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走り書き「新刊」読書メモ(18)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(01.8.25~01.12.5)

 サミュエル・ハンチントン『文明の衝突と21世紀の日本』 正津勉『笑いかわせみ』 松山巖『路上の症候群』
 橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』 利根川進『私の脳科学講義』 嵐山光三郎『芭蕉の誘惑』
 米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』 三浦雅士『批評という鬱』 21世紀研究会編『常識の世界地図』
 渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』 田口ランディ『オカルト』 曾野綾子『狂王ヘロデ』
 南伸坊『李白の月』 江宮隆之『井上井月伝説』 穂村弘『短歌という爆弾』
 佐野洋子画文集『あっちの女 こっちの猫』 梁石白『魂の流れゆく果て』 ☆工藤美代子『野の人 會津八一』
 ☆イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』 ☆アラン・G・トマス『美しい書物の話』 工藤美代子『黄昏の詩人』
 村上龍『THE MASK CLUB』 大久保秀樹『見出された「日本」』 柳美里『生』
 吉増剛造『燃えあがる映画小屋』 ジャン・グルニエ『エセー』 日野啓三『梯の立つ都市 冥府と永遠の花』
 玄侑宗久『中陰の花』 岩田明『日本超古代文明とシュメール伝説の謎』 福田繁雄『福田繁雄のトリックアート・トリップ』


サミュエル・ハンチントン『文明の衝突と21世紀の日本』(2001年1月23日初版第一刷発行・集英社新書/660+税)は、国際政治学の論集。前著『文明の衝突』の抜粋や、日本での講演や「フォーリアン・アフェアリーズ」誌初出の論文をまとめたもの、と「はしがき」にある。現在二十一世紀初頭の世界情勢は、パワーによって二極化していた冷戦時代のそれと大きく異なり、「一極・多極(uni-multipolar)世界になっている。もはや国々の違いは、イデオロギー、政治、経済ではなく、文化や文明の違いと考えるべきだ、というのが著者の認識の大きな枠組み。世界は7つ程度の主要文明に分けられ、文明を異にする国家やグループの間で広範な対立や地域紛争が生じる可能性が高い、という所論が展開されている。文明という言葉の定義も本書でなされているが、その中で日本文明だけが、国民国家とぴったり重なっているのが他と違う。孤立の恐れ、たぶんにありという指摘が興味深い。著者の「文明の衝突」論はニューヨークのテロ事件以降、報道番組等で否定的に言及されることが多いが、どういう考え方なのかを確かめたい人は読んでみよう。

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正津勉『笑いかわせみ』(2001年7月20日初版第一刷発行・中央公論新社/3200+税)は、小説。「新潮」(97年10月号)と、「すばる」(99年1月号)に初出の、「笑いかわせみ」、「にぎやかなかなしみ」の二編が収録されている。表題作「笑いかわせみ」では、詩人の「わたし」が、オーストラリアで開かれた国際芸術祭に招かれ、当地で知り合ったスティという若いオーストラリア人女性と激しい恋におちる。やがて「わたし」は帰国するが、数ヶ月後に来日したスティと再会して、、、という経緯で始まった男女の同棲生活を描いた、私小説風の恋愛小説。冒頭に物故した荒地派の詩人鮎川信夫と北村太郎が実名で登場して、著者との交流の情景が活写されているし、著者の詩の独特のリズムや語彙を想起させる地の文体にも特徴があるので、そういう興味で読んでも面白いと思う。作品は雑誌初出時に読んでいたが、著者の講演された会の会場で売られていたのを求めて直筆サインも貰ってしまった、という、私的には記念すべき本。帯に「日本のブコウスキー誕生」とある。ううむ。顔は断然似ていないけど。

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松山巖『路上の症候群』(2001年6月15日初版第一刷発行・中央公論新社/3200+税)は、コラム集。松山巌全仕事というシリーズの第一巻で、78年から2000年までの22年間に諸雑誌や新聞、文芸誌等に発表された時評、コラムなどの短文105編が収録されている。全体は、85年まで、80年代後半、90年代と3章に分けられていて、最初から読んでいくと時系列的に世相の推移が辿れるようになっている。なかには追悼文や紀行文、書評、少年期を回顧した文章などもあるが、やはり当時の犯罪や社会風俗に言及した時評的な性格の文章が多いのが特徴だ。著者はあとがきで、このコラム集をまとめてみて、自ら「この二十数年の日本社会の変貌のもの凄さを再確認」させられた、と書いている。古いコラムの文中に「愛人バンクのギャルにきくと、」などという一節もあって懐かしいが、流行の言葉がそそくさと色褪せてしまうのも、この「変貌」のひとつだろう。著者の文章には、硬派で誠実な社会批評・観察家の視線が一貫していて、現実をバーチャルなものととらえる世界像とは対極にいる人だと思う。醒めた目で変貌と停滞の20数年をふりかえる一冊。

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橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』(2001年6月15日初版第一刷発行・筑摩書房/1800+税)は、表題どおりの世界の宗教の解説書。著者が教鞭をとっている東京工業大学で学部の二年生向けに10年間開講されているという「宗教社会学」の講義にもとづいている、とある。宗教についてあまり知識のない学生むけ、ということで難しい文字にはルビも振られていて読みやすく、内容も緻密で、世界の宗教の仕組みや成り立ちを系統立てて知りたいという社会人にとっても優れた入門書になっていると思う。本書では、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教の歴史やその基本的な考え方などが章別に解説紹介されている。章末に付されたコラムでは、日本仏教の葬儀で戒名をつけて高額の謝礼をとる習慣を批判をするなど、随所に著者の考えも折り込まれていて血の通った文章が愉しい。個人的には、最近の研究で阿弥陀仏の実体はイランに広まっていた拝火教の神だとされているという指摘に驚いた。その項では、浄土宗の他力思想との影響関連にも触れられている。

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利根川進『私の脳科学講義』(2000年4月1日初版第一刷発行・岩波新書/700+税)は、東京大学主催の講演会講義録、企業のホームページや広告誌に掲載された文章、対談、インタヴューからなる本。全体として著者が分子生物学の道に進んだいきさつを含む学問的な履歴、研究内容の解説、漫画家池田理代子氏との対談と、タイトルとは少し違ってバラエティに富んだ内容でまとめられている。著者は免疫学の分野で「GODのミステリー」と呼ばれていた抗体の多様性の謎を解明して87年にノーベル賞を受賞、その後はなんと脳科学の分野に転じて海馬における想起のメカニズムの研究をされているという。本書を読むと後者の分野でも画期的な研究成果があがりつつある感じなのが興味ぶかい。本書ではそうした研究内容の概略が簡明に説明されているが、難しいところは読み飛ばしてエッセンスを味わおう(^^;。著者はダーウィン進化論を原則的に正しいと信じていると言い、自ら科学信奉者だとも主張されていて、変な言い方だがいかにも科学者らしい科学者という印象。

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嵐山光三郎『芭蕉の誘惑』(2000年4月1日初版第一刷発行・JTB/1500+税)は、松尾芭蕉の足跡を追った紀行文集。かって自転車で「奥の細道」全コースを走破し、編集者時代には雑誌で3回も芭蕉特集を企画実現したという根っからの芭蕉ファンの著者が、平成10年から2年をかけて芭蕉全紀行を決行した。本書はその紀行文集。全紀行なので、本書には「奥の細道」「笈の小文」「野ざらし紀行」の他、従来の案内書にあまり書かれていないという「更級紀行」「鹿島紀行」の行程をなぞる旅の様子も収録されている。文章は江戸期と現在をいきつもどりつしながら、いろいろな関係資料や現地情報がかみ砕いた形で盛り込まれていてサービス満点という感じ。カリスマ性のあるちょっと凄みのある不良で、食いしん坊で、衆道にも通じていた(当時は普通)という著者の浮き彫りにする芭蕉像が楽しい。新しい物好きだった芭蕉は、名前からしてバナナだとあり、そういえば吉本ばななさんにも凄い先達がいたのだなあと。

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米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年6月30日初版第一刷発行・角川書店/1400+税)は、著者の学生時代の3人の友人の思い出と再会体験を綴った追想記。「本の旅人」(1999年11月〜2001年4月号)に初出連載。著者は少女時代、1959年から64年の間チェコスロバキアにあったプラハ・ソヴィエト学校に在籍した。本書には、その学校で知り合ったリッツァ、アーニャ、ヤミンスカという個性豊かな3人の同級生の少女たちの思い出と、30年後、著者が彼女たちの消息を訪ねた時の旅の様子が、当時の政治・社会的な時代背景や細やかな交友のエピソードをまじえて生き生きと描かれている。当時ソヴィエト学校には50カ国の子弟が学んでいたという。リッツァはギリシャ人。アーニャはルーマニア人(ユダヤ人)。ヤミンスカはユーゴスラビア連邦(当時)のボスニア・ムスリム人。このうちふたりは近年政治・社会的な変動に見舞われた国の出身者だが、学校のあったチェコスロバキア自体がプラハの春(68年)から始まる大変な激動に見舞われたのは周知のことだ。この心弾む三つの人生の物語はそうした現代史の貴重な記録にもなっていると思う。

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三浦雅士『批評という鬱』(2001年9月14日初版第一刷発行・岩波書店/2500+税)は、文芸批評。岩波書店刊行の雑誌「ヘルメス」や岩波講座シリーズに初出の4つの論考と、書き下ろしの吉本隆明論「批評としての鬱」からなる。「近代的自我論=主体性論」批判というのが中心テーマ。青年とか個人という言葉はみんな近代が生んだ幻想に過ぎない。そうした幻想が生まれやがて社会が常識のように定着していった過程をたどりなおしてみる、という試みが、「青春」という言葉の探求(一章)や、近代短歌における身体性の表現の変遷の問題(二章)や、人間の変成願望としての舞踏論(三章)、といった様々な角度からなされている。この「近代的自我」への疑義は、第五章の吉本隆明論のなかでは、吉本の提起した「自己表出」という概念についての批判的検討という軸にそって詳しく考察されている。「近代的自我」批判という論理のスタイルそのものは今や珍しくないが、著者はそれらの諸幻想を産む源泉のような、歴史をこえた人類の普遍的感情を、メランコリー(鬱)という言葉(概念)に重ねあわせているのが本書の特色。

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21世紀研究会編『常識の世界地図』(2001年9月20日初版第一刷発行・文春新書/780+税)は、世界各地の風俗習慣の違いを比較解説した豆知識満載の本。礼儀作法やボディランゲージの違い、食事をめぐるタブーといったことについて、失敗談の事例などまじえてことこまかく解説されている。「マナーとタブーの小辞典」という全体を項目別に短くまとめた章があるのもなにかと便利そうだ。世界各国の異なるいろんな習慣を知るのは楽しいし、そのことが実際の他者とのつきあいに暗黙の配慮となって役立てられればいい。さてそのうえで、ただ異質さを形式的に理解するだけの常識の立場というのは世界ではかなり特殊なものだな、ということをふと考えさせられもするのだった。異文化をいったん自然なものとして取り込むという回路。この(日本的)自然化を説明するのは難しそうだ。

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渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(2001年3月30日初版第一刷発行・不二出版/3500+税)は、評伝。日本画家・尾竹越堂(熊太郎)、ウタ、の長女として生まれた尾竹一枝(1892~1966)は、18才のとき『青鞜』を知り、翌1912年青鞜社に入社する。肺疾患で入院し10月に退社するまでの9ヶ月ほどの短い在社期間だったが、この期間を通じての執筆活動(とくに紅吉名での「編輯室より」の近況報告)や、絵画展への初出展作入選、はたまた平塚らいちょうとの「同性の恋」などでジャーナリズムに取り上げられ、「新しい女」の中心人物とされる。本書はその『青鞜』時代から筆を起こして、一枝の生涯を克明にたどった全体で350頁近くの本格評伝。与謝野晶子研究からはじめて平塚らいちょうへ、さらに尾竹紅吉に関心が移行して資料を求め取材をはじめたのは20年ほども前のこと、と著者はあとがきで書いている。一枝を(自覚せざる)「天性のフェミニスト」と著者は呼ぶが、そのひかえめながら天真爛漫で芯の強い魅力的な人柄が良く描かれていると思う。紅吉という筆名は、紅色が好きなのでつけたという。名前に紅のつく人は元気そうだ(^^;。

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田口ランディ『オカルト』(2001年10月3日初版第一刷発行・メディアファクトリー/1100+税)は、エッセイ集。35編の散文と、詩がふたつ収録されている。「超常現象もUFOも自縛霊もチャネリングも、怪しいもの全般、まったく信じない。」という著者が、それら怪しいものの周辺をテーマに書いたエッセイ集。もっとも、その文が載っているあとがき「感じること、信じること」で、著者は信じることはできないが、感じることはできる、と書いている。怪しいものでもなんでも、感じてしまうことは疑えない。「たぶんオカルトは、信じるものじゃなくて、感じるものだと思う」、というのだ。こういう著者のスタンスや全開の好奇心がそのまま怪しいもののなかにも人の心を読みとる柔らかな感受性につながっているに違いない。それにしても巷でのオカルト的現象への興味や関心というのは相変わらず盛んなのだなあ、と。

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曾野綾子『狂王ヘロデ』(2001年9月10日初版第一刷発行・集英社/1890+税)は、歴史小説。初出誌は「すばる」(1999年1月号〜2000年9月号)。ユダヤの王ヘロデ(紀元前73年頃から紀元前4年)は、エルサレム他の諸都市を次々建設し豊かな経済社会を繁栄させたが、一方では肉親縁者を次々謀殺するなど悪名も高かった。そしてなによりも誕生したばかりの未来の預言者イエスを殺すために村々の乳幼児を集団殺戮せよと命令を下した人物として歴史に名を残している。その王ヘロデの政治的な行状を、周囲から聾唖者とみなされ、いつも王の傍に控えていることを許されていた「穴」と呼ばれる竪琴弾きの青年の視点から描いた歴史小説。ヘロデの弟妹や何人もの妻、その息子や孫といった登場人物が錯綜して複雑に絡み合っているが、基本は王位継承権をめぐる権謀術数の世界。相当量の歴史資料に基づいて書かれた労作で当時の雰囲気が伝わってくる。最近イエス生誕にからんだ子供達の集団殺戮はなかったという記述をどこかで読んだのだが、どこだったか思いだせない。。

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南伸坊『李白の月』(2001年8月30日初版第一刷発行・マガジンハウス/2200+税)は、解説エッセイつきの漫画集。もとは「コミックトム」という漫画誌に連載されたもの(ただし全16編のうち2編は書き下ろし)で、同様の漫画集『仙人の壺』(新潮社)の姉妹編にあたる。『捜神記』に代表される「志怪小説」、唐代、周代などの「伝奇」、清代の「文言小説」など、中国古典に登場する不思議怪奇物語から題材を取って短いストーリー漫画にしたて、軽快な絵解き的エッセイ文を付したユニークな漫画集だ。著者の漫画の線描はすっきりしていて、デザインイラスト的。そこにもともと様式的な中国の墨絵の描写法を加味して味わいがありながら嫌みのないしあがりになっている。中国古典の不思議怪奇物語から本当に恐怖や戦慄を感じる人は、今やほとんどいないだろう。いいまわしの面白さや展開のナンセンスさや不条理さ、そういう文学的イメージを著者が楽しんでいるのがよく伝わってくる。わかるものは出典も明記してあるので興味を惹かれたら深入りもできる中国古典幻想世界への誘いの本。

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江宮隆之『井上井月伝説』(2001年8月30日初版第一刷発行・河出書房新社/2200+税)は、評伝。幕末から明治にかけて生きた俳人井上井月の伝記だが、親しみやすい小説風の文体が採用されている。随分前のことだが、信州・伊那谷を流浪し「乞食井月」などと呼ばれたこの風狂の俳人の名を知ったのは、つげ義春の『無能の人』(日本文芸社)の第六話「蒸発」という漫画だった。著者のつげ義春が「資料だおれ」と書いているような、全集などの資料に基づいて井月のユニークな生を紹介したこの漫画の印象は強烈だった。今回この本の読後にぱらぱら見返してみたが、ほとんど違和感がない。もちろん本書で初めて知ったことは多々ある。井月が元長岡藩の藩士で、脱藩する前に、上信越地方を襲った地震によって一族妻子を失っていたということもその一つだ。つげ漫画ではその出自はミステリアスにぼかされているし、漫画で井月がつくりたかったという「草庵」が、本書を読むと江戸にあった「芭蕉庵」の再建だったということもわかる。興味のある人は本書とつげ漫画「蒸発」を併せて見るのも楽しいと思う。

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穂村弘『短歌という爆弾』(2000年4月10日初版第一刷発行・小学館)は、文芸評論。添削ディスカッションやメールレッスンありで、若い人向けの現代短歌の手軽な入門紹介の本という感じなのだが、親しみやすい文章の中にしっかりした著者の短歌についての考え方が随所に述べられている。90年代の新しい作家や作品の情報が満載なのが新鮮でとても面白く読んだ。「明るいニヒリズム」(坂井修一氏)と言われるような、それら「広義のニューウェーブ」の作家たちの作品の特質を、著者は<わがまま>と呼ぶ。「従来の短歌が根ざしていた共同体的な感性よりも、圧倒的に個人の体感や世界観に根ざしたものになている」とか、<私>意識の希薄化といわれるが「創り出す作品世界の全体がインナースペース化しているために、敢えて<わたし>を打ち出す必要がないというのが真相だと思う。」という指摘など、すごく説得力があるように思う。寺山修司の作品の「嘘」についての読み解き他、個別作品についての言及もこまやかで瞠目する個所多々。短歌や詩に興味のある若いひとに特にお勧め。

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佐野洋子画文集『あっちの女 こっちの猫』(1999年11月20日初版第一刷発行・講談社)は、画文集。猫についての短い詩的文章と、猫と飼い主らしき女性を描いた数々のリトグラフからなる。「この家を守っているのは誰だ。/おれ。/会社にも学校にも行かないもんね。/でかいトランク持って、/飛行機にのったりしないもんね。/この家にいちばん長いこと居るのは、/おれ。/ふらりと身一つで、/二晩くらい家をあけるだけなのに。/どこに行ったかって?/言わないもんね。」などとしゃべっているのが猫らしいのが楽しい。筋肉マンの恋人のような猫。おそろしく肥満体の猫。ダメと叫んでいる猫の顔をみてると、こっちも顔がくしゃくしゃになりそうだ。

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梁石白『魂の流れゆく果て』(2001年8月30日初版第一刷発行・光文社)は、フォトエッセイ。初出は「月刊百科」、「週刊宝石」(連載グラビアに文書)で一編書き下ろし稿を含む。著者は映画「月はどっちにでている」の原作『タクシー狂想曲』や、山本周五郎賞受賞作『血と骨』で著名な作家。挿入写真も豊富で活字も大きく時にルビつきで読みやすい配慮がされているが、内容は「あとがき」(「幼少期から今日に至るまでの断片的な記憶をまさぐりながら、できうる限り赤裸々に」、「ある意味では私の人生の核心的な部分を書いた。」)にあるように、きつい過去の波乱にとんだ人生経験を私小説的に吐露されているところもあって、読み応え充分。大阪で経営していた会社が5億円の負債をかかえて倒産してしまい、逃れるように仙台に流浪し、後に東京でタクシー運転手をして二度の交通事故に遭遇、ということだけでも書くと、とても平穏な日々ですまなかったことがわかると思う。若い頃詩を書いていたのが、後年作家として身を立てるきっかけになったというような記述もでてくる。そういえば、いつかフランスの酒場で詩を朗読されているシーンをテレビで見たことがあったのだった。

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工藤美代子『野の人 會津八一』(2000年7月25日初版第一刷発行・新潮社)は、評伝。初出は『芸術新潮』(95年〜98年に連載された「秋の野をゆく-會津八一の生涯」に加筆訂正)。歌人にして学者・書家でもあった秋艸道人會津八一の生涯の詳細な伝記で、師であった坪内逍遙との交流と、生涯独身を通した八一が終生思慕し続けた渡辺文子との交流についての記述が大きな柱になっている。八一の生涯について書かれた文章は数多く、それらの多くでは文子と八一が相思相愛の恋愛関係にあったとされ、八一もそれを匂わせる書簡を残しているというのだが、著者は文子の遺児瀬尾みよ子さんのインタヴューをふまえて、その事実を八一の片思い「勘違いの恋(情)」と断じているところが本書の特色。出版当時の反響はどうだったのだろうかと気になるところだが、私はいずれも初めて知る事ばかりで面白く読んだ。八一が一時九官鳥を飼っていて「こらこら」と呼びかけたという愉しい記述もある。茂吉が「万葉調の良寛調に近い」と評したという八一の短歌、いつかゆっくり読んでみたい。

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イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』(1977年7月15日初版第一刷発行・河出書房新社)は、幻想小説。稀代の旅行家マルコ・ポーロが、時の皇帝フビライ汗に使臣として旅先で見聞した諸都市の報告をするという設定で、55の独立した短い章からなる連作小説。『東方見聞録』の「もじり、パロディ」(「あとがき」)とされる幻想的な都市紀行で、千夜一夜物語をも連想させる。なにが面白いかといえば、やはり著者の空想とは知りつつも豊かな想像力と描写力で造形された奇想天外な諸都市の概説が堪能できることだ。急いで読むのには惜しい本。ちょっと集中力が必要だが、はまるとほとんど散文詩と呼びたいような豊饒なイメージの世界が広がる。語り、語られることの意味や、「都市」という概念についての思弁的な問答も、巧妙に織り込まれているので読み応えもある。フビライ汗が、マルコ・ポーロの旅の報告をチェスゲームになぞらえるシーンがでてくるが、まさに一章一章がそういう感じで、読めば夢中になれるのに、みごとに痕跡が残らない爽やかさ。谷に渡された鎖にぶら下がっているという都市や、それに時代が時代なのに飛行場のある都市などもでてくる(^^;。

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アラン・G・トマス『美しい書物の話』(1997年11月10日初版第一刷発行・晶文社/2700+税)は、書物の歴史の解説書。書物の歴史といっても、活字や装画といった書籍デザインの歴史についての本で、「中世の彩飾写本」、「初期印刷術」、「彩色図版のあるイギリスの書物」、「プライヴェート・プレスの時代」という4章からなる。著者はイギリス古書籍商協会の会長を務めた人で、屈指の稀観書を専門に扱う古書籍業者として著名だったという。そういう人が経験豊かな目で見極めた「美しい本」の数々を、それらの本の出版にまつわる歴史的なエピソードを織り交ぜて、賛嘆しつつ紹介したという感じの本だ。図版も多数挿入されていて、この本自体目にも楽しい仕上がりになっている。装飾文字や装画、ページの縁を飾る多種多様なデザインの歴史というのは、ウェブサイトのページを飾るときにも好きな人には参考になると思う。4章の「プライヴェート・プレス(私家版印刷所)の時代」では、個人的にも好きなウィリアム・モリスが第一人者として取り上げられている。

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工藤美代子『黄昏の詩人』(2001年3月22日初版第一刷発行・マガジンハウス/1800+税)は、評伝。「鳩よ」に、99年2月から2000年11月号に連載された『戊辰の残歌』を改題、再編集したもの。副題に「堀口大學とその父のこと」とあるように、外交官として活躍した堀口九萬一と詩人堀口大學の父子二代にわたる伝記。著者はあとがきで、堀口大學を調べ始めたところ、心情的にその父の九萬一の生涯に惹かれていき、とうとう本書の半分は彼について紙数を割くことになったという意味のことを書いている。確かに明治二十七年の第一回外交官及領事官試験に合格し、以降は外交官の草分けとして世界各国に赴任し第一線で活動し続けた堀口九萬一について書かれた部分は、日本の外交史や歴史的事件と交差する出来事も多々あって興味深い本書の読みどころとなっている。そしてそのいかにもおおらかで気骨ある明治人エリートといった九萬一の生き方と並置されることで、半生はその庇護の元に文芸にうちこんだ堀口大學の生の特質もおのずと浮き彫りにされている。この疎遠かつ親密な父子の生き方の好対照。著者の本を繙くのは西脇順三郎の伝記『寂しい声』(筑摩書房)以来。明快で暖かい文章に促されて今回も一晩で読み切ってしまった。

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村上龍『THE MASK CLUB』(2001年7月13日初版第一刷発行・メディアファクトリー/1400+税)は、小説。著者のホームサイト「tokyoDECADANCE」に連載され、サイトの閉鎖に伴い中断、後の後半部分は雑誌「ダ・ヴィンチ」に連載されたのが初出。恋人が彼女の幼友達数人と定期的に開いている仮面SMパーティの会場に忍び込んで殺された男が、そのマンションの一室で、死後、なぜか消え入りそうな意識を長らえて目覚めている、というファンタジックな出だしからはじまる。この小説、ネットに連載中に出だしのところを読んだはずなのにさっぱり記憶に無かった。途中で連載が一時中断したことが影響しているのか、後半から文体ががらりと変わり、最後は落語のような落ちになってしまっているが、途中で読者をひっぱっていく力は相変わらずだ。「、、、黒に、一瞬他の色が混じって見えることもあった。昼の光の中ではそれは銀色だったし、街頭の下では黄色みがかって見えた。蛍光灯の下では青白い色が見えたし、ロウソクの明かりの傍ではオレンジ色の粒子が輝くこともあった。」主人公の恋人がはいていた黒いストッキングが、光の加減で、どんな色調に見えたかという記述だが、この微細な観察を書き留めるのりの愉しさ。

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大久保秀樹『見出された「日本」』(2001年5月25日初版第一刷発行・平凡社選書/2400+税)は、日本文化論。19世紀末から20世紀末の現代に至る時期に滞日した世代の異なるフランスの作家、詩人、思想家たちの日本体験の核心を、彼らの著作の丁寧な読み解きを通じて浮き彫りにする試み。論じられている顔ぶれとその主な作品名にあげると、ピエール・ロチ(『お菊さん』、『秋の日本』)、ポール・クローデル(『東方の認識』、『朝日の中の黒い鳥』)、アンドレ・マルロー(『人間の条件』)、ロラン・バルト(『表象の帝国』)、クロード・レヴィ・ストロース(後期の講演・対談などでの諸発言)。全体を通して読むと日本文化の解釈が、エキゾチズム、象徴主義、実存主義、ポストモダン、構造主義、といった同時代的なフランスの文芸・思想潮流とともに変遷していくのがうっすらと判る感じがするが、そうした大枠を越えて個々の作家の独自性が伝わってくるところまで踏み込んで丁寧に著作が紹介されているのが特色。なかではレヴィ・ストロースの発言が民族学者としての相対化の手続きをふまえていて異質だが、そこで日本文化の特色と言われていることの多くに共感できるとともに、そのなしくずしの喪失過程とともに現在があることをも痛感してしまうのだった。

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柳美里『生』(2001年9月20日初版第一刷発行・小学館/1238+税)は、「私記」。「週刊ポスト」(2001年3月16日号〜7月13日号)初出。『命』『魂』に続く、「育児・闘病「私記」」の第三作。前作に続き末期ガン患者である著者のパートナーを看病したきつい日々の記録が記されている。書いてしまってもいいと思うので書くが、本書はそのパートナーが闘病生活の果てに逝去するまで、死の直前の約一ヶ月間の記録になっている。病室の様子や投薬や患者の容態や医者とのやりとりなど克明に記されているので、末期ガン治療の実状や医療現場の情報としても、いろいろな意味で貴重な記録にもなっていると思う。「切羽詰まっている」という言葉が何度かでてくるが、著者はその「切羽詰まった」感じを他におもねることなく率直にさらけだす。その筆致の率直さは「文学」に仕えているというより、何かもっと別のものに仕えているという感じだ。それをいつもうまく言えないのだが。。後半、その筆が著者の心の内奥を抉るかのように鋭さをますことで、生きるせつなさの原質のようなものに触れかけている、という感じがする。

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吉増剛造『燃えあがる映画小屋』(2001年5月20日初版第一刷発行・青土社/3200+税)は、講演対談集。アテネフランセ文化センターで行われた連続講演「吉増剛造氏の映画批評--詩と映画の間の、旅」(96年11月~97年12月・全5回)の内容他が収録されている。本書に登場する対話者は、田村正毅、豊島重之、前田英樹、木村威夫、宇野邦一、西谷修の各氏。著者撮影の写真や講演時に朗読された詩作品(たいていは直前に講演会のために書かれた作品)も収録されているので、講演・対談・写真・詩集・エッセイ集を兼ねた多面的吉増ワールドが楽しめる。多面的といっても、著者の強烈な自己意識の磁場があってそこからモノローグ的な語りの調子を帯びた言葉が繰り出されてくるのは、対談や講演でも同じだ。それで和気藹々としたフランスの思想・文学・言語学の研究者や演出家、映画監督といったゲストたちとの対話もしっかりかみあっているようで、ちょっとそれると詩のようになってしまいそうな雰囲気に満ちている。著者は学生時代に相当な映画青年で黒沢明監督作品「椿三十郎」の映画批評を書いて初めて原稿料をもらったというエピソードなど、本書で初めて知った。「昔「スクリーン」という雑誌があって、リタ・ヘイワースが出ていましたけれど、思い出しただけで、どきどきします。」(「映画が立ち上げある」より)なんていう特筆すべき?発言もある。

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ジャン・グルニエ『エセー』(2001年7月25日初版第一刷発行・国文社/2400+税)は、「日々の生活」という副題のあるエッセー集。著者の死の数年前(68年)にフランスで出版された本の訳出で、11冊目の邦訳という。「旅」「散歩」「ワイン」「煙草」「秘密」「沈黙」「読書」「眠り」「孤独」「香り」と題された各章からなる。グルニエは「派手な文章とか、人の心を酔わせるような美文とかに縁のない地味な作家である」と訳者は書いているが、私などは、彼の「対象を直接的に論じるというより、周辺を描くことで、対象を浮き上がらせる」という文章の方法にいつも魅力を見いだしてきた。それは何について語るにせよ、語り得ることより、語り得ぬことのほうに関心が傾斜していくという孤独な精神の住処に、心地よく導かれる読書の体験だ。「散歩ができるということは、散歩する暇があるという意味ではない。つまりそれは空を作りだすことができるということ、われわれの仕事や関心事の中に隙間をうがつことを意味している。そしてその隙間をよぎることによってわれわれは自分たちの純粋な愛の対象となるものと合流できる。だが能力を越えるゆえに、私にはそれを何と呼んだらいいか判らない。散歩はわれわれが今まで決して求めようとしなかったものを見出す手だてではないだろうか?」(「散歩」より)。

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日野啓三『梯の立つ都市 冥府と永遠の花』(2001年5月30日初版第一刷発行・集英社/1700+税)は、短編小説集。九十年代後半に各種文芸雑誌に初出。「九十年の腎臓ガンのあと、膀胱、鼻腔などのガンの入院手術が続き、きつい時期だった」と「あとがき」にあり、著者はこの「暗さの極限で光の予感を手探りしていた」時期を象徴する作品として、「梯の立つ都市」と「冥府と永遠の花」を自らあげている。前者は深夜のビル街で突然強烈な非現実感に襲われる話で、その出来事が、一年後の内臓ガン発見の予告だったのではないか、という感慨が作中にある。後者では、やはり近所の路地を歩いていて突然実感されたという一種の特異な認識体験が描かれている。記憶のなかで「あのときは本当に生きていたな」と心の支えになるような風景には、いつも「光」が射していた。と、著者はいう。それ以外の記憶(の風景)というものは、「私がこの危うい世界を生きていく上で実はどうでもよかったことだったのだ、とゆっくりと気付いたのだった。」(『冥府と永遠の花』)。この宇宙には、私を死なせる力があるように、生きさせる力もまた存在する。。。こうした著者の幻視や特別な認識の体験の記述を文学的な自己劇だというのはたやすいかもしれないが、他のことはもう「実はどうでもよかったこと」と確信するような死に近縁の深い心の場所から言葉が発せられていることを見逃すべきではないだろう。

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玄侑宗久『中陰の花』(2001年9月1日初版第一刷発行・文藝春秋九月号/730+税)は、第二十五回芥川賞受賞小説。雑誌初出で読んだ。禅宗の寺の住職則道が生前から懇意にしていた拝み屋のウメさんが、子宮癌で入院中の病院で自ら予言した日に自然死のように八十九歳で死去する。その場に付き添った則道は、やがてうめさんの四十九日の前々日に、妻圭子が数年前に流産した自分たちの息子の霊の供養をかねて仏前でお経をよむ。そのとき、本堂の天上から吊った圭子が四年かけて丹精をこめて作った紙縒のシートが応答するように揺れ動いたのだった。。。うめさんの命日から四十九日までの間、この「中陰」の時期の、寺の住職夫婦の日々を、生前のうめさんや檀家の人々のエピソード、また住職夫婦の間で交わされる仏教の教えについてのニューサイエンス風会話(^^;などを織り込んで淡々と語った小説。この世の人智の及ぶのは僅かな領域で、その向こう側には到底知り得ぬ世界がある。禅宗僧侶である主人公則道はそうした穏当な考え方をしているのに、彼の周囲のうめさんや妻圭子、石屋の徳さん夫婦などは、もう一歩向こう側に身を乗りだしているし、仕事柄則道に持ち込まれる相談事も、その種の悩み事が多い。そういう環境を主人公は戸惑いつつ受け入れているという感じだ。人情話的な文体なので、描かれる不思議現象のインパクトもまた庶民的。

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岩田明『日本超古代文明とシュメール伝説の謎』(2001年4月20日初版第一刷発行・日本文芸社/1200+税)は、古代史推理の本。BC2000年頃に滅びたメソポタミア文明。彼らシュメール人の王族や従者たちは海を渡り、その末裔は、南インド、東南アジア、中国、朝鮮、沖縄を経由して1000年ほどをかけて、日本にたどり着いた。これが日本に米をもたらしたシュメールの海人族、いわゆる弥生人である。彼らは原日本人(縄文人)と混淆し、古代日本文化をつくりあげたのだった。という、壮大な仮説が提示されている本だ。アカデミックな見解からすれば、いわゆる「超古代史」もののトンデモ本に分類されてしまうのかもしれないが、私は興味津々で本書の想像力・構想力を大いに楽しんだ。というのも、著者はメソポタミア文明と古代日本文化の共通性を、言語や風習、紋章、神話など多くの分野で指摘しているが、去年あたりから何故か古代メソポタミアの女神像などに惹かれ、沖縄・海人族の起源などにも惹かれていた私としては、偶然ながら関心領域がこの本の中で煮詰まってるなあ、という気がしたのだった。著者は新彊ウイグル自治区のホータンにシュメール文明のさらなる原郷を見いだす。それが伝説の理想郷「シャンバラ」だったとは!。。

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福田繁雄『福田繁雄のトリックアート・トリップ』(2000年7月5日初版第一刷発行・毎日新聞社/1800+税)は、豊富な写真入りの美術コラム集。「毎日新聞」日曜版に98年10月から2000年3月まで連載された文章を再構成したもの。著者である福田繁雄氏が、世界中の美術館や街角で撮影し蒐集したトリック・アート作品の数々を、楽しい旅行記的感想ノートに付して紹介した美術コラム集だ。トリック・アートというのは、人間の視覚の性質を利用して、意外な効果を意図した芸術表現で、エッシャーのだまし絵のようなものから、壁に描かれた偽の窓や扉、巨大な寸法の日用品を模したオブジェなど、さまざまな試みを含む視覚芸術をいう。著者は世界的にも著名で日本ではこの分野の第一人者といっていいだろう。つくる人が意外な面白さを狙って作品をつくるのだから、その意図が伝わるとこれが面白くないわけがない。本書は一年半分くらいの連載コラムの集成なので、かなり量的にもボリュームがある。休日の午前中に新聞の日曜版をちゃぶ台に広げてお茶を飲む。そんなゆったりした気分の中で目の驚きや喜びにひたりながら、そもそも絵画の遠近法というのもトリック・アートではないか、などとあれこれ考えたりするのも悪くない。

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