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走り書き「新刊」読書メモ(27)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(04.7.17~04.11.13)

 モリ・ノブオ『介護入門』 三浦展『ファスト風土化する日本』 小池昌代『感光生活』
 茂木健一郎『脳と仮想』 尾崎翠『迷へる魂』 関川夏央『現代短歌そのこころみ』
 水木しげる『水木サンの幸福論』 森昭雄『ITに殺される子どもたち』 吉本隆明『超恋愛論』
 日高敏隆『人間はどこまで動物か』 山田稔『再会 女ともだち』 嶋夕陽『きょろきょろ目玉とうさぎの耳』
 シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』 黒井千次『日の砦』 藤田絋一郎『水の健康学』
 リー・ドガトキン『吸血コウモリは恩を忘れない』 鈴木健夫『ぼくは痴漢じゃない!』 ホルヘ・フランコ『ロサリオの挟』
 吉本隆明『戦争と平和』 ホセ・カルロス・ソモサ『イデアの洞窟』 ミシェル・トルニエ『イデーの鏡』
 ベン・カッチャー『ジュリアス・クニップル、街を行く』 吉本隆明『漱石の巨きな旅』 トンマーゾ・ランドルフィ『月ノ石』
 ジェニー・エルペンベック『年老いた子どもの話』 服部真澄『清談 佛々堂先生』 鷺沢萌『ビューティフル・ネーム』
 星野宣之『ムーン・ロスト』(1)(2) 石澤靖治編『日本はどう報じられているか』 斎藤清一『米沢時代の吉本隆明』


モリ・ノブオ『介護入門』(2004年9月1日発行・新潮社 1000+税)は小説。自宅で寝たきりの祖母の介護に専念している29歳の「俺」が、「YO、朋輩(ニガー)。」と、ラッパーが聴衆に語りかけるような調子で、日頃の思いのたけを綴った、という設定が異色。思いのたけは、老人介護にまつわる当事者たちの多様な体験の質を、「介護地獄」といった紋切り型の言葉でくくって報道する週刊誌マスコミや、うわべだけの同情をしめして実質は介護の労をとろうともせず遠巻きにするだけの親族たち、ていのいい仕事とわりきっておざなりな介護しかしようとしない雇われヘルパーたちへの呪詛、など、アジテーションのような毒舌が基調なのだが、頭蓋骨強打で痴呆同然になった祖母の容態を自分たちの献身的な介護によって改善させたという「俺」(と母)の現在進行中の介護体験が平行して明かされていて、鬱屈して肥大した自己観念に憑かれたような青年の饒舌さ(実際「俺」はドラッグ(大麻)の常習者と設定されている)と、きつい介護の従事者の思いから発する説得力ある義憤の入り交じった文体をつくりあげている。第131回芥川賞受賞作。



三浦展『ファスト風土化する日本』(2004年9月1日発行・洋泉社新書 760+税)は現代風土論。今やコンビニ、カラオケボックス、ファミレス、と日本のどこへいっても似たような風景がある。著者はそれをファーストフードにかけて、ファスト風土化と呼び、様々な視点からそうした現状を分析し、問題点を浮き彫りにしている。日本の風土全体がどうなっているか、ということは、なんとなくわかっているようでわからないことだが、様々な統計の数字を挙げて説明されると、いろいろ驚くようなことが見えてくる。犯罪発生率とか、所得の伸び率とか、自動車保有台数とか、細かいデータは興味のある人に本書でみて貰うとして、大まかにいうと、ここ数十年の間に、大きな生活環境の変動が起こってきたのは都市部より地方においてであり、しかもその変動は地方都市周辺の農村部の「郊外化」という形で進行している、ということのようだ。そうしたことは、たぶんこういう本を読まないと見えてこないなあ、という意味で、とても興味深く読んだ。2002年に日本で一番家庭の消費支出の多い都市はどこだったか。一位は富山市で、東京都区部は、なんと七番目なのだった。



小池昌代『感光生活』(2004年6月25日発行・筑摩書房 1400+税)は小説集。雑誌「ちくま」「webちくま」にそれぞれ一年間連載されたものから14本を選び、書き下ろしを1本加えた(あとがきにかえて)という、15本の作品が収録されている。どの作品にも、それぞれ印象的な「他者」が登場して、その人物と「わたし」の関係が起伏のあるショートストーリーとして語られる、という趣向になっている。登場するのは、「わたし」の家の隣人や、友人や知人たち、なかにはバーの経営者や、偶然絵画展や公園で知り合った人、と、様々。語りの調子が実際の「作者」の目にふれた他者(モデル)の印象や特徴をそのまま写し取ったようなリアリティと、ストーリーに調合されているフィクショナルな要素が微妙に入り交じっているので、ジャンル分けがつけがたい不思議な味わいを残す作品集になっている。出版元のHPの紹介欄には、「novel-essay」とあって、ネーミングに感心した。公園の鳩がばさばさと足元から飛び立つときの印象を綴った「不思議な恍惚を伴った不安感。普段はなだめられて心の奥の方に眠っているものが、いっせいに起きあがってくるような予感がある。」(「鳩の影」)という表現など、詩的な散文の魅力にもあふれている。



茂木健一郎『脳と仮想』(2004年9月25日発行・新潮社 1500+税)はエッセイ集。『考える人』誌に「仮想の系譜」(2002年8月号〜2003年8月号)として連載初出。脳科学者である著者が、日頃考えつめているテーマについて、いろいろな角度から思索をめぐらした過程を綴ったエッセイ集で、第一章「小林秀雄と心脳問題」から、第九章「魂の問題」まで、くりかえし響いているのは「仮想」(人間の心的な現象)ということの意味を、「科学」や「現実」との関係において、どのように考えるべきなのか、というようなテーマだ。「人間が体験することの全てが脳内現象であるということを認めた時、興味深い逆理が浮かび上がってくる。もし私たちが体験することが全て脳内現象であるならば、私たちは何故、広大な宇宙というものを思い描くことができるのか?何億光年もの彼方の恒星について語り、遠い山の頂に思いを馳せることができるのか?いかに、私たちの思い描く世界は、脳内現象として一リットルの空間に閉じこめられていながら、無限定の空間を志向することができるのか?」こうした問いかけが、表現をかえて何度もあらわれ、また思考はそこで足踏みをしているような印象さえ与えるが、この古くて新しい問題が、近年脳の機能や構造がしだいに解明されてきたり、IT技術の発達で「仮想現実」体験が身近になったことで、科学的・合理的思考にとって避けられない問題としてせりだしている、という感じだろうか。



尾崎翠『迷へる魂』(2004年9月15日発行・筑摩書房 1900+税)は初期作品集。『定本 尾崎翠全集』(全二巻・筑摩書房)の編者である稲垣眞美氏が、新しく発見された全集未収録の諸作品(大正三年〜大正九年にかけて、諸雑誌に初出)を一冊にまとめて編纂した本で、尾崎翠(1896~1971)が、一八〜二四歳のころに書いた詩三編、短歌十一首、長編詩二編、散文七編が収録されている。尾崎翠は昭和三年発刊の『女人芸術』誌に林芙美子らと共に常連執筆者として参加し、昭和八年に出版された『第七官界彷徨』で注目されたが、その後筆をたち、戦後、全集『現代文学発見』(学芸書林)第六巻『黒いユーモア』(68年)にその作品が収録され、71年に作品集『アップルパイの午後』(薔薇十字社)の刊行で、「若い人々にも不思議に新鮮な感覚と作風が異常な反響と共感を以てむかえられた。」と、これは稲垣氏による全集のあとがき(創樹社版)にある。思えば私も『黒いユーモア』、『アップルパイの午後』とたどった「若い人々」の一人だった(^^;。この初期作品集は、尾崎が故郷鳥取で代用教員をしながら雑誌に投稿していた時期から、上京して日本女子大学に入学し一年ほどで退学した時期までに重なっている。地味な作品発掘作業の貴重な成果だと思う。



関川夏央『現代短歌そのこころみ』(2004年6月25日発行・日本放送出版協会 1700+税)は現代短歌を「歴史として記述しようとするこころみ」(あとがき)。初出は「NHK歌壇」(2001年7月号~2004年3月号)ほか。1954年、「短歌研究」誌編集長だった中井英夫が、新人の「五十首詠」を募集し、中条ふみ子(第一回)、寺山修司(第二回)が特選となって、歌壇に新風を吹き入れた。著者は「現代短歌」の起点をこの時期におき、本書では、それ以降の現代短歌の歴史が、時には人物主体に、時には歌集やテーマ性を主体に、というように、自在な角度から多彩な歌人たちの人と作品の紹介を織り込んで語られている。たとえば『台湾万葉集』や、『短歌パラダイス』、『短歌はプロに訊け!』といった本(に、登場する歌人たち)をそれぞれ取り上げた章もあり、「新聞歌壇」について批判的に論じた章もあるといった具合だ。現代の短歌表現の半世紀の歴史のなかで生じた様々な局面や潮流や「事件」を、ここまで多面的にとりあげて、一般の読者にも読みやすく書かれた本は今までなかったように思う。例によって著者独特の「プロジェクトX」のナレーションみたいな文体も、味わいがある。



水木しげる『水木サンの幸福論』(2004年3月22日発行・日本経済新聞社 1400+税)は水木しげる読本という感じの本。著者が幸福に生きるためのひけつ「幸福の七箇条」を説いた語りおろしの第一部「水木サンの幸福論」、生い立ちから八十一歳(2003年現在)に至るまでの自己史を綴った第二部「私の履歴書」(日本経済新聞に連載された稿に加筆)、特別附録1として、水木氏が兄の・宗平氏、弟・幸夫氏と共に子供の頃や家族のことを語りあった鼎談「わんぱく三兄弟、大いに語る」、特別附録2「鬼太郎の誕生」として、「ガロ」66年3月号に掲載された漫画「ゲゲゲの鬼太郎」第一話が復刻収録されている。収録されている文章や鼎談からは、それぞれ著者のユニークで暖かい人柄が伝わってくるし、大ヒットした妖怪漫画の主人公の誕生を描いた幻のコミックの収録など、水木ファンにはたまらない魅力だと思う。また、妖怪漫画とは関係ないが、第二部の中の一兵卒としての苛酷な戦場体験を追想した文章は圧巻。戦争文学的な記録としても貴重だと思う。



森昭雄『ITに殺される子どもたち』(2004年7月15日発行・講談社 1500+税)は脳神経医学の立場からIT社会に警鐘をならした書。 IT(アイティー)というのは、Information Technology の略で「情報技術」という意味だそうだが、本書では、テレビアニメ、テレビゲーム、インターネット、携帯電話など、さまざまな情報関連機器と接しているとき、人間の脳がどんな状態になるのだろうか、ということが、脳波計で測定されたデータ(α波とβ波を抽出したもの)をパソコンソフトで画像化したという図解入りで、詳しく解説されている。一目瞭然というが、モニタの活字を読んでいる時と、本の活字を読んでいる時と、同じことのようなのに脳波の活性状態が歴然と違うのに驚いた。著者はそのパターンを、「半ゲーム脳」(β波の低下が右前頭前野に生じ、α波とβ波が重なる状態)、「ゲーム脳」(左前頭前野も低下し、α波が常にβ波より低い状態)、「メール脳」などといった恐い呼び方をしている。そういう状態に恒常的になると、短期記憶が駄目になり、集中力がなくなり(本を集中して10分以上読めなくなるという)、右脳の活動が低下して、本能などを司る古い脳の活動を制御できなくなる、というのだ。これはITの影響を受けやすい子供ばかりの話ではないという。



吉本隆明『超恋愛論』(2004年9月15日発行・大和書房 1400+税)は語りおろしの恋愛論。「今まで寝ていた神経が、起きあがる感じ」、「細胞同士、遺伝子同士が呼び合うような感じ」など、いろんな言い方で、恋愛したときの気分や心理状態が語られている。「男女がある一定の精神的な距離の範囲に入ったときに、初めて起こる出来事」というのは、そういう恋愛状態を人間相互の関係性としてとらえた言い方だが、この一定の、といった時の「度合い」が、(自分と)若い人では違うようだ、という指摘が冒頭にでてくるのが「今」の受感として興味深い。本書では、日本の近代文学にみられる恋愛や三角関係というテーマも扱われていて、明治期に輸入された西欧的な恋愛のイメージを受容したうえで、実践した知識人(文人)たちに生じた挫折や葛藤という側面が照射されている。これまで作家論や文藝批評のなかに盛り込まれていた著者の恋愛や結婚についての考え方を、ざっくり切りだしてきて、わかりやすく語ってみせた、という感じの本。



日高敏隆『人間はどこまで動物か』(2004年5月20日発行・新潮社 1300+税)はエッセイ集。雑誌「波」に《猫の目草》というタイトルで99年4月号から連載された42回分が収録されている。『春の数え方』(新潮社)の続編。いわゆる蚊柱というのは、オスたちが音に引き寄せられて集まってくると考えられていたが、実はその集団を目印としてやってくるメスを待ち受けるためにあるという話や、蛍の幼虫は汚物を食べる貝を餌として育つのだから、これまで考えられていたように、蛍が清い水に住むというわけではないという話、真冬でもサナギにならず幼虫のまま越冬するモンシロチョウや、親のまま冬を越す!キチョウの話など、そうした近年の動物行動学のこぼれ話が満載で、関心のある人には楽しく読めると思う。動物の行動の解釈の軸は大抵「生き残り戦略」で説明できるということになってきて、子供の頃からするとちょっと寂しい気もするが、歴史をおおきくとったら、ここ数十年というのは人類の生物理解の転換点だったということになるのかもしれない。



山田稔『再会 女ともだち』(2003年5月1日発行・工房ノア 1900+税)は短編小説集。89年に新潮社から刊行された同名小説集から、「もうひとつの旅」をのぞき、「詩人の魂」を新たに加え、全編に筆をいれてなった「決定版」と、あとがきにある。バスを待っていて三十年ぶりに初恋の女性美代に再会した洋平が、美代のあまりの老け込んだ変貌ぶりに戸惑い、挨拶もそこそこに逃げるようにバスに乗ってその場を去るが、ほどなく美代の旧友から電話で美代の病死を知らされる、、という表題作他七編の作品が収録されている。いずれの作品にも、生い立ちやその境遇など、作者そのひとの分身のような主人公が登場して、独特のリアリティをかもしだしている。他人の風評や、自分に対する思いこみについての憶測、あるいは脱落や想像によって変形されてしまう過去の記憶というもの、そういった、手ぶらで対象化しようとすると観念が観念を紡むぐ他なくて、無限に不安やあてどなさを呼び込むような心の領域を巡る物語が、端正な言葉遣いでこまやかに描かれている、しっとりした味わい深い作品集だ。



嶋夕陽『きょろきょろ目玉とうさぎの耳』(2003年6月1日発行・吉備人出版 1500+税)はエッセイ集。エッセーは、91年頃から同人誌「女人随筆」に発表されたものを中心に50編が収録されていて、たまごっち、クローン羊ドリー、阪神大震災などの九十年代をにぎわした時事的な話題から、荷風や永田耕衣といった文学者に関するもの、著者の生活史や身近な暮らしぶりに関するものなどバラエティに富んだ内容になっている。はばひろい柔軟な好奇心と鋭敏な感受性、豊かな生活経験、そういうものが相まってはじめて書ける文章があって、そこからは意識しなくても自ずと個性というものが滲みでてくる。著者は岡山県在住で、これまでに詩集三冊をだされている方。お送りいただいた本だが、これはぜひとも紹介したいと思った。



シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』(2004年6月20日発行・河出書房新社 1700+税)は小説。ボストンに生まれ育ったエスター(作中では「私」)は、奨学金を受けながら地方の名門女子大学に通う19歳の女子学生。そんな彼女がファッション雑誌の詩文のコンテストに入賞した副賞として、雑誌社のゲスト・エディターという待遇で、他の11人の娘たちと共に一ヶ月のニューヨーク暮らしを体験する。エスターはそこで刺激に満ちた日々を満喫するが、帰郷後いろいろなトラブルをかかえ、しだいに心を病んでいくのだった。河出書房新社のModem & Classicシリーズの一冊で、詩人シルヴィア・プラスの唯一の長編小説の翻訳本。71年に本国アメリカで刊行されてベストセラーになり、教科書などにも採用され、今も学生達の間で「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の女の子版として広く読み継がれている」というあとがきの紹介が、この繊細な魂の記録のような自伝小説の受けとめられ方をよく伝えていると思う。本書は『自殺志願』というタイトルでも74年に角川書店から刊行されていて再読だったが、興奮あらたという感じで一挙に読んだ。『自殺志願』は絶版ということなので、この名作小説の新訳は喜ばしい。



黒井千次『日の砦』(2004年8月16日発行・講談社 1600+税)は連作短編小説集。会社を定年退職をした群野高太郎とその一家の生活風景を題材にした10編の連作小説が収録されている。退職をまじかに控えた高太郎を囲んで彼の家族がホテルで会食した夜の、タクシーでの帰宅時の出来事を描いた「祝いの夜」から、更地になって今では生ゴミ集積所になっている隣家跡で、高太郎が以前の隣人とであうエピソードの描かれている「空地の人」まで、小説内の時間にして数年の経過がある。都市近郊の一戸建ての家屋に住み、妻子ともに健康で、家族関係も冷えきっているというわけでもない、そういう家庭の夫であり父である人が退職して、いわゆる隠居暮らしをすることになる。そんな境遇におかれたら誰でも体験しそうなことが、とても濃密に心にせまる感じで描かれている。でも類型的というより、好奇心が強くどこかかんしゃく持ちで、家族の気遣いにいつも不機嫌な子供みたいに対応する高太郎の「性格」もよくでている。現実だったら、こういうタイプの人は、余暇が耐えられなくてなにか趣味をみつけるようなことをすると思うのだが、そういうことは描かれていなくて、高太郎は、定年退職者の現実に突き刺さる視線や観念のように生きている。



藤田絋一郎『水の健康学』(2004年7月15日発行・新潮選書 1000+税)は水についての本。著者は寄生虫学や感染症学の専門家として啓蒙書も多く知られている人だが、その研究過程でこれまで60カ国以上の国々の飲料水調査を行ない、その結果、「カルシウムを多く含み、弱アルカリ性の水」が、これまでいろいろな地方や地域で「魔法の水」などと呼ばれてきた「からだにいい水」だという結論にいたったという。本書では、この結論から、どんな体質の人はどんな水をどの位飲んだら体にいいのか、というレシピ集まで収録されているのだが、その前段の水の性質についての様々な学問的調査研究の紹介部分も読み応えがある。水は、単なる分子H2Oの集合体ではなくて、分子間力でネットワークのように結ばれていて、20~30個の分子群(固まり・クラスター)が瞬時に再構成されているという。その変化が10のマイナス12乗秒という凄い速度なので、水の構造がきめられない、という話など興味深く読んだ。



リー・ドガトキン『吸血コウモリは恩を忘れない』(2004年7月2日発行・草思社 1600+税)は進化生物学の啓蒙書。自然界にみられる動物の協力行動を調べて、その条件を探り、人間の協力行動と比較検討してみるという本。吸血コウモリが餓死寸前の仲間に自分の吸った血を吐き出して与えるという行動をする。ところが同じ巣で暮らした仲間以外には与えないというようなことも観察されているらしい。どんなふうに仲間と関係して行動すれば生き易いのか。そういうことを人は経験から学び頭で考え、ということをしているのに、ある種の動物たちは、そういう智恵を生得的に身につけているように思えるところがある。その条件をつきとめて、人間社会にも生かすことができないか、と考えていくと、類や集団のコントロールという難しい問題にも関連してくる。様々な動物たちの協力行動の紹介だけでも面白いが、その意味を人間のあり方にひきつけて探った本書は、一歩踏み込んだ内容になっていると思う。



鈴木健夫『ぼくは痴漢じゃない!』(1994年11月20日発行・新潮文庫 650+税)は痴漢冤罪被害者の手記。平成13年に出版された『痴漢犯人生産システム』(太田出版)を改題、加筆されて文庫本化された本。著者の手記と、弁護士の解説(談話に基づいて編集部が構成)、判決文、あとがき等からなっている。もし、満員の通勤電車の中で身に覚えもないのに痴漢行為をしたと女性から糾弾されたらどうなるのか。否認しても、駅の事務室、やってきた警察官に説得されて警察へ、さらに留置場へと、ベルトコンベア式に事はどんどん進展していき、会社もやめ(させられ)、二年かけて裁判で争ってもほとんど敗訴してしまう、という事例(本書のケースは控訴審で無罪となるが)が、ほとんどだという現状が詳述されている。理不尽な、といえば、理不尽だが、横行する痴漢行為自体が女性にとっては理不尽で、こうした男性のこうむる冤罪事件は微々たるもの。されどされど、というところがあって、興味深く読んだ。被疑者と弁護士の立場の微妙な違い、裁判や法的な背景などの解説もくわしい。善良な市民が、どうしたら犯人生産システムのベルトコンベアにのらずにすむか、というのが、本書のひとつの眼目になっているのだが、これはそのまま確信犯のマニュアルにもなってしまうんじゃないかな、とは思ったところ。最近では女性専用車両もあると聞くが、やはり通勤地獄という、もとを立たなきゃ駄目ということではあるだろう。



ホルヘ・フランコ『ロサリオの挟』(2003年12月20日発行・河出書房新社 1600+税)は小説。明け方、病院にロサリオという名の若い女性が運び込まれる。キスをしている最中に至近距離から拳銃で撃たれたのだった。本書は、病院に付き添ってきた「俺」(アントニオ)が、待合室でロサリオの容態を気遣いながら、彼女にまつわる数々の思い出を告白体で綴る、という青春小説。河出書房新社のModem & Classicシリーズの一冊で、著者は62年生まれのコロンビア人作家。3作目にあたる本書(99年刊行)はスペインのハムレット国際小説賞受賞作で、著者はスペイン語圏諸国で第二のガルシア=マルケスとも評されているという。銃で撃たれた若者が病院に担ぎ込まれることなど、ありふれていたという80年代末の「麻薬戦争」時代のコロンビアの都市メデジンが舞台で、当時の世相や社会情勢を背景に溶かし込んだこの瑞々しい青春小説が、本国では発売直後から『百年の孤独』以来のベストセラーになったというのもうなずける。原文はスラムの若者言葉で書かれているという本書は、読みやすくてスピード感に溢れている。



吉本隆明『戦争と平和』(2004年2月28日発行・河出書房新社 1400+税)は講演集。95年に都立化学工業高校で行われた「戦後五十周年記念講演」(「戦争と平和」)と、79年に新宿厚生年金会館で行われた講演(「近代文学の宿命-横光利一について」)、また附録として川端要壽氏による「吉本隆明の日常」という「ノンフィクション・ノベル」が収録されている。川端氏によるあとがきで、本書刊行の経緯として、これまで単行本や雑誌に未収録だった吉本氏の講演「戦争と平和」を、「危うい方向に舵がきられている」「今の日本の情況」を考える手だてとするために、この時期に出版した、という意味のことが記されている。「戦争」とはなにか、世界から「戦争」をなくすためにはどんな条件がいるのか、また現在の世界は、その条件にどんなふうに近づいたり遠ざかったりしていると考えたらいいのか。そうした「戦争」についての考察もさることながら、では「平和」とはどういう状態をいうのか、というところでも突き詰めた思考にであえる一冊。



ホセ・カルロス・ソモサ『イデアの洞窟』(2004年7月25日発行・文藝春秋 2095+税)はミステリー小説。舞台は古代ギリシャのアテネ。プラトンの創設したアカデメイアの学生だったトラマチウスという青年の変死体が発見され、町民から「謎の解読者」と呼ばれているヘラクレス・ポントーという人物が、アカデミアの哲学教師ディアゴラスから事件の調査を依頼される。という歴史ミステリー『イデアの洞窟』が、主文なのだが、本書の構成は、ここからがややこしい。本文は、その古代に書かれた『イデアの洞窟』という文書(原典)を、モンターロという人物が翻訳した文書(モンターロ稿)を、さらに「わたし」が脚注を加えながらさらに翻訳をすすめていく、という過程として記述されていて、この作中で現在進行形で進んでいく翻訳作業の過程でも、テキストに隠された「直観隠喩」を巡る謎があり、「わたし」の身辺にもミステリアスな事件が発生するという趣向になっているからだ。英国推理作家協会賞(2002年)の受賞作。著者はスペイン人の元精神科医で、オリジナルはスペイン語。この賞を英米圏以外の作品が受賞するのは稀であるという。作品の凝った重層的な構成に、それだけのインパクトがあったということだと思う。哲学的思弁小説の味わいもあって、ややこしいが面白い一冊。



ミシェル・トルニエ『イデーの鏡』(2004年2月10日発行・白水社 2400+税)はエッセイ集。「軽やかでエスプリの効いた哲学的エッセイ」と帯にある。収録されている58編のエッセイのテーマはどれも対立する二項からなっていて、その対比を通して著者の自在な思索が綴られていくという内容だ。タイトルからわかる二項の対比は「記憶と習慣」「量と質」「時間と空間」「絶対的と相対的」といった、いかにも正調哲学風なものから、「風呂とシャワー」「スクリューとひれ」「フォークとスプーン」「灰色とカラー」といった、むむ、と思うようなものも含まれている。それぞれのエッセイは短かいので、詩を読むように文章をじっくり味わうのに向いている。それぞれのエッセイの末尾にテーマにちなんだ古今の箴言、詩や小説の一節が付されているのも新たな連想を誘って効果的だ。著者はゴンクール賞受賞作家。あくまでヨーロッパ中心的ではありながら、文学や哲学、最近の科学知識なども含め豊かな教養に裏打ちされた現代フランスの「散文の名手」のエッセイが味わえる。



ベン・カッチャー『ジュリアス・クニップル、街を行く』(2004年7月11日発行・新書館 2400+税)はコミック。「ヴィレッジ・ヴォイス」や「フォワード」といった新聞に連載され、今や「ニューヨーク・タイムス」や「ニューヨーカー」などでも書評が掲載されるという米国の人気漫画家の第三冊目の単行本作品集(2000年刊)の翻訳本。グラフィック・ノベルとかオルタナティブ・コミックスという言い方があって、いわゆる文学的な漫画を指すらしいのだが、そういう言い方がいかにもしっくりくるというのが読んだ印象だ。大都会の雑踏から聞こえてくる様々な人々の声、その声とともにある人々の暮らしぶり、そういうものを、たとえば映画「ベルリン天使のうた」で、遠い位置からとらえたシーンがあったように思うが、ちょっとそんな連想をした。映画の連想をもう少し言うと、ちょうどハリウッドの現代ものの映画で、主人公たちのストーリーの背景にちりばめられて、その場で消えていくような様々なセリフの断片や、そうしたセリフにまつわるショートストーリー、そういうものが、特徴ある描線の漫画と豊かな語彙で繊細に再現されている、という感じなのだ。舞台は50年代のニューヨークのような都会。登場するのが白人ばかりというのも、50年代の映画風だ(^^;。



吉本隆明『漱石の巨きな旅』(2004年3月15日発行・春秋社 1200+税)は文藝評論。漱石の明治三十三年から三十六年までの英国留学と、「満韓ところどころ」に記されている明治四十四年九月の満州韓国の旅という二つの旅に焦点をあてて、それぞれの旅の意味を探求した文藝評論。本書は、もとは漱石の旅に関する作品を集めたアンソロジー(1997年にフランスで出版された)の序文として書かれた文章で、その日本語原文全体を二部構成にして加筆訂正し、書き下ろしの序章を加えてなった本と末尾に記されている。これまで刊行されてきた著者の漱石論のなかに、新しい章を加える未発表論考といえると思う。「深刻な狂気の精神状態が、どうして余裕あるユーモアとして表現されたのか。それが初期漱石の謎のひとつだ。」(103)、「この世の中は自殺して御免蒙るほどの価値のあるものではない、というのが漱石のニヒリズムに該当していた。漱石の厭世観といわれるものは、この淡白な生活ニヒリズム、あるいは人間関係にたいするニヒリズムだといっていい。」(129)。論中から、章句を抜き出してみたが、この前後の論旨や文脈を知りたい方は、本書で(^^;。



トンマーゾ・ランドルフィ『月ノ石』(2004年4月30日発行・河出書房新社 1500+税)は小説。河出書房新社から刊行されているModem & Classicシリーズの一冊で、本書が最初にイタリアで刊行されたのは1939年、というから生まれたての現代文学というわけではない。詩を書く大学生ジョバンカルロが、夏休みに郷里の田舎にある大きな館に帰ってくる。ジョバンカルロが挨拶に行った伯父の家で歓待されているとき、遅れてやってきたのがグルーという謎めいた女性。ジョバンカルロはそれとなく彼女のほっそりとした容姿を観察していて、はっと驚く。グルーの白いスカートの下からのぞいていたのは先の割れた山羊の蹄だったのだ。。ジョンカルロはやがてグルーと親しくうちとけるようになり、彼女に誘われるまま月夜の山野をめぐり、不思議な体験をすることになる。田舎町に住む人々の描写などみずみずしく、場面場面で表情をかえる文章も魅力。詩情ゆたかな幻想小説という感じだ。「イタリア文学の鬼才」の「代表作」と帯にある。



ジェニー・エルペンベック『年老いた子どもの話』(2004年2月28日発行・河出書房新社 1400+税)は小説。からっぽのバケツをもって夜の商店街の路上にぽつんと立っていたひとりの少女。警察に保護されたとき、住所も名前も覚えておらず、彼女が答えたのは14歳ということだけだった。女の子は児童擁護施設に送られ、やがてそこでの暮らしが始まるが、彼女の挙動は、めだつでもなく、なじむでもなく、他の少年少女とずいぶん違って風変わりなのだった。。本書も、河出書房新社のModem & Classicシリーズの一冊で、こちらはドイツの新進作家の99年発表のデビュー小説。「カフカ的な強烈なインパクトをもつ作品」(南ドイツ新聞)という評が帯にある。バルテュスの絵が似合いそうな、長編詩のようなファンタジードラマだ。



服部真澄『清談 佛々堂先生』(2004年3月3日発行・講談社 1500+税)は小説。「小説現代」に02年から03年にかけて連載された連作小説4編が収録されている。4編はそれぞれ独立しているが、いずれも佛々堂先生と呼ばれる大金持ちの稀代の趣味人が主人公という構図は変わらない。帯にこの主人公をさして「平成の魯山人」とあるが、この架空の趣味人はあくまで善意の人で、あくが強くて毀誉褒貶の激しかった魯山人とは人物像がまるで違う。似ているのは書画骨董芸術の世界全般に通じた万能人といった伝説的面影だけで、そういう人物が、市井の画家や職人の才能を見抜き、足長おじさんのように隠れたパトロンとして、彼らを手助けする、という人情話が四作品の主なすじだてになっている。日本画や華道、菓子つくり、陶芸などなど、作品それぞれに作者が盛り込むその道の専門知識とストーリーの起伏を楽しみながら読める肩の凝らない今風情報小説集という感じだ。



鷺沢萌『ビューティフル・ネーム』(2004年5月30日発行・新潮社 1300+税(一冊))は小説。解説によると、著者は生前「ビューティフル・ネーム」という総タイトルで、三作の小説からなる作品集を構想していたとあり、本書には、そのうち完成していた「眼鏡越しの空」「故郷の春」の二作と、パソコンに「ピョンキチ/チュン子」というフォルダ名で、ふたとおりの書き出し部分だけが残されていたという三つ目の作品、また、やはりパソコンに「春の居場所」というタイトルで残されていたという未完結の自伝的小説の、つごう四編が収録されている。在日三世の韓国人女性奈蘭が高校時代に憧れていたチュー先輩に再会して、彼女との会話や思い出を通して自分自身の生き方をふりかえる「眼鏡越しの空」という作品に象徴されるように、「ビューティフル・ネーム」という未完の作品集は、いずれも在日三世世代の主人公が自分の過去の「名前」へのこだわりを通して、自分自身のアイデンティティーを再確認したり発見していくというテーマの三つの変奏集というふうに構想されたものだったという気がした。「眼鏡越しの空」で、日本名を名のっていた高校生主人公が図書カードの記入欄に心の底から自分の本名が書きたくなって、「うおおおおお!本名書きてえッ!」と内心叫ぶシーンは、たぶんこの未完の作品集の中でもピークのひとつをなすような個所だと思った。



星野宣之『ムーン・ロスト』(1)(2)(2004年7月23日発行・講談社 905+税(一冊))はハードSFのコミック。「アフタヌーン」誌に03年8月から連載されていた作品を加筆訂正してなった単行本で、全二巻で完結という長編SF作品。全長51キロという小惑星が地球に接近、これはかって恐竜を死滅させたという小惑星の百倍の大きさで、地球に衝突したら全人類の死滅は必定。人類は、衝突を阻止するために月面基地から加速器で生み出した超小型のブラックホールを小惑星にうちこんで惑星の内部からの消滅をはかるが、その結果小惑星は月に衝突し、月そのものが消滅してしまう。月を失った地球は激甚な環境変化にみまわれるが、生き延びた人類は地球環境を安定させるため、木星の衛星エウロパを、はるかかなたから誘導してきてかっての月の軌道にのせようと試みるのだった。映画化できたら凄いだろうな、と思えるスケールと緊迫度で、一挙に読み終えた。絵柄も構想もストーリーも、シリアスなSF漫画をずっと描き続けてきた人の円熟味さえ感じさせられる作品。



石澤靖治編『日本はどう報じられているか』(2004年1月20日発行・新潮新書 680+税)は外国メディアの日本に関する近年の報道をまとめた本。90年代から現在にいたる諸外国の日本に関する報道の実例やその特色をコンパクトに紹介した本で、章わけで取り上げられているのは、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、アラブ世界、中国、韓国の七カ国(地域)。各章異なる七人の著者による書き下ろしで、経歴をみるとフリージャーナリスト、記者出身の学者といった人が多く、当該地域のメディアの専門家や研究者によるもので信頼がおけそうだ。こういう情報は個別的にはおりおり届いてくるので、あまり驚くものはなかったが、こうして並記されたものを読むと、日本とその国や地域との実質経済的な結びつき(民間交流の度合い)如何で、メディアの報道も多様な理解、細分化された理解の方向に推移していくという自然過程みたいなものが読みとれる。いわゆるグローバル化の進行ということだろうが、それがやがて世界の出来事が等距離に見えてしまうようなところを通過することは想像にかたくない。



斎藤清一『米沢時代の吉本隆明』(2004年6月20日発行・新泉社 2000+税)は評伝。「年譜風の評伝」(まえがきより)とあるように、10代後半の吉本隆明が米沢の米沢高等工業学校で寮生活を送った昭和17年から19年にかけての3年間に焦点をあてて、その当時の学生生活の具体的な様相を同期生たちの追想をおりこみながら紹介した評伝的研究の本。当時を回顧した同期生の方たちのエッセイや、吉本氏本人へのインタヴューも収録されている。本書には寮の平面図やモダンな学校校舎の写真、学校行事や学生達の記念写真など、貴重な写真複数も掲載されていて、戦時下の地方の専門校で寮生活を送る学生たちの環境や暮らしぶりの一端が具体的に伝わってくる。戦時中でも地方にはこういう平穏な世界があったのだという意味でも興味深いと思う。もちろん吉本氏の読者なら、かって「初期ノート増補版」として出版された詩文執筆の背景にあたる時期の生活ぶりがうかがいしれるので、作家研究の資料としても貴重な一冊。