memo30
言葉の部屋へ 書名indexへ 著者名indexへ

走り書き「新刊」読書メモ(30)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(05.6.18~05.9.24)

 鈴木地蔵『市井作家列伝』 中沢新一『アースダイバー』 掘切直人『浅草 大正篇』
 山田稔『八十二歳のガールフレンド』 四方田犬彦『ラブレーの子供たち』 中島義道『ぼくは偏食人間』
 村田沙耶香『授乳』 萩原葉子『朔太郎とおだまきの花』 ウーヴェ・ティム『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』
 財部鳥子『天府 冥府』 クライブ・ブロムフォール『幼児化するヒト----「永遠の子供」進化論』 阿部謹也『「世間」への旅』
 A・E・フェルスマン『石の思い出』 リービ英雄『千々にくだけて』 養老孟司『私の脳はなぜ虫が好きか』
 多和田葉子『旅をする裸の眼』 コロナ・ブックス編集部編『作家の食卓』 ル・クレジオ『はじまりの時』
 芹沢俊介+吉本隆明『幼年論』 長田弘『人生の特別な一瞬』 町田康『浄土』
 松本大洋『花/メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス』 アメリー・ノトン『幽閉』 中島義道『悪について』
 町田康『告白』 フィリップ・クローデル『灰色の魂』 吉田敦彦『不死と性の神話』
 大塚英志『「おたく」の精神史」一九八〇年代論』 浦沢直樹『20世紀少年』(18) 辛酸なめ子『ヨコモレ通信』


鈴木地蔵『市井作家列伝』(2005年5月20日発行・右文書院 2300+税)は作家論集。あとがきによると、本書は文芸同人誌「文遊」に「書棚の友」という名前で16回にわたって連載されていた文章の集成ということのようだ。古書店を探索して短編小説を読むのが大好きという著者が、敬愛する作家たちについて、エッセイ風に綴った作家・作品論が収録されている。昨今の書店などでは目にすることのできない作家も多いので、16人の収録作家名を煩を厭わずに列挙してみよう。木山捷平、近松秋江、中野鈴子、小山清、川崎長太郎、森山啓、古木鐵太郎、木下夕爾、斯波四郎、小沼丹、徳田秋声、耕治人、古山高麗男、葛西善蔵、野口冨士男、和田芳恵。私などは、このうちで作品を読んだことのない作家、それどころか名前を初めて聞きくような作家が何人も収録されているというのが正直なところだが、読んでいて気にならない。とりあげられている多くはマイナーな私小説作家だといっていいと思うが、その人と作品を論じる著者の文体にもまた私小説風の味があり、随所に寄り道気味の古本談義ももりこまれていて、どんどんひきこまれて読んでしまうのだった。何十年も古書店に通わないとその作家の作品の変遷をある程度跡づけて読むことができないような、大正・昭和期に活躍した私小説作家たちの世界。中にはこれまでにまとまった評論も書かれていない作家もいるようだ。そのたんねんな探索の成果が、こんなコンパクトな作家論集という感じで読めるのは、世の少数の私小説愛読者たちにとっては魔法のような恩恵だといっていいのかもしれない。もっとも、魔法、というまえに出版流通事情の偏向性を嘆くべきなのかもしれないが。



中沢新一『アースダイバー』(2005年5月30日発行・講談社 1800+税)は東京の地誌・文化風土についての散文集。「週刊現代」に2004年から一年間連載されていた文章がもとになっている、ということで、東京のさまざまな地区についての読みやすくて軽い探訪エッセイのような体裁をとりながら、本書の構想のわくぐみは広大でかつ奥が深い。東京の地形は、古代の縄文海進期には、海水が奥地まで侵入して、フィヨルド状に入り組んでいた。このとき水没していた地域の地質は沖積層と呼ばれる砂地の多いもので、陸地だった部分は洪積層と呼ばれ、堅い土でできている。この古代東京地方の地形を現在わかっているいろんな時代の地図に重ねてみると、興味深いことがわかる、と著者はいう。岬状になっていた土地の尖端に神社があったり、沿岸部分に縄文・弥生時代の集落の遺跡が集中している、というのだ。このことは、附録の「Earth Diving Map」という地図で如実にたしかめることができる。さて、こうして制作されたマップを片手に東京のいろいろな地域を「アースダイバー」として探索散歩してみて、神社仏閣の由来に思いをはせたり、その土地の空気、土地柄といったものに、こうした過去の歴史の無意識の集積のようなものが様々なかたちで関わっているのではないだろうか、という著者の見解や発見を開陳したのが本書ということになるだろうか。たとえば、かって埋葬地だったところを選ぶように多くの大学がつくられている。これを全くの偶然とみなすべきかどうか。というところで、本書は興味つきない謎のように読者にひらかれている。附録の地図をながめているだけでも面白い。欲をいえば、もうすこし多摩地方ものせた拡大版がほしい。



掘切直人『浅草 大正篇』(2005年7月20日発行・右文書房 2400+税)は文芸批評。『浅草』『浅草 江戸明治篇』につぐ、「浅草四部作」の第三弾と、帯にある。江戸東京の風俗文化を象徴するような場所、浅草を舞台に、どんな作家たちが、どんな作品を書き残してきたのか。本書では浅草六区の活動写真街や高層建築「十二階」、浅草オペラの盛衰を綴った章の他に、石川啄木、室生犀星、谷崎潤一郎、宇野浩二、辻潤、正岡容、江戸川乱歩、掘辰雄、金子光晴といった、九人の作家たちにそれぞれ一章があてられ、彼らの生涯と浅草という土地との関係が、伝記的な事実と作品の両面から紹介されている。明治四十年から大正末期にかけて「その時期の浅草公園に足しげく通って、その繁昌の様子を記録したジャーナリストや文学者の文章を能う限り、探し出し、掘り起こして、その断片をずらずらと配列してみた」と「あとがき」にあるように、この個々の作家の作品の探索は精緻をきわめている。たとえば室生犀星の章では、全集では削除部分の多いという短編小説「青白き巣窟」を復刻本にあたったり、大正期に出版された単行本にあたって浅草に関する作品を紹介するという具合だ。本書はそういう深い読みのはいった作家論としても充分に面白いが、同時に大正期にあるいみ都市大衆のモダンな歓楽街として繁栄の絶頂をきわめた浅草の姿が本書全体から多面的に浮き彫りにされてくる感じで、とても読み応えのある本だった。



山田稔『八十二歳のガールフレンド』(2005年6月18日発行・工房ノア 1900+税)は小説・エッセイ集。いつか自分の小説やエッセイをおりまぜた本をこしらえたいと思っていたと後書きにあり、本書はその念願かなっての著者の自選作品集ということのようだ。十三編の作品が収録されているが、そのうちの小説といっても著者の記憶のなかの忘れがたい友人や本にまつわる思い出を題材にしたものが多くて、エッセイといってもいいような雰囲気があり、ひとくくりに「散文集」と呼んでみたいような感じもする。読んだ本の著者に感想の手紙を書いて、その返事が届くところから文通の形で交際がはじまり、やがて何度か会うような機会があったり、音信がとだえて忘れていたころに訃報にせっしたりする。そういう半ばプライベートな著者の知友の消息にまつわるエピソードが、そんな淡いといえば淡い関係のふれあいを慈しむように、いくつもの作品に描かれている。タイトルになっている「八十二歳のガールフレンド」もそんな作品のひとつだ。文通といえば、今ならさしずめメル友ということになるだろうか。しかし、書状を介しての文通にはもうすこし違った時間が流れていて、たぶんそれが互いの輪郭がゆっくり時間をかけて育っていく、というようなことに関わっているのだろうと、改めて感じさせられるのだった。



四方田犬彦『ラブレーの子供たち』(2005年8月25日発行・新潮社 2400+税)は料理エッセイ集。初出は主として2002年から03年にかけて「芸術新潮」に連載された「あの人のボナペティ」という料理エッセイのシリーズで、著者が古今東西の様々な文献を渉猟して、これはという料理の献立に注目し、実際につくって食べてみる、という写真入りの企画シリーズ。「ロラン・バルトの天ぷら」「ギュンター・グラスの鰻料理」「谷崎潤一郎の柿の葉鮨」「ジョージア・オキーフの菜園料理」「マリー=アントワネットのお菓子」「小津安二郎のカレーすき焼き」「マルグリット・デュラスの豚料理」「斉藤茂吉のミルク鰻丼」「吉本隆明の月島ソース料理」など25編の興味深いタイトルが並ぶ。中には亀のスープのでてくる「ラフカディオ・ハーンのクレオール料理」とか、蛙のスープのでてくる「魔女のスープ」や、子豚の丸焼き(ソーセージ、鶏、鳩、鶉、エスカルゴを練ったものや、ゆで卵が詰められている)のでてくる「アキピウス 古代ローマの饗宴」など、ちょっと家庭ではできそうもないもの、というより、私はあまり食べたくないものもある。料理エッセイは面白いけれど、自分はけっこう味には保守的だということを再確認。



中島義道『ぼくは偏食人間』(2002年8月10日発行・新潮社 1200+税)は日記形式のエッセイ集。初出の記載はないが、「偏食的1月」から「偏食的12月」まで、1年間(西暦2000年度)の「偏食的人生記録」(あとがき)とあり、もとはどこかの雑誌に掲載されたものではないかとは推察される。著作のゲラをめぐる出版社や編集者とのやりとりや、家庭内の事情、勤める大学への行き来の間につい関わりあうことになる主に「騒音」をめぐるトラブル。そういう日々の出来事の記載の最後に、時々著者自らの「偏食」をめぐる断章が付け加えられている。著者は肉類はほとんど牛と豚しか食べられないという。どうも生き物の原型をとどめている料理が苦手で、その形態から生き物を連想してしまう、ということが、偏食のネックのようだ。しかし常に合理的ともいえない。新婚時代のエピソードとして、「彼女がウィーンでオムライスに挑戦したが「かたち」が円形に近い、いや十分に長い楕円形ではない。それで私は食べなかった。彼女は泣き泣き二つ食べた。」(七月三十一日)とあり、これを読んで、ちょっと言葉を失った(^^;。もちろんこうした好みの激しさが生き方にも直結していて、「ありとあらゆる自分が「嫌いなこと」に過敏であり、しかもそれらを観念的に鍛え上げて嫌いつづける。だから絶対に直らない。」という偏食家についての言葉はそのまま、著者の人生哲学の真髄ともいえるのだろう。



村田沙耶香『授乳』(2005年2月28日発行・講談社 1500+税)は小説。中学生の主人公(わたし)と年上の家庭教師との間の微妙な心のふれあいを描いた表題作「授乳」。人形好きの大学生(わたし)が、やはり異様に人形に執着する小学生美佐子に出会って彼女の言動にふりまわされる「コイビト」、大学生の主人公(わたし)が、偶然知り合った同年齢の大学生要二の住むアパートに通って二人だけの自閉した世界に閉じこもろうとする「御伽の部屋」の、三作が収録された短編小説集。いずれの作品でも若い女子学生が日常で知り会った他人との交流が描かれているが、作中の登場人物で、ごく普通のひと、という印象をあたえる人はほとんどいない。主人公自身は、「ごく普通」の学生のように、両親や学友からはみなされているのだが、それは「調子をあわせているだけ」という感じで、他者との自然なコミュニケーションがとれない内面に逆に自閉的な唯我独尊的世界のようなものをつくりあげることで、かろうじて平衡をたもっている。多くのひとはだれもそういう裏表のような二面性をもっている、ということが前提で、主人公は他人のかいまみせるその裏側の病者のような世界に感応してしまう。このほとんど不可能にちかい他者とのコミュニケーション(共感や察知)への関心が作品のテーマになっているように思えた。著者は79年生まれとあり「授乳」は群像新人文学賞受賞作(小説部門・優秀作・2003年)という。



萩原葉子『朔太郎とおだまきの花』(2005年6月20日発行・河出書房新社 1600+税)は小説。詩人萩原朔太郎の生誕からその死までを辿った第一部「父と詩」と、娘の立場から父に語りかける第二部「父上へ」からなる。第一部が本書の大半をしめるが、時間軸にそって朔太郎の生涯をたどる伝記小説のような形をとりながら、朔太郎の影は驚くほど薄い。前半では朔太郎に嫁いで萩原家にとけ込めず二人の娘をもうけながら、やがては離婚してしまうことになる上田イネ子(作者にとっての母親)に焦点があてられ、後半では、作者自身の目にうつった自らの少女期の思い出が私小説的に書かれていて、いずれも周囲からこうむった深い心理的ないじめに対する被害感に彩られていて、母と娘(たち)の受難史を描いた家庭小説という感じになっている。もちろんその遠因をつくっているような無力で不在がちな父親として朔太郎は登場するのだし、朔太郎自身についても厳格な医者だった父親との深い葛藤のエピソードは語られているのだが、卒読しての一番の印象をいうとどうもそうなってしまう。生前遠い距離にあった父に向けての娘からのはるかな生涯の報告書のように書かれた本書は、あとがきによると、著者が今年(05年)の7月に急逝されたため、遺作となった、とある。死の直前まで加筆されていたという。



ウーヴェ・ティム『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』(2005年6月20日発行・河出書房新社 1600+税)は小説。カレーソーセージというのは、主にドイツの北部地方で、たいていは立ち食いの屋台などで売られている庶民の味、日本でいえば「たこ焼き」のようなものだと、あとがきにある。小説の舞台はハンブルグ。子供の頃から、ブリュッカー夫人(レーナ・ブリュッカー)が屋台で売っていたとびきり美味しいカレーソーセージの味を忘れられなかった「私」が、今では店をやめ老人ホームでひっそりと暮らしているブリュッカー夫人のもとに何度も通い、彼女の口からカレーソーセージ誕生の秘話を教えてもらおうとする。それは第二次大戦終戦間際のハンブルグで、当時既婚ながらアパートで独り暮らしをしていた40代のブリュッカー夫人が、偶然ブレーマーという名の若い脱走兵を部屋に匿うことになったという出来事のいきさつからはじまる、夫人の人生に秘められたラブストーリーと密接につながっていたのであった。。時期は終戦間際から日本でいえば焼け跡闇市時代ということになるだろうか。小説では、その頃にカレーソーセージ(ソーセージにケチャップとカレー粉と香辛料を混ぜたソースをかけたもの)のアイデアをブリュッカー夫人が最初にうみだしたことになっている。実際の発案者は不明のようだが、人物描写がいきいきしていて、とくに物資窮乏の時代を逞しく生きるレーナの人柄や彼女の心の揺れにひきつけられるように読んでいくと、実際にあった出来事のようにも思えてくるのが面白い。読後には、もちろんカレーソーセージをつくってみたのだが(^^;。



財部鳥子『天府 冥府』(2005年7月7日・講談社 1500+税)は小説。1930年代の前半、山本良郎・雪江夫婦は、まだ赤ん坊だった長女マス子(「わたし」)を伴って旧満州国の佳木斯(ジャムス)に移住する。山本は吉林軍司令部につめる軍人で、吉林軍中校(中佐)という階級だった。やがて一家に長男の東亜と、次男の拓男が相次いで生まれる。本書には、この山本一家のジャムスでの暮らしぶりを描いた「天府」と、1945年8月、満州国が崩壊しての後の時期、主に山本一家の新京での難民生活の様子を描いた「冥府」という二編の小説が収録されている。いずれも山本家の長女マス子=「わたし」の視点から、子供の目にうつった当時の情景や体験の記憶が鮮やかに描かれていて、とても興味深く読んだ。1932年に五族共和をうたって独立を宣言した満州国には、多くの日本人入植者が流入した。なんどか「天府」の記述にでてくる辺境の都市ジャムスの人口の増加ぶりは、その急速な拡大の様子を示していて、「天府」で描かれる「わたし」の幼少女時代は、そのままその拡大膨張期に重なっている。「冥府」では、一転して満州国消滅後に現地から引き揚げようとした日本人入植者たちのたどった苛酷な運命が描かれている。この自伝的な作品は、満州国に移住した日本人一家の記録という意味でも貴重だが、詩的な純度の高い文学作品としても深い感銘をあたえてくれる。



クライブ・ブロムフォール『幼児化するヒト----「永遠の子供」進化論』(2005年4月30日発行・河出書房新社 1800+税)は壮大な「幼形進化論」(あとがき)。動物が幼形時の特徴を保ったまま成体になって、性的成熟に達する現象が、ネオトニー(幼形成熟)といわれる。人類はとくに他の霊長類の胎児期や幼少期の特徴をそなえているらしく、では、そういうネオトニーの見方から人類の進化を考えるとどんなことが見えてくるのだろう、というのが、本書の内容になっている。人類が直立二足歩行をするようになった原因をめぐって、いろんな説が唱えられてきたが、直立二足歩行の姿というのは、環境適応の原因(生き延びるのに有利だから適応できた)ではなく、身体構造の成熟の度合いをコントロールする遺伝子に変化がおきた結果だった。つまり、そういう不利な身体的特徴を持った「にもかかわらず」適応できたのだ、という話が冒頭にでてきて、ぐっとひきこまれて読み切ってしまった。本書の後半部では、人類の歴史文化や社会的行動、心理機制などにみられる様々な特徴が、すべてこの「幼児化」の立場から解説されていき、最終章では、人間の性格類型が幼児化の度合いによって4つのタイプにわけられる、とされてしまう。著者は動物行動学を専攻したのち、テレビで動物や自然界に関するドキュメント番組の制作に長年携わってきた人だという。文はこなれていて読みやすく、ネオトニーの考え方の紹介としても面白い。前文に「自分のまわりの世界を偏見なく観察することに子供のような喜びを感じるすべての人に、この本を捧げる。」とある。「わが身に対する認識を改めさせるような本」とデズモンド・モリスの序文にあるが、そこまでいかなくても、「子供のような」、という言葉の意味が、読後にはちょっと一味違ってくるのだった。



阿部謹也『「世間」への旅』(2005年7月10日発行・筑摩書房 1700+税)はエッセイ集。石牟礼道子、金子光晴、網野善彦など、作家や学者について書かれた文を収めた第一部「「世間」の発見」、著作集第五巻にも収録されている「ちくま」連載シリーズ「異形のものたち」を含む第二部「西欧中世から現在へ」からなる。もともと西欧中世史の研究者だった著者が、「世間」という独特な観念に注目して日本社会の歴史にも関心をもつに到った経緯は、これまで何冊もの著書で言及されているが、本書には著者がそれらをひとつの研究分野(「比較史」)としはじめた頃のエッセイが収録されている、ということが、あとがきに記されている。明治期以降現在にいたるまで、日本人は西欧型思考と伝統的な「世間」的思考をダブルスタンダードのように使い分けて生きてきた、という視点と、西欧の中世に西欧型思考の源流を訪ねて、それらの比較対象の中から歴史文化の問題をほりさげてゆく。本書は、著者のてらいのない回想録ふうなところもあるエッセイ群と、西欧の森の文化の産んだ「水の精」「侏儒と妖精」「巨人」などのイメージを解説紹介した「異形のものたち」シリーズのとりあわせが対照的で、二冊分を併せて楽しめるという感じだ。



A・E・フェルスマン『石の思い出』(2005年6月10日発行・草思社 1700+税)はエッセイ集。ロシアの鉱物学者アレキサンドル・エフゲニェビッチ・フェルスマン(1883~1945)の、鉱物や宝石をテーマにしたエッセイ集。本書の旧版は1955年に『科学の仲間』全12冊シリーズの一冊として理論社から発行され何度も重版を重ねたというが、本書は旧版の翻訳者による新訳。まだ現在のロシアがソ連邦だった時代、高名な鉱物学・地球化学の専門家として、広大なソ連邦の様々な地方に赴き、鉱物の採掘や鉱床の発見などに従事した人が、晩年になって鉱物や宝石にまつわる生涯の思い出を子供むけに綴った、という本だ。昆虫の採集や研究に明け暮れて人生を送る人もあれば、鉱物の組成の不思議や美に魅入られて人生を送る人もいる。なににせよそういう人の晩年には、いつしかひとつの道(タオ)を歩き通してきたような自足感や慰めがあるように思える。ソ連邦が世界を二分する超大国だった時代の追想で、当然ながら戦争の悲惨さや収容所群島の存在などにはふれられていない。ある意味、幸福な本というべきかもしれない。



リービ英雄『千々にくだけて』(2005年4月28日発行・講談社 1600+税)は短編小説集。2001年9月11日、ニューヨークで自爆テロのあった時間に、ちょうどカナダ経由でアメリカに向かう飛行機の機内にいたエドワードという作者の分身のような主人公の体験を描いた「千々にくだけて」「コネチカット・アベニュー」という二編の小説と、「あとがきにかえて----9.11ノート」という文章からなる。自爆テロが起きて直後、アメリカの全空港が閉鎖され、一時「鎖国状態」になったということを、あらためて知った。作品は淡々とした筆致で、感情表現を抑制して書かれている。あとがきには、二編の小説作品とは別に、テロ前後の日々の現実の「私」(作者)の体験がそのまま書かれているが、その事実の描写が小説をなぞっている(実際にはその逆なのだが)ようで、そのときの鮮明な記憶や衝撃が二編の作品を書く事への強い動機になったことがうかがえる。あとがきによると、作者の義理の妹の勤める会社の二人の同僚がこのテロで亡くなったという。アメリカ社会の現実と日本社会の現実、というと変だが、そのふたつの現実が背中あわせになってひとつの世界をつくりあげているような「現実感」があるとすれば、そういう現実感の中で9.11のような出来事はどんなふうにとらえられるのだろうか。国家をこえたアイデンティティというテーマに取り組んでいる作家ならではの記録小説という意味でも興味深く読んだ。



養老孟司『私の脳はなぜ虫が好きか』(2005年7月4日発行・講談社 1600+税)はエッセイ集。1999年から2002年にかけて『日経エコロジー』に連載されたエッセイを加筆した本とあり、出版時期からするとやや執筆時期の古い連載エッセイの単行本化ということになるが、内容的な古さはあまり感じられない。というのは、全般に昆虫採集に関する話題が多い(^^;のに加えて、時事的な事柄への言及があっても、著者の場合、話題がタイムスケールの大きな抽象的な問題や物事の本質論へとその関心が結びつけられていくからだ。どこそこの外国まで出向いて昆虫採集をしたといった話が沢山のっていて、夏向きだなあと思って読んだが、こういう体験の醍醐味は当事者ならではというところがあるのだと思う。その虫とりの話からちょっとそれて、自然や環境をめぐる思考の問題などにふれてくるところで、主観的にはがぜん面白くなった。ちょうどエッセイ集の後半だろうか。とはいうものの、こういう本を読みかけていると、知らないうちに昆虫のことをどこかで気にかけている状態になるのが面白い。公園を散歩していて、足元から飛び立った虫を草むらまで追いかけてみる気になり、確かめたところ子供の頃にみかけた背中に斑のある綺麗なカミキリムシであった。本の功徳というべきか。



多和田葉子『旅をする裸の眼』(2004年12月10日発行・講談社 1600+税)は小説。ヴェトナムのサイゴン市の成績優秀な女子高校生だった「わたし」は、東ベルリン(当時)で開かれる全国青年大会の講演会に学生代表として選ばれて東ドイツに赴く。ところが着いた早々、当地で知り合ったヨルクという名の学生によって、酔って寝ているうちに拉致同然に彼の暮らす西ドイツのボーフムという町に連れ去られてしまい、そこで奇妙な同棲生活を送ることになる。一年ほどして、ある日モスクワ経由で祖国に帰ろうと列車にとびのった「わたし」は手違いでパリに行きついてしまい。。といった出だしで語られる「わたし」の遍歴物語。運命の悪戯で故郷喪失者になってしまったベトナム人女性の変転するパリ生活が中心に描かれているのだが、赴く先々で知り合う多くの善意の人々に支えられながらも、異質な価値観(彼女は共産主義理念を信奉している)や言語の通じない異文化の中で、彼女の関心はそうした不安を打ち消すかのように、ひたすら映画館に通って、さる映画女優(カトリーヌ・ドヌーブ)の主演映画を繰り返し見ることに費やされる。女優の出演する映画タイトルのつけられた13の章全てに映画の断片からイメージされた描写が含まれるという凝った趣向もさりながら、散文詩ではなくて詩散文とでも呼びたいような独特の世界が構築されている。著者自身の異文化体験や映画への偏愛を投影したような本書はドイツ語版と同時平行で書かれたという。



コロナ・ブックス編集部編『作家の食卓』(2005年7月25日発行・平凡社 1600+税)は食に関するエッセイ集。雑誌「太陽」94年10月号の同名特集の内容に追加取材、加筆再構成してなった本との記載があり、複数の作家(主に戦後の小説作家)たちが書いた料理や食材についてのエッセイや短文を蒐集して、きれいな写真とあわせて紹介した本ということになると思う。さる書店でみかけ、「ムック」といってもいいような体裁の本なので、買うのにちょっと躊躇したが、結局書店を一巡した末に買い求めてしまった。基本的にこの手の料理写真入りの本に弱いのだ。本書に短文が収録されていたり言及されている作家の名前を、立原正秋、石川淳、永井荷風、檀一雄、円地文子、色川武大、森瑤子、寺山修司、澁澤龍彦、さらに、谷崎潤一郎、白洲正子、吉田健一、森茉莉、開高健などと並べていくと、だいたい食について一家言ありそうな作家たちは網羅されているんじゃないかと思えてくる。あるいは、生前どんな食べ物が好みだったのかを知りたくなるような個性的な作家たちが並んでいる、と、言えばいいか。それぞれが短い情報なので料理の写真をみながらさらっと読めてしまう。ひっかかるところでは、真似してつくってみようなどと思っている。



ル・クレジオ『はじまりの時』(上下)(2005年7月10日発行・原書房 各巻2200+税)は小説。ジャン・マロという名の主人公(記載から類推すると1940年頃に生まれている)の10代の初めから20代の終わりにかけての少年期、青年期の物語と、彼の先祖で18世紀にフランス革命に従軍したジャン・ウッド・マロという人物とその家族の物語が、よりあわされるように交互に進行していくという本格長編小説。ジャン・マロは少年時代に親戚の大叔母から、彼女(たち)が若い頃に過ごしたモーリシャス島での暮らしぶりを聞くことを日課のように楽しみにしていた。この一族の伝承を聴くような経験が、自分の祖先が過去に辿った一種の流民体験についての主人公の関心を育み、彼自身の宿命的な生き方(徴兵忌避のため、フランスから英国、メキシコと転居する)にも「輪廻」のように投影されていく。というように描かれていると思う。ピントはずれかもしれないが、作中の人と時代との関わりや、大河的なストーリーの流れ、しっかり書き込まれた文の力や叙情性などに、以前「チボー家の人々」(結局最後まで読み通せなかった本だが)を読んでいたときの気分が蘇った。帯に「半自伝的傑作」とあり、主人公ジャンの生の軌跡は作者の青年期の体験に重ねられるようで、40年の間ほぼ毎年一冊のペースで著書を生んできたという(訳者あとがきによる)作家としての持続力にも驚かされる。



芹沢俊介+吉本隆明『幼年論』(2005年6月30日発行・彩流社 1600+税)は語りおろしの対談集。2003年秋から翌年正月にかけて3回にわけて吉本氏宅で収録された対談が9部構成で収録されている。対談者おふたりの幼年期(「乳児期を離脱して学童期や少年期へと到る、そのちょうど中間」の時期)を巡る対談、というより、おおむね吉本氏の幼年期の記憶についての芹沢氏のインタヴューという感じで本書の前半は展開していく。両氏の体験に即したところから、思想的ないみあいが汲み取られていく特色がみられるが、対談者が同性ということもあって、当然ながら女性の場合の幼年期のもつ意味、というところまで体験的な肉付けをもった話として届いてこないのが、無い物ねだり的にいえば、不満だったところだ(というのは、にわか人形ファンとしては、幼年期にみられる「人形遊び」についての言及をちょっと期待していたせいで)。「幼年についてのこの議論は、対幻想論の新しい裾野に確実に触れているはずである」(芹沢氏のあとがきより)とあるのは、たぶん第七章から八章で語られている内容をさしているのだと思う。たしかに、この、異性愛型と自己対型というふうに芹沢氏が規定している、親子間で働く二種類の対幻想のあり方についての議論は読んでいて特に新鮮だった。さらなる論究を機会があれば読んでみたいと思ったところ。



長田弘『人生の特別な一瞬』(2005年3月30日発行・晶文社 1600+税)はエッセイ集。6部構成で32編のエッセイが収録されている。初出の記載はないが、あとがきから旅行雑誌掲載の連載エッセイが中心なのではないかと想像される。旅先や、ときには日常でも、ふと目にした風景に一瞬心が奪われるということがある。本書は、そうした様々な記憶の風景についての短いエッセイを集めた本といえば趣旨通りなのだろうが、読んだ印象でいえば、「旅への誘い」というサブタイトルでもつけたくなるような感じだ。数々の旅でであった風景が書かれているけれど、日付や具体的な旅程、用向きといったことは極力省かれていて、そうしたある種の抽象性が、読む側の記憶にそっと重なってくるところがある。全体は淡彩のスケッチのような気持ちのいい文章で統一されている。「特別なものは何もない、だからこそ特別なのだとという逆説に、わたしたちの日々のかたちはささえられていると思う。」(あとがきより)



町田康『浄土』(2005年6月6日発行・講談社 1600+税)は短編小説集。2001~2005年にかけて「文学界」「群像」に掲載された「犬死」「どぶさらえ」「あばば踊り」「本音街」「ギャオスの話」「一言主の神」「自分の群像」が収録されている。存在するだけで自分は最高に凄いと思いこんでいるロックスター風の男のでてくる「あばば踊り」、いつもヘマばかりしながら、上司や同僚に叱責されてもけして自分が傷つかないような態度を身につけた男を描いた「自分の群像」など、人の性格や関係心理の負の部分を拡大して風刺的にデフォルメする、というテーマが印象的。逆に誰もが本音で言動することが暗黙のルールになっている街を舞台にした「本音街」は、そうしたこだわりをなし崩しにして、子供時代に帰ったような奇妙なカタルシスを味合わせてくれる。「豚田笑子」「方原位多子」といった、冗談っぽい登場人物のネーミングや、怪獣があらわれて無意味に暴れる「ギャオスの話」など、油ののった「破天荒なる暴発小説集」(帯のことば)。



松本大洋『花/メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス』(2005年7月30日発行・フリースタイル 1100+税)はコミックとシナリオの合本。表題どおり、「花」というタイトルのコミックと「メザスヒカリノ...」というタイトルのシナリオが収録されている。前者は、もともと劇団黒テントの公演用(98年6月に上演)シナリオの漫画化で、2002年12月に一度単行本として発売されている。後者は、そのまま演劇のシナリオだ(劇団黒テントによって2000年5月に初演)。「花」は、日本の古代を思わせる時代の小さな村落が舞台。村には雨乞いや祭礼に用いられる仮面つくりをを専業にする「面打ち」一家がいて、老いた面打ちキクには、その跡継ぎのツバキとユリという息子がいる。ツバキの打つ面では、舞っても雨乞いの効能がないというので、村人が騒ぐが、キクはツバキの技量を信じて動じない。実際に雨乞いの祈願が神々に聞き届けられられなかったのは、舞い手のおごりのためだった。ツバキは家にこもったまま精霊たちの声を聞くことのできる少年だったのだ。。。もう一作は、現代のドライブインを舞台に、そこに常連客である長距離トラックの運転手たちが集う、というシチュエーションのドラマ(のシナリオ)。いずれの作品も風変わりな設定の世界の中で、登場人物相互のコミュニケーションに関わる細やかな情感が伝わってくる。一部で熱心な支持者をもつ漫画家の多才ぶりがうかがえる作品集。



アメリー・ノトン『幽閉』(2004年12月20日発行・中央公論社 1800+税)は小説。1923年の3月、港町ヌーの病院の看護婦フランソワーズは、病院の院長に呼ばれて、モルト=フロンチェールと呼ばれる小島に館を構えて住み、皆から「船長」と呼ばれているロンクールという老人の診察を頼まれて欲しいのだが、と話をもちかけられる。島に行けばかなりの報酬がもらえるが、ロンクールは偏屈な老人で、彼のいろいろな指示に従わなくてはならなし、島に上陸するときには、入念な身体検査をされる、それで構わなければ、という話なのだった。フランソワーズは、この依頼をひきうけ、翌日島に出かけるのだが、彼女が患者として紹介されたのは、意外なことに島に幽閉されていたアゼルという名の年若い女性だった。というミステリータッチで物語ははじまる。著者は67年生まれベルギーの作家(5歳まで日本で過ごしたという)。これまでに13の作品をパリの出版社から発表していて「現在フランスの文壇で最も活躍している作家のひとり」と訳者あとがきにある。フランソワーズとアゼル、さらにロンクールを含めた3人の対話小説といった流れの中で、愛とエゴイズムを巡るテーマが、いかにも現代っ子的な風刺をきかせたセンスで浮き彫りにされている。



中島義道『悪について』(2005年2月18日発行・岩波新書 700+税)は「カント倫理学を「悪」という側面から追っていった」(はじめに)本。「「道徳的善さ」とは何か」、「自己愛」、「嘘」、「この世の掟との闘争」、「意志の自律と悪への自由」、「根本悪」、という全7章で構成されている。「どんな善人も悪である」という帯の言葉が印象的で、この一見逆説を語っているような言葉にむかって、カントの著作に沿いながらどんなふうに思考の道筋をとおしていけるか、というのが、本書の読みどころになっているように思える。文章はカントの使用したさまざまな哲学用語の解説なども含んでいるので、厳密に考えようとするとカントの著作に深入りするほかない感じで、結局ふにおちる、というところまでいかなかったのだが、人が本来「道徳的善さ」というものをそなえた存在であることを前提にすると、社会の中で生きることは、その「道徳的善さ」を裏切ることによってしか可能ではなく、人は自由な選択として「道徳的善さ」よりも自己愛を優先する「性癖」をもつような「文化の悪徳」に染まっている。そういうメカニズムに自覚的であるか否かの一点で「善悪」が判定される、という(どんな善人も悪であるような)認識の世界の構図がほのみえてくる。。



町田康『告白』(2004年10月22日発行・みすず書房 2200+税)は小説。読売新聞に2004年3月5日から2005年3月8日まで連載された部分に、分量にして3分の1ほどの書き下ろしを加えて単行本となった長編小説。明治26年に河内の赤坂水分村で、村会議員宅に二名の男が押し入り老人や幼児を含め10人が惨殺されるという事件が起きた。12日後自害した姿で発見された犯人の二人組は同村在住の博徒だったが、このあまり類をみない大量殺人事件に至る経緯が博徒たちを主人公にした語りものとして脚色され、事件後ほどなく「河内十人斬り」として大阪・千日前の舞台にかけられて40日間の興行で大当たりをしたという。本書は、この事件と、河内音頭の「河内十人斬り」に材をとって、事件の主犯、城戸熊太郎の半生を描いた異色の小説作品。主人公は狡猾で非道な地方の有力者のしうちに「堪忍袋の緒が切れて」民衆の代弁者のように復讐を遂げたという、一種のヒーローのように伝えられてきた人物なのだと思うが、その人物の内面に少年期から過剰なほどの鋭敏で繊細な「自意識」を付与することで、波瀾万丈のストーリーやリズムのいい文体とともども、現代的な心理活劇とでもいいたいようなパワーあふれる独自の小説世界をつくりあげている。心理小説としてまっさきに思い浮かべたのは太宰治で、太宰の初期小説にも、相撲をとって自分の作為性を見抜かれることを異常に恐怖する、といった少年の自意識を扱ったものがあるのを思い出した。



フィリップ・クローデル『灰色の魂』(2004年10月22日発行・みすず書房 2200+税)は小説。1917年12月、フランス北東部にある田舎町の川べりで、10歳の少女の絞殺死体が発見される。当時第一次大戦の戦時下にあったとはいえ、まだ平穏な町の住民たちを驚愕させたこの謎めいた殺人事件の真相は。。犯人はだれなのか、という謎に加えて、この物語の語り手はだれなのか、という最初に提示される謎とともに、どこに運ばれてゆくのかわからないようなストーリーの移ろいに身を委ねるという感じで最後まで読まされてしまった。この作品はフランスで2つの文学賞を受賞してベストセラーになったという。40代前半の作家(著者は62年生まれ)が、自分が生まれる前の、しかも「大文字」の歴史の影に隠れるような、ありふれた田舎町で起きた(架空の)殺人事件にまつわる物語を、事件にかかわる住民たちそれぞれのやや古典的でシニカルな人物スケッチとともに手記のような体裁で描く。そういう地味で手の込んだ情熱の出所もまた、現代のフランスの読者にとって、ある種のノスタルジーとともにちょっとした謎をはらんでいたのだといえるのかもしれない。「ろくでなしだろうが、聖人だろうが、そんなのは見たことがないよ。真っ黒だとか、真っ白なものなんてありゃしない、この世にはびこるのは灰色さ。人間も、その魂も同じことさ......。」「そんなものはみな言葉だ......」「言葉に恨みでもあるのかい?」(本文より)



吉田敦彦『不死と性の神話』(2004年11月10日発行・青土社 2400+税)は比較神話学の啓蒙書。「不死の神話と洪水伝説」「性と豊饒の神話」「三つの宝物がつなぐ東西の神話」「母神信仰に見る神道の源流」「海の恵みの神話」、というタイトルの全五章からなる。あとがきによると、小中学生の読者を対象に想定して書かれたという第一章の他は、講演や公開講座で話された内容が初出。世界の様々な国に残る神話や伝承を比較すると、その構造がとても似通っていることに気付くことがある。そういう場合、どこかで原型のような神話が生み出され、それが経路をたどって別の場所に伝搬したのだろうとか、特定の人類社会の進化の段階に普遍的に発現するような神話的な思考があるのだろうとか、ケースによって様々な考え方をとりうるのだと思う。本書の内容は多くが講演録ということもあり、読みやすい文章で、いくつかのテーマ別に世界の神話や伝承の比較例が豊富にあげられている。こういう探求には、文献だけではなく、土偶や土器や遺構なども手がかりに古代人の思考にせまる、という面もあることが、収録されている多数の図版からうかがえるのも楽しい。一冊の著書としては、取り上げられているテーマが広範にわたるので、もうすこしテーマを絞って掘り下げたものが読みたい、と思ったら、著者の術中にはまっていることになるのかもしれない。



大塚英志『「おたく」の精神史」一九八〇年代論』(2004年2月20日発行・講談社現代新書 950+税)は文化批評。「おたく」という言葉は、1983年に中森明夫が使いはじめたのが最初だということが本書第一部に記されているが、それ以降、「アニメやコミックの特化した受容者」(であるような若者たち)をさす便利な言葉としてマスコミで使用され、幾つかの青少年犯罪や社会的事件に関連づけられて語られることも多々あって、いつしか「おたく文化」というような言い方も定着したように思う。本書を読むと言葉の誕生から20年を経た現在では「おたく」を「オタク」と言い換えることに微妙なイメージの差異がこめられているようなのだが、本書は、あくまでも80年代に生起した元祖「おたく」(的文化事象)についての論考。「「おたく」と「新人類」の闘争」、「少女フェミニズムとその陥穽」、「物語消費の時代」、「90年代の中の80年代」の四部からなり、新書本にしては400ページを越える厚手の本だ(初出は「諸君」97年10月から2000年10月号にかけての連載)。著者はこれまで「おたく」評論家として、なにか青少年の犯罪事件が起きた時だけマスコミから取材攻勢をうけるのに辟易としたような体験談を書いているが、そんな時、私もこの人ならどんなふうに解釈するだろうと知りたく思うような著述家のひとりだった。自らを「おたく」世代のひとりと規定したうえで、「おたく文化」の基底にあるものを現代の消費社会の時代精神のように読みとっていくという、独自の体験を手放さない著者の姿勢はあまり類をみないと思う。



浦沢直樹『20世紀少年』(18)(2005年4月1日発行・小学館 550+税)は長編コミック。2000年3月に単行本第一巻が発売され、2005年6月現在18巻まで刊行されている。ジャンルでいうと近未来SF漫画ということになるのだと思うが、ストーリーは主人公たちの少年時代である1960年代から今のところ2010年代まで、時間軸を自在に往還しながら少しずつ進行していく。20世紀末に小学校の同級生として子供時代を過ごした仲のいい少年達が、長じてのち、子供時代に彼らのひとりが思い描いた「世界征服」「人類滅亡」という未来像が実現されていく悪夢のような21世紀を生き抜いていく物語ということになるだろうか。週刊コミック誌の長期連載ものなので、謎の提示と種明かしの繰り返しで読者をひっぱいく手法がふんだんに盛り込まれている。18巻を一気読みするとさすがにこれが気になるが、新しいエピソードの導入と丁寧で親しみやすい絵柄に引きこまれていくので単調にはならない。スティーブン・キングの少年ものの味わいからはじまって、現実に生起した宗教団体の社会的事件をトレースしたような前半の展開、二代にわたる大河ドラマようなスケールと、いろんな要素が渾然と混じり合って独自の物語世界をつくっている。



辛酸なめ子『ヨコモレ通信』(2005年5月10日発行・文藝春秋 1200+税)は各種イベントの潜入ルポを内容にしたコラム集。週刊文春に2004年1月1日・8日号〜2005年3月3日号も連載されたコラムを中心に全部で60編が収録されている。取材テーマは「チラシ、新聞、TV、雑誌、宙吊り広告、インターネットなど目にうつる全てのメディアからインスピレーションで選んで」いると、後書きにある。紹介されているのは、水族館や動物園から温泉や野球場、ホテルやデパートの展示会、中にはテレビ番組や書籍、ゲーム体験記なども入っていて多種多様だが、多くは連載期間中に東京近縁で開催された催しものの潜入ルポだ。ただ潜入ルポといってもメモを取っていて注意される程度の「潜入」の度合いで、ごく普通の人が、なにかのメディアでイベントの広告を見て、ちょっと行ってみてきた、ということの紹介や報告というのに近い。それぞれが短文なので、あっというまに読めてしまうが、まとめてよむとこれほど多種多様なイベントが毎日のように行われている現代の都市空間や世相について、今更ながらの驚きがある。「遠い場所に旅行できなくても、、、身近な所でもトリップ感覚を味わうことができます。」というのも後書きの言葉だが、さらに、こういう本だけ読んで味わってしまう手軽なトリップ体験に(^^;。