memo15
言葉の部屋へ 書名indexへ 著者名indexへ

走り書き「新刊」読書メモ(15)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(00.10.7~01.1.20)

岡谷公二『ピエル・ロティの館』
加藤典洋+橋爪大三郎+竹田青嗣『天皇の戦争責任』歌田明弘『本の未来はどうなるか』田原総一郎+月尾嘉男『IT革命のカラクリ』
山田稔『北園町九十三番地』清水良典『文学がどうした』☆高尾慶子『イギリス人はおかしい』
岡井隆『挫折と再生の季節』日本博学倶楽部『世の中の「ウラ事情」はこうなっている』松浦理英子『裏ヴァージョン』
田口ランディ『アンテナ』吉本隆明『超「20世紀論」』(上下)吉増剛造『ことばの古里、ふるさと福生』
冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話』井上宏生『日本人はカレーライスがなぜ好きなのか』橋爪大三郎『言語派社会学の原理』
藤正巌 古川俊之『ウェルカム・人口減少社会』マイケル・フォス『知っていそうで知らなかったクレオパトラ』神原正明『天国と地獄』
 J・K・ローリング『ハリー・ポッターと秘密の部屋』 町田康『実録・外道の条件』
 吉本隆明+三好春樹『<老い>の現在進行形』 ジョン・ネイスン『ソニー ドリーム・キッズの伝説』 佐藤雅彦『プチ哲学』
 小林よしのり『台湾論』 『科学朝日』編『科学史の事件簿』 岡野弘彦『折口信夫伝』
 姫野カオルコ『サイケ』 馬場啓一『白洲正子の生き方』 村上春樹『またたび浴びたタマ』


岡谷公二『ピエル・ロティの館』(2000年9月30日初版第一刷発行・作品社)は、評伝。ピエル・ロティ(1850〜1923)は19世紀末から20世紀初頭にかけて一世を風靡したフランスの小説家で、史上最年少でアカデミー・フランセーズの会員にも選出されたという当時の人気作家。しかし今では忘れられ著作がパリの古書店で二束三文で売られているという。ロティが描いたのは西欧からみた異国世界、中近東、アフリカ、オセアニア、アジア(日本)などを舞台に異国女性との交渉を物語った自伝的小説で、当時のエグゾティスム流行の時流にのったが、その凋落(交通手段の発達により異国への憧憬が失われたり、植民地主義に対する反省といった時代風潮の急速な変化による)とともにきびしい批判にさらされた、とされる。本書は、そういう歴史的経緯を紹介しながら、ロティ作品の読み直しと、その生の軌跡を考察して、ロティという人物の精神の奥行きにせまる。つまりは「異国趣味文学」(新潮世界文学小辞典)の作家というような枠からはみだすような彼の文学の特質と人物像に照明をあてる試みだ。またゴーギャン、レーモン・ルーセルとの関係にもそれぞれ一章があてられ、絵画や写真図版多数が収録されているのも特色。本書をロティ文学の世界への入門書・研究書みたいに読んでもいいし、エグゾティスムに関連した興味深い人物評伝として読んでもいいし、と、多面的に楽しめるようになっている(私は後者。残念なことに、ロティの作品は戦前大方の著作が翻訳されたが、今比較的簡単に入手できるのは『お菊さん』『アフリカ騎兵』(岩波文庫)、『アジヤデ』(新書館)位だという)。


RETURN

加藤典洋+橋爪大三郎+竹田青嗣『天皇の戦争責任』(2000年11月5日初版第一刷発行・径書房)は、鼎談。99年7月に都内ホテルで二度行われたそれぞれ10数時間に及ぶ鼎談記録を、加筆訂正に1年以上かけてなった本。もともとこの企画は、著書『敗戦後論』などで戦争責任の問題について独自の説を展開していた加藤氏に、異論のある橋爪氏からの働きかけがあって実現する運びになったという。わかりやすいので橋爪氏のあとがきを援用すると、加藤氏の「天皇親政説」と、橋爪氏の「天皇機関説」のぶつかりあう、「現代版の天皇機関説論争」として読めるスリリングな内容の本だ。行司役は公正かつ柔軟な思考の持ち主の現象学者の竹田青嗣氏で、これはうってつけという感じ。ふつう面白くて朝までかかって読み終えてしまった、というようなことがあるのだが、この本は朝になっても半分程度しか読み終えられない。厚さにして4センチ、頁数550頁に及ぶ大冊である。戦争責任という概念そのものについての論をかわす一章や、敗戦後の問題について触れた三章も面白いが、天皇の戦中期を中心にした事変に際しての言動を実証的に資料にあたって再構成して論評を加えていく第二章が、この本の大きな読みどころといえるだろう。こういう作業の掘り下げからこそ「人間天皇」の素顔がほのみえてくるようで興味深い。天皇に法的な戦争責任はなかったとする橋爪氏の理路整然とした考え方、しかし道義的責任(「戦争の死者を裏切った」)があったとする加藤氏の考え方でそれぞれ論戦は紛糾し、火花が散る。「いまの時点で天皇をめぐる問題を考えるうえでの必要事項はすべて網羅し、これを「論じ尽くした」、きわめて意義深い本」とは加藤氏のやや自賛めいたあとがきだが、確かに今後はこの本の論戦レベルをふまえた天皇(制)論・戦争責任論のさらなる登場が待たれる。


RETURN

歌田明弘『本の未来はどうなるか』(2000年11月15日初版第一刷発行・中公新書)は、本の変貌というテーマを中心にすえた情報技術社会の未来展望。前半(1〜3章)では、ヴァーニーヴァー・ブッシュ(第二次大戦前から戦後にかけてのアメリカ大統領科学顧問で、パーソナル・コンピューターの源となるアイデア「メメックス」を提案した人)や、テッド・ネルソン(ハイパーテキストという名称の考案者)といった人たちの考え方を紹介しながら、「ポスト・グーテンベルグ文明」!におけるハイパーテキストの可能性や意味合いが語られ、後半(4〜6章)では、人間の生活活動の環境を支援するユピキュタス・コンピュータや、ウァアラブル・コンピュータ(ロボコップ的装置)によるオグメンテッド・リアリティの話題、はたまた電子ペーパー、電子インク、ロボット工学の解説など、先端技術の紹介情報がめじろおし。近年の科学技術の進展は加速化されてとどまるところを知らない。その先端研究を本書は前向きに紹介していて、そこから来るべき近未来社会のイメージがほのかに浮かんでくる。情報がやがて紙の束(本)から抜け出してやがて現実と溶け合う、というのがその骨子だろうか。著者のいうように「本」を人間の生みだした記憶装置という側面でとらえれば、その器がこれから大きく変わろうとしている、というのは確かだろう。たぶん人類はこれまで膨大な記憶を持ちすぎてしまったので、脳がその処理をするために新しい装置を考え出しはじめているのでは、とは正月気分で思ったこと。人間自身の心も相互作用でへんなものに変わるのかどうか。


RETURN

田原総一郎+月尾嘉男『IT革命のカラクリ』(2000年11月20日初版第一刷発行・アスキー)は、対談。IT革命、地球環境問題、都市開発問題、国内政治問題などについて、メディア政策、システム工学が専門で政府各種審議委員も歴任している大学教授月島嘉男氏に、テレビ番組の司会でおなじみのフリーライター田原総一郎氏がインタヴューした語りおろし本。「彼の話は、どんなテレビ、新聞、雑誌も載せないのではないか、そう思うくらい危ない話がおおい。」とは、田原氏の「はじめに」の言葉。アメリカが92年に「IT(情報技術)革命」をひとつの国家戦略として打ち出したという指摘からはじまり、アメリカの特許政策の徹底ぶりや、NASAの盗聴組織としての性格など、アメリカという独特な国家の「世界戦略」をあらわにするような刺激的な話がならぶ。ただ、その底から感じ取れるのは、「アメリカの謀略」(目次見出し文中の言葉)というより、現代の「国家」や「法」のもつ性格をたくみに利用して行われている、激しい国際企業間競争のせめぎあいのようだ。そこでどうも国家としての日本の対応(利用法)がうまくいっていない、というニュアンスが色濃く伝わってくる。すると本書を読んで一番「危なく」感じるべきは日本政府関係者、ということになるのだろうか。。。本書の後半は、「IT(情報技術)革命」のカラクリというより、むしろその対処の指針や未来予測に向けられている。


RETURN

山田稔『北園町九十三番地』(2000年9月7日初版第一刷発行・編集工房ノア)は、回想記。副題に「天野忠さんのこと」とあるように、詩人天野忠氏と著者の十年に及ぶ交流を回想したもの。八十二年のこと、天野忠という詩人が読売文学賞を受賞したという新聞記事を読んだ著者は、若い頃一時期職場が同じだったことを思い出して旧懐の念にかられ、詩集を注文して読んだ感想を書き送る。そこで、天野氏から返信が届きと、この交流は始まる。二人は住所も同じ北園町で隣近所なのだが、最初のうちは、お互いに直接顔を合わせずに著作を互いの家の郵便受けにひそかに届けあう、というのが、奥ゆかしいというか、なんというか。この「奥ゆかしいというか、なんというか」、という雰囲気は本書の全編にも漂っている。やがて著者が天野宅を訪問するようになっても、「老詩人が表情豊かに、ときには身振りをまじえながらくり返すのを黙って聴く、ながめる。好きな作家、好きな映画について論ずるのでなく、ただ「よろしいなあ」と嘆ずるがごとくに言うそのときどきの声音と表情を、ちょうど噺家のはなしを聴くように聴く。その楽しみのために私は過去十年、この北園町九十三番地へ足を運んできたのだった。」というようなものだった。味のある文章の達人山田稔氏(『コーマルタン界隈』)が、九十三年に八十四歳で亡くなった「庶民派詩人」(新聞記事見出しの言葉)天野忠との水魚の交わり的交流を語って、その飄としたひととなり、ちょっとくせのある好人物の魅力を活写している。「物書き、とくに名の通った物書きのこわいところは、老いてから書けなくなることでなく、抑制がきかなくなって、下らない作品をつぎつぎと書くことだ。」(天野氏)ううむ。読後、唯一持ってる詩集『その他大勢の通行人』を引っ張り出してきて久しぶりに読む。


RETURN

清水良典『文学がどうした』(1999年6月5日初版第一刷発行・毎日新聞社)は、文芸についてのコラム集。「文学の練習問題」というタイトルで毎日新聞に一年半にわたって連載されたコラムの集成。読みやすくて間口のひろい現代文学入門書といっていいだろう。本書は、迂闊なことに作家の清水義範氏の著書だと思って図書館から借りたのだが、読んでみると著者は同姓同名の文芸評論家のひとだった。70数編の短い文芸作品についてのコラムがテーマ別に章分けされて収録されている。日本の若い作家の小説作品が沢山取り上げられているので、面白そうな作品を探すガイドになりそうだし、読んでいるうちに著者の文学についての考え方にもなじんでくる。私は特に「文体」の問題に言及されている第4章「言葉の壁と闘う」が面白かった。西鶴の頃から、この国には、「性別や身分に関係なく国民に浸透していた」文体(西鶴風雅文俗折衷文体)があった。それが、「言文一致体」の登場によって、男優先の文体になってしまった、という論旨。その証拠として著者は、明治初期には三宅花圃、木村曙をはじめとする多数の若い女性作家が輩出していたのに、樋口一葉を最後に、ばったりと途絶えてしまったことをあげている(一葉以降、女性の職業作家の出現は、田村俊子まで15年待たなければならなかったという)。言文一致以降の日本文学は、女性がたやすく書きえない(書き手が男性であることをスタンダードにするような)文体になってしまった、というのだ。著者によると、この文体変遷の問題、現代女子高生の話言葉文体の小説(著者は橋本治『桃尻娘』をその先駆的な例としてあげている)の登場にまでつながっていく。とても興味深いこの小説の文体論、詩の歴史にあてはめると、どうなのだろう。


RETURN

☆高尾慶子『イギリス人はおかしい』(1998年1月20日初版第一刷発行・文芸春秋)は、イギリス体験を記したエッセイ集。映画好きの方(山下さん)から、メールでこの本が面白いと教えてもらって本屋で購入した。二年ほど前の出版だが、求めたものは今年の版で七刷。じっくり売れているのがわかる。著者は英国でハウスキーパーの資格をとって、住み込みで働いたのが、かの「ブレード・ランナー」や、「ブラック・レイン」の監督、リドリー・スコット氏のロンドンの住居だった。英国でハウスキーパーというのは屋敷の管理責任者のことをいい、6階建ての屋敷のワンフロアー(4部屋)を自分用に使わせてもらって寝泊まりし、毎日、出入りの掃除婦、庭師、窓拭き、 配管工、塗装工などを指図する。カズオ・イシグロ原作の映画「日の名残り」で、エマ・トンプソンが演じた役を思い浮かべればいいという。そういう仕事関係の話や高名な映画監督リドリー・スコット氏の英国人離れした?私生活の描写も面白いが、本書には、他にも沢山著者の英国体験にまつわる興味深いエピソードがでてきて、現代英国事情というのが、生き生きと伝わってくる。数年前、英国(本)ブームがあって、便乗本も過熱ブームを批判する本(たとえば、林信吾『イギリス・シンドローム』など)も書かれた。本書もそうした流れの一冊といえるのだろうが、英国での極貧生活と贅沢生活の両方を体験して、著者が肌で感じた異文化の光と影が、しっかり書き込まれているのが、ひと味違うところ。


RETURN

岡井隆『挫折と再生の季節』(2000年10月18日初版第一刷発行・はる書房)は、回想録。「短歌往来」に97年11月から99年6月号にかけて初出。「一歌人の回想」という回想録の第三巻(最終巻)にあたり、70年7月から80年5月までの約10年間の著者の生活と作品が回想されている。70年7月、それまで東京の病院に内科医師として勤務していた著者(当時42歳)は、家庭に妻を残し、仕事をやめ、前年からつきあっていた女性(20歳)と、地方へ出奔する。いわばそれまで築きあげてきた社会的地位も家庭も交友関係も全てかなぐりすてて、人生のやり直しを計ったのだった。「ひっそりとかくれるように住めるところならどこでもいいと思っていた。」本書の読みどころは、やはりその大きな転換に至った当時の心境を、著者が、さまざまな方向(世情、仕事、宗教(父)、家庭など)から回顧し、辿り直しているというところにあると思う。私はそこに人間的興味(ミーハー的といってもいい)を覚えるのだが、たまたま、といっていいかのどうか、著者は当時既に現代短歌界の歌人として著名であり、この出来事が一部の人々に、ひとつの文学的事件のように受け取られたと想像することもたやすい。著者は出奔直前に『天河庭園集』という全歌集本を編んで出版社に託し、作歌もやめてしまう(結果的には5年の空白をおいて、歌人として再帰する。またこの「空白」の時期に、多く散文(歌人論)を書いていたことを強調して、「隠遁でも、ドロップアウトでもなかった」と妙な「文学神話化」を自ら退けているのが気持ちがいい)。本書では、この『天河庭園集』も含め、多くの著者の自作歌が自注のかたちで解説されているのも読み応えがある。難解でわかりにくく思っていた歌に、すごく平明な絵解きをされているのが、ちょっと驚きだった。これはやはり歳月ということがあるのかもしれない。

 きついことが起こると、それまでの人間関係の深浅の質や信頼の底が見えてしまう。そこからなにかがはじまるのだが。「羽田(はねだ)の寒き別れに泣きゐたるうちの一人ぞ永遠(とは)に喪(うしな)ふ」という歌は、原田薫子という人(75年肺炎で逝去)への、悼歌(歌集『鵞鳥亭』所収)として書かれたものだというが(本書120頁)、経緯を知って、泣けた。


RETURN

日本博学倶楽部『世の中の「ウラ事情」はこうなっている』(2000年8月15日初版第一刷発行・PHP文庫)は、書き下ろしの「究極の雑学本」(裏表紙の記述)。常日頃、身近に見聞きするできごとで、その仕組みはどうなっているのだろうという素朴な疑問をかりたてるようなことが結構ある。本書には、そういう知らなくてもいいが知ってみても面白いというような話題が、短文コラムで140近く集めてある。画廊や古本屋というのは結構閑散としているけれど、あれで商売がなりたつのはなぜだろう、とか、自動販売機のコイン投入口に縦型と横型のある理由とか、100円ショップでいちばんお得な商品はなにか、などなど。火葬場で骨をひろって残った灰が、専門業者に引き取られて、ゴルフ場の芝や花卉栽培農家での花つくりの肥料になってるという話はどこかファンタジックだし、ゴルフ場のキャディさんの完全防備の主な理由が、日焼けより農薬対策だというのはちょっと恐い話だ。文庫なので、電車のなかの暇つぶしにちょうどいい本(だった)。


RETURN

松浦理英子『裏ヴァージョン』(2000年10月5日初版第一刷発行・筑摩書房)は、小説。99年2月から2000年7月にかけて「ちくま」に連載が初出。冒頭からアメリカ人女性たちの登場するSMや同性愛をテーマにした短編小説がならぶが、それぞれの最後に、読者とおぼしき人の批判めいた感想コメントがついている。そのうちこの読者が作者に質問状を書いたりしはじめる。。。実は小説を書く人(昌子)は、若い頃に新人賞をとったことのある元小説家で、毎月二十枚の短編小説を書いて読ませるという条件で、学生時代からの友人であった感想を書くひと(鈴子)の家に家賃無料で間借りさせてもらってる、という設定。昌子が書く小説を鈴子が批評し、それに呼応するように昌子の小説も変貌していく。小説は「質問状」や「詰問状」をはさんで、私小説的になったり、自分たちの過去がテーマになったりと、しだいに二人の「現実」(とはいえもちろん仮想だが)の全体性を獲得していくようにボルテージをあげていく。この仕組みは、とても魅力的でスリリングだ。同性愛小説という「虚構」を、「小説」の中で、解体したり対象化するが故にしだいに自由を獲得していくかに見える二人の登場人物たちは、その対象化行為自体によって、深い性愛感情にゆるやかにつなぎとめられているのが明かされる。この「虚構」のなかの一瞬のリアルさのきらめき。


RETURN

田口ランディ『アンテナ』(2000年10月31日初版第一刷発行・幻冬舎)は、書き下ろし小説。東京の大学で哲学を学んでいる23歳の「僕」の家庭は重たい過去をかかえていた。15年前、当時6歳だった妹真利江が「神隠し」めいた謎の失踪を遂げた。同居していた叔父が誘拐容疑をかけられたのを苦に自殺、一年後に生まれた弟祐弥を含めた4人家族は、手だてをつくして妹の捜索をするが、その過労のせいか8年後に父が脳溢血で死去。以後母親は、新興宗教にこり、弟祐弥は突然真利江が帰ってくると言い始め錯乱状態になって精神病院に入院。そんな煮詰まった状況におかれた「僕」は、一方で哲学の研究テーマとして「SM」を選んでいて、学友である藤村美紀のつてを得て「地獄の天使」という店に勤めるナオミという女性に会いに行く。。主人公の「僕」が、妹の失踪にかくされた秘密を探す、というテーマのようで、「僕」自身が病的な自傷癖をもった危うい性格であることがしだいに明かされてゆき、ナオミによるSMの洗礼を受けることで、変容してゆく。。。「アンテナ」は、ひとと触れあいたい欲求の象徴で、「僕」は性的な地獄巡りの果てにそれを手に入れる。自己救済の小説だが、そのために潜り抜けなければならない、と考えられているものは、知識ではなく、狂気すれすれの性的な自己変容の体験。現実にはこんなふうにならないので、これは危うくてきわどい物語の誘惑だ。


RETURN

吉本隆明『超「20世紀論」』(上下)(2000年10月30日初版第一刷発行・アスキー)は、インタヴュー。97年頃から二年間に、20回以上、累計すると100時間に及んだという吉本氏宅でのインタヴューが収録されている。「ペントハウス」に連載された「世紀末吉本亭」をまとめたもの(内容は大幅に補足)。私はウェブの書き込み(たぶん清水鱗造さん関係)で、この雑誌連載を知り、これ幸いと?、二度ほどこの若者むけグラビア雑誌を買い求めたことがあった。しかしもう若くはない私には、そういう熱意は続かないので、単行本化を楽しみにしていたのであった。読んでやはり驚くのは、質問者も驚いているように、テーマも事前に知らされないインタヴューで、立て板に水のごとく語られる吉本氏の応答の一貫性だろう。どんなに柔らかい言葉で言われても、それが、何度も行き帰りして踏み固められた吉本氏の思考の理路にそっていることが伝わってくる。こればかりは、全体として否定しようもない氏の思想の構えかたの特質だと思う。もっとも、本書は、若者向け雑誌インタヴューということで、知識人、文化人批判、芸能人寸評といった切り口がめだつような内容になっている。こちらの勝手な関心でひとついうと、欠乏でなく、過剰さが産み出す現代の「無倫理の精神異常」というテーマにアンテナが動いた。それは別章でインターネットについて言われている「指示表出性」の拡大ということにも関わるだろう。


RETURN

吉増剛造『ことばの古里、ふるさと福生』(2000年11月26日初版第一刷発行・矢立出版)は、講演集。90年に球磨農業高校で行われた講演「ことばのふるさと」と、80年に福生図書館で行われた講演「ふるさと福生」というふたつの講演が収録されている。前者は、著者の考える詩のことばのもつ本来性みたいなものを、タゴールの朗読テープなどを使いながら分かりやすく語った、印象深い講演。ある声の背後に沢山の声、いろんな音が入り交じってひそんでいる、というイメージが魅力的だ。後者は、著者が育った福生町(現福生市)についての、地元図書館での講演だが、福生(ふっさ)とか、羽(はね)、とか、秋留(あきる)とか、加美(かみ)、志茂(しも)といった風変わりなこの地域の地名についてのこだわり、古多摩川が横滑りに川筋をずらせた場所にできたという福生という土地のもつ不思議な川的(^^;空間感覚についてのこだわりが、少年期の回想や、そうしたテーマを織り込んだ自作詩「織物」「スライダー」「老詩人」(いずれも詩集『草書で書かれた、川』所収)の朗読をまじえて語られている。言葉の語感、質感の喚起する象徴的な意味の広がりや、川というイメージの文明史的、宇宙的な広がり、これらは著者の詩を読んできたひとには、親しいものであるに違いない。そういう時に華麗な吉増氏の詩的宇宙世界が、実は固有で土着的な体験に根ざしているということが、やはりこの詩人を本格的にしているのだろうなあと。私も福生育ちなので、よくわかる(ところもある)。吉増氏の家が機屋さんだったと知って、これはどこかの誰かに似ているなと。


RETURN

冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話』(2000年10月30日初版第一刷発行・青土社)は、シモーヌ・ヴェイユ論。書き下ろしの「はじめに」と終章(8章)を除いて、94年から97年にかけて雑誌「思想」「現代思想」誌に掲載された論(大幅に加筆改稿)が各章にあてられているが、全体を通して、時系列的な流れにそった展開として読める配慮がされている。ときにヴェイユに成り代わるような高い調子をまじえた論述は読み応えがあり、相応の緊張感を強いられる。これまでヴェイユの著書に親しんでいて、新資料などに関心のある人むきの熱のこもった研究の本なのだが、それでも本書を紹介したいと思ったのは、やはりシモーヌ・ヴェイユという特異な思想家を若い人に知って欲しいと思ったからだった。ヴェイユを読むと「同意するしないはともかく強い衝撃を受けるだろう」という著者の言葉には、多くのひとが共感するだろう。そういう種類の読書体験は、一度くらいあったほうがいいと思う。で、その「強い衝撃」をどう捉え直すかが、とても難しい。思想の構築性がとても緊密なので、部分的な批評が通じないタイプの思索家なのだ。だからといって、安易な共感も拒絶するような極限への志向を備えている。なんども入り込もうとしてはじきかえされてしまうというのは、ヴェイユの精神世界そのものの特質かもしれず、だからといって一度知ったら忘れることはできないのだった。「寓話」によって真を語ろうとした、と、著者はその特色を浮き立たせているが、その詩的要素と論理性の結びついた思索の魅力はちょっと比類がない。評伝としてはペトルマンやカポーの本がお勧め。


RETURN

井上宏生『日本人はカレーライスがなぜ好きなのか』(2000年11月20日初版第一刷発行・平凡社新書)は、食(カレー)文化史。日本社会にカレーが輸入されて以降、いかに庶民に受け入れられるようになっていったかの過程を、さまざまなカレー製造技術者、販売業者たちの苦心のエピソードをまじえて丁寧に辿る。カレーがインドから直接日本に渡来したとすると、明治の人たちはそれをもてはやしただろうか。そうは思えない、と著者は書いていて、カレーの渡来がイギリス経由で、当時の日本人のハイカラ趣味に適合したという側面を強調する。それはそれで興味深い指摘だが、カレーのその後の受容においては、独特の日本化プロセスが働いていたのがわかって、それが本書の読みどころだ。カレー南蛮、かつカレー、カレーパン、といったバリエーション。それに第一、白い日本米(主食)とカレー(印欧文化)の混ぜ合わせの姿が、なんとも異文化混淆で象徴的だ。関東大震災や、軍隊のメニューに取り入れられたこと、戦後の学校給食など、カレーの大衆化に色んな要因が働いていたこともわかる。黄色い蕎麦屋のどろりとしたライスカレーと、本格カレーライスの違いや、戦後のカレールーのメーカーのCM競争の記述など、年輩のひとにとっては懐かしくも読めるカレー賛歌の本です。


RETURN

橋爪大三郎『言語派社会学の原理』(2000年9月8日初版第一刷発行・洋泉社)は、独創的な「権力」についての考察のある社会学理論の書。三分の二ほどが、オムニバス論文集『21世紀を生きはじめるために』シリーズに4回連載された原稿が初出で、後半の権力論の部分が書き下ろし。「言語派社会学」とは著者の造語で、「<言語>の作用を、社会理論の基礎にすえる立場」。社会空間(人々の身体の集合)のなかで、どのような身体と身体との関係が働いているのか。著者が代表的な作用素としてあげるのは、「性」、「言語」、「権力」の三つだ。これらの複合によって、「社会の重要な形象を残らず再構成できそうに思えてならない。」として、「親族」「政治」「宗教」「経済」「法」の各領域が考察される。。。本書は、従来の社会学批判という色彩が濃い原理論で、この従来の社会学のほうが、どんな展開をしてきたのかに(私のように)詳しくなくても、著者がいろんな社会理論をどんなふうに捉えて、どんな箇所に不満をもち、問題をどう乗り越えようとしているのか、という思惟の跡が、簡潔な文章で、明快にたどれるようになっている。著者の権力論の要を、ここでは要約できないが、「状況環」という概念がキーワードかと。。「このように権力を考えればよいのだという結論にいたるのに、私は、数十年かかったように思う。そしてそれは、無駄な数十年ではなかったと思う。」こういう誇らしい行句が、理論の書に書き入れられているのを読むと、『仏教の言説戦略』以来、著者の本に少しずつつきあってきた方にも、ううむと、感慨が。。。フーコーや、宮台真司氏の権力論についても言及あり。。


RETURN

藤正巌 古川俊之『ウェルカム・人口減少社会』(2000年10月20日初版第一刷発行・文春新書)は、これからの「人口減少社会への羅針盤」(「はじめに」)を意図して書かれたという社会分析研究の本。政策研究院(どういう団体なのか知らないのだが)での二年間にわたる「高齢社会プロジェクト」のまとめのシンポウムの成果(多くの参加者の発言や、社会構造シュミレーション・モデル)を骨子にしているという。これから四半世紀位の間に、日本社会はどんなふうに変わっていくのかを予測し、そこで当面する問題をどんなふうに解決していくべきかを提言する。こう書くと硬い本のようだが、実際硬い本だ(^^;。。。でも未来予測に関しては興味深いし、いくつかの問題の把握の仕方が斬新で、面白く読んだ。著者たちは、もともと「少子高齢化社会」という言葉のもつ消極的な暗いイメージを嫌って「人口減少社会」と呼んでいるということから分かるように、人口減少そのものを、人類社会の成熟として捉える。またローマクラブなどの警告で、地球人口の増加が言われて久しいが、本書(政策研究院のシュミレーション)によると「2033年に73億5000万人に達した人口は、2050年には70億を割り込むと予測される」らしい。マスコミ識者の喧伝する感情的な少子高齢化脅威説を反駁している第二章は、特にお勧めだ。もちろん問題が山積していることも指摘されているが、本書が少子老齢化の問題を捉える大枠を、肯定性として提示した意味は大きいと思う。


RETURN

マイケル・フォス『知っていそうで知らなかったクレオパトラ』(2000年10月1日初版第一刷発行・集英社)は、歴史ノンフィクション。本のタイトルから想像してしまうかもしれないような、驚くような新事実が説かれているわけではない。クレオパトラが生きた時代、紀元前1世紀頃の古代オリエントの世界を丁寧に掘り起こした、ちょっと硬派の歴史絵巻的な本だ。けれどA5版でコンパクトだし、大冊というわけではないので気軽に読めて面白い。「読者を瞬時にして2000年ほどタイムスリップさせ、」というのは訳者あとがきの言葉だが、あながち大袈裟ではなく、この本を少しずつ寝る前に読んでいた一週間ほど、実にベッドに潜り込むのが楽しみだった。たしかに現実をみんなすっとばして、一気に2000年前に行ってしまえる感じだったのだ。クレオパトラはどんな人だったか。実際にはコインの浮き彫りや形式化された壁画しか残されていなくて、容貌を伝えるものはひとつもないのだという。歴史の勝者側のつくった妖婦伝説を排して、いろんな歴史文献を集めて再構成すると見えてくるのは、強権ローマや国内部の政争から自身を守ろうと己のもてる力(才色兼備だったのは確かのよう)を尽くした一人の女性。古代世界最高の猥雑で活気みなぎる学問都市アレキサンドリアについての記述もリアル。


RETURN

神原正明『天国と地獄』(2000年8月10日初版第一刷発行・講談社選書メチエ)は、絵画美術の鑑賞。ヨーロッパの中世キリスト教美術に描かれた「最後の審判図」に代表される世界の終焉イメージを読み解く図像学的な試み。第4章で、ヴェネチアの潟の沖の小島トルチェッロ、城塞都市オルヴィエートなどにある「最後の審判図」について触れられている。私も偶然それらの地に足を運んでいたので興味深く読んだ。というより、詳細な解説を読んだ後では、もっと現地で審判図を意識して見ていればよかったなあと、猫に小判状態が悔やまれることしきり。第3章では「アンチクリスト」のイメージについての詳しい解説がある。この反キリストのイメージは、なにかと欧米の文芸・映画などにも登場するので、そういう興味で読んでも面白いと思う。ところで、終章(第6章「楽園幻想」)冒頭で、著者は「ここで種明かしをしよう。」と前置きして、この本の試み全体が実は「ボスの「快楽の園」を何とか理解したいがため」になされたと明かしている。その第6章が「快楽の園」の解説になっているのだが、そればかりか、あとがきには、「快楽の園」のイコノロジーを記したという近著の予告もある。思わず読みたくなったが(ウェブで検索したところ、まだ出版されていない様子)、それにしても、こういう本格的研究者がおいでとは、天国の?ヒロニエムス・ボスも、もって瞑すべしという感じだ。。


RETURN

J・K・ローリング『ハリー・ポッターと秘密の部屋』(2000年9月19日初版第一刷発行・静山社)は、ファンタジー小説。前作『ハリー・ポッターと賢者の石』の続編。ホグワーツ魔法学校の二年生になった12歳の少年ハリーが、夏休みで帰省中、またぞろ叔父のダドリー一家に邪険にされる場面から始まる。シリーズものっていうのは、けっこうマンネリみたいに思えてきて途中で飽きてしまうことがあるが、この本はそんなことがなくて、むしろ中盤くらいから俄然面白くなってすいすい読んだ。前作からの伏線が張り巡らされていて、しっかりシリーズ全体の構想が練られているのがわかる。面白さは前作をしのいでいる感じだ。本書は、昨今ではどこの本屋さんにも平積みされているベストセラー。子供のためにと買って、自分で楽しむ親が多いというのも頷ける。


RETURN

町田康『実録・外道の条件』(2000年10月6日初版第一刷発行・メディアファクトリー)は、短編小説集。雑誌「ダ・ヴィンチ」に98年8月号から二年間連載されていたものが初出で、4作品が収録されている。読むと面白いだろうなと思いつつ、あれよあれよというまに著作が沢山でていて、つい読みそびれていた作家の芥川賞受賞第一作。ロック歌手であり、俳優であり、もの書きでもあるという著者とおぼしき主人公の仕事生活が題材になっていて、つまりは仕事の現場での関係のもつれから生じたトラブルや人間観察が、相当な誇張や逸脱や脚色をまじえて、江戸の戯作作家みたいな面白可笑しいうねる文体で綴られている。なかでは、「紐育外道の小島」という作品の文章がいちばん荒れ狂っていてシュールだが、それぞれ業界小説としてもなるほどこういう世界なのだろうなあと思わせる臨場感にも満ちている。基本的に主人公は感性豊かな義と礼のひとで、世の無礼者、契約違反、おべっか使い、高慢ちき、その他もろもろの逸脱の輩に対して過敏に反応する。人間関係で誰もがかかえているような鬱憤を、日本語の口語のもつうねうねした跳躍力をいっぱいに使って、思う存分書きとばして「復讐」をとげたという感じだ。「紐育外道の小島」の顛末はちょっと恐くて別世界を覗くような味わいがあるが、他の作品はどうなのかな。


RETURN

吉本隆明+三好春樹『<老い>の現在進行形』(2000年10月30日初版第一刷発行・春秋社)は、対談集。2000年3~5月に、4回にわたって吉本氏自宅で行われた対談の語りおろし。老人介護の専門家の三好氏が、日頃、糖尿病や前立腺肥大に悩み「新参者の老人」を自称する吉本氏に、「老い」というテーマを中心に様々な見識をうかがう、という内容の本だが、三好氏からは老人介護施設の現状や理学療法の技法やアドバイス(図解いり)の一端がきけるし、吉本氏からは実体験に即した「老い」についての見識や、「老人介護(医療)」その他についての見解がきけて充実した内容になっている。老いは若い頃考えていたようにスムースにやってくるのではなく、ガタリと段階的にやってくるというのを実感した、という吉本氏の発言がとくに印象的だったが、他にも女性の強さを話題にした5章を興味深く読んだ。本書では、老いというテーマを巡って、「わからない」という言葉が随所に登場するが、わかったこととされている、という言説が通じない心の所在にしっかり光をあてている感じがする。心身の体認というレベルでの老いの「わからなさ」。これは、そういう場所に即した看護の側でいうと、終章で触れられている「科学主義」的看護と「倫理主義」的看護のどちらでもない、個々の看護者の<地>がだせるような、自然な関係の重要性、ということにつながるだろう。


RETURN

ジョン・ネイスン『ソニー ドリーム・キッズの伝説』(2000年6月10日初版第一刷発行・文芸春秋)は、「ソニー」という企業の歴史を描いたドキュメント。もともとソニーから依頼を受けて企業の記念事業的なドキュメンタリー・ビデオを制作した著者が、独自の立場でソニーについての本を書こうと思い立った。ソニー側は了承し、必要な資料提供やすべてのインタヴューの申し入れに応じ、出来上がった本の内容に関してはいっさい口を挟まない、と、書面でお墨付きを与えた、という。こういう異例な立場で書かれた本書には、膨大な量のソニーの歴代の構成員(社員役員トップ)たちの肉声が満ちている。またアメリカでの事業展開(とくにハリウッド進出)に関わった多数の米国人関係者たちの証言も含まれている。そうした原資料をもとに、著者はこの本で、ちょっと類例がない特色をもった一企業の歴史を、そのトップたちの資質や人柄に踏み込んで、描ききるのに成功している。なみの企業小説では太刀打ちできないような人間ドラマをちりばめながら。。文化をこえた人の繋がりの意味、その難しさや可能性についても、深く考えさせられる好著。著者のネイスン氏は大江健三郎の小説の翻訳や、先頃新装版がでて話題になった『三島由紀夫-ある評伝』の著者としても知られている人。


RETURN

佐藤雅彦『プチ哲学』(2000年6月16日初版第一刷発行・マガジンハウス)は、絵本。絵本と思わず書いたが、実はちょっと違う。短くてストーリー性のあるかわいいイラスト(数コマ漫画風)に、解説的コメントを付したシリーズ31編が収録(雑誌「オリーブ」に連載が初出)されているのだが、その毎回の異なるテーマが、「プチ哲学」風なのだ。著者によると「ちょっとだけ、深く考えてみる」というのが「プチ哲学」。著者(絵と文)は「ポリンキー」や「ドンタコス」や「スコーン」のCM、「だんご三兄弟」のヒットなどで知られる会社代表で大学教授。知る人ぞ知るマルチ著名人なのかもしれないが、わたしは本書でその活躍ぶりを初めて知った。ベッドで絵本みたいに読んで楽しんだが、20の「魔法の杖」というのに思わず笑ってしまった。カエルが魔法使いに恋人と一生添い遂げたいと願いをいうと、魔法使いが魔法の杖をつかってその願いをかなえてくれる。煙がもくもくでて、次の場面では、おじいさんおばあさんになったカエルのカップルがいて、「そうじゃなくて」とつぶやいている。この面白さを、言葉でいうのは難しいなあ。。本書の末尾には、漫画家中川いさみ氏と著者の対談も収録されている。。


RETURN

小林よしのり『台湾論』(2000年11月1日初版第一刷発行・小学館)は、コミック。「SAPIO」に6月28日号〜10月20日号まで連載された部分(1〜7章)に、書き下ろし5章分を加えた、という体裁だ。李登輝氏(前総統)や陳水扁氏(現総統)と著者の対談を下地にした前半部分は雑誌掲載時に読んでいたのだが、本書では、第8章で、台湾の歴史を通史的に描いているのが特色だ。台湾の歴史、それも近代以前となると、まるで無知だったので興味深く読んだ。近松門左衛門の「国姓爺合戦」に登場する英雄、鄭成功が実際どんなことをした人物なのか、本書ではじめて知った次第。歴史の解釈というのは距離の取り方でいかようにも変わってしまう。そこで史観と現在を結びつけるような言説に対しての健全な?不信というのもあるのだと思う。ただそういうことと、歴史自体に対する無関心とは別だ。いろいろな国の歴史を知るのは億劫なことだが、それが他者の立場の理解に必要な場面(逆に他者から歴史認識を要請される場面)というのは、これからますます増すと思う(特に若い人は大変だろうなあ)。本書では、特定の国家の体制というより国民性まで踏み込んで批判するようなところに違和を感じたが、そういうことを割り引いても沢山読まれていい著者の力業と熱の伝わってくるコミックだと私は思う。


RETURN

『科学朝日』編『科学史の事件簿』(2000年7月25日初版第一刷発行・朝日選書)は、個々の科学者の人物像に照明をあてながら、科学史上に残るような数々の学説を巡るスキャンダラスなエピソードを集めた本。同じ朝日選書の『スキャンダルの科学史』が、日本編で、こちらは西欧編。「科学朝日」に連載されたシリーズがもとになっていて、95年に一度単行本化された本を、朝日選書に加えた新装版だ。18人の書き手(専門家)が、時代も研究分野も異にする24人の科学者のエピソードをとりあげているのだが、その結果、語られる学問領域も様々で語り口も様々。なかには相当専門的だったり文章自体が読みにくかったりするのもある。でもそれぞれ短いので、そういうのは適当に飛ばして(^^;、読み進んでいくと、これはと思うエピソードにであう。なんといっても科学の発見、発明自体にロマンがあるうえに、そこに天才学者たちの人間味あふれる悲喜劇エピソードがはりついている、という話が面白くない筈がない、と私は思う(好みですが)。取り上げられているなかで、著名人をあげると、テイヤドール・シャルダン、スティーブン・ジェイ・グールド、ユング、アインシュタイン、ダーウィン、パスツール、ニコラ・テスラなど。


RETURN

岡野弘彦『折口信夫伝』(2000年9月10日初版第一刷発行・中央公論社)は、評伝。著者は戦後七年間折口のもとで暮らした、「一番末の弟子」(あとがき)で、もちろん高名な歌人でもある。これまでにも『折口信夫の晩年』、『折口信夫の記』他の著作がある。本書は「中央公論」誌にほぼ二年間連載されたものが初出。折口信夫の民俗学者としての思想にも踏み込みながら、「少年時からの内側から身を焼くような熱い希求」をかかえて生きた稀有な人物像の内奥に照明を当てた本格評伝だ。とくに歌人として、折口の歌を評解するときの筆致に、こまやかな理解や熱が込められているように思えた。「八「まれびと」とすさのを」の「くびられた親鳥」の項で、著者は折口作の短歌二首をあげて「こういう心の世界を詠んだ短歌を、私は古典の中にも近・現代の作品の中にも見たことがない。」と書いている。その項で書かれている「まれびと」の寂寥についての著者の思いはことのほか深い。私事だが、若い頃、早池峰神楽を撮影する自主映画の手伝いで、岩手に行ったことを思い出した。そのときふれた神楽舞の人々の像が、私の場合、折口氏の「まれびと」を思うと浮かんでくる。折口信夫については、ここ数年に、現代詩詩人の著作だけでも、藤井貞和『折口信夫の詩の成立』(中央公論社)、松浦寿輝『折口信夫論』(太田出版)、吉増剛造『生涯は夢の中道』(思潮社)がでている。


RETURN

姫野カオルコ『サイケ』(2000年6月30日初版第一刷発行・集英社)は、短編小説集。「小説すばる」や「月刊カドカワ」に初出の作品4編に、書き下ろしの作品を加え、計6編の作品が収録されている。サイコスリラーみたいな「イキドマリ」、著者の少女期の体験を題材にした、「オー、モーレツ」、「お元気ですか、先生」など。「わし」という人称で語られる「少年ジャンプがぼくをだめにした」にも、作者の少女時代の(自伝的な)体験が象徴的に描かれているのだが、70年前後、万博や学生運動などで、なにかと騒然としていた世相が、当時小学校高学年だった少女の受感という新鮮な角度から捉えられているのが特徴。小説集全般に遍在する作者の視線は、いわば人間を社会関係中心に洞察するような目だなあ、というのがあらためての印象だ。作者の目は、辛辣さ、小気味よさで、際だっているが、基本的に70年前後から、こういう目が育つようなマス社会になってきたのではないだろうか。出版社勤務の青年を描いた「モーレツからナイーブへ」には、70年頃売れっ子だった女性現代詩人というのが登場するが、だれかモデルがあるのだろうか。ありそうだが、よくわからない。


RETURN

馬場啓一『白洲正子の生き方』(2000年8月30日初版第一刷発行・文芸春秋)は、評伝。この、生涯様々な技芸ジャンルに深い関心を寄せ続けた思索の人の言動を、旅、能、骨董、お茶、生け花、着物、とジャンル別に整理して辿る、白洲正子の世界入門編というところ。入門編という印象は、評伝としての、深い掘り下げというより、80冊にものぼるという白洲正子の著作にわけいって、印象に残る彼女の言葉を浮かび上がらせた、言行録的な構成からくる。文章も平明。「何処へ出したって、立派だというのは、客観的な価値があるということだ。中国の陶器は、殆どそうである。ダイヤモンドみたいに、誰が見ても美しく、それ自身に付随した価値があるから、骨董屋さんは皆同じ値をつける。が、日本の多くの焼き物はそうは行かない。たとえば利休が持っていたというだけで、不当な値段がつけられるし、誰ソレが誉めたというだけで高くなる。見識がないといってしまえばそれまでだが、また別の面からみれば、それ程人間を信用しているということになる。」という白洲さんの言葉を引用した一節にたちどまった。これは芸術一般の評価についてもいえそうだ。この社会(だけ)のうまく(客観的に)言えない美の基準。それはこの社会(だけ)の批評の質ということにも深く関わっているだろう。


RETURN

村上春樹『またたび浴びたタマ』(2000年8月30日初版第一刷発行・文芸春秋)は、回文集。あとがきによると、著者は2000年の正月の五日間、いっさい仕事をしないことに決めたのだが、そのてもちぶさたな時間に、ついなにかしたくなって、五日間メモをとりながら「悪戦苦闘」してつくったというのが、この50音(44個)の回文集のもとらしい。実はこの本、書店でみかけて即座に興味をもって買ってしまった。私も、おもしろ半分に「琥珀置く箱」という回文集をつくったことがあるからだ(ホームページに掲載してます)。そういうわけで、最初は簡単にできたけど、「そのうちに考えすぎで頭が酸欠状態になってきて、最後にはまわりにあるすべての単語が、僕の意志とは、無関係に勝手にぐるぐると回転しはじめました。」という著者の「あとがき」の感想、実に共感できるものがある(^^;。作品のほうは、といえば、解説文とこみで、微苦笑を誘う脱力系(おとそ気分)の芸にしてしまっているところが、いかにもこの作家の人柄と力量。「ほとんど意味のないことを、全力を尽くして真剣に追求するのも、たまにはいいものです。」という「あとがき」の感想も、我が意を得たりという感じだ。回文というのは、つくってみるとわかるが、創作のプロセスには、自分の内側からこみあげてくる故知れぬ笑いに触れるような独特のものがある。そういうのに作者も触れたんだな、と。


RETURN