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走り書き「新刊」読書メモ(11)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(99.8.17~11.27)

 山田稔『コーマルタン界隈』 志村ふくみ『母なる色』 福田和也『喧嘩の火だね』
 名犬ヨッシー『WEB110個人情報&ネットストーカー編』 石川九楊『現代作家100人の字』 宮台真司『野獣系でいこう!!』
 宮崎学『幇という生き方』 遠山一行『マチスについての手紙』 石川九楊『書に通ず』
 出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』 吉本隆明『私の「戦争論」』 谷川渥『だまし絵』
 小松左京『紀元3000年へ挑む 科学・技術・人・知性』 ☆井口俊英『告白』 井上章一『愛の空間」』
 辻征夫『ぼくたちの(俎板のような)拳銃」』 加藤隆『『新約聖書』の誕生』 宮本紘太郎『み〜んな悩んで電子メール』
 ミラン・クンデラ『微笑みを誘う愛の物語』 今泉文子『ロマン主義の誕生』 平居謙『風呂で読む現代詩入門』
 老松克博『スサノオ神話でよむ日本人』 沢木耕太郎『貧乏だけど贅沢』 外間守善『海を渡る神々』
 瀬戸正人『トオイと正人』 日経サイエンス編『養老孟司・学問の格闘』 養老孟司『脳が語る科学』
 津島佑子『アニの夢 私のイノチ』 岸田秀『性的唯幻論序説』 高畑勲『十二世紀のアニメーション』


山田稔『コーマルタン界隈』(1999年8月30日初版第一刷発行・みすず書房)は、連作短編小説集。81年に河出書房新社から出版された同名小説集の復刻版ともいうべき本で、それに「オートゥィユ、仮の栖」(「展望」77年4月号初出)という作品が新たに追加された体裁になっている。パリの大学で日本語を教える主人公が住んだ下宿はコーマルタン街の一郭。この地域には、百貨店やスーパーなどもあり、京都でいえば四条通り界隈みたいに活気があるが、一面ではポルノ映画館のならぶ性産業の中心地でもあるといい、夜ともなるとがらんとして人気がなくなり、売春婦も出没するというので有名。そういう地域のアパートの六階に居を構えた著者自身とおぼしきが主人公ヤマダ氏が、毎朝咳き込むはた迷惑なアラブ系のの隣人や、ポルノ映画館の支配人も兼ねているアパートの管理人、パンを買いに日参するのにお礼の言葉ひとつ言わないパン屋の女主人、などなど、そこで暮らした9ヶ月の間に出会ったさまざまな「忘れ得ぬ人々」の肖像を活写した7編からなる連作短編小説がメイン。一転してブルジョワ(金持ち老人)の住む地域として有名な16区のオートゥィユ界隈に住んだ時期の、アパートの所有者F老人との交流を描いた「オートゥィユ、仮の栖」という作品が添えられている。ある程度フランス語に堪能で、パリに一年位滞在して独りでアパート暮らしをすれば、きっと同じ様な経験をするのだろうと思わせるような滞在記風のエピソードをベースに、これは一生一度限りの印象深い他者との出会いや淡い交流の記憶がしっとりと描かれている。過剰適応もせず自閉状態に落ち込みもせず、異邦人としてのパリ生活の日々に遭遇する様々な出来事を、一種余裕をもった受動態で味わいつくしている趣があるのは、文章の技量なのだろうか人柄なのだろうか。映画を見ているような、像的な喚起力がつよい文章なのも読んでいて思わず引き込まれる理由であるに違いない。著者が映画好きらしいということと関係あるのかな。


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志村ふくみ『母なる色』(1999年4月8日初版第一刷発行・九龍堂)は、エッセイ集。1924年生まれの染織家の著者は、重要無形文化財保持者で文化功労者。大佛次郎賞やエッセイストクラブ賞も受賞されているということで、品格のある文章の中に、染織という難しい日々の手仕事からこぼれでてくるような瑞々しい発見が満ちている。植物の含みもつ色彩の精妙さや和語の色名の多様さ、四季おりおりの花の思い出について書かれた「草花譜」といったエッセイの他、詩篇や、フェルメールなどの絵画を訪ねる西欧旅行記、石牟礼道子さんの小説『天湖』の印象的な書評なども収録されていて、内容的にも広がりがあって味わい深い本。京都嵯峨野に住み、冬は山荘にこもって暮らし、季節には染織の原料となる植物を求めて山麓を歩く。静かで豊かな自然との交感を通じて、きびしくも充実した染織家としての生活ぶりが伝わってくるが、ゲーテの『色彩論』への傾倒をはじめ、ノーヴァリスや洲内徹、バッハの音楽についての記述など、さりげなく書かれた言葉のはしばしに、著者の内面生活がうかがえるのも魅力的。


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福田和也『喧嘩の火だね』(1999年10月15日初版第一刷発行・新潮社)は、文芸評論。「新潮」に98年から99年にかけて「見張り塔から、ずっと」と題して連載された文章に、加筆された本。氏は「文壇」が「一種の既得権益に固執する利益団体のごときものになってしまった」として、「無言の共通了解の母体」としての「文壇」の復興を望む。具体的にいえば、かっての小林秀雄を中核とするような美意識のサークルにみられた緩やかな共通了解の磁場が、今や完全に消失して(著者は白洲正子さんの逝去にその終焉を象徴させている)、その後、たとえば「丸谷才一氏を中心にしたグループ」が「中途半端なアカデミズムの導入と権威主義的なディレッタンティズム、いくつかのスポンサー、版元との意図的な癒着のもとに利益集団ともいうべき堅牢な構造を築くことには成功したが、美意識や文芸については、何一つ新鮮な影響をもたらしはしなかった。」というかなり辛辣な見解を披瀝している。「丸谷才一氏を中心にしたグループ」と、名指しにするところが「喧嘩の火だね」的。こういう批判はいろんな集団に当てはまりそうだが、問題はむしろその先にある。喧嘩に勝った人が新しく「一種の既得権益に固執する利益団体」を作りあげかねないからだ。癒着構造の循環を断ち切るには、別の経済「システム」が必要ということだろうか。。話がずれたが本書では、辻仁成、島田雅彦、町田康、田中康夫、車屋長吉、柳美里といった作家がとりあげられ、ご当人のゴシップ的なエピソードをとりまぜてその作品が論じられているところに特色がある。「文壇」の現状にからめて雑誌『批評空間』の果たしてきた役割にも触れられていて、このくらい言ってくれると素人にも分かり易い。


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名犬ヨッシー『WEB110個人情報&ネットストーカー編』(1999年9月24日初版第一刷発行・ビー・エヌ・エス)は、ネットトラブルの撃退&防衛マニュアル。ホームページ製作や掲示板への書き込みなど、さまざまなネット生活をしていて被るトラブルについて、具体的な事例をあげて、その対処法やアドバイスがイラスト入りで紹介してある。著者は「WEB110」というサイトを運営してトラブル相談を受けつけている人。テレビや雑誌などマスコミにも出演多数のひとのようで、偶然テレビニュースの特集で見たヨッシー氏の顔を覚えていたので、図書館で本をみつけて借りてみた。電話番号から住所がわかってしまうし、メールアドレスを変えても、ハンドルネームも変えないとロボットエンジンで検索されてつきまとわれる。ウェブ世界は、まだまだ法的な整備が遅れていて、悪意でやればなんでもできてしまう無法地帯というのが実状というのがよくわかる。狙われるほうもあまりに無防備な面があり、ある程度の自衛手段も紹介されているのが本書の特色。本書の姉妹編に『WEB110金銭トラブル&アダルトサイト編』もある。


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☆石川九楊『現代作家100人の字』(1998年3月1日初版第一刷発行・新潮文庫)は、書(といっても筆遣いの書の方)評集。『書の交響』(昭和63年刊・筑摩書房)を改題、大幅に加筆したものとあり、文庫化にあたって、新たに加えられた章もある。文庫本というのは字が小さくて読みにくく思えるようになってから、あまり書店でもコーナーを回遊しないようになった。もちろん読みたいものがあれば読むので、読まないことにきめてるわけではない。単行本の文庫化でも、手直しされたり書き加えられたりしていることがあって、そういうのを調べ返す元気はないのだが、なかなかあなどれない。この本もそうで、新たに加えられた章にアラーキーや吉本ばななや、ビートたけしや村上春樹や酒鬼薔薇聖斗の筆跡などについて触れてある。それぞれ簡潔な短評なので、電車などのこまぎれ時間に読むのにもいいかもしれない。ただし内容は硬質で、知識人の「筆跡をあれこれ」いうのではなく、現代の書の筆跡にはたらいている「言葉や時代の力」といった本質的な問題を探るというもの。ただ収録図版の筆跡を見ながら、作者の人柄など想像して手軽に読めることは文庫本としての本書の美質と思う。古い本だが『イヴへの頌』(71年・詩学社)という本があり、現代詩人の肉筆の詩ばかり75作収録していて壮観(古本屋でみつけたらお買い得)。


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宮台真司『野獣系でいこう!!』(1999年10月1日初版第一刷発行・朝日新聞社)は、対談集。初出は新聞雑誌(「硬い論壇誌から、良識人が眉をひそめるエロ雑誌まで」とあとがきにある)が主で、20本が収録されて厚手の本となっている。対談相手の職種も、漫画家、風俗ルポライター、エロ写真家、SM男優、精神科医、キャスター、建築家、政治学者、文部省官僚、ジャーナリスト、小説家とさまざま。その幅の広さが著者の関心と活動領域の広さをそのままあらわしているといっていいのだろう。著者の思考の核には、この国には道徳はあるが倫理がないとか、公共施設の建築計画などには、そこで実際に人々がどんな生活をするのかという視点が欠落しているという鋭い指摘に見られるような、社会を住み良い方向に変えていきたいという社会改良主義者みたいな精神の健全さがあるように思えるが、そういう主張をダイレクトに訴えることは無効になっているという認識があるのだと思う。そこで「200人斬り」を自称して過激なことをいいつのる社会学者に「野獣化」したのだろうか。そのプロセスも一見くったくなく開陳されているところを見ていると、それは著者の場合、若い世代の共感を呼ぶための「戦略」というより、自分を透明化してしまいたい欲求につかれた、ぎりぎりの生き方のようにも思えてくる。


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宮崎学『幇という生き方』(1999年8月31日初版第一刷発行・徳間書店)は手記に基づく異色の評伝。幇はパンと読む。中国の伝統的な秘密結社。著者はマカオで、日本人ながら幇の最高幹部だった竹村秀雄(仮名)という人物と知り合いになったという。本書は、別れ際に彼から自分と連絡がつかなくなったら公表してもよいと託されたという15冊のノートに基づいて、竹村氏の生涯を綴ったというもの。じつに数奇で苛烈きわまる半生が描かれていて一気に読んだ。青年時代にやくざの用心棒をしていたが、トラブルで組から追われ、全国の飯場を転々とした末に義父の友人の中国人のつてで海外へ。戦時下のヴェトナムで私設の傭兵訓練を受け、山岳民族との密売交易(阿片など)に参加し、のちに軍の横流し品(武器など)を狙ったベトコン相手の海賊行為にも戦闘隊長として加わる。戦局の激化に伴いカンボジアに避難させた妻子がクメール・ルージュに撲殺され、復讐のため「将軍」と呼ばれる幇の義兄弟に億単位の蓄財をかたに頼み込んで、部隊を組織してカンボジアに潜入して殺戮行為を繰り返す。それを終えるともっぱら「将軍」専属のヒットマンとしての殺し屋人生。。。世界に広大なネットワークをもつ幇とはどんな組織なのか。またヴェトナム戦争の意義とはなんだったのか。はたまた、殺人マシンとして半生を生きた竹村という人のかかえていた義とはなんだったのか。いろいろなことを考えさせられる。修羅場の描写は絵空事がふっとんでしまうほどリアル。。


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遠山一行『マチスについての手紙』(1999年7月25日初版第一刷発行・新潮社)は、画家マチスの作品をめぐる美術評論。初出は97〜98年にかけて「新潮」に十三回連載されたもの。マチスの絵画とそのひとについて架空の相手に手紙形式で語りかけるように書かれている。マチスの絵はわりあいに好きで、ちょっと思うところ(対象のデフォルメのしかたや色彩の斬新さと、構図そのものにある伝統的な美の規範性との均衡、うんぬん)があって、そういう自分の感触とどんな風に接点があるだろう、という興味で図書館から借りてみた本。全体は12章からなり、個々の有名作品についてや、マチスの絵画にたびたび登場する「窓」というテーマについてなど具体的に触れられているが、マチスは終生色彩とデッサンとの間の矛盾に悩んでいた、というのが本書全体の主調音。著者は音楽評論の方だが、私はきっちりした氏の著作を読んだことがない。しかしこの絵画論全編から伝わってくる何ともいえない自らの鑑賞体験に即した批評の文体(同じ絵画をあまり長い間みていると分析家の目になるので、避けるようにしている、という意味のことを著者は書いている)が、きっと氏の音楽評にもあてはまるのだろうなどと勝手に想像した。思うところについては、私になりに納得したが、いわく言い難いところ(^_^;)。。。


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石川九楊『書に通ず』(1999年8月20日初版第一刷発行・新潮社)は、書についての概論。NHK人間大学テキスト「書という芸術への招待」が母体となっていると、あとがきにある。表現としての書の仕組みを独自の本質論として解き明かす第一部「書とはどういう芸術か」、中国、日本の書の歴史を概説した第二部「早わかり中国書史」、第三部「早わかり日本書史」から、近代の書や戦後の前衛書に言及した第四部「書の現在と未来を考える」からなる。書というと正月ぐらいにしか縁がなくなっているが、その背景には数千年(本質論的には人類発生史以来の)の歴史に支えられた芸術表現としての奥行きがある。そういうことはなんとなく判ったつもりでいるが、ただ歴史についてだけではなく、書の表現としての構成や本質論を、これだけ本格的に論じた人を他に知らない。書は西欧の音楽と同じように東アジアの文化の中心をになってきたという指摘など、思わずうならされる。本書の魅力のひとつは、さまざまな書家の書を論評する著者のことばの豊かさや的確さ。対象が紙に書かれてごまかしのきかない筆跡そのものであるからこそ、言えることなのかもしれないが、これほど綿密な評言は稀少で、まさにツボにはまった名人芸を読む悦びを与えてくれる。同著者の『筆蝕の構造』についてのやや古い感想文へ。


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出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』(1999年9月20日初版第一刷発行・新潮社)は、評伝。「新潮」99年五月号に初出。旧両国国技館や日本銀行本店、東京駅を設計した高名な建築家辰野金吾の子息として生まれ、東京府立一中、旧制一高、東大法学部フランス法科(後にフランス文学科に入り直す)と進み、院生、研究室副手、文学部講師、同助教授、同教授と順調な職歴を全うしたフランス文学者辰野隆の生涯を、「父と子」「パリ留学」「映画の魔力」「弟子たち」といったテーマにわけて書き綴った本。辰野隆が東大仏文科で講座を担当したのは大正12年からで定年退職したのは昭和23年のこと。この間に教えた学生たちのなかに、「日本一の評論家と日本一の詩人」(小林秀雄、三好達治のこと)、他に太宰治、中村真一郎などなどがいて、彼らとの接点についてふれてあるのが興味深い。確かに辰野隆の生涯を時系列的になぞりつつ色々な資料で補足してその人となりや時代を浮かび上がらせるという評伝的な本なのだが、語り口は柔軟で時に講談風だったりしてテンポがよくてとても面白い。日本のフランス文学研究活動の「専門分化と精密化」の結果、「一般のフランス文学愛好家たちとはもはや”通信隔絶”」になる以前の、著者のいう「文学の実践」との蜜月時代の雰囲気がよく伝わってくる。こういう時代ももう来ないのだろうし、こういう器の大きい人もアカデミズムの世界にいなくなったのだろうなあ(よく知らないが)と思う。


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吉本隆明『私の「戦争論」』(1999年9月30日初版第一刷発行・ぶんか社)は、語り下ろしの本。フリージャーナリストの田近伸和氏が聞き手になって、小林よしのり氏のマンガ『戦争論』にまつわる論議を掘り下げるというテーマで、数十時間に及んだというインタヴューをまとめた本。著者の発言で際だっているのは、第二次大戦で戦死した兵士を、「戦争の犠牲者」「無駄死に」、と片づけてきた戦後左翼に対する批判という部分ではおおいに共感するが、「個人よりも国家や公のほうが大きい」とする小林氏の見解には、まったく否定的というところ。もっとも、なぜそう考えるのか、という道筋に両氏のいわんとする重心があるので、関心のあるむきはご一読を。本書は小林氏の『戦争論』及び、「新しい歴史教科書をつくる会」をはじめとする保守派批判と、吉本氏自らの「戦争論」を縦横に語った本だが、その底には徹底した戦後左翼イデオロギー批判と知識人批判がある。もうひとつ印象的だったのは天皇制の本質を「生き神様信仰」といいきっているところ。全体をゆっくり読むと、納得するにせよ、しないにせよ、吉本氏のよってたつ思考の規模の大きさや独自さが浮かび上がってくると思う。


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谷川渥『だまし絵』(1999年8月16日初版第一刷発行・河出書房新社)は、「だまし絵」の絵画史概論。カラー版や白黒印刷で各頁に見本の絵が沢山収録されている「ふくろうの本」という図説シリーズの一冊。ここで著者のいう「だまし絵」とは、「本物そっくり」と感じられることをその中核とする絵のこと。だから心理的な錯視を利用した絵やエッシャーの絵のようなものは、除外される。あまりに本物そっくりだから、平面なのに奥行きがあったり、手前にでっぱたりしているように見えたりする絵(その種の効果を計算して描かれた絵)をテーマ別に分類して解説した本ということになるだろうか。正直言って、著者が「もうひとつの美術史」と呼ぶ、こういう絵画史を辿る試みも、取り上げられている画家(だまし絵の帝王、コルネリス・ノルベルトゥス・ヘイスブレヒツ!などなど)も、その絵画作品も知らないことばかりで新鮮ずくめだった。「蠅と貼り紙」なんていうテーマ別の分類のしかたも楽しいし、語り口も魅力的で、観察の行き届いた記述の端々から著者の感動も伝わってくる。西欧絵画の好きな人は、だまし絵だからいうのではないが私にだまされたと思って一度ご覧になるといいと思う。


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小松左京『紀元3000年へ挑む 科学・技術・人・知性』(1999年9月13日初版第一刷発行・東京書籍)は、対談集。94年からプラスチックメーカーの広報誌「プラトピア」に掲載された6本の対談と、その内容に関連づけて未来を展望する総論からなる。対談相手は先端技術開発や研究に携わる技術者や科学者の面々。数年後には月探査機として打ち上げが計画されているという純国産ロケットH-2A(五代富文氏)、一万一千メートルの深海に挑む潜行艇「かいこう」(高川真一氏)、はたまた東京大阪間を1時間で走るリニアモーターカー「マグレブ」(高木肇氏)、自動運転技術の研究を含む交通制御システムITS(越正毅氏)、10億分の1メートルの世界で作動するマイクロマシン(藤正巌氏)、生命現象を読み解くツールとしてのカオス理論(金子邦彦氏)といったことが、それぞれの対談の話題の中心。今は来世紀ばかりでなく、次の千年紀を考える、千載一遇(^_^;)の時期と、著者は言う。そういう趣旨から言えば基本的には人類規模の話なのだろうが、初出が企業の広報誌という性格からか、「日本の」科学技術開発に限定して、わかりやすい道具の変化に比重を置いて紹介しているのが本書の特色だと思う。これだけ並ぶと、お正月の新聞の特集みたいな感じがするが、それぞれの話題にまつわる諸般の事情が聞けて面白い。94年頃からの対談時と現在には話題をとりまく情況にすこしずれがある。本書では、それを追加取材で補ってフォローしているのだが、遙か未来を展望しながら、そういう修正が必要というのが、いかにもという世界。。


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井口俊英『告白』(1997年1月15日初版第一刷発行・文芸春秋社)は、獄中手記。大和銀行ニューヨーク支店に勤務していたひとりの嘱託社員が、12年間にわたり米国債の無断取引を重ね、11億ドルの損失をだしていたことが発覚して、大和銀行は告発され、共同謀議、重罪隠匿などの点で有罪を認めて、米刑事犯罪の罰金としては史上最高の3億四千万ドル(350億円)を支払った。いわゆる大和銀行事件だが、本書はその事件の中心人物が、事件の経緯を克明に明かし、自らの生い立ちや私生活の記述とともに獄中で書き綴った本。しばらく前に話題になった本だが、さる友人から薦められ貸して貰って面白く読んだ。著者の年齢は私たちとほぼ同年で、高校を卒業して米国に渡り向こうの大学を卒業したというところまで、その友人に良く似ていて(他にも似てるとこはあるが略)、なるほどなあと思うことしきり。「ライアーズ・ポーカー」に喩えられている債券相場の取引現場の描写は、とてもスリリングで空恐ろしいし、著者が大和銀行頭取あてに出した一通の「告白」書から、その処理を巡って生起した一連の騒動の描写は、日米金融業界や行政サイドの複雑な力関係やその裏面をよく描いていて興味深い。獄中で毎日2,3枚づつしたためられたというのが信じられない位、冷静で破綻のない文章だ。表現はビジネスライクだが、悪態をつくところなどに人柄もすこしでている。自己弁護的と読む人もいるかもしれないが、手記の性格から或る程度自己防衛的になるのも無理ないように思う。アメリカの階層社会の実状に触れた記述に真実味があって思わぬ収穫。


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井上章一『愛の空間』(1999年8月5日初版第一刷発行・角川書店)は、社会風俗史の研究。あとがきによると、もともと現代風俗研究会という団体での報告のために、ラブホテルの歴史を調べ始めたということだったらしいが、本書では、おおまかにいえば、屋外から屋内へという、近代以降の日本人が選択してきた「性愛空間」の変遷をたどる記述になっている。戦後間もない頃の皇居前広場、待合、ソバ屋、円宿、ラブホテル。。テーマもさりながら、明治、大正、昭和期と、当時の雑誌、小説類を詳細に調べ上げて、そういう場所についての記述を引用して羅列するその情熱(10年以上文献渉猟にかけられている)というか、叙述スタイルも異色で、圧倒される。男女の性愛がらみのテーマでありながら、もっぱら考察を場所の問題に限定したというのも、さらさら嫌みなく読める理由だと思う。飲食店の二階が特別な場所だったとか、風営法の影響がホテルの景観を変えるすごいものだったとか、知らなくてもいいが知っててもいいようなことが満載で、読み進むうちに、従来の世相史的な記述からは得難いような曰く言い難い手応えがある。的外れかもしれないが、新しい歴史記述の実験の試みみたいな意図が感じられて面白く読んだ。著者は国際日本文化研究センター助教授で、『美人論』他の著書のあるひと。。。


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辻征夫『ぼくたちの(俎板のような)拳銃」』(1999年8月30日初版第一刷発行・新潮社)は、短編小説集。いずれも雑誌「新潮」に初出。3作が収録されているが、本の表題にもなっている「ぼくたちの(俎板のような)拳銃」という作品が全体の半ば以上を占めていて、読み応えがある。内容は作者の子供の頃(小学校高学年の頃)の思い出のあれこれを、同級生や遊び仲間たちとの交流を中心に、淡くも暖かいタッチで描いた懐古的な色彩の濃い作品だが、作者は何人も登場するカタカナ名の少年たちのそれぞれに、自らの少年期の分身を分け持たせているように見える。そのことが作品全体に一歩引いたような統一感を与えて、不思議な効果をあげている。それはちょうどまだ個性というものができあがらずに、共同の夢のような雰囲気なかで生きている時期の一面を捉えているようだ。そんな夢が破られる特異な場面の残像のようなものとして遠い記憶がたちあがってくる。文中、自分がいつか人を好きになるることがあるかもしれない、とコージは考え想像もする。しかし、自分が誰かに好きになられるということは予想もしない。そして、ルミコに好かれているらしいとしって、そのことにたじろぐ。ある時期の少年(観念)に特有かもしれない、自分という存在が他者に一方的に愛される(判られるのではなく)ことの不思議さ、不可解さの最初の動揺を、このエピソードは鮮やかに蘇らせてくれていて、とても印象に残った。


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加藤隆『『新約聖書』の誕生』(1999年8月10日初版第一刷発行・講談社選書メチエ)は、イエス没後、『新約聖書』が成立するまでの過程を、概説した本。イエスという人が死んでから、『新約聖書』が成立するまでの約300年の間に、初期キリスト教団とその宗教思想は、どんな展開を辿ったのか。そのプロセスが詳細に論じられていて、興味深く読んだ。もともとイエスは言葉を書き残さなかったし、イエスの直弟子だった初期キリスト教会の人々もそうだった。最初に「マルコ福音書」が成立するが、それは、初期エルサレム教会批判者の流れであるヘレニストたちの手による。ここで著者が指摘しているのは、マルコ伝はイエスやその直弟子たちの語り、説教していたアラム語ではなく、ギリシャ語を解すユダヤ人たちによって、ギリシャ語(古代ギリシャ語)で書かれたという点だ。これは、キリスト教がユダヤ教の一派と言う枠を離脱して、非ユダヤ的キリスト教徒の一種のテキスト共同体として成立していった特殊な事情を明かす重要な指摘のように思える。もうひとつ印象的だったのは、ユダヤ戦争後に、多くの文書が書かれるが、最初に反主流派を組織したマルキオンという人物が、そのなかで何が権威ある文書であるかを定めたという点だ。そして主流派は、やがてマルキオン派を異端として退け、彼らの手法を自分たちのものとして採用する。ず、ずるい。。ここに27の文書のみが選別され、今日に及ぶ聖典としての『新約聖書』が成立するわけだが、つくづく凄いドラマだと思う。


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宮本紘太郎『み〜んな悩んで電子メール』(1999年8月30日初版第一刷発行・日経BP社)は、電子メールとその企業内配信システムをテーマにしたエッセイ・コラム集。初出は「日経PC21」誌に97年から98年にかけて連載された「電子メール110番日記」で、著者はアサヒビール情報システム(株)ユーザー支援部長をされているという方。本書には、著者が企業の電子メールシステム構築や管理に携わった日々の経験談や、苦労話が満載されている。職場のシステムで電子メールを使用されている人も多いと思うが、そういう環境にない身には、どうもイメージがわかない。どんなトラブルが問題になったり、どんな工夫がされているのか、と部外者にも興味深い話が盛りだくさん。語り口がソフトで、職場での人間関係にも触れているので、ちょうど企業を舞台にした情報マンガを見ているような感じで楽しく読める。内容的にも、マンガ化しても充分面白いのではないかと思う。全体の流れからすると、ちょっと外れるのだが、2000年問題についてのコラムがあって、うなった(「あなたの2000年問題」。内容については、ホワイトページの99年9月28日の項に少し書きました)。このコラムを覗くだけでも立ち読み?する価値があるかも。。。


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☆ミラン・クンデラ『微笑みを誘う愛の物語』(1992年6月25日初版第一刷発行・綜合社)は、短編小説集。クンデラは1929年生まれのチェコ出身の小説家で、映画化された作品に『存在の耐えられない軽さ』がある。この本は唯一の短編小説集ということで、訳者によれば、その一部は処女作である可能性大という。7編の作品が収録されているが、どれも面白い。心理描写が驚くほど巧みで、文章も才気たっぷり。軽い気分で言葉遊びをしているうちに、男女の役割が変わってしまう「偽りのヒッチハイク」が特に印象的だった。「エドワルドと神」だけが、当時チェコの置かれていた政治的な社会事情(共産党指導下で民主化を目指した「プラハの春」の季節)を浮き彫りにするものになっているが、あとはヨーロッパのどの国で起きてもおかしくないような、また、心理情緒的には日本であっても変でもないような、男女の「性」にまつわる心理的な葛藤を、苦い苦い笑いに包んで描いた現代風小説。わるびれないプレイボーイみたいな男がやたらに登場するのが、欧風といえばいえるだろうか。この著者の長編作品は何作も翻訳されているので、いつか(面白いが、結構根気がいるので)また読んでみたい。


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今泉文子『ロマン主義の誕生』(1999年7月20日初版第一刷発行・平凡社)は、断章「花粉」や小説『青い花』などの作品で知られるノヴァーリスの半生を中心に、彼と親交のあった「ドイツ初期ロマン派」の人々の活動を描いた評伝物語。タイトルからすれば硬い文学史か文芸評論みたいな印象を受けるが、内容はほとんど評伝小説の味わいに近い。18世紀末のドイツに生き、やがて雑誌「アテネウム」に結集した、ノヴァーリス、シュレーゲル兄弟、ティーク、シュライヤーマッハー、といった青年たちの交流を、見てきたような描写を交えて生き生きと描いている。「情緒」「神秘」「反動」というタームで括られてきた「ロマン主義像」を再構築する意欲的な試み、と裏ページの解説にあり、たしかに今までの夭折した天才詩人ノヴァーリスといった固定的なイメージ(たとえば『日記・花粉』(現代思想社)所収の評伝)も、いろんな意味で相対化されていて、風通しがよくなった感じがする。「「ロマン主義像」の再構築」に関心がなくても、音楽家の伝記のように、ノヴァーリスの作品世界をより深く味わうための本としても楽しめると思う。


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平居謙『風呂で読む現代詩入門』(1999年6月30日初版第一刷発行・世界思想社)は、ユニークな現代詩のアンソロジー。どこがユニークかというと、この本、「湯水に耐える合成樹脂使用」とあって、実際お風呂のなかで読める(^_^;)というのもそうなのだが、本当にユニークなところは、萩原朔太郎、高村光太郎、宮沢賢治、中原中也といった著名詩人たちの詩と、20代、30代のばりばりの若い詩の書き手たちの作品を交互に並べて、テーマに即して比較しながら著者がコメントをつける、という体裁をとっていること。なるほど、こういう切り口もあるのかと、編集センスの軽快さを楽しんだ。若い人にとっては現代詩のもつ歴史性や奥行きへの誘いであり、年輩者にとっては若い世代によって書かれている詩の世界への誘い、という意味での、新鮮な現代詩入門になっていると思う。でも読んでみて湯加減もちょうどよいかというと、そうでもない。著者は現代詩一般について、かなりつっこんだ意見をお持ちのようだ。詩のボクシング批判や、詩は尖鋭メルヘンでなければ意味がない、詩論詩はとっくの昔にご馳走様、といった言説から届いてくるのは「現代詩の世界がどれだけ玄人好みの世界か、裏返せば楽屋落ちだけを相互愛撫しているのか」ということに対する批判ということになると思うが、つまり、かなり熱めの湯加減ではある。「ぺんてか 言葉の処方箋」の樋口さんの切ない詩「愛したいよ」も収録されています。。


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老松克博『スサノオ神話でよむ日本人』(1999年8月10日初版第一刷発行・講談社選書メチエ)は、ユング思想の観点から日本人の心性を読み解く試み。深層心理学、神話学、医学といった知見を援用して、自我、神話、病いを包括的に捉えようとする本書の立場を、著者は「臨床神話学」と呼ぶ。人間の日常の意識やふるまいをその深層で規定する力。それをふつう「神」や「運命」や「病い」などと色々な名前で呼んでいるが、ユング派では「元型」と呼ぶ。私たちの自我は、自分の意志で生きているようでいて、実はこの「元型」に選ばれ、「元型」は私たちの生き方を通して「この世のものとなろうとする」。そのふるまいかたは一般に(集合無意識の発現としての)「神話」の物語として伝承されている。本書では、日本神話におけるスサノオの顕現形態をその代表的なものとして考察する。またそれは臨床概念になぞらえると「てんかん」に近いと考えられるので、その関連も考察する。。というのが、大雑把に(へたに)要約してみた本書の基本姿勢ということになるだろうか。人間の自我が神話を創るのではなくて、むしろ神話が私たちを創る(生きる)というのが実相である、というところに思考の思いがけない転倒があり、ユング思想が秘教的と呼ばれる所以でもあるように思えるのだが、そこまで拘らずに読んでも、様々な示唆にとんでいて充分面白い。宮沢賢治、齋藤茂吉、南方熊楠のてんかん的な資質(スサノオ傾向と呼ばれている)についても言及されている。


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沢木耕太郎『貧乏だけど贅沢』(1999年2月25日初版第一刷発行・文芸春秋社)は、対談集。年に一度か二度程度しか対談をしないという著者の、旅とその周辺をテーマにした対談の集成。対談相手は、井上陽水、阿川弘之、比経啓介、高倉健、高田宏、山口文憲、今福龍太、群ようこ、八木啓代、田村光昭の各氏。文筆業の人のほかに、ミュージシャンや俳優、プロの雀士などもいて、この著者らしい多彩な顔ぶれ。著者には「深夜特急」という貧乏旅行記3部作があるが、その話をからめた旅行に関するよもやまばなしが中心で、なかには「旅」とはなにかという、つきつめたテーマが話題になっているところももちろんある。しかし読後の印象では、4分の1位は著者が熱中しているらしいバカラ賭博の話になっている(^_^;)。旅を話題にしながら、対談相手の経験や生き方をさりげなく聴いて行く座談は、どれもうちとけながらも上品で、ソフトタッチなのりが楽しめる。もの書き以外に仕事をするとしたら、やりたいことは?と高倉健氏に聞かれて、豆腐屋と答えているのが面白い。「四角くてきちっとして、そういうものをつくる仕事に、どうしておれはつかなかったんだろうと思います」。旅行しても名所旧跡には関心がないし、バカラ賭博をしても金儲け自体には執着がない。そういう人がつくった豆腐は、おいしそうだなあ。。。


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外間守善『海を渡る神々』(1999年5月31日初版第一刷発行・角川書店)は、海の彼方にある原郷信仰を考察するフィールドノート。著者は国語学者で、最初沖縄の「おもろさうし」の研究から入り、ニライ・カナイ信仰に興味をもったという。さらに、『古事記』や『出雲国風土記』に現れる根の国、常世の国、黄泉の国といった原郷のイメージや、ポリネシア文化圏(ハワイ、フィジー、ニュージーランド)における各種信仰、北海道アイヌのカンナ・モシリ信仰や、アイルランドのティル・ナ・ノグ信仰へと関心は波及していったようで、本書はその40年にわたる原郷研究の報告という形をとっている。島嶼社会においては、古来、海の彼方にパラダイス的な原郷(他界)を考えることが一般的で、他界とこの世の結ぶ特定の場所が、海辺の洞窟のようなところに、聖域として保存されてきたのではないか。そういう想像力の道筋はすんなりと追認することができそうな気がするが、そのことを学問的に実証してみせることは又別だ。本書は、世界各地にのこる原郷信仰の類似性や特徴を、地道な現地調査を重ねてあとづけた労作。海からやってきて島に住みついた人たちは、最初風雨や外敵から逃れて海辺の洞窟のようなところで暮らしただろう。やがて生活の場が内陸部に移動しても、その場所は海の彼方の祖先(祖霊)の記憶と繋がる聖なる場所となって残ったに違いない。著者はそこがやがて姨捨山のような場所(人が死ぬべき場所)として機能していた例もあげている。こういう「生と死の時間」の流れる場所の所在を現代社会に考えあわせてみたい誘惑にかられるが。。ううむ。。


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☆瀬戸正人『トオイと正人』(1998年9月5日初版第一刷発行・朝日新聞社)は、自己の生い立ちと家族の生活史を綴ったノンフィクションのルーツ物語。「アサヒグラフ」に97年1月〜12月まで『家族』というタイトルで連載された文章に加筆改題された本。著者の父親は、下士官としてラオスで敗戦を知り、投降せずにタイ東北の田舎町ウドーンタニに移り住み、ヴェトナム人の妻を娶って戦後10数年間、その地で写真館を営んでいたという。著者は小学校二年の時に、帰国して故郷福島で写真館を始めた父に連れられて日本にやってきて、その後は日本で育った。そんな珍しい境遇に育ち、やがて長じてカメラマンとなった著者が、20年ぶりに生まれ故郷のタイに旅行して、バンコクのホテルで朝を迎えるところからストーリーははじまる。章ごとに角度をかえて、著者と一家の戦後の生活史が回想風に切り取られて綴られるが、文体が親しみやすく、たんねんな記憶の再現がリアルなので、背景にタイ、ヴェトナム、日本をつなぐアジア世界の広がりを持つ、この風変わりな家族の戦後ドラマにぐいぐい惹きつけられて行く。著者は、木村伊兵衛賞を受賞したプロカメラマンで、この作品でも新潮学芸賞を受賞。


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日経サイエンス編『養老孟司・学問の格闘』(1999年6月25日初版第一刷発行・日本経済新聞)は、対談集。97年から99年にかけて「日経サイエンス」誌に掲載された対談の中から14本を収録。図書館で借りた前回の養老氏の対談集が面白かったので、ついつい書店で買ってしまった。この本の対談相手は、どなたも若い世代の科学研究者。研究分野は、人類学、考古学、言語人類学、教育心理学、神経科学、脳科学、神経行動学、比較生物学、生化学、比較行動学、認知神経科学、心理学、精神医学、認知心理学。「「人間」をめぐる14人の俊英との論戦」と副題にあるが、あとで加筆されているということもあってか、論戦という印象は薄い。いろんな科学分野の第一線の現場(もちろん裾野のほんの一部なのだろうが)で、どんなことが研究テーマになって、どんな問題に関心が持たれているのか、という興味を応答形式で満たしてくれる。専門用語の解説もついていて、私のような一般読者にも読みやすい対談になっている。双生児の遺伝の研究をしている人、ナメクジの嗅覚!!を調べているひとや、セキセイインコの鳴き方の研究をしているひとなど様々。こういう本は中高生の科学少年少女に読んでもらいたいなあ。中高年でも面白いと思うが。


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養老孟司『脳が語る科学』(1999年8月9日初版第一刷発行・青土社)は、対談集。92年から98年にかけて諸雑誌に掲載された対談9本を収録。対談相手は中沢新一、青木保、安西祐一郎、山口昌男、宮崎駿、他の各氏だが、なかには「インターネット唯脳論」なる表題の多田富雄氏との対談もある。著者の著作は次々でているようで、私などはとっくに追っかけて目を通すことを諦めてしまったが、それでも図書館などでふと新刊を借りて読んで裏切られることがない。それはやはり著者の柔軟なものごとの捉え方に触れて、ここに考えてる脳(^_^;)があるな、と思えることが楽しいからだろう。「普通、時間は3分されていて、過去・現在・未来という風になっていると考えられている。しかし、純粋に論理的に考えると現在というのは常に過ぎ去る一瞬だから、実質的には存在しない。では、われわれが使っている「いま」とか「現在」という言葉が指しているのは何かというと、確定した未来のことなんです。」(中川志郎氏との対談「人間動物園とセックスレス」より)。確定した未来とは、結局、脳の中に根拠をもつ(脳の中にしか根拠を持たない)思いこみのことだから、それをどんな強さで信じるかで、人によって生きる「現実」(リアリティの感じ方)が違ってくるのかもしれないなあ、などと。同著者の対談集『脳が語る身体』(青土社)も同時発売。そちらも、面白く読みました。


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津島佑子『アニの夢 私のイノチ』(1999年7月20日初版第一刷発行・講談社)は、エッセイ集。92年から98年にかけて新聞雑誌に発表された37編のエッセイ、一本の対談を収めている。テーマ別に4つに分かれているのだが、その中で特に「中上健次をめぐって」、「フランスから」の項が私には面白かった。そもそも本のタイトルの「アニ」とは中上氏のことで、著者とは同人誌時代からのつきあいだったという。「中上健次をめぐって」には、中上氏と著者との生前の淡いながらも芯ののある交流を綴った追悼エッセイや彫りの深い作品論が収録されている。「フランスから」は、著者がパリの国立東洋言語文化研究所で一年間日本の近代文学の教鞭をとった時期に触れたエッセイが収録されているが、当地で開始され4年をかけて学生たちと協力して出版に漕ぎ着けたというアイヌ叙事詩のフランス語訳作業の顛末が書かれている。アイヌ語のフランス語訳に際してどんなに困難な壁にぶつかったか、というのが克明に書かれていて、いろいろ考えさせられる。そういうことも含めて本書全体の印象は、著者の文化的な関心がぐんぐん拡張している感じ。アイヌやマウイ、メキシコ、ブルターニュの人々、といった少数民族の文化についてふれた文章もあり、著者の以前の小説作品を好んで読んでいた読者(近作は未読)からすれば、目をみはるような変貌ぶり、といえば大げさかな。


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岸田秀『性的唯幻論序説』(1999年7月20日初版第一刷発行・文春新書)は、性幻想論。「文学界」に98年5月〜99年4月まで連載された論に加筆された本。「人間は本能の壊れた動物である」という「唯幻論」の著者による、人間の抱く様々な性にまつわる諸幻想の読み解き。平明で時に露悪的とも思えるような文体で、いろんな性についての「たてまえ」や、固定観念を覆していく独特のパワーは相変わらずのもの。全体は12章からなるが、9章「神の後釜としての恋愛と性欲」、11章「資本主義時代のみじめな性」が、ヴェーバーの『プロテスタンティイズムの倫理と資本主義の精神』をベースしながら、資本主義社会が人類にもたらした新しい性的規範・呪縛の意味あいを解明する試みで興味深い。かなり説得力があるように思えるし、著者の自説としても新展開の部分ではないだろうか。著者の性幻想論が、いわゆる性革命以後の「現在」をどう解明するのか、という接点についても、12章「性交は趣味である」で詳しく触れられている。


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高畑勲『十二世紀のアニメーション』(1999年3月31日初版第一刷発行・徳間書店)は、伝統的な絵巻物の図版入りの異色の紹介解説書。収録されているのは『信貴山縁起絵巻』、『伴大納言絵詞』、『彦火々出見尊絵巻』、『鳥獣人物戯画』の縮刷版で、それに詳しい解説と部分の拡大写真が満載されている。いかにも本棚に収まりにくそうな横長の変形版の本だが、これは絵巻物を閲覧するときの感じを再現するために工夫した結果だと思う。本書は表題にあるように、平安末期から中世にかけて、十二世紀後半に制作された連続式絵巻物の傑作群のなかに、映画的・アニメ的な発想や技法との連続性や共通性、はたまた着想の独自性を指摘し解明する試み。著者はテレビシリーズの「アルプスの少女ハイジ」や、映画「おもひでぽろぽろ」などで有名なアニメーション監督で、随所にアニメ映像制作のプロならではの興味深い指摘や洞察がつめこまれていて、研究書としても充分に読み応えがある。しかし、なんといっても絵巻に登場する人物の仕草表情をはじめとする生き生きした描写をカラーで見ることができるのが魅力。紙の質を落として実寸大の巻物のかたちで復刻して、詞書きは橋本治氏にでも頼んで現代口語にあらためて、マンガみたいに安く売らないだろうか、絵巻物。。。


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