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走り書き「新刊」読書メモ(19)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(01.12.8~02.3.19)

 阿川弘之+北杜夫『酔生夢死か、起死回生か』 高野文子『黄色い本』 日高敏隆『春の数えかた』
 平出隆『猫の客』 岡田哲『ラーメンの誕生』 中沢新一『人類最古の哲学』
 監修・徳永貴久『どんどん目が良くなるマジカル・アイ』 中島義道『生きにくい......私は哲学病』 天沢退二郎『謎解き・風の又三郎』
 谷川俊太郎『風穴をあける』 綿矢りさ『インストール』 速水融『歴史人口学で見た日本』
 ロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』 谷川俊太郎『ひとり暮らし』 田口ランディ『転生』
 吉本隆明『読書の方法』 上野千鶴子対談集『ラディカルに語れば...』 四方田犬彦『ソウルの風景』
 ロジェ・グルニエ『ユリシーズの涙』 河野多恵子『半所有者』 矢崎節夫『童謡詩人 金子みすゞの生涯』
 中野翠『千円贅沢』 ピーター・ミルワード『童話の国イギリス』 小澤征爾+大江健三郎『同じ年に生まれて』
 谷川俊太郎+長谷川宏『魂のみなもとへ』 岡井隆『E/T』 嵐山光三郎『美妙、消えた。』
 小室直樹『数学嫌いの人のための数学』 諸星大二郎『碁娘伝』 吉本隆明『食べもの探訪記』


阿川弘之+北杜夫『酔生夢死か、起死回生か』(2002年1月25日初版第一刷発行・新潮社/1300+税)は、対談集。平成七年から十二年の間に行われ各種雑誌に掲載された対談六回分が収録されている。最近腰がいたいとか、歯がいたい、気力がない、できれば安楽死したい、と毎回しきりにぼやくのは北氏のほうで、それをそうかそうかと受けてたっているのが阿川氏のほう。また旅行や食べ物の話題になると一気に饒舌になるのは阿川氏のほうで、北氏はそうそうと柔軟に受けにまわる。お二人には七つほど年の差があるというが、親しい友人同士の気さくな対話という感じが楽しめる対談集だ。今や両氏とも七十代という。老いを感じさせる話題がさすがに多いのだが、微苦笑を誘う話題にしてしまうところが老いを感じさせないところ。対談のひとつで、宮脇俊三氏がほんの少し参加している。

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高野文子『黄色い本』(2002年2月22日初版第一刷発行・講談社/800+税)は、コミック。96年から2001年にかけてコミック誌に掲載された4つの短編作品が収録されている。本の副題に「ジャック・チボーという名の友人」とあるのは、表題作「黄色い本」にマルタン・デュ・ガールの小説『チボー家の人々』が大好きな少女が登場するから。とつぜん私事だが、やはり若い頃にジャックの大ファンだったという人から『チボー家の人々』を借りて読んでいる(もっか第一次大戦勃発のところで中断中だが)ので、この作品、とても他人事とは思えずに楽しく読んだ。他の3作「OLOUDY WEDNESDAY」「マヨネーズ」「二の二の六」も、人生のさりげない一こまを情緒豊かに描いていて素晴らしい。場面の切り取り方のセンス、省略法など、文章に例えれば、小説というより、詩の味わいだ。

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日高敏隆『春の数えかた』(2001年12月20日初版第一刷発行・新潮社/1300+税)は、エッセイ集。「波」に96年1月から2000年かけて「猫の目草」という名前で連載されたエッセイ41回分他が収録されている。動物行動学者である著者(現滋賀県立大学学長)の、旅行記や珍しい動植物の生態に関するエッセイが並ぶ。特定の植物と昆虫の間にある宿縁とでもいいたいような不思議な関係や、カマキリの予知能力についてなど、興味深い話題がつきない。「生態系の調和」ということが良く言われるけれど、生物はみな利己的に厳しい生存競争を繰り返しているだけで、平和共存しているように見えるのはみかけだけ。というのが本書に流れる著者の基本的なとらえ方。「自然にやさしく」ということ、とちょっと違って、著者は「人里」の重要性を訴える。

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平出隆『猫の客』(2001年9月20日初版第一刷発行・河出書房新社/1400+税)は、小説。隣家の子供が飼いはじめた猫が、大家の住む広い庭つきの古い住居の離れで借家住まいをしている著者夫婦の元にも訪れるようになり、しだいにかけがえのない家族の一員のようになじんでゆく。86年から90年にかけて、著者夫婦が暮らしていた東京郊外の古い屋敷での静かな日々の情景が、チビと呼ばれる愛らしい隣家の猫の思い出を中心に、端正な文体で追想記風に描かれている。和文脈というのか、野球のことを「球遊び」と書いたりするのは、やはり詩を書く人ならではの美意識というべきだろうか。現代風の派手やかさをおさえた文体が、生活のおりふしに現れる稀少と呼びたいような情感を鮮やかに掬いあげている。猫好きの人にもお勧めしたい本。

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岡田哲『ラーメンの誕生』(2002年1月20日初版第一刷発行・ちくま新書/720+税)は、ラーメンについての食文化史。『とんかつの誕生』(講談社)の著者の新著。すごく一般的な食べ物ラーメンも、なるとやチャーシュー、シナチクの浮かんだ今の形になったのは戦後くらいで、かなり新しい。しなソバとして屋台に登場したのは大正のころという。本書ではラーメンに限らず世界の麺文化の歴史から、日本への移入史、インスタントラーメンやカップラーメンの製造にまつわる話など、てびろく紹介されている。「20世紀をうならせたメイドイン・ジャパン」(2000年富士総合研究所)という意識調査で、トップがインスタントラーメン(二位がカラオケ、3位がヘッドホンステレオ)というデータには、なにかと考えさせられる。

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中沢新一『人類最古の哲学』(2002年1月10日初版第一刷発行・講談社選書/1300+税)は、比較宗教論の講義録。著者がこれまでに主に大学で行った「比較宗教論」の講義を刊行する「カイエ・ソバージュ」というタイトルのシリーズ(全五冊)の第一回配本。本書で扱われているのは「神話」で、表題になっている「人類最古の哲学」とは、「神話的思考」のことを指す。本書では、よく知られているシンデレラの物語が、民話として語られながら、神話としての特徴を失っていない稀有な例として素材にされ、「徹底的に」分析されている。ペロー版からグリム童話、ポルトガルの民話、9世紀の中国で書かれていた物語(南方熊楠の発表論文より)、さらに北米ミクマク・インディアンのパロディ的伝承と、シンデレラの物語のさまざまな異文を紹介し比較検討ながら、そのストーリーに秘められた「神話的思考」の原型を探る講義は、とてもスリリングで興味深い。読み終えると、前書きの「神話としての古さは、旧石器時代にまで遡るであろうと考えられる。」というすごい言葉の意味するところが納得できる感じになる。

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監修・徳永貴久『どんどん目が良くなるマジカル・アイ』(2001年9月2日初版第一刷発行・宝島社/933+税)は、「マジカル・アイ」作品集。「マジカル・アイ」というのは、平面上に描かれた一見なんの変哲もない抽象模様のデザインや壁紙のパターンのような作品なのだが、ぼんやり遠くを見る感じでその画面を見つめていると、そこに隠されている立体的な図形が浮き上がって見えてくるという、実に不思議な気分が体験できる創作作品のジャンル。ステレオグラムという名称が、より一般的かもしれない。本書には米国の3Dアーチスト、ジーン・レビーン氏の代表作や日本人作家の作品合わせて43作品が収録されている。意識的に焦点をずらして作品をぼんやり眺めるというのが、目の水晶体の厚さを調整する筋肉の運動にもなるというので、視力回復の面からも推奨されている。10年程前から話題になっているジャンルのようだが、実際、はじめて試したところ衝撃的な視覚体験だった。ホログラムや万華鏡を見るのに似た立体視の世界ががーんと目の前に出現して感動的です。

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中島義道『生きにくい......私は哲学病』(2001年7月20日初版第一刷発行・角川書店/1000+税)は、哲学的エッセイ・散文集。1「哲学童話」、2「神経症的時間論」、3「哲学者と文学者」、4「生きにくさをかみしめる」、5「哲学病的読書案内」という見出しの5章からなるが、分量も内容も濃いのが二章の「神経症的時間論」。時間が流れているというのは錯覚である。未来は存在しない、など、一瞬えっと思うようなことが、論理立てて解説されている。著者の子供のときからの哲学病の中心命題は、「死」(の恐怖や意味)をどのように納得するかということだった、と書かれているが、この「神経症的時間論」もその問題に深く関連しているのがわかる。あと、生きにくさ、ということでいうと、今や著者のライフ・ワークとでもいうべき?「文化騒音」(防災無線、や商店の宣伝放送、駅構内アナウンスなど身近な騒音)への批判が本書でも一貫して主張されている。

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☆天沢退二郎『謎解き・風の又三郎』(1991年12月20日初版第一刷発行・丸善ライブラリー/620+税)は、文芸批評(作品論)。宮澤賢治の有名童話『風の又三郎』に潜む数々の謎にせまる。高田三郎は風の又三郎か、というのが最大の謎だが、他にも沢山ある。本書では「題名の謎」、「ウタの謎」、「九月一日の謎」(以下三日の謎、四日の謎と続く)というように章立てで、テキストの初期型、後期型の異同などを手がかりに緻密でスリリングな謎解き解釈が行われている。講演のような、ですます調の話言葉で書かれているので、読みやすく、本格的な研究書なのに、ときに「悪い冗談」が混じったりして楽しい。実はもっか、本書の著者と吉田文憲氏の『風の又三郎』についての対談トーク(朝日カルチャーセンター特別講義(全二回))を公聴しているので、参考文献(^^;として求めた本。特定の文芸作品や作家についての対談や講演を聴くなら、つけやきでもなるべく予備知識があるほうがぐっと楽しめる。賢治論では、著名な天沢退二郎『宮澤賢治の彼方へ』(思潮社)や、好対照の菅谷規矩雄『宮澤賢治序説』(大和書房)もお勧めだ。

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谷川俊太郎『風穴をあける』(2002年1月24日初版第一刷発行・草思社/1000+税)は、エッセイ集。『ひとり暮らし』(草思社)の姉妹編になるというエッセイ集で、読書と書くことについての文章を集めた「読む・書く」、個人(作家・芸術家)について書かれた文章を集めた「人」、著者の旧友だった音楽家武満徹についての文章を集めた「武満徹」という三章にわかれている。古くは八五年に書かれた文章から収録されていて、テーマ的に時代を感じさせるものもある。特に冒頭のワープロについての文章は今となっては貴重かもしれない。「この十五年の間に、多くの知人友人を失った。彼らのことを繰り返し思い起こすことが、新しい人たちに会うのにもましていまの私を励ましてくれる」とあとがきにあるが、特定の人についての文章には、やはりそうした特定の思い出の記憶の記述が濃密なので、まとめて読むと、なにかと著者の生きてきた時間の多面性や、厚みのようなものが滲みだしてくるような印象を与えてくれる本だった。

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綿矢りさ『インストール』(2001年11月10日初版第一刷発行・河出書房新社/1000+税)は、小説。高校3年生の野田朝子は、友人の光一から、疲れているなら少し休養をとったら、とアドバイスされ、翌日から親に内緒で登校拒否をきめこむ。朝子が最初にしたのは自分の部屋の家具調度品をみんなゴミにだして、部屋をからっぽにすること。おじいちゃんの形見だったパソコンもその中の一品で、朝子はそのパソコンをゴミ集積場で知り合った小学生にあげてしまう。それから数日後のこと、同じマンションに住むこの少年青木かずよしと再度顔を合わせた朝子は、少年から意外なアルバイトの話を持ちかけられる。その仕事とは、インターネットで風俗店がひらいているホームページの有料の顧客用チャットコーナーで、その店の風俗嬢のふりをして客と応対する、という内容だった。。。1984年生まれで現在高校二年生という著者が、インターネットでちょっと怪しげなアルバイトをすることになった現代っ子女子高校生の冒険生活的気分を、爽やかに描いた小説。主人公の友人の光一は女性教師を恋人にしているという設定がとんでいるほか、若い人たちの壊れるのと紙一重の日常の均衡を支えている気持ちの動きがよくでていると思う。第三八回文藝賞受賞作。

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速水融『歴史人口学で見た日本』(2001年10月20日初版第一刷発行・文春新書/680+税)は、歴史研究の本。表題どおり歴史人口学という研究分野から見られた日本の歴史が江戸期を中心に解説紹介されている。歴史人口学というのは、「近代国勢調査以前の不完全なデータを基礎にしながら、人口学の手法を用いてそれを分析する学問である。」(まえがき)とある。本書を読むと日本ではその分析のための主な基礎資料が鎖国政策やキリスト教禁止令の産んだ「宗門改帳」であることがわかる。江戸時代には大名、旗本、寺社や公家の領地が200ほどに別れていて、それぞれの地域で史料の作り方に統一性がないうえに、残っているものもばらばら、という困難な事情があるようだが、そういう悪条件のもとで著者によって忍耐強くすすめられた研究分析の結果報告が面白い。特定の地域の出稼ぎの実態や家族形態の推移、当時の物流などさまざまなことが判るようだ。中にはこちらの常識的思いこみを覆すデータも多々あって、著者の唱える「都市アリ地獄説」(農村部より都市の方が死亡率が高い)などもそのひとつ。詳しくは本書で(^^;。

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☆ロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』(2000年6月30日初版第一刷発行・角川書店/1400円)は、戦後世相史的評伝。ニック・ザペッティという人物の波瀾万丈の生涯を中心に、戦後日本の闇社会の変遷に照明をあてた本。ニューヨークのイタリア人ゲットーに生まれたニックは、24歳で終戦直後の占領軍兵士として来日、ほどなく除隊帰国後、再度来日して物資の横流しなど怪しげな闇市世界のベンチャービジネスに深入りしてゆく。ダイヤモンド盗難事件で逮捕保釈された1956年、ニックは六本木に小さなピザ・レストラン「ニコラス」を開店。これが、大当たりする。本書は、「ニコラス」の常連客のプロレスラーやヤクザたち、政治家、右翼の大物などと、ニックとの関わりを通して戦後日本社会の裏面を浮き彫りにした好著で、著者のインタヴューが原資料の骨子になっている。こなれた語り口が面白く、ぐいぐい引き込まれる本だ。「日本在住のアメリカ人で、彼ほど大金を儲け、失った人間はいない。また、彼ほど何度も日本人女性と結婚し、離婚したアメリカ人もいない。さらに、彼ほど多くの民事訴訟に関わり、裁判所で長い年月を過ごしたアメリカ人もいない。」(本書より)。個人的には福生の横田基地前にある「ニコラス」(支店)のピザは子供の頃から地元で有名だったが、こんな歴史があったとは。

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谷川俊太郎『ひとり暮らし』(2001年12月15日初版第一刷発行・草思社/1400円)は、エッセイ集。前エッセイ集『「ん」まであるく』(草思社)以後のこの15年間に書かれ雑誌等に掲載されたエッセイやコラムといった短文が収録されていて、後半には「ある日」と題された1999年二月から2001年1月までの日記(「草思」誌に連載が初出)も収録されている。書くことにふれて。「こんなことをしているくらいなら、汚れた皿を洗っているほうがまだしも役に立っているのではないかと思う。自分の書くものに、それが詩であれ散文であれ自恃が欠けるということもあるが、それだけではない。誰がどんなにすぐれたものを書こうとも、それがどこまで人の心にとどくのか、心もとないのだ。これは一人一人の書き手の能力を超えて、時代の変化にかかわっているような気がする。、、それなのに何故私はいまも書き続けているのだろうか。書くことしか自分に能がないからか、長い間書いてきてそれが習慣のようになっているからか。いずれにしろいますぐ書くことを止めてもいいのに、それができないのはどうしてなのか。身内の人間と、暮らしに起こるさまざまな問題を、あるいは話題を話している時は、言葉を有り難いと思う。だが不特定多数の読者に向かうと、言葉が萎えてゆく。」(「とりとめもなく」より)。この著者にして、というより、いかにもこの著者らしいというべきだろうか。時代を呼吸している内面の声の表白。

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田口ランディ『転生』(2001年10月30日初版第一刷発行・サンマーク出版/1100円)は、帯に「異次元を旅する絵本」とある。「わたし」が様々な生き物に生まれ変わっていくという物語に、篁カノンという人の細密で幻想的なイラストが添えられている小冊子。古くから生まれ変わりの物語は数あるが、古代インドの輪廻転生の世界観が有名だ。仏教はその輪廻を断ち切る教えとして発生したと言われるけれど、現代版のこうした物語では理由の定かでないイメージとしての転生ということが、リアリティをもって語られる。そこになにをこめるのかは人様々かもしれないが、著者の場合、無常感や、人の営みのもつ残酷さが特に強調されている感じがする。転生の話は、一方で人間の多様な想像力の舞台装置のようなところもある。こういう物語を読むと、転生物語を背景に男女のエロスの結びつきを描いた、関富士子さんの「あなたが語るわたしの物語」(詩集『ピクニック』(あざみ書房)所収)という詩作品を、つい思い出してしまうのだった。

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吉本隆明『読書の方法』(2001年11月25日初版第一刷発行・光文社/1600円)は、エッセイ、対談集。著者がこれまでに、全集や選集やパンフレット等の推薦文、雑誌のインタヴュー、アンケートへの応答、などの形で発表してきた書物にまつわる文章の集成、という感じの本で、50編近くが収録されている。古くは1960年に発表された文章もあるから、収録範囲は広大だ。著者が本とどんなふうにつきあってきたかを体験に即して書いた味わいのある短文が沢山収録されている他、主に今は無い雑誌「リテレール」に初出の著者の愛読書・推薦図書アンケートの解答も何種類も読める。「書評では誰でも書物にたいして、縫い子のようにへりくだらなくてはならない」「書評にこころが動くのは、殺傷したり、切り裂いたりせずに批評をやってみたい、という無償の均衡の願望のような気がする」(「「書評」を書く難しさ」)。「書評」を「批評」と区別したうえで、「書評」という行為についての批評家の思いが語られていて、印象深い言葉だと思う。

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上野千鶴子対談集『ラディカルに語れば...』(2001年10月24日初版第一刷発行・平凡社/2200円)は、対談集。順に「女性施政ジャーナル」(98年5月号)、同、「現代思想」(99年1月号)、「アソシエ」(2001年1月号)に初出の大沢真理、河野貴代美、竹村和子、足立真理子氏との対談が収録されている。帯に「いまフェミニズムは、何を問い、何と戦っているのか」とあり、著者も「本書の内容は、現在におけるフェミニズムの最前線と言ってよい」と記している。本書の特徴は、政治、カウンセリング、理論、経済学、という異なる専門分野で、自覚的に「フェミニズム」に関わっている女性たちと、上野氏の白熱した対話を通して、それぞれの分野における「フェミニズムの最前線」的動向や問題点が浮き彫りにされているところだろう。内容は専門的で難しい個所も多いが、個々の対話者が対談後に一文を付記し、上野氏も巻末で個々の対談についての補足的な解説をつけているのが理解の助けになっている。「市場調査をすれば、フェミニズムと名のっただけで、本が売れない。」(「あとがきにかえて」)という状況のなかで、こういう個別の専門分野の研究者たちの声を集めた本は貴重だと思う。

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四方田犬彦『ソウルの風景』(2001年9月20日初版第一刷発行・岩波新書/700円)は、韓国印象記。2000年8月から12月にかけてソウルの中央大学日本研究所に滞在した時の印象記と「あとがき」にあるが、この記録は、21年前の1979年に、著者が一年間ソウルの建国大学で日本語教師として勤務したという時の記憶と交錯しあい、この21年の間の韓国の社会を取り巻く政治情勢や社会風俗の停滞と変化をリアルに伝える内容になっている。金大中のノーベル賞受賞、光州事件、南北問題、従軍慰安婦問題、といったニュース報道で知られる出来事が現地での見聞体験に即して解説されている章も読み応えがあるが、なかでも韓国の大衆文化事情の変貌を伝える章が興味深かった。著者の専門は映画史で、そういう人ならではの韓国映画シーンの情報も充実している。実は図書館でこの本を手に取ったとき、先頃見た「ペパーミントキャンデー」(「薄荷砂糖」パカサタン)という映画について触れていないだろうか、と思ったのだった。本書を読んでその想像は当たった。映画「ペパーミントキャンデー」は、背景にこの20数年の韓国社会の変貌を描いていて、本書の関心と通じる所がある。興味のある方は、本書と併せ見るのもいいと思う。他にも、「シュリ」「JSA」など、見応えがある作品の情報があります。

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ロジェ・グルニエ『ユリシーズの涙』(2000年12月8日初版第一刷発行・みすず書房/2300円)は、エッセイ(断章)集。タイトルのユリシーズというのは著者がむかし飼っていた犬の名前で、本書にはその愛犬の回想や、世界の古今東西の文学作品に登場する様々な犬をめぐるエピソードや譬喩が紹介されている。世界の文学作品の中からいろいろな犬のエピソードや譬喩を集める、というだけなら誰でも時間さえかければできそうだが、この本は一味違う。幾多の文学作品に対する深い愛情や豊かな理解の時間が文章の背後に自然に流れているのが読みとれるからだ。日本の小説でも谷崎や漱石、里見八犬伝までさらっと紹介されていて該博な知識にも驚くばかり。「よっぱらい、いじわる、愚か者など、人間のくずのような連中がいたとしよう。だれもそんな連中を受け入れはしない。でも、犬だけは、そうしたくずのあとについていって、いうことをきき、好きになるのである。」(「債務者」より)。「人生を知りつくした短編の名手による愛犬家と厭犬家のための本」とは帯の言葉。

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河野多恵子『半所有者』(2001年11月30日初版第一刷発行・新潮社/1000円)は、小説。「新潮」2001年5月号に初出。49歳で病死した妻を病院からひきとり、遺体を安置した部屋で通夜をひとり過ごす初老の夫の「究極の<愛の行為>」(帯文)を描いた短編小説作品が一編収録されている。「もうひとつの「秘事」」とも帯文にあり、著者の長編作品『秘事』(新潮社)と地続きの世界。短い作品なので内容には触れないでおくが、この本、書籍として特徴がある。活字が大きくて見やすいのと、ページのそれぞれが和装本的に袋とじに折られているのだ。そのうえ紙もしっかりしているので、本文は短いのにボリュームがある(といっても薄いことは薄い本だが)。洋装本で、こういうのは珍しいと思うが、造本上の手間はどうなのだろう。若い頃、原稿用紙に文章を書いて二つ折りにして紙紐で綴じ、ボール紙の表紙をつけて本の体裁にしたことを思い出してしまった。そういう工作をしたことのある人、多いと思うが。。

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☆矢崎節夫『童謡詩人 金子みすゞの生涯』(1993年2月28日初版第一刷発行・JULA出版局)は、評伝。タイトルどおり、童謡詩人として有名な金子みすゞ(1903〜1930)の生涯を克明に跡づけた本。山口県大津郡仙崎村に生まれた金子テルは、高等女学校を卒業後、父の経営する下関市の上山文英堂書店の支店で働きながら、二十歳の時、金子みすゞ名で各種文芸雑誌・婦人雑誌に童謡詩の投稿をはじめる。ほどなく『童話』誌上で西条八十に認められ、投稿詩人たちの憧れの的となるが、結婚、女児出産後、二十六歳の若さで自殺した。著者は学生時代に『日本童謡集』(岩波文庫)収録の「大漁」という作品を読み、衝撃を受けたという。以後関心を持ち続け、おりにふれ、当時は乏しかった関連書にあたり、みすゞの暮らしていた下関市に何度も足を運ぶという探索を続ける。この16年にわたったという探索は、遂にみすゞの近親者にめぐりあい、多量の未発表資料を見出す、という形で決着し、やがて『金子みすゞ全集』の発刊として結実するに至ったと思われるのだが、なんともドラマチックだ。本書にはそういう資料発掘者ならではの、童謡詩人金子みすゞへの敬慕と、関係者への配慮が随所に込められていて、しっかりした気持ちのいい本格評伝になっている。

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中野翠『千円贅沢』(2001年9月20日初版第一刷発行・講談社/1500+税)は、エッセイ集(94年11月から2000年2月にかけて日経流通新聞に連載された同名エッセイに加筆)。千円位でちょっとした買い物を楽しむ、というテーマに即した体験エッセイが、「優雅なもの」、「役にたつもの」、「いつも使いたいもの」、「きれいになるもの」、「リクツじゃないもの」、「気になるもの」というタイトルで、章別に56編収録されている。インテリア小物や文房具、食器や日用品。ちょっと気にいったデザインのものに巡りあって欲しくなることがある。なくてもいいけどあると楽しい、という贅沢気分が、生活にささやかな色合いを添えるという感じだ。銀座などの高級店に、展示品で一番安いと思われる1000円グッズを買いに行って、きれいな包装をしてもらう、という体験談、楽しそうだな、と。

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ピーター・ミルワード『童話の国イギリス』(2001年10月15日初版第一刷発行・中公新書/840+税)は、英国児童文学を紹介した本。著者は在日50年近くになる英国人のカトリック司祭。シェイクスピアの研究家にして、ルネッサンス研究所所長や、上智大学名誉教授、という肩書きももつ人。著者が幼少の頃から愛読した英国の児童文学作品の数々を、思い出エピソードを交えて親しみやすく解説した本で、「マザー・グース」、「グリム童話集」、「ピーター・ラビット」、「熊のプーさん」、「不思議の国のアリス」等々、21作品分が収録されている。新しいところでは「ホビットの冒険」や「ナルニア国物語」も。それに「ハリー・ポッターは古典となるか」という終章が付されているのが楽しい(記載によると、著者はこのシリーズの既刊書を、いずれも二日くらいで読んでしまっているのが、さもありなんと(^^;。)。英国人なら誰でもも知っている物語、というのが、当然ながら日本人と少し違うのが面白いし、その違いには、やはり幼い頃から聖書(物語)をどんなふうに受容するのかということが、大きく関わっているようだ、とは思ったこと。

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小澤征爾+大江健三郎『同じ年に生まれて』(2001年8月30日初版第一刷発行・中央公論社/1400+税)は、対談。2000年9月9日付け読売新聞に掲載された対談「21世紀への対談」と、同年12月21日に行われた対談をもとに再構成、加筆されたもの、とある。小澤氏の、自然の響きは全て倍音に関係があって、倍音とあっている音を聴くと人間はなぜかいい気持ちがする。この音の関係に対して従順に規則を作っていったのが、西欧音楽の基礎になっている教会音楽だ、という趣旨の発言に、なるほどと思った。日本人の音楽も世界のスタンダードと同じになってほしい、という氏の願いは、そういう西欧音楽のもつ基本的な性格(普遍性)への信念的な了解からきているのだなあ、と。大江氏の発言では、自分の書く長編小説は、9ヶ月位で読みやすい第一稿が書けてしまうけれど、これを1,2年かけて大体4回から5回は書き直す、それが「僕の人生です」と言っているところ(奥さんからは第一稿をそのまま出せば売れるのにといわれるという(^^;)。こういうプロ同士の対談は、読む人によって感じる個所が違っても、どこかきらりとくる個所があると思う。

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谷川俊太郎+長谷川宏『魂のみなもとへ』(2001年10月25日初版第一刷発行・近代出版/2000+税)は、副題に「詩と哲学のデュオ」とある、詩と短文の共作集。共作といっても、これまでに発表されてきた谷川氏の2000編をこえる詩作品の中から、「生・老・死」をテーマに、最終的に30編の作品を選び、それぞれに哲学者の長谷川氏が原稿用紙4枚程度の短文を付す、という体裁になっている。あとがきで長谷川氏は、詩の「批評」と、詩に文章を「つける」ことの違いを、「対象とは異質な自分を打ちたてるのが批評だとすれば、「つける」は対象の色に染まりつつ自分を打ち出す試みなのだ。」と書いていて、なるほどと思った。氏のいうような意味で、こうした詩に短文を「つける」試みが、もっとなされると面白いと思う。長谷川氏は、谷川氏の詩という「対象の色」を、「品がよく、遊びが多く、軽やか」とあげている。その詩の底流にある孤独感や、精神の重さというものを、普段からそういう(哲学的思惟の)世界に向き合っている人が、吟味してすくいあげている感じ、といえば、ちょっと手堅い感じのする本書の感想を言ったことになるだろうか。

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岡井隆『E/T』(2001年10月25日初版第一刷発行・書肆山田/2000+税)は、歌集。あとがきに2001年2月から5月にかけてつくった歌をあつめて編んだ、とある。このあとがきの冒頭「詩や歌を読む人が大層減ったといふことである。数十人あるいは多くて数百人の人が、この本を読むかもしれない。」という言葉に立ち止まる。この高名な歌人にして、歌集の売れ行きというのはその程度なのだろうか。あとがきは、「読者が少ないといふことは、読者ぐるみ辺境の村落住まひ」のようなものだから、「妻の肖像を、村落の人々にだけ見せてもいいのではなからうか。」と続く。つまりこの歌集は、著者が「「若い妻」をモデルにして」書いた歌が主になっているのが大きな特徴。タイトルは、著者夫妻のイニシャルではないだろうか(想像)。もうひとつの特徴といいたいのは、本書後半の短歌の横書き表記の試みだ。この語句の布置が新鮮でとても面白い。創作姿勢の柔軟さや創造性は、こういう工夫にも表れるのだなあと。

「白き人はかなしみのうへに坐りをり「覗き込んでは嫌」しづかなり」。

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嵐山光三郎『美妙、消えた。』(2001年9月1日初版第一刷発行・朝日新聞社/1800+税)は、評伝。明治期に活躍した詩人・小説家で国語学者だった山田美妙について、その少年期から晩年までの文学者としての境涯を丁寧に跡づけた本格評伝だ。大学予備門(一高)時代、幼なじみだった尾崎紅葉たちと「硯友社」を立ち上げ、「我楽多文庫」を創刊。ひとり大学進学を諦めて「言文一致体」の小説創作に専念し、明治文壇に颯爽とデビューして一躍人気作家となる。しかし、この早熟で才能に恵まれた文学青年の、その後の人生の曲折たるや。。タイトルの「消えた」というのは、私生活上のスキャンダルがもとで、坪内逍遙(たち)によって一時文壇から抹殺されたことを指す。本書から、美妙のある意味屈折した生き方の背後には、養祖母ますを筆頭に女性(たち)の影響が甚大だったということがわかる。それにしても明治期の作家はみな早熟だったのだなあ、というのが随所に織り込まれたいろんな文壇エピソードからの感慨だ。本書は構想16年という労作で、初出は「一冊の本」に98年6月から2000年11月号にかけて連載されたもの。

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小室直樹『数学嫌いの人のための数学』(2001年10月25日初版第一刷発行・東洋経済新報社/1600+税)は、数学と論理、マクロ経済学との関連を解説した本。たぶんこの著者のことなので数学の基礎を判りやすく解説しただけの本じゃないだろうと思って買ってみた。予想は半ば当たりというところ。数学の本質は論理にある、ということを古代ユダヤ教の神と預言者の論争から説き起こし、洋の東西の様々な歴史上の逸話に縦横無尽に寄り道しながら形式論理学の歴史や諸概念を説きあかし、最後は難解なケインズ経済学の解説に至る。著者は西欧で生まれた形式論理的思考がどれほど歴史的に威力を発揮してきたかを力説し、中国、朝鮮、日本などの東洋的思考と似て非なることを指摘する。大いに判りやすくて面白く読んだが、最後の章だけは突然難しくなって歯がたたなかった本。

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諸星大二郎『碁娘伝』(2001年10月25日初版第一刷発行・潮出版社/838+税)は、コミック。タイトルは、「ごじょうでん」と読む。唐は玄宗皇帝の御代。碁を打っては名人、剣をを取っては達人と言われる、碁嬢という名の美女がいた。このコミックは、弱きを助け強きをくじく、そんな伝説の侠女碁娘(本名は玉英)が活躍する「中国痛快活劇」。全4話が収録されているが、それぞれの初出発表コミック誌の発売号が、85年、93年、2000年、2001年と、間隔をあけながら16年かけてのシリーズもの漫画の単行本化だ。自分の好きなテーマをこんなふうに描きつぐ持続力が楽しい。作者には、昨年完全版のでた『西遊妖猿伝』全16巻(「手塚治虫文化賞」大賞を受賞)がある。そちらは14年間漫画誌に連載しての完結(まだ第一部のみだが)。中国伝奇物語の世界を独特の筆遣いと脚色で描いた諸星ワールドにたっぷりと浸りたい人にお勧め。

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吉本隆明『食べもの探訪記』(2001年11月10日初版第一刷発行・光芒社/1400+税)は、食をめぐるエッセイ集。97年に刊行された『食べものの話』(丸山学芸図書)の増補改訂版で、内容的には、マルイ農協の広報誌「Q」に94年から2000年にかけて連載されたエッセイと、道場六三郎氏との対談という構成は前著と同じだが、連載エッセイのほうに新たに18編が追加されている。ある食べ物を、うまいと感じることに、どれだけ普遍性があるのか。逆にテレビの料理番組などで飲食者の反応をみて、そんなにうまいはずがないと感じるときにどれだけ普遍性があるのか。食をめぐる話題は、案外そのひとの思いこみの強さを計るバロメーターかもしれない。味覚は身体生理の自然や個人的な記憶に直結しているから、つい断言したくなるが、いくら断言してもあまり罪がないのが面白いところ。「レバかつ」や「ぬれせん」など、著者の数々の味エピソードが楽しく、複雑系の味と単純系の味の両極に「うまさ」の社会的指標が別れている、というような指摘にも改めて納得。

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