村上春樹『スプートニクの恋人』について



 小学校の教師をしている「ぼく」には、大学を中退してアルバイトをしながら小説を書いているすみれという22歳の女友達がいる。ある日「ぼく」は、すみれから、親戚の結婚式の席で知り合ったミュウという17歳年上の韓国人女性に、ひとめで同性愛的な感情を抱いて恋をしてしまったと告げられる。その後、ミュウの仕事を秘書として手伝うようになったすみれが、ミュウと共にワインの買い付けのためにヨーロッパに渡航したことを、「ぼく」は、すみれからの手紙で知る。やがて、彼女たちが旅の終わりに逗留したギリシャの小島から、すみれが突然失踪した、と告げるミュウの手紙が「ぼく」の元に届く。。

 帯の引用からすれば、「広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋」の物語ということのようだが、文学少女すみれに生じた突発的な恋愛感情の高まりは伝わってきても、その背景に広大な平原があるようには思えない。あるのは、現在の日本の多様な社会風俗環境や文化的な教養の層からスマートに抽出されたような、センスのいい現実感覚や機知にとんだ語りの世界と、そこに接ぎ木された現実(こちら)と別の現実(あちら)という、童話的な観念の織りなすファンタジーへの傾斜のようなものだ。さらにいえばその底には現代人の癒しがたい孤独というテーマが潜在していて、時に顔を覗かせて文章に入り組んだ屈折を与えている。とても大平原ののっぱらの感じではない。

 だからといって本文中の語りが言うように「実存主義演劇の筋」みたいに人間関係そのものが入り組んでいるわけでもない。「性愛」を介して、「ぼく」がすみれに惹かれ、すみれはミュウに惹かれ、ミュウがそれに答えることができない、という思うにまかせぬ感情の連鎖は、恋愛の三角形につきものの話といえよう。ただこの関係の連鎖を交通不全のものとしている「原因」が、肌があうとか、あわないとか、そういった感覚レベルの問題から一歩掘り下げたところの、ある種の観念的な「絶対性」に求められているところが、おおきな作品の特色になっている。

 ミュウはかってこの「絶対性」に触れてしまった。それは世界の闇の部分によって自分の分身が汚されるという二重身現象をかいま見た特異体験であり、それ以来、他者との肉体的な接触ができなくなってしまった。身体が「性」を拒むようになったのだ。ミュウが14年前に体験したというこの出来事に込められた意味合いとは何だろう。それは、人間が、自分ではどうすることもできない受動的な場所で、身体性も含めた「世界」から一方的に損なわれるような体験、不可避な被害体験がありうることを象徴していると言っていいと思う。この体験(注意して読むと、ミュウが一種の極限状態の眠りのさなかで見た幻覚のようにもとれるのだが)は、深夜観覧車のうえに独り取り残されたミュウが、自分の住むアパートを見ていて、そこで、もう一人の自分がフェルナンドという男に蹂躙される様子を見てしまう、という形で描かれているが、もうひとりののミュウを犯すその男は、最後には「フェルナンドですらなくなってしまう。」とされている。あるいは「それは最初からフェルナンドではなかったのかもしれない」と。この含みをこめたいいかたの中に、著者のこめたい象徴性がよく現れていると思う。

 すみれは、逆にこうした「絶対性」に文学として触れることで自己実現したい渇望をもつが故に、現実の「性愛」を素通りして生きてきたような娘だ。すみれは親しい友である「ぼく」の「性愛」の欲求を知ってか知らずか、無性的な少女のように振る舞う。そして突然ミュウの出現によって彼女の「絶対的」な「性愛」の感情が発動される。この展開は極端だが、納得できることに属している。ひらたくいえばすみれにとって、「ぼく」とミュウの違いは、「友達」と「恋人」の違いということにでもなるだろう。ただ作者はこのすみれと「ぼく」の「友愛」感情に、濃密な他者理解の深さや広がりのイメージを与えて、別の意味で「絶対化」して物語の骨子にすえている。

 ところで、すみれにとって一方のミュウに対する「(同)性愛」感情の高まりは、不可避なものとして、ミュウと出会ったそのことから直接やってきた衝動のようなものと捉えられている。つまり世界から促されたのであって、自ら望みもせず邪悪な世界の実在を見せられたミュウのように、すみれもまた、いわば宿命に捉えられたのである。では、「ぼく」はどうか。「ぼく」には宿命が与えられない。「ぼく」は、たしかにすみれを「性愛」の対象としても欲しているが、それはすみれに訪れた絶対感情のように、世界からのうながしによるものではない。

 「ぼく」は一方で「性愛」を満たすために他の女性と関係をもっている。文中の言葉を借りれば、「ぼく」にとって「性愛」の対象は交換可能な「記号」なのだ。そのうえで「ぼく」はすみれのことを特別な女性のように考えている。なぜそんな調子のいいことが可能かといえば、すみれは「ぼく」のかかえる観念世界を共有できる唯一の他者と見なされているだからだ。「ぼく」はすみれの世界に踏み込もうとはせずに、すみれからの連絡を待っている。すみれは「僕」にとって、共有できる親しい観念をもたらしてくれる他者であり、世界の「象徴」なのだ。すみれと会話をすることで、「ぼく」は世界(すみれ)を生きる。「すみれとは、ぼくである」とは、そういうことに違いないだろう。しかしこれを「ぼく」の宿命といえるのだろうか。「ぼく」はすみれの失踪によって、事後的に、すみれに対する自分の思いの深さをあらためて思い知る。作者は美しい円環で繋いでみせるが、「ぼく」にはまだ待つことしか与えられていない。

 すみれの失踪を契機にして、「竜巻のような激しい恋」をとかしこんだこの作品の基調にあるのが、「ぼく」(たち)を支配している由来の知れない虚無感、寂寥感にひたされた「スプートニク号に乗ったライカ犬」のみる風景のような孤独な世界であることが明らかになる。現在の物語としてのこの小説は、ほんとうはここまで(14章)で終わっているように思える。すみれの失踪は、もうひとつの実在世界への出奔という意味合いを与えられているが、そうした幻想性をはいでしまえば、端的に彼女の失踪が意味するものは「自死」に他ならないからだ。

 しかし小説は終わらない。次の15章で小説はちょっとした屈折を見せる。そこに挿入されているのは、すみれの失踪したギリシャの小島から帰還してきた後の「ぼく」の物語であり、そこでは、「ぼく」の「ガールフレンド」(教え子「にんじん」の母親で、名前さえ与えられていない)との別れが描かれる。「にんじん」が万引きをして補導されたことを契機にして、ふたりの関係を「ぼく」が精算する、というこのストーリーは、随分調子がいいように思える。そこで描かれているのは、自分たちの不倫を無意識に察知しているせいで情緒不安定になり、万引きを重ねて補導された「ガールフレンド」の息子を前にして、「雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って」眺める風景のさびしさを説くというような、なんというべきか格好はいいがちょっと真意を計りかねるようなナルシスティックな「ぼく」の資質だからだ(「にんじん」は「ぼく」を理解してくれた、と著者は書くが、どうだろうか)。「ぼく」が「ガールフレンド」と別れる根本の理由は、すみれがいなくなったから、「ぼく」がそれまで異性にふりわけていた「性愛」感情のバランスが失調して、関係が不全になったからではないかと言ってみたいところだが、では作者はなぜこうしたエピソードをつけくわえたのだろうか。

 それをひとことでいえば、「ぼく」に、やがて帰ってくる(ことになる)すみれを受け入れる用意をさせるためのように思える。作者はここで、「ぼく」は、ただ「不在するすみれ」のことだけを考えて「ガールフレンド」と別れたのだとしている。「(ぼくは)自分が正しいことをしたとは思えなかった。ぼくはぼく自身にとって必要だと思えることをやっただけだった。」こういう書き方に、私などは、なんというか、自分で自分を振り返る回路としては誠実そのものなのに、その回路のまえでは他者の存在が薄らぎ、消えてしまうことに気づきながらも無感覚であるほかないような、強靱な頑固さみたいなものを読んでしまうのだが、その判定は読むひとにゆだねたい。ただ作者が想定した作品世界のなかで、作者は「ぼく」がこういう無意識の方向転換をした後でなければ、「すみれ」に再会できない、という倫理(それを倫理と呼べば)を差し出している箇所のように思える。

 「ぼく」は、「ガールフレンド」と別れることで、やはりミュウやすみれのように「血を流した」と言えるのだろうか。この転調のあとでも、すみれが帰ってきてふたりの幸福な未来がありえるということを、あまり信じられない。それを失踪事件の前のように、ふたりの気の利いたセリフの応酬が醸し出す親しげでテンポのいい会話が続く日常世界への復帰というのなら、想像できないこともないが、そもそもそれは「ぼく」が待ち、すみれが働きかけることで成立する世界だった。帰ってきたすみれは「性愛」の対象としても初めて「ぼく」を求めるかも知れない。しかし性愛の対象を「記号」としてとらえざるを得なかった「ぼく」の空無さは、本当に慰撫されるのだろうか。

 「ぼく」の造形から受ける印象は、教師としてはそつなく仕事をこなし、処世術にも或る程度たけていて(同僚と夏期休暇中の出勤日を交換しあったり、生徒の親と不倫する程度の冒険は辞さない)、生活感覚も堅実だが、読書や音楽鑑賞といった自分の趣味には相当うるさくて、むしろそういう趣味に費やす時間を確保するために働いている青年教師というような感じを受ける。つまりそこにはいくぶんか破綻なく実現された時代の上昇感性の自足した幸福な気分が分有されているような印象を受ける。作者はそんな「ぼく」に、宿命にうながされた他者の物語をくぐりぬけさせる。すみれの不在に対する絶望的な寂寥感がその底をつくりながら、「ぼく」は神経を病むわけでも生活を変えてみるわけでもない。作者はただ子供の万引き事件を契機にした「ぼく」と「ガールフレンド」との別れという(これまでも幾度かくりかえされたかもしれない)エピソードを挿入するだけだ。こういう構築そのもののなかに、作者は個を超えた時代の感受性の運命みたいなものをこめたかったのかもしれない。作者は、すみれの体験を「ぼく」が「象徴」として共有することで、より深い生を未来に生きる可能性として、最後の章句を結んだのかもしれないが、私は、むしろ「記号」に囲繞され、どんな「象徴」の記憶もたちまちに蒸散していくような時代の感受性の比喩のようにその言葉を受け取った。

「それからぼくは指をひろげ、両方の手のひらをじっと眺める。ぼくはそこに血のあとを探す。でも血のあとはない。血の匂いもなく、こわばりもない。それはもうたぶんどこかにすでに、静かにしみこんでしまったのだ。」(村上春樹『スプートニクの恋人』)


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