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走り書き「新刊」読書メモ(35)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(06.11.25~07.3.3)

 出口尚三『フィリップ・マーローのダンディズム』 小川洋子『物語の役割』 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』
 佐藤優+手嶋龍一『インテリジェンス 武器なき戦争』 梅田望夫+平野啓一郎『ウェブ人間論』 ひろちさや『「狂い」のすすめ』
 三浦展(編著)『下流同盟』 コニー・ウィルス『最後のウィネベーゴ』 ジャン・エシュノーズ『ピアノ・ソロ』
 四谷シモン『四谷シモン前編』 シルヴィー・ジェルマン『マグヌス』 村松秀『論文捏造』
 加藤淑子『ハルビンの詩がきこえる』 小沢昭一『新宿末広亭十夜』 多和田葉子『アメリカ 非道の大陸』
 中井久夫『樹をみつめて』 浦沢直樹*手塚治虫『PLUTO 第4巻』 加賀乙彦『悪魔のささやき』
 マイケル・コロスト『サイボーグとして生きる』 森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』 多田富雄『懐かしい日々の対話』
 鈴木忠『クマムシ?!』 河合隼雄『ケルト巡り』 ガルシア・マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』
 遠藤ケイ『暮らしの和道具』 スティーヴン・ミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』 荻悦子『インディアン・ライラック』
 絲山秋子『絲的メイソウ』 中沢新一『モカシン靴のシンデレラ』 高橋義人『グリム童話の世界』


出口尚三『フィリップ・マーローのダンディズム』(2006年9月30日発行・集英社 1680+税)は作品観賞的エッセイ集。レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説に登場する、さまざまな小道具や主に服飾関係の描写について、テーマ別に著者が蘊蓄をかたむけながら読み解く、という肩の凝らないエッセイ集。略歴欄をみると、著者はファッション・デザインやファッション・コンサルティングの仕事もされているということで、小説に登場する服飾関連の用語について、専門家ならではの明快で奥のふかい解説が読める、というのが、類書からはあまり味わえない本書の特色になっているように思う。たとえば、小説の中のさりげない描写にでてくる「シャークスキンの水着」という言葉から、そもそも「シャークスキン」とはなんなのか、と原典の表現にあたりながら解説していく(上質のウーステッドを使った綾織地のことをいうという)。チャンドラーのハードボイルド小説を好んで読んだのはずいぶん前のことだが、こういう服装などの具体的な描写にこめられた専門用語の意味には、まず注目することなく読み流していたように思う。好きな作家の本を味読・熟読することの愉しさが伝わってきて、勉強にもなる、という本だ。



小川洋子『物語の役割』(2007年2月10日発行・筑摩プリマー新書 680+税)は講演集。著者のこれまでの講演記録をまとめた本で、三つの章に、それぞれ異なる場所で行われた講演記録が収録されているが、著者自身の作品を解説したり他人の作品を紹介したものや、実作「リンデンバウム通りの双子」を例にあげて具体的に創作プロセスを語ったもの、子供の頃に読んで感銘をうけた書物の話、というように、いずれも「物語(小説)」がテーマの講演で、内容的にも重複がなくて統一感のある一冊になっている。小説を書こうとするとき、言葉以前に「映像」がうかんでくる。「言葉は常に後から遅れてやってくる」「テーマなどというものは最初から存在していない」「ストーリーは作家が考えるものではなくて、実はすでにあって、それを逃さないようにキャッチするのが作家の役目である。」「、、自分の経験した過去を書く必要はないわけです。人が落としていった記憶を想像していけばいい。」など、実作者としての実感のこもったユニークな小説観を語った個所も多く、興味深く読んだ。。



カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(2006年4月30日発行・早川書房 1800+税)は小説。「介護人」を職業にしている31歳の女性キャシー・Hが、自分が育ったヘールシャムという全寮制の施設のこと、そこで共に暮らした親しい友人たちのことを追想のかたちで語る、という体裁になっている。彼らがどんな理由でその施設にいれられ、その施設がどういう性格のものだったのか、という謎が、読み進むうちにしだいに明らかになっていく、というミステリーのような構成だが、本書の細部をいろどるのは、謎めいた施設で共同生活をおくる少年少女たちの日常のエピソードの数々で、各章でこまやかに描かれる登場人物たちの様々な心理劇の描写に読書の醍醐味がある作品だという感じがする。ところで、この作品の出版と同じ2005年には、SF映画「アイランド」が公開されている。これはハリウッドの娯楽映画なのでストーリーに似たところはあまりないのだけれど、背景になっているテーマや世界の設定といういみでは符合しているところが多くて、ちょっと連想したことだった。



佐藤優+手嶋龍一『インテリジェンス 武器なき戦争』(2006年11月30日発行・幻冬社新書 740+税)は対談。元外交官(在ロシア日本大使館勤務、背任等の容疑で逮捕され、現在起訴休職中)の佐藤優氏と、ジャーナリスト(NHK時代にボンやワシントンの支局長を経て独立)で作家の手嶋龍一氏の異色の対談。表題にもなっているインテリジェンスという言葉は、本書では「情報」という熟語のルビにもつかわれているが、佐藤氏の発言に「、、、日本語に翻訳するのが難しいんですが、その本質を一番よく表しているのは、戦前の陸軍参謀本部が使っていた「秘密戦」だと思います。」という個所もある。いわゆる諜報活動一般、といえば、近いかんじだろうか。本書では、実際に国家間外交に関わる情報収集活動の第一線の現場で活動していたふたりの話者が、「インテリジェンス」ということをテーマに、さまざまな体験談をまじえて、ほりさげた対話がされている。スパイ映画などでしかイメージがわかない情報収集活動の実態がどういうものなのか、あるべき姿はどんなものなのか、と、専門家ならではの熱のこもった論議が収録されている。



梅田望夫+平野啓一郎『ウェブ人間論』(2006年12月30日発行・朝日新書 720+税)は対談。梅田望夫氏と、作家の平野啓一郎氏の8時間に及ぶ対談の一部が雑誌「新潮」誌上に二回にわたって掲載された。本書はそれにさらに8時間の議論を追加して誕生した、と、「はじめに」にある。梅田氏はコンサルティング会社の創業者、「(株)はてな」の取締役という肩書きが略歴欄にあるが、『ウェブ進化論』の著者といったほうががわかりがいいのだと思う。この対談も直接は『ウェブ進化論』を読んだ平野氏が「読むものの世界観を揺すぶらずにはおかない、新鮮な驚き」を感じて出版社に推薦したという経緯からはじまったという。ひとことでいえばウェブの進化が人間にどんな影響をもたらすのか、といったテーマに沿った形での、インターネット談義といっていい内容だが、書物の未来、匿名性をめぐる問題など、具体的な話題の場面場面で対話者相互の見解の相違がポジとネガのようにきわだつところもあって対談として刺激的な内容になっている。



ひろちさや『「狂い」のすすめ』(2007年1月22日発行・集英社新書 714+税)は人生論。放談といった感じの語りの文体で、わかりやすくものの見方、考え方のヒントが説かれている本。目次の大見出し小見出しから刺激的なものをを選んでみると、「目的意識を持つな!」「人生は無意味」「「生き甲斐」は不要」「希望をもつな!」、などなど。著者のいう「狂い」ということは、世間的な常識という物差しをすてることで、一休禅師のエピソードが引かれているように、「風狂」の心意気とでもいうようなイメージに近い。「狂っている世の中で狂うことが、まともになれる道なんです。」(p35)。もっとも常識を批判するからといって、読者にライフスタイルを変えることを要請しているわけではない。要は(弱者の武器として)とらわれのない批評意識をもて、ということのようだ。こうした考え方の背景にあるのは宗教的な世界観で、本書にはキリスト教、仏教の教えが多々引用されている。著者は著作が400冊にのぼるというひとで、仏教関連の啓蒙書が多く、『インド仏教思想史(上下)』などを以前読んだのを思い出した。そういう人が思うところを方便のように書いた本で、爽やかな印象の本だった。



三浦展(編著)『下流同盟』(2006年12月30日発行・朝日新書 720+税)は現代社会の分析。以前、著者の『ファスト風土化する日本』(2004年)、『下流社会』(2005年)を紹介したことがあるが、本書同様いずれも図書館で借りた本で、手元にない。とくに意識せずにテーマに惹かれてほぼ一年間隔くらいで同じ著者の本を借りていたことになる。コンビニやカラオケボックス、ファミレスといった無個性な店舗の全国展開による風土の変貌が、地方都市周辺の農村部の「郊外化」という形で進行している、という事態の分析が『ファスト風土化する日本』のテーマだったとしたら、近年拡大した所得格差が社会階層として固定化する傾向にあることを指摘したのがベストセラーとなった前著『下流社会』だったといえるかもしれない。本書では「下流社会化とファスト風土化は実は同じグローバリゼーションの断面の違い」であり、「グローバリゼーションが与える影響を経済、雇用、価値観などの側面から切り取った概念が下流社会であり、地域社会の変化という側面から切り取ったのがファスト風土化だと言える」(あとがき)という統合的な立場から、複数の筆者の稿を章別に収録して現代社会のグローバル化の問題が多面的に論じられている。とくにウォルマートに象徴されるような巨大店舗の台頭と、下流社会化ということの関連を論じた個所が興味深かったところ。



コニー・ウィルス『最後のウィネベーゴ』(2006年12月30日発行・河出書房新社 1900+税)はSF小説集。久しぶりに今時のSF小説はどんなものなのだろうという興味で読んだ。著者は、過去二十年間のヒューゴー賞、ネビュラ賞という二大SF大賞の小説部門で受賞回数が15回にのぼるという作家で、これは最多記録なのだという。「アメリカSF界の女王」(帯の言葉)とあるのも頷ける実績というべきか。本書には第二短篇集から、訳者が「選りすぐった”ベストのベスト”」(あとがき)という、それぞれ対照的な4作品が収録されている。フェミニズムを意識して書かれたらしい、ややブラックな風刺のきいた「女王様でも」、奇妙なタイムマシンの実験にからむ中年男女の恋愛を描いた「タイムアウト」、スペースコロニーを舞台にした往年のどたばたコメディ映画(スクリューボール・コメディ)のようなユーモア作品「スパイス・ポグロク」、犬が絶滅した未来社会をシリアスに描いた心理ドラマ「最後のウィネベーゴ」。どの作品でもSF小説的な要素が、料理に調和した香辛料のように物語の背景や小道具として使用され、特有の味わいを盛り立てている。そうしたSF小説的な道具立てを取り去って舞台を現代におきかえても通用するように思えるのは、ストーリーテーラーとしての手腕はもとより、その底に流れるのが作者の普遍的な人間性(愛憎劇)へのバランスのとれた眼差しや共感のようなものだからかもしれないとは思ったことだった。



ジャン・エシュノーズ『ピアノ・ソロ』(2006年10月25日発行・集英社 1900+税)は小説。クラシックピアノの演奏家マックスはアルコール依存症をかかえながらも腕は一流で、コンサートやテレビ出演など日々忙しいスケジュールをこなしていた。そんなマックスがあるとき路上でものとりに襲われ、もののはずみであっさりと刺殺されてしまう。。ところが、不思議なことにマックスがめざめたのは、「センター」と呼ばれる奇妙な待合所のようなところだった。。。ピアニストだった男が、死んだ後に「センター」で行き先をふりわけられて、再度「来世」を生きる、という奇想天外なあらすじの小説だ。そういう設定はいかにもファンタジックだけれど、読んでいてファンタジーという感じはしなくて、予想を外す展開の自在さや細部描写へのこだわりなど、いかにも今ふうの現代小説という感じだ。才能あるピアニストだが、演奏前の緊張をほぐすためにアルコールがかかせないマックス(サンソン・フランソワがモデルとも)は、その一面初恋の女性の面影をずっと胸に抱き続けているというロマンチストでもあり、疲れた現代人の影のようなところもみえる愛すべき好人物だ(著者は「わたしが創り出したなかで最も孤独な作中人物だ」と語っているという(あとがきより))。彼は煉獄のような「センター」に一週間留め置かれ、やがて「庭園」と「都市部」のどちらに移送されるかを決定される。存命中に特に悪行をなしたというわけでもないマックスが振り分けられるのは天国(庭園)なのか地獄(都市部)なのか。。



四谷シモン『四谷シモン前編』(2006年12月20日発行・学習研究社 2500+税)は散文集。『機械仕掛けの神』『シモンのシモン』といった単行本の内容の改訂稿をはじめ、著者がこれまで発表した「創作+エッセイを総収録」したという、一巻ものの個人全集という感じの本。親交のあった澁澤龍彦との対談や、インタヴューも収録されている。若くして人形作家を志した著者は、十代の中頃から数々の人形作家の内弟子になるという修業を重ねていたが、20歳のときに雑誌に掲載されていた澁澤龍彦の紹介によるハンス・ベルメールの作品を知って創作上の大きな転機を迎える。二十代には唐十郎の劇団「状況劇場」に役者として出演、以降俳優としても数々のテレビドラマや映画に出演しながら、三十代には人形学校「エコール・ド・シモン」を開校、そのごも旺盛な制作活動を続け、フランスの人形専門誌に「日本のピグマリオン」と紹介されるなど、日本を代表するユニークな現代人形作家として知られるようになり、現在にいたる。こうした著者の生涯「前編」の軌跡が、収録された散文エッセイを通してあぶりだしのように浮かんでくる読みでのある本だ。「そのときは、必ずしも他人からの賞賛とか代価などは意識していない、自己愛すらすっかり忘れてる。ただ純粋に自分の深いところが、喜んでいる、楽しんでいる、うきうきしている。人間にとって最も必要なそういうことが、僕の場合たまたま人形であったということなんだと思う。」(「あとがきにかえて」より)。



シルヴィー・ジェルマン『マグヌス』(2006年11月30日発行・みずず書房 2600+税)は小説。マグヌスというのはフランツが大事にしているぬいぐるみの熊の名前。五歳のときに重い病にかかり、それまでの記憶をいっさい失ってしまった少年フランツに、母親がつききりで言葉や過去の出来事を教え込んだ。父親は優れた医者であること、英雄的に戦死したふたりの伯父の話なども。。しかし、やがて若者に成長したフランツは、あるとき、かって母親によって刷り込まれた記憶が虚偽で、自分が戦災孤児だったということを知って愕然とする。ナチスドイツの敗北とともに父親(強制収容所の医師だった)は逃亡し、母親も絶望のあまり窮死してしまった。英国の親戚の家に引き取られて育ったフランツは、親があたえた仮の名前をすて、唯一の身分保障であるぬいぐるみの熊の名前をなのる。「またの名をマグヌス。この空想的な名のもとに、彼は大人の時代に一歩をふみだす決心をするのだ。」。。。自分とは誰なのか、という問いかけを生い立ちによって宿命づけられたような主人公の彷徨を描いた長編小説。二千人あまりのフランスの高校生たちが毎年選出するという《高校生ゴンクール賞》(2005年度)受賞作。



村松秀『論文捏造』(2006年9月10日発行・中公新書クラレ 860+税)はルポルタージュ。アメリカのベル研究所を舞台に起きた科学論文の捏造事件をテーマに、NHKがドキュメンタリー番組「史上空前の論文捏造」を制作放映し、国内外のコンクールでも幾つもの賞を受賞するなど、高い評価を受けたという。本書はその番組のディレクターであった著者が、番組では使われなかった豊富な取材資料をもとに、事件の経緯や背景、そこにひそむ問題性を考察する、という内容になっている。ベル研究所に在籍していたドイツ人物理学者ヤン・ヘンドリック・シェーンが、1998〜2002年の間に筆頭著者として書いた論文は63本。そのうち科学雑誌『サイエンス』『ネイチャー』に掲載されたものが16本。これは数もすごいけれど、それらの論文で示されている実験内容が(事実とすれば)超伝導の研究に関して画期的意義をもつと評され、シェーンはノーベル賞目前といわれ、「63の論文は、世界の科学者たちから「バイブル」と呼ばれるようになって」いったという。当然ながら、全世界の100以上の研究グループが実験の追試に参入し、そこに10億円をこえる金額が流入された、といわれる。実験の追試で、誰もシェーンの実験と同じ結果がだせないことから、かすかな疑念が囁かれはじめ、、、と、ストーリーは展開していく。科学論文の捏造のニュースというのは、最近よく耳にするけれど、規模として最大のケースで具体的にどんなことが起きたのかを詳細に伝えてくれて、読み応えのある本だった。



加藤淑子『ハルビンの詩がきこえる』(2006年8月25日発行・藤原書店 2400+税)は自伝。昭和十年に二十歳で結婚した著者は、その後の十一年間を夫の赴任先のハルビンで暮らし、三人の子息を生み育てた。本書にはその時期に著者の体験した日々の記録が生き生きと描かれている。そういういみで、本書は自伝というより、一女性が異国の地で暮らした十一年という歳月の追想記といったほうが内実にかなうかもしれない。そのことが、ロシア人、ユダヤ人、中国人、朝鮮人、日本人、といった多民族が共存していた戦前のハルビンという街の独特の大陸的な雰囲気や、主に著者が親しく接したロシア人たちの当時の暮らし向きを細やかに伝える記録となっている。ロシアが建設した街ハルビンは、1932年満州国の誕生と第二次大戦をへてのその崩壊といった歴史の波に翻弄されるが、その街でどんなふうな人々がどんなふうに暮らしていたのか、といったことは、こうした当事者の貴重な体験記をあわせ読まないとわかならくなってきているように思う。1915年生まれの著者は九十歳を越えられたとあるが、一読してその記憶力の鮮明さや平明で具体性のある描写力にはおどろかされたところだ。著者は歌手・女優として知られる加藤登紀子さんの母君。



小沢昭一『新宿末広亭十夜』(2006年11月15日発行・青土社 1600+税)は「随談」集。平成十七年の六月、俳優である著者が新宿末広亭の高座にあがって、十日間連続で「随談」を披瀝した。客席は連日超満員の札止めで、末広亭の開業以来最多のの観客数を記録した、という。本書はその十日間の高座の全記録が収録されている。「随談」というのは帯やまえがき「末広亭出演の記」にある言葉で、どうも著者の造語のようだ。子供の頃から寄席通いをしていたというほどの落語好きの著者が、高座にあがって、「むかしの寄席の想い出、心に残った芸人さんのお噂などを、、、とろとろとおしゃべりする」という内容になっている。「これが寄席だよ、といいたくなる懐かしい空気、、この安らぎ、温かさ、柔らかさ。その全部が高座に客席に満ちていた。」(柳家小三治「この温かさが寄席なんだ」)というあとがきが、活字化されると復元の難しいその場の魅力を伝えているのだと思う。「これぞ話芸!」とは帯の言葉だが、「話芸」というのは、考えてみるといろんな連想をさそう言葉だ。現代ではメディアでもネットでも望めば見聞きできる「話」自体はありふれている。「話」と「芸」は、どこで結びつくように感じられるのだろう。



中井久夫『樹をみつめて』(2006年9月8日発行・みすず書房 2800+税)はエッセイ集。著者7冊目のエッセイ集にあたるという。雑誌掲載のものを中心に書き下ろしも含め長短さまざまで、内容的にも地域文化にふれたもの、長編の「神谷美恵子さんの〈人と読書〉」、精神科医として夢や妄想をテーマに書かれたものなどバラエティに富んだ散文が十数編収録されている。本書で目をひくのは、やはり「戦争と平和についての観察」と題された百枚をこえる長編エッセイだろう。これは古今東西の歴史上の豊富な戦争行為の例をあげて考究されている一種の戦争論とでもいえそうな文章で、「反実仮想」としての思考実験をとおして戦争行為の実質が説得力のある文章で論じられている。もっとも、著者らしいといえば、冒頭のさまざまな記憶の「樹」についてのエピソードを綴った連作エッセイをあげるべきかもしれない。植物は虫などにやられると「抵抗物質」を分泌して「食べられては大事なものの順にきつい抵抗をしめす」という。人間に対しての場合、各種のアレルギーをひきおこすような物質だ。(植物にとって)もっとも大切な(守るべきもの)のは子孫繁栄にかんするもので、「個体の生命はその次である。」という。うまく要約ができないが、植物、というより生命のあり方そのものについて、想像力を刺激をさせられる文章なのだった。



浦沢直樹*手塚治虫『PLUTO 第4巻』(2007年2月1日発行・小学館 524+税)はコミック。手塚治虫の人気漫画「鉄腕アトム」の「地上最強のロボット」の巻を下敷きにして、浦沢直樹が独自の解釈や脚色をほどこして長編シリーズ漫画にしたてた、というもので、2003年9月から「ビッグコミックオリジナル」に連載が開始された。単行本最新刊の第四巻でようやく物語は中盤というところ。連載中ながら、これまでに第9回手塚治虫文化賞マンガ大賞、平成17年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞している。今回改めて一巻から通読して大いに楽しんだ。人間がロボットと共存する未来社会を舞台に、正体不明のプルートーと呼ばれるロボットが、世界最強とされるロボットたちを次々破壊していくという展開で、襲撃を受けるロボットの側や、事件を捜査する人々など多彩な登場人物たちのエピソードがその合間にこまやかに綴られていく。現実の中東情勢が物語の背景に形をかえて織り込まれ、旧ペルシャ王国の最高指導者としてフセインににたキャラクターも登場する。こういう設定は作品が現在を呼吸しているようで興味深いけれど、同時に危うさもかかえこみそうだなあ、とは、フセイン処刑のニュース後に読んで思ったことだった。。



加賀乙彦『悪魔のささやき』(2006年8月17日発行・集英社新書 680+税)は精神科医にして作家という著者が「現代の日本人の意識の分析」(著者あとがき)を試みた本。本書では人をして様々な犯罪に向かわせる気持ちの動きを比喩的に「悪魔のささやき」と呼んで、その心理状態が探求されている。これは、ある種のぼんやりした意識=周縁意識の状態(「気」)に、人間が本来もっている攻撃性が働きかける、という構図としてしめされている。著者はまた最終章の第5章で、「悪魔のささやき」にとりこまれないための処方箋として、1.関心の幅をひろげること。2.宗教についての知識をもつこと。3.死について考えること。4.自分の頭で考える習慣をつけること。5.自分の意見をしっかりもつこと。という五つの項目をあげている。いかにも常識的な処方箋のように思われるかもしれないが、これらは現代の社会が、いかに個人の関心の幅を狭めさせ(刑務所化と著者はいう)、リアルな死や、世界の諸宗教に対しての無知や無関心を肥大化させ、自主的な思考を軽んじせしめるシステムを作り上げているか、といった苦い認識から逆照されているように思えて、地味だがじっくりとした著者の思索の跡が感じられるように思えた。



マイケル・コロスト『サイボーグとして生きる』(2006年7月13日発行・ソフトバンク クリエイティブ 1800+税)は自伝。著者は先天的な難聴者として生まれたが、補聴器の助けをかりて通常教育を受け大学院まで進む。しかし36歳のとき、とつぜん完全失聴にみまわれ、「人工内耳」を脳に埋め込む手術を受けることを決心する。本書では著者がこの完全失聴に見舞われた時から、手術を決意するまで、またその術後の経過といったプロセスが、経験者ならではのリアルな描写で語られている。「人工内耳」の技術やその仕組みについても詳しい記述があり(インプラントと呼ばれるセラミックス製のケースに収納されたコンピューターチップを、耳の後部にあたる頭骸骨にくぼみをつくって埋め込み、そこから伸びるケーブル(電極アレイ)の先端が内耳の蝸牛内に挿入される。またインプラントは磁石で頭皮に接着されるヘッドピースを介して外部のサウンドプロセッサーからのデジタル信号化された音声情報を受け取る)、人は音というものをどんなふうに意味として理解するのか、といったプロセスについても考えさせられる。搭載ソフトによって音の聞こえ方が違ったり、術後に時間をかけて脳の神経組織がデータに対処するよう編成されていくいわゆる「神経可塑性」が聞き取りに大きな意味をもっている話など、とても興味深かったところだ。



森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』(2005年7月10日発行・中公新書アウトレット 740+税)は現代社会の読み解き。現代社会が「マナー神経症」(「マナーの悪化」ではなく、マナーについての社会的・個人的葛藤が起きている)の状態にある、という観点から、「ケータイ(携帯電話)」、「キャラ的人間関係」、「荒れる成人式」、「ひきこもり」、「消費社会」、といったテーマを論じていく。どの項目でも、通念的な一般論にとどまらず、社会学の立場から著者独自の仮説や考察が提示されていて読み応えがある。たとえば、ケータイについて書かれた個所で、ケータイを使う人ほど他者を信頼しない、といわれる実験データについて、ケータイはそれを扱う場面で、機能的に複数の「秘密作用」や「裏切り作用」を現象として伴うので、それを使う他者=自己像のマイナス面を、使用者に印象づけるのではないか、という掘り下げた考察がみられて、これはとても説得力があって考えさせられた。著者の言う「マナー神経症」の社会というのは、ちょっと電車にでものると毎度のようにマナーをわきまえていない(と思えるような)他者の挙動にであってしまう、ということで、こちらの意志に関わらず「葛藤」(気分の揺れ)を強いられてしまうような社会、というようなことだろうと思う。これはもう誰も免れないのではないだろうか。。



多田富雄『懐かしい日々の対話』(2006年11月11日発行・大和書房 2000+税)は対談集。河合隼雄、養老孟司、溝口文雄、村上和雄、石坂公成、米原万里、木崎さと子、松岡心平、寺島澄代、アッパス・キアロスタミといった人達との対談が収録されている。本書は、『生命へのまなざし』(青土社)、『生命をめぐる対話』(大和書房)という二冊の対談集につぐもので、それぞれの対談の雑誌初出は2001年以前とやや古いけれど、それは著者が「5年前に、脳梗塞で声をうしなった」(あとがきより)という事情による。したがって本書には、既刊の二冊の対談集に未収録のものが収められているむねがあとがきに記されている。対談相手には能楽師やイランの映画監督などもいて、バラエティに富んでいることが顔ぶれからわかると思う。対談の本は、話の流れのなかで思わぬ話題に飛躍したりするのが楽しい。能の楽器について語られている松岡心平氏との対談の(「(楽器が)普通は澄んで心地よい音の方に向かって進化していくはずですが、ますます鳴りにくい音、作りにくい音、聞きにくい音という、逆の方向に進んでいったわけですね。それは生物の進化論の文脈で考えると、とても不思議なことだと思います」(多田)という発言など、興味深く読んだ。



鈴木忠『クマムシ?!』(2006年8月4日発行・岩波書店 1300+税)はクマムシ研究の紹介。クマムシというのは、体長0.1〜0.8ミリ程度の4対の肢をもつ生き物で、分類学では緩歩動物門に属する。種類は1000種に及び、苔の中、土壌の中、池の中、海中にも砂浜にも棲息する、というから、地球上のいたるところにいる、ということらしい。本書では、顕微鏡で見なければみえないようなこの生き物について、形態や習性、生活の様子などをわかりやすく解説した「日本初のクマムシ本」(帯の言葉)。クマムシの中には環境が乾燥すると「樽」のように身を縮めて仮死状態になるものがいて、その状態の耐久性が注目されてきたらしい。本書には、絶対零度(摂氏-273度)という環境に耐え、放射線に耐え、高圧(6000気圧)にも耐えたといった実験報告が紹介されていて、電子レンジで3分チンしても死なないはずだと書かれている。こういう強靱さからの類推なのか、クマムシ宇宙飛来説というのもあるそうで、なるほどと思わされる。この人類とほとんど無関係に暮らしているらしい生き物を観察するための、もっとも手軽な方法は、「そこらへんに生えているコケを見ること」だとあり、附録には必要な道具や観察手順なども紹介されている。



河合隼雄『ケルト巡り』(2004年1月30日発行・日本放送出版協会 1500+税)はケルト読本。著者は2001年10月に放映された「ハイビジョンスペシャル 河合隼雄 ケルト昔話の旅」という番組のため、アイルランドに取材旅行をしたが、その時の体験や感想を、番組ディレクターや編集者からの質問に応えるという形で口述筆記したもの、が、本書の骨子になっている、ということがあとがきで明かされている。この応答の形式は本文では痕跡を留めていないけれど、取材先のアイルランドでの、現代の「ドルイド」教信者や「魔女」を職業とする人たちとの対話、ケルト民話(アイルランドに伝わる民話)の紹介など、『ケルト巡り』というタイトルに相応しいバラエティに富んだ内容になっている。ヨーロッパの基層文明といえるケルトの自然観と、日本の古来からの自然観の相似性はよく指摘されることだが、そのことのもつ現代的な意味あいを論じるということになると、単純な結論はでてきそうにもない。本書は、現在のアイルランドで生きられているケルト文化的なものの現状報告、というところがひとつ特色になっていて、古代ケルト的なものが、当地のひとにかなり自由に(恣意的に)解釈されていることに驚かされ、またそのことに妙に納得させられてしまうのが面白い。



ガルシア・マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』(2006年9月30日発行・新潮社 1800+税)は小説。作品は、もうすぐ90歳の誕生日をむかえる「私」が、「うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしよう」と考え、20年ぶりに昔通った娼館のマダムに電話をかける、という出だしからはじまる。作品の冒頭には、川端康成の『眠れる美女』のやはり冒頭の一節がひかれているので、読者はすぐにこの作品が川端作品と相似したシチュエーション(娼館の女将に若い少女を周旋させて添い寝しようとする老人)ではじまっていることに気がつくだろう。けれど似ているところはそこまでで、この作品から伝わってくるのは、むしろ生真面目で善良な独身インテリ老人の幸福感あふれる愛情告白、という感じの印象だ。娼館の一部屋で熟睡している少女を眺めて一晩過ごすために娼館にかよいつめる老人の物語だときけば、それだけで眉をひそめる、という人もいるかもしれないが、この光も闇もすこしだけ濃いような風土ととけあった感性と文体の織りなす「老人」というより人間性の讃歌には、老いの妄執も陰湿さも感じられない。



遠藤ケイ『暮らしの和道具』(2006年6月10日発行・ちくま新書 700+税)は和道具カタログのような解説書。項目は40に別れているが、複数の道具が紹介されている項もあり、巻末に索引のついた「百種におよぶ和道具を紹介し、その使い方・作り方・歴史を紹介する」(扉の言葉)という内容の一冊だ。すり鉢、おひつ、箸、土鍋、、、など、和道具といわれてすぐ思いつきそうなもののほかに、爪楊枝や、毛抜き、爪切り、歯ブラシ、などの項目もある。歯ブラシ、は、和道具だといえるのだろうか。紹介欄をみてみると、今の歯ブラシに似たものは、明治時代から、鯨のヒゲの柄に馬の毛を植えたものが使われたとある。江戸時代には、もっぱら焼き塩や、焼き蛤の粉をつけて指で歯をこすっていたらしい。もっとも黒文字(楊枝)は、よく使われていたという。和道具の良さを見直そうという本なので、いかに土鍋でたいた御飯が美味しいか、といったことも書かれていて、やってみても三日坊主になるだろうと予想しつつも、かなり啓発されるところがある。そういえば鰹節削り器はどこにしまってあっただろうか。。。



スティーヴン・ミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』(1990年5月10日発行・白水社 998+税)は小説集。3部構成で表題作他6編の作品が収録されている短編小説集だ。第1部の「アウグスト・エッシェンブルグ」では、19世紀ドイツを舞台に、からくり人形制作の魅力に憑かれた青年アウグストの半生が描かれている。時代の流行に超然として精緻な人形制作に没頭する主人公アウグストと、彼になんとか大衆受けをするからくり人形を作らせようとするパトロンのハウゼンシュタインの対照を通して、青年芸術家の悩みを描いたちょっと教養小説的な味わいのある小説世界が展開されている。もっとも作品の底にあるのは、人工物のかもしだす「美」的なものにたいする著者の共感や偏愛、ということにあるのではないか、ということが、雪が積もった翌日、街中の人がこぞって精緻な芸術品のような雪だるまをつくる、という「雪人間」や、遊園地でさまざまな仕掛けのある装置や人形にふれときの子供の無垢な気持ちを描いた表題作「イン・ザ・ペニー・アーケード」などから窺いしれる。「アウグスト・エッシェンブルグ」だけを読むといつの時代の人なのだろうと思うが、著者は「最後のロマン派」と呼ばれたりもするらしい現代アメリカの作家。ボルヘスやカルヴィーノを想起させる幻想紀行文「東方の国」も奇想にみちた散文詩のようで美しく楽しい。



荻悦子『インディアン・ライラック』(2005年4月15日発行・ダニエル社 1000+税)は小説集。イタリアの地中海沿岸にある田舎町の海辺のホテルに逗留した4人組の男女のミステリアスな心理劇を描いた「砂の声」と、和歌山県のサルスベリのある家に育った美奈子という女性の追想を通して、美奈子の幼なじみだった遠縁の暁彦という男性の思い出が綴られた表題作の二編が収録されている。どちらの作品にも一種の恋愛感情が描かれているといっていいのかもしれないけれど、さまざまな関係心理や周囲の状況のなかで不確かにゆらいでいるような異性の像が的になっていて、その不安や不信をとかしこんだような心の状態の描写そのものがテーマになっているのかもしれないと思えた。とくに表題作に描かれているような、親しい友達のように過ごした時期のある幼なじみの異性のイメージを、いつか心の中に同伴者のように育てて生きてきた、といった女性の内面世界の繊細な描写は、そういう体験の有無をとわず読者の胸に届くものがあると思う。。



絲山秋子『絲的メイソウ』(2006年7月25日発行・講談社 1300+税)はエッセイ集。初出は「小説現代」2004年9月号〜2006年3月号。趣味談義、恋愛談義、酒談義など、適度にユーモアをまじえた歯切れのいい文体のエッセイが19編収録されている。月刊雑誌の連載ということで、なかには文章や構成に趣向をこらしたものも散見できる。たとえば、一回分(原稿用紙11枚分)を、すべて五七調で綴った「世の中よろず五七調」というエッセイがあり、これには笑った。「、、、。一人酒、全然嫌じゃありません。記憶こそ、なくすがちゃんと帰ってる。、、、。」などと、ところどころ川柳になっているような、いないような文が続く。。他にも自分を一個のロボットのような製品とみなして使用説明書風に綴った「自分の取税」などもどこか現代詩風でおかしい。全体を通して、著者の趣味嗜好や、ふだんの暮らしぶりがみえてくる、というのが、この種の連載エッセイの魅力なのだろうが、この説明書エッセイではそうした情報が簡潔にまとめられているのだ。愛用パソコンMacのPowerBook G42台、毎日煙草を60本、酒を五合、コーヒー10杯などなど。



中沢新一『モカシン靴のシンデレラ』(2005年3月17日発行・マガジンハウス 1400+税)は物語。500年ほど前にヨーロッパからカナダに植民として移住した人々(主にフランス人)が、原住民のインディアン(ミクマク族)と次第に交流を深めていく過程で、自分たちの民話「シンデレラ」を、彼らに語りきかせた。やがてミクマク族は、その民話をアレンジして「肌をこがされた少女」という民話をつくりあげ、自分たちの伝承世界に取り入れたのだという。彼らの作り上げたその物語のすばらしさに感動した白人たちは、19世紀にインディアンの伝説を蒐集した本『アルゴンキン伝説集』を編纂するさいに、この民話をとりいれた、という経緯が本書解説に書かれている。つまり、本書はヨーロッパの民話「シンデレラ」が、カナダインディアンによって新しい解釈を加えられて物語「肌をこがされた少女」となったものを原型として、著者がさらなる翻案というかたちで日本語化したもの、ということのようだ。本書は、牧野千穂の美しい挿絵入りのちいさな絵本という感じにしあがっているが、深い精神性を感じさせる物語の内容とともに、あるときどこかの国で生まれた伝承はこんなふうに時代をこえて別の世界に伝搬し変化していくのか、という驚きの伝わってくる本だった。



高橋義人『グリム童話の世界』(2006年10月20日発行・岩波新書 700+税)はグリム童話の読み解き。メルヘンとは、集団記憶である、といった立場から、「シンデレラ」「いばら姫」「ホレおばさん」「白雪姫」「ラプンツェル」「蛙の王様」といったグリム童話集に収録されているメルヘンの読み解きを通して、キリスト教以前の信仰(古代ゲルマン信仰)との関連を考察した本。たとえば、世界中に類話の分布する「シンデレラ」は、主に、初期の農耕社会にうまれた「動植物の持つ魔力にたいする信仰」が中核になっていて、初期農耕文明に物語の祖型がたどれるかもしれない、といった記述がある。ちょっとした偶然だが、中沢新一『モカシン靴のシンデレラ』(マガジンハウス)を読んだばかりだったので、続き物のように、とても興味深く読んだ。