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走り書き「新刊」読書メモ(25)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(03.12.6~04.3.13)

 リービ英雄『我的中国』○ 村上和雄『生命のバカ力』 辻征夫『詩の話をしよう』
 森岡正博『無痛文明論』○ 諸星大二郎『栞と紙魚子 何かが街にやってくる』 中沢新一『対称性人類学』
 よしもとばなな『日々の考え』 吉本隆明+森山公夫『異形の心的現象』 近松洋男『口伝解禁 近松門左衛門の真実』
 綿谷りさ『蹴りたい背中』 ☆多和田葉子『容疑者の夜行列車』 竹田青嗣『現象学は〈思考の原理〉である』
 堀木正路『金子光晴とすごした時間』 吉本隆明『「ならずもの国家」異論』 椎名誠『モヤシ』
 小林カツ代『実践 料理のへそ!』 貴田庄『小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩』 丹治愛・編『批評理論』
 山川健一『希望のマッキントッシュ』 車谷長吉『文士の魂』 中沢新一『精霊の王』
 島田荘司『透明人間の納屋』 山本伊吾『夏彦の影法師』 楠田枝里子『ピナ・バウシュ中毒』
 ヨースタイン・ゴルデル『オレンジガール』 菊畑茂久馬『絵かきが語る近代美術』 ジャン・フィリップ・トゥーサン『愛しあう』
 橋本治『「わからない」という方法』 笙野頼子『水晶内制度』 アンソニー・ドーア『シェル・コレクター』


リービ英雄『我的中国』(2004年1月27日発行・岩波書店 1800+税)は、紀行文学。帯に「私小説的中国紀行」とあるように、著者が中国旅行をしたときの様々な体験が、時にノンフィクション小説風に、時にエッセイ風に描かれている(2001~03年にかけて「図書」に連載)。幼少期に台湾で育ち、今は米国籍を持ちながら日本に暮らしている著者が、子供の頃に覚えて忘れかけていた言葉の国、中国に旅行する。大きな関心のひとつはは西洋からシルクロード経由で中国に渡って住みついた西欧人たちについてのものだ。「西洋人が東洋人になるという、近代の常識をひっくりかえす可能性について、ぼくははじめて日本に渡った青年時代から考え続けてきた。」(130頁)。自分とはなにかを考えることが、国家とか国籍、民族性とは何かという問いと直接結びついてしまうような場所があって、著者はそういう場所にずっと光を当て続けている。そんな場所に目をこらし思いをはせることは、ひとえに著者の強靱な持続力や意志の問題ではあるのだろうけれど、他者の発見が自己の発見であるような深い内的な希求にうながされているような感じがして、いつもちょっと眩しくスリリングだ。



村上和雄『生命のバカ力』(2003年7月20日発行・講談社+α新書 880+税)は、科学エッセイ。著者は、体内で血圧、水圧、塩分などのコントロールに重要な役割を果たすレニンという酵素の遺伝子解読に成功して世界的に注目された生物学者。本書は著者がこのレニン研究に邁進した頃の学究生活の興味深いエピソードを織り込みながら、遺伝子の果たす役割についてこれまで知られてきたことをわかりやすく解説した本。と言えば言えると思うが、本書の特色は著者が遺伝子研究者の立場から、人間の心と体の関係について、一歩踏み込んだ「仮説」を提唱しているところにあるだろう。「気のもちよう」とか「笑いは百薬の長」とか「火事場の馬鹿力」といわれてきたようなこと(人間の潜在能力の発現)が、遺伝子の研究で説明がつくかもしれない。人間の情動が遺伝子に働きかけて、onとoffのきりかえを命じているらしい。そういう仕組みが判ってきたという立場から、本書では、人はどんなふうに遺伝子をコントロールしながら生きていくべきか、という人生指南書みたいな領域にもテーマが拡張されている。



辻征夫『詩の話をしよう』(2003年10月5日発行・ミッドナイト・プレス 2200+税)は、インタヴューと小詩集を兼ねた本。詩人辻征夫へのインタヴュー(「詩の雑誌 midnightpress」2号〜6号に連載されたもの)5回分を収録した第一章の「詩の話」、インタヴューの聞き手山本かずこ選による、辻征夫の19編の詩を収録した第二章「辻征夫詩抄」、辻の自筆年譜に加え、多田道太郎の追悼エッセイ「辻征夫 再入門」と、山本かずこの「あとがきにかえて」を収録した第三章「辻征夫自筆年譜」からなる。辻征夫が自作詩や自身の思う詩のあるべき姿を胸襟をひらいて語っている第一章のインタヴューと、続けて収録されている辻征夫詩抄という本書の構成は、これまで辻征夫の詩の世界に親しんできた人にも、人と作品を初めて知るような現代詩に関心のある若い読者にも、それぞれ違った読み方や味わい方で親しめる自然な流れをつくっていると思う。そして三章の「あとがきにかえて」を読むと、この明るい自然な流れが、インタビューの聞き手であり、作品集の選者でもある山本かずこさんの、長期インタヴュー連載半ばで急逝した詩人辻征夫に対する深い哀惜や思慕の念に支えられているのが伝わってくる。そういう意味ではある種の必然が荷担したお二人の共著というような印象を受ける本だ。



森岡正博『無痛文明論』(2003年10月5日発行・トランスビュー 3800+税)は、現代文明批評。「仏教」44号〜49号に6回に渡り連載された稿を全面的に改稿し、2章を書き下ろして加えてなった本とある。「無痛文明」というのは、著者がひとつの文明のタイプを名付けた造語のようだが、その意味内容は、著者の人間の身体や欲望についての考え方と密接に結びついている。著者は、人間の身体には、快を求め、苦しみを避け、現状維持と安定を計り、拡大増殖しようとし、他者を犠牲にしてもかまわないと思い、人生・生命・自然を予測の範囲内に収めておこうとするような「身体の欲望(力)」と、身体に内在しながら身体を超えようとする「生命の欲望(力)」が備わっていて、後者の力が自己解体と再生というプロセスを経て自己変容を遂げたとき、予期せぬ「生命のよろこび」がもたらされるという。そして、「無痛文明」とは、「身体の欲望」が「生命のよろこび」を奪っていくという仕組みが、「社会システムの中に整然と組み込まれ、社会の隅々にまで張りめぐらされた文明」とされる。現代社会は「身体の欲望」が「生命のよろこび」を奪っていく文明(著者によれば「自己家畜化」の進んだ文明)というレベルにあるが、その完成型であるような次なるステージが「無痛文明」ということになる。本書は、こうした著者独自の身体論・欲望論・生命論を根底にした、現代文明告発の書だと言えると思う。ただ定義上、「無痛文明」批判が、文明の構成者である個々の主体(著者自身も読者も含めた)の「身体の欲望」批判に向かうのは避けられないところで、その避けられない領域にあえて正面から踏み込んだ試みというところが、本書のちょっと類をみないユニークな達成だと思う。「(「無痛文明」と戦う)戦士たちよ。」と読者に呼びかけるような詩的・文学的な記述もとられていて、「私はこの本を書くために生まれてきた。」(あとがき)という言葉に連なる、著者の使命感や高揚感が伝わってくる。



諸星大二郎『栞と紙魚子 何かが街にやってくる』(2004年2月25日発行・朝日ソノラマ 782+税)は、コミック。胃の頭(いのあたま)町に住む、栞(しおり)と紙魚子(しみこ)の女子高校生コンビが、毎回不思議な事件にまきこまれて活躍する幻想コミックシリーズの第五巻で、「ネムキ」に2001年から2003年にかけて連載された六話分が収録されている。宮崎駿のアニメ映画などのヒットで一挙に妖怪ブームが起こる、というのとは又一味違って、著者はライフワークのようにこつこつと幻想世界ものコミックを描き続けているひと。古典的な妖怪や魑魅魍魎がでてくる話もあるが、著者のオリジナリティあふれる異次元世界ものがやはり面白くて、この人のパワーはそういう無意識から沸き出してくるような個性的な幻想世界をコミックの絵柄として定着したいというところにその源泉があるという感じがする。舞台になっている胃の頭町は多摩地方の井の頭公園がある武蔵野市がモデルになっているらしいのにも個人的に親近感を覚えるところ。



中沢新一『対称性人類学』(2004年2月10日発行・講談社選書メチエ 1700+税)は、講義録をもとに書かれた本。「カイエ・ソバージュ」というタイトルの全五冊からなる講義録シリーズの最終巻。本書では2003年度中に中央大学、同大学大学院、森美術館で行われた連続講義や講義録が収録されている。この長大な講義録シリーズは、「神話論」「国家論」「贈与論」「宗教論」として既に刊行され、しめくくりの本書はそれらを「できるだけ体系的に話してみようと試みた」という時期の講義の部分にあたる。「対称性」というのは自然科学でいう言葉と重ねられているようだが、著者は「分類上ちがうものの間に深い共通性のあることを見出す能力」を「「対称性論理」と呼び、「神話的思考」やフロイトのいう「無意識」の作動の特徴を「対称性」ととらえることができる、としている(264ページ)ところから、その大まかなイメージを思い浮かべることができると思う。本書は人類の文化文明史全般に関わる様々な学問的領域の研究成果について、この「対称性」という切り口から再検討し、再構成しようとした試み。そういうと堅苦しくて難しそうだが、もともと学生相手の講義録ということで、著者自ら言うように「野放図な思考の散策」(「はじめに」)という趣もある。三万数千年前に脳の飛躍的進化によって現生人類は初めて「無意識」を手に入れたという記述に驚いたら、あとはぐんぐん読めてしまった。なんといっても膨大な学問的対象領域の中を自在に潜り抜けたり跳躍する著者の思考そのものが、「対称性」の論理によってなされている感じがして楽しく読んだ。。



よしもとばなな『日々の考え』(2003年11月10日発行・中央公論社 22000+税)は、雑誌公開の日記。「リトルモア」(Vol.10~25)に連載された日記体裁のエッセイと、同時期同誌(Vo.17~20)に連載された長時間インタヴューが収録されている。飼っているリクガメの話、面白かった映画や本の話、家族(両親や姉)や友人の話。あとがきによると著者は、ほぼ4年ちかくになるこの日記の連載の間に親しくしていたボーイフレンドと別れ別の人と結婚した、ということだが、「人生は楽しいことばかりではないのですが、常に楽しいことをピックアップするのは可能なのです」(あとがき)とあるように、さっと読んでいるだけでは面白い話題続出で、そういう私生活上の波風のことはわからない。これはプロ意識というより、伸び伸び書きたいものを書いたらこうなったというような、著者の生き方や資質のようなものなのだと思う。生き方や資質ということで、インタヴューの中で一番印象に残ったのは人間も動植物もまったく対等で、それぞれ能力(できること)が違うだけ、という著者の考え方だ。これはよく読むと動物愛護精神とか、汎神論的な生命観といったことと微妙に違う。アニメ世代でその深くならない関係性だけが描かれる集団ドラマから深い影響を受けたとも著者は語っているが、案外その辺にルーツや関連があるような気がしたのでもあった。。



吉本隆明+森山公夫『異形の心的現象』(2003年12月25日発行・批評社 1000+税)は対談。「統合失調症」(「精神分裂症」の新しい名称)についての森山氏の見解の披瀝からはじまる本書は、吉本氏がいくつかの近代・現代の文学作品の文中にみられる描写の特異性をどう考えればいいのか、というように質問をかえすところから、漱石、芥川、賢治、島尾敏雄といった作家の作品の特異描写をめぐる応答と、そこから派生する「パライメージ」といった概念や宗教の問題などが論じられる形で収録対談の半すぎまで進行する。そうした文藝作品の特異描写については、これまで何度も吉本氏が著作で論究してきたことでもあり、それはそれで「パライメージ」という概念の難解さも含めて興味深いのだが、本書の4章「「和解」と「諦念」、そして「内省」」では、森山氏の著書『統合失調症』の中の「和解」という概念に触発されるようにして、吉本氏がこれまで他者との関係がこじれたり一方的に絶縁されたりした自らの体験の具体例をあげられているのが目がひいた(その様相やいきさつはさまざまだが、大岡昇平、小島信夫、鶴見俊輔、安原顕、出口裕弘、次女(吉本ばなな)、齊藤環氏などの名前がそういう事例の当事者(相手)としてでている)。他者の思いがけない論難やあからさまな非難や、「嫌み」めいた言辞にまつわる、吉本氏の側の心的ドラマが率直に明かされていて、「内省の難しさ」や「和解の難しさ」を巡る話の流れとはいえ、ちょっと思いがけない本書のよみどころになっているように思えた。



近松洋男『口伝解禁 近松門左衛門の真実』(2003年11月10日発行・中央公論社 22000+税)は、近松門左衛門から数えて9代目の子孫にあたるという著者が、「万事極秘に運ぶ」という家訓を破り、近松家に代々伝えられてきた口伝を明かしたという本。口伝が代々極秘にされてきた理由のひとつに、近松門左衛門が赤穂浪士近松堪六の二人の遺児を養子にしたということが冒頭であげられていて、まず驚かされる。口伝として自分はいつ何処で誰から伝えられたか、というような書き方がされているわけではないので、どこまでが著者の創案になるものか判然としないところもあるが、本書の近松の伝記的な記述部分の、とりわけ二十歳からの十年間(「ほとんどの門左衛門研究者は三十一歳までを行方不明扱いにしている」とある)についての近松の生活史の記載部分がそうした口伝を元に著者が整えたものに思える。実証的な証拠があるわけではないので(そこが口伝ということだが)、代々語り伝えられるうちに生じるような歪曲(物語化)の要素をどう考えるかということもあるが、それを割り引いても大まかな骨子は変わらないとすれば、これはすごい内容だと思う。当時の「公界」の様相についての記述など網野善彦氏の歴史研究のテーマとも響きあうところもあるようで面白く読んだ。また近松の初期作品がスペイン・ルネッサンス詩劇の色濃い影響のもとに書かれているという説は、劇構成などについて説得力があってなんとも刺激的だ。



綿谷りさ『蹴りたい背中』(2003年8月30日発行・河出書房新社 1000+税)は小説。高校一年生の「私」が日々感じたことを書き綴ったという作品で、当然ながらその大部分は学校での授業のこと、友だちのこと、所属している陸上部の部活のことなどがしめる。高校に入学して数ヶ月たつのにクラスメートとうちとけることができない「私」は、やはりクラスで浮いている男の子「にな川」に興味をひかれていき、「にな川」が夢中になっているアイドルのコンサートに友人の絹代と一緒にいくことになる、というのが作品の中で起きる大きな出来事らしい出来事だ。主人公の「私」の、いかにも今時の子供らしい過敏な感受性がよく描かれている、ということろが読みどころだろうか。「私」が高校のクラスメートとうちとけないのは、中学時代にさんざん仲間と「うちとける」ことをやってきて、そのむなしさやわざとらしさにへきへきとしているから、というふうに説明されている。「ハツはいつも一気にしゃべるでしょ。それも聞いている人間が聞き役に回ることしかできないような、自分の話ばかりを。そしたら聞いてる方は相槌しか打てないでしょ。一方的にしゃべるのをやめて、会話したら、沈黙なんてこないよ。」というのが、そんな「私」に対する絹代の批評で、このさりげない「私」の相対化が作品としての優れたピークの線をつくっている感じがした。



☆多和田葉子『容疑者の夜行列車』(2002年7月7日発行・青土社 1600+税)は連作小説。前衛ダンスの創作家でダンサーでもある主人公「あなた」がかって体験した様々な列車の旅のエピソードが語られるという趣向で、13編のそれぞれ独立した短編作品が収録されている(初出は「ユリイカ」に連載)。なかには中国の鉄道やシベリア鉄道の旅というのもあるが、多くは「あなた」が住んでいるとされるヨーロッパ圏内での公演の際のローカル線を利用した旅を描いたもので、そういう細部の設定の現実味と、そこで語られる時に幻想的な物語との間に不思議な緊張感が生み出されている。一度でも外国で似たような列車旅行を経験したことがある人なら、不安や開放感や孤独感がないまぜになった異国の土地をめぐる列車の旅特有な雰囲気が蘇ると思う。もっともこの連作小説の本領はそれに加えてやはりこの作家独特の言葉(いいまわしや造語)の面白さだろう。「紅鮭のような嘘」とか、「長すぎるズボンの裾のように引きずってきた問題」とか、センスあふれるいいまわしが沢山でてきて物語を読む楽しみを倍加させている感じがする。谷崎潤一郎賞、伊藤整文学賞受賞作。



竹田青嗣『現象学は〈思考の原理〉である』(2004年1月10日発行・ちくま新書 780+税)はフッサール現象学の解説書。2002年に私立麻布学園で開催された講座「人間学アカデミー」の講義録をもとに手をいれてなった本とある。現象学の解説書といっても、著者の現象学の理解や把握のしかたは一般的なものと随分違っていて、独自な領域に踏み込みこんでいる。では現象学の一般的(アカデミックな)な理解とはどういうものなのか、その違いはどういうことなのか、ということの説明から本書ははじまっているので、著者の立つ立場が自然に飲み込めるようになっている(著者自ら「私のような立場はいまのところ異端で、学問界では本流ではありません」と書かれている(^^;)。3章「言語の現象学」では、現代の言語理論の本によく例示されるいわゆる「言語のパラドックス」が解明されているが、ここで著者が「現実言語」と「一般言語表象」という概念をたてて解説しているところは、とても納得ゆくし、この章は言葉について考えるとき大きなヒントになると思う。普通に私たちが勝手にものを認識したり話たりしていることに、ある共通の原理のようなものがくみ取れる。現象学とはその原理を探求する学問であると考えると、著者の取り組みのようなその真摯な探求が私たちの普段の思考とスパークする場面がでてくるのは当然といえば当然で、そうした記述に出会うことは知の悦びそのもののようなところがある。



堀木正路『金子光晴とすごした時間』(2003年11月25日発行・現代書館 2200+税)はエッセイ集。初出は「本の街」というタウン誌にほぼ6年間にわたって連載されたもの、と、あとがきにある。エッセイ集といってもタイトルどおり内容はすべて金子光晴の人と作品をめぐるもの。本書によると著者は24歳のとき(昭和29年)に当時59歳の金子を訪ねて詩人として傾倒して以来、6年ほどの間の親しい交流の時期を含め晩年まで親交のあった人で、そういう人が金子との交流が深かった時期の追想や、数ある金子の著作や詩について思いのたけを楽しみながら書き綴ったという感じのエッセイ集だ。金子光晴は逸話や彼についての評伝的な記述も多い詩人だと思うが、「金子はそばが好物だった」というような記述に対して、あれは金子がその時々で相手(の好み)にあわせていたのだと書いているところなど、身近にいて一時期常に行動をともした人ならではの洞察だと思う。金子の戦後の私生活の若い恋人(うさぎちゃん)との関係は「ラブレター」(1981年・関根恵子(当時)主演・日活ロマンポルノ)という映画にまでなった。本書ではそのことは少ししか触れられていないが、金子の著書や詩を読んでいた頃のことを(もちろんその映画もみて(^^;)、ちょっと懐かしく思い出したのだった。



吉本隆明『「ならずもの国家」異論』(2004年1月30日発行・光文社 1500+税)は情況論。特にことわりはないが「情況論議」とまえがきにあり、文体からも語りおろしに手をいれてなったという印象の本だ。北朝鮮の拉致や核開発、アメリカという国家について、石油や軍事力の問題、国内のデフレ不況についてなど、昨今の世界政治や日本の経済情況についての著者のさまざまな見解や見識が、ときに若い頃の体験談をおりこみながら膝をつめた座談という感じで明快に語られている。「ならずもの国家」とは、もともと米国政府(クリントン政権の頃から)が特定の国を非難するときに使用しはじめた言葉だと思うが、読み落としでなければ本書ではこの言葉についての言及はとくにされていない。そのことがちょっと気になったのは、最近では『ならずもの国家アメリカ』という本もでていて、私のイメージでは「ならずもの国家」というと逆にすぐアメリカが念頭に浮かぶようになっていたからだ(^^;。本書では、アメリカという国の良い面も悪い面も特色として指摘されている(「多元的・重層的な国」とある)。それにしてもアメリカは何故イラクに戦争をしかけたのか、という戦争の根拠(ウラのモチーフ)をめぐる著者の当初の疑問が、情況の推移(座談の進行)とともにいくつかの理解(「超々国家の自己実現」というイメージなど)に導かれていくのも読みどころで、新聞テレビ報道の野次馬として同じような疑問を抱いていたであろう多くの人に届く内容になっているように思う。



椎名誠『モヤシ』(2003年4月20日発行・講談社 1200+税)は小説。エッセイ的旅行記風私小説という感じの「モヤシ」「モズク」という二作品が収録されている。初出はそれぞれ北海道新聞日曜版連載(02年)と、小説現代(03年2月号)。医者に尿酸価が高いといわれ、普段の食事や食材についてあれこれ気にかけはじめた「私」が、その結果、「モヤシに激しく目ざめて」しまう。かくて「私」は沖縄にいってソーミンチャンプルーの上にモヤシをたっぷりかけて食べたり、モヤシ鍋やモヤシ入り春巻きの制作に挑戦したりするが、ついには娘から貰ったスプラウト栽培キットを持って北海道旅行に出かけ、「モヤシと旅する男」になってしまうのだった。というのが、「モヤシ」のあらすじ。「モズク」は友人たちと遊びに行った久米島近くの無人島で予期せず一晩明かすはめになったとき、海中で採取したモズク麺を食べて空腹をしのいだという話。「日本伝統、軽みの真価」とは帯の言葉だが、どちらも著者独特の心やさしい「昭和軽薄体」文章が楽しめる。それにしても、肉魚さしみ大好きだった著者が健康食品的モヤシやモズクの効用やうまさを語るようになったのだなあと、いささか時代の流れを感じさせられた。飲みすぎ食べ過ぎのつけが回ってきた世代への応援歌みたいなところもありそうで、一気読みできる楽しい本だ。



小林カツ代『実践 料理のへそ!』(2003年11月20日発行・文春新書 720+税)はレシピ集。「ふだんのごはん」に使える170品目の料理レシピや調理のヒントが収録されている。本書の出だしはご飯に塩だけかけて食べる、というもので、これにまずびっくり。電気釜で炊きたてのご飯の上の部分をしゃもじで削ぐようにとって椀によそい、これに塩をかけて食べるだけというのだが、炊きたてご飯はその部分が一番美味しいのだと初めてしった(さっそくやってみた)。この塩かけご飯、ほくほく食べていると、実に贅沢なようにも思えてくるのが不思議で、本としても快調な出だしという感じだ。紹介されているレシピは、どちらかというと「一人でたべる」「ふだんのごはん」を意識したもので、複雑精妙な料理をつくろうという人や大家族の食卓をまかなっているような人には向いていないかもしれない。しかし、高齢化時代を迎えて初めてキッチンに立つような壮年老年の人や、若い単身者には力強い味方という感じだ。著者は使いやすい調理器具も工夫開発している料理研究家で、菜箸の扱い方など、ちょっとしたヒントに「ふだんのごはん」への愛情とセンスがひかっている。



貴田庄『小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩』(2003年12月15日発行・青春出版社 700+税)は小津映画と料理店ガイドを兼ねた一冊。小津映画についてはこれまで山ほど評論や関連書が出版されていると思うが、この本は、とくに映画の舞台として登場するロケ地に注目して観察・探索した成果がもりこまれていて、さらに小津が残した手帳(本書では「グルメ手帳」と呼ばれている)や日記を手引きに、そこに書き留められている小津のなじみの飲食店、はたまたその地域近辺の老舗や有名料理店を紹介するという内容になっている。章別に「深川界隈」「両国界隈」「浅草界隈」というように10章に別れていて、それぞれその地域を舞台にした映画作品の紹介と飲食店の紹介がされているので、実際に本書を片手に読者がふらっと小津映画をだしに美味しいものを食べに遊びに行けるように意識されたつくりになっているように思う。それはそれで実用的なのだが、小津映画にちらっとでてくる様々な都市風景というもの、その見過ごしがちなワンショットを漫然と見ていることが多いのだが、あれはどこどこの建物で今はこれこれこうなっている、と克明に調べる研究者がいるのだなあ、と、そういう情熱にも驚かされた本だった。



丹治愛・編『批評理論』(2003年10月10日発行・講談社選書メチエ 1500+税)は批評理論の紹介。現代の人文系の批評理論のさまざまな潮流をコンパクトに解説し、その取り組みの実例もあわせて紹介した本。とりあげられているのは、「読者反応論」「精神分析批評」「脱構築批評」「マルクス主義批評」「フェミニズム批評」「ポストコロニアル批評」「ニュー・ヒストリズム」といった流れ(名称は目次の小見出しによる)で、8人の評者(丹治愛、鍛治哲郎、山田広昭、田尻芳樹、佐藤元状、遠藤不比人、中尾まさみ、大久保譲の各氏)が、章別にそれぞれの項目を担当して執筆した論考が収録されている。本書の特色は、理論の概説にとどまらず、それぞれの評者が個別作品(カール・ブッセの詩「山のあなた」や谷崎の小説『夢の浮橋』などなど)を取り上げて批評の実例を示しているところで、それぞれの批評理論の考え方や重点の置き方などの理解を深めるのに役立っていると思う。意味深な学問的レッテルが貼られると、けっこうたじろぐ所があるが、「重要なのは、批評理論が新しいか古いかではなく、それがテクストの具体的な解釈をおもしろくできるかどうかです。」(第一部より)という編者の言葉を念頭におきながら、どんな自分自身の関心との接点に出会えるか、という興味で読むと面白い発見があると思う。



山川健一『希望のマッキントッシュ』(2004年1月9日発行・太田出版 1480+税)は著者愛用のパソコンについて語ったエッセイ集。アップル社のパーソナル・コンピューター、マッキントッシュのシリーズ製品を購入した数30台に及ぶという筋金入りの「マッカー」を自認する著者が、最新osX 10.3 (Panther)や音楽をきける周辺機器iPodやインターネットやパソコンゲームの楽しさについて縦横に語りつくした本。プロキシサーバの利用の仕方やファイル共有ソフトの紹介などの実用的な情報ももりこまれている。6章「マッキントッシュ物語」では、マックをめぐる掌編小説のような数々の体験的エピソードが記されていて、マックファンならずとも楽しめると思う。なかでもネットで知り合った博識の先生にオフで会ってみたら小学生だったという話や、パソコンを切るときにはプラグを引っこ抜くというさるマック使いの国民的作家の話などがとくにおかしい。パソコンに関する新情報なら雑誌やネットに溢れているかもしれないが、マック大好きの小説家が書いたこういう暖かい応援歌という感じの本は、ちょっと他に例がないと思う。



☆車谷長吉『文士の魂』(2001年11月20日発行・新潮社 2500+税)は読書についてのエッセイ集。初出は98年から2001年にかけて「波」に15回にわたって連載された「意地っ張り文学誌」という連載エッセイで、著者の読書遍歴を語るという体裁で、章別にジャンルの違う数々の日本の近・現代文学の小説との出会いが記されている。自分がどんな境遇にいたときその本とであい、どんな個所に感動を覚えたか、ということが披瀝されている文章なのだが、青春小説、伝記小説、大衆小説、愛の小説、世捨て人の文学、恐怖小説、伝奇小説、夢の小説、などなど、扱われているジャンルはひろく、取り上げられている小説の数も目次の副題に挙げられているものだけでも45作品に及ぶ。随所に著者の熱い思いいれや、実作者ならではの鋭い読みも伝わってきて、紹介されている小説のいくつかを読んでみたくなること請けあいという感じの本だ。



中沢新一『精霊の王』(2003年11月20日発行・講談社 2500+税)は日本の神についての論考。ジャンルでいうと民俗学とか文化人類学に類するのだろうか。『成道卿口伝日記』の中にみえるという、蹴鞠(けまり)をしていて、とつぜん顕れた童子たち(顔が人で身体は猿の姿をした鞠の精)と言葉を交わした、という印象深いエピソードの紹介からはじまる本書は、この「鞠の精」の由来を訪ねるようにして、猿楽の金春禅竹の著した『明宿集』の伝える秦河勝伝承、さらには柳田国男の『石神問答』へと、イメージがぐんぐん広がりや深まりをみせていく。本書は、そうしたさまざまな歴史的な資料や考証をあげながら、ついには日本の縄文時代(4,5千年前)から信仰されていたと思われれる国家神道成立以前の原初の神(もしくは精霊)の姿や今も伝わる信仰、さらにはその宇宙観や生命観を浮き彫りにする、という構想力豊かな論考。柳田国男の「石神問答」によると、この神は、シャグチ、ミシャグチ、シャクジン、シュクジン、シュクノカミ、シクジノカミなどと呼ばれ、そうした呼称すべてに「サ音+ク音」の結合がみいだされる、という(プロローグ)。こうした名称について考えるだけでも想像力がかりたてられる。



島田荘司『透明人間の納屋』(2003年7月31日発行・講談社 2000+税)はミステリー小説。母子家庭の一人っ子として育った「ぼく」は、子供の頃友達もあまりいなくて、隣家で印刷工場を経営していた真鍋さんのところにいりびたりだった。聡明で父親や兄のような存在だった真鍋さんは僕にいろいろなことを教えてくれたが、「ぼく」が9歳とき、町で不思議な殺人事件が起きたあとに遠い国に去ってしまった。真鍋さんとその事件との複雑な関係を知ったのは後のことだ。。大人も子供も楽しめるという「ミステリーランド」という書き下ろし作家もののシリーズの一冊で、全編ルビつきの小説。出だしは宇宙の話などでてきてゴルデル調の雰囲気が楽しめるが、それもそのシーンだけで、後半は殺人事件の謎に考えこまされる展開になっている。子供にあれだけ正確な科学知識を教えたいひと(真鍋さん)が、透明人間や宇宙人の実在を同時に語るだろうか、とちょっと思ったが、トリックの意外性も社会性も盛り込まれていて楽しめる作品だ。



山本伊吾『夏彦の影法師』(2003年9月25日発行・新潮社 1600+税)は日記。正しくは故山本夏彦が半世紀にわたって書き残した50冊の手帳と10冊のノートを、ご子息である著者が読み解き、順次抜き書きした個所に解説を加えていくという体裁の本。残された日記やノートについて最初は親父の身辺雑記じゃないかと見過ごしていたが、あるときそこに「誰も知らない山本夏彦」がいることを発見した、と著者はあとがきで書いている。このひとつの人生の記録の発見者かつ道案内がご子息であるというところが本書の味わいのあるところ。ただ、山本の書いた恋文の下書きというのも掲載されていて、これはちょっとかなわないと思った。推敲に推敲を重ねたあとがあるという恋文の下書きも「世にでることを想定して父は書いていたのだ、と私は思う。」(あとがき)とあるが、どうもこういうのは苦手だ。私の反応のほうが変で、本書の読みどころのひとつはそこかもしれないのだが、ついそこはよみとばしてしまった。



楠田枝里子『ピナ・バウシュ中毒』(2003年10月30日発行・河出書房新社 1900+税)はピナ・バウシュと彼女の率いるヴェパータール舞踊団の紹介・解説の本。ピナ・バウシュの10数年来の熱烈なファンであり、今や友人でもあるという著者が綴った数々の公演の感想記や、ピナや劇団員たちと著者との交友の様子を描いたエッセイ、併せてピナへのインタヴューなども収録した全編ピナ・バウシュ讃歌という感じの本だ。ただすごいすごいというのでなく、「追っかけ」ファンにして、今では長い交流を通して気持ちの通じ合う友人という立場になった人ならではの親愛の思いや、自分が敬愛する人々について書くことの「喜び」が伝わってきて、さわやかで暖かい幸福感にひたれる本だ。著者は1989年9月にピナ・バウシュの日本公演で「ネルケン」を見て衝撃を受けて、いわゆる「追っかけ」になったということが冒頭に記されている。床に一万本のカーネーションを敷きつめたそのときの舞台は私もみていたので、著者が感じたという新鮮な驚きがとてもよくわかる。ということで私もそれ以来の隠れファンのひとりなのだった。



ヨースタイン・ゴルデル『オレンジガール』(2003年10月25日発行・日本放送出版協会 1500+税)は小説。11年前に死んだ父親が残した息子あての手紙を、今や15歳になる息子のゲオルグが繙く。そこには、若き日の父と謎めいた少女「オレンジガール」との出会いと恋の物語と共に、ゲオルグに当てたひとつの「重要な質問」が記されていたのだった。『ソフィの世界』の作者が書いたミステリアスで哲学風味もある小説。解説や帯には「ヤング・アダルト小説」とあって、こういう内容を一般にそう呼ぶものなのか、とその呼称にちょっと戸惑った。この作品は2003年10月10日に発表され、ノルウェー本国での刊行前に20カ国に版権が売れていて世界同時発売となったと訳者あとがきにある。前半謎めいたストーリーがこれでもかと膨らんでいく過程と後半きれいに氷解するところに、作者の独特の作風が楽しめます。



菊畑茂久馬『絵かきが語る近代美術』(2003年8月15日発行・弦書房 1470+税)は講演録。2001年10月から翌年6月にかけて福岡県立美術館で計16回行われた「菊畑茂久馬美術講演」の記録をもとに加筆・再構成した本。「田舎絵かきの美術漫談」(「はじめに」)と著者は書いているが、原稿用紙にして一千枚分あった講義の記録を三百枚に削って再構成したというだけあって、親しみやすい講義の口調を残しながら内容は充実、日本の近代美術史に登場する画家達をめぐる興味深い逸話や的を外さない情報がぎっしりつまっている。美術史と言っても中心は油彩画の展開で、油画の創始者といわれる高橋由一、さらにその源流を平賀源内、司馬江漢と遡り、また明治期にとってかえしてフェノロサ、岡倉天心、黒田清輝、漱石、藤田嗣治の業績や足跡が辿られ、最後の数章では戦争画の問題にも踏み込んで言及されている。「教科書が決して書かない目からウロコの美術史」とは帯の言葉だが、こういう本を教材にしたら日本の近代美術史についての親しみや理解がぐっと深まると思う。



ジャン・フィリップ・トゥーサン『愛しあう』(2003年11月10日発行・集英社 1470+税)は小説。前衛的衣裳の造形作家で、自分のブランド「アロンジ・アロンゾ」も東京で展開しているデザイナーでもあるというマリーという女性の恋人「ぼく」は、7年の間マリーと連れ添うように生きてきた無職の恋人。そんな二人にも長い緊張関係を清算せざるを得ない時がきて、二人は最後の夜をマリーの仕事で来日した東京新宿のホテルの一室で迎える。別れる寸前の中年男女の一昼夜の関係を、内面心理描写を極力抑制しながら描いた恋愛小説。主人公も恋人も西欧人だが、舞台は冬の新宿、京都と続く。出版直後に数カ国語で翻訳が開始されるというベルギー人人気作家の新作で、フランスではゴンクール賞他三つの文学賞にノミネート(2002年)されたという。マリーはやたらに泣くだけで、二人の恋の破局に至る経過が描かれていないだけによけい不思議な現実味と非現実味が共存しているスリリングな世界。



☆橋本治『「わからない」という方法』(2001年4月22日発行・集英社新書 700+税)は知的な創作活動をこなす時の実践的な方法論を説いた書。知的な創作活動と書いてそれでいいのかな、とちょっと気になるが、本書では著者が『男の編み物-橋本治の手トリ足トリ』という「セーターの本」や、『パリ物語-1920's 青春のエコール・ド・パリ』というテレビの美術番組のシナリオや、はたまた『桃尻語訳枕草子』といった古典の現代語訳を完成させた時の制作体験に基づいて、そのとき駆使したという「「わからない」という方法」を具体的に解説した指南書だ。この方法には「天」を行く方法と「地」を行く方法がある、と著者はいう。前者は目的にせまるための地味な過程をすっとばして知識より身体的な慣れや智恵で一気に対象をつかみとる方法で、後者はひたすら経過につきあたり辞書を引き倒してトンネルを掘るように進んでいく地味な方法、ということのようだが、その後者の圧倒的な勝利の産物とでもいうべきものが『桃尻語訳枕草子』だったのだと知って、これはちょっと感動的な話だった。



笙野頼子『水晶内制度』(2003年7月30日発行・新潮社 1700+税)は小説。近未来の日本では千葉県に隣接する地域に「ウラミズモ」という国名の女性だけの住む独立国家が誕生していた。日本からこの国に入国してきた「私」は、最初入国管理審査時のショックで混乱していたが、やがて自分がこの国の創生神話を書くこと(創作すること)を期待されている亡命作家であることを知らされ、その仕事に従事するのだった。「ガリバー旅行記」や「家畜人ヤプー」、近年では「吉里吉里人」といった小説をついつい連想してしまうような奇想天外な女人国滞在記。出雲神話を下敷きにしたウラミズモ神話の記述にも圧倒されるが、やはり読みどころは性差別についての強固な問題意識に裏打ちされて作り上げられたような、ウラミズモ国の過激な制度や風習を巡る滞在記的な記述だろう。ところどころに「うわー」という叫びというか雄叫びというか物語の記述自体を別次元にひきさらうような語り手の声が挿入されている仕掛けも微苦笑を誘って刺激的だ。



アンソニー・ドーア『シェル・コレクター』(2003年6月25日発行・新潮社クレスト・ブックス 1800+税)は、短編小説集。ケニアの海辺の小屋に一人隠棲する盲目の老貝類学者を描いた「貝を集める人」、死後の世界のビジョンを人に伝える能力を持った妻と20年ぶりに再会する老狩猟家の話「ハンターの妻」、家族の引っ越し先の岸辺で海釣りの魅力にとりつかれる14歳の少女の話「たくさんのチャンス」など、全八編の小説が収録されている。いずれも完成度が高くてじっくり味わえる作品集だが、それにしてもこの作者73年生まれで本書が第一短篇集というのは驚きだ。何作かにみられる抒情的・幻想的な人と自然との交感の描写がとりわけ印象的だが、中には同じ作家の作品かと思うような辛辣な皮肉をちりばめたユーモア小説も収録されていて多才ぶりがうかがえる。また物語の舞台が世界各国に及ぶ(リベリアの内戦などもでてくる)というのは、やはり現代アメリカの作家という感じだ。