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走り書き「新刊」読書メモ(16)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(01.1.23~01.5.8)

 21世紀研究会編『人名の世界地図』 森まゆみ『一葉の四季』 岩明均『雪の峠 剣の舞』
 パトリシア・ハイスミス『世界の終わりの物語』 ポストロス・ドキアディス『ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」』 阿川弘之『食味風々録』
 斉藤史『過ぎて行く秋』 吉本隆明『幸福論』 ジャン=フィリップ・トゥーサン『セルフポートレート(異国にて)』
 谷川健一『古代海人の世界』 ラブ・オーシュリ、上原正稔編著『青い目が見た「大琉球」』 高良倉吉『琉球王国』
 筒井康隆『恐怖』 砂守勝巳『オキナワ紀聞』 河野多恵子『秘事』
 林望『パソコン徹底指南』 飯村隆彦『ヨーコ・オノ 人と作品』 大江健三郎『取り替え子』
 松丸春生『朗読 声の贈りもの』 佐々木幹郎『自転車乗りの夢』 ナンシー・エトコフ『なぜ美人ばかりが得をするのか』
 村上龍『アウェイで戦うために』 河合隼雄『おはなしの知恵』 井坂洋子『永瀬清子』
 柳美里『魂』 松本大洋『GOGOモンスター』 町田康『きれぎれ』
 スティーブン・キング『ライディング・ザ・ブレット』 レジーヌ・ドゥタンベル『閉ざされた庭』 村上春樹+柴田元幸『翻訳夜話』


21世紀研究会編『人名の世界地図』(2001年2月20日初版第一刷発行・文春新書/780円+税)は、世界中の人名の由来を説いた本。21世紀研究会とは、歴史学、文化人類学、考古学、宗教学、生活文化史学の研究者9人によって設立結成された会で、すでに『民族の世界地図』『地名の世界地図』(共に文春新書)を刊行している。このうち前者は、ニュース報道の理解に恰好な世界各地の民族紛争の歴史的経緯がコンパクトにまとめられている好著だ。。で、肝心の本書を紹介したくなったのは、こういう本はあるようで今まで無かったという気がするからだ。どこを開いてもいいが、たとえば「アンドリューAndrewはイエスの最初の弟子となった聖アンデレ(ギリシャ語名アンドレアスAndreas)の名前に由来する。、、、アンドレアスは、デンマーク語ではdの発音が抜けてアナスAndersとなる。そのアナスに、息子を意味する「ソン」や「セン」がついた姓はスカンディナビア三国に多い。、、、」というような名前の由来や言語による変化の解説が延々と続く。これが単調なようで、なぜか実に面白いのだ。中国、韓国、アジア、アフリカの名前にも触れてあって、とにかく面白い、なぜなんだろう。

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森まゆみ『一葉の四季』(2001年2月20日初版第一刷発行・岩波新書/700円+税)は、樋口一葉の世界を紹介した本。コンパクトな評伝といった体裁の一章「樋口一葉」、一葉の文章に登場する風物描写を辿りながら明治時代の東京下町の四季の生活風俗を紹介した二章「明治の東京歳時記」、同時代の文学者たちを一葉との交流のエピソードと共に紹介した三章「一葉をめぐる人々」と、「あとがき」からなる。いずれも見開き二頁で読み切ることができるように工夫された短文から構成されているので、ちょっとした空き時間に気軽に目を通すことができる本だと思う。一葉の暮らした本郷の至近の町に育ったという著者は、「読めば読むほど一葉が他人とは思えなくなった」(あとがき)と書いている。一葉に惚れ込んだ研究者という感じだろうか。二章の東京歳時記がメインで、一葉一家の細々とした生活ぶり(よく困窮ぶりが強調されるが、当時の庶民家庭としては、平均的ではなかったか、と著者は書いている)に対する親密感がよく伝わってくる。地の文章も簡潔で切れ味が爽やかだ。

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岩明均『雪の峠 剣の舞』(2001年2月20日初版第一刷発行・講談社/680円)は、コミック。「モーニング新マグナム増刊」(講談社)、「ヤングチャンピオン」(秋田書店)誌にそれぞれ初出連載された「雪の峠」、「剣の舞」という二作品が収録されている。戦国時代に題材をとった実在人物が登場する歴史もの漫画なのだが、やはり「寄生獣」の作家、一味ちがって楽しめる。絵柄の迫力で読ませる、というのではなく、こなれたストーリーを簡略な線でさらっと描いている。大名の重臣たちの権力闘争や農民の娘の仇討ちといったストーリー自体は、時代小説の世界に目を転じれば斬新とは言えないのかもしれないが、それを重くならずにさらさらと描いて余韻を残すところが独特の味わいだ。資料的にもしっかり押さえてあるようなので、時代小説ファンならさらに奥行きが楽しめると思う(想像)。

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パトリシア・ハイスミス『世界の終わりの物語』(2001年1月30日初版第一刷発行・扶桑社/1500円)は、短編小説集。映画「太陽がいっぱい」「見知らぬ乗客」の原作者で、95年に亡くなった作家ハイスミスの最後の短編集という。生体実験した遺体を埋めた病院裏の墓地に繁殖する新種キノコの話。放射性廃棄物の杜撰な処理にからむ話。高級高層マンションに出没する巨大ゴキブリ駆除の話など10作品が収録されている。「書いてはいけないこと」を書いた、とんでもなく「後味の悪い短編(集)」とは、訳者のあとがきの言葉だが、確かに人間と自然の葛藤をある角度から眺めると見えてくる冷酷無惨な世界というものがある。この作品集は、そういう視線から利己的な生き物としての人間の卑小さ、愚劣さを容赦なく暴いているといってもいい。私は「白鯨2」が面白かった。著者の視線が鯨の側からも捕鯨する人間の側からも離れた視線であるだけなのに、それがそのまま悪意のように読めてしまう世界に私たちは住んでいるのだと今更に気付かされる。著者が、晩年までこうした地球規模の関心や辛辣な批評精神を失わなかったのは凄いことだと思う。ゴキブリの苦手な人は要注意の本。

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アポストロス・ドキアディス『ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」』(2001年3月10日初版第一刷発行・早川書房/1800円+税)は、小説。ギリシャのアテネに住む「僕」の伯父さんペトロスは、片田舎の村に隠遁者のように一人でひっそり暮らしていて、親族(特に僕の父)からはいたって評判が悪い。何の仕事をしているのか興味にかられた僕がひそかに調べたところ、元ミュンヘン大学の数学教授(解析学)だったということがわかる。数学と言えば僕の得意科目だったが、そんな伯父さんの秘密を知ってから興味が増して高校では優秀賞を貰うまでになった。やがて僕がアメリカの大学に進学を決め、将来は数学者になりたいのですがと相談しに行った時、ぺとロス伯父はひとつの数学の問題を示して、三ヶ月の間にその問題を解いてくるようにと言った。その問題が解けなければ、みこみがないので数学者になることは諦めろというのだ。僕は必死になってその難問に取り組むが。。。変な言い方だが(読むとわかると思うが)、ときにこれが小説だということを忘れてしまいそうになるほど、面白くよくできた数学者の逸話風物語だ。ゲーデルが登場する20世紀の数学史の大転換の歴史ドラマも、ストーリーに巧妙に編み込まれている。「二百年間未解決の難問に挑む。天才数学者の生涯を描く物語。」(帯の言葉)。

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阿川弘之『食味風々録』(2001年1月20日初版第一刷発行・新潮社/1700円+税)は、食べ物エッセイ集。「波」に97年から2000年にかけて初出連載。この手の本は空腹時に読むにはつらいものがある。そこで食後にコーヒーでも飲みながら読み始めるのだが、興にのって文章を「味わったり」「噛みしめたり」「酔ったり」しているうちに、いつの間にか空腹になってくるので要注意だ。本書にはテーマの異なる28編の酒や食べ物をめぐるエッセイが収録されている。著者は食べる方専門のひとのようで、食をめぐる四方山話や経験談のほうに重心があるのだが、料理によっては作り方も書いてある。こういう本を読んで、珍奇な食材、調理法(「ひじきの二度飯」、「蚊の目玉」や「栗鼠の糞」!)や有名料理店の話がでてくるとなるほどと感心するが、本当は安くて簡単でそれで美味しそうな料理の話があればめっけものだ。本書だと「弁当恋しや」や「卵料理さまざま」などのエッセイだろうか。著者の達意の文章は言いたいことを書きながら随所に読者・他者への配慮があって大人の味。海軍時代や旅客船の食にまつわる話がきっと載っているだろうなと思っていたら、やはり載っていて愉しく読んだ。


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斉藤史『過ぎて行く秋』(2001年2月10日初版第一刷発行・河出書房新社)は、小説集。長編の表題作、短編「太鼓」、他に年譜や山口泉氏の解説、俵万智、水原紫苑のゲストエッセイを収録。表題作は1948年に信濃毎日新聞創業75周年記念懸賞小説に一席で入選した作品で、あとがきを読むと「太鼓」もまたその頃執筆されているのがわかる。共に初めて日の目をみるといっていい歌人斉藤史による「幻の」散文作品集だ。「過ぎて行く秋」は、敗戦の数年後、疎開して田舎暮らしをしている阿佐子が画学生時代の先輩山口夫妻の住む高原の別荘を訪ねる場面から始まる。阿佐子は、戦争で夫を亡くし、片足も不自由になってしまった30代前半の戦争未亡人。阿佐子が昔の画学生仲間と旧交を暖めあい、結核患者の若い青年と知り合い、といった挿話が重ねられ、やがて舞台は東京に移って、美術商会に勤めはじめた阿佐子が体験する日々のエピソードが綴られてゆく。とても面白く読んだ。全編を通して会話にみられる繊細でひねったようなないいまわしや受け答え(モダンで心理主義風な奥行きや味わいがある)と、敗戦後まもない都会の風俗状況やそこに生きる人々の姿がリアルに描写されているのが魅力だ。深読みだが、ダイヤモンドダストと青年の死は、遠く著者の若き日の記憶にもたむけられているように思われた。映像の喚起力と会話の言葉遣いがあいまって、読んでいて当時の映画を見ているような思いに何度もかられたが、そうなると阿佐子役は当然、原節子だっ。


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吉本隆明『幸福論』(2001年3月25日初版第一刷発行・青春出版社/1400+税)は、老いてからの幸福というテーマを中心に、家族、教育、知識、言葉、身体、死、などについて語りおろした論考。2,30年前だったら、60位で定年になり孫の世話や盆栽いじりでもしていれば4,5年で一生の終わり、ということになっていたが、今ではそれから20年、30年の生き方が問題になっている、と著者は言う。この時期を著者は「超・老齢期」と呼んで、自らの体験に即しながら、その時期の過ごし方・考え方について様々な角度から自らの考えを述べている。基本的には、大きい目標などたてずに、時間を細かく刻んで、その時々の幸福感、不幸感を大事にして、「そのときになりきる」こと。それ以上助言すべきことは、ない、というのが本書の主張だ。これは「超・老齢期」に誰もが直面せざるを得ない死の不安や恐怖という観念から逃れるための唯一の処方のように言われているのだが、自然や生理が強いてくる厭世観念への傾斜と生きる意志のはざまで77歳になる著者自身が時間をかけて体得されたひとつの境位という感じがして味わい深く読んだ。現在では「超・老齢期」の生き方について実験、模索的段階で、これといった一般的で模範的なあり方は誰も提出できていない、と著者はいう。いまいわれているのは、大抵老齢期までのことの延長か、老齢期までのことを言っているにすぎない、と。こういう著者の独特な問題の捉え方にはいつも啓発される。親子孫三世代住宅も老夫婦同居も幸福な暮らし方の範型のように言うことができるのは老齢期までのことで、それ以後はなにが一番いいのかまったくわからない、そんなふうにも著者は語っているのだ。


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ジャン=フィリップ・トゥーサン『セルフポートレート(異国にて)』(2001年1月31日初版第一刷発行・集英社)は、旅行エッセイ集。初出は「文学界」(2000年5月号〜9月号)。著者トゥーサンは『浴室』や『テレヴィジョン』など、これまで5冊の小説を発表しているフランスの作家で、この本は作家生活15年目にして初めて刊行されたエッセイ集だという。本書には、東京、香港、ベルリン、プラハ、コルシカ、京都、奈良、ヴェトナム、チェニジアが舞台の11編のエッセイが収録されている。旅行エッセイといっても、異国文化や歴史、そういうものに焦点が当てられているわけではなく、「セルフポートレート」というタイトルに相応しく、著者が旅先の「日常」で遭遇した印象深い出来事が軽妙な筆致で書き留められている。味わいがあるのは旅先での他者とのふれあい場面での、なんともフランス風エスプリというか諧謔味を含んだ人間観察描写だ。相当毒があるといえばいえるが、それが気取りのないあっさりした大人の味わいで、なるほどこういう持ち味が魅力の作家なのだな、と想像させられる。あとがきには、去年の夏、著者の本の翻訳者たちがベルギーのさる城館に招待された話がでてくるが、そこに集まったひとたちの出身国が、日本、中国、カナダ、チェコ、オランダ、ドイツ、ブルガリアで、その顔ぶれのほとんどが、本書の翻訳中だったというから、有名な作家なのだなあと驚いた(私は著者の小説を一冊も読んだことがないのだった)。


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☆谷川健一『古代海人の世界』(1995年12月10日初版第一刷発行・小学館/2427円+税)は、海人研究の書。古代の海人族には潜水漁民と家船漁民の二つの型があると言われる。三章からなる本書は、一章、二章がそのそれぞれの研究に当てられていて、三章は「海の彼方からの寄り来るものを、海人がどのように接受したかを展望した」(「序」)とされる章。これまで古代の海浜の民について意識して考えたことがなかったので、本書の記述は愉しい驚きの連続だった。氏族の祖(トーテム?)を海底の生物(ウツボやウミヘビ)にもつ人々がいるという話や、黒潮の流れにそって移住漂泊したという家船漁民の話など、様々な連想や想像に駆り立てられる。また一章の二で論じられている言葉の由来の考察がとりわけ興味深かった。古代では、ウツボ、ウナギ、ハモ、ウミヘビといった海底の生物は、呼称を共有し同類として扱われていた、と著者は推測して(沖縄に残る呼称などを例に)、その総称はウズ(ウジ、ウーズ)であったとしている。さらに辿ると、このウズという語は、ヌジ(ニジの古語)に由来すると言われる。空にかかる蛇(ニジ)と海底の海蛇(ウズ)、の対照は、天(アマ)と海(アマ)の類似を連想させる。読んでいて、先頃東京国立博物館の「土器の造形」展で見た縄文土器群のおびただしいウズマキ文様を思い出した。うずうず。沖縄旅行を10倍楽しむための一冊。


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☆ラブ・オーシュリ、上原正稔編著『青い目が見た「大琉球」』(1987年8月1日初版第一刷発行・ニライ社/10000円)は、画文集。18世紀末から19世紀中葉に至る琉球王朝末期の半世紀に、琉球を訪れた欧米の船舶は67隻にのぼるという。来訪者たちはペリーの『日本遠征記』や『バジル・ホール大琉球航海探検記』を始め多くの旅行記や見聞史料を残したが、本書は、そうした文書に付された挿画(版画を中心にした、水彩画、油絵、鉛筆画)を、原書、当時の新聞、雑誌にあたって蒐集し、分かりやすい解説つきで紹介した労作。画集としては巨大というほどではないが、全体240頁のほとんどどこを開いてもきれいな絵がとびこんでくるずしりと重たい本で、定価は1万円。図書館で手にとって思わず借りてきた。近代化される以前の沖縄の「南国の楽園」的景観をはじめ、各種建造物、人々の服装から、男性の髪型(タカカシラ)や女性の手の甲の入れ墨模様各種、動植物の細密画に至るまで、博物誌的に網羅されている。旅行記の珍しい挿画については、当時いろんな模倣贋作が出回ったようで、本書ではそれらと原画との異同をユーモラスに比較紹介しているのも楽しめるところだ。編著者のひとり、ラブ・オーシュリ氏は52年生まれで沖縄在住の宣教師という。沖縄病にかかった人だろうか。なお、「大琉球」という言い方はおおげさな賞賛ではなくて、大航海時代以降のヨーロッパ人の間での一般的な呼称だったという。沖縄旅行を10倍楽しむための一冊。


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☆高良倉吉『琉球王国』(98年1月20日初版第一刷発行・岩波新書/700円+税)は、沖縄の歴史についての本。たぶんいま書店で手軽に入手できる最もコンパクトで読みやすい琉球史の解説書のひとつだと思う。沖縄には旧石器時代から人々の住んでいた痕跡があるが、統一的な文化形成に急激な変化や特色(水田、鉄器、城砦など)が見られ始める12世紀頃からを「グスク時代」と呼び、三つの有力な地方勢力が競い合った三山時代、1429年の統一王朝成立(第一尚氏王朝)、1470年の第二氏王朝成立を経て、1609年の薩摩軍の侵入(これにより、以後、琉球王国は徳川の幕藩体制に編入、従属させられた)までを「古琉球」と呼ぶ、という。本書では前半に、この「古琉球」時代の歴史の概略が紹介されていて、後半では残された辞令書などから推測される、当時の政治行政制度についての研究成果が紹介されている。地方集団の首長(按司)たちの勢力争いから始まって、三すくみの強力集団の共存の時期を経て統一国家が成立するまでの、比較的短いが凝集された時間の流れは、人類の国家発生絵巻のひながたのようにも思えて興味深く読んだ。沖縄旅行を10倍楽しむための一冊。


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筒井康隆『恐怖』(2001年1月10日初版第一刷発行・文芸春秋/1048円+税)は、小説。初出は「文学界」(2000年5月号〜9月号)。さる地方の文化都市「姨捨市」に住む小説家村田勘市は、ある日買い物帰りに通りかかった知り合いの画家町田美都の家の玄関ドアが開いていたので、不用心なことにと注意しようと屋内にあがりこんだところ、板の間の椅子に腰掛けた姿勢のまま絞殺されている美都を発見した。これが当地の文化人たちを恐怖に陥れた連続殺人事件の幕開けだった。。ということで、本書は、殺人犯は誰か、という謎にからめた推理小説的な体裁をとりながら、自分も犯人に狙われているに違いない、という想念にとりつかれた一小説作家の心理状態が戯画的に描かれているブラックユーモア小説だ。主人公は疑心暗鬼がつのって、しだいに狂気に傾いていくのだが、そのプロセスは誇張されたり面白可笑しくも描かれているので、ゆとりさえ感じられて、あまり切実な「恐怖」は伝わってこない。短い章だてて、テンポよくストーリーが展開していくので、あっという間に読み終えてしまう。深読みすれば、地方の文化人社会の平穏な日常の底にある、ある種の他者との隔絶感や不信感をパン種に、ブラックな物語として膨らませたという感じだ。美都の人形と村田との会話シーンのおかしさは、この作家ならでは。


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☆砂守勝巳『オキナワ紀聞』(1998年6月29日初版第一刷発行・双葉社/1900円+税)は、写真入りの沖縄ルポ。「沖縄病」というのものがあるそうだ。これはもちろんよくあるジョークで、いちどいったらやめられなくなる沖縄の魅力にとりつかれた人のかかる症状を指して言う、という。本書には沖縄で生まれ育ったり、いろんな経緯で沖縄に住みついた人々についての聞き書きストーリーが5編集められていて、そのそれぞれに著者撮影の魅力的な写真ページ多数が解説入りで挿入されている。著者は第十五回「土門拳賞」を受賞した沖縄本島生まれの写真家で、本書は「写文集」と銘打たれている。国際結婚して沖縄に住みついたカップルたち、若者たちの音楽グループ「やむちん(焼き物、の意)」の物語、写真を撮りに行って、いつのまにか沖縄に住みついてしまった少女いっちゃんの話など。人物ルポに焦点があてられているので、どうしても歓談やインタヴューの舞台になる狭くて小さい居酒屋の話が沢山でてきて、お酒の好きな旅行予定者には興味深い。海辺の風景写真の美しさは言うまでもないが、復帰後さびれた米兵向け繁華街の風景写真も、どこか懐かしい風情がある。そういえば基地の街ということでは横田基地をかかえる私の地元福生にも似たような環境に置かれていた元米兵向け歓楽街があるのだった。個人的には沖縄旅行を10倍楽しむための一冊。


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河野多恵子『秘事』(2001年2月20日初版第一刷発行・新潮社/1800円+税)は、小説。初出は「新潮」(99年7月号〜2000年9月号)。三村清太郎と妻の麻子は、共に昭和11年生まれ。同じ関西の大学の同期生で、卒業後三村は総合商社に入社し、その年の秋、二人は結婚した。その後の夫婦の生活は破綻無く、麻子は二人の息子を産み育て、その間に三村は内地勤務を挟みながら、シドニー、ロンドン、ニューヨークと海外支社の赴任を重ね、キャリアを積んで、五十三歳で常務取締役に抜擢される。小説は、この夫婦の出会いから、50代後半までの人生の起伏を、さまざまなエピソードを交えながら家族日誌のように淡々と描いている。夫の海外赴任に家族が同伴する時期もあり、この第一線で活躍する商社マンを働き手にもつ一家の生活形態は、一般からすればまだそれなりに特殊とはいえるだろうが、夫婦の長い半生に特別な事故や深刻な危機が訪れるわけではなく、子供達も結婚し孫にも恵まれ、まずは平穏で堅実な一家の暮らしむきの描写に終始しているといっていいい。そのうえで作者は、この夫婦ふたりに通う心の絆に焦点をあてる。それにはふたりが結婚する前に起きたある不幸な事故をめぐる互いの思いがからんでいるのだが、その不幸な出来事の記憶ゆえに互いの思いやりや愛情が生活の節目にあらわれてきて、いつか夫婦の心を深く結びつける絆になっていったように描かれている。上善は水の如し、というとお酒の名前だが(^^;、そんな言葉を思い出した。とくに麻子のたよりないようなたのもしいような奥行きのある心理造形が魅力的。


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林望『パソコン徹底指南』(2001年2月20日初版第一刷発行・文春新書/690円)は、書き下ろしのパソコン入門書。これからパソコンやインターネットをやってみたい人にお勧めだ。ただし著者はマック派なので、買う機種をウィンドウズに決めている人には情報にやや偏りがあるかもしれない。それとパソコンのみならずエッセイなどの作文術指南にページが割かれているところもある。そこでは論旨明快に論旨明快な文章の書き方が書いてあるので、するする読める。中には、パソコンが詩を書くのに最適という著者の新説も。。本書はパソコンの初心者向けの本だが、著者が苦労した体験談が書かれているので、実はある程度の経験者のほうが味読できたり、即座に応用が利くかもしれない。フロッピーやMOディスクのラベルは事故のもとなので、白いものを買って内容を直接マジックで書き込んでいるとか、エディターソフトよりワープロソフトのほうが、パソコンの性能があがった今日では実用的で使いでがあるとか、アクセスしながらメール文を書くのはトラブルのもととか、なるほどと思うことが沢山書いてある。パソコンを信用するなかれと、データのバックアップの必要性もかなりしつこく書いてあって、なんて用心深い人なんだろうと思うかもしれないが、これはトラブル経験者なら(^^;、言いたい気持ちがよくわかると思う。


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飯村隆彦『ヨーコ・オノ 人と作品』(2000年1月18日初版第一刷発行・水声社/2200円+税)は、表題どうり小野洋子の作品を紹介した本で、併せてインタヴューやイベント会場での聴衆との質疑応答、年譜等が収録されている。基本は85年に文化出版局から刊行された同名の本(92年に文庫化もされている)の再刊(増補版)。小野洋子のこれまでの芸術活動の軌跡が、作品発表間もない頃に書かれた著者の文章の再録という形で、時系列的にまとめられているから、興味のあるひとには、当時を知るための資料にもなると思う。本書を読んで小野洋子について初めて知ったことは多く、第一印象は、幾多の屈折はあれ、「表現」ひとすじに走り続けている人だなあ、というものだ。若い頃、サン・ローレンス大学で作曲と詩を学んだ人(アルスター・リードに師事)だというのも初めて知った。「詩」ということが、言葉の芸術というところから離れて、ポエジー(詩想)の芸術だというところに至った場所で、彼女はほとんど表現手段の制約から解き放たれたのではなかったか。「すべての人が芸術家だ」という彼女の主張に、コンセプチュアル・アートにおいても、作者の名前は残るから、芸術が無名のものになる、ということと矛盾するのでは、という趣旨のことを問われて、「すべてのひとが有名になることが、きっとあると思う」、と小野は答えている。「すべての人に才能はあるけれど、切実にコミュニケーションしたいと願っているかいないかという違いがあるということで、切実なコミュニケーションの願望だけがイマジネーションを生む、ということです。」。いったん有名になると、そこに安住していられる芸術規範の外で生きてきた人の、はっとするような言葉だ。


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大江健三郎『取り替え子』(2000年12月8日初版第一刷発行・講談社/1900円+税)は、書き下ろしの長編小説。著者の妻の兄で、映画監督だった伊丹十三氏が、実際にビルの屋上から投身自殺したという出来事があり、その事実をめぐって書かれた私小説的色彩の濃い長編小説。著者の分身とおぼしき主人公の長江古義人という小説家が、自殺した映画監督の義兄吾良から生前送られた彼の語りかけを収めた何十巻ものカセットテープを書斎にこもって聞き、吾良の声にテープを停めては応答をする、という孤独な死者との対話に没頭する。そのことで古義人は青年期はじめ頃からの親しい友だった吾良についてのさまざまに追想に導かれるのだが、事態をみかねた妻の言葉もあり、作業を中断してドイツの大学に講演に赴く。そういう経緯を経て、古義人は、青年時代に自分と吾良が体験し、これまで誰にも秘めてきたひとつの出来事を小説に書こうと決心するに至る。。。現代人が、ひとりの近親者の死の意味をどうとらえ、心のなかに死者を死者として静かに置き直せるような位置をどのようにみいだせるのか、といったテーマの小説だといえると思うが、小説とはいえ、スキャンダラスな報道を伴った現実の事件が背景にあり、その社会的な波紋に直接向き合うような記述も数カ所あるので、読んでいて著者のやるせなさや憤りが生々しく伝わってくるのが印象的だった。伊丹氏が受けたヤクザのテロも、著者(主人公)が数度くりかえし受けていたという右翼のテロも、また無責任な批評家やマスコミ雑誌報道の言葉によるテロも、なんとも陰惨きわまりない。


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松丸春生『朗読 声の贈りもの』(2001年1月22日初版第一刷発行・平凡社新書/940円+税)は、「出版史上初めて」(あとがき)の朗読をテーマにしたミニCDつきの新書。遠く生物の発生から説き起こして、日本語の歴史を中心に話し言葉の変遷をたどった第一部。童話、詩、小説、落語や映画、劇のセリフというところまで朗読の対象としてとらえ、具体的に作品に即して朗読のあり方を解説した第二部、これからの朗読のあるべき方向を示した第三部からなる。著者は朗読の専門家。良い朗読とはなにかとつきつめると、こういうふうにもなっていくのか、ということが、門外漢にも説得力をもって伝わってくる。俳優声優のオーバーな表現も、NHKの説明文的な「朗読術」も、白秋、犀星、朔太郎といった近代詩人達の自作朗読レコードも、現代詩人(イニシャルで記載)の朗読CDについても、ばっさりと批判していて、外野から見てると小気味がいいほどだ。このきびしさは、文字言語による感情表現を、音声による感情表現に変換するとき、どこまで「作品」の表現内容に忠実な読みとりからの逸脱が許されるべきなのか、という問いに誠実かつ厳密たろうとするところからきていると思う。だからたとえ自作を読んだって、行分け個所を繋げて読むようじゃ、「朗読として」ばつなのだ。朗読の側から、なぜこの表現は、ここで読点や行分けなのか、という創作行為自体への問いかけに転じるところもあり、朗読せずに書くだけの人にとっても、たぶんいろんなことを考えさせてくれる刺激的な本になってると思う。私には蕪村の詩の読解がとても面白かった。ただ、モダニズム系の現代詩の朗読となると、別の理路や「解釈」が必要な気がする。


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佐々木幹郎『自転車乗りの夢』(2001年1月15日初版第一刷発行・五柳書院/2500円+税)は、詩人、文学者についてのエッセイ集。初出は雑誌「鳩」を含め多数だが、古くは86年から10年以上の時期にわたって書かれた文章が40編近く収録されていて、読み応えがある。取り上げられている詩人だけあげても萩原朔太郎、中原中也、宮沢賢治、石川啄木、金子光晴、山頭火、室生犀星、高見順、佐藤春夫。戦後詩人では谷川雁、鮎川信夫、田村隆一、吉岡実、寺山修司。全てというわけではないが、多くの文章には作家の生前の足跡や故郷を訪ねた現地取材の裏打ちがあるのが特色。それが作品の読みや関連文献への言及と溶け合って一種肌理の細かい丁寧な読ませる文章にしあがっている。サービス精神というか、読者に詩人の生活ぶりをからめて作品の良さ、面白さを味わってもらうことを優先しているところがあって、著者自身の主張はひかえめ。でも、だからこそというべきか、金子光晴についての文章で、著者自身が体験した上海でのトラブルの話が突出していて、冒険小説みたいで面白かった。度胸のあるひとだなあと。また、谷川雁についての文章が、著者の直接の感慨がこめられていてちょっと異質な感じだったのも印象的。文壇デビューしたての頃の中上健次と親しくなり、国立の喫茶店から国分寺駅前のバー「ピーター・キャッツ」に流れて呑んだという話は、私の住む多摩地方が舞台なので親近感がわいた。その店の物静かで料理のうまかったオーナーというのが、後の村上春樹氏だという。。


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ナンシー・エトコフ『なぜ美人ばかりが得をするのか』(2000年12月8日初版第一刷発行・草思社/1900円+税)は、美しさという感覚についての百科全書的科学啓蒙書。ひとは、なぜあるものを美しいと感じるのか。またその対象が同じ人間(いわゆる美男美女)の場合、そこにどんな共通性があるのだろうか。そういう難しい問いについて、古今の文献や実験・研究データなどから膨大な資料を集めて読みやすく編纂した、美をめぐる豆知識や話題満載の本。著者は認知科学、進化心理学の研究者で、基本には美の感覚に生物学的根拠(自然淘汰で人間の脳に用意された回路の働き)があるという立場。美女概念が文化によって作られたとする考え方とは一線を画しているように思う。相貌失認症(人の顔が見分けられない珍しい病気)の男性が、ある人々を魅力的だといい、その人々の顔立ちを調べると一般的な美人の類型に一致したという。彼はどうやってそのように思ったのか。この話は、美を認知する回路が通常の視覚以外にあるらしいことを示唆している。本書にも答えはないが、とてもミステリアスで興味深く思えたところ。また、脳の右側と左側で顔の認識に差がある(右側が優性)というところから、見慣れた向きで見るほう(鏡の顔)が自分にとって好ましい、という事実が導かれる、という指摘など面白かった。本書は内容と表題にやや偽りありだが、私のように表題にひかれて手に取るひとがいるためか、売れ行き好調の様子の本。


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村上龍『アウェイで戦うために』(2000年12月1日初版第一刷発行・朝日新聞社/1500円+税)は、スポーツがテーマのコラム集。週刊宝石99年11月の合併号から1年間同誌に連載されたものが初出。スポーツがテーマと言っても大半がサッカー、それもイタリアはセリエAのサッカーチーム、ペルージャからローマに移籍した中田選手の活躍ぶりを追うというものが多い。中田選手の出場する試合をみるために渡欧すること数度(中田選手がペルージャ在籍中だけでも一年半ほどの間に5回、のべ20日以上、とある)という、すごい入れ込み方が背後にあって、著者のサッカー熱が伝わってくる。ただどうしてもこうした現在進行形的なスポーツ観戦記の場合、話題が古く感じられてしまうのは単行本化の宿命だろう。なかに「スポーツは治安に貢献する」というコラムがあって、欧米社会ではスポーツのためのパブリックな施設が沢山あり、それが青年犯罪の増加の歯止めになっている。日本でも青少年の犯罪増加や治安の悪化によるコストの増大に対する戦略として、スポーツを利用するべきではないのか、というような趣旨のことが書かれていて、興味深く読んだ。大人はもっと「本気になって」(コストをかけて)青少年の犯罪防止をしようとしている姿勢を、子供たちにアピールする必要がある、というのだ。著者の一見過剰なほどのサッカー熱というより、この本から読みとれるサッカー熱のアピール姿勢の背後に、そうした著者の文学のテーマにも通じる危機意識や深謀遠慮を読むこともできそうだ。


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河合隼雄『おはなしの知恵』(2000年12月1日初版第一刷発行・朝日新聞社/1300円+税)は、世界じゅうの民話や童話、神話についての論考を多数収録した本。初出は雑誌連載(「週刊朝日別冊・小説トリッパー」95年年夏季号〜98年夏季号)だが、わかりやすいエッセイ風の語りかけながら、ユング派の心理学者ならではの、物語の象徴的な読み解きが随所にみられて楽しい。いろいろな「おはなし」に深い知恵を探るという体裁で、「影」「トリックスター」「グレートマザー」といったユングの鍵概念を浮き立たせるように対象を論じるという姿勢は一貫している。本書には「白雪姫」、「かちかち山」、「桃太郎」といったよく知られた話から、ナバホ・インディアンの神話やアイヌの物語といった、あまり知られていない話まで、多彩に紹介されている。「おはなし」の宇宙は広大で、人間の奇想天外な想像力のひろがりを紹介してくれるだけでもこういう本は楽しい。とくに、まっぷたつの子の話の登場するイタロ・カルヴィーノ編『イタリア民話集』(上下・岩波文庫)や、「クレヴィンの竪琴」という「昏く悲しい」はなしの紹介されている『ケルト民話集』(ちくま文庫)など、いつか手にとってみたく思った。なお、本書の巻末には著者と岸恵子さんの語りおろし対談「影-ひとの心・魂・祖国の在り処」も併録されている。


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井坂洋子『永瀬清子』(2000年11月21日初版第一刷発行・五柳書院/2000円+税)は、詩人論。詩人永瀬清子の評伝的経歴を押さえながら、詩集を中心にした彼女の著作を時系列的に紹介して、詩作品を読み解いていくことで、作者の生涯の姿を浮き彫りにする。永瀬清子(1906〜1995)は、詩集、エッセイ、短章集などを含めて30冊以上の著書を残した人。聞かれもしないのに私自身のことをいうと、はるか昔に吉本隆明氏の個人誌『試行』に連載された短章集(後に単行本化された)を読んで初めて永瀬清子という名前を知り、その情緒の深さや思慮のスケールに感動した記憶がある。後に思潮社からでた詩集(正続)やエッセイ集も買い求めた。それにしても20年ほどは前のことだ。こういうかくれファン(同世代には他にも結構いると思うが)としては、こうした評伝と作品観賞を兼ねた本が出版され、永瀬清子さんの詩業が改めて紹介されたことが、手放しで嬉しい。現代詩に関心のある若い人だったら、永瀬清子よりも著者の井坂洋子さんの名前のほうが親しいかもしれない。そういう人は著者への興味で読んでもけして裏切られないと思う。本書は、いろんな意味で井坂版永瀬清子論という感じがあるからだ。著者は、自分とはこう違う、ということを時に旗色鮮明にうちだしながら、作品を生んだ永瀬さんの内的必然のようなものにもしっかり目を向けてつきあっている。随所に深い読みも光る。この資質の違う女性詩人ふたりの接近遭遇と言う感じがこの本の活きのいい読みどころだと思った。


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柳美里『魂』(2000年7月10日初版第一刷発行・小学館/1300円+税)は、「私記」。前作『命』の続編にあたる。著者の男児出産後まもない二ヶ月ほどの時期の生活記録が描かれていて、それは不眠不休で慣れない乳児の授乳や入浴に追われる母親の育児奮戦記ではあるのだが、同時に末期癌患者で入退院を繰り返すパートナーの闘病生活(看病生活)とも重なる。感想の言葉を失うような、なんとも壮絶な記録だ。作者には、自らの私生活の様々な場面で起こった事象を、それが人間関係に関わるものでれ、一度冷徹に突き放したところから、具体的に描ききる力(文学化する力)があって、そういう力がこの「私記」をとても説得力あるものにしているのだと思う。言葉を絶するような切実な体験、ということは、関係心理としてみれば、たぶん当人が思いこんでいるほど特殊なことではないのだが、それを人は孤立無援な特殊さの感情体験としてしか生きることができない。作者は、特殊さを一般化するところに理性の慰めや救いを見いだすということを自らに禁じていて、特殊さを特殊な様相そのままに書くことを、自分の文学と生き方に重ねあわせているようなところがある。文学の場面は選択にあるから、これはどこか演劇的に見えるが、それは作者のパートナーがモルヒネの多量投与で錯乱状態になって、舞台監督だった頃の行為を無意識に再現してみせるような、なにか奥深くて代え難い作者の資質としかいえない感じがする。


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松本大洋『GOGOモンスター』(2000年11月20日初版第一刷発行・小学館/2500円+税)は、コミック。450ページを越える大冊で、コミックの場合延々と続く週刊誌連載ものの場合、完結してみたら相当な分量になっていることは良くあるが、この本は約2年がかりの書き下ろし作品というのが凄い。都市近郊の小学校が舞台で、主人公は小学三年生の立花雪(ユキ)という少年。ユキは利発な子供だが、いつも机に落書きをしていて、学校には「あっちの世界」があって、モンスターが住みついている、などと口に出して言うので、同級生たちからも変わり者とみなされている。そんなユキ少年(たち)の学校生活が、ユキと転校生の友人マコトとの心のふれあいを中心に1年間を通して描かれている。小学校の生活というのは、こんな感じだったし、今でもこんな感じなんだろうなあ、ということが伝わってきて臨場感あふれている。生徒達のとりとめない会話やざわめき、職員室の大人教師たちの独特の雰囲気、校舎の屋上やプールサイドや放課後の教室で感じる、自分だけ取り残されたような空白の時間。ユキは夢想癖のある少年が良くこしらえるような独特の空想世界を自分の心のなかに作り上げているのだが、自分が成長して、そういう世界がもう終わりに近づいていることに気がついている。小学校3年というのは、自分で思い返しても(人によって差があると思うが)、実際、自己意識がだんだん芽生えるような時期だと思う。このコミックは現代っ子なら小学校高学年くらいから我がことのように読めるかもしれない。


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町田康『きれぎれ』(2000年7月10日初版第一刷発行・文芸春秋/2000円+税)は、小説。芥川賞受賞作「きれぎれ」(「文学界」2000年5月号初出)、「人生の聖」(「新潮45」2000年1月〜6月号に初出)の二編を収録。母親のきりもりする年商一億ほどの陶器店の御曹司で、ランパブ(ランジェリーパブ)に通って遊び暮らしていた画家の「俺」は、親の勧めた見合いを断った後に、見合い相手の富子が個展で成功した友人吉原の妻になったことを知り、対抗するようにランパブに勤めていたサトエと急遽結婚する。しかしその後成功した吉原への嫉妬と、ふったはずの富子への恋情が頭をもたげていたところ、母が死亡、陶器店は倒産。事業家の叔父の手回しで負債はゼロになったが遺産もなしという境遇になり、借金をしに友人宅を回っって断られたあげく、不承不承宿敵吉原宅にも借金申し込みに足を運ぶ、というのが「きれぎれ」のストーリーだが、ストーリーだけ言っても、この作品の面白さは伝わらない。日本語の破壊力や伸びがすばらしく、3箇所ほどで、つい声をあげて笑った。「人生の聖」はもうすこし入り組んだ要約困難ストーリーなので略。この作家の表現は(かっての)筒井康隆的ナンセンス小説やある種の現代詩的にすっとんでいるが、基本的に庶民派なのだなあ、といまさらながら思う。感情表現を誇張して過激に膨らますその言葉の語彙の斬新な感覚や、文体ののりが命のような文章なのだが、作者の主な関心は日々ひとが感じる人間関係のささいなわだかまりや、いきちがい、ということに向けられている。恥じらいはあれど、上昇志向的気取りは微塵もない。


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スティーブン・キング『ライディング・ザ・ブレット』(2000年11月3日初版第一刷発行・アーティストハウス/1000円)は、小説。幼い頃に父を亡くし、母ジーンに一人っ子で苦労しながら育てられたアランは、奨学金でメイン州立大学に進学し、学友たちと共同生活を送っていた。そんなある日、アランは、母の住む故郷の家の隣人から、ジーンが脳卒中で倒れたとの知らせを電話で受ける。あいにく、自家用ぽんこつ車がこわれていたので、アランは大学から190キロ離れた母の入院しているルイストンの病院まで、ヒッチハイクで駆けつけようとするのだが、そのヒッチハイクがアランの人生観を変えることになるとは、、という一夜の恐怖の出来事を描いたホラー小説。母の病状が気がかりで焦燥感にかられている青年が、怪しげな他人の運転する車で人気のない夜の街道を疾走している。そういう主人公の不安をいくつも重ねたような情況設定で読む者を引き込んでいくのはさすがで、ひねった顛末や母子のエピソードの盛り込み方にも、キング特有の人間味がある爽やかな中編小説。もともと、2000年3月にインターネットで電子本として発売された小説で、新聞報道によると発売3日ほどで50万部以上がダウンロードされたという(あとがきによる)。実績のある人気作家で、新作の面白さがある程度予想できれば、発売形態が電子本に変わっても良く売れるという好例のような。。


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☆レジーヌ・ドゥタンベル『閉ざされた庭』(1998年10月20日初版第一刷発行・東京創元社/1800円+税)は、小説。公園のベンチで花束をもって女友達エルザを待っていた少年は、やってきたエルザが目の前で暴漢に襲われるのを救えなかった。その日から少年は家に戻らず、4年後の今もその公園から一歩も外にでないでホームレスの生活をしている。樹木があり池があり彫像やベンチも沢山ある広大な公園で、昆虫や野鳥やもぐらや犬や猫や売春婦や浮浪者といった仲間たちとともに、ときに過酷な自然にまみれるようにして生きている少年の姿が、詩的な断章を貼り合わせたような、少年の独白の形でこまやかに綴られている。。。訳者の有働薫さんのあとがきによると、著者は63年生まれのフランスの女性作家で、本書は95年のランドロック・アカデミー小説賞を受賞。私は読んでいて、パリのリュクサンブール公園のことを思い浮かべた。池も林も彫像もベンチもあって広大で、付近は住宅地で訪れる人が多いし、周囲は鉄柵で囲まれていて、夜には管理人が来てしっかり鍵で閉ざされる。条件は結構あっていて、作者がモデルにしたのと違っていても、私の空想では、しっくり溶け合って楽しめた。細部描写が過剰なほどリアルなのに、ストーリー全体はとても寓話的だ。公園を見守って住み続ける少年は、いつか公園の化身のような存在になっていく。この少年は、たぶん「知ることの痛み」の側から創造された青春期の神話的な形象なのだ。けれど、瑞々しい自然にまみれて少年の生きられる「公園」は、しっかりと鉄柵で囲いこまれている。。この作品について、関富士子さんもrain treeのここで、丁寧な感想を書かれています。


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村上春樹+柴田元幸『翻訳夜話』(2000年10月20日初版第一刷発行・文春新書/740円)は、翻訳をめぐる公開談話中心の本で、併せて話者ふたりの翻訳作品(競訳)も収録されている。もともと、東大教養学部の柴田氏の翻訳ワークッショップに、特別ゲストとして作家村上春樹氏が招かれ、100名ほどの学生相手に柴田氏と翻訳について語り、質問を受けたフォーラムが、この本のできるきっかけになったという。本書には、この時のフォーラムが一部、同様に翻訳学校の学生100名ほどを前に語ったものが二部、若い翻訳家(六名)のひとたちを前に語ったのが三部、というふうに技能段階レベルアップ順的(^^;に収録されていて、その間に、レイモンド・カーヴァーとポール・オースターの短編小説を、ふたりがそれぞれ別様に訳した文章が収録されている。。。普段、翻訳の文体や、訳者は誰なのでどうなのかなどと、あまり意識することなく翻訳小説を読んでいるのだが、やはり折に触れて気になることはあるもので、本書に収録されている翻訳者の苦労話や、翻訳家志望の若い人むけの翻訳術のアドバイスなど、大いに興味深く読めた。それに、見本のように収録されている二編の小説作品を読むと、なるほどこんなに訳者によって印象が違うのか(特にカーヴァーの訳の村上色の強いこと)と思えたのが驚きだ。オースターの作品「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」のほうは、村上氏も発言してるが、「スモーク」というタイトルで映画化されてるので、未見のひとは、この本の訳を読んでから 映画をビデオで借りてみるのも面白いと思う。


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