村上春樹『アフターダーク』・ノート



  1 マリの心の流れ

 晩秋の深夜零時まえの都会。外国語大学で中国語を学んでいる19歳の女性浅井マリが、家族には友人の家に泊まると偽って、一晩を不夜城のような都会の盛り場で過ごすことを思いつく。それは来週には交換留学生として北京に出国する予定の彼女にとって、親元を離れて暮らす前のちょっとした予行演習のような試みだったかもしれないが、盛り場の明るい終夜営業の飲食店の快適なシートに身を沈めて読書をしながら一晩を過ごすということに、格別の冒険めいた意味があったわけでもないだろう。けれどこの彼女の目論見は、店で偶然顔を合わせた姉の友人高橋に話しかけられたり、そのまた友人であるというラブホテルのマネージャーに、ホテルで客から暴行を受けて泣いているという中国人女性との通訳を求められたりすることで、あっさりと裏切られてしまう。

 いってみれば、マリは、昼の世界の延長のように思えた白々しい明るさの中から、夜の都会が秘めている闇の部分に触れさせられてしまうのだ。これまでに行ったこともなかったラブホテル、その一室で全裸で血を流して泣いている自分と同年齢の中国人女性郭冬荊。元女子プロレスラーだったというカオルという逞しいラブホテル『アルファヴィル』のマネージャー、組織から追われて偽名で暮らしているという背中にリンチを受けた傷痕のあるホテルの従業員のコオロギという女性、そういう夜の都会に生きる女性たちとの会話を通して、マリはさして自分と年齢も変わらない女たちの様々な過去や生のありようを知る。また物語には、ラブホテルで郭冬荊に暴行を働いたあと、平然と会社に戻って孤独な業務を続ける白川というサラリーマンや、郭冬荊を売春婦として働かせていた中国人売春組織の手先のような男が登場することで、マリの生きてきた「昼」の日常とは対照的な都会の夜に生きる人々の姿を、さらに印象づけることになっている。

 他にもマリがカオルやラブホテルの従業員コオロギと知り合うきっかけをつくった高橋という青年が、何度も場所をかえてマリの前に立ち現れて彼女と会話をする。物語では、彼らとマリの会話が大きな部分をしめるのだが、その中に何度もくりかえし登場するのが、エリというマリの二つ違いの姉をめぐるエピソードだ。美人で10代半ばから雑誌のモデルやテレビのCMに起用されていたというエリは、大学にも籍をおいて多忙な生活を送っていたが、二ヶ月ほど前に、突然これから眠る、と、家族に宣言して以来、自宅の部屋のベッドで眠り続けている。そんなエリに対して妹のマリは、心の奥ではずっとよそよそしい気持ちしか抱いていなかった。けれど、この夜、見聞した体験を通して、また高橋の口から語られるエリについての話に導かれるようにして、マリは姉エリのかかえる苦しみや悩みというものを見つめなおすきっかけを得ることになる。「あなたがお姉さんに対してほんとに親しい、ぴたっとした感じを持てた瞬間のことを思い出しなさい。」というコオロギの言葉を実現するように、マリは、明け方の短くて深い眠りからめざめて、自分と姉をつなぐ幼い日の記憶をとりもどす。その記憶の出来事をとりもどしたことが、この一夜にマリに生じた大きな変化であり、帰宅してベッドで眠る姉に添い寝する妹マリの姿の描写でとじられる、この物語のひとつの帰結でもあるかのように描かれている。

 こういう読み方をすると、この物語は、都会の大学に通う若い娘が、思いがけない一夜の体験を通じて、およそこれまでの自分の「昼」の生活圏とは異なる都会の「夜」の世界に生きている様々な人々の生き方に触れ、そのことで彼女自身がこれまで自分とまったく別の人格のように思えて心を通わせることのできなかった姉に対する愛情をとりもどすまでを描いた、一種の教養小説のようなものだといえそうな気がする。たぶん作者の伝えたいメッセージのひとつは、そうした流れにそっているといえそうに思うが、もちろん、そうした流れが、どんなふうに肉付けされて表現されているのか、というところに、この物語の作品としての読みどころがあることは言うまでもないことだ。

2 もうひとつ別の場所と時間

 物語では、マリが一晩のうちに、飲食店の店内、ラブホテル、バー、公園、というふうに場所を移して体験する出来事が、時間の経過とともに章ごとに分けて描かれていて、その時間のながれに挟みこむように配置されたいくつかの章では別様のストーリーが展開するという構成になっている。そこで描かれるのは、マリの二つ違いの姉エリが眠っているベッドのある室内だ。このエリという女性のことは、さまざまな場面でマリの口から説明されるので、読者には、このエリの自室で起きる出来事の描写が、ちょうど小説の中に流れている時間経過の中でマリの体験を描いた場面から、エリの自室に同時進行的に視点変更をしたものであるかのように設定されているように思える。だが、そこで起きることは、ちょっと不可思議なことだし、カメラの視線をかりて映し出されるその文体は、読むものを息苦しいような感じに誘うところがある。その息苦しさの原因はたぶん、室内に置かれたテレビの画面の中にエリがベッドごと移動してしまう、といった描かれていることの奇妙さということよりも、章をつくりあげる文体自体からやってくる、不自由な視線の強制力のようなものだ。

 そのことにふれる前に、ちょっと注意してみたいのは、このベッドに眠るエリとその室内を描いた各章のもつ意味合いだ。その場で起きることは、はじめは、マリの体験した都会の夜の時間と同時刻的に、別の場所(姉妹の自宅の中にあるエリの自室)で生起したことのように描かれている。けれど、それはマリ(たち)には知らされていないし、それを実際に起きたことのように目撃する(させられる)のは読者だけである。だから、この眠るエリが登場する各章は、作品の構成上からいえば、マリが高橋(たち)に語る姉エリの話を、別の意味あいで裏付け、補強するという意味をになっているように思える。高橋がマリに向かって話すセリフがある。

「つまり、君のお姉さんはどこだかわからないけど、べつの『アルファヴィル』みたいなところにいて、誰かから意味のない暴力を受けている。そして無言の悲鳴を上げ、見えない血を流している」
「彼女はトラブルを一人で抱えて、うまく前に進めず、助けを求めている。そして自分を痛めつけることで、その気持ちを表現している。それは印象というよりは、もっとはっきりしたことだよ。」


 この言葉は、高橋が、エリが二ヶ月も眠り続けているということを、マリの口から知らされる前に、高橋が語るセリフだ。読者は、エリの身になにが起きているかをあらかじめ知らされているから、高橋のいう「それは印象というよりは、もっとはっきりしたことだよ。」という確信めいたものいいが、なにを意味しているのかを知って(知らされて)いる。もうすこしいえば、エリの部屋で起きる謎めいた一連の出来事に、作者が与えたがっている意味合いが、高橋の口を通して、絵解きされているように感じさせられる、といってもいいだろう。

 物語では、エリの部屋にあるテレビのブラウン管に映る画像の中の世界に、眠っているエリはベッドごと移動したり、その画像の中の部屋が、中国人女性を暴行した白川という男の働くビルの一室でもあるかもしれない、というような言い方がされている。エリはその部屋の中で、得体の知れない男から、「意味のない暴力を受け」ることが、象徴的に描かれているのだが、そうしたダークファンタジーのような記述は、エリが身にあびている苦痛を、作者が、エリ個人のものとしてでなく、大袈裟に言えば現代に生きる人々が共通に身にあびているような苦痛としてとらえて、それを視覚的に表現するためにしつらえた舞台装置のように考えることができると思う。

 3 映画的ということ

 この物語が、いわゆる映画的なさまざまな撮影手法を物語の文体に活かすような試みとして描かれていることは、読んでいて気が付くことだと思う。それは物語の出だしの都市の全景を鳥の目のように上空からとらえた描写から、カメラがどんどん地表に近づいていって、都市の繁華街の一軒の飲食店の中にすいこまれていくような描写に象徴的にあらわれている。また逆にそういうズームアップの映像を逆回ししたような描写個所も印象的だ。

「ベッドに横になっている彼女の姿を、私たちは上方から見下ろしている。それから視点としての私たちは次第に後方に引いていく。天上を突き抜け、どんどん後ろに引いていく、どこまでも引いていく。それにつれて浅井エリの姿は次第に小さくなり、ひとつの点となり、やがて消滅してしまう。私たちは速度を上げ、そのまま後ろ向きに成層圏を抜ける。地球が小さくなり、それも最後に消えてしまう。虚無の真空の中を視点はどこまでも後退していく。その動きを制御することはできない。」

 物語は、語り手と読者(私たち)が、同じようにひとつの映画を見ているような場所で語られることで進行していく。登場人物たちの交わすテンポのいい会話は、この作者の他作品でもおなじみの、明るい饒舌さといったものに満ちているが、彼らの内面描写(「マリはこう思った」といったような)は排除されているので、ちょうど映画のシーンを見ているように、また映画のシナリオを読んでいるように、登場人物たちの心の動きは読者が想像するほかないように進められる。

「私たちは「デニーズ」の店内にいる。、、、私たちは店内をひととおり見まわしたあとで、窓際の席に座った一人の女の子に目をとめる。どうして彼女なのだろう?なぜほかの誰かではないのだろう?その理由はわからない。しかしその女の子はなぜか私たちの視線をひきつける---とても自然に。」

 これは、物語の導入部の一節だが、この物語の映像的な文体の特徴をよく示していると思える。ここで、語り手は、まるで、はじまったばかりの映画の画面を、読者の隣席にでもすわって見ているように語っている。女の子に目をとめるのは、語り手ではなく、画面を構成して移動するカメラの視線だ。女の子の姿によっていって、アップして映し出しているのはカメラの視線だ。だから、その本当の理由(カメラマンの意図=映画製作者の意図)は、私(語り手)にはわからない、のだ、とでもいうように。もちろんこれは、ひとつのレトリックにすぎない。この記述にあらわれる「私たち」という位置は、本当は、読者の想像力のなかで自然にたちあらわれるようなものではないからだ。「デニーズの店内の窓際の席に一人の女の子が座っている。」という文章を読者が読むとき、なぜほかの客でなく、彼女が主人公なのだろうか、とか、なぜ彼女のことに読者である私は注意をひきつけられるのだろう、などということは、およそ考えつきそうもない。それは、作者がある物語を書きたいがためにしつらえた情景であることを、あらかじめ読者は暗黙のうちに受け入れて文章を読んでいるからだ。けれど、もし読者が、これからなにがはじまるのかわからない映画を見ているのだとすれば、そして、読者の隣席に「語り手」のような饒舌な友人がいて、わたし(読者)の耳元で、囁くとすれば、わたし(読者)は相づちをうつかもしれない。ふむ、カメラがあの女の子をズームアップしていく理由はまだよくわからないね。ふむ、カメラの流れはとてもスムースで、「私たち」の視線をすっとひきつけるように撮られているね、などというように。

 しかし注意すればわかるように、もしわたし(読者)が、友人(語り手)と一緒に映画をみていたのだとすれば、当然私(読者)は別の反応を起こす可能性もある。いや君はそう思うかもしれないけど、僕にはあまり自然なふうには見えないよ、とか、僕はむしろあの窓の外に映っている都会の夜景に気をとられていたんだ、というふうに。だからこういう文体で物語が描写されるとき、むしろ読者は、自然な想像力、あるいは物語のストーリーを追おうとする集中力のようなもののなかに、語り手がストーリーの読み方や感じ方まで導きいれ、強引にはいりこんでくるような、一種の不自然さを感じとるのだと思う。

「私たちはひとつの視点となって、彼女の姿を見ている。あるいは窃視しているというべきかもしれない。視点は宙に浮かんだカメラとなって、部屋の中を自在に移動することができる。今のところ、カメラはベッドの真上に位置し、彼女の寝顔をとらえている。、、、浅井エリの姿を眺めているうちに、その眠りの中にはなにかしら普通ではないところがあると、次第に感じるようになる。」

 ここでは、かなりあからさまに、作者がつくりあげたい文体の構図と、その効果がよくでていると思う。読者は、情景を語り手とともに「窃視している」場所におかれ、浅井エリの眠りの中に「なにかしら普通ではないところがあると、次第に感じる」ようになった、ことに、させられてしまうのだ。もちろん実際にこの物語を読んでいる「読者」は、「窃視」しているわけでも、「次第に感じる」わけでもない。けれど、語り手の「私たち」という言葉ににからめとられるようにして、この作為体験のような世界にある種の緊迫感ともにつきあうことを強制されるように感じる。

 こうして、ひとつの映画、作者がどんな意図でつくりあげたのかわからないような映画として映し出される情景を、私たち(語り手と読者)は視ている。正確には、そこに映し出されていることの意味を、ある感じ方でとらえることまで、「語り手」によって誘導されながら、視ているような気分にさせられる、というようなことが、この物語のところどころで実現されていることだと思う。それがなんのための装置なのかといえば、たぶん、「映画(物語)の作者の不在」、ということを、読者に強く印象づけたいところからきているような気がする。

 テレビのコンセントが抜かれているのに、ブラウン管に画像がうつる。というのは、およそ日常にはありえないことだし、部屋の中にあったベッドがいつのまにかそこに寝ていた人物ともども、そのテレビ画像の中に移動して、映し出されていて、もとの場所には、ベッドだけが残されている、ということも起こりえない、ことだ。けれど、私たちが、このありえないことを視覚的に実際にあったことのように身近に体験できるのは、たとえば映画のトリック(撮影技術)を通してであろう。もし、文章をそのような映画の視覚体験に近づけることができれば、あるリアリティをもって、現実には起こりえないことを読書の「体験」としても再現できるのではないか。そのためには、文章世界をつくりあげている描写と、作者の意図との関係が、ちょうど映画のうつしだす映像と、その背後にかくされた監督の意図のように分離した関係でなくてはならない。映画の中でコンセントの抜かれたテレビのブラウン管に画像がうつることが、衝撃的にみえるとすれば、見るものが、それが監督の演出だと考えるからでなく、現前する視覚的な刺激に影響されて、スクリーンにうつしだされる架空のリアリティを現実のように感じているかぎりにおいてだろう。この場合、監督の演出、ということが、見るものの頭の中では、とりあえず存在しないものとして、括弧にくくられている。文章の場合、「コンセントが抜かれているテレビに画像がうつった。」という描写は、それだけではなんの衝撃ももたらさない。それは、ただ作者が言葉をどのようにも書ける、ということを意味しているだけのことに思えるからだ。だが、もし、その文章の書き手(作者)というものを、語り手としての作者とうまく分離することができれば、というのは、読者の頭の中で文章の書き手(作者)をいったん括弧の中にくくりこませてしまえれば、たぶん映画と似たような衝撃やリアリティを生むことができるのではないだろうか。

 この物語の作者が実際にそんなふうに考えたかどうかはわからない。しかしこの物語の中では、ところどころそういう手法がつかわれていて、効果をあげているように思える。現実にはありえないような奇妙な出来事は、エリの部屋の中だけで起こるわけではなく、実は洗面所の鏡の中に、マリや白川の顔だけが残っていて、現実のマリや白川はもうその鏡の前から立ち去っている、という幻想的なシーンも描きこまれている。それは、この物語全体が、語り手にも制御できないなにかの力によって、映像のイメージとして、私たち(語り手と読者)にもたらされたものだという構図を象徴的につくりあげている、とはいえるだろう。この物語のなかで、マリや白川の生きている「現実」さえもが、奇妙な得体の知れない力によって、ねじまげられ、おびやかされている、という不安な感じを読者に与えるとすれば、それはたぶん作者の生み出したこうした構想の力なのだ。

 ただ、もちろん視覚や聴覚刺激を動員して物語世界に観客をひきいれる映画のようには、この呪縛の力は働かない。読者は、語り手が「浅井エリの姿を眺めているうちに、その眠りの中にはなにかしら普通ではないところがあると、次第に感じるようになる。」と書いても、実際に浅井エリの姿を眺めて、自然な気持ちとしてそのことを「感じる」わけではなく、むしろ語り手によって催眠術をかけられるように「感じた」ことにさせられる、だけだからだ。そういうことに鋭敏な読者は、そういう仕掛けに、ちょっと芝居がかった作為を感じてしまうかもしれない。

 思いつきの連想を言えば、コンセントのぬけたテレビのブラウン管に画像がうつるのも、人がその前にいないのに鏡に映像がうつるのも、ゴア・ヴァービンスキーの映画「ザ・リング」)のなかに、よく似たシーンが登場するし、またテレビのブラウン管の内側と現実の世界の境界がなくなってしまう、という映像も、「ザ・リング」ほどあからさまでなくても、バーチャルリアリティを扱った多くの映画作品のなかでは、ありふれているように思える。また、この世界とは別のどこかに部屋があって、そこに得体の知れない不気味な男がいて、というような設定からは、デビット・リンチのいくつかの映画作品を連想する人も多いと思う。たぶんそういう幾筋もの連想の線というものも、この物語はよく呼吸していて、いわば一種の既視感として裏側から「私たち」の感じるリアリティを高めるのに役立っているとはいえるかもしれない。