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走り書き「新刊」読書メモ(22)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(03.1.25~03.5.3)

 俵万智『百人一酒』 ビートたけし+ホーキング青山『日本の差法』 吉田知子『日本難民』
 津島佑子『快楽の本棚』 山本夏彦『最後の波の音』 吉本隆明『日々を味わう贅沢』
 藤沢モト『勝負師の妻』 安原顕『ファイナル・カウントダウン』 河合雅雄編『ふしぎの博物誌』
 岡崎二郎『緑の黙示録』 斎藤美奈子『趣味は読書』 斎藤時子『極道の女房』
 小林英樹『耳を切り取った男』 旭太郎作・大城のぼる画『火星探検』 草間彌生『無限の網』
 宮台真司『絶望から出発しよう』 レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』 養老孟司『手入れ文化と日本』
 日野啓三『書くことの秘儀』 花輪和一『刑務所の前 第一集』 吉本隆明『夏目漱石を読む』
 養老孟司『からだを読む』 岩明均『ヘウレーカ』 長田弘『本の話をしよう』
 粟津則雄『あなたへの手紙』 ル・クレジオ『黄金の魚』 寺村朋輝『死せる魂の幻想』
 多田智満子『犬隠しの庭』 谷口ジロー『天の鷹』 アレッサンドロ・・ジェレヴィーニ+よしもとばなな『イタリアンばなな』


俵万智『百人一酒』(2003年1月30日発行・文藝春秋 1524+税)は、エッセイ集。初出は2000年4月から2002年9月にかけて朝日新聞大阪版夕刊に長期連載されたエッセイで、そのうち108編が収録されている。酒をテーマにした体験的エッセイを新聞に連載すると、それを読んだ読者から新たに酒に関する情報やイベントの企画が寄せられる。そうした話題や体験をもとにまたエッセイが書き継がれる。珍奇な酒、高価な酒、酒と珍味を味わう数々の旅。。著者はバッカスの神に祝福されたような状況に置かれていて、酒好きならなんとも羨ましいかぎりというふうに思うだろう(私も思った(^^;)。このいささか情報消費文化の所産的特殊な酒浸り的状況を、著者は大いに楽しんでいて、ついには新宿のゴールデン街のバーでアルバイトをはじめてしまう。根っからのお酒大好き体質のひとのようだ。それでいてこれまで二日酔いになったことがない、というのも凄い。ところで「短歌でしりとり」というエッセイには、著者が歌人仲間と「歌ぐさり」という言葉遊びをしたときのことが書いてある。これはわば短歌のしりとりで、前の人の出した歌の第4句の最初の文字をつなげていくというもの。64句つないだところでお開きになったとあって、そういう素人には真似できそうもない歌人たちの遊びの紹介も面白かったが、同時にやはり著者は短歌のプロなのだなあと再認識。



ビートたけし+ホーキング青山『日本の差法』(2002年10月28日発行・新風舎 1300+税)は対談。「差法」という言葉は初めて知ったが、「差別や区別をするための法律や習慣」を意味する言葉だという。本書はコメディアンのビートたけしとホーキング青山氏が、この「日本の差法」をめぐるあれこれの話題についてにざっくばらんに放談したという感じの本だ。ホーキング青山というお笑いの人のことを本書で初めて知ったということもあるが、やはりビートたけしのしゃべりに独特の迫力があって面白く読んだ。世代の離れた二人の少年期の体験談を比較しながら読んでいると、確実に社会の障害者の囲い込みという不透明な流れが見えてくる。読者も自分の少年少女時代の体験をその時系列のどこかに置いてみると、ことはさらに明瞭になると思う。



吉田知子『日本難民』(2003年2月25日発行・新潮社 1700+税)は、小説。ごく近未来のある日、突然世界中の国が連合軍をつくって日本に攻め込んでくる。都市部の人々は取るものもとりあえず地方へと脱出するが、いきついた山間部でも、明日の知れない不安や飢餓への怯えに苦しめられる日々が待ち受けていた。この作品は夫と共にそういう異常事態になげこまれた主人公の中年女性が、さまざな過酷な耐久生活を強いられながら生き延びようと努力する姿を描いている。日本本土が戦場になるというSF小説的設定は、村上龍の『五分後の世界』に似ているが、この作品の特徴はそうした事態にいたる合理的な説明(日本が無信仰の国だというのが連合軍側の侵攻理由(たてまえ)とされている)よりも、「今の日本」に順応して生きているごく普通の人々が、ライフラインの崩壊した非常時にどんなふるまいをするか、という思考実験みたいなところに照明があてられているところだろう。文体にはどこか筒井康隆のブラックユーモア小説みたいに軽い調子がみられるのだが、そうした登場人物たちの今ふうの日常感覚と対面する非日常的現実の落差が、事態の異様さや深刻さをリアルに浮き彫りにしている。女性主人公が我慢して30年連れ添っていた夫の正体みたり、というところなども相当に怖い。



津島佑子『快楽の本棚』(2003年1月25日発行・中公新書 760+税)は、著者が自分の若い頃からの記憶に残る読書体験をふりかえりながら、その意味を再考した本。「言葉から自由になるための読書案内」と副題にはあるのだが、「書き終えてひとこと」という末尾の文章には、本書は著者が自分にとっての意味深かった本との出会いを語ったもので、いわゆる読むべき良書をあつめたような読書案内ではない、という意味のことが書かかれている。第一部では著者が幼年時代から中学時代に読んだ本、第二部に「性」や「時間」というテーマを扱った本が8節(『ベラミ』『好色一代男』『源氏物語』『チャタレー夫人の恋人』など)にわたって取り上げられているのをみても、その姿勢はあきらか。ひとは思春期にどんなとば口から本の世界にはいっていくのか、というとき、性への好奇心ということの意味はとても大きい。本書では、あまり表だって言われることのない、そういう読書体験の個人的な思い出やその事のもつ人性的な意味への考察が、誠実な自己省察とともに淡々と書かれて読み応えがあります。



山本夏彦『最後の波の音』(2003年3月15日発行・文藝春秋 1600+税)はエッセイ集。「文藝春秋」「諸君」に99年9月号〜02年11月号まで掲載された連載エッセイ「愚図の大いそがし」「笑わぬでもなし」から抜粋編集された本とある。著者のエッセイ、コラムはこれまで随分愛読してきたと思う。しかし月刊誌や週刊誌を買う習慣がないので、単行本になった本が新刊書の棚で目につかないとなかなか手にとる機会がない。著者が昨年10月に逝去されたのは新聞報道で知っていたが、そんなわけでこの本は久しぶりに書店店頭で購入した。どのエッセイも面白く、400頁を越えるかなり分厚い本だが2日がかりで読んでしまった。故田村隆一が、詩がわからないと言った泉英樹氏に、山本夏彦を朗読してくれ、これが詩だよ、行間だよ、と言ったという(本書より)。この行間の味わいと、内に道理をひめた意表をつく名文句が大きな魅力。こういう文章イコール人であるというような思いを自然に納得させてくれる技巧のコラムニストは滅多にいないと思う。著者が亡くなって時代に即した新しい名文句がもう読めなくなるのは寂しいが、未読の本を探したり、多数の著書をよみかえす楽しみは残る。本書にも「死んでなお読者があるのは、死んでいないのである。」とある。



吉本隆明『日々を味わう贅沢』(2003年2月15日発行・青春出版社 1400+税)はエッセイ集。「上野のれん会」の雑誌「うえの」や週刊誌に掲載された作品に書き下ろしを含め16編のエッセイと、3編の掌編小説が収録されている。上野谷中墓地のかたつむりの話や静養軒のビア・ガーデンから展望する忍ばずの池の夕景色の話など、おもに著者の住む地元上野界隈にまつわる好エッセイがならぶ。掌編小説とある3編のうち、「手の挿話」はエッセイと呼んでもいいような作品だと思うが、「坂の上、坂の下」という作品には、異なる話者の独白が転換していくようなところがあって、不思議なな味わいがある。作中に登場する「親戚のセーラー服姿の美少女」とは誰か、というようなことも近未来に吉本氏の研究者が特定するのかもしれないが、著者の分身のような男性を「平凡な古典研究者」としているところなどから、この生け花とお茶の先生になったという女性の挿話にもフィクションの衣が被せてあるような気がする。著者の掌編小説と銘打たれた作品というのは初めてだと思うが、思えば初期の「エリアンの手記」も現実の出来事を内面化したような散文詩だった。そういう試みがまたなされるとしたら興味深い。



藤沢モト『勝負師の妻』(2003年2月10日発行・角川書店 686+税)は囲碁棋士・藤沢秀行の奥さんの書いた半生記。藤沢秀行氏というのは囲碁ファンならずとも知ってる人も多いと思う有名棋士で、77年から連続6期棋聖タイトルを防衛保持、91年には66歳という高齢で王座戦のタイトルを獲得して話題になったりした人だ。また近年では99年に日本棋院を脱退して独自に低額で免状を発行するということをはじめ、日本棋院側から「除名、9段位も剥奪」という処置がとられたということも話題になった。本書は藤沢氏の奥さんが綴った夫婦生活五十年の記録。氏がギャンブルや酒好きだったというようなことは、長年のあいだになんとなく知ってる気になっていたが、よもやこれほどとは思わなかった。それにしてもここに描かれているのは、なんとも天衣無縫で破滅的な人物像だ。やはり軸はアルコール(依存症)なのだと思うが、ルールのある「囲碁」ゲームということと、(実体化された)ルールからみると、ルールがそのつど相互規定性できまるような現実との落差ということに、どうにも慣れることができない人の精神というようなことを考えてしまう。藤沢氏には『碁打秀行』という自伝もあるようだが、この本はたぶん妻の側から書かれた夏目鏡子の「漱石の思い出」のようなところがあると思う。



安原顕『ファイナル・カウントダウン』(2003年1月26日発行・清流社 1600+税)は日記。オンライン書店「bk1]に連載された「文芸サイト編集長日記」(2002年8月〜12月)を単行本化したもの。日記といってもそういう性質上、ほとんど読書や音楽関連の記述が中心で、毎日毎日、原稿を書き音楽を聞き読書に没頭するという文芸批評家の暮らしぶりが伝わってくる。著者は2000年に肺ガンであることを告知され、手術も抗ガン剤治療も拒否して仕事に従事していたが、昨年両肩の激痛にみまわれ、診察を受けたところ、癌が顎下のリンパに転移、余命一ヶ月といわれる。その経緯をサイト上の日記で公表したところ、それを知った旧友からの「友情」で本書の出版という運びになったとあとがきにあり、本書はそうした経緯の記述を含む入院直前(2002年11月28日)までの日記。激痛におそわれ腕力もなくなり、それでも軽く握ったボールペンの先でワープロのキーをうち続ける。「余命ある限り自宅で仕事をしたいので、とりあえず部屋に酸素ボンベを設置してもらう」(10月29日)と、なんとも凄い、というのが印象だ。「海」や「マリ・クレール」「リテレール」などの編集者、編集長をつとめ、「歯に衣をきせぬ辛口批評」が自身の身を切るような読者サービスでもあったような「スーパーエディター」だったと思う。本書はヤスケンの遺書になるかもしれないと、友人が教えてくれた本。著者が亡くなったのはその直後(今年1月20日肺癌のため)だった。



河合雅雄編『ふしぎの博物誌』(2003年1月25日発行・中公新書 740+税)は科学エッセイ集。1992年に開設されたという「兵庫県立人と自然の博物館」(略称「ひとはく」)なる自然史博物館があり、研究部と資料収蔵庫を充実させた本格的な博物館をめざしている、という解説があとがきにある。その研究員は37名とあり、本書の執筆者20名はすべてその構成メンバー。ということで、それぞれ専門の違う第一線の博物館研究員(とはいえ、ほとんどの人が愛媛工業大学の教授、助教授を兼務)の方々の、動物、植物、鉱石、化石についての、バラエティに富んだ32編の科学エッセイが楽しめる本。中には専門的すぎるというか、素人にはそっけなく思えてしまう小論文みたいなものもあるが、うさぎの糞食について、昆虫の足がなぜ6本かという疑問ついて、アリとアブラムシの「共生」について、森(の落とす落葉)と川の関係について、毒を巧妙につかう植物について、ダイヤモンドのできかたについてのエッセイなどなど、印象に残ったものを思い出しながらあげてみても数多い。



岡崎二郎『緑の黙示録』(2003年1月25日発行・中公新書 740+税)はコミック。01年から03年にかけて月刊アフタヌーン誌に四回にわたって掲載された作品「ウパス」「ケヤキ」「ブナ」「サクラ」の4話からなる。主人公は樹木と話ができる(超)能力をもつ高校生美由で、彼女はストーリーが進むと樹木についての勉強をするために大学に進学していく。つまり、高校生や大学生としての美由が遭遇する樹木がらみのさまざまな事件がそれぞれの話におりこまれているという内容。偶然読んだばかりだった河合雅雄編『ふしぎの博物誌』に「毒を巧妙に使う植物」というエッセイが収録されていて、そこにはクスノキ科の植物が動物からの被食を逃れるために放出する化学物質についての記述がある。その話が、このコミックの、植物が化学物質を放出して人間と敵対するというやや特殊にも思えるテーマにぴったり重なるので、おおいに驚いたのだが、こういうことがたまにあるので恣意的な読書も面白い。植物のだす化学物質やそれを利用する動物との「共進化」といったことについては、まだ謎が多いらしいが、それにしても「植物が含む毒を最も巧妙に利用しているのは人間であろう。」(藤井俊夫「毒を巧妙に使う植物」)とは、さもありなんと。



斎藤美奈子『趣味は読書』(2003年1月15日発行・平凡社 1429+税)は書評集。99年7月から02年10月まで平凡社のリトルマガジン「月刊百科」に「百万人の読書」というタイトルで連載された文章に、書き下ろし一編を加えた全41編の書評が収録されている。もともと、気にはなるが、買ってまで読まないという読者のために、当代のベストセラー本を読んで感想を書くというコンセプトで企画連載されたというのが面白い。この「読書メモ」も、主に図書館の新刊コーナーや書店の新刊書売り場で目についた本を選んで読んだ感想を書いているので、どのくらい重なるかという興味で数えてみたら、感想を書いた本が六册含まれていた。これは多いのか少ないのか。ともあれ、この本は、ここ三年くらいの間に出版されたベストセラー本の内容を知るにはとても便利。そういう本だったのか、と思うもの多々あり。けれど買ってまで読んでみたいと思った本は、これは意外と少ない(^^;。著者の「善良な読者」と「邪悪な読者」とか、世代別の読者層を分別した読者論も辛口の本音がこもっていて面白く読ませる。



斎藤時子『極道の女房』(2002年9月19日発行・講談社 1600+税)は自伝。1946年に会津で従業員100人を越す漆塗りの会社を経営していた一家の3人兄妹の末っ子として生まれた著者は、いわゆるお嬢様育ち。20歳のころに(60年代はじめ)には親に買ってもらったマイカーを運転していたという。ところが、ちょっとしたこの車のトラブルがきっかけでハンサムな青年と知り合い、結婚という運びになったが、レストランを経営しているというこの青年が、実は暴力団幹部だったと結婚後はじめて知ったというのだから人生わからない。本書は、「「極道幹部の女」だから語れる「やくざ稼業」の内幕話」(帯の言葉)。結婚後数十年に及ぶ半生の体験談が綴られていて、とても興味深く読んだ。賭博やノミ屋、用心棒代などの収入の話、スリリングな警察のガサ入れや、悲惨な覚醒剤にまつわる話、子育てのエピソードなど、体験記だけにリアルそのもの。何人かの住み込みの子分をかかえる地方の暴力団幹部一家の生活のなりわいが、実質的に生活を支えやりくりしてきた「あねさん」主婦の側から客観性をもって書かれていて、芯のある文章から滲んでくる著者の人柄の気丈さや率直さにも好感がもてる。



小林英樹『耳を切り取った男』(2002年7月25日発行・NHK出版 1600+税)はノンフィクション・ノベル。アルル時代の画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが自分の片耳の下半分を切り取り、親しかった娼婦に届けたという有名な話があるが、本書は、その奇怪な行為の謎にせまった本で、当時ゴッホと同居していたゴーギャンとの心理的葛藤を小説的な対話描写で肉付けして想像的に再現してゆく。本書を書き終えて「(耳を切り落とした)本当の気持ちなどわかるはずがない」、という地点にたどりついたと著者は書いているが、この「永遠の謎」に肉薄しようとした本書の試みは、いわゆるゴーギャン経由で成立した定説的な解釈の道筋をいくつか覆してくれる個所もあり、とても面白く読んだ。アルル時代に二人によってかかれた絵画をつぶさに比較検討して論じていく個所など、美術批評としても読み応え充分で、作品論、作家論的な色彩も濃い充実した内容になっている。ゴーギャンの「向日葵を描くゴッホ」という絵画が鍵になっているが、この作品にこめられたゴッホへの「悪意」は見た人は誰しも気になるところだと思う。



旭太郎作・大城のぼる画『火星探検』(2003年1月20日発行・透土社 2000+税)はコミック。1940年(昭和15年)に中村書店から「ナカムラ繪叢書」の一冊として発行されたマンガ『火星探検』は、当時の子供読者たち(後の手塚治虫や小松左京氏など)に強い印象をあたえた、日本のSF マンガの原点といえるような作品だという。本書はその復刻普及本で、原作漫画のほか、小松左京、松本零士氏の対談をはじめ、合わせて何人もの評者の文章も収録されている。天文学者星野博士の息子テン太郎が犬のピチクンと猫のニャンコとともに火星に行って奇想天外な冒険をするというストーリーで「品のよさ、科学的情報の先進性、楽しさあふれる物語ー1940年ころにこんな素晴らしい漫画は世界のどこにもなかったはずだ」(小松左京)」という帯の評がうなずける。当時の科学知識をもりこんだSF漫画としても面白いが、とりわけ楽しいのは、いかにも時代を感じさせる生き生きしたふきだしのセリフのセンスのよさで、それが大城のぼるのまるっこい絵柄にとてもあっている(とくに猫のニャンコが可愛い)。それもそのはずというか、作者の旭太郎とは別名詩人の小熊英雄だということで、これも驚きだった。



草間彌生『無限の網』(2002年4月15日発行・作品社 1600+税)は自伝。1929年長野県松本で生まれた著者は画家を志して28歳で渡米、巨大な平面作品の制作から彫刻に転じ、60年代にはボディ・ペインティングや反戦活動、またいわゆる多様な「ハプニング」の仕掛け人としても知られる。ニューヨークを中心に17年にわたる芸術活動をへて73年に神経症の療養のために帰国、その後も壁画制作や映画出演など旺盛な活動を続けていて、10册を越える小説も発表している。98年から99年にかけてはロサンゼルス、ニューヨーク、東京と巡回する「大回顧展」が開かれ、テレビで紹介されたりしたこともあり、近年ではこの特異な前衛作家について、日本でも広く知られるようになってきた感じがする。本書はその生い立ちから多彩な芸術活動の軌跡、私生活的エピソードなども含めて自らの半生を回顧した自伝。この人、どんな人なんだろう、という興味にかられていた芸術家のひとりで、読むと平明率直で奇をてらうところなど微塵もないのが印象的だ。これは著者がかかえ、克服してきたものの大きさゆえの境地なのかもしれない。



宮台真司『絶望から出発しよう』(2003年2月5日発行・ウェイツ 750+税)はインタヴュー。記載がないがたぶん編集者が社会学者の宮台氏に質問し、その応答のかたちで社会の諸問題についての見解を披瀝した本。「「まったり革命」その後」「市民エリートを育てよう」「アジア主義の顛末に学ぶ」「絶望の深さを知れ」という4つの章にわけられていて、前半ではこれまでの著作活動を振りかえりつつその問題点を整理し、後半では社会システムを「アジア主義」との関連から捉え直すという流れになっている。前半の援助交際をする女子学生についてのフィールドワークをベースにした自著の解説部分がやはり説得力がありかつ興味深い。こういうことを身を呈する感じでした社会学の研究者というのは、たぶん画期的で空前絶後かもしれない(本書でも後続の研究者がでないことが嘆かれている)。本書を読むと、あくまでも実効性のある「表現」(著者は、相手を動機づける「表現」と、ただの自己満足のような「表出」とを区別している)を求めるという著者の姿勢が、その後の政治家を対象としたロビー活動の重視にもつながっていく道筋というのが見えてくるという感じがする。



レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』(2002年9月19日発行・マガジンハウス 1600+税)は短編小説集。「安全のために」一方が一方の目をつぶし一方が耳を聞こえなくした、というなんとも破天荒なカップルの心理のひだを描いた表題作ほか、7編の短編小説が収録されている。1956年生まれの著者は「レッテル的にはレズビアン作家」(あとがき)とされているらしい。「幻想的な愛の小説集」とあるように、標題作をはじめ「結婚の悦び」「ナポレオンの死」「悲しみ」など、愛憎のからむ関係心理を象徴化したような作品がいくつか収録されているが、少女時代から「カウガール」に憧れて育った女性を描いた「アニー」(懐かしいテレビドラマ「アニーよ銃を取れ」のアニー!)や、エイズで死んでいく友人を看取る女性を描いた「よき友」など、どこか素朴な真情が伝わってくる作品も印象的で、あとがきにもあるように象徴的な物語をつくりあげる才能と現実を写しとる目を両方兼ね備えた作家という感じだった。



養老孟司『手入れ文化と日本』(2002年11月30日発行・白日社 1600+税)は講演集。90年代後半に大学や教員研修会その他で行われた講演8回分が収録されていて、『脳と自然と日本』(白日社)につぐ講演集の第二弾。図書館の新刊書のコーナーで目についたらだいたい手に取って借りてしまう著者の本というのがあって、この著者のものもそのひとつ。既成の間尺に囚われずに独自にものを考えることの面白さが伝わってきていつも裏切られるということがない。独自にといってもその背景には脳や人体の解剖学という専門分野があって、そういう研究から汲み取った考察と一般的なものの考え方を切り結ぶとどういうことが言えるかというところがいつも新鮮なのだ。脳のブローカー野(ブローカーの運動言語中枢)が損傷を受けると人は言葉をしゃべれなくなる。けれどそういう人が人のあとについて童謡を歌えるのはなぜか。歌詞は言葉ではないからだ、と著者はいう(詳しくは本書を(^^;)。



日野啓三『書くことの秘儀』(2003年11月30日発行・集英社 1785+税)はエッセイ集。1999年「すばる」の3月〜12月号に掲載された「小説をめぐるフーガ(1)〜(8)」という連載エッセイをまとめた本で、帯にゴチック体の「遺作」という文字がひきたっている(著者は02年10月14日逝去)。二年かけた長編小説を書き終えた時点で、小説とは何かを考えるために一年ほどエッセイを書く、そういう宣言が「はじめに」という文に記されている。そこで「小説・文学論」という帯の言葉にも重なるのだが、本書の内容はというと、著者の思索の根源にふれるような関心事について多面的に書き記したという感じの文章がならび、体系的な「小説論」や「文学論」を想像するとすこし印象がずれるように思う。「忘却の川」「前世の記憶」「初めに怖れがあった」「森の中で」「人間に成る」「呪術的儀式」「神話的思考」「歴史の裂け目」と各章の副題を書き連ねてみると、晩年の著者の関心が、人間の原始的な心性のあり方に大きく惹きつけられていたのが判る。もっとも、そうした人間の精神の根源性についての知的な関心が著者の生涯の文学的テーマでもあり続けたという意味では、本書は文学と精神の探求を重ねるように生きた稀有な作家の「遺作文学論」(帯のことば)といえるのだろう。



花輪和一『刑務所の前 第一集』(2003年1月1日発行・小学館 1800+税)はコミック。前作『刑務所の中』は話題になりこのメモでもとりあげたが、その続編というか、2001年5月から「ビッグコミック増刊号」に隔月連載された新シリーズ8編をまとめた単行本。著者が改造拳銃の不法所持で摘発され刑務所に服役した体験が前作で描かれていたが、このシリーズは、その前段、著者がいかにして改造拳銃を入手保持するに到ったかを書くようにとの編集者からの注文に応じたものであることが最初に明かされている。もっとも内容は種子島を製造する鍛冶屋の父をもつ鉄砲好きなひとり娘の不思議体験を描いた「時代劇」(『護法童子』(86年)などの流れの著者本来の(^^;おどろおどろしい時代物世界の雰囲気がある)がメインで、そのストーリーの合間に、著者がひろってきたぼろぼろに錆びた米軍の拳銃をマニアックに修復改造していく経緯の描写が挟まれるという、凝ったものになっている(^^;。



吉本隆明『夏目漱石を読む』(2002年11月25日発行・筑摩書房 1800+税)は文芸批評。90年から93年にかけて紀伊国屋ホールやよみうりホール行われた漱石に関する4つの講演がベースになっていて、弓立社刊行の『吉本隆明全講演ライブ集』の第二巻、第三巻に別冊として収録された文章を一冊の単行本にまとめたもの。4つの章に振り分けられた講演録は内容的に重複することなく、全体で初期から晩年にいたる漱石の小説作品全般を網羅するように構成されている。『吉本隆明全講演ライブ集』は偶然第一巻を買ったところで保留したままになっていたので、本書はちょうどタイミングよく読めた。これでライブ集はいずれさる人(借りにS氏としておく)から借りよう、という思いが深まった(^^;。生涯何度も漱石を通読してきた文芸批評家の、60代後半の時点での再読、ということがたぶんこの講演集の背景にあり、そういう時間の堆積が感じられる細かな読解が読みどころ。もちろん読めばわかるが、それは専門研究者が重箱の隅をつつく、という感じでは全然ない。漱石は三角関係を生涯作品のテーマとしてとりあげたが、西欧の姦通小説とは異なり、その3人の当事者たちが親密で、とりわけ男性間には同性愛的な無意識の感情があるという指摘をはじめ、随所でたちどまった。



養老孟司『からだを読む』(2002年9月20日発行・ちくま新書 680+税)は医学エッセイ。ひとは自分のからだのことを良く知らない。口からはじまり肛門に到るまで、人体内部について検討してみよう、として書かれた本書は、ちょっと解剖学の教科書副読本(読んだことはないが)みたいなところがある。図版いりで分かりやすくいろんな臓器の形態や機能についての解説がされているのだが、それでも専門用語が沢山でてくるのは覚悟しなくてはならない。専門用語というのは、背後にいろんな関連をもっているので言葉だけ知ってもその意味を理解するというところまでなかなかいかないのでやっかいなのだ。けれどそういうネックも著者の柔軟な文体がたくみに包み込んでくれるという感じの本だ。人間は世界のあらゆる事象に言葉をつけて、最後にのこったのが、人体内部のミクロコスモスで、これをやったのが解剖学だったとか、動物の形態の外部は大きく異なるが、内部の形態があまりかわらないのは、外部の形が信号機能(生殖のからむ)をもつのに対して内部はいわゆる「機能」しかもたないからだ、というような独特のきれあじの見解も随所に。



岩明均『ヘウレーカ』(2002年12月24日発行・白泉社 552+税)はコミック。時代は紀元前216年のイタリア半島。ハンニバル将軍率いるカルタゴの軍勢が「カンネーの戦い」でローマ軍を撃破したのを受けて、これまでローマ支配を受け入れていた諸国にも動揺が走る。シチリア島のシラクサ市も、さっそくカルタゴと手を結んだので、ローマ軍からの攻撃をうけることになった。この漫画は、当時シラクサに逗留していたダミッポスというスパルタ人青年とローマ人貴族の娘クラウディア、老いた哲人アルキメデスといった人々のエピソードをからませながら、アルキメデスが考案した奇抜な兵器の登場するシラクサ攻防戦を描いた歴史コミック。たとえば膨大な西欧の歴史のなかから、どういう興味からこのローマ時代の戦史の一駒をとりあげて作品にしたかったのだろうか、とつい作者に聞いてみたいような気がするが、理由のよくわからない着眼が新鮮だ(^^;。もしかすると、凶器によって人体がすぱっと切れたり、人体に穴がぼこっと空いたりという(人=もの、みたいな)描写に、この作家はなにかこだわりがあるのかもしれない。人物の動きも表情もどこか線が硬くて謎めいたうつろさがあって、その不安な感じが『寄生獣』以来のこの作家の大きな魅力だ。



長田弘『本の話をしよう』(2002年9月5日発行・晶文社 1200+税)は対談集。正式な本の著者名は「長田弘+江國香織・池田香代子・里中満智子・落合恵子」と、プラスのあとに小文字で本書に収録されている対談相手の方の名前も入っているのだが、あまりに長くなるし、最初と最後には長田弘氏へのインタヴューが収録されていることもあり、晶文社の「長田弘の本」シリーズの一冊ということで、略させてもらった。長田氏と4人の女性との絵本や童話、物語やマンガについてのあれこれの爽やかな語らい。「エッセイスト」、「翻訳家」、「漫画家」などと固定した肩書きでいうのが、あまりそぐわないように対話者の皆さんそれぞれ横断的にいろんなことをされていて、それはもちろん当の「詩人」長田弘氏についてもそうなのだという感触をもつ。しかし「本」がその中心にあるというのは変わらない。「、、、自分の目の前にあってたまたま見たものが自分にとって面白いかどうかを、そのつど判断してゆくということ、それが読書の力だろうと思う。ですから探すのに苦労するということは全然なくて、むしろ本屋に入って行ったときに最初には思わなかった本を買って出てくるという無原則が原則です。」(p143)。本屋に行くと読む本がない、とよく言われるが、という前段を受けての長田氏の発言の一節。たぶん似たような無原則の原則を私も図書館の新刊コーナーで隔週やっているので心強い(^^;。



粟津則雄『あなたへの手紙』(2002年6月1日初版第一刷発行・思潮社)は、書簡形式の批評文集。著者の書簡体の批評文の集成ともいうべき本で、1970年代に発表されたものを中心に、書き下ろしの前文「手紙についての手紙」他、16編の「手紙」と「日記から」という文章が収録されている。読者という存在がなんともあいまいで希薄になり、それと共にいつのまにか自分の内部もまた無表情で抽象的なものに変わっていく、そういう危惧に促されて、架空の読者を設定し、その相手と自分との間に「出来るだけ濃密な、だが開かれた内的ドラマを作りあげようとした」(「手紙についての手紙」)と、著者はこうした書簡体の批評文を長い年月折にふれて書いてきた理由を述べている。本書でおりおりに架空の相手とされているのは、女友達だったり、詩人や画家、作曲家、オペラ歌手、小説家だったりするのだが、なんといえばいいか、読後の印象はやや複雑だ。書簡体の批評文の持つ特殊な時代や状況の限定性の魅力のようなものが、こうして時代を隔て対象(宛先人)を別にして集められたものを読むと薄らいで感じられてしまうのを、どうすることもできないからだ。小林秀雄や鮎川信夫の書簡体批評にしても確かに「濃密な」ドラマ性みたいなものを纏っていた気がするが、それはやはり特有の時代との結びつきと無関係ではないだろう。時代をへて読む書簡体の批評は古い手紙に似て、変わってしまった時代の表情について気づかせてくれるようなところがある。



ル・クレジオ『黄金の魚』(2003年2月10日発行・北冬舎 2200+税)は小説。最初の舞台はモロッコ。幼い頃袋詰めにされて誘拐され、売り飛ばされた少女。彼女を買ったのは一人住まいの老婆ラッラ・アスーマで、そこで少女はライラという名前を与えられ、日々の雑役をさせられる代わりに、先生と呼ぶラッラ・アスーマから、読み書きの手ほどきやさまざまな教育を受けて育つ。10代半ばのころ、アスーマが亡くなったのをきっかけに、ライラはアスーマの親族のもとから逃れてその家を飛び出し、はじめて外の世界に旅立つのだった。。。身よりのない少女ライラが、放浪する先々でさまざまな人々との出会いと別れを繰り返しながら、たくましく生き抜いていく姿を描いた少女の成長と冒険の物語。ライラの旅の舞台はモロッコからフランス、アメリカに到るが、どの場所でも人と具体性のある情景描写とがからみあい、ぐいぐいと読むものをひきこんでいく。特にパリ時代が生き生きとしている感じだ。時代は70年代から90年代のことで、ライラの遭遇するさまざまな貧富の体験を通して、作者の「現実」に対する批評精神も届いてくる。話すように書きたい、という原作者の意向を、読みやすい話体で再現した村野美優さんの訳文も楽しい。97年刊行直後フランスでベストセラー第一位になったという本。若い女性におすすめたいなあ。



寺村朋輝『死せる魂の幻想』(2002年12月5日発行・講談社 1500+税)は小説。祖母の住むアパートに同居しながら都会の大学に通う千秋は、同じアパートの住人でいつも祖母にパンを届けてくれる春菜という女性に好意を感じはじめていた。そんなとき、千秋は幼なじみで同じ大学に通う恭一に、春菜の働くスーパーの店内でばったりであう。恭一に淡い恋心を抱きはじめていた千秋は思いがけない出会いを喜ぶが、やがて春菜と恭一が二人きりで話をしているのを見かけてから二人の仲を疑うようになる。。。と書くと女子大学生の恋愛小説みたいだが、女性主人公の行動心理を描きながら味わいは全く違う。なんというか曰く言い難い不透明感に世界全体が覆われていて、誰も彼もが深い影のような存在なのだ。ときに泥絵の具で書かれ、ときに精密なエッチングで描かれたみたいな心理描写もあるが、この全体を覆う暗い抑圧のような力の感じはなんなんだろう。「第四十五回群像新人賞受賞作」。

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多田智満子『犬隠しの庭』(2002年10月9日発行・平凡社 1800+税)はエッセイ集。新聞や文芸誌の他、「銀座百点」や「大法輪」といった諸誌に初出のエッセイ数十編からなる。老いた愛犬の不思議な死の顛末を描いた冒頭の表題作ほか、味わい深い好エッセイが並んでいる。集中、著者にしか書けないと思わせるのはやはり「百足退治いろいろ」(これは傑作)や「牡丹狂い」など、著者の博覧強記ぶりが融通無碍という感じで伝わってくる長編エッセイかもしれないが、あふれる知性をやさしい情感やユーモアでくるみこんだような短いエッセイの味わいもすてがたい。本書を図書館で借りて半ばまで読みすすんでいた時、さる詩の朗読会の会場で著者が亡くなられたことを知った。あとでネットで調べたら朗読会の前々日のこととわかった。収録エッセイの中で一番新しい「百足退治いろいろ」(昨年7月に「すばる」に初出)に死の影はない。惜しんでも余りあるが、本書には死の不可知性についての著者の明晰な言葉が記されている。「生者の主観にとっては、アキレウスが亀に追いつかないというゼノンの逆説の通りに、人はいつまでたっても死に到達しない。」「人はつねに道の半ばで斃れるのである。」(「終点までの距離」)

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谷口ジロー『天の鷹』(2002年10月28日発行・双葉社 1143+税)はコミック。17世紀後半のアメリカの西部開拓時代は、日本では幕末から明治にかけての動乱期と重なっている。会津戊辰の戦争で敗れた元会津藩士の二人の男が渡米し、ワイオミングの山中で金鉱の採掘に身を転じていたが、そんな二人がとあるきっかけでオグララ・スー族の戦士クレイジー・ホースと出会い、彼等の部族とともに、合衆国政府と結ばれているはずの条約を無視して彼等の土地に侵入してくる白人たちとの闘いの日々に明け暮れるようになる、という異色のウェスタン漫画(初出は2001年1月から2002年7月にかけて「WEEKLY漫画アクション」に10回にわたって連載)。端正な絵柄で、史実をベースにしたストーリーの流れが抵抗なく楽しめる。いい映画や小説を読み終えた時のような充実感が、漫画で味わえる一冊だ。

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アレッサンドロ・・ジェレヴィーニ+よしもとばなな『イタリアンばなな』(2002年11月10日発行・NHK出版生活新書 680+税)は複合的「ばなな」本とでもいうべき本。第一部「言葉と言葉のハネムーン」がジェレヴィーニ氏とばなな氏との対談、第二部「アレちゃんと私とイタリア」には、ばなな氏のエッセイ6編が収録され、第3部「よしもとばななの原点を読み解くキーワード「家族」「食」「身体」」は、ジェレヴィーニ氏によるばなな氏の小説についての本格的な作品論(著者はエッセイと書いているが)というバラエティにとんだ構成になっていて、巻末にばなな氏のエッセイ「クリスマスの思い出」のイタリア語訳も収録されている。作家とその作品の専属的な翻訳者の共著で、二人の交流記録も語られていて、信頼関係を基礎にした温かい言葉のやりとりが楽しめる本だ。ばなな作品はイタリアで250万部売れ、2002年の10月の時点で世界34カ国で翻訳・重訳されているという。そうした背景になにがあるのか、あったのか。イタリアの文化や生活事情もほのかに伝わってくる。

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