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走り書き「新刊」読書メモ(32)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(06.1.14~06.4.22)

 フィリップ・クローデル『リンさんの小さな子』 斎藤憐『ジャズで踊ってリキュルで更けて 昭和不良伝西条八十』 早川良一郎『さみしいネコ』
 諸星大二郎『グリムのような物語 トゥルーデおばさん』 横田増生『アマゾン・ドット・コムの光と影』 藤田博史『人形愛の精神分析』
 梅田望夫『ウェブ進化論』○ 中島義道『私の嫌いな10の人びと』 小林よしのり『目の玉日記』
 古今亭志ん朝『世の中ついでに生きてたい』○ 群ようこ『かもめ食堂』 田川研『虫屋のみる夢』
 小熊秀雄『小熊秀雄童話集』 山口真美『視覚世界の謎に迫る』 長島要一『森鴎外』
 梅津時比古『〈ゴーシュ〉という名前』 ボブ・ディラン『ボブ・ディラン自伝』 絲山秋子『スモールトーク』
 窪島誠一郎『鬼火の里』 スティーブン・ウェッブ『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由』 リチャード・ブローティガン『不運な女』
 清水義範『首輪物語』 花輪和一、谷口ジロー他『JAPON』 中川正之『漢語からみえる世界と世間』
 谷口ジロー『晴れゆく空』 長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんだか』 石関善治郎『吉本隆明の東京』
 伊藤比呂美『ミドリノオバサン』 山本小月『魂は死なない、という考え方』 上野正彦『監察医が明かす女だけの死体ファイル』


フィリップ・クローデル『リンさんの小さな子』(2005年9月16日発行・みすず書房 1800+税)は小説。戦火で息子夫婦を失い身寄りをなくしたリンさんは、難民として遠い異国で暮らすことになる。リンさんがいつも連れているのは生後数ヶ月という息子夫婦の残した小さな孫娘サン・ディウ。かってのわからない異国の暮らしのなかで、リンさんが救護所からでかけて散歩したときに偶然公園の前のベンチに腰掛けたことから知り合いになったのは、やはり二ヶ月ほどまえに妻を亡くしたばかりのバルクさんという人だった。二人は言葉はつうじないながら、相手の身の上をそれとなく察知しあって、そのベンチでおちあうのをお互いに生きる慰めにするような親しい友達になる。けれどやがてリンさんは救護所から国の定めた養老院のような施設に送られることになって。。。背景は具体的に書かれていないけれど、ベトナム戦争の被災者である老人が、フランスの難民収容施設で暮らしながら知り合った男性とかたい友情で結ばれるさまを描いた清冽な童話風作品。従順でものいわない無力な赤ん坊サン・ディウ(「穏やかな朝」の意)には、やはり不条理で苛酷な運命に抗いようもなく翻弄されて生きざるをえない老人リンさんのかすかな希望がたくされている。サン・ディウの造形には、実際に作者がベトナムを旅行したときに養子にしたという娘さんの身の上が投影されているらしいことが、訳者のあとがきで触れられている。



斎藤憐『ジャズで踊ってリキュルで更けて 昭和不良伝西条八十』(2005年9月16日発行・岩波書店 2400+税)は西条八十の評伝。西条八十というひとの生涯には、肩書きのようなことでいうと、「童謡作家にしてフランス文学者、株屋にして早稲田大学教授、象徴派詩人にして流行り歌の作詞家。」(序章)というように、意外ともおもえるような多面性があって興味つきないところがある。これは、流行り歌の作詞家としていえば、「東京行進曲」も「同期の桜」も「ゲイシャワルツ」も「王将」も、というように時代の感性に即応した曲の歌詞を弛まず産みだしつづけたヒットメーカーとしての作者の多面性や内面性への興味ということにもつながる。著者は劇作家で、「北原白秋、中山晋平、西条八十、野口雨情、服部良一と日本の童謡、新民謡、歌謡曲を作り上げた人々の評伝劇を次々書いたことが、今回の作業の基盤になった。」(あとがき)とかかれていて、本書にも、そうした人たちのほか、サトウハチロー、古賀政男といった人々の生涯についての記述も登場して、「転向」の問題をめぐる批評的な視点をふくめ、昭和の「流行り歌」の変遷からかいまみられた戦前戦後の世相史ともいえるような読みごたえのある内容になっている。



早川良一郎『さみしいネコ』(2005年12月9日発行・みすず書房 2500+税)は随想集。著者は91年になくなっている。50歳を過ぎてから随筆を書き始め、最初に74年に上梓された『けむりのゆくえ』は限定199部の私家版だったという。それが具眼の人の目にとまり、日本エッセイストクラブ賞を受賞して、改めて出版社(文化出版局)から出版されて一般の目にふれるようになった、という興味深いいきさつが、編者の池内紀氏の「解説」に書かれている。読後の感じは、実際そうした稀有な経緯を経て世に知られるようになったエッセイストの本、ということが頷けるような、味わいのある随想集だった。本書は81年に出版された同名エッセイ集の復刻版だ(幾編かの異同がある)。内容は著者の定年退職後の日々をテーマにしたエッセイがほとんどで、編者の池内氏は「定年退職者のバイブル」とまで評している。たしかに、毎年新しく生じる定年退職者の生活感覚の機微に触れるような、またそういう立場のひとが読むと元気のでそうな幸福感ただよう随想が満載されている。ただ、著者は大正時代に生まれ、戦争を兵士として体験して、戦後ははやくから経団連事務局に勤務して円満退職したという経歴をもつひとだ。昭和初期のころの青春期に培われた人生を肯定的に捉える都会人的でモダンな教養やセンスということが、普段から身についていた人、というふうに感じられて、退職後も銀座までの定期を買って散歩に通うような生活スタイルは、ちょっと簡単には真似できないところだと思った。この世代性ということを考えると、著者はちょうど「荒地派」の詩人、鮎川信夫と一つ違いなのだった。



諸星大二郎『グリムのような物語 トゥルーデおばさん』(2006年2月28日発行・朝日ソノラマ 762+税)はコミック。初出は2002年から2005年にかけて「ネムキ」に連載されたもので、いずれもグリム童話を題材にしたコミックが、全8編収録されている。収録作のタイトルは「Gの日記」「トゥルーデおばさん」「夏の庭と冬の庭」「赤ずきん」「鉄のハインリヒ または蛙の王様」「いばら姫」「ブレーメンの楽隊」「ラプンツェル」。90年代半ばにちょっとした童話ブームがあって、そのころグリム童話に興味をもったけれど、そういう時期にはあまり作品にしたくないもので、2002年頃から収録作のシリーズを雑誌に書き始めた、というような経緯が著者のあとがきでふれられていて、いかにも時代の流行と距離をおいて幻想的なコミックばかりを描き続けているこの作者らしいと思った。あとがきには著者が最初にグリム童話への関心を触発された本として、金成陽一『グリム童話のなかの恐い話』(大和書房)があげられている。この本を偶然図書館でみかけたので、読後に併せて読んでみた。グリム童話は1817年に初版が出版され後にそのつど改訂されながら決定版といわれる第7版(1857)まで版を重ねた。『グリム童話のなかの恐い話』は、残酷で子供向きでないというような理由で再版時に削られた作品も含め、「恐怖」というテーマでグリム童話の世界を紹介した本だ。同書に掲載されている「トゥルーデおばさん」の原作はとても短いけれど、本書では中身の濃い力作といっていい仕上がりになっている。比較すると、著者がどんなふうに想像をふくらませてストーリーを肉付けしていったのかがたどれるようで興味深い。



横田増生『アマゾン・ドット・コムの光と影』(2005年4月23日発行・情報センター出版局 1600+税)はドキュメント。初出は「文藝春秋」(2005年2月号)。インターネットで書籍を中心にDVDやCD、ゲームソフト、家電製品、玩具などを通信販売する会社アマゾン・ドット・コムが、アメリカで設立されたのが1986年。「アマゾン・ジャパン」として日本に上陸したのが1998年のことだという。本書はフリージャーナリストの著者が、アマゾン・ジャパンの物流センターである「日通アマゾン商品センター」に、2003年の11月から翌年の3月にかけてアルバイトとして働き、「潜入ルポ」をした、という体験記。センター内の在庫商品(主に書籍)を、コンピューターの作成した顧客の注文カードを見ながらピッキング(抜き出す)するという「軽作業」が、主な業務内容だ。商品点数100万点を数えるというセンターの規模もさりながら、だれにでもできるように合理化され計算しつくされた作業システムなど、驚くことが多い。基本的に熟練を必要としない単純労働のため、性別や年齢の制約はあまりないが、かえって働きがいがなくて、アルバイトの定着率が低い、といった記載が印象にのこる。ただ良くも悪くも、これからますますこういうタイプの就労システムが増加していくことは確かなことだろう。いつのまにか身近になって、書籍を買う側からすれば便利このうえないウェブ書店だが、その物流過程でなにが起こっているのか、という興味で面白く読んだ。



藤田博史『人形愛の精神分析』(2006年4月5日発行・青土社 2200+税)は講義録。本書の内容は、「DFJ(ドール・フォーラム・ジャパン)主催で「人◇形◇愛の精神分析」と題して2001年5月から2002年12月にかけて全20回行われた著者の連続講義の記録が基になっている、と、あとがきにある。「私の立場は、人間が作り出すものは全て人形であるという立場です。」という印象的なプロローグの言葉ではじまる本書は、主に人形作家や人形ファンの聴衆を前に行われた講義録で、ラカン派の精神分析学者であるらしい著者の人形についての様々な見解が披瀝されている。本書で章別に構成されている各章のタイトルをあげてみると、「眼と眼差し、あるいは視的欲望」「声/幻聴/、そして皮膚/体感」「間接、そして性器」「毛、そして乳房」「尻、そしてゆび」「身体運動」「鼻、耳、そして口」「口、頭、そして内臓」「人形とはなにか」という具合で、毎回主に身体の異なる部位を具体的にテーマとしてあつかっているが、語られているのは本格的な人形論というよりも、フロイトやラカン派の精神分析概念による身体論、欲望論を、著者の考えをつきまぜて判りやすく解説した「精神分析入門」という感じになっている。つまり人形愛(人形を愛でる)という心の機制よりも、もうすこし踏み込んで、人形をつくる、という心の機制(芸術表現)が、人間のもつ根源的な欲望のあらわれとして論じられている、というべきだろうか。講演のゲストには、映画監督の押井守や、人形作家の四谷シモン、舞踏家の鈴木冨美恵、写真家のマリオ・Aといった人たちもいて、講演録のやりとりのなかで対話が交わされているところもある。



梅田望夫『ウェブ進化論』(2006年2月10日発行・ちくま新書 740+税)はインターネットの現状と新しい潮流を解説した本。インターネットには、知りたい項目をうちこむと、その項目に関連するサイトの情報が閲覧できる「検索エンジン」とよばれるサービス機能がある。そうしたサービスを無償で提供している会社のひとつに、グーグルというのがある。本書は、ネット社会の潮流を解説した本だが、多くのページが、この会社グーグルの設立理念や、業務展開の解説にあてられている。会社が設立されたのが、1998年のことで、2004年に株式公開がされ、2005年10月現在でその時価総額が10兆円をこえたという。この急成長ぶりにどんな秘密(異質な発想)がかくされているのか。それを分析することが、ネット社会全体の近未来への展望に重ねられている。一企業にすぎないグーグルの標榜する「世界をよりよき場所にする」「(全世界の)経済的格差の是正」といった誇大とも思える理念には、どんな裏付けがあるのだろう。本書をよむと、SF世界のような「人類改造計画」の実現がめざされているようで興味深い。しかもそれは実際に起こっていることなのだ。「ロングテール現象」の解説や、「ブログ」、「オープンソース」、「ウィキペディア」といった、ネットで良く見聞きする言葉や、それらがネット社会を考える時どんな役割を果たしつつあるのかについても詳しい解説がある。。



中島義道『私の嫌いな10の人びと』(2006年1月20日発行・新潮社 1200+税)は人間論風エッセイ集。本書であげられているのは、「笑顔の絶えない人」「常に感謝の気持ちを忘れない人」「みんなの喜ぶ顔がみたい人」「いつも前向きに生きている人」「自分の仕事に「誇り」をもっている人」「「けじめ」を大切にする人」「喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人」「物事をはっきり言わない人」「「おれ、バカだから」という人」「「わが人生に悔いはない」と思っている人」。いわゆる一般的に「良い人」「善良な人」の属性といえそうな類型がこれでもかというようにあげられているが、あとがきによれば、「物事をよく感じない人、よく考えない人」ということで共通している、ということになる。さまざまな体験的なエピソードをまじえながら、10の類型としてあげられた著者の「嫌いな人」の行動とその嫌いな理由が章ごとに語られているのだが、著者の文章には、実際には、ケースバイケースでしょう、といわせないような迫力があるのはいつものことだ。人の関係心理には、嫌えば嫌われる、という相互規定性のような力学が働いている。その「嫌われる」ということを前提として語る( 生きる)ということが、語ることにつきものの演劇性という殻を破ってみせる、ひとつの方法=生き方になっている。これはやはり血を流さなければできないことだが、本書はそういう困難ながら嘘のない生のすすめ、とでもいうべき本かもしれない。



小林よしのり『目の玉日記』(2006年4月1日発行・小学館 1000+税)はコミック。若い頃から視力の低下に悩んできた著者が強度の目のかすみに危機感をおぼえ、医師の診断をうけて最終的に白内障の手術をうける、という経緯を綴ったドキュメント的なコミック。眼球の水晶体が濁って光を透過しにくくなることでおきる老人性白内障は、70代以降の老人が多く患う病気で、50代では60%、90代ではほぼ100%の人が罹患しているというから、今のところ長生きすると誰も逃れられない加齢につきものの眼病ということになるのだろう。世界中の5000万人の失明者のうち、半数が白内障によるとみられるという。もっとも日本では年間70万件の手術が行われていて、その成功率は95パーセントという。本書では50代前半で白内障と診断された著者が、病院めぐりをした末に手術を決意する経緯がさまざまな症状を呈する日常の記録とともに深刻かつユーモラスに描かれている。いつもの軽い風刺をからめた人情味のある人物描写が特徴だが、水晶体をレンズにいれかえる手術のプロセス自体を、手術を受けている患者自身がみることができる、という特殊な白内障手術の様子が、マンガならではの図像の具体性で描写されているところが圧巻だ。マンガで知る「白内障」とでもいえそうな、読んで面白いデータ豊かな体験記になっている。



古今亭志ん朝『世の中ついでに生きてたい』(2005年9月20日発行・河出書房新社 1800+税)は対談集。対談相手は、山藤章二、金原亭馬生、池波正太郎、池田弥三郎、結城昌治、中村勘九郎(現勘三郎)、萩野アンナ、江國滋、中村江里子、林屋こぶ平の各氏。1970年代から2001年の間に週刊誌、月刊誌に掲載された10本の対談、鼎談が収録されている。読んでいると、本書のタイトルが、著者の父親にあたる古今亭志ん生が生前にいっていたという「世の中、ついでに生きている」という「名セリフ」(著者と結城昌治氏の対談より)、から採られているのがわかる。つまり、志ん生は、自分が生きているひとつの実感や態度みたいなものとして、そんなふうに語ったらしいのだが、本書のタイトルとしては、その言葉をひきとって、願わくば自分もそんなふうな(おやじのような)境地で生きていたい、という(著者の)願望にかえられていることになる。すでに著者が2001年に亡くなっていることを知ったうえで読むと、このタイトルには本書の編者によるひとつの鎮魂の思いがこめられているといっていいのだと思う。没後四年をへて物故した落語家の対談集が編まれたという本書の出版経緯については知る術をもたないけれど、多彩な顔ぶれの対話者たちとの対談内容は、芸談あり父志ん生の思い出話あり、当世風俗批評ありとバラエティにとんでいて古さを感じない。著者の人柄の清新さがしのばれて楽しく読んだ。



群ようこ『かもめ食堂』(2006年1月20日発行・幻冬社 1238+税)は小説。いつか自分で食堂を経営したいという夢をもちながら、食品会社につとめていたサチエが、一億円の宝くじが当たったのをさいわいに会社を退職し、フィンランドのヘルシンキで「かもめ食堂」を開業する。その小さな店を舞台に、店に吸い寄せられるようにやってくる様々な人々とサチエとの交流をほのぼのと描いた幸福感ただよう小説。苦労を表に出さないしっかりもので、純真な少女がそのまま大人(38歳)になったようなサチエは、現代女性の夢からうまれた、ひとつの理想像だろうか。食堂とサチエの魅力にひかれてやってくる人々は、「ガッチャマン」の好きな日本フリークの学生トンミ・ヒルトネンくんをのぞけば、みんな生活に疲れ果てた暗い過去をもった人々がほとんどだ。この暗さがサチエの笑顔や心遣いに癒されて、こわばった氷がすこしずつ溶けるように明るさに反転していくところが、心優しい現代の童話になっている。と、こんなふうに書いてみたところでつけくわえると、この小説は映画の脚本として書かれたという。映画(監督萩上直子・出演小林聡美/片桐はいり/もだいまさこ)のほうを劇場で予告編だけをみて、原作を手に取ってみたのだった。。



田川研『虫屋のみる夢』(2006年1月発行・偕成社 1400+税)はエッセイ集。著者は、昆虫の専門的な学者や研究者ではないけれど、三度の飯より虫が好きという感じの、その世界の用語でいうところの、いわゆる「虫屋」(最近では養老孟司氏が折々に自称しているので、この言葉もかなり広まったように思える)。そういうひとが、採取や飼育に明け暮れる虫三昧の数々のエピソードを綴った、というの内容の本だ。虫のなかでも蝶や蛾の類、とくに様々な蛾についての飼育や採取をめぐる面白い体験談が、著者自身を「ケンさん」と自称するテンポのいい文体でつづられている。蛾の採取や標本作り、また食草や食樹を自宅で育てて飼育するというのは、虫屋としてもかなり特殊な部類にはいるのだと思う。蝶にくらべてずっと種類も多く多様性のみられる「蛾」が差別されるのは、「ga」という言葉の濁ったような発音のせいでもあり、虫屋の中にも分類学にこだわって、「蝶」しか集めないというひとが多い、という指摘は、なるほどと思った。著者の鼻の頭の先にヤママユガが卵を産みつけた、というようなエピソードの書かれている本書をよむと、イメージだけの「蛾」アレルギーというのは、きっとなくなると思う。



小熊秀雄『小熊秀雄童話集』(2006年2月26日発行・清流出版 2400+税)は童話集。本書には詩人小熊秀雄(1901~1940)の書いた童話18編が収録されていて、冒頭にアーサー・ビナード氏の小文、巻末に「池袋モンパルナスと小熊秀雄」というタイトルの、画家の野見山暁治氏と作家の窪島誠一郎氏の対談が付されている。また小熊の描いた絵画4点や原稿、肖像写真などの図版も収録されていて、ビジュアル的にも楽しめる構成になっている。童話のなかでは、小熊の童話を英訳出版したビナード氏が、前文で「こんな傑作が世界にあったのか!」と思ったとかいている「焼かれた魚」という作品が、氏の言うようにワイルドの「幸福な王子」を連想させる強い印象をのこして読み応えがあった。また自分でも理由は判然としないのだけれど、坂口安吾の童話的小説「夜長姫と耳男」のことがふと頭をよぎった。後で気になって確かめてみたらストーリーは全然にていなかった(^^;。こじつけて言えば、共通するのは優れた作品につきものの一種つきぬけた表現の自由さということだろうか。巻末に付された対談は、小熊が「池袋モンパルナス」と呼んだという、戦前の池袋の一画あって画家ばかりが寄りあって暮らしてた界隈について、またそこでの当時の画家達の自由な暮らしぶりについての発言が多数ふくまれていて、小熊の童話とは直接関係がないけれど、別のいみで貴重で興味深い記録になっている。



山口真美『視覚世界の謎に迫る』(2005年11月20日発行・講談社ブルーバックス 820+税)は視覚に関する実験心理学の啓蒙書。人間の視覚の仕組み、とくに乳幼児期の視覚が発達していく仕組みについて、最近わかってきたことが、数々の実験報告の紹介をつうじて、判りやすく解説されている。目から入力される情報は、脳で処理される。このとき、絵を鑑賞したり、読書したり、対象を細かく観察したり、といった、ゆっくり見られる情報は大脳皮質で処理されるけれど、ボールや虫が目の前に飛んできたり、というときのような、緊急な場合の情報は、皮質下で処理される。この後者による「見え」は、進化的に古く、発達の早い段階で発現する、といわれる。この皮質下で処理される情報が興味深いのは、「自分のからだの動きを使って「位置」を反射的に示す反応」に関わっている、とされているところだ。大脳皮質に損傷をうけた「盲視」のひとは、視野の半分がみえない。この見えないはずの視野にモノを置いて方向や位置をきいても「わからない」。けれど指をさししめしたり、目を動かすように強要すると、正確に動かす。本人には当てたという意識はないという。「言語のように意識化して判断しないこと、身振りや眼で答えを示してもらうこと」がこの実験のポイントだという。この能力は大脳皮質が発達する以前の新生児の「見え」と同じではないかといわれている。この例が興味深いのは、人間の言語以前の「無意識」の力ということの探求に、実験心理学の手法で手が掛かっている、という感じがするからだ。



長島要一『森鴎外』(2005年10月20日発行・岩波新書 740+税)は評論。副題に「文化の翻訳者」とある。略歴をみると著者はコペンハーゲン大学異文化研究・地域研究所に副所長として在職、デンマークに在住して40年近くになるという人で、そういう人ならではのユニークな鴎外論になっている。というのは、森鴎外はドイツ留学から帰国後、軍医として勤務するかたわら、留学体験に基づいたドイツ三部作『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』を発表、その後、アンデルセンの『即興詩人』や、イプセンの『幽霊』(『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』)、『ノラ』(『人形の家』)など多くの翻訳小説を発表したが、それらの作品を原典を対照しながら読み直し、鴎外の翻訳の意味をたどりなおす、という、ちょっと余人の真似できないような立場からの論究が本書でおこなわれているからだ。そういえばアンデルセンもイプセンもデンマークの作家だったのだ、ということを本書であらためて知ったが、鴎外が訳したアンデルセンの『即興詩人』も、イプセンの『幽霊』も『ノラ』も、ドイツ語版からの重訳だったという。これらの翻訳小説のもつ意味を研究するとき、できればなるべく原典のデンマーク語に精通している、という立場の人が適任なのはいうまでもない。本書の明快で詳細な解釈や解説によって、それらの原典に書かれていた「本当のストーリー」にも照明があてられて、別作品を読むように目をひらかされる読者も多いと思う。



梅津時比古『〈ゴーシュ〉という名前』(2005年12月8日発行・東京書籍 1500+税)は評論。宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』の主人公のゴーシュという名前を、賢治はどんなふうに考案したのだろう。そんな謎解きの導入部からはいっていって、ドイツ語の古語で「かっこう(郭公)」を意味するGauchという言葉にいきつく。さらにここからが面白いのだが、賢治の文学作品には、今では日本では忘れられた作家になっているアルノー・ホルツ(1863〜1929)の作品の影響がみられる、ということを作品例をあげながら説得力豊かに論じきっている。これまでのゴーシュの語源説には、セロの音の感覚を擬音的にとったとするオノマトペア説と、フランス語のgauche(歪んだ、不機嫌な、不器用な、左の、といった意味)説があり、後者が定説だったというので、本書はまったくの新説ということになるらしい。また賢治文学におけるホルツの影響については、植田敏郎『宮沢賢治とドイツ文学』が既に言及していることが本文中で紹介されているが、本書ではさらにその論拠を視点をかえておしすすめた、という感じがする。たとえば「銀河鉄道」という不思議な言葉が、ホルツの詩集『ダフニス』(賢治はその原著を所有していたという)の中の「牛乳鉄道」という造語から霊感を受けたのであろうと推論するくだりなど、おもわず瞠目させられた個所だった。かってある時期ドイツを代表する詩人だったというホルツという人の文学についての言及自体も興味深く、現在ではホルツその人の作品が翻訳で読めないというのは残念なことだと思う。



ボブ・ディラン『ボブ・ディラン自伝』(2005年7月29日発行・ソフトバンクパブリッシング 1800+税)は自伝。自伝とはいえ、時系列的に過去の出来事が整理して書かれているわけではなく、「一九六〇年代に初めて自分の曲を著作権登録したときのこと、、、七〇年代の半ば引退状態だったウッドスティックでの暮らし、そして八九年のアルバム『オー・マーシー』録音時の重要な経験などが、おもしろい形で構成されています。」(訳者の「翻訳をおえて」より)、という内容だ。早口のテンポのいい語りで、めまぐるしくかわっていくさまざまな回想シーンが、時にしゃれた言い回しや、率直な独白を交えながら流れていく。300ページ強とかなり厚手の本だが、すいすいと読めてしまう感じだ。「わたしの歌詞に対して勝手な推測がおこなわれ、その意味が論争の対象となるのにうんざりしていたし、反抗の兄、抗議する高僧、不同意の皇帝、不服従の公爵、働こうとしない者たちのリーダー、裏切りの帝王、乱世の大司教、大物くんなどと呼ばれるのにも辟易していた。いったい何を言いたいんだ?」これは七〇年代に沈黙を守っていた時期についての感慨だが、そういうマスコミ攻勢やレッテル貼りにうんざりして、自ら「変わり者」とみられるような行動をとったことが記されている。実際その時期に、ディランは何を考え何をしていたのだろう、というのは、本書を手にするような読者の多くが知りたかったことだろう。「現実には、いちばん好きなこと、何より大切なことをしていた----リトルリーグの試合、誕生パーティ、子どもの送り迎え、キャンプ旅行、ボート乗り、いかだ乗り、カヌー漕ぎ、釣り......生活はレコードから入る印税で支えた。わたしは世間からみえなくなっていた。」いわば家族との生活にかまけていた、というのが答えのようで、これは本書を読んで感動的だった個所のひとつだ。



絲山秋子『スモールトーク』(2005年6月30日発行・二玄社 1200+税)は小説。画家である主人公の「私」が、かってふられたことのある恋人に再会して、複雑な心境ながら誘われるままデートを重ねる、という筋立ての、6章からなる中編小説が収録されているが、作品のそれぞれの章には特定のクルマが登場して、そのスタイルや性能についての記述を折り込みながら登場人物たちがドライブする、という描写がでてきて、帯のことば「クルマ好きの楽しめる小説が、ようやく登場した!」(徳大寺有恒)という趣向をみたすものになっている。各章の間には著者自身のクルマに関する体験的エッセイが折り込まれている、という構成や、それぞれのクルマについて写真入りで解説があるところ、また巻末には自動車評論家の徳大寺有恒氏と著者の対談がついているのも本書の特徴だ。対談やエッセイなどからの推量で言うと、本書は自動車雑誌の連載小説の単行本化ということらしく、各章に登場するそれぞれのクルマは、クルマ好きの著者が指定して、実際に試乗したうえで執筆されたらしい。TVRタスカン、ジャガーXJ8、クライスラー クロスファイア、サーブ 9-3 カブリオレなど、どの車名をきいてもぴんとこないが、クルマ好きなひとには、うてばひびくようなところがあるのだと思う。



窪島誠一郎『鬼火の里』(2005年12月10日発行・集英社 2000+税)は小説集。「すばる」2005年9月号初出の表題作「鬼火の里」のほか、書き下ろしの「白い秋」「マダンの記憶」という3作品が収録されている。いずれの作品でも、画廊のオーナーや絵画の修復家、といった人物を語り手に、彼(彼女)が出会った絵画にまつわる深い因縁話のようなエピソードが描かれている。一枚の絵の背後にはひとりの画家がいて、ときにはその絵が描かれるに至ったドラマチックな事情というようなものが秘められている。画家の生きた時代や一回性の人生の断面が、凍結した情念のような姿で封じ込められているのだ。私設美術館「信濃デッサン館」や戦没画学生慰霊美術館「無言館」の設立者としても知られる著者は、たぶんそうした様々な絵画や画家との出会いの体験から、こうした作品を書くエッセンスをとりいれているように思えるけれど、どの作品でも、一枚の絵画に秘められた背後の事情から、過去に起きた抜き差しならない人間相互の情念のドラマのようなものを描きだそうとしているのは共通している。一枚の絵を軸に展開する宿命のドラマ、と、いうことじたい、現実には稀有な出来事に思えるが、実際に肉親とのドラマのような出会いを経験した、という人の投げかける、味わいのあるひかりの束のような作品集だ。



スティーブン・ウェッブ『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由』(2004年7月8日発行・青土社 2800+税)は科学エッセイ集。1950年の夏のロスアラモス。空飛ぶ円盤の目撃談がニューヨークの新聞紙面で話題になっていたころ、物理学者エンリコ・フェルミは、研究者仲間との定例の昼食会の席でその話題にふれ、「みんなどこにいるんだろうね」と言ったという。宇宙で星が誕生する割合や、そこで生命が誕生する確率など、いろいろ計算すると、宇宙人は沢山いるはずで、とっくに地球にやってきていてもおかしくないのに、どうして彼らはでてこないのか、という、この冗談とも皮肉ともとれそうなフェルミの問いかけは、「フェルミ・パラドックス」と呼ばれるそうで、本書には、その問いへの様々なタイプの違う解答の試みが、50種類収録されている。いわく「実は来ている」「存在するがまだ連絡はない」「存在しない」。。。現代人が宇宙人(人間以外の知的生命)の存在について考えることは、あるいみ人類が古来から超越的な存在や超常的な出来事について考えてきたことと密接にむすびついているので、解答は多様な分野への波及と興味深い結びつきを見せるだろう、というのは想像に難くない。それぞれの章は科学雑誌のコラムのような体裁でよみやすく、SF的想像力や思考実験の競演が楽しめる。



リチャード・ブローティガン『不運な女』(2006年9月30日発行・新潮社 1600+税)は小説。作家である「私」は、82年1月から6月まで、現在進行形の旅の日常の記録を一冊の日本製のノートに日記のかたちで書こうと試みる。それは事実に即した備忘録のような記録ではなくて、とりとめない出来事の印象や夢想や過去の記憶のエピソードを、思い思いの時間に書き留めた、というかたちの興味深い断片の集積だ。「私」の旅はこの日記が書きはじめられるまえに、前年の9月末からはじまっていて、すでにサンフランシスコ、ニューヨーク州バッファロー、カナダ、サンフランシスコ、バークレー、アラスカ、アンカレッジ、ホノルル、マウイ、ホノルル、バークレー、という、ちょっと尋常ではないような移動の前史がある(と作中に記されている)。日記には、ときに何日も、何ヶ月も空白があり、固着したコンプレックス(複合観念)のように、たぶん旅の発端となったバークレーで首吊り自殺したというひとりの女友達の思い出に筆がむけられては挫折をくりかえす。深い厭世的な感情を、半分意味の伝達を放棄したような記憶の断片や、軽くて冗談じみた印象のエピソードの集積でおおいつくしているような作品のスタイルは、現代的(同時代的)というほかないものだ。この作品は、84年10月に自殺した作者の、未整理の遺品が入っていた箱の中から完成原稿のかたちで発見されたという。



清水義範『首輪物語』(2005年11月30日発行・集英社 1500+税)はパロディ小説集。「パスティーシュ」(フランス語=「ある作家や作品の文体を模倣し作品をつくること」(ネットのはてなダイアリーより))という言葉があって、帯によると著者はその名手とされる。以前はパロディ小説といってつうじるように思ったが、こういう難しそうな言葉の言い換えは何の影響だろう。本書には表題作を含め8作品が収録されているが、ファンタジーの「指輪物語」(「首輪物語」)、童話の「ピーターパン」(「パウダー・スノー」)、菊池寛の「真珠夫人」(「あこや貝夫人」)、原作はアメリカンコミックで映画化もされた「スパイダーマン」(「亀甲マン」)など、はては、NHKテレビの名物番組「プロジェクトX」(「プロフェッショナルX」)まで、ジャンルをとわず広範にてぎわよく料理されているのに驚いた。様々な技巧をこらして、こういうユーモアあふれる換骨奪胎作品を持続的に書き続けるには、ある種の情熱と才能が必要だろうと思う。さらにたぶん生にたいする視線(脱力感覚)みたいなものが必要なはずで、まさに異才というべきだろう。「体の様子が変だった。視力がとんでもなくよくなり、百メートル先に落ちている一万円札の表の下のほうに、今の”国立印刷局製造”と書いてあるのか、それとも古い札で、”財務省印刷局製造”と書いてあるのか見分けられるのだ。」(「亀甲マン」より)。パロディを書くという枠のなかで、作者がいかに自由に身をのりだして書いているのかが伝わってくるのは楽しい。



花輪和一、谷口ジロー他『JAPON』(2006年1月1日発行・飛鳥新社 1238+税)はコミックのアンソロジー。松本大洋、花輪和一、谷口ジロー他日本人漫画家7氏、フレデリク・ボワレ、エティエンヌ・ダヴォドー他フランス人漫画家9氏の短編コミックが収録されている。日仏学院、アテネ・フランセーズが、フランス人漫画家8人を日本に招聘し、北海道から九州に至る各地方都市に滞在してもらって、その体験をもとにその地方を舞台にした作品を描いてもらう、という企画を骨子につくられた本だということが、冒頭に記されている。また日本人作家には広く「日本」をテーマにした作品が依頼されたようだ。いずれおとらぬ個性的な作品が並んでいて読み応えのある一冊。日仏のほか、英語、イタリア語、スペイン語、オランダ語版も制作され、6カ国で同時発売されたという。全般にフランス作家の漫画は活字がおおくて小説なみに読ませる部分がずいぶんある。いくつかの作品は企画上「ガイジン」の日本滞在記みたいなところもあるが、それぞれ21世紀の日本の現代風俗が活写されているといっていいと思う。こういう企画本は商業的にどれだけ成功するのかわからないが、コミックファンとしては喜ばしい限り。フランス側でも同じ企画をやってくれたら、とは夢のような願望だ。



中川正之『漢語からみえる世界と世間』(2005年5月18日発行・岩波書店 1600+税)は日本語論。岩波の「もっと知りたい日本語」シリーズの一冊で、日本語の中の漢字と現代中国語における漢字の意味や用法の差異が様々な角度から論じられている。意味や用法の差異は、そのまま文化や価値観の差異と密接に関係するので、比較文化論としても興味深い。著者の聞いた例としてあげられているが、中国人留学生に日本語学習の動機を尋ねたところ「(私が日本語の勉強を始めたのは)栄光ある人類の未来のためです」という答えがかえってきたという。この答えは日本語だとどこかおかしい。そのおかしさは、いってみると「おおげさ」という感じなのだが、それをその留学生の「性格」として考えずに、中国語自体が抽象的、分類的という性格をもつ、という視点からもとらえることができる。中国語は「世界語」的で、日本語は「世間」語的だ、という本書の視点だそれだ。中国語のほうが、日本語より分類的・抽象的性格をもつ、というのは一般論としてもよくいわれることだが、大きな傾向として、南方中国の発音が朝鮮半島を経由して定着した「呉音」より、後に唐の都長安の発音を真似て移入された「漢音」のほうが分類的・抽象的(前者はより和語化している度合いがつよい)という指摘など、なるほど、と思わされた。。



谷口ジロー『晴れゆく空』(2005年12月24日発行・集英社 933+税)はコミック。週刊「ヤングジャンプ」に2004年33号〜50号にかけて断続的に連載されたものが初出。深夜の街道を走行中のオートバイとワゴン車が、ワゴン車の居眠り運転のせいで正面衝突する。ワゴン車を運転していた久保田和広(42歳)、オートバイを運転していた小野寺拓也(17歳)は、それぞれ打撲骨折で意識不明の重態となり、同じ病院に運ばれるが、事故の22日後に久保田和広は死去し、同日同時刻に小野寺拓也は奇跡的に意識を回復した。しかしここで奇妙なことがおきた。意識を回復したのは小野寺拓也だったのだが、その意識は死んだはずの久保田和広のものだったのだ。。。昏睡からめざめると他人の体のなかに自分の意識が宿っているという事態に直面した男の、不思議な体験を描いたヒューマンドラマ。オカルト漫画の設定のようでそうではなく、もしそんなことが起きたら人はどんな行動をするだろう、という、死から生の世界をみるような思考実験を丁寧になぞるように描かれている。乾いたタッチのなかにみずみずしい情感のあふれる作品。



長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんだか』(2005年6月10日発行・花神社 2000+税)は文芸評論。「俳句研究」に2004年1月号〜12月号にかけて連載された論考「古池の彼方へ」をまとめたもの、とある。芭蕉の有名な古句「古池や蛙飛び込む水の音」の解釈をめぐって、「今さら通説などというまでもなく、これまで疑う余地のないこととされてきた」(本書より)という、「古池に蛙が飛びこんで水の音がした」という読みを「凡兆的発想」としてしりぞけ、著者は「蛙が水に飛びこむ音を聞いて芭蕉の心の中に古池の幻が浮かんだ」と解釈する。この一点が本書の主張の第一点であり、ひいては本書全体をなすユニークで説得力のある芭蕉俳句の世界の作品論のかなめにあたっている。著者は、去来と凡兆という二人の芭蕉の弟子の句を比較して、現実の世界を鮮やかに描き出すことに腐心した凡兆は、心の世界を描こうとした芭蕉、去来と対照的だという。そして、子規以降の近代俳句は凡兆的なものを目指すあまり、去来的な言葉の想像力を排斥してきたのではないか、と本書で問いかけている。個人的に人形関連ということでいうと(^^;、ずっと気になっていた芭蕉の「草の戸も住みかわる代ぞ雛の家」という句の解釈が本書でも論じられていて、ことのほか興味深く読んだ。



 石関善治郎『吉本隆明の東京』(2005年11月25日発行・作品社 1800+税)は評伝。評伝と書いたけれど、内容はちょっと違って上手い言葉が思いつかない。吉本隆明氏の著作や年譜、対談での発言や直接当人から聞き取った談話などに加え、関係者への聞き取り、さまざまな関係資料の探査と取材を通して、吉本隆明氏の生い立ちから現在に至る生涯の軌跡を、主にその住環境の変遷、という視点から浮き彫りにした労作だ。それは11個所にのぼるという吉本氏の過去の転居先のそれぞれの家屋や当時の環境を克明に辿り直す旅の記録であり、大正十三年に熊本県天草から東京の月島に移り住んだ吉本(順太郎)一家の血族の歴史を復元するような生活史の記録でもある。「火災保険特殊地図」を駆使した調査、挿入されている住宅の間取り図の数々や、近隣に住んでいた人を訪ねてのインタヴューなど、どうしてここまで、よくぞここまで、と、嘆息がでるような事実の再現・確認に徹した記述から、震災、空襲、疎開と、激動する時代のうねりとともに変貌する東京のかたち、というものもみえてくる。。



 伊藤比呂美『ミドリノオバサン』(2005年11月25日発行・筑摩書房 1300+税)はエッセイ集。カリフォルニア在住の著者が自宅で育てている様々な観葉植物について書いたエッセイをまとめた本で、「NINE」「熊本日々新聞」「日本経済新聞」「潮」などの連載エッセイに、加筆訂正したもの、と、あとがきにある。自宅で観葉植物を育てることは、ごく普通の趣味、といえば言えそうだが、著者の場合、そのはまりかたがはんぱではない。朝昼晩と手塩にかけて世話をして育てている鉢の数200前後に及ぶという。もちろん著者は園芸の職業的なプロというわけではないので、失敗体験の記述には思い当たる節がけっこうあって共感をさそうのだが、その最終的成果といえば、常人のちょっと及びがたいところまで遠くひきはなされてしまう。著者は園芸三昧のすえ、「植物の法(ダルマ)を知る」という境地にまで至ってしまうのだ。いわく「だめなものはだめで、うまくいくものはうまくいく」というのだが(^^;。どのエッセイもこの詩人ならではの才気にあふれていてサービス精神満点。読んだひとは、身近な観葉植物への気配り心配りが(すくなくとも数日は)変わってしまうにちがいないと思えるほど、面白くてためになる本。



山本小月『魂は死なない、という考え方』(2005年10月5日発行・midnight press 1800+税)は長編エッセイ。高知新聞に2004年9月22日から12月2日まで60回にわたって「水先案内本」というタイトルで連載されたエッセイがもとになっている。その初出時のタイトルどうり、収録されている45章(編)のエッセイでは、それぞれ一冊づつ、多くはいわゆる「精神世界」関連の本の紹介がされていて、末尾に付された著者と谷川俊太郎氏との対談であげられている本をふくめ、45+1冊の本の読書案内本として楽しめる。思わず何冊かにチェックをいれたけれど(^^;、そのことは、通読しているうちに本書の一側面にすぎないことに気づかされる。本書全体は、著者がふとしたきっかけで佐藤愛子の著作を読み、その中に書かれていた「霊魂の世界」の記述に興味をひかれるようになり、さる霊能者に話をききにいき、やがては、著者の先祖に縁があると教えられた社寺仏閣に足を運んだり、現代のシャーマンやユタを訪ねるといった、「スピリチュアルな世界」に心身ともに足を踏み入れていった私的体験の足跡が、ドラマのように読むものをひきこんでいく流れをつくっているからだ。著者は詩人でもあり、昨年出版された山本かずこ詩集『いちどにどこにでも』については、私もネットの詩のコーナーに感想を載せていたのだが、その詩集成立の背景にこんなドラマがあったのだったかと、なかばふにおちるような思いで興味深く読んだ。



上野正彦『監察医が明かす女だけの死体ファイル』(2005年10月5日発行・青春出版社 1300+税)は「2万体の死体を見続けた監察医が、はじめて語った40年間にわたる知られざる女の事件簿」。本書には、著者が監察医として取り組んできた多くの(女性にかかわる)殺人事件の事例がとりあげられている。殺人を犯して、死体の四肢を切断して遺棄するいわゆる「バラバラ殺人事件」について、その犯行者の多くが体力のない女性であり、その理由の多くは残虐性や異常心理によるものではなく、主に死体を隠蔽するための(けんめいな保身のための)手だてだということを、たぶんはじめてマスメディアで指摘したのは著者だったと思う。いわれてみればとても説得力がある洞察だと思った。こうした犯罪のみかけの増加は、むしろ自宅の地面を掘って死体を埋めたり、もち運んで遺棄しにくくなった、といった住環境の変化からきているのかもしれないのだ。新しい手口の犯罪の増加ということもそうだが、その犯罪にいたる動機の変化、ということなら、日々のマスメディアの報道で、だれもがうすうす感じていることではないだろうか。こういうきびしい仕事に従事してきた人の口から「平成に入ってから、犯罪のパターンは昭和の時代とは全く違ってきた。日本人の思想はもはや崩壊したとしか思えない。」(エピローグより)という言葉をきくのは、心理学や社会学の専門家の口から聞くのとはまたちがう重みがある。