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走り書き「新刊」読書メモ(29)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(05.3.5~05.6.11)

 鈴木健介『カーニバル化する社会』 浅野裕一『古代中国の文明観』 三崎亜記『となり町戦争』
 中井久夫『時のしずく』 中島らも『ロカ』 澁澤龍子『澁澤龍彦との日々』
 保阪正康『眞説光クラブ事件』 竹西寛子『贈答のうた』 デジビン『ウェブログのアイデア』
 村瀬学『カップリングの思想』 小石房子『江戸の流刑』 柳美里『雨と夢のあとに』
 大久保洋子(監修)『江戸っ子は何を食べていたか』 諸星大二郎『キョウコのキョウは恐怖の恐』 大澤真幸『現実の向こう』
 吉本隆明『中学生のための社会科』 富岡多恵子『難波(なにわ)ともあれ ことのよし葦(あし)』 吉本隆明『「食」を語る』
 吾妻ひでお『失踪日記』 純子セラフィーナ『ファッションドール大図鑑』 黒川伊保子『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』
 山折哲雄『デクノボーになりたい』 玄侑宗久『死んだらどうなるの?』 佐藤俊樹『桜が創った「日本」』
 稲葉真弓『私がそこに還るまで』 瀬古浩爾『生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語』 J・K・ローリング『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』(上下)
 絲山秋子『逃亡くそたわけ』 養老孟司+玄侑宗久『脳と魂』 曽根富美子『含羞』(1,2)


鈴木健介『カーニバル化する社会』(2005年5月20日発行・講談社現代新書 700+税)は現代社会の分析の書。現代の社会が、「「祭り」を駆動原理にしはじめているのではないか」という視点から、その背景にあると思われる若年層の雇用問題や就労問題(1章)、監視社会化という問題(2,3章)が分析されている。著者のいう「祭り」とは、「二一世紀に入って以降の我が国で」「日常生活の中に突如として訪れる、歴史も本質的な理由も欠いた、ある種、度を過ぎた祝祭」というふうに語られ、本書の冒頭では、2004年に起きたネットでのイラク人質バッシング、拉致被害者バッシング、終章では2002年のワールドカップ時の「若者たちの狂乱騒ぎ」や、インターネット発の数々のイベント(「湘南ゴミ拾いオフ」「マトリックスオフ」「折り鶴オフ」など)が例としてあげられている。そういった社会現象を「祝祭」や「カーニバル」という言葉で呼ぶところに、もうすこし肉づけが欲しかった感じなのだが、本書の読みどころはたぶん、こうした近年散見するような「歴史も本質的な理由も欠い」ているようにみえる突発的な社会現象の分析、という枠をこえた、現代人、とくに若い世代の「自己モデル」の仕組みや社会の依存する「データベース」(の自己観念的な監視装置的機能)といったことへの考察にあると思う。「一見すると何を論じているのかわかりにくい構成」(はじめに)の本書は、正直よみにくかったが(^^;内容的にはとても刺激的な本で、二週間くらい外出のたびに持ち歩いて読んだ。



浅野裕一『古代中国の文明観』(2005年4月20日発行・岩波新書 700+税)は古代中国思想史の解説書。総論の「はじめに」から、中国古代の思想家たちの記した文物の中に現代に通じる環境問題への指摘を読みとる第一章「文明以前の環境問題」、文明の誕生を「文字」の発明から考察した第二章「文明発生の記憶」、儒家、墨子、老荘といった中国の代表的な古代思想とそれらの文明観の差異について、それぞれ一章づつをあてて解説した第三〜五章、現代を視野にいれた著者の文明観をのべた第六章「おわりに」という構成になっている。文字の誕生について、『准南子』に、文字が発明されたことで「鬼は夜に慟哭せり。」とあるが、なぜ鬼が泣いたのか、という謎を追った第二章は、白川静氏の「文、字、名」の原義についての解釈なども紹介されていて興味深く読んだ。古代中国思想の概略や紹介の項では、「孔子の思想活動の出発点そのものが、極めて詐欺的な性格の強いものであった。」というような孔子像のほか、老子の思想形成についての伝承や、近年の未知の道家思想にかんする新出土資料のことなど、興味深く目をとめた個所も多い。



三崎亜記『となり町戦争』(2005年1月20日発行・集英社 1470+税)は小説。舞坂町という町のアパートに単身で住み、車で町をひとつ隔てた地方都市の製薬会社に通勤している「僕」(北原修路)は、ある朝、郵便受けに投函されていた広報誌「広報まいさか」で、となり町と戦争がはじまったことを知って驚く。当日、となり町を横断して職場に通勤してもニュースを聞いても何の異変も感じられなかったのだが、ひと月ほどして僕のもとに町役場の「舞坂町総務課となり町戦争係」から届いたのは、戦時特別偵察業務従事者に任命するという一枚の辞令だった。。。地方都市同士が町の事業として行う「戦争」に、否応なく関与させられてしまう青年の体験を描いた不条理(恋愛)小説。アイデアにいかにも意表をつかれるところがあり、すこし考えるとかなり不自然な設定なのに、文章の語りで「戦争」というイメージの拡散や希薄さ、という、別の意味での私たちの現実感のもつ不透明さに対しての鋭い批評になっている。ラストまで不穏で静かな緊張感が持続されていて面白く一気に読んだ。第17回小説すばる新人賞受賞作品。



中井久夫『時のしずく』(2005年4月20日発行・みすず書房 2600+税)はエッセイ集。自伝的、懐古的な文章、阪神・淡路大震災に関連したもの、読書や日本語に関するもの、書評や追悼文など、95年から2002年はじめ頃までの時期に雑誌などに発表されたエッセイが全5章33編収録されている。ある文章が書かれるときに、その文章のテーマや目的といったことから少し離れたところで、その文体(文章を書くということそのもの)に著者が思いをめぐらせている、という印象をうける文章というものがある。この「思いをめぐらせている」という感じは、たぶん「書く」こと「読む」ことへの信頼のようなものが関係している。全6巻別巻2という著作集の他に膨大な数の訳書、訳詩集や著書をもつ著者が、「これまで自分から進んでものを書いたことがほとんどなく」「私の書いた散文はほとんどすべて依頼原稿から成り立っている。」と書いているのにちょっと驚いたが、そのエピソードは、著者の書くものに対する信頼のようなものが、逆にどこからきているのかを現すようで納得いくものだ。「文体」の中に、ある種の誠実さ、知的好奇心、つまりは「自由な精神」をみいだせることの喜び。



中島らも『ロカ』(2005年4月25日発行・実業之日本社 2000+税)は小説。「J-novel」誌に03年12月号から04年8月号まで連載されたが、著者急逝のため絶筆となった未完の長編小説だ。表紙に「近未来私小説」とあるのは、その行状や履歴から作者の分身のように想像される男性主人公(私=小歩危ルカ(こぼけるか))が、昭和11年生まれの68歳と設定されていて(計算すると作品の「今」は、2004年になり、実際に小説が書かれていた時点からいうと、舞台は1,2年程度の未来社会ということになる)、そのうえ、この老主人公の造形に作者が自分の老いた姿を投影している、と言うように読めるせいだと思うが、描かれている社会は現代そのもので、近未来を思わせるところは皆無だ。つまり近未来もの=SF的小説というように判断すると勘違いしてしまうことになる。かってベストセラー小説を書いて数億円という冨と名声を得た「私」は、それ以降一作も作品を書かず、本の印税と家屋を売り払った金を銀行に預けて孤独なホテル暮らしをはじめた。仕事もぜず日夜都会の盛り場を散策してひたすらため込んだ預金をくいつぶすという悠々自適の生活に専念しているこの書かざる有名ふーてん老人作家が、出演したテレビ番組で放送禁止用語を連発してスキャンダルをひきおこすなど、さまざまな彷徨体験を重ねていく、というのがあらすじ。元ロックバンド「人でなし」の伝説のロッカーとおぼしき人がクレオという名で登場したり、作品にはどこか人情味のある70年代の優しい風が吹いている。完結作として読みたかった。



澁澤龍子『澁澤龍彦との日々』(2005年4月30日発行・白水社 2000+税)は書き下ろしのエッセイ。澁澤龍彦の妻だった著者が、夫と過ごした十八年の日々をふりかえったエッセイ集で、故人の文筆生活ぶり、交友記録、好きだった食べ物や旅行の思い出などが、簡潔な文体で生き生きと描かれている。これまで澁澤との生活を本にするつもりなどまったくなかったという著者だが、本書は澁澤龍彦が1987年8月5日に咽頭癌で亡くなってから18年がたち、生前の澁澤を知る編集者もどんどんいなくなるから、という編集者のすすめで執筆、出版されたという(あとがきによる)。夫をなくした妻が生前の故人を偲ぶエッセイということに変わりはないが、たぶん没後に流れた歳月が、いい意味で描像に距離を与えている。ある意味本書の時間は18年前でとまっていて、遠い記憶のように描かれる澁澤のひととなりや文士たちとの生活交流の記録を、懐かしく読まれる人も多いと思う。私もまた、もう18年になるのか、という感慨をもった。87年からさらに遡り、著者が澁澤と結婚して暮らしたという18年間は、たぶん多くの同世代の人と同様に、私もそれなりの澁澤の愛読者だった時期に重なる。思えば私がワープロでプリントした粗末な自家製個人通信をほぼ月一回の間隔で発行のはじめたのが、88年の1月で、その第一号は澁澤龍彦の絶筆となった小説『高丘親王航海記』の感想と、前年の夏の彼の死にふれていたのだった。。



保阪正康『眞説光クラブ事件』(2004年11月20日発行・角川書店 1600+税)は書き下ろしのノンフィクション。昭和二十四年十一月、山崎晃嗣という二十七歳の青年事業家が青酸カリによって服毒自殺を遂げた。この出来事が当時のマスコミにスキャンダルとして大きく取り上げられたのは、自死した青年が東大法学部に学生として籍を置きながら、いわゆるヤミ金融会社「光クラブ」を経営していた青年社長で、会社経営に息詰まっての自殺であったという事情からだった。ほどなくして山崎が生前に自らの心情を赤裸に綴った二冊の手記(『私は天才であり超人である(光クラブ社長山崎晃嗣の手記)』『私は偽悪者』)が相次いで出版され、三島由紀夫の小説『青の時代』のモデルとなったことでも、当時多くの人の耳目を集めることとなった。そこに示された山崎の考え方や生き方が、戦後新世代の「アプレゲール的狂い咲き」の典型のようにみなされたのだった。本書は、今では戦後初期の社会世相史の一幕として記憶の片隅に追いやられているように思える、この「光クラブ」事件の主人公山崎晃嗣という人物に焦点をあて、彼の生き方の背後になにがあったのかを探った本。「光クラブ」事件と山崎晃嗣については、通り一遍当の知識しか持ち合わせていなかったけれど、彼の生い立ちや戦争体験などにわけいった本書のような労作(構想から25年という)を読むと、改めて多く考えさせられるものがある。半世紀以上前のこととはいえ、現代にも通じるものも。



竹西寛子『贈答のうた』(2002年11月29日発行・講談社 2800+税)は日本の古典文学の中に登場する「贈答」のうた(和歌)を紹介した評論・エッセイ集。初出は雑誌「本」に2000年1月号から2002年3月号にかけて連載されたもの。「後撰和歌集」「後拾遺和歌集」「金葉和歌集」といった勅撰和歌集、『伊勢物語』や『源氏物語』のほか、右大臣道綱の母の「蜻蛉日記」、「和泉式部集」「和泉式部日記」、「建礼門院右京大夫集」、俊成の「長秋草」や定家の「拾遺愚草」といった家集に至るまで、古典文学に広く材を求めて、「贈答のうた」を蒐集抜粋し、8章にわけて紹介されている。出版がやや古いが、タイトルとテーマにひかれてお借りした本だ。本書で扱われてる「贈答のうた」とは、いわゆる「贈歌」と「答歌」からなる、和歌の表記形式であらわされた詩歌表現で、古典文学のジャンルを横断して、こうしたテーマ(表現形式)を取り上げた切り口は、古典研究としても新鮮だと思う。「私は、独詠独吟よりも更に日本人の心の動きの事実に近づき易い贈答のうたについて、いつか詩歌物語の別を問わず辿ってみたいものだという、まことにおおけない願望を抱くようになった。」(はじめに)、と著者は書いている。その成果ともいうべき本書の中には、「贈答のなしえること、なし得たことが、定型詩としての和歌の限界よりも可能性に向かって開かれている。」(P201)といった言葉もみえて楽しい。著者によると、歌集などで、一見「独詠、独吟」と思われてきたうたにも、多くの贈答のうたが含まれているという。そういう基礎的な探求がなされると、古典短歌の世界もまた別の姿をみせてくれるかもしれない。対象となっている古典世界は広範で、贈答のうたに関わる人間関係の奥行きも深い。ゆっくりじっくり繙きたい本。



デジビン『ウェブログのアイデア』(2005年3月24日発行・アスペクト 2000+税)はウェブログ(ブログ)の解説書。著者はデジビン・スタッフということで巻末に淵上周平、市川エズミ、山路達也の3氏のお名前がある。これからインターネットを利用して何かを発信したいという人に、今や手軽でお勧めなのは、ブログというシステムを活用すること。インターネットでは、ここ二年くらいの間にブログで自己サイトをつくることが普及しはじめ、そろそろ一般にも大きな規模で認知、浸透しはじめている。そういう意味でタイミングがいい時期にだされた本だと思う。ブログの解説をするのに、最初どうしてこんなに厚い本(300ページ超)が必要なのだろうと思ったことも図書館から借りてきた理由だが(^^;、本書を読んでみると、ブログに限らずネットでの個人の情報発信についてのアドバイスがこれでもかというほど、手取り足取りという感じで書いてある。また私など知らなかったRSSをはじめ便利ツールについての情報も多い。この種の解説本は、現在(この本では05年1月)のサイト情報などに関しては、足の速いなまもののようなところがあるが、これからブログをやってみたいという今が旬の人にとっては、分かりやすいお薦め本だと思う。



村瀬学『カップリングの思想』(2004年10月8日発行・平凡社 2000+税)は哲学の本。海老坂武氏の著書『シングル・ライフ』(1986年・中央公論社)への批判からはじまる本書で著者は、およそ人間は「シングル」として存在するというよりも、なにかを対象とした「カップリング」として存在するのではないか、といい、そうした基軸からユニークな存在論=生命論を展開されている。海老坂氏の「シングル」、という言い方が、独身=既婚というイメージの枠内で言われていたことから離れて、しだいに独身既婚に関わりなく個人の意識の持ち方としての「シングル」というふうに拡張されていったように、著者のいう「カップリング」も、人間同士の関係にとどまるものでなく、「根源」「大地」「至高者」「あなた」「くちるもの」というように対象を5つの次元にわけて考察されている。私的には「相聞(的)」ということと、ちょっと関連づけて考えてみたいところ。難解な言葉を使わずに独自の生命論を説く本書のような思想書を、どんなふうに分類づけて説明すればいいのか、ちょっと悩んでしまうのはいつものことなのだった。



小石房子『江戸の流刑』(2005年4月11日発行・平凡社新書 720+税)は江戸期の流刑の解説書。流刑の歴史や、その罪状、実際の流刑者たちの島での暮らしぶりなどを紹介解説した本で、終章の流刑者列伝を含め、コンパクトにまとめられている。私事だが、ここ二年ほど夏に新島に遊びに行き、そのたびに島での散策時に流刑者や刑場跡の史跡がめにつくということがあった。そのときは、その種の関連書を読みたいと思うのだが、帰ってから書籍を探索するのが億劫で、そのままになっていた(よくあることだが(^^;)。先日偶然本書を図書館で目にしたので、これ幸いと借り出して読んだ。流刑の歴史は、正史に書かれなかった一種の裏面史である、と著者がいうように、こういう分野には庶民史の知られざる一面が伝えられていて面白い。とくに流人列伝(第六章)が、それぞれ短文ながら文章ともに読みごたえがあった。あとがきによると、この章は、同著者の絶版になった著書『流人100話』(立風書房)から、著者の思い入れのあるエピソードを短縮して転載したものだとあって、なるほどと納得した。その思い入れが、エピソードのあわれぶかさを含め、生き生きと伝わってくるのだった。



柳美里『雨と夢のあとに』(2005年4月10日発行・角川書店 1400+税)は長編小説。初出は「野生時代」(2003年12月〜2005年4月号にかけて断続的に連載)。テレビ朝日系の連続テレビドラマ(原作)としても放映され、5月25日には主題歌も発売されると帯にあるので、今が旬という本なのかもしれない。帯にはまた「初の怪談」ともある。読んだ感じでいうと、この「怪談」というのはまるであたっていない。オカルト小説、ホラー小説というのでもない。ファンタジーに分類されるといえばいいのかもしれないが、たとえばハリウッド映画では、こういう境界わけが難しいような印象をのこす作品が近年けっこう増えているという感じがする。内容の骨格を紹介してしまうと、読むとき問題かもしれないのでここでは書かないが、主人公は小学校六年生の少女。両親は離婚し、カメラマンをしていて留守がちの父と二人で暮らしている。うわべでは、そんな少女の学校と家庭を往還する日常のドラマが進行していく。ジャンルということにかかわらず、やはりテーマは明白で、ちょっと過剰さにぶれるような主人公の心情の描写にもこの作家独自の特徴がある。。



大久保洋子(監修)『江戸っ子は何を食べていたか』(2005年2月15日発行・青春出版社 700+税)は江戸期の食文化の解説書。「江戸っ子の食卓」「江戸っ子の外食」「江戸っ子の四季の食べ物」「江戸っ子のお菓子」の四章からなり、それぞれコンパクトな記述のなかに、江戸時代の食文化の情報がよくまとめられていて面白い。こういう情報は、すぐ実用というわけにいかなくても、テレビ番組「お江戸でござる」の解説みたいで興味深いという人も多いと思う。食べ物の解説でも当時の文献を例にひくと、印象がぐっとひきたってくる。「目には青葉山時鳥(ホトトギス)初鰹」という句に対して「目も耳もただだが口は高くつき」という当時の川柳が紹介されているところなどだ(三章「江戸っ子の四季の食べ物」)。こういう庶民文化の奥行きが読めるのも本書の楽しみだろう。江戸はある時期世界一の人口をもつ都市だった。また男女比に差があって、独身男性の比率が異常といっていいほど高かった。いろんな意味で特異な空間だったのだと思う。ちょっと気になったのが、本書には著者名の記載がなく、監修者の名前しか公表されていないことだ。出版不況といわれるなかで健闘が伝えられる新書本の世界も、いよいよこういうことになってきたのかと、ちょっと感慨があった。



諸星大二郎『キョウコのキョウは恐怖の恐』(2004年11月20日発行・講談社 1600+税)は短編幻想小説集。初出は90年から2003年にかけて小説現代増刊メフィスト誌などに掲載されたもので、「狂犬」「秘仏」「獏」「鶏小屋のある家」「濁流」の5作品が収録されている。西遊記を脚色した『西遊妖猿伝』シリーズをはじめ世界の神話伝説や民俗風習などを題材にした幻想的なコミックを、個性的な画風でずっと描き続けてきた漫画家の、(たぶん)はじめての小説作品集ということで興味深く読んだ。作品はそれぞれ独立しているが、どれも舞台は現代で、主人公の男性がふとしたきっかけで、夢とも現ともつかぬ不思議な体験に遭遇する、というのが共通している。その出来事の伴奏者のように幾つかの作品に登場するのが、「キョウコ」(恐子、凶子、狂子)という名の謎めいた若い女性。このシチュエーションは、著者のコミック世界ではなじみのもので、漫画で描きたかったイメージの世界をそのまま小説化したらこんんなふうになった、というのに近いのだろうと思う。著者の画風のもつ描画や描線の魅力のようなものが、あるいみ形式化され書きつくされているような幻想小説の世界、現代の怪異譚や霊異譚の世界の創造にどんなふうに生かされているか、というのが読みどころ。「鶏小屋のある家」が、とくに臨場感があって気色わるかった。。



大澤真幸『現実の向こう』(2005年2月1日発行・春秋社 1800+税)は講演録。本書は2004年に著者の行った「現代」をテーマにした三つの講演のうち、手をくわえてなったという「平和憲法の倫理」「ポスト虚構の時代」、講演内容の一部を新たに書き下ろしたという「ユダとしてのオウム」という3つの章からなる。憲法問題、オウム真理教について書かれた章では、それぞれ著者の問題意識からする「提言」がなされていて興味深く読んだが、とりわけ面白く読んだのは二章の「ポスト虚構の時代」という講演記録だった。そこでは、戦後史を1970年くらいを区切りに「理想の時代」「虚構の時代」という(「反-現実」という基準によってなされた)社会学的な区分が提示紹介されていて、著者はそのうえで、現在は「虚構の時代」が終わろうとしている、あるいは、「すでに終わってしまった。」時期にあたると分析されている(著者によると、次の「不可能性の時代」に移行しつつある)。その兆候を、著者は、「現実への逃避」(「現実「から」逃げていたのに、いつのまにか現実「にむかって」逃げている)というところにみる。もちろんこうした時代区分自体、その肉付けが納得いくものでなければ、虚しいキャッチコピーみたいなものにすぎないだろうが、近年の社会的事件や表現との関連で、いろいろ思い当たる部分があるように感じられた。ここでは詳しい内容の解説ができないので、興味あるひとは実際に本書にあたられんことを。なお二章では、松本清張『砂の器』が、原作と94年放映のテレビドラマの比較において時代区分論的に詳細に論じられていて、これも興味深く読んだ。



吉本隆明『中学生のための社会科』(2005年3月1日発行・市井文学 1400+税)は書き下ろしの批評文集。実際の中学生でも、生涯もっとも多感で柔軟な精神をもっている時期の比喩としての想像上の「中学生」でもいいが、そういう「中学生」に向けて本書を贈るというような意味のことが、まえがきに書かれている。今の実際の中学生がこういう本に向かってどの位歯がたつのか立たないのかよく分からないが、本書に書かれていることが、「すべてわたし自身が考えて得たものばかりで、模倣は一つも含まれていないつもりだ。」という意味合いが伝わればいいのだと思う。「言葉と情感」「老齢とはなにか」「国家と社会の寓話」という三章からなる内容には、著者独自の言語論や、国家論などのエッセンスがちりばめられていて、著者が半生をかけて構築してきた自らの思想を「想像上の「中学生」」にむけてあらためて解きくだしたというおもむきがある。他にも「老齢」の本質は、意志と行動との間の「背理」にあり、そういういみで老齢者は「超人間」なのだ、という二章の「老い」をめぐる洞察など、著者の近年の生活体験からくみとられた成果ともいうべき体験思想的な章句もあって印象に残ったところだ。



富岡多恵子『難波(なにわ)ともあれ ことのよし葦(あし)』(2005年2月10日発行・筑摩書房 1900+税)はエッセイ、書評集。ここ数年に書かれた新聞、雑誌に初出の短文が収録されている。著者は大阪に生まれ育ったものの、25歳で上京していらい、関東で暮らしはじめて40年以上たつという。偶然のようだが、本書には、そんな著者が大阪のことをテーマにした文章が多く含まれている。特に帰って住もうと思ったことはない、とのことながら、歴史でも文芸でも、大阪にかかわるものだと「実感的に好奇心がわく」、という。このわかるようでわからなさそうな出郷者の微妙な心理感情を、いろんな形で披瀝されているのが面白い。伊藤整の小説エピソードにからめて大阪弁の会話のニュアンスにふれた「冤罪」は、そんな著者ならではの着想と意想外な推断で、おもわず声をあげて笑ってしまった。書評でも、はっと思わされる切り口の評言など楽しんだ。とても著者の持続的な読者とはいえないのだが、こういう文章にふれる喜びをあてにして、手軽に読めそうなエッセイ集などがたまに目に付くと、すんなりと買い求めてしまう。もっとも本書は久々のエッセイ集らしい。ということで、私のようなきまぐれな富岡エッセイのファンに、新刊のご紹介を。



吉本隆明『「食」を語る』(2005年3月30日発行・朝日新聞社 1600+税)はインタヴュー集。聞き手はパリ在住の著述家宇田川悟氏で、本書は宇田川氏が吉本氏宅に通って聞き取った30時間におよぶ長時間インタヴューがもとになっていることが、あとがきでわかる。内容は、幼少期、少年期から、戦中、戦後と時系列にそって聞き取り過程がまとめられていて、後半部までは「食」を語るというより、過去の体験の追想、ということのほうが中心になっている。この部分は、過去の追想エピソードもふくめて、吉本氏が、どこかですでに語ったり書かれていることの再現という印象が強いが、あるいみ、そういう印象はすれっからしの視点かもしれず、吉本氏の境涯や、「食」との関わりに関心のある新しい読者は、総集編みたいな本として前半部を読まれると楽しいと思う。私などに興味深かったのは、やはり最終章の「老年を迎え、今、思うこと」で、吉本氏は「自分を食欲について解放しちゃうと」、「自分の好きなものを食べたい」ということと、「間断なく食べていたい。」ということが、あるという。この「間断なく食べていたい。」(そうじゃないと、おさまりがつかない)という感じがもうひとつわからない。これはある意味加齢による精神的な飢餓感の代償のような「自然」ということなのだろうか。



吾妻ひでお『失踪日記』(2005年3月20日発行・イースト・プレス 1140+税)はコミック。69年にデビューして以来、ギャグマンガや、SF、不条理もの、美少女ものなど、さまざまなコミックのジャンルに新風を吹き込んで一部でマニアックな人気を得ていた漫画家だった著者が、89年に突然仕事を放り出して失踪してしまう。本書は、その失踪当初の記録からはじまる一種の自伝漫画で、自殺しようとして果たせず雑木林に寝泊まりしながら、しだいに本格的に「乞食」生活に身を染めていった過程が、おなじみの飄々とした画風で淡々と描かれている。ところでそれは本書の前半部分で、中盤部分は二度目の失踪時(^^;に、配管工として働いた時のことが書かれていて、この当時の職場の人間スケッチが、さまざまな人物の特徴をよく一筆書きのように描いていて小説を読むような味がある。本書の後半は、二度の失踪後の、アルコール中毒で精神病院に入院したときの体験記。かって花輪和一氏が『刑務所の中』で自ら逮捕拘留されたときの獄中体験を漫画にしたが、本書はそのホームレス版、精神病院版、といえないこともない。私小説的事実の重さに裏打ちされているから、といえばそれまでかもしれないが、ヒューマニティや人間観察において、なまじ観念過剰の小説を読むより面白い、と思うのは私だけだろうか。



純子セラフィーナ『ファッションドール大図鑑』(2000年5月1日発行・同文書院 1500+税)はファッションドールの歴史を紹介した本。ちょうど20世紀後半にあたる1950年代から1999年まで、1955年に新聞漫画のキャラクターからドイツで生まれた「リリ」に始まり、59年米国マテル社から発売された「バービー人形」、67年日本のタカラから発売された「リカちゃん」人形、バービー人形から発展した和製バービーの「ジェニー」シリーズなど、有名ファッションドールの誕生のいきさつや人形の紹介、その歴史的なスタイル変遷の経緯が、その他世界各国の珍しいファッションドールの紹介記事を交えて、豊富なカラー図版とともにコンパクトに解説されている。数週間前までは、大量生産の着せ替え人形を意味するファッションドールという言葉さえまともに知らなかったのだが、こういう本を手にすると、一挙にその歴史や人形にまつわる豊富なエピソードがわかって、ぐっと親しみが増した感じだ。たとえば、毎秒二体は売れているという世界的人気のバービー人形が米国で発売当初は日本で製造されていたこと、99年の時点で毎日ほぼ3500体の「リカちゃん」「ジェニー」が工場(「リカちゃんキャッスル」)で生産されているということなど、着せ替え人形の世界に関心ある人には楽しい文化誌的情報に満ちている。



黒川伊保子『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』(2004年7月20日発行・新潮新書 680+税)はことばのもつ語感についての理論の書。ふだん、私たちは物の名前の語感、というのにけっこう反応していることがある。人の名前を聞いても、いかにも軽そうだとか、重厚そうだ、という印象を受け取ったりする。だが、そういう「感じ」(質感=クオリア)が、なぜどのようにうまれ、どんな法則があるのかを、理論的に探求した本というのは、ほとんどみあたらないことに気が付く。子供に名前をつけるときの本や、姓名判断のようなものがちらっと思い浮かんでしまう程度だ。本書は、そういう言葉の語感のもつサブリミナル効果というものを、学問的に探求した理論書。「世界初のことばの音のサブリミナル効果分析法」(序章)とある。商品名の例など豊富にあげての分析には納得できるところがおおい。著者は人工知能のエンジニアで、自然言語をコンピューターに認識させるというような分野で仕事をされていたらしい。思わぬところから「ことば」の探求がされる時代になったものだと思う。とくに、日本語の持つ特異性を、音楽家の絶対音感になぞらえた終章「日本人は言葉の天才」を面白く読んだ。。



山折哲雄『デクノボーになりたい』(2005年3月1日発行・小学館 1680+税)は宮沢賢治論。とくに初出が示されていないが、全六章のうち前半四章は、「賢治にゆかりのある会でそれぞれ口頭で発表したものを骨子」(はじめに)にしているとあり、内容からして著者がこれまでに発表してきた宮沢賢治についての講演や緒論の集成、という感じの本だ。本書のちょっと刺激的なタイトルは、晩年の賢治の詩「雨ニモ負ケズ」の一行からとられている。この「デクノボー」のイメージについて、ずっと考え続けていた、という著者が、本書の前半四章で、おりおりに考え辿ってきた思考の成果として披瀝しているのは、デクノボー=「狩猟民的世界から訪れてきたマレビト」というイメージだ。この狩猟民的な感性への注目が、賢治を離れたところでも著者の目下の関心事であるかのような印象を受けた。第5章「共鳴する詩人の魂 宮沢賢治と中原中也」が、集中では一味違った論考で、中也の詩作品への宮沢賢治の詩の影響が作品に即して語られている。これは初めて知ったことで面白く読んだ。



玄侑宗久『死んだらどうなるの?』(2005年1月25日発行・ちくまプリマー新書 720+税)は「死後」についての長編エッセイ。著者は小説家で、臨済宗妙心寺派福聚寺副住職。禅についての啓蒙書も多数ある人。以前に養老孟司氏との対談集をとりあげたが、著者の独立した著書を読むのは本書がはじめてだ。死んだらどうなるのか?という疑問をもつ時期というのが誰にもあると思うが、そういう問いにずっと関心を持ち続ける人というのは稀だと思う。本書はわかりやすく語りかける調子で書かれているが、その背後にこの問いをめぐる該博な知識の集積があるのが見てとれて、しかも押しつけがましいところはない(調子のいい感じのところはあるが(^^;)。読者が関心をもてばという関連書へのガイドのように知識を披瀝しているようなところも見受けられる。もともとこの問いに誰にも納得できるような一般的な答えがある筈もなく、あるとすれば体験からする信念のようなものだけかもしれない。信念の体験としてはその向こう側に行きながら、答えとしてはこちら側で踏みとどまっている、そういう奥行きのある印象を受ける本だ。。



佐藤俊樹『桜が創った「日本」』(2005年2月18日発行・岩波新書 740+税)は評論。現在の日本の桜は、その7〜8割がソメイヨシノだという。ソメイヨシノは、桜としては新しいもので、幕末から明治はじめにかけて東京に姿を現し、全国にひろがっていった。では、それ以前の時代にはどんな桜がどんなふうに観賞されていたのだろう。また開花時期が等しく、おおぶりの花が樹肌を覆い尽くすようにいっせいに咲きそろうというソメイヨシノの特徴が、いわゆるひとつの定型的な桜のイメージになっていることには、どんな理由があるのだろうか。というように、本書はソメイヨシノを中心に探求される「桜」のイメージの「起源への旅」(副題)の本だ。かって桜について語られ、また今でも新しく語られ続ける数々の言説をとりあげながら、それらに込められた定型的発想を徹底して相対化したはてに、「ゼロ記号」としての桜というイメージの指摘に至る。本書はそういう意味で、現実の桜の歴史についての解説書でありながら、言説としての桜のイメージの変遷を考察した現代批評の書として読める。



稲葉真弓『私がそこに還るまで』(2004年10月30日発行・新潮社 1600+税)は短編小説集。2000 年から2004年にかけて、主に雑誌「新潮」に発表された作品群に加筆されたもので、計七編が収録されている。それぞれの作品は独立しているが、共通点をあげれば、現代が舞台ということ、女性主人公たちが何らかの形で心身に違和をかかえていたり、日常の中で違和に遭遇する、という出来事が描かれていることだろうか。休暇をとって海辺のリゾートマンションで過ごす若い夫婦が描かれた「蟹」の夫は、突然妻が自分の長い髪をきって、失踪するように帰宅してしまうことに驚ろかされる。「水位」では、自分の体毛を焼くことに奇妙な喜びを覚えて、ついに放火犯として留置された女性が描かれている。様々な職業を転々とする「私」がでてくる「空いっぱいの青いクジャク」では、「私」は「缶詰ばかり食べて」(缶詰しか受け付けず)暮らしているし、「私がそこに還るまで」の、観覧車に執拗に乗り続ける「私」は、中学時代に友人と、ものを「吐く」ゲームに熱中したことが明かされている。最後の「山日和」は、会社をやめ、実用になりそうもない野草のエキスをつくる作業に没頭する女性が主人公だ。読んでいて、増田みず子の作品世界をちょっと思い出したが、遊びのない簡潔で硬質な文体は、最近ではかえって新鮮にみえる。



瀬古浩爾『生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語』(2005年1月20日発行・二見書房 1100+税)は語録集。批評家吉本隆明氏の数ある著作から精選された75の語句や文章に、著者が感想や、語句の書かれた背景などについての解説・短評をほどこすという体裁の本で、版型もほぼ新書版とコンパクトだ。吉本語録、といっても、いわゆる一般的な「語録」ということをイメージするとちょっと違う。また「関係の絶対性」とか「大衆の愿像」といったキーワードが中心になっているわけでもない(出だしはそういうところからはじまるが)。どんな言葉を選択するか、どんな解説をほどこすかに、編著者の柔軟なセンスやホットな好みがあふれていて、本書では、その工夫に力点がおかれているという感じだ。「この頓馬はなにをいうのか」「本気かね?」こういう文脈をはなれるとわけのわからないようなセリフや、「税金ごまかすのは正しいんじゃないでしょうか」「いいことを照れもせずにいう奴は、みんな疑ったほうがいいぞ」といった語句も収録されているといえば、選択のユニークなところが伝わるだろうか。私も出典になっている書籍を全て保有している程度には吉本氏の著作には親しんできたので、引用されている語句のほとんどは読み覚えがあったし、中には走馬燈のように記憶が蘇る、というのもあって随分と楽しく読んだ。若い人におすすめの一冊。



J・K・ローリング『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』(上下)(2004年9月1日発行・新潮社 4000+税(上下巻セット))はファンタジーノベル。魔法使い少年ハリーの活躍を描いたシリーズ第五巻。全七巻で完結することが決まっているシリーズの最新刊で、毎年一巻ずつ発売され、そのつど世界中でベストセラーになっている。五巻は分量にして第一巻の四倍と、相当分厚くなってきたが、毎日すこしずつ読んで一週間ほどで読み終えた。最初の巻で魔法学校に入学したハリーも、今や五年生になり、年齢も十五歳。魔法も上達して学内で秘密の魔法訓練グループを作って指導したり、初恋も経験したりする。読みどころはやはり息もつかせぬ急展開と、張り巡らせてあった伏線がぐっと浮上してくる下巻の後半部分だろうか。これで終わると思ったら、さらに山場が続く近年のハリウッドのアクション映画に似ている感じだ。



絲山秋子『逃亡くそたわけ』(2005年2月25日発行・中央公論社 1300)は小説。福岡の精神病院の開放病棟に入院中だった21歳の「わたし」は、躁状態がこうじていたこともあり、日々の薬漬け状態の不安や閉塞感から、同じ躁鬱病で入院していた「なごやん」と呼ばれている青年を誘って二人で脱走を企てる。高宮にあるなごやんのマンションでなごやん所有の車に同乗したふたりは、ともかく南へ、ということで、とりあえず阿蘇方面に向けて逃避行をはじめたのだった。。。ついには九州の南端までいきついてしまう若い男女の精神病院脱走ドライブ旅行の様子が、途中の名所旧跡への探訪をちりばめながら描かれたロードムービーのような長編小説。地方名産品なども紹介されていて、九州案内みたいなところもある。舞台のローカル色とともに方言が効果的に使われているのが特色。この作品で方言は、ひとの温もりを現すというより、ひとのアイデンティティそのものであればいいというような感じを受ける。



養老孟司+玄侑宗久『脳と魂』(2005年1月15日発行・筑摩書房 1600+税)は対談集。観念と身体、都市と自然、世間と個人、脳と魂、というタイトルの4章にわけて、解剖学の専門家(現東大名誉教授)と、芥川賞受賞作家にして禅宗の僧侶というお二人の3回分の長時間対談の内容を活字にしたもので、本書のあとがきをよむと対談の第一回目が初対面だったことがわかる。それにしては話がよくかみ合っていてと思う。飛躍が大きくてどんな話題でも当意即妙という感じの養老氏の語りに、玄侑氏が時々仏教サイドからの見識を披瀝しながら、柔軟に繋いでいくというコンビネーションが終始一貫している感じだ。書名にある「脳と魂」という話題は、同じタイトルの第四章ででてくるが、それもほんの数回の受け答えだけ。それでも養老氏は科学者としての立場から、いえるところまで言っている感じで、このやりとりはちょっとスリリングなところがある。



曽根富美子『含羞』(1,2)(1990年10月23日発行・思潮社 500+税)は全二冊のコミック。89年から90年にかけてモーニング誌に14回にわたって連載されたものが初出。副題に「我が友 中原中也」とあり、夭折した詩人中原中也と批評家小林秀雄の若き日々の友情、両者の長谷川やす子をめぐる「奇妙な三角関係」などを描いた文芸コミック。お借りして読んだ本で、とても新刊とはいえず、今では入手も難しいかもしれないのだが、面白く読んだのでともあれ紹介したくなった。中也の青春期のエピソードの数々は評伝などにもなっているが、漫画化されたのはこの本が最初だと思う。小林秀雄の批評や追想文から中也を知るか、中也の詩にふれて、その交友関係をたどって小林秀雄の著作を知るか、人それぞれだったと思うが、今やこのコミックから中也や小林を知った、という若い世代もいるのかもしれない。