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走り書き「新刊」読書メモ(24)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(03.8.23~11.29)

ギルバート・アデア『閉じた本』<○島本慈子『ルポ 解雇』 詩と詩論研究会編『金子みすゞ この愛に生きる』
養老孟司『まともな人』<○山本夏彦『ひとことで言う』 山田稔『あ・ぷろぽ それはさておき』
養老孟司『養老孟司の〈逆さメガネ〉』 福田和也『贅沢な読書』 東雅夫編『ホラー・ジャパネスクを語る』
 トーマス・グラヴィニチ『ドローへの愛』 河合隼雄+中沢新一『仏教が好き!』 乱真澄『女傑 1』
 シャーンドール・マーライ『灼熱』 タイモン・スクリーチ『定信お見通し』 齊藤環『OK?ひきこもりOK!』
 園田英弘『世界一周の誕生』 ジョルジョ・ディディ=ユベルマン『ヴィーナスを開く』古谷実『ヒミズ』1〜4
 坪内稔典『俳人漱石』 宮崎学『地下経済』中野美代子『あたまの漂流』
 村野学『次の時代のための吉本隆明の読み方』 関川夏央『「世界」とはいやなものである』 関川夏央『白樺たちの大正』
 若桑みどり『お姫様とジェンダー』 神田龍身『源氏物語=性の迷宮へ』 パトリック・モディアノ『八月の日曜日』
 車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』 武光誠+合戦研究会『合戦の日本地図』 岡井隆『旅のあとさき、詩歌のあれこれ』


ギルバート・アデア『閉じた本』(2003年9月25日発行・東京創元社 1500+税)は、ミステリー。ブッカー賞受賞作家ポールは自動車事故で顔にひどい怪我をして眼球も失い盲目の身で隠棲生活をしていた。事故から五年の歳月が流れ、ポールは回想録の口述筆記助手を新聞で募集し、訪れたジョンという青年を採用して、著作の作業にかかる。助手として同居人同然になったジョンは最初有能な助手の役割を果たすが、ポールはジョンの挙動にしだいに不審の念をつのらせていく。眼がみえない、という状態の不安や世界の不確定さを、ちょうど対象の省略や選択を通してしか情況を描写できない文章のもつ世界の不確定さに重ねるようにして紡いだミステリー小説。そういう文体の手際が読みどころで、ラストの急展開はもうひとひねりというところだった。著者は44年生まれの英国の作家・批評家で、邦訳された本に『ポストモダニストは二度ベルを鳴らす。』(映画批評)や、映画化もされた小説『ラブ&デス』があるという。新作『ドリーマーズ』もベルナルド・ベルトリッチ監督で映画化され、今秋日本でも公開とあるので、これは機会があれば見てみたい。



島本慈子『ルポ 解雇』(2003年10月21日発行・岩波新書 700+税)は、ルポルタージュ。「世界」に03年4月〜7月号に連載された稿に新稿を加え加筆、合わせて議事録の内容を付した本。03年6月に労働基準法改正案がひっそりと可決成立した。この法案は新しい解雇ルールへの道をひらくものだというのが、当時解雇について取材を進めていたという著者の見解(危機意識)で、本書の雑誌連載稿は法案成立の過程に時間的に重なっている。日本がアメリカ的な知識集約型の社会に変わることを余儀なくされている、という経営側のビジョンや要請という大きな潮流が背後にあることが、第五章の企業経営者へのインタヴューなどでおぼろげにわかるが、本書で驚いたのは不当解雇をめぐる数々の労働裁判の苛酷な実態だ。解雇理由として「過去に犯罪があったときいている」、と言われた場合、「犯罪がなかったこと」を証明することは困難で、法律の世界ではこれを「悪魔の証明」と呼んでいるという。本書には会社側にそういうでっちあげをされて、検察庁や警察署に問い合わせ「犯罪歴がない」という証明を貰おうとして「回答できない」と言われた人の、まるで不条理小説のようなケースも記載されている。



詩と詩論研究会編『金子みすゞ この愛に生きる』(2003年11月10日発行・勉誠出版 2500+税)は、評論と作品集。詩と詩論研究会のメンバーによる、金子みすゞの童謡についての作品評の他、関連する小説、詩、短歌なども収録されていて、執筆者は総勢17名。同じ出版社からでている『金子みすゞ 永遠の母性』『金子みすゞ 花と海と空の詩』に続く研究会編の評論シリーズの三冊目だ。金子みすゞについての関心は細々ながら持続していて、こういう研究書がでるとつい読んでみたくなる。いろんな人がいろんな角度から作品について書き綴っているので興味つきないが、いくつかの論を読んでいて作品の仮構性ということがちょっと気になった。書かれた作品の言葉をそのまま作者の心情=真情と受け取ってしまうと、作者と語り手の間の微妙な違いが見えてこない。もっともそういう違いを飛び越えて読んだ感動を直接語りたくなるのも、「みすゞワールド」ならではの魅力(魔力)というところなのかもしれない。



養老孟司『まともな人』(2003年10月25日発行・中公新書 700+税)は、エッセイ集。「中央公論」に連載中の「鎌倉傘張り日記」を単行本化した本で、シリーズ三冊目の本書には2001年1月号〜03年9月号までの掲載分が収録されている。月刊総合誌の連載ということもあり時評的な色彩が濃いのが特徴だ。この三年弱の間にどんなニュースが話題になったのだったか。小泉内閣の発足(01年4月)、ニューヨークのテロ事件(01年9月)、田中外相の更迭や鈴木議員の辞任(02年1~2月),小泉首相訪朝(02年9月)、イラク戦争(03年3~5月)と、それぞれ文中でとりあげられているので、著者の見解とつきあわせながら無常迅速に過ぎていった近過去を振り返ってみるのもいいと思う。イラク戦争について触れた「日本州にも大統領選挙を」というエッセイの中で、戦後もずっと「たった一人の戦争」を続けてきたと記す著者は、その敵はアメリカ(という実体)ではないが、と断ったうえで、「しかし私には戦う相手がある。それは半世紀以上前に、私の先輩たちが生命を賭けて戦った真の相手と同じものに違いない」と書いている。その真の相手とは何か、と、じっくり意を汲んで味わいたいエッセイだ。



山本夏彦『ひとことで言う』(2003年10月23日発行・新潮社 1400+税)は、箴言集。昭和五十四年から平成十四年の間に週刊新潮に連載された〈夏彦の写真コラム〉から新潮編集部が「ひとこと」を選び、その「ひとこと」が、どんな文脈で用いられたかという文章を抜粋の形で付け加えた本。〈夏彦の写真コラム〉という連載コラムは、これまでことごとく単行本化されて十一冊を数える。本書はその中から名文句を集めたアンソロジー。言葉をきりつめて、ひとことで言えることをひとことでいう。これがつぼにはまると無類な爽快感を生んだりするのは、脳がそもそもそういう好みをもっているからかもしれない。詩歌にももとよりそういうところがある。けれどこの著者の場合、伝えたいことはそのスタイル(言葉の美)にあるのではなくて、この本でいえば抜粋の文章にみられるような文脈(社会・文化批評)のほうにある。だから「ひとこと」はそのために創案されるキャッチコピーなのだが、その全体の破綻や韜晦のない一貫性、これはもう文は人なりとでもいうしかないような夏彦ワールドをつくっている。



山田稔『あ・ぷろぽ それはさておき』(2003年6月9日発行・平凡社 2200+税)は、エッセイ集。「月刊百科」と「京都新聞」にそれぞれ長期連載されたエッセイを中心に他に新聞雑誌などに掲載されたエッセイを収録した本。随筆とエッセイとはどう違うか、というのはまだなんとなく主観的に判別できるような気がしているのだが、さしずめこの本はその中間といった感じだ。山田風太郎があげた作家の老化の指標のひとつに、食物の話や庭に来る鳥の話などについての随筆を書き始めることというのがあるという(収録エッセイ「作家の老化」より)。それを「身辺雑記」にまで拡大すると「私(著者)もつとに実践しているところで、十分で納得できる。」、とあるのがおかしいが、こういうふうに、老作家が身辺雑記的随想を書きがちだ、ということにあえてユーモラスに自己言及してしまうところに著者の軽妙なスタンスがうかがえると思う。読みやすくてあたたかくて、こなれた文章。古本のことや、友人のこと、親しかった詩人天野忠のこと、飼っていた金魚のこと、住んでいる京都の散歩のこと、外国旅行のこと、話題はたしかに私的な「身辺雑記」なのだが、こういう風味のある短文はなかなか書けそうでかけないと思う。やはりかくされた文の力なのだなあと思いながら、なんどもくっくと笑いながら読んだ。



養老孟司『養老孟司の〈逆さメガネ〉』(2003年8月25日発行・PHP新書 1000+税)は、語りおろしの教育(試)論。実は語りおろしとはどこにも書いていないのだが、聴衆を前にして話すような文体が一貫していて、たぶんそういう講演原稿が本書のもとになっていると想像できそうな気がする。「逆さメガネ」というのは、かけると視野の上下が逆転して見えるような仕組みの心理実験用の道具のことで、教育について、子供について、また広くは自然や、身体や、自分自身について、私たちがふだん常識だと思いこんでいるような事柄を、いちど「逆さメガネ」をかけて眺めてみませんか、というのがこの本の問いかけだ。「逆さメガネ」をかけて見る、ということは、本書についていえば、著者が常々披瀝してきた人間の文化全般を「脳」の意識の所産ととらえ、その意識化の行き過ぎ(「自然」や「身体」を排除して作られてきた都市化・脳化された社会通念)に諸問題の根本的な原因がある、という立場から世界をとらえる、ということと別のことではない。ではどうすればいいのか、と読者が問うなら、そういう「解答」を求める問い方そのものが意識の「くせ」なのだと著者は答えるだろう。実はあなた自身の意識の「くせ」が「逆さめがね」をつくっているのだと著者は強調する。



福田和也『贅沢な読書』(2003年4月25日発行・光文社 1000+税)は、読書案内の本。あとがきに「本書は、読書論でもなければ、ブックガイドでもない」「むしろ私にとって本書は、快楽についての本であり、楽しみについての本であり、沈潜と観照のための一冊であり、何よりもそうした精神的営為のすべてを集めた状態としての、「贅沢」についての本なのです」とあるが、もちろんこれは「読書」についての構えや向き合い方を強調する著者ならではの言い方で、本書の内容はヘミングウェイの『移動祝祭日』、漱石の『明暗』、ゲーテの『イタリア紀行』といった「超一流」の文学作品を紹介しつつ、著者なりの読み筋や味わい方を、読みやすい講義録風の文体で明らかにするというもの。本に向き合う姿勢、その場の環境などが、あまりにないがしろにされていないか、という著者は、外国に行くときは、訪れる土地や都市に関連した文学書を必ず持っていくというし、自宅で夕食をとる時には、お酒を呑みながらだらだらと好きな古典を読むことを通例としているという(家族には不評というが、さもありなん)。文学作品の細部の襞にわけるような読み解きの合間に挟まれたこういうエピソードから、「享楽的な人間」を自認する著者の「贅沢な読書」の様子の片鱗が伝わってくる。



東雅夫編『ホラー・ジャパネスクを語る』(2003年6月5日発行・双葉社 1000+税)は、インタヴュー集。「幻想文学」誌の元編集長で「ホラー・ジャパネスク」という言葉の創案者でもある評論家の東雅夫氏が、宮部みゆき、津原泰水、岩井志麻子、福澤徹三、加門七海、京極夏彦といったホラー小説作家たちに、ホラー文学をめぐる読書体験などの話をきいた語りおろしのインタヴュー集。「ホラー・ジャパネスク」というのは、1993年頃から主に女性作家たちの主導によって顕著になった「日本固有の恐怖や神秘の世界に深く魅せられ、それを創作の糧として、新たなる「伝奇と神秘」の文学を生み出そうとする作家たちの動向」(「はじめに」より)をさすという。 齊藤美奈子さんの「L文学」みたいな命名というべきだろうか。私はあげられている作家や作品名の大半を知らなかったのだが、そういうことは今やホラー文学に限ったことではないので特に驚ろきはない(^^;。本書はそういう読者のためのブックガイドとしても、作家紹介としても、またホラー小説というジャンルをはなれた肩のこらない読み物としても楽しめると思う。読んでいて、ホラー小説作家になるべくしてなったという感じの人が多いのが面白い。



トーマス・グラヴィニチ『ドローへの愛』(2003年6月30日発行・晶文社 1400+税)は、小説。20世紀初頭のウィーン。この年、チェスの世界チャンピオンでドイツ人のエマーヌエール・ラスカーに、若きオーストリア人のマスター、カール・ハフナーが挑戦するという世界選手権試合(10番勝負)の話題が新聞誌面をにぎわせていた。前評判は帝王と呼ばれるラスカーに分があるが、ハフナーの得意技は絶対負けずにドローに持ち込むという鉄壁の守り。さてこの勝負の勝敗やいかに。この小説は、1972年生まれのオーストリア人作家のデビュー作という。当時実際に行われたチェスの世界選手権試合10番勝負の勝敗の推移を軸に、ときに主人公ハフナーのおいたちや親族の物語をフラッシュバックの手法で織り込んだ、味わいのある伝記的小説。英国ディリー・テレグラム紙の「1999年ベスト・ワン」の小説に選ばれたということで面白さは折り紙付きで、特にナボコフの『ディフェンス』に次ぐ稀少なチェスプレーヤーが主役の小説という感じだ。かたくなでチェス以外にはうまく生きられないハフナーの悲哀。帯文で将棋の羽生善治氏が「同じ棋士として心にしみた。」と書いている。



河合隼雄+中沢新一『仏教が好き!』(2003年8月30日発行・朝日新聞社 1400+税)は、対談集。「週刊朝日別冊小説トリッパー」(2001年冬季号〜2003年春季号)に掲載された「仏教への帰還」という連続対談を加筆して単行本とした本。本書は河合隼雄氏が宗教学者の中沢新一氏に仏教の講義を受けるというかたちをとっているが、こういう形式の対談を引き受けるにあたって中沢氏が決心したのは、従来の仏教概論のようなものではなく「アジアの思想的源泉近くに生えている」「「原仏教」という未知の植物」について語るということだったという(「あとがき」による)。講義といっても互いの知見を述べ合いながら膝をまじえた楽しい座談という雰囲気で終始するこの全五回の対話集の中で、中沢氏のいう「原仏教」(いわゆる「原始仏教」とは別物)のイメージは、それぞれの対談のテーマの底にそっとしずめられた形で伝わってくる。「幸福の黄色い袈裟」という章で語られる「幸福論」が特にその鍵のようで、現代の日本人にとって「幸福」のイメージがなぜしっくりこないのか、という切り口から「原仏教」的な「安心」や「楽」ということの意味を探っていく筋道は明快でとても刺激的だ。



乱真澄『女傑 1』(2003年9月1日発行・芳文社 552+税)は、長編コミック。主人公の北爪真音は18歳の高校生。かって「エデンの橋」という持ち歌で売れっ子になった演歌歌手の母親と二人で暮らしている。いまではさっぱりヒットのでない母親がやくざ組織の運営する金融業者に多額の借金をした関係で、さまざな苦難がこの母子にふりかかるが、そういう荒波をのりこえて、やがては少女真音が芸能界のドンと呼ばれるほどの女性になるまでが描かれるという大河漫画の第一巻。冒頭から真音が同級生に自分の穿いている下着を覗かせてお金を貰うシーンがでてくるが、そういう現代っ子がヒロインというところに特色がでている。それもそのはず、この漫画の原作者水内桜子とあるのは、東電OL殺人事件をテーマにした詩集『空室』の著者柴田千晶さんなのだった。青年(成年)向けコミック誌(「週刊漫画TIMS」)の連載ということで、いろんな制約があると思うが、たぶん現代の若い女性の直面する様々な問題が真音の成長や生き方に重ねて描かれていくことになるのだと思う。続きを楽しみにしたいシリーズ漫画の一冊だ。



シャーンドール・マーライ『灼熱』(2003年6月30日発行・集英社 4200+税)は、小説。ハンガリーの森に建つ古い貴族の城館。軍人として生涯を送り、今は老いた身でその屋敷に隠棲している「将軍」ヘンリクのもとに、若い頃の友コンラードが訪ねてくる。同じ士官学校を出て固い友情で結ばれていた二人だったが、41年前のある日、コンラードは突然理由も告げずヘンリクの前から失踪したのだった。ヘンリクは積年の謎の答えを旧友に問いかけるのだったが。「これは文学がまだ、なんのためらいもなく「文学」でいられた幸福な時代の作品である。」(訳者あとがき)というのが頷ける文芸の香り豊かな中編小説(1942年発表)だ。帯文で川本三郎氏がマンやヘッセとの類似をあげているのにも納得。作者は1930年代にはハンガリーを代表する作家とみなされていたが、戦後に亡命、長い亡命生活後に自殺、と数奇な人生を生きた人のようだ。本書が西欧各国でベストセラーになり、この再発見は「文学上の事件」といわれた、と、あとがきにある。



タイモン・スクリーチ『定信お見通し』(2003年9月30日発行・青土社 4200+税)は、江戸文化論。江戸時代、老中首座として「寛政の改革」を実行した松平定信に新しい光を当て、さまざまな歴史資料を駆使して彼のなした文化的な意味を探りつつ17世紀後半の日本の「天下」の姿を浮き彫りにする。本書には庭園、海岸線の地図、ガラス窓、パノラマ絵画などなど様々な当時の文化に関する興味深い事柄が具体的に紹介されているが、常に文化のヘリ(周縁)に目をこらしていたという松平定信という人物がそれらの関連を結びつけるような名前として置かれていて、文化(美術)論と人物評伝が渾然となったような味わいがじっくり楽しめる。特に第四章で円山応挙を中心に当時の絵画美術について詳細に論じられているのには圧倒された。江戸文化や日本美術の研究者で、ここまで書ける(面白く、という意味でも)ひとはそういないのではないだろうか。この本の呈示する新鮮な松平定信像をもとに、NHKの大河ドラマができたら絶対面白いと思うのだが。



齊藤環『OK?ひきこもりOK!』(2003年7月30日発行・マガジンハウス 1700+税)は、対談と評論集。第一部が、上野千鶴子、宮台真司、春日武彦、村瀬学、東浩紀氏と著者の対談(2000年以降各種雑誌に初出)、第二部が、時評集(新聞や著者のポータルサイトに初出)という構成。「思春期・青年期の精神病理、及び病跡学」が専門という精神科医である著者の、「ひきこもり」という現象をめぐって様々な分野の学者・研究者たちと交わした対談と関連する社会的な事件などについての時評を収録した本で、特に対談部分のそこここに著者の基本的な考え方が説かれていて、対話者と差異がきわだつ場面もあって興味深く読んだ。先日赤瀬川原平のエッセイ集『背水の陣』(日経BP社)を読んでいて、テレビである学者が「いわゆる引きこもりの人というのは日本全国で約百万人いると話していた」とあり、その学者とは誰なのか気になっていたのだが、冒頭の上野千鶴子氏との対談でこの著者のことだったと知った。百万人とは凄い(推定の)数字だが、「ひきこもり」状態に象徴される心理(への親和性)、というのはその規模をはるかに越えて社会に浸透しているのだと思う。



園田英弘『世界一周の誕生』(2003年7月20日発行・文春新書 1700+税)は、文明史の本。「グローバリズムの起源」というのが副題で、主に蒸気機関車や蒸気船、電信の発明に伴う、路線や航路の開発進展の具体的な検証を通して、「19世紀の中葉に成立した、「丸く」て「小さい」地球大の社会交流圏(グローバリゼーションの初期的な形成)の成立」のプロセスを探る、という内容だ。ジュール・ヴェルヌは『80日間世界一周』(1873)を『ブラッドショー大陸蒸気列車時刻表及び総合ガイド』という「時刻表」を見ながら書いたと言うが、そうした想像の旅行を現実にも可能にした、太平洋横断航路や大陸横断鉄道、スエズ運河の開通などの歴史が、豊富な資料や歴史文献に基づいて詳細に紹介されている。本書の主役はアメリカとイギリスで、西部開拓や日本への黒船到来等も含むアメリカの「西進」ということの背景に、イギリスとの国家ぐるみの激しい競争があったこと、その具体的な様相にも触れられている。



ジョルジョ・ディディ=ユベルマン『ヴィーナスを開く』(2002年6月20日発行・白水社 2800+税)は、美術評論。ボッティチェッリの絵画《ヴィーナスの誕生》にみられる美しい裸体の女神像の喚起するイメージの分析。著者は、そこに「エロスの豊饒さに向けた解放と、タナトスの残酷さによる裂開」(訳者あとがき)という二つの意味がみいだせる、という。「裸体」においては、「身体の表象と、フロイトのいう「掩蔽された接触」とが相克を繰り返している」(34ページ)とする著者は、《ヴィーナスの誕生》の裸像からは直接読みとれそうにもないこの後者のイメージについて、サドやバタイユを援用しながら、《ナスタージョ物語》(ボッティチェッリの連作板絵)の分析、スジーニの《医師たちのヴィーナス》(妊婦の解剖模型)の紹介と、ショッキングな驚きに満ちた「タナトスの残酷さ」をめぐる映像イメージの世界に読者を誘っていく。論旨もさることながら、挿入されている多数の図版にも驚かされる美術批評。



☆古谷実『ヒミズ』1〜4(第一巻2001年7月23日発行・講談社 各巻504~515)は、コミック。主人公の住田は中学3年生。両親は離婚し、貸しボート屋を営む母と二人暮らしだったが、その母親が男と蒸発してしまい、ひとり残された住田少年は生活費を稼ぐため学校に行かなくなっていた。クラスメートの正造や茶沢さんはそんな住田を気遣かい交流をたやさなかったが、とある日、住田は金をせびりに家を訪れた父に憎悪をこめてブロックをふりあげてしまう。。様々な形で時代(現代)の風圧を受けて生きる少年の犯罪とその後の絶望的な彷徨を描いた異色の青春コミック。ともかく現代の時代風俗と若い世代のその受感(不安やとまどいや先がみえてしまっている感じ)を瑞々しく呼吸している作品だ。宮台真司+宮崎哲也『ニッポン問題。』(インフォバーン)という対談集の中で両氏が絶賛していたので読んでみたが、たしかに面白く考えさせられる傑作で、読むと思わず宣伝したくなってしまうのがわかる。



坪内稔典『俳人漱石』(2002年5月20日発行・岩波新書 700+税)は、夏目漱石の俳句の世界を紹介した本。漱石の残した二千五百句を越えるという俳句の中から百句を選び、著者の坪内稔典氏と正岡子規と漱石当人との三人が架空の鼎談形式で評釈問答する、というのが破天荒な趣向。漱石や子規に長く親しんできたという著者の「夢の実現」であるというこの企て、「漱石や正岡子規がしゃべっていることがらは、言うまでもなく私の意見だが、彼らも実際このようにしゃべるに違いない、という確信に近い思いが私にはある」(あとがき)と書かれているだけあって、実に実際行われた鼎談のような臨場感に富んでいて楽しく読める。坪内氏が漱石の句を添削して、子規に同意を求めると、子規がそれを肯う、という個所(76ページ)など、ちょっとスリリングな味わいだ。俳句の世界では、こんなふうにすっきり句の善し悪しが言えるんだ、と一瞬はっとさせられるが、逆に坪内氏の俳句を漱石たちが読んで子規が「変な句だなあ。」と言う個所(207ページ)もある。この反応もいかにもありそうなので、ついでに鼎談の中で漱石や子規が坪内氏の俳句を添削するとどうなるのだろうと、訳の分からない事も考えさせられてしまうのだった。



宮崎学『地下経済』(2002年11月15日発行・青春出版社 1800+税)は、日本の地下経済についての書き下ろし。著者は「地下経済」とはいわゆる表の経済と切り離されているわけではなく、もともと経済活動とはそういうダーティな側面をあわせもつものだという。「フランチャイズという灰色商法」「あくどくたちまわる銀行」「公共事業の裏帳簿」「拡大していく警察利権」など目次の大見出し小見出しをひろってみると、大体どういう内容かわかると思うが、あこぎな商法やら無責任な企業体質やら官民の癒着構造の内実が具体的に解説されている。本書の特色は著者が「地下経済」を表の側にたって一方的に告発する、というのでなく、かといって外部から学者や評論家風に論評するのでもなく、ときには自らが「地下経済」に携わった体験を披瀝しながら具体例をあげて語っていることだろう。なかでも著者がゴルフ場を地上げするときに県議会のボスに5億を超えるカネをばらまいた話など、ここまで書いていいのかと思えるようなエピソードがおもしろくて説得力がある。「被害者シンドロームに陥らず、何だったら加害者になるぐらいのつもりで、この苛烈な経済社会の中で踏ん張っていただきたいと願っている」(まえがき)というのが、読者へのメッセージ。



中野美代子『あたまの漂流』(2003年6月26日発行・岩波書店 3400+税)は、エッセイ集。朝日新聞社のPR誌『一冊の本』に2000年10月号〜2002年9月号にかけて連載されたエッセーに加筆、図版などを加えた本。全体のテーマは「漂流」ということで、古今東西の漂流物語、航海記、さらには古代の伝承などから採られた興味深いエピソードが沢山紹介されている。出版社のPR誌掲載のエッセイを集めた本といっても、収録されている24編のエッセイそれぞれが趣向をこらした文章で質量ともに読み応えがある(巻末には多数の参考文献リストがついている)。著者は『西遊記』(岩波文庫)の翻訳(共訳)でも知られる人で、博物学的な知を自在に盛り込んだ随筆の書き手という感じの人だ。本書も孫悟空みたいに世界の歴史文化(古今東西の珍しいいろんな文献資料)をひとっとびというところがあって、ベッドでぱらぱら読むと時間がたちまち過ぎていく。



村瀬学『次の時代のための吉本隆明の読み方』(2003年4月17日発行・洋泉社 2200+税)は、インタヴュー形式の吉本隆明論。1999年夏、2002年正月に行われた佐藤幹夫氏による著者へのインタヴュー(『樹が陣営』に初出)をもとに「全面的に」手を入れてなった本と、あとがきにある。読みやすいインタヴュー形式を残しながら、改稿を重ね、内容は書き下ろしに近く整理されたという感じだろうか。インタヴューでは『マチウ書試論』からはじまり、『言語にとって美とはなにか』『心的現象論』『共同幻想論』『ハイイメージ論』など、吉本氏の主要著作について網羅的に触れられているが、本書の特徴は、そうした著書を他ならぬ村瀬氏が「どんなふうに」読んできたか、というところに重点がおかれているところだろう。冒頭に聞き手の佐藤氏の「村瀬さんは最初の著作である『初期心的現象の世界』(大和書房)以来、大変ユニークな着想のもとで、「いのち論」や子ども論を展開されてこられました」と紹介をかねた発言があるが、読者としても、やはりそうした優れた思索者としての村瀬氏ならではの読み解きが聞きたい、と思ってしまうわけで、読後の感想をいうと、本書はそういう読者の期待や興味におおいに応えるものになっているという感じがする。たとえば「地図(や座標を)をつくる人」としての吉本隆明、というのがひとつのユニークな入り口で、そこから吉本氏の諸著作に則しながら「地図」とは何か、「ものの見え方(見るものの位置)」とは何か、と興味深い問題領域に読者は誘われていくのだ。



関川夏央『「世界」とはいやなものである』(2003年7月30日発行・NHK出版 1700+税)は、エッセイ集。80年代末から2003年までの間に「中央公論」(2001年1月〜12月号連載)他、各種雑誌に書かれた「おもに東アジアに関する稿」(はじめに)が収録されている。なかでも、韓国、北朝鮮についての記載が多くを占め、政治や経済に関する時事的な話題も多くて、エッセイというより社会批評というほうが読んだ印象に近いかもしれない。三度の訪問をベースに北朝鮮を「カルト国家」と断じた四章や、著者が世話人として携わった三回にわたる「日韓文学シンポジウム」の報告と感想記、とりわけ韓国の徹底した「両班的精神文化」について触れた個所(三章)など、興味深く読んだ。その時々の多彩なテーマの記載のなかに本書の書かれた、ほぼ「16、7年間」の「東アジア世界」の変貌ということも感じさせられる。今や著者のライフワーク的な明治大正期(の近代文学)への考究・傾倒と本書のつながりについて、著者は「朝鮮への興味も中国への興味も、日本とは何か、日本近代とは何かということへの本質的な疑問から発し、それへの相対的視点を得るための試みであった。」(262頁)と書いている。



関川夏央『白樺たちの大正』(2003年6月30日発行・文藝春秋 2000+税)は、大正期の文学者評伝。98年から2002年にかけて「文学界」に途中一年あまりの休載を含みながら連載された作品を併せ、加筆再構成してなった本。雑誌連載時のタイトルが「窓外雨蕭々(武者小路実篤の「新しき村」と大正時代)」、「白樺たちの大正八年」だったというように、大正期に武者小路実篤が主導して始められた一種の芸術家コミューンの試み「新しき村」の消長を縦糸に、当時の社会背景やその運動に参加した多くの人々の記録を横糸にルポルタージュ風に編み上げた作品だ。簡潔な略歴の記載とともに本書に登場する人物(主に文学者)はカバーに挙げられているだけでも62名を数える。そうした人々の多様なエピソードが「プロジェクトX」みたいな淡々とした文体で「芋づる式」にくりだされるのを読むのは快感だ。「大衆化社会」といわれる現代社会の構造の基礎のようなものの多くは大正時代に生まれている。本書はそういう「現代」の創生期を窺い知るという興味も満たしてくれるが、やはり実篤をはじめ大正期の青年たちの想い描いた理想郷の具現化としての「新しき村」運動が、様々な困難や危機に直面しながら実際にどんなふうに運営・維持されていったか、という実情を克明に調査し、読みやすくまとめ上げたというところが本書のちょっと類のないところだと思う。



若桑みどり『お姫様とジェンダー』(2003年6月10日発行・ちくま新書 680+税)は、「ジェンダー学入門書」。著者の2001年から2002年にかけての川村学園女子大学でのジェンダー学の講義をもとにした本で、「白雪姫」「シンデレラ」「眠り姫」「「エバー・アフター」といったアニメや映画のプリンセス・ストーリーを見て、学生教師の双方で意見を述べあうという授業内容が、学生達の率直な感想文をまじえて、分かりやすくまとめられている。第一章「女子大でどうジェンダー学を教えるか」では、日本ではまだはじまったばかりという「ジェンダー学」についての基礎的な考え方の解説があり、それぞれの映像作品に即した二部以降は、若いひとたちがプリンセス・ストーリーを最初どんなふうに受けとっているのか、また背景の理解によってどんなふうに考え方に奥行きがでてくるか、という興味で読んでも楽しい。社会規範とは何か、ということは、生きているとどうしても対面する疑問で、「ジェンダー」(役割としての性)というとらえ方も、その理解にとても有力だ。

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☆神田龍身『源氏物語=性の迷宮へ』(2001年7月10日発行・講談社選書メチエ 1500+税)は、書き下ろしの評論。本書は源氏物語五四帖のうち、普通第三部に分類され続編とも言われる光源氏亡き後の世界を描いた「宇治十帖」に焦点を当てている。そういう本書の執筆の動機について著者は「確かに続編は、華麗な王朝絵巻の世界もドラマティカルな禁忌の恋もない。しかし、私にはこの続編が物語めいた派手さはないかもしれないが、正篇の方法論や世界観を全面否定してなされた、すぐれた野心的試みであったのではないかと思われるのである。」と書いている。「、、、薫と匂宮、大君と中の君の物語にあっては、異性愛と同性愛との境界域を疑い、性的結合を前提しない倒錯のなんたるかを追求している。また浮船物語では一転して、「女」をスケープゴートにして成立する社会の多形的な欲望構造を、流動的なコミュニケーション形態として現前させている。」と評する本書の内容については興味のあるひとに読んでいただければいいと思うが、「「源氏物語」のポストモダン」という表紙の言葉がそのまま当たっているという感じで、1000年まえの古典物語と「現代」批評の出会いを興味深く読んだ。



パトリック・モディアノ『八月の日曜日』(2003年8月1日発行・水声社 2200+税)は、小説。原作は86年に出版されている本で、訳者の堀江敏幸氏は、十七年まえの作品をあえて紹介した理由を、「いまだミステリ仕立ての筋書きを残していた八十年代の作品群にひとりの読者としてより強い愛着がある」からだと書いている。小説の冒頭、ニースの大通りの露天でコートを売っていた「彼」と「私」の目が合い、彼は私につきまとうようにして、しきりに「シルヴァアとは結婚していなかったんです」という。彼と私、シルヴィアという女性、彼らの関係や素性があかされるのは、しばらく後のことで、この出だしから読者は不透明な「ミステリ仕立て」の世界に投げ込まれることになる。訳者はラディゲの『肉体の悪魔』と本書との関連をあとがきで書いているが、引用個所など読んでなるほどと思いながら、もうひとつ実感がわかなかった。私にとって『肉体の悪魔』は、今や遙か彼方の青春の書という感じだからかもしれない。

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☆車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』(1999年1月10日発行・文藝春秋 1619+税)は、小説。「文学界」に平成八年から九年にかけての連載が初出。二十代の終わりに会社勤めをやめ、六年の間、旅館の下足番や、料理屋の下働き、お好み焼き屋や、酒場の店員など、職を転々として生きてきた生島(私)が、尼崎の焼鳥屋の下働きの職につくところから小説ははじまる。下働きといっても、ひとり薄暗いアパートの一室にこもって、日がな焼き鳥用のモツ肉を串にさす、という単調な仕事だ。小説では、そういう閉塞した日々の繰り返しの中で生じる「私」と隣人達との、やがてぬきさしならなくなっていく関係がこまやかに描かれている。4年前に出版され直木賞を受賞した小説だが、陰影のふかい情念に彩られた人物描写や心理描写がとても印象に残る作品で、ここで紹介しておきたくなった。この秋には荒戸源次郎監督作品の同名映画も封切りになるという。

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武光誠+合戦研究会『合戦の日本地図』(2002年6月20日発行・文春新書 790+税)は、歴史の解説書。日本の歴史(戦史)の中から代表的な20の合戦をとりあげて、史跡の紹介や戦場の地図付きで個別に解説をほどこした本。「これ一冊をよめば、合戦が日本史にはたした役割がすべてわかる」ことをめざした、と「はじめに」にあるように、地域別に章をわけて、合戦に至る背景からその具体的な戦術展開、戦略の分析など、コンパクトながら詳しい解説がある。古くは源平戦争から、新しくは明治初年の会津戦争や函館戦争に至るまで網羅されていて、読んでいて時空をとびこえる楽しさが味わえる、幾多の「戦記もの」の手軽だが手堅いダイジェスト版という感じだ。寝る前にすこしずつ読んで一週間くらいで読み終えた。一歩引いてみると戦国時代に組織的な兵農分離(分業化)が進み、一挙に近代的(近世的)な社会の下地ができた、というようなことも見て取れる。

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岡井隆『旅のあとさき、詩歌のあれこれ』(2003年7月20日発行・朝日新聞社 2800+税)は、歌集と詩歌論、エッセイをあわせた本。第一章「ウィーン、ミュンヘン---旅のあとさき」が小歌集(写真入り)、第二章「質問に答えて」が週刊朝日に連載されたそのつど編集者からの質問に答えるという型式の短歌をめぐるエッセイ集、第三章「口語律と文語律」が、詩歌に関する二つの論考と、講演一本、という構成になっている。それぞれ楽しんで読めるが、3章に収録されている「現代短歌と文語律と口語律」で、近代日本で最初の口語歌集といわれる青山霞村の『池塘集』(1906)を中心に、短歌における文語律、口語律の変遷が論じられているのと、講演『世紀末風詩歌談義』で、短歌と現代詩の関わりを論じているところ、いずれもこの著者ならではの幅広い視野からの興味深い考察だと思う。第二部の連載エッセイでは週刊誌掲載ということで文体がくだけているところもあり、「覚めてほしい/えつなめてほしいつて?/なめるなら総なめにせよ/なめるんぢやねえ」などという短歌が収録されている小歌集はもとより、内容的にも三種(章)三様の岡井ワールドが味わえる本になっている。

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