は小説。初出は「新潮」2006年11月号。主人公の「おれ」(江崎正臣40歳)は、「どっかで暴動でも起きないかな!」というのが口癖という、さるセクトに所属する政治活動家。彼が妹のはじめる託児所を手伝うために、活動をやめる決意をして、妹の元で働くまでの猶予の一週間を京都に旅行してすごそうとする、というのが一話目「エスケイプ」の内容で、二話目の「アブセント」では、一話目の主人公の双子の弟、元ノンセクト・ラジカルで黒ヘルを被っていたという江崎和臣が主人公になっている。主人公の頭の中でもうひとりの自分の声がしたり、フランス語の話せないフランス系日本人神父が登場したりと、やはりどこか普通じゃない絲山ワールドのなかで、それぞれ異なる境遇で分身のように互いを遠く意識しながら人生の分岐点にたった双子の兄弟の様子が愉しくちょっと切なく描かれている。



今市子『『百鬼夜行抄(15)』(2007年1月発行・朝日ソノラマ 800+税)はコミック。1995年、「ネムキ vol.23」(朝日ソノラマ)で連載が開始され、2006年現在、単行本15巻、文庫版8巻が刊行されている。普通のひとには見えない幽霊や妖怪の姿がみえてしまう、という、いわゆる「霊感」をもって生まれついた飯島律という青年が主人公で、彼がそういう特殊な能力をもつがゆえに、さまざまなオカルト現象がらみの事件にまきこまれる、というのが、毎回(ほとんど一話完結)のストーリーになっている。シリーズをお借りして第一巻から通して読む機会にめぐまれたので、毎晩のようにすこしずつよんで、ひと月ちかく堪能した。最初高校生だった主人公もその間に浪人時代を経て、めでたく大学生に成長している。また飯島律は父母や祖母と同居していて、伯父伯母やその子供達も毎回のようにでてくるし、行方不明だった伯父が登場したりする。この、いってみれば飯島一族の物語といってもいいような展開が面白く、いつしかなじみのようになっていくという経験だった。ふたつのかけはなれたストーリーがやがて後半部で絡み合う、というミステリー仕立ての作品が多いのも特徴で、頭の体操になるところもある。この二月からテレビでドラマ化もされているらしいけれど、そちらは未見。



レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(2007年3月10日発行・早川書房 1800+税)はミステリー小説。私立探偵フィリップ・マーローの活躍するシリーズの一作で、清水俊二訳『長いお別れ』(1958)というタイトルで翻訳されていたものを、自ら40年来の愛読者だったという作家の村上春樹があらたに翻訳した、という本。清水訳『長いお別れ』は若い頃に読んだ記憶があり、新訳がでると聞いて楽しみにしていた。こんなに厚い本だったっけ、というのが書店で平積みにされているのを見かけたときの第一印象だったが、清水訳が「文章が全体に短く刈り込まれた」ものだったということが、解説にあって納得した。500頁を超える長編だが、読み始めるととまらなくてほぼ半日かけて読了してしまった。40頁をこえる訳者の解説は、読み応えもあり、とくに訳者のファンには興味深いと思う。



本城直季『スモールプラネット』(2006年4月18日発行・リトルモア 2500+税)は写真集。よく近接撮影でピントが合う領域が限定されて背景がきれいにぼけた写真をみかけることがある。このピントが合う領域のことを被写界深度というらしいが、それがふつうあり得ない遠景の特定の領域に出現すると視覚的にどんなことがおきるのだろう。この写真集に掲載されているのは、空中から屋外風景を撮影した写真がほとんどだが、どの写真をみてもちょっと名状しがたい感覚におそわれる。「ミニチュアの世界なのに、リアリティに溢れすぎている、という今までどこにも成立していなかったこの写真群は、おそらく脳にとっては初めての体験であろう。」(本書の解説・佐藤雅彦「トーンと脳」)。まさに、新鮮な視覚体験に、脳が戸惑いつつ喜ぶという感じなのだ。そこで一歩さがって夢想してみる。もし普段世界がこんなふうに見えたとしたら、世の中すこしは平穏になるのではないか、などと。いろいろなことを考えさせてくれる、驚きの写真集だ。



小川洋子・阿部恒治・菅原邦雄・宇野勝博『博士がくれた贈り物』(2006年12月25日発行・東京図書 1500+税)は座談会の記録。正確には2006年1月11日に大阪教育大学柏原キャンバスで開催された「数理科学フォーラム」の中で行われた座談会(原文は『数学文化』第6号に掲載)の内容をもとに、大幅に加筆修正されたもの、とある。小説『博士が愛した数式』の著者で作家の小川洋子氏を囲んで、3人の数学者があれこれと作品談義や数学談義に花を咲かせるというもので、話の流れのなかから取り上げたという、「数学ノート」という数学に関連するコラムが多数挿入されている。専門の数学者たちが数学のひらめきと小説作家のひらめきのちがいや、数学の魅力などについて、小説作家を囲んで和気藹々と縦横に語りあっている、という内容で、なかなか聞ける機会のない数学者たちの普段着の語らいの世界がみじかに感じられて楽しい。東京図書という理工系の本の出版社からでているので、巻末に微積分や統計学の本の宣伝などがのっているのがこういう本としては異色な感じで面白かった。



米原万里『他諺の空似 ことわざ人類学』(2006年8月30日発行・光文社 1400+税)はエッセイ集。「小説 宝石」に2003年4月号から2006年1月号にかけて連載されたものが初出。タイトルにあるように、収録されている30編のエッセイそれぞれが、諺にちなんだ内容になっていて、表題になっている日本の諺と類似するいいまわしが、世界中の言葉から採録列挙されて紹介されているのが特色だ。たとえば「大山鳴動して鼠一匹」という言い方は一見中国起源のようだが、英語やロシア語の辞書にも載っているラテン語起源の慣用句だという。こういう類似表現を発見したとき著者は「見ず知らずの他人が実は血縁だったと知ったときの胸のときめき。」(p77)を覚えると書いているが、確かにそういう発見の楽しい感覚が随所から伝わってくる。本書のエッセイのほとんどには、ほかにふたつの特徴がある。ひとつは枕に軽い艶笑小咄がつかわれていることで、ひとつは後半に辛口の政治批評(アメリカ批判、日本政府批判)が含まれていることだ。そのことで、本書は世界の諺紹介エッセイという枠を超えた、まさに「怪作」(まえがき「遺作によせて」の阿刀田高氏の言葉)といいたいような印象を残すものになっている。



吉本隆明『思想のアンソロジー』(2006年7月30日発行・新潮社 1500+税)は評論。もっとも評論とはいえ、タイトルにあるように、「わたし自身の心にかかっている古代から近代までの思想に関与している記述を勝手気ままに択んで、気ままな解説や註をつけてそれを批評や批判にかえたかった。」(あとがき)というアンソロジーのスタイルで文書の一節を引用して解説(批評)をほどこした評論集ということになる。3つの章でとりあげられている書物や言葉の項目は70近くに及び、対象も『古典全集』や『日本思想体系』に収録されているような文書から採られているものが多い。あまり一般には知られることのない日本の思想史や宗教史関連の歴史文献からも多々引用されているので、多くの読者に自分の未知の世界と著者の批評意識の接点をかいまみたような、さまざまな新鮮な刺激をもたらすことだと思う。いろんな解説文から紹介をしたくなるが、ここでは一個所だけを。「物語、詩歌など、文学の芸術性の中心を、まさしく「物のあはれ」を催させるもの以外でも、以上でもないと考えれば、宣長の「物のあはれ」理論は卓見だといえよう。現在でも、文学が勧善懲悪や好色の戒めや、倫理、道徳、理念のためにあるとおもっている文学観は後を絶たない。しかし総じてこれらは、作品の結果からうけた印象を誇張して述べているにすぎない。」(「本居宣長『源氏物語玉の小櫛』」より)。



出口裕弘『坂口安吾 百歳の異端児』(2006年7月30日発行・新潮社 1500+税)は評論・エッセイ。初出は「新潮」(平成十八年五月号)。著者が若い頃から愛読してきた作家、坂口安吾の作品と人物をとりあげた本で、著者の近年の作家論シリーズとして、『三島由紀夫・昭和の迷宮』(2002年)、『太宰治 変身譚』(2004年)の続編にあたるといえそうだ。著者のこれらの作家論の特色は、いわゆる文芸評論風の硬い言葉や専門的ないいまわしを避けて、あくまでひとりの愛読者として長い間特定の作家の作品を読み込んできたというスタンスで、思いなすあれこれを心情をこめて綴るというところだろうか。「出口ワールド」とでもよびたいような温かみのある著者の語りは、ときに青春期の読書体験が与えてくれるもっとも原質的な感動、読む喜びの記憶のようなものを蘇らせてくれる。「、、、この科白に感動し、涙を流した。それからやがて六十年が経とうとしている今、この同じ科白を読んで、私は十八歳のときとそっくりな心の波立ちを覚え、涙を流すところまでは行かないにせよ、ほとんど自動現象のようにして涙腺にかすかな異常を来たす。つまり私は、坂口安吾作「恋をしに行く」の信子に、読者として何十年ものあいだ恋をしつづけてきたことになる。文芸作品の功徳、ここに極まるというものではあるまいか。」(「エピローグ」より)。



吾妻ひでお『逃亡日記』(2007年1月30日発行・日本文芸社 1200+税)はインタヴュー集。漫画『失踪日記』(2005)で、日本漫画家協会賞大賞、文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、手塚治虫文化賞マンガ大賞、星雲賞ドキュメント部門を受賞した著者へのロングインタヴュー(初出は「別冊漫画ゴラク」に連載)を収録した本で、巻頭巻末に著者の「受賞する私」「あとがきな私」という短編コミックや、著者が失踪時にホームレスとして暮らしていた土地を再訪する様子を写した写真ページなども挿入されている。インタヴューは、「失踪時代」「アル中時代」「生い立ちとデビュー」「週刊誌時代」「「不条理」の時代」「『失踪時代』その後」という各章からなる。漫画「受賞する私」の中に「皆さん この本(便乗本なので)買わなくていいです!漫画だけ立ち読みしてください」というセリフがはいっているのがおかしい。たしかに、さながら作品のヒットに便乗したところもあるような、全編吾妻ひでお読本という感じの本なのだが、著者が問われるままに率直に語ったインタヴューの内容は、吾妻ファンのみならず戦後漫画の流れ全般に関心があるひとにとっても、さまざまな興味ぶかいエピソードを提供するものになっている。



高橋源一郎『ニッポンの小説』(2007年1月10日発行・文藝春秋 2238+税)は小説論。初出は「文學界」2005年1月号〜2006年6月号。コロンビア大学での講演を採録したプロローグとエピローグ(補講)の章にはさまれて、雑誌「JJ」に掲載された小説『キャラメル・ポップコーン』を例にあげて、小説作品と掲載される場の関係を論じた「その小説はどこにあるのですか?」、「死」に近づく文学の方法や可能性を論じた「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?」、文学とは呼べない作品としての猫田道子『うわさのベーコン』、死者になろうとしている作品として川崎徹の『彼女は長い間猫の話しかけた』をとりあげた「それは、文学ではありません」と、読み応えのある章が続くが、本書の後半、分量にしてほぼ半分をしめる長大な章「ちからが足りなくて」では、現代詩作家の荒川洋治氏の『文芸時評という感想』が取り上げられ、氏の批評的な視点を引用紹介するかたちで、現代の「ニッポンの小説」が様々に論じられていて、そこがとくに興味深かったところだった。またそういうことからも窺えるように、本書は「ニッポンの小説」(散文)論というかたちながら、随所で「ニッポンの詩」の問題にもふれられているのが大きな特徴になっている。「「ニッポンの小説」たちの中の、新しい一群の、大切な特徴の一つは、「よりかからない」ことだ、とぼくも考えてきた。「よりかからない」といえば、カッコいいが、その実はというと、たいていの場合、よりかかれるようなことばを知らない、というに過ぎない。」(「ちからが足りなくて」より)