memo14
言葉の部屋へ 書名indexへ 著者名indexへ

走り書き「新刊」読書メモ(14)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(00.6.24~00.10.3)

三浦朱門『武蔵野ものがたり』田口ランディ『コンセント』花輪和一『刑務所の中』
横尾忠則『晴のち晴』谷川健一『神に追われて』田口ランディ『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』
アイケ・ピース『デカルト暗殺』カナリヤの会編『オウムをやめた私たち』荒木経惟『純写真から粋文学へ』
北杜夫『消えさりゆく物語』村上龍『希望の国のエクソダス』 ☆郷原宏編・著『ギムレットには早すぎる』
 辰巳渚『「捨てる!」技術』 関川夏央『昭和時代回想』 金城一紀『GO』
 小松和彦『安倍晴明「闇」の伝承』 吉本隆明+大塚英志『だいたいで、いいじゃない』 柳美里『命』
 ☆ニーナ・シモン『ニーナ・シモン自伝』 鹿島茂『衝動買い日記』 加藤典洋・多田道太郎・鷲田清一『立ち話風哲学問答』
 浅野素女『パリ二十区の素顔』 吉本隆明『写生の物語』 ベルンハント・シュリンク『朗読者』
 柏木博『色彩のヒント』 養老孟司『異見あり』 大崎善生『聖の青春』
 姫野カオルコ『すべての女は痩せすぎである』 海老坂武『新・シングルライフ』 岡田哲『とんかつの誕生』


三浦朱門『武蔵野ものがたり』(2000年5月3日初版第一刷発行・集英社新書)は、武蔵野をテーマにした読み物。風土史的な記述に著者自らの体験をまじえて語った一部、地元出身者からの聞き書きと、福生、立川の飛行場の歴史について触れた二部、福生市の造り酒屋に伝わっていた古文書「石川酒造文書」を読み解いていく三部からなる。このうち、第一部がどちらかというと、著者の青年期の体験(著者は府立第二中学(現立川高校)を卒業)を入り混ぜた随想的語りだが、二部は、著者の知友の武蔵野出身者たち(なぜか市長とか会社社長とか、地主とか地方名士が多い)からの聞き書きが主であり、三部は、民俗学の資料にでもなりそうな古文書の丁寧な読み解き、という趣だ。そういう多面的なアプローチによって、武蔵野の風土や歴史、そこに生きた人々の姿がほのかに浮かびあがってくる、という仕掛けになっている。ところで、三部に登場する「石川酒造」の経営者というのは、かっての熊川村(現福生市)の庄屋(現在十七代目)だった家柄だ。わたしはそのすぐ近く(徒歩で5,6分)に住んでいて、この夏も散歩のついでに、酒造の敷地内にあるビア・レストランに、地ビールを飲みに行ったりした。というわけで、福生村や熊川村の記述が沢山でてくるこの本は、個人的にとても面白く読んだ。一般むけとは言い難いが、「武蔵野」の歴史に興味のあるひと向き。こんな隣近所の歴史について書かれた本が読めるとは思いもよらなかった。。


RETURN

田口ランディ『コンセント』(2000年2月10日初版第一刷発行・幻冬舎)は、小説。主人公の朝倉ユキは、雑誌に金融関係の連載を持っているフリーライター。ある日、ユキは10ほど年齢の離れた兄が死んだという父からの電話を受ける。行方不明になっていたユキの兄は、人知れず借りていたアパートの自室で、腐乱状態で発見された。死因は急性心不全で、衰弱死と診断されたが、緩慢な自殺ともとれるその死の本当の理由がわからない。兄のアパートの現場処理や、葬儀のだんどりをとりしきったユキは、その後、不快な臭覚異常に悩まされはじめる。恋人や他人の体臭から、ときに死臭を嗅ぎ分けてしまうのだ。ユキは大学の指導教授でかっては自分の恋人でもあった国定という心理学者に会いに行き、カウセリングを受けることにするのだが。。。後半で、ユキの臭覚異常は、兄の死をきっかけに生じた彼女の精神の重大な変化の予兆であったことが明かされるのだが、兄の死の謎を追う女性が、それに重ねて自分の生きるルーツ(よりどころ)を探す、という心理サスペンス小説。読み物としてもとても面白いが、それより驚いたことがある。先日読んだばかりの谷川健一の『神に追われて』という本と、この本のテーマが不思議にシンクロしているのだ。沖縄のシャーマン(ユタ)のことがでてきたあたりで、これは、と思ったが、後半では、なんと「カミダーリ」という言葉まででてくる。つまり本書は、「神ダーリ」(巫病・神の試練)の現代都会版として、谷川健一『神に追われて』と併読するのが、正しい読み方だと思ったのだった(^^;)。。。


RETURN

花輪和一『刑務所の中』(2000年7月25日初版第一刷発行・青林工藝舎)は、コミック。98年〜2000月にかけて隔月刊のコミック雑誌「マンガの鬼AX アックス」及び「アックス」誌に初出。まったく事情にうといので知らなかったが、筆者(ときに妖艶な不気味漫画を描いていたひと)は94年12月、銃刀法等違反容疑(子供の頃からのモデルガンマニアで改造銃などを制作して試射したりしていたらしい)で逮捕され、懲役3年の実刑判決を受けたという。本書は、筆者出獄後に、当時の記憶に基づいて、服役時の刑務所生活を克明に描写再現した異色コミック。やや矮小化されている作者自身らしい主人公が、函館刑務所内での日常規則を、淡々とこなしていく姿が描かれているのだが、それがなんとも飄々としていて、生活環境の細部もとてもリアルだ。これから、なにかよからぬ犯罪を企てている人は、こういうコミックを読んでおこう(お世話になるかもしれない生活環境があまりに空疎で夢がないので、犯行をやめる気になるかもしれない)。詳細な食事の献立記録もつい自分と比べてしまう。。「意表をつかれる面白さだった。どうでもいいことが綿々と描いてある。、、、稀有と言ってもいい獄中記録」とは、呉智英氏の「解説」。


RETURN

横尾忠則『晴のち晴』(2000年8月20日初版第一刷発行・小学館)は、エッセイ集。99年6月26日〜8月25日まで「西日本新聞」に掲載されたエッセイから74編を抜粋したもの。新聞連載ということで、死んだ愛猫の話(わりとくりかえしでてくる)とか、著者が宝塚歌劇(の男役)ファンだという話とか、話題は肩のこらないものばかりさまざまで、美術関連の話もちらほら。でもやはり著者がのっているのは、霊感とか死後の世界関係の話で、それも沢山収録されている。面白かったのは、念力?で天候を変えられるという話。著者によると、色々の経験から人間の想念は天候を左右することが可能だとわかったという。あっさりいわれると、なんだかそうかな、という気になってくるのが愉しい。瀬戸内寂聴さんが雨を止める名人だと自認しているとか、著者が自分で富士山全体にかかる雲をどかしたという体験談も書いてあって、その話を美輪明宏さんにしたら、「私だって雲きりくらい朝飯前よ」と言われたという(「雲きり」という言葉があったのか!)。。。それを読んだ当日(8月30日)の晩のこと、最近ひどい残暑続きだが、実は明日は午後から都内に外出するつもりでいるから、この本みたいに涼しくなればいいなあ、などと念をこらしてみた。その結果、翌日は、朝のうち雨のち曇り(^^;。。。


RETURN

谷川健一『神に追われて』(2000年7月25日初版第一刷発行・新潮社)は、ノンフィクション小説。正しくはなんいといえばいいのかわからないが、現存する沖縄のユタ(シャーマン)の半生が、彼女たちの宗教体験を中心に描かれている。民俗学者である著者が、現地で見聞した体験と、彼女たちからの直接の聞き書きが骨子になっていると思えるのだが、当人たちの語りに即して、事実あったことのように書かれているせいで、小説のような体裁になっている。「神」が、ある日若い女性に憑依して、先祖の根を掘り起こせ(巫女になれ)と命令する。この絶対的な「神」は、旧約聖書の神(エホバ)に似ていて、人の側の都合など忖度しない。風土社会のほうでも対処法(「ヌビゴウ」と呼ばれる「延期願い」の儀式)を用意しているのだが、それでも「神に追われて、逃げおおせることができなくなった時に、神に自分の魂をゆずり渡す。これが南島で神の道に入った女の原則的で典型的な姿である。」と著者はかいている。彼女たちの体験する「神ダーリ」(巫病・神の試練)の生々しいエピソードは、人が宗教を選ぶ、という段階以前の、宗教体験のもうひとつ別の姿、人と神の関係が風土の共同幻想と分かちがたく溶け合っているようなあり方を示しているように思える。そういう世界が目に見える部分では一方で急速に滅びようとしていること、また目に見えない部分では、私たちの現在の精神性とさほど無縁ではないことを、著者は本書で知らしめたかったのではないだろうか。


RETURN

田口ランディ『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』(1999年12月25日初版第一刷発行・晶文社)は、エッセイ集。初出は表記がないので不明だが、あとがきには、「世の中のいろんな事件について、自分なりに感じた事を文章にして、そして一冊の本にまとめてみた。」「一九九九年の現時点での私の世界に対する思いだ。」とある。略歴欄に、著者はインターネットで5万人の読者をもつコラムマガジンを配信中で、インタヴュアー、ノンフィクション作家としても活躍中とある。私は、はじめてで、面白そうと人がいうので読んでみた。ううむ。とても面白い。何というか、特徴は、他人の気持ち(痛み)に対する共感能力の強さと考え方の柔軟さ。池袋路上通り魔事件、酒鬼薔薇事件、TOSHIの洗脳、林真須美、オウム、幼児虐待と、きつい話題も取り上げられているが、全然考え方にごまかしがない。これなら多くの人がファンになるのもよくわかる気がした。若者雑誌などに、こういう種類の感性伸びやかな本音コラムを書く人は多いと思うが、この人は、きっと一歩抜けてるに違いない。母親であることは、「おんな的社会性」を磨かれることである、なんて(「野村沙知代が映しだすオトコ社会」)、今までこんなにくっきり誰か言っただろうか。著者の近著である小説『コンセント』も読んでみたくなった。


RETURN

アイケ・ピース『デカルト暗殺』(2000年2月10日初版第一刷発行・大修館書店)は、デカルトの死因を探求した読み物。従来肺炎による病死とされていた近代哲学の始祖ルネ・デカルトの死の原因を、デカルトの臨終を看取った医師ヨハン・ヴァン・ヴレンによって書かれた一通の手紙(著者が1980年に発見)の文面から読み解き、砒素による毒殺ではなかったかと推理した本。著者によれば、パリの人類学博物館の人類学文庫の段ボールの箱のなかに、デカルトの頭蓋骨は保管されており、これを計測、肉付けされた画像としてコンピュータで再構成してみて、本物と同定できたうえで砒素の含有を調べれば、ことの真偽の証明が可能という。ただし、本書は西欧では大いに話題になりながら、まだそうした法医学的な検分はされていない段階のようだ。つまり本書の毒殺説は確定しているわけではないようだが、これだけで映画にできそうな新説だ。晩年のデカルトをストックホルムの宮廷に招聘した、時のクリスティーナ女王(なにかと逸話の多い才人だった人)と、デカルトとの師弟的関係も、喧伝されているほどではなかったというのも、本書の新しい情報。。


RETURN

カナリヤの会編『オウムをやめた私たち』(2000年5月26日初版第一刷発行・岩波書店)は、座談会と手記。95年6月にオウム真理教脱会者の会として発足したのが「カナリアの会」(窓口は弁護士の滝本太郎氏)で、本書は、その会員たちの座談会と、会に寄せられた元信者たちの手記が、テーマ別(六つの章別)に整理されて収録されている。もともと、これまで会報「カナリアの詩」に掲載された手記や体験記を一般にひろく紹介したいという意図で編まれた本のようだが、元信者の人々の率直な発言のとびかう座談会を合わせたことで、ぐっと資料的にも厚みがましたと思う。また本書には、あえて「オウム真理教の”魅力”」を掲げて一章にしたところがある。この側面をなかったふりをすれば、理解の風通しがよくならない。そういう意味で編者の英断だろう。手記のなかに、「庭で草むしりをしようと思ったら、恐くって草がむしれない。」と、マインドコントロールによって植え付けられた罪悪感に悩むものがあった。成長天の神の怒りにふれるとかいう、麻原氏の教説は詳しく知らないが、私たちの心に宿るアミニズム的な自然心性をかすめとって、強迫的なイメージ(物語)に仕立てたのではないか、そういう感じがして、こちらの神経にさわってくるような話だった。


RETURN

荒木経惟『純写真から粋文学へ』(2000年8月25日初版第一刷発行・松柏社)は、対談集。89年から99年にかけて行われた対談11本(初出は各種雑誌)が収録されている。お相手の顔ぶれは、川本三郎、竹中直人、出口裕弘、篠山紀信、坪内祐三、柳美里、清水ちなみ、村上龍、芹沢俊介、石内都、柴門ふみ、の各氏。初の写真対談集と帯にある。氏は天才だけあって、座談もとても上手い。被写体の「一番いいとこ」を(ひきだして)撮る、という氏の写真術の流儀が、そのまま座談にも通っているからだろう。「あたしは決して彼らにないものを引っ張り出したわけじゃないの。写真ではそれはできない。これが絵や音楽とは違うところ。あたしが、彼らの中にあるものを発見してあげたんです。」これは、清水ちなみ氏との対談で、写真集『男の顔面』(文芸春秋・99年)について語った荒木氏の自己解説だが、思わずなるほどと。「知性とはひみつをもつということ」(村上氏)という発言のある村上龍氏との対談、「今は女たちは快感に酔っているけど、この酔いは醒めます。俺は見えてるんだ。」(荒木氏)という発言のある芹沢氏との対談など、面白い。


RETURN

北杜夫『消えさりゆく物語』(2000年4月25日初版第一刷発行・新潮社)は、短編小説集。92年から2000年にかけて各種文芸誌や週刊誌に掲載された8編の短編小説が収録されている。作品のほとんどは、主人公が老境にあり、その「わたし」が、なぜか、とつぜん日常から白日夢めいた幻想世界に足を踏み入れる、という構図になっている(どことも知れない国の湖の湖畔での、金髪碧眼の美少年たちの出会いと同性愛的な感情の交流を描いた「みずうみ」という作品だけは別だが、そのファンタジーの質は同じだ)。この白日夢の情景には、夢と作者の青少年期の遠い記憶が溶け合ったような不思議にリアルな味わいがあり、文章も平明で透明感がある。転生のように時空をまたぎ越す夢、切迫感のある不条理な夢。それらを、世田谷区の公園で孫のお守りをしているような老人がかいま見る、という対比が、なんとも渋い。若い頃『ドクトルまんぼう航海記』と『昆虫記』を読んで、かくれファンになったこの作者も、もう70代なのだなあ。本書は「著者20年ぶりの本格短編小説集」と、帯にある。


RETURN

村上龍『希望の国のエクソダス』(2000年7月20日初版第一刷発行・文芸春秋)は、近未来を描いた長編小説。初出は「文芸春秋」(98年10月号~2000年5月号)。2001年、日本は相変わらずの不況下で、失業率も7%を越え、教育現場では中学生の集団登校拒否の総数が80万人を数え、深刻な問題になっているという設定。そんなある日、中学生たちは組織的な集団登校を行い、学校側と衝突するのだが、彼等を取材をした雑誌記者の主人公は、中学生たちがインターネットを通して全国規模のネットワークをつくりあげていることを知る。だがそれは、ほんのはじまりだった。。。大人社会や教育制度の現状に対する中学生たちの造反と、彼等がネットの情報システムや、現代の複雑な金融市場のシステムを巧妙に利用して、現実化していく理想的な共同体の姿を描く、最近では珍しい一種のユートピア小説。経済問題中心に、実際近未来の日本に起きそうな事件が、未来予測の経済書みたいに書き連ねられているようなところがあり、それと新しい生き方を模索するエリート中学生群像がドッキングしている。造反劇の描写は、紅衛兵や全学連の運動というより、70年前後の高校生たちによる全共闘運動のアナーキーな雰囲気を伝えていて、なにほどか感慨深い。オウム以降の現状をふまえて、理想的な共同体のイメージの構築はいかに可能かを問う力作。風力発電の風車のだす騒音を坂本龍一氏が調律するという挿話が愉しい。


RETURN

☆郷原宏編・著『ギムレットには早すぎる』(1997年12月20日初版第一刷発行・アドリアネ企画)は、「レイモンド・チャンドラー名言集」(副題)。ハードボイルド小説作家、レイモンド・チャンドラー(1888~1959)の、私立探偵フィリップ・マーローが活躍するシリーズの中から、編者である郷原宏氏が、約百編の名セリフを選び出し、項目別に分類したうえで、作品の中でその言葉が使われている情景の説明や、言葉に含まれている言外の意味などを解説した本。名セリフは名場面ときりはなせないので、付された丁寧な解説が嬉しい。一ページに上段に、山本楡美子さんの訳文があげられていて、中段に出典やそのセリフの発言者、下段には英語の原文が併記されているので、とても読みやすく、英語の好きな人には、原文と対照して訳文を味読する興味もつきないと思う。チャンドラーの小説の文章が、ミステリー小説というジャンルの枠を大きく越えて、ある時期の文芸全般に与えた影響は大きい。それが個別的なセリフの意味内容というより、世界に対する態度みたいな感じで伝染した、というのが特徴だと思う。日本の作家でもあのひとこのひと。。


RETURN

辰巳渚『「捨てる!」技術』(2000年4月24日初版第一刷発行・宝島社新書)は、モノを捨てるためのノウハウを説いた実用書。60万部突破のベストセラーと帯にあるが、現時点で100万部突破は目前の模様。いかに人々が日々、モノの増殖に頭を悩ましているかがわかるような数字だが、そんな悩みにぴったりした指南書だ。実際には著者もけっこう悩みつつ暮らしているようだが、スローガンは、過激で歯切れがいい。とりあえずとっとくというのは禁句。箱ごとすてる。見ないで捨てる(^^;。いわゆる収納法・整理法を説いた本にも果敢に噛みついている。整理法がへたに身に付くと、本当に必要かどうか検討せずに、とりあえず分類してとっておくというふうになりかねない、という指摘には、同感だ。すてる。先延ばしにせず、今(判断して)すてる。という習慣が身に付くことは、逆に自分に何が必要なのかを常に考える習慣がつくということで、この本の説く発想の転換の意味はそこにあると思う。そういう時代になってきたのだろう。しかしゴミと知りつつ捨てられないのが本だっ!。


RETURN

関川夏央『昭和時代回想』(1999年12月20日初版第一刷発行・日本出版協会)は、エッセイ集。あとがきによると、90年から99年にかけて書かれた数多くのエッセイから、編者(NHK出版の小湊雅彦氏)が表題に収まるようなテーマのエッセイを集めて、本としたものらしい。もっとも、本書には著者の「思春期青春期回想」といった連載エッセイが含まれていて、その気恥ずかしさをかくすために、「木を隠すには森がいちばんという浅智恵の結果」、あえて大仰な表題をつけた、とも「あとがき」でうちあけられている。本書の読みどころが著者の思春期、青春期回顧にあるのは間違いない。昭和24年生まれの著者は日本の産業社会が大きく変貌する昭和の後期に自己形成を遂げた。自ら昭和の申し子だという。著者が子供時代にふれた情報は、数年遅れで生まれた私などとも奇妙なほど似通っているところがある。おそらくそう感じる同世代(昭和20年代生まれ)の読者も多いのではないだろうか。大ぴらな青春、思春期回顧は気恥ずかしいと感じる著者に似た感性の持ち主も、この表題の本なら、森に隠れて安んじて過ぎ去りし昭和の日々を回顧できるだろう。


RETURN

金城一紀『GO』(2000年7月20日初版第一刷発行・文芸春秋)は、小説。主人公の「僕」が中三になってすぐ、朝鮮籍の、いわゆる「在日朝鮮人」だった父親が、韓国籍の「在日韓国人」に国籍を変えて母親とハワイ旅行にでかけた。そんな出来事をきっかけに、「僕」も、エスカレーター式に小中高と進学する予定でいた「民族学校」から、日本の普通高校を受験する決意をする。。。この小説には、都内の私立高校に通学する17歳の「僕」の目を通して、友人や家族との結びつきや、少女との出会いなど、思春期少年の日常生活の冒険の数々が描かれている。日本の社会での「在日」の韓国朝鮮籍の人に対する差別は、様々な法制度上の手続きなどの問題以外にも、教育や生活環境の場で再生産されてしまう情緒的な差別感情の障壁として根強くある。そういう停滞した刺々しい「現在」を否応なく浴びながら、きびしく逞しく自己形成していく現代っ子少年の心情が細やかに描かれている青春小説。「さながら「在日」文学の「ライ麦畑」」とは、朝日評。それは大袈裟だと思うが。。。123回直木賞受賞作。


RETURN

小松和彦『安倍晴明「闇」の伝承』(2000年7月20日初版第一刷発行・文芸春秋)は、論考とエッセイ集。平安中期に生きた宮廷陰陽師、安倍晴明の伝承を読み解き、大江山の酒呑童子、宇治の橋姫、茨木童子など、関連する中世の伝承や、呪いや占いの歴史なども考察する。「陰陽師」ということばは、岡野玲子の同名コミック(原作・夢枕獏)その他でポピュラーになり、そのコミックの方も蘊蓄豊かなうえに、すっとんだ内容でとても面白いが、本書はそういうブームの種本となるような仕事をされてきた民俗学者による、真面目な紹介エッセイと学術的論考。日本の歴史の「闇」の部分の本格的研究は始まったばかりだというが、「式神」とか「反魂の術」とか、ばらばらだった謎めいた言葉のイメージが、少しずつまとまって見えてくる感じだ。現存する「いざなぎ流陰陽道」の、人に「呪い」をかける話(著者がフィールドワークで採取)は、この闇の部分に感応する領域が、今も人々(日本人)の心の裏側に根深く残っていることを感じさせられる。


RETURN

吉本隆明+大塚英志『だいたいで、いいじゃない』(2000年7月20日初版第一刷発行・文芸春秋)は、対談。97年の暮れから、何度か中断(吉本氏体調不良のため)を挟んで今年1月までに行われた、つごう4回の対談の内容が収録されている。話題は、サブカルチャー全般から、文学、思想、宗教と幅広いが、かなりつっこんで語られていると思えたのが「エヴァンゲリオン」、小林よしのり氏のコミックに象徴される新保守主義、自殺した江藤淳について、オウム問題、といったことだ。大塚氏のきりこみ、読み込みが鋭いのに驚いた。大塚氏のこだわりの特徴は、やはり「現在」のまとう希薄な現実感についての問題意識の鋭敏さにあると思う。アニメやオウム問題についても、誰でも言いそうな水準を抜いているように思えたし、そのこだわりの視線は、新保守主義の提示する「歴史」のフィクション性や、江藤淳の本名(現実)と筆名(フィクション)の使い分けへの着目などに、よく届いているように思えて、なるほどなあと感心した。ただ、精密に細部にこだわり過ぎることや、問題をきれいに切り分け過ぎることにも欠点があり、「だいたいで、いいじゃない」(大きな枠組みでとらえることも大事)というのが、この世代間の応答のめでたい了解事項かと。大塚氏のあとがきによれば、本書表題の別案は「糖尿病の思想」だったという(^^;。


RETURN

柳美里『命』(2000年7月20日初版第一刷発行・小学館)は、私記(99年12月から2000年6月にかけて「週刊ポスト」に連載)。私小説といいたいところだが、やはり事実に主情を色濃く混ぜて書き綴った、生々しいドキュメンタリータッチの手記というべきなのだろう。そこには、著者の妊娠から出産に至る経緯や、妊娠後のパートナーの死に至る経緯が、多くの関係者の実名入りで書かれているということもあるが、告白調の文章に込められた著者の強い意志や情念の直接性のようなものが、物語を仮構するゆとりを与えていない感じで、ひりひりと伝わってくるのだ。このゆとりのなさは何だろう。「ぎりぎりの場で書かれた、前例のないノンフィクション」(橋爪大三郎・朝日新聞書評)であるのは確かだが、体験の切実さと別に「作品化」ということでいえば、今更ながらマスメディアのシステムの肥大化を考えずにいられない。それは作品を量産させるために作家を囲い込んで、一方で芸能人みたいにもてはやしたり、特別視して追い回す、そのことだけが疑われていない。というより、そのことに耐えなければ、もう肥大化したシステムの産み出した特別な「作家」という位置にとどまり続けることができないとでもいうふうなのだ。書く側も充分位置をコントロールしなければ身がもたないところで、著者は(たぶん)なかば意識的に自分を追い込んでゆく。読んでいて目がはなせない。


RETURN

☆ニーナ・シモン『ニーナ・シモン自伝』(1995年9月28日初版第一刷発行・日本テレビ)は、自伝。ノース・カロライナ州のトライオンに生まれたユーニス・ウェイマンは、6歳の頃から教会(母親がメソジスト派の牧師)でピアノを弾いていた。やがて彼女の才能を見抜いた周囲の人々が町で基金をつくって彼女に音楽教育を施し、ユーニスはジュリアード音楽院に進学する。コンサート・ピアニストへの道を目指していた彼女だったが、カーティス音楽学校を受験して、不合格(人種差別の疑い濃厚)になった頃から、基金も底をつき、生活のためにリゾート地のクラブでピアノ演奏のアルバイトをはじめる(このとき、スペイン語で「小さな女の子」を意味するニーナと、フランスの女優シモーヌ・シニョレからとって、「ニーナ・シモン」という芸名がつくられたという)。。。。本書は、クラシック音楽の奏法をベースにした独自のピアノ演奏と歌唱でデビューして、60年代、70年代にカリスマ的な人気を得た歌手ニーナ・シモンが、波乱に富んだ自らの半生を振り返った自伝。60年代の公民権運動との深い精神的な繋がりや、アメリカを離れて後の私生活の起伏、幾多の恋愛遍歴など、とても面白い。透けて見えてくるのは、流転する人生に立ち向かう彼女の精神の強靱さということだろうか。本書の副題は「ひとりぼっちの闘い」。


RETURN

鹿島茂『衝動買い日記』(2000年4月25日初版第一刷発行・新潮社)は、エッセイ。「中央公論」誌に98年1月号から2年にわたって連載されたエッセイ24回分を収録。著者がつい衝動買いをしてしまった品々にまつわるエピソードが毎回取り上げられている。中には「腹筋マシーン」とか、「猫の家」とか「ごろねスコープ」といった変わり種もあるが、おおむねは、財布や時計や男性用香水、サングラス、パソコン、シュレッダー、しちりん、本棚、ヴィンテージ・ワインやチーズといった、家人にも呆れられないような(^^;、実用的な日用品、趣味のグッズがおおい。つまり変なものをつい買ってしまった失敗談じゃなくて、著者の見つけた好ましいモノ、便利な道具を開陳する喜びが伝わってくる話が多くて、メモしたくなる記事もけっこうある。激安海外パック旅行も衝動買いの中に入っているのが面白く、興味のあるひとには著者の体験談は参考になるかもしれない。。


RETURN

加藤典洋・多田道太郎・鷲田清一『立ち話風哲学問答』(2000年6月26日初版第一刷発行・朝日新聞社)は、鼎談集。月刊雑誌の「広告批評」に全24回連載された鼎談が初出。毎回のテーマは3人の出席者が持ち回りで、そのつど事前に提案したものについて語る、という風になっている。専門が評論、文学、哲学という人たちの顔ぶれなのだが、話題は雑誌掲載を意識してか、映画や、ファッション、写真、舞踏、音楽や広告、漫画(もちろん文学も)、などなど、と幅広い。映画では「友達のうちはどこ」などの監督キアロスタミ、音楽ではクラプトンのCD「アンプラグド」、漫画では岩昭均の「寄生獣」、舞踏(モダンダンス)では、ピナ・バウシュや勅使川原三郎、小説では村上春樹の『スプートニクの恋人』、村上龍『ラブ&ポップ』なども取り上げられていて、これらは私も好きで、これまで見たり聞いたり読んだりしていたので、かすかな時間差を感じながら、相応に楽しく三氏のきさくな立ち話的談論につきあえた。多田氏が、辻征夫の作品を二度にわたって取り上げられている(『絵本摩天楼絵巻』と『ぼくたちの(俎板のような)拳銃』)のが特別で、ファンの人は立ち読みチェックかも。


RETURN

浅野素女『パリ二十区の素顔』(2000年3月22日初版第一刷発行・集英社新書)は、類書とひと味違うパリ・ガイド。パリを構成する全20区のそれぞれに章別に照明をあて、「時に歴史解説風、時にガイドブック風。時に文学エッセイ風、時に庶民の一代記風....。」(あとがき)に丁寧に紹介した本。パッサージュを抜けてロートレアモンの住居跡を探し回った「二区」や、水彩画スケッチの筆を取った美しいリュクサンブール公園のある「六区」。老眼鏡を買った安物スーパー「tati」のある不穏な活気に満ちた「十八区」。勝手に遊んできた話で恐縮だが、昨年のパリ旅行の思い出がどっとよみがえって個人的にはすごく楽しかった本。記述では、文学者それもフィリップ・ソレルス、マルグリット・デュラス「六区」、パトリック・モディアーノ「十六区」といった現代作家についての記述がある章が、著者も一段と身をのりだして書いている感じがして光彩があって楽しめる。著者はパリ在住のジャーナリストで、この15,6年の間に十回位引っ越して、だいたいパリをぐるりと一回りしたという。そういう人ならではの、地域によって微妙に違う土地の雰囲気や生活感への掘り下げもよく利いている。


RETURN

吉本隆明『写生の物語』(2000年6月26日初版第一刷発行・講談社)は、短歌論。「短歌研究」(95年4月号~97年11月号)に初出。25章に別れていて、短歌の起源以前の問題から、近世(江戸期)、明治期、大正期、昭和期、現代と、時代の短歌、歌人が縦横に論じられている。単独や一章に二人ひと組でじっくり論じられている歌人だけでも、岡井隆、塚本邦雄、山崎方代、山中智恵子、百々登美子、明石海人、正徹と多彩。宗教者(法然や「おふでさき」の中山みき)、文学者(森鴎外、夏目漱石)や詩人(宮沢賢治、中原中也、立原道造)の短歌を論じた章もある。私には「短歌の新しい波」と題された現代の短歌を論じた3つの章がとりわけ興味深くて、とても読みこなせたとは言えないながら何度か読みかえした。著者にはこの書の背景になるような膨大な歌論や歌人論があるが、その1では、三木成夫氏の「生命のリズム」の考え方が、氏の思索に新しく溶かしこまれているような気がした。その3には、短歌的声調のもつ悲劇性についてのはっとするような見解がある。短歌の現在を論じた終章では俵万智の歌集『チョコレート革命』にも触れられているのが、なんだか、いい感じの終わり方だ。


RETURN

ベルンハント・シュリンク『朗読者』(2000年4月25日初版第一刷発行・新潮社)は、小説。15歳の少年ミヒャエルは路上で気分が悪くなり嘔吐した時、年輩の女性ハンナに介抱される。後日、ミヒャエルが礼を言いいにハンナの家を訪ねたのがきっかけで、二人はやがて恋人同士のような逢瀬を重ねるようになり、ミヒャエルはハンナの求めに応じて、いろいろな本を朗読して聴かせるという習慣をもつようになる。そんなある日、ハンナはミヒャエルに行く先も告げず失踪してしまう。ミヒャエルがハンナに再会したのはその数年後、大学のゼミで傍聴したナチス時代の人々の行いを裁く裁判の法廷でだった。。。本書は、20以上の言語に訳され、アメリカではミリオンセラーになったという小説の翻訳。20歳程も年の離れた少年と女性の恋愛、戦時中に強制収容所の看守に従事していた人々が告発される裁判、後に二人の歩んだ人生の不思議な接点。それらがハンナという女性がかかえていた生涯の秘密を軸に、緊密にまとめあげられていて読み応え充分。「どうしてあなたは彼女に(手紙を)お書きにならなかったんですか。」という問いかけの、深い酔いに似た切なさ。


RETURN

柏木博『色彩のヒント』(2000年6月30日初版第一刷発行・平凡社新書)は、色彩をめぐる断章集。「別冊太陽」に96~97年に連載された文章がもとになっているというが、単行本にまとめるにあたって50音順に配列しなおしたという。そういうわけで、あ行の「青」からはじまり、や行の「汚れ」という文章で終わる58の断章が順番に収録されている。色彩をめぐる文章といっても、必ずしも色彩が主題になっているわけではなく、「家電」とか「書物」とか「道路」などというタイトルもある。表題に色名のついた文は簡潔な箇条書きになっていて、色を巡る雑学というか、蘊蓄話といった趣もある。「ニア・ウォーター」というタイトルの一文もあって、私はそれを読んではじめてその意味するところを知った。この数年来流行っているという仄かな色水は、時代の気分色という感じだろうか。電車の中などで、ぱらぱらとどこからでも読むのによい本かと思う。


RETURN

養老孟司『異見あり』(2000年6月30日初版第一刷発行・文芸春秋)は、エッセイ集。前半の1章が、タイトルと同名の著者初めての週刊誌(週刊文春)初出の連載エッセイ(97年1月〜00年3月)で、後半の2章、3章は、その他の雑誌に同時期に書かれた文章からなる。前半は、時事問題、社会風俗などを広く扱った、一見オーソドックスな時評的エッセイ。週刊誌などではよく見かけるタイプの硬派エッセイの部類だが、ひと味違うのは、やはり著者がはっきりとしたご自分の考え方(思想)をお持ちのうえで、応用問題として色々なマスコミ情報につきあっているのが伝わってくるからだ。それを一言でいえば、人間の身体性の重視、再評価ということになろうか。本書では「個性は心ではなくて身体にある」、という言い方などに特徴的だが、それは著者によれば逆説的な比喩ではない。身体から心(脳=社会性のひろがり)を見る、という方法を身体化して(^^;、自在に活用している感じのするエッセイ集。著者がかなりのテレビゲーム好き(徹夜して奥さんに怒られたとか)だったとは愉しい驚き。


RETURN

大崎善生『聖の青春』(2000年2月18日初版第一刷発行・講談社)は、評伝。幼少時に罹患したネフローゼという難病と闘いながら、将棋のプロ棋士としてA級(クラスとしては最上位)まで登り詰め、癌のため29才の若さで逝去した村山聖氏の評伝。氏の対局は随分以前にテレビで何度か見たことがあり、その風貌が印象に残っていたが、これほど純粋に張りつめた生き方をした人とは知らなかった。将棋に勝つこと(名人になること)だけを目的に生きる。アパートは本とゴミの山で、その中の段ボールの箱に立てこもって暮らしている。階段も登れないような体調で試合に行き、帰ると数日は寝込むという繰り返し。まさに命を削って生きたという感じだが、その生き方はまた、自らに時間が残されていないという深い自覚からきていた。業とでもいうしかない名人への夢に憑かれた村山氏の壮絶な生が、彼を見守り支えた人々との交流や幾多のエピソードを通して生き生きと描かれている。以前評伝の感想を書いたことのある真剣師小池重明氏もちらりと登場する。


RETURN

姫野カオルコ『すべての女は痩せすぎである』(2000年4月10日初版第一刷発行・大和出版)は、エッセイ集。ダイエットを非難する本ではない。著者が本書の題名を「すべての男はマザコンである」とするかどうかで最後まで迷った、と書いてあるように、男らしさ、女らしらという一般通念を疑ってみるという趣旨の軽快なエッセイを満載した本。初出は「週刊新潮」「ダカーポ」「ウェーヴ」など雑誌多数。あとがきに「本書は「痩せなきゃ」と思いながらも心のどこかで「でも、、、」と思ってる人の、この、「でも、、、」の部分を、懐中電灯で照らしてみたような一冊です。」とある。著者は小説家だが、テレビCM評エッセイの「とても見てはいられない」の水野真紀評など、ナンシー関さん(^^;のように読みが深くて、本書には、軽快な本音エッセイを愉しみながら、男女の心の動きについて、ぐっと考えさせてくれるフレーズが多々ある。著者のやはり同じテーマを扱った問題小説『整形美女』の感想へ。


RETURN

海老坂武『新・シングルライフ』(2000年5月22日初版第一刷発行・集英社新書)は、社会批評。いまや、4世帯に1世帯以上が単独世帯だと言われ、この比率はさらに増加傾向にあるという。こういうことには、個別の生活環境によって、相当関心の温度差があると思う。単独世帯の増加には色々な要因が本書でも指摘されているが、単独世帯主を「独身者」と呼ばずに、「シングル」と呼称したのが『シングルライフ』(86年)の著者だった。歴史をおおきく見れば近代の産んだ家族制度のゆるやかな解体に向かっていながら、個別には多様で深刻な事情を抱え込んでいるであろうこの流れを、当時はそんなにスマートな言葉で包括的に捉えてよいものかとも思ったが、ともあれ流れを総体として肯定的に把握しなおしたという点で斬新な視点だったと思う。温度差は無理解な「独ハラ」(独身者差別・著者の用語(^^;)を産むが、そういうのを薄める意味で「シングル」という舶来語の薄い響きのとりえというものもあるように思えるからだ。フランス文学専攻で数多くの翻訳書もある著者は、本書で「シングル」先進国のフランス社会や制度の実状にも詳しく触れている。


RETURN

岡田哲『とんかつの誕生』(2000年3月10日初版第一刷発行・講談社)は食文化史。表紙カバーに「明治洋食事始め」とあるように、とんかつをはじめ、あんぱん、ライスカレー、コロッケ、といった日本生まれの洋食の起源やその歴史を辿った本。なんとなくタイトルを見て楽しくなってしまうのは、フーコーの『監獄の誕生』を連想させるからだろうか(^^;。明治はじめの獣肉解禁(すぐに骨付きカットレットが伝来するが)から、今の形のとんかつ料理の出現(著者によれば昭和4年頃)まで、完璧な和風化に60年くらいかかっているというのに驚く。日本式のウスターソースに和からし、さくさくした細切りの山盛りきざみキャベツに、蜆のみそ汁か豚汁と白飯がつきもの、という様式化された定型はどうやってできたのだろう、という、その変遷を克明に辿った第4章「洋食の王者、とんかつ」は、涙なくして、ではなくて、涎なくしては読めない。料理好きの人にもお勧めの本だ。


RETURN