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走り書き「新刊」読書メモ(33)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(06.4.29~06.8.5)

 中井英夫『人形たちの夜』○ 富山太佳夫『笑う大英帝国』
 小島信夫『残光』○ 亀井俊介・沓掛良彦『名詩名訳物語』○ ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』(上中下)
 料理・ワタナベマキ『サルビア給食室だより』○ ジェームズ・L・マッガウ『記憶と情動の脳科学』○ 宮内勝典『焼身』○ 皆川博子『蝶』
 アゴタ・クリストフ『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』○ 村上龍+伊藤穰一『「個」を見つめるダイアローグ』○ 佐々木幹郎『中原中也 悲しみからはじまる』
 養老孟司*阿川佐和子『男女(オスメス)の怪』 阿刀田高『ことば遊びの楽しみ』○ ジョン・バッテル『ザ・サーチ』
 森山京『ハナさん』 せきしろ『去年ルノアールで』 清水義範『「大人」がいない・・・』
 絲山秋子『沖で待つ』 吉本隆明『老いの超え方』 岩村美保子『生きるなんて暇つぶしさ、ってきりぎりすは言った』
 波津彬子『鏡花夢幻』 椰月美智子『未来の息子』 高瀬ちひろ『踊るナマズ』
 平野啓一郎『顔のない裸体たち』 加藤徹『漢文の素養』 青山七恵『窓の灯』
 宮台真司+神保哲生『ネット社会の未来像』 アンドリュー・パーカー『眼の誕生』 V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊、ふたたび』


中井英夫『人形たちの夜』(19766年4月25日発行・潮出版社 1000)は小説。新刊というわけではなく、それどころか古書店で求めた30年前の本なのだが、人形がでてくるので(^^;、私的な備忘もかねてここで紹介しておくことにした。初出は「潮」の昭和50年3月号〜昭和51年2月号に連載されたもので、「一話一話が独立した短編でありながら、また春夏秋冬の季節に従って三話づつで一つの纏まった話にとなり、読み通したときには長編ともなり得るように配慮した。」(あとがき)という具合で、いかにも『虚無への供物』の作者らしい計算された構想になっている。これは明かしてもいいと思うが、幾つかの作品にはちらりと名前だけが登場するような、鬼頭という人形研究家が、全編をつうじての隠れた語り手で、彼の生涯に肉親や配偶者との間に起きた出来事や、彼に関わる知人たちの身に起きた出来事が、時にその人々になりかわるような視点から多面的に描かれている、ということが納得されるようにできている。ちょっと昔風の教養をちりばめた観念小説の文体にふれるようで懐かしく読んだ。人形にかかわるエピソードも、藁人形や、こけし、からくり人形など、作品の小道具のようにして幾多もりこまれていて、「夏」の章では沙耶子という名の人形教室の先生が登場する。沙耶子は若い詩人警察官と逢瀬を重ねるが、将来の幻滅を恐れて結婚に踏み切れない。その別れ際のセリフ。「結局、あなたもわたくしも、少しばかり人形を見過ぎたのかも知れませんわ。いままでも、そうして、これからも。」(「夢のパトロール」)作者が実生活でどの程度人形に興味をもっていたのかどうか、調べたことがないのだが、そういえば、詩集『眠る人への哀歌』にも、人形がでてくる印象的な詩が収録されていたのを思い出したのだった。



富山太佳夫『笑う大英帝国』(2006年5月19日発行・岩波新書 740+税)は笑いについての英国文化誌。いわゆる英国流ユーモアといわれるものがある。「別の国の人間にとっては、イギリスのユーモアは不愉快なもの。われわれの神経にとってはキツすぎる。」「ユーモアのもつ攻撃性というのは、どこにでも見られる現象であるが、ユーモアに残酷さがあるというのは、どちらかと言うと、イギリス特有のものでさる。」という19世紀のフランスの批評家イポリット・テーヌの文章がまえがきで紹介されている。あまり意識もせずに欧米の翻訳文芸や映画に親しんできて、なんとなくイギリス作家の作品にでてくるユーモアのもつ残酷な味わい、というのを感じる人も多いと思う。本書は、王家や政治家、聖書に至るまで風刺の対象にしてきたらしい英国流の笑いの伝統が、それぞれ章別に豊富な例をあげて紹介されている。もっとも、どうして英国のユーモアだけがそうした特色といえるような傾向をもつに至ったのか、ということに著者の関心がむけられているわけではないので、そういう文化論を本書に期待すると、ちょっと外されてしまうかもしれない。著者はユーモアをうむ原因(動機)よりも、効果に関心があるという。「『女王様と私』の中では、笑いがセンチメンタリズムと連結されていた。そしてその笑いの毒がセンチメンタリズムによって幾分かは毒抜きされ、それと同時に、センチメンタリズムが堕落しただけの感傷性のレベルから多少なりとも引き上げられて、本来の美しさを取り戻していた。そして、ひょっとすると、これこそがイギリス的なユーモアの〈本質〉かもしれないのである。」(第一章「笑いの王様」より)。



小島信夫『残光』(2006年5月30日発行・新潮社 1600+税)は長編小説。初出は「新潮」2006年2月号。これほど「小説」的な小説もめずらしい、という言い方ができそうなところがあると同時に、この作品を「小説」です、というふうに紹介すると、何か間違った言い方をしているような気にもなる。というのは、いわゆる「主人公」がいて、順序だっておおまかな起承転結のあるストーリーが展開していく、といった、現在も大量に書かれ、一般にもそう受け止められている物語性のある文学、といった「小説」というイメージからの逸脱が、この作者の作品の特色になっているからだ。たしかにほとんど作者の分身とおぼしき「ぼく」が終始語り続けるのは、自らの生活環境や私生活に起きた出来事(国立に住む「ぼく」が、保阪和志著『小説の自由』の出版記念に青山ブックセンターで開催された「トーク」に出席したという出来事が、そこで語られた内容や、その前後の様子をふくめて作品の中心になっている)であり、91歳になる作家の「ぼく」が日頃どんな暮らしぶりをしているのかということも、住んでいる家屋が耐震工事中であるようなことをふくめて、身辺雑記的なエッセイを読むように伝わってくる。けれど作品としての主軸は、あくまで机にむかっている作者自身の意識の流れをおうこと、にあるようなので、「ぼく」という主語を使って、脳裏に浮かぶことを、とめどなく感じるままに書いていくと、結果的にそうした私生活的な遠近も浮き彫りになってくるというふうな感じなのだ(もちろん、とめどなく、というのは話題の転換に関しての印象であり、その語り口やテーマの選択に強い個性がはたらいている、ということは前提なのだが)。いわゆる既成の「文学的」約束事を離れて、いったんこの書字機械のような意識の状態にはいりこむと、そこになにが生じるのか、という記述実験のようなところもあって、それはやはり本質的ないみで「小説」と呼ぶのがふさわしいのかもしれない。



亀井俊介・沓掛良彦『名詩名訳物語』(2005年11月25日発行・岩波書店 2800+税)は詩選集。明治・大正篇、昭和平成篇の二部構成で、亀井俊介・沓掛良彦の両氏が、「それぞれ十五篇、計三十篇の名訳と信じる詩を選び、評釈を試みたのが本書である。」(あとがきより)。明治十五年の外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎による『新体詩抄』からはじまり、平成五年の中村真一郎『古韻余響』まで、とりあげられている詩が採録されている訳詩集は22冊。8編がそれらの詩集から重複してとられていることになる。名詩かどうかというのは、そこに書かれている言語で作品を読んだときに感じる作品についての価値判断だから、その作品が翻訳作品であるかどうか、ということは一義的な意味をもたない。名訳かどうかというのは、訳者の翻訳技術についての評者の価値判断だから、これは厳密にいえば、原詩が名詩かどうかということとは別で、場合によれば結果的にある作品が日本語の詩としては名詩と呼べるものになっている、という判断もありうる。そういうややこしいことを考えるのも面白いが、この本でとりあげられているのは勿論、名詩の名訳、という幸福な出会いの産物ばかりといっていいのだと思う。さすがにヴェルレーヌの「落ち葉」やブッセの「山のあなた」、ハイネの「ローレライ」、アンデルセンの「ゴンドラの唄」、アポリネールの「ミラボー橋」、コクトーの「耳」、といったように、これまで愛唱詩として評価のさだまっている作品も多く収録されていて、一編毎に作品の美しさを解きほぐす丁寧な解説もついている。記憶の片隅にたいていは断片として住みついているような詩の調べを作品全体としてたどりながら、ゆっくり味わってよむのに向いている一冊だ。



ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』(上中下)(2006年3月10日発行・角川文庫 各巻552+税)はミステリー小説。ハーヴァード大学教授で宗教象徴学の権威ロバート・ラングドンは、ルーブル美術館館長ジャック・ソニエールを殺害した容疑でフランス司法警察に追われる身となるが、彼の逃亡を手助けしたソニエールの孫娘で司法警察暗号解読官のソフィ・ヌヴゥーとともに、殺されたソニエールが身をもって殺害現場に遺した「聖杯」のありかを示す謎を解き明かそうと奔走するのだった。。キリスト教の教義やその歴史についての、カソリック教会からは長らく異端とされてきた諸説や伝承、キリスト教美術や新資料の研究成果をストーリーの細部に総合的に絡み合わせたミステリー小説。今回は映画化された作品をみてからこの翻訳された原作小説を読んだ。映画のあわただしいストーリー展開の背景にあって作者が提示しているらしいキリスト教についての研究や諸説を統合したようなイメージを、もっとよく知りたいという欲求は半ば満たされたけれど、読んでいるうちに微妙に小説の描写とぶれる映画のシーンが蘇って、どうもぎくしゃくした感じだった。この作品については、じっくり小説のほうを読んでから映画をみて、全編急展開のストーリーを楽しむ、というのがいいのかもしれない。この映画と原作のずれかたは、エーコの『薔薇の名前』にちょっと似ている感じだ。



料理・ワタナベマキ『サルビア給食室だより』(2006年5月10日発行・ソニー・マガジンズ 1500+税)は料理の本。12ヶ月の旬の食材を使った料理のレシピが、かりん酒やジャムの作り方などまで含めると全部で64種類、きれいな写真やイラストつきで紹介されている。本の制作スタッフのひとり(文章担当)である白井明大さんのネットのブログで紹介されていて知った本だが、書店でみて、気に入ってもとめた。きれいな写真入りの料理の本というのは、ぱらぱらめくるだけでも楽しいので、たまに買うことがある。もちろん、これはつくってみたい、という料理があればなおさらのこと。本書では、「8月 葉月」の項のトップにある「冷や汁そうめん」というのをさっそく作ってみた。焼いたアジの干物のすり身を味噌や胡麻と一緒にすり込んで、つぶした豆腐や刻んだ茗荷や胡瓜を入れ、だし汁でのばした汁をつくるのだが、この一手間かけた冷やしそうめんの穏やかでこくのある味わいは、ふだん食べつけないのになぜか懐かしい。8月の項の他のレシピをあげると、「ゴーヤの梅肉てんぷら」「トマトのだし漬け」「洋酒のきいたメロンのシャーベット ヨーグルトソース添え」がある。いかにも体にもよさそうでちょっとお洒落な一品料理のレシピが並んでいる感じがわかるだろうか。



ジェームズ・L・マッガウ『記憶と情動の脳科学』(2006年4月20日発行・講談社ブルーバックス 980+税)は脳科学の啓蒙書。副題に「「忘れにくい記憶」の作られ方」とあり、いわゆる「短期記憶」と「長期記憶」の違いや、長期記憶がどのようなメカニズムによってつくられるのか、ということが、この分野の歴史にのこる数々の実験や学説を紹介しながら丁寧に解説されている。中世には、土地の譲渡や有力な家系間の結婚式といった重要な出来事を「記録」するために、7歳くらいの男児を選び、慎重に事実経過を観察させたうえでその子を川の中に投げ込む、ということが行われた、という興味深い慣習のことが「はじめに」に記されている。当時ははげしい情動とともに記憶された出来事は、生涯保持されると考えられていたからだという。現代では、情動がかきたてられるとストレスホルモンが活性化され、特定の脳部位を刺激し、その脳部位は他の最近獲得された情報を記憶として固定化する脳部位に働きかける、というようなメカニズムがわかっている、らしい。「つまり、ストレスもわずかであれば、持続的な記憶を作るのに役立つのです。」本書の本文には実はこうした劇的なエピソードの記述はあまりでてこない。100年ほどの歴史をもつという記憶の科学的研究の実験や諸学説の変遷が、地味といえば地味に論理だてて紹介されている。けれどこの地味さというのが、著者の科学者としての信念や方法論と結びついているのがじっくりと伝わってくるというのが、普通ちょっと得難いおまけのような読後の印象だった。「科学というものは、実験結果があっても、それによって証明できるのはある仮説が正しくないということだけです。仮説が正しいと証明することはできないのです。重要な実験結果が別な解釈を除外することによって、アイデアは信頼性を得ていくのです。」(p130)



宮内勝典『焼身』(2005年7月10日発行・集英社 2000+税)は小説。「すばる」2005年3月号に初出。1963年6月11日、サイゴン市(現ホーチミン市)の十字路で、ひとりのヴェトナム人僧侶が南ヴェトナム政府の仏教徒弾圧政策に抗議して、ガソリンを全身に浴びて焼身自殺を遂げた。当時青年だった著者はその報道に衝撃をうけ、いらい30数年、作家として身をたてた以降も、当時の報道にはその名も記されていなかったというその僧侶(著者は、ひそかにX師と呼んでいたという)のことをいつか書きたい、その足跡を追ってみたい、と思い続けていたという。本書は57歳になる「私」が、夫人を伴ってヴェトナムを訪れ、数少ない手がかりをもとにX師の足跡を訪ねあるく、というドキュメント風の長編小説。どんな思想が僧侶をして焼身という特異な行為にかりたてたのか、またその僧侶とはどんな人柄の人物だったのか、という「私」の抱いている積年の謎を追うミステリーのようにも読めるし、現代のヴェトナム社会やそこに生きる人々を冷徹な旅行者=作家の目で綴ったルポのようにも読める。著者は若いころに世界中を放浪し、子息を「世界市民」として育てようとアメリカの永住権も取得したという人らしい。そういう人にして、だからこそ、というべきか、9.11以降、世界から「なにか、信じるにたるものがありますか」という問いをつきつけられるように感じたという。このひとりの僧侶の足跡をたどる旅も、その問いかけに深くむすびついていることが本書から読みとれる。



皆川博子『蝶』(2005年12月15日発行・文藝春秋 1429+税)は短編小説集。いずれも「オール讀物」に初出の「空の色さえ」「蝶」「艀」「想ひ出すなよ」「妙に清らの」「龍騎兵は近づけり」「幻燈」「遺し文」の8作品が収録されている。奥付の略歴欄をみると、著者は「ミステリーから幻想小説、時代小説など、幅広いジャンルにわたり活躍」されている作家のようで、直木賞はじめ幾つもの文学賞の受賞歴が記載されている。読めばそれなりに面白いことはわかっているミステリーとか時代小説といったジャンルには普段なかなか手が届かないので、作者の名前になじみがなかったのだが、本書には、そういう経歴が裏打ちするように、じっくり書き込んで趣向を凝らした一品料理のような、読み物として楽しめる作品がならんでいる。趣向といえば、この作品集には、いずれの作品にも近代の詩歌が挿入されているのも特徴になっている。堀口大學、西条八十、上田敏といった訳者による翻訳詩の他、『泣薄詩抄』や伊良子清白の『孔雀船』からの引用もある。作品の舞台がほぼ戦前から戦中期にかけて、というのも共通している。「遺し文」は、この詩歌と作品のとりあわせがとりわけ成功していて、読後に胸をつかれるような秀作になっているように思う。



アゴタ・クリストフ『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』(2006年3月5日発行・白水社 1400+税)は自伝的エッセーの集成。1986年にフランスの出版社から刊行された著者の小説『悪童日記』は、2001年の時点で33の異なる言語に翻訳されているという(邦訳は1991年)。私は未読で、この本は図書館の新刊書の棚で目について何気なく借り出したのだったが、そうした著名作家の伝記的事実への興味とは別に、掘茂樹氏の訳者あとがきにあるように、小冊子ながら独立した「自伝的物語」としても十分に読み応えのあるものになっているように思えた。1935年にハンガリーに生まれた著者は、20代に難民としてスイスに移住した。教科書や新聞やポスター、料理のレシピから紙切れに至るまで、印刷されたものは何でも読むというほどの活字好きの子供だったという著者が、スイスにきて5年ほどの間、フランス語を話すことは覚えても本はまったく読めない、という状態におかれる。その「文盲」状態の克服の成果として『悪童日記』が成ったことがわかるが、本書の各章にも一貫して人と言葉がどんなふうに出会うのか、というテーマが潜在していて、静かな感動を呼ぶというところがある。



村上龍+伊藤穰一『「個」を見つめるダイアローグ』(2006年5月25日発行・ダイヤモンド社 1600+税)は対談。初出の記載はないけれど「9ヶ月に及ぶ対話」、と帯にあるので、語りおろしではなく、いちど雑誌に連載された対談の単行本化なのかもしれない。対談の内容は大雑把にいえば、インターネットの世界の話題をからめた、現代日本(社会)論、ということになるだろうか。迂闊なことに「IT界の伝道師」と帯にある、伊藤氏のことをまるで知らずに読んだ。日本生まれのアメリカ育ちで、略歴欄に、日本のIT先導役として国内外の団体に参加、ICNN理事、テクノタリィジャパン取締役、シックスアパート会長、などとあっても、どうもぴんとこないが、世界的な人脈をもち、日本を外部からみているような場にいる若い世代(66年生まれ)の実業家・社会活動家という感じだろうか。対談では、主に村上氏が伊藤氏の質問に答えるかたちで、個人や日本社会についての見解を披瀝する、という場面が多いけれど、そういう人ならではのインターネット関連情報やグローバルなものの見方が新鮮で、本書のちょっとした読みどころになっていると思う。



佐々木幹郎『中原中也 悲しみからはじまる』(2005年9月12日発行・みすず書房 1400+税)は評伝。中原中也が昭和2年〜5年頃使っていたと推定されるという「小年時」と題された詩の創作ノート(第一詩集『山羊の歌』は昭和9年刊)を図版入りで紹介し、ノートに書かれた作品の加筆や修正個所をたどって、作品の推敲プロセスを推理していく、という興味深い作品研究が本書の特色といえるだろう。さらに、長谷川泰子や小林秀雄、富永太郎との関係など中也の伝記的事実にもふれた、作品論と評伝をかねそなえたコンパクトな中也研究の本になっている。ノートに残された加筆訂正の痕跡から作品の推敲過程を再現して、と書くと、重箱のすみをつつくような専門家の研究書みたいだが、言葉の微妙なニュアンスの差異を含みとるように読み解いていく「考古学的」(文中の言葉)プロセスからは、詩の実作者の熱が伝わってきて説得力がある。小冊子なので、評伝的な部分など、ややものたりないというむきには、本書の前身ともいうべき同氏の評伝『中原中也 近代日本詩人選16』(筑摩書房・1988年刊)がさらに詳しい。



養老孟司*阿川佐和子『男女(オスメス)の怪』(2006年6月30日発行・大和書房 1400+税)は対談集。今や養老氏はベストセラーメーカーと目されているのか、「あらゆる手法を駆使して養老さんと接触したがっている人が、世の中に溢れている。」ということになっているらしく、本書もそういう「世の趨勢にきわめて従順なる不純な動機」により、養老氏に要請した結果、実現した対談集であると阿川さんのあとがきにある。知名度の高い女性対談者を相手に、恋愛感情や結婚といった主に男女の仲をめぐる話題についてうちとけた雰囲気で養老節を語ってもらおう、という感じの企画本だと思うが、実際、男女の仲から動物の性差や脳の世界、個人や愛という観念、都市論や日本人論にいたるまで話はひろがって、楽しくあっというまに読み終えてしまえる本にしあがっている。対談相手の阿川さんの受け答えも当意即妙というかんじで、チャット風とでもいいたいようなのりがあるのも特徴だと思う。恋愛は病気で、結婚は制度、という養老氏の自説のほか、大抵の鳥は4つの原色を識別するとか、相手の言葉をきく前に言おうとする意味に反応するミラーニューロンの話など、興味深い話題がどんどん流れてしまうのが、惜しいような感じだ。



阿刀田高『ことば遊びの楽しみ』(2006年5月19日発行・岩波新書 700+税)はことば遊びの解説書。しゃれ、比喩、なぞなぞ、回文、アナグラム、いろは歌、早口ことば、畳文、折り句、替え歌、と、さまざまな「ことば遊び」が、それぞれ大まかに項目をわけて例をあげながら紹介してあって、読みやすい案内書という感じになっている。「ことば遊び」を、意味を正しくつたえるための実用的な言説からの逸脱というふうにとらえてみると、その境界は案外あいまいだ。ちょっとした普段の会話などでも、言葉のもっているルールによって、そこに意図しない意味が生じてしまうことがある。そういう逸脱をおもしろがるという気持ちをもてるかどうか、は、けっこう言葉という文化についての感受性のわかれめなのだと思う。古典和歌などを読んでいると、かけことば(しゃれ)や縁語が頻出する。そういう技芸がうたの美の要素にされていた、ということの意味について、すこし考えてみるのも面白いかもしれない。いろは歌の項で、四十八のかなを一度だけすべて使って詩歌(文字歌)をつくる、という「ことば遊び」が紹介されていて、ひとりで数千首もつくっている人が何人もいるという。そういうことができるものなのかと、これには驚いた。



ジョン・バッテル『ザ・サーチ』(2005年11月28日発行・日経BP社 1800+税)はビジネス・ノンフィクション。ウェブの検索エンジンで有名なgoogle社の誕生とその後の驚異的な成長の軌跡をたどった本で、ネットの検索システムそのものの意義や同時期の周辺企業の展開についても詳しい記述がある。ふだん無意識に便利なアイテムのように使っているネットの検索エンジンだが、その背後には興味深い技術革新の歴史と経済市場とからんだ開発者・経営者たちの思わくが渦巻いている、ということを再認させられる本だ。商品を購入する目的でキーワードをうちこんで検索すると膨大なリストが表示されるが、ある企業の販売サイトがトップページにランキングされる、ということの広告的な意味は大きい。ランキングのトップに掲載されると、当然ながら商品の売り上げが倍増する、ということがおこる。けれど、当然ながらシステムの微調整などの理由で突然ランキングの下位になったら、売り上げは激減する。たぶんその程度は企業努力によって立ち直れるというようなことの限度をこえている。本書には、そういう空恐ろしいようなエピソードも記載されている。検索機能が進化することによって、膨大な情報を共有できる世界がやってくる。誰が何を検索したのかという情報もまた蓄積されて、効率化がはかられるとともに多様なビジネスチャンスも生まれる。ネットの近未来のイメージは不透明だけれど、検索機能の進化とその浸透ということがネックなのははたしかなようだ。



森山京『ハナさん』(2006年5月発行・ポプラ社 1200+税)は童話集。ハナさんという名前のお婆さんが主人公の7編の童話が収録されている。この「ハナさん」たちは、同一人物というふうに考えてもいいけれど、それぞれの短い作品はどれも一編で完結している。サブタイトルに「おばあさんの童話」とあるのだが、実のところ、これらの作品を童話といっていいのかどうか、判断にまようところがある。あえて童話と呼びたいようなエッセンス(微妙に日常をはなれた感覚のようなもの)が希薄な感じがするのだ。ありふれてもいるような日常のワンシーンをきりとった淡彩画のような作品群は、むしろ、詩や掌編小説、短章集の感触にちかい。ハナさんと呼ばれているお婆さんたちは、電車の中で若い人の親切にふれたり、同窓生仲間で集まって歓談したり、孫娘に昔話の浦島太郎を読んでやったのをきっかけに幼い頃の思い出にひたったり、夕日をみて子育てをしていた頃の印象的な出来事を思い出したりする。さりげない筆致のなかにハナさんの成熟した老いの体感のようなものがとかしこまれているのが印象的だ。それぞれの作品の巻頭に個性的な山本容子さんの版画が挿入されているのも、とても文章とマッチしている。



せきしろ『去年ルノアールで』(2006年2月23日発行・マガジンハウス 1500+税)はエッセイ集。『relax』2000年2月号〜2004年10月号に連載された「今月のルノアール」に加筆、一部書き下ろされたもの、とある。東京に展開するチェーン店の喫茶店「ルノアール」。著者は、そのなかでも中央線沿線の某駅近くにある店の常連客となって、店を訪れる様々な人々を観察する。本書は毎回著者がそこで空想したり見聞きした出来事を、とてもおもしろおかしくコント風に仕上げた連続エッセイ60編の集成だ。「無気力文学の金字塔。」と帯にあって、最初小説だと思いこんで読みはじめたのだが、エッセイ集だった(著者自身は文中で「コント」と呼んでいる)。親子連れ、中年カップル、セールスマン、平日昼間の都会の喫茶店に来店するごく普通の人々のちょっと変わった風体や言動が、ここでは著者のとめどない空想力=想像力で脚色されてユーモラスなギャグの種になっている。喫茶店での見聞をネタに文章を書くということは、今時はブログにでもありそうだけれど、考えてみればこれは月刊一本という連載もので、内容は軽快なのりでも書き流したという感じはしない(土屋賢一氏の笑いのセンスにちょっと似ていると思った)。買い物にいく電車のなかでついつい破顔一笑という感じで読んだ。



清水義範『「大人」がいない・・・』(2006年1月10日発行・ちくま新書 680+税)は現代文化論。ショートショートあり、架空対談あり、エッセイ風文章ありと多彩な内容の本。本書は「どうも最近の日本人は、大人がちゃんと大人になっていない、、思考法などがまともな大人になっていないような気が。そして日本の文化がどんどん子供っぽくなっているような気がするんです。」(あとがき)という著者の実感から、うまれた本だという。日本では「もっと大人になれ」とか「大人げない」といった老成した思慮分別を価値とする言い方がある一方で、逆になにより「若さ」(女性の場合最近では「かわいさ」)を称揚するような文化がある。この両者のバランスが、最近は「若さ」の方に傾いているのではないか、というのが本書の指摘するところで、では憂国の書みたいな内容かというとそうでもなく、「決して時代風潮に嫌味を投げかけたかったわけではない。、、この文化もある意味ではとても面白いのだがと、美点も認めたつもりだ。」(あとがき)とも書かれている。時代風潮を一方的に批判するのではなく、バランスの必要性を説く本書は、ややものたりないと感じられるかもしれない。けれど「2チャンネルほどおそろしいものはない」とか、教師は父母との対応を一番煩わしいと感じているとか、著者の体験に即したエピソードには共感する人も多いと思う。



絲山秋子『沖で待つ』(2006年2月25日発行・文芸春秋 952+税)は小説集。第134回の芥川賞を受賞した表題作と、「勤労感謝の日」(いずれも04年度に「文学界」に初出)が収録されている。「勤労感謝の日」は、もっか失業中の主人公(36歳の女性)が隣家の未亡人の紹介でお見合いをさせられる、という一日の出来事が描かれた作品。「沖で待つ」は、住宅設備メーカーに勤める主人公が、かって同期入社して同じ福岡支社に赴任して苦労をともにした元同僚の訃報にせっし、彼の思い出を懐古するという作品。作者の持ち味であるような社会の様々な出来事にたいして批評感覚のあるアンテナがきりきりたっている、という若いひとの現代感覚がどちらの作品にもよくでているけれど、「沖で待つ」に特徴的なのは、職場の同僚にたいする主人公の一種の「戦友」的な友愛感情が描かれていることだろう。この性別をこえた仲間意識のようなものは、企業でも学校でも軍隊でも、いわゆる人間の共同体験の場から自然に生まれるような感情なのだと思うが、現実に多くの人によって「生きられている」にも関わらず、そうしたテーマを正面から「文学」として掘り下げてとりあげている作品は少ない。「性」を解除したところで輝くような友愛の意味、ということが、そのテーマをくぐりぬけていて、どこか未来に触れているような感触も新鮮だ。



吉本隆明『老いの超え方』(2006年5月30日発行・朝日新聞社 1700+税)はインタヴュー集。佐藤信也(ライフサポート社)氏の質問に答えるかたちで、「身体」、「社会」、「思想」、「死」、と四部だてに構成されている様々なテーマについて、広範に吉本氏の現在の見解が語られている。各部の末尾には、語録集として、近年に出版された吉本氏の『老いの流儀』、『新・死の位相学』、『幸福論』、『中学生のための社会科』、『悪人正機』、『時代病』、『吉本隆明「食」を語る』といった著作から関連発言個所が引用されていて、発言内容の補足になっている。ふつう老人になると身体の運動性が衰えて、にぶくなる、といわれる。けれど、これを精神も含めた全体でいうと、自分の意志力や精神の動きと身体の運動性の間隔が拡がった状態、極度に分離した状態、と考えることができる。これが本書では「超人間」(の状態)といわれている。そういう区別をたてることで、現実に老人と接したり介護する側の「老い」に対しての、機能主義的な善意の判断を超えた、ひとつの理解の道筋がたてられていると言って良いと思う。



岩村美保子『生きるなんて暇つぶしさ、ってきりぎりすは言った』(2006年2月15日発行・文芸社 1200+税)はエッセイ集。ジャンルでいうとエッセイ集ということになるのだと思うけれど、読んだ感じは、もうひとつ軽い。日々のとりとめない思いや、そのときの気分から湧きだしたような話題を綴った短文を束ねた爽やかな短章集だ。読む前に著者から本書はネットのソーシャル・ネットワーキングサイトに日記のように掲載していた文章の多くを収録したもの、とお聞きしたのが頷ける感じだ。ここで書かれている言葉は、ほとんど、話言葉のつぶやきのようなものになっている。これは自然体、ということとすこし違っている。「風のように、、、すぎていく言葉の妙」と帯にあるけれど、この「風のように」というところが、ひとつの放出感のまとなのだと思う。表現としてみれば、なにかが自覚的に塞き止められているのだ。最後におかれた「魔法がとけるまで」というタイトルの文章に、「私には森にも住めず森の外の住人でもないという魔法がかかったままなのです。」という印象的な一節がある。「森と森の外との間には一瞬暗闇になる瞬間があって」「吸いこまれたら終わり、森へも森の外へも行けなくなり永遠をさ迷うことになるのです。」たぶんこの深淵に自覚的であるかないかということが、言葉のみえない質のちがいを決定しているようなところに言葉はきているのだろう。



波津彬子『鏡花夢幻』(2000年6月20日発行・白泉社文庫 524+税)はコミック。泉鏡花の戯曲「天守物語」「夜叉ヶ池」「海神別荘」を原作にした同名のコミック三作と、「泉鏡花を訪ねて」という解説風のコミックが収録されている。この世界とは別に神々や妖精や精霊、妖怪や魑魅魍魎たちの住む世界が実在する、というのは、ほとんどのファンタジーや幻想文学の基本構図かもしれない。ところで、この異世界がある、ということだけでなく、異世界には異世界の(人間とは無関係な日常の)秩序や営みがある、というところまでの信憑に届くような想像力の質というものがあって、鏡花はそうした特徴を良くかねそなえている作家だとおもうけれど、本書は原作のそういう特質をうまくすくいあげているようで楽しんで読んだ。この作家は代表作に、モノを介して異世界とコンタクトのできる能力をもった骨董店の美少年が活躍するという連作マンガ『雨柳堂夢噺』(朝日ソノラマ文庫)があり、いま手元にはお借りしている4巻分(39話分)がある。本書の収録作(鏡花の原作マンガ)を描くということも、この連載執筆中に、編集者からすすめられたらしい。よみはじめると、そういうエピソードがさもありなんという感じで、どの作品からも異世界の実在がほのみえてくるようで愉しい。この『雨柳堂夢噺』は、このところ毎晩寝る前に数話ずつ読むのを楽しみにしているところだ。



椰月美智子『未来の息子』(2006年1月10日発行・集英社 1300+税)は短編小説集。こっくりさん占いをしたのがきっかけで、未来からやってきたという小人の姿をした自分の息子と対面することになった中学生の少女の物語「未来の息子」(初出「小説推理」)、いつも橋のたもとに佇んでいるきみどり色の顔をした老婆とアルバイト青年の出会いを描いた「三ツ谷橋」(書き下ろし)、親代わりの一卵性双生児の姉弟と中学生の少女の暮らす家庭を描いた「月島さんちのフミちゃん」(書き下ろし)、冷え切った夫婦仲でふだん性的な空想にひたるのをストレス解消にしているキャリアウーマンの主婦が親戚の子供を預かる話「女」(初出「小説推理」)、青年が恋人の女性から、以前友人とでかけた温泉旅館で出会ったという3本指のおじさんについてのエピソードをきく、という「告白」(書き下ろし)、の5作品が収録されている。これはファンタジー風、これは青春小説風、これはホラー小説風、あるいは心理小説風などと、色わけすることができそうなほど趣向の違う作品が収録されているけれど、そういうジャンルにこだわらない物語全般への創作の喜びがみなぎっているような感じがする作品集だ。これは作家の資質に関わることなのかもしれないが、スティーブン・キングが、自分を書く作品のジャンルで区別しないで作家と呼んでほしいと言ったというのをちょっと思い出した。



高瀬ちひろ『踊るナマズ』(2006年1月10日発行・集英社 1300+税)は小説集。主人公の生まれ育った町に伝わるナマズについての伝承をテーマにした表題作と、父のかたみの万華鏡を所有する姉弟の近親相姦的な関係を描いた『上海テレイド』の二編が収録されている。表題作は、ナマズが町のシンボルマークにもなっているさる田舎の町が舞台で、いまは結婚して妊娠中の主人公(私)が少女だったころに、仲のいい少年と二人で町に住むナマズ好きの人物のもとに何度も通って彼の口からその家に先祖から伝わるという奇妙なナマズについての言い伝えをきいた時のことを、主人公(私)が自分のお腹に宿っている子供にむかって伝え聴かせる、という、フォークロア的な味のある作品。『上海テレイド』は、うってかわって海辺の洋館にひとりで暮らす女と家に帰ってきた弟の近親相姦的な過去の愛の起伏を描いた物語で、ちょっと耽美的な少女漫画にでもありそうな自閉した心理世界が濃密に描かれている。どちらの作品にも若い男女の性の感覚がでているところが共通しているけれど、全体の印象はずいぶん違う。もっとも略歴欄をみると著者は東京大学の大学院(人文社会系研究科)を修了したひと(表題作ですばる文学賞を受賞)、というから、民俗学的なテーマも少女漫画的なテーマも、物語という宇宙のなかで素材のように調理してみた、という感じなのかも知れない。



平野啓一郎『顔のない裸体たち』(2006年3月30日発行・新潮社 1300+税)は小説。開校中の小学校の校庭に入り込んでいた男女があり、不審をみとがめて詰問した教師達を男がもっていたナイフで傷つけたために二人は緊急逮捕された。調べによるとこのカップルはネットの「出会い系サイト」で知り合った間柄で、男(〈形原盈・仮名〉地方公務員)は自分たちの屋外セックスの様子をビデオに収録してネットに流すことを趣味にしていて、その日も同じ目的で二人で校内に侵入していたことが明らかになった。この事件は女性(吉田希美子・仮名〉の職業が中学校教師であったことから一部マスコミに注目され、「変態カップル」「淫乱女教師」などという見出しで派手に報道された。。。この小説は、そういう「事件」に材をとるかたちで、事件に至るまでの男女それぞれの来歴や行状、二人の関係をえがいて、ネット社会に依存して一方で匿名の顔をもって生きる現代人男女の姿を、ややつきはなしたスタンスで浮き彫りにしてみせた、という感じのもの。性に関わって『昼顔』的な二重生活をする女性が作品に描かれることはめずらしくない。この小説で新しいといえば、受動的な女性が男に要求されるままにそうなっていったその過程に、時代の気分のような、なにか腰のかるい現代的な飢餓感のようなものがかいまみえる、というところだろうか。また、「恋愛を躊躇させるものとは劣等感と決まっている、、」「なるほど、秘密は人を内面化させる。しかし、その結果、人が気遣うようになるのは、却ってその外面である。」というような、どこか古典小説風の断言が顔をだすところが、いまどきあまりお目にかかれないような作品としての文体の魅力にもなっている感じがした。



加藤徹『漢文の素養』(2006年2月20日発行・光文社新書 720+税)は漢文の歴史にまつわる啓蒙書。日本の古代から現代に至るまでの漢文の受容の変遷が、豊富な資料文献の例示とともに様々な歴史上の逸話をまじえてコンパクトにまとめられている。漢文の移入が日本の歴史にはたした役割には絶大なものがある、ということは漠然とわかっていても、こうして通史的にまとめられたものを読むと、あらためてその感をつよくする。とはいえ、どうもこの「漠然と」、という思いがぬぐいがたいのは、「漢文の素養」なるものをまったく喪失した場所から考えざるをえないからだろうか。江戸にはじまった漢文の黄金時代は、大正期に入ると「急速に衰え」、昭和には「気分をもりあげるなど、いわばアクセサリーにすぎなくなっていた」。かくて「「消費財としての教養」となったまま、今日に至っている」、と著者は言う。「消費財としての教養」とはきつい言い方だが、著者も示唆するように、この「漢文の素養」の衰退ということの意味は、世代や出自をこえた共通感覚の衰退ということにも結びついているだろう。おなじようないいかたをすれば「消費財としての歴史」というようなものとしてしか、もう歴史のイメージも実感できなくなっているのかもしれない。。。



青山七恵『窓の灯』(2005年11月30日発行・河出書房新社 1000+税)は小説。主人公の「私」は通っていた大学を一年もたたずにやめたあと、アパートのちかくの飲み屋に通っては店の片隅でミステリーを読むという所在のない暮らしをしていたが、ふとしたきっかけで、その店を経営している「姉さん」にさそわれ、店の二階に住みこみで半年前から働き始めた。そんな「私」の日常が、店に通ってく常連客たちのだれかれとなく関係をもってしまう「姉さん」の生活ぶりへの視線や、窓越しにみる隣のアパートの住人たちについての観察などを通して淡々と描写されている。「女の子のピーピング・トム(覗き見常習犯)を描いた本邦初の小説かもしれません。」(斎藤美奈子)と、帯にあるように、「私」は深夜の散歩中などでも、窓越しに他人の生活を覗き見する。この「覗き見」は、他者との正面からむきあった関係を望みながら、さまざまな理由で関係をもてない若い人の現代的な心理を自然にすくいあげている。世界をすこし身をひいた場所から、「ミステリー」の読者のように読みとこう、と、している感じ、といえばいいのか。たぶんこの「覗き見」は環境や関係の不慣れさがもたらすものだが、そこには誰も覚えのあるような青春期特有の甘酸っぱい孤独の匂いがたちこめてもいる。説得力があって「病的」という感じはしない。。



宮台真司+神保哲生『ネット社会の未来像』(2006年1月25日発行・春秋社 1600+税)は対談・鼎談集。ニュース専門チャンネル放送局「ビデオニュース・ドットコム」で毎週更新されている「神保・宮台マル激トーク・オン・デマインド」という対談番組のの内容を大幅に加筆訂正したうえで出版された本で、二時間番組の5回分と語りおろしの対談一回分が収録されている。シリーズ3冊目になるという今回からは鼎談になって、各回のゲストとして東浩紀、、水越伸、西垣通、池田信夫の各氏が参加されている。映像の番組にすれば、のべ10時間以上の内容が、監視社会化の問題、NHK問題について、テレビとインターネットの関係、著作権問題など、いずれもインターネットとの関連を念頭におきながら、広範な議論が展開されているのが特徴だ。議論百出という感じで、まとまった印象をいいにくいが、神保氏はあとがきで、専門家をまじえてのこの連続トークの印象は、ネット社会の見通しは必ずしも明るくないというものだった、といったことを書かれている。これはたとえばホリエモンのビジネスモデルについて論じられている「第四章 テレビとインターネットの仁義なき戦い」で、一種のネット社会を理想化するような堀江氏の発言部分に、西垣氏が切り込みをいれて掘り下げて分析されているところなどから具体的に窺いしれて興味深く読んだ。



アンドリュー・パーカー『眼の誕生』(2006年3月3日発行・草思社 2200+税)は生物進化についての新説を唱えた本。「5億4300万年前からの、わずか500万年間に、すべての動物門が複雑な外部形態を持つに至った進化上の大事変」(第一章)は「カンブリア紀の大爆発」、といわれる。この出来事は、スティーブン・ジェイ・グールドの『ワンダフル・ライフ----バージェス頁岩と生物進化の物語』(ハヤカワ文庫)という著書で、出現した奇妙な形態をもつ多様な生物たちの化石からの復元イメージの図版とともに紹介され、今ではひろく知られるようになっているといっていいだろう。この「カンブリア紀の爆発」の原因として、気候の変動(スノーボールアース説)や、生物的環境の変化(コラーゲンの進化説や、植物プランクトンの増加説)など、様々な説が提唱されてきたというが、本書ではそれらの諸説を批判しつつ、そうした諸説の「不明確さや憶測に終止符をうつつもり」として、著者のいうところの「光スイッチ説」が紹介されている。ひとことでいえば、生物の「眼の獲得」こそが、その原因(眼を獲得した生物間の捕食・被捕食の関係が、装甲などの必要性から多様な外部形態の発生をうながした)というもの(詳細は本書で)。いわれてみれば、これはとても説得力がある見解だと思う。著者は生物の構造色の研究が専門ということで、物理学の実験室で発明された「回折格子」が、貝虫の体表にもみられたという発見エピソードも面白い。古代の生物たちはクレジットカードのホログラム模様のように虹色に光を放っていたらしいのだ。



V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊、ふたたび』(2005年7月30日発行・角川書店 1500+税)は神経内科医による脳の機能をめぐる講演集。著者とサンドラ・ブレイクスリーの共著『脳のなかの幽霊』(角川書店)を読書メモで紹介して6年ほどになる。本書は、英国各地を巡回して開催された「リース講演」の内容が編集されている。著者の専門である、幻肢、共感覚、カプグラ妄想、といった「奇異なもの」とされる神経領域の症候群の解説が、多くの具体例をまじえて興味深く語られ、一般聴衆むけの講演録らしく「芸術とはなにか?」「自己とはなにか」「自由意志」といった美学や哲学の問題にまでふみこんで広く言及もされている。本書でもふれられているが、これまでの精神疾患についてのアプローチに、化学物質(脳内の神経伝達物質)のアンバランスによって生じているとする神経生理学的な考え方と、患者の幼少時からの育てられ方によって生じるという、フロイト的な精神分析による解釈をうけついだ流れ、という二つの潮流があったとすれば、著者(たち)の立場はそれを脳の機能や解剖学的構造、神経構造から解明しようとするもの。ある音を聞いたり数字をみると、ある特定の色彩が感じられる、という共感覚について書かれた第四章「紫色の数字、鋭いチーズ」が、とくに興味をひいた。著者によれば、そのような脳内のクロス配線によって生じる共感覚は遺伝性で、そうしたひとは200人にひとり、これは芸術家では7倍もみられるという。著者はこれをメタファをつくる能力に関連していると考えているようで、さらに人類共通=特有の能力であると説く。講演録なので詳しい所見はわからないのだが、このあたり中沢新一氏のいう「流動的知性」を連想した。。