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「気まぐれ」映画メモ(11)
ここでは短い感想をのせてます。時々更新します。
☆印は、おおまかなストーリーが書いてあるので注意
index・更新順(99.4.10~99.7.3)
○「レインメーカー」○「ブエノスアイレス」
○「ふたりのベロニカ」○「トリコロール 赤の愛」○「トリコロール 白の愛」
○「トリコロール 青の愛」○「愛を乞うひと」○「去年マリエンバードで」
○「GIジェーン」○「セブン・イヤーズ・イン・チベット」○「愛しすぎて 詩人の妻」
○「羊たちの沈黙」○「フラート」○「O侯爵夫人」
○「フィラデルフィア」○「ボディ・バンク」○「ザ・ロック」
○「奴らに深き眠りを」○「眺めのいい部屋」○「フェイク」
「レインメーカー」(原題 JOHN GRISHAM'S THE RAINMAKER )
ロー・スクールを卒業したばかりの青年ルーディは、理想に燃える弁護士の卵だが、コネがないので、怪しげな評判のあるブルーザー法律事務所に就職する。与えられた初仕事は、白血病の青年ダニーをかかえた一家への保険金未払い事件だった。仕事の合間に司法試験の勉強をしていた病院で、夫に虐待されている女性ケリーに出会って惹かれたりという経過の中で、法律事務所のボス、ブルーザーが、逮捕を逃れるために外国に逃亡するという事件が起こる。思わぬ事態の進展のためルーディは、相棒で古株のディックと共に、保険金未払い事件の審問会で、保険会社とそのおかかかえ弁護士団のトップ、ドラモンドという老練な弁護士と対決することになる。。
レインメーカー(雨降るごとく金をもうけることのうまい弁護士)に勝るとも劣らないであろうベストセラー作家ジョン・グリシャムの『原告側弁護士』の映画化。社会派風味ドラマのバイオレンスシーンの味付けが、いかにもコッポラ作品。まっすぐ青年が社会の巨悪に立ち向かうストーリーで、挫折に終わる映画は多いが、この作品はすっきりしている。賠償金支払いについては、トカゲの尻尾きりみたいに巨悪はするりと身をかわしてしまうのだが、ルーディや原告側がつかんだものの確かさが伝わってくるからだ。それにしても、この映画で描かれているような保険会社のシステム、日本にもあてはまりそう。。。
マット・デイモンは陰りがないので、はまりやく。法廷場面での新米弁護士のしどろもどろぶりが上手。豪華演技陣の顔ぶれを見ているだけで楽しめる。
「レインメーカー」(監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 マット・デイモン クレア・デインズ ジョン・ボイト ダニー・デビート ミッキー・ローク ダニー・グローバー ロイ・シャイダー 97年アメリカ)
99.7.3
「ブエノスアイレス」(原題 HAPPY TOGETHER )
香港からアルゼンチンにやってきたウォンとファイの二人連れは同性愛の仲。しかし、ささいなことで口論がたえず、ファイが滞在費を使い果たしたこともあって、とうとう別れるはめに。ウォンはタンゴ・バーのドアマンとして働きはじめるが、そこで白人男性と連れ立つファイと再会。手傷を負ったファイを介抱したことで、またよりがもどったりして、二人は同棲生活を再開するが、嫉妬がらみの意地の張り合いで、また別居。そんなおり、ウォンは新しいバイト先の中華料理店で、「世界の果て」への旅をしている台湾人青年チャンと知り合い、親しくもなるのだが。。
南米ブエノスアイレスを舞台に、香港から旅行者としてやってきた二人のホモセクシャルの青年たちの情愛にまつわる心の揺れや葛藤を、彼らの生活ぶりとともに細やかに描いた映画。映画では、ウォンとファイの関係、一方が料理も掃除も洗濯もこなして、一方はされるがまま、という生活形態がいちばん幸せそうな時で、やはり家庭というのは内側に閉じるものなのかと。不信がきざすと相互監視の地獄みたいなことになるのは男女でも同じだろうが、同性ゆえに相手のことがよく分かる気がして、愛憎いずれも増幅してしまう、というプロセスがよく描かれていると思う。
車窓に流れる都会風景や雑踏のスナップなど、風景描写の独特な映像センス、背景に流れる音楽との組み合わせなどに、豊かな才能のきらめきを感じます。トニー・レオンのボートのシーンは切ない。カンヌ映画祭最優秀監督賞
「ブエノスアイレス」(監督 ウォン・カーウァイ 出演 レスリー・チェン トニー・レオン チャン・チェン 97年香港)
99.6.29
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「ふたりのベロニカ」(原題 LA DOUBLE VIE DE VERONIQUE )
双子じゃないのに、同年同月同日同時刻に生まれた、二人の容姿もそっくりな女の子。それぞれ、ポーランドとフランスで、現実にはほとんど何の接触もなく生まれ育つのだが、好みや関心も似ていて、心の中ではもうひとりの自分がどこかにいるように感じたりといった不思議な交感作用がある。ポーランドのベロニカは声楽家をめざしていたが、デビューの舞台上で持病の心臓病の発作で倒れ、あっけなく死んでしまう。一方の音楽教師をしていたパリのベロニカはその時から奇妙な孤独感や喪失感に苛まれはじめるのだが。。。
自分とそっくりな人が世界のどこかにいて、そのひとと心が不思議な引き合い方をしている、という幻想的な物語。そういう設定に、心理学的な説明を持ち込んだり、オカルト的な解釈を前面に出したりしないで、事態の不思議さを、人生そのもの(生きているそのことの)の謎みたいに、奥深い感情の劇として官能的に描いてみせているのが、この映画の魅力。とはいってもやはり西欧映画。魂レベルの交流ということになると、そこに顔を出すのは、キリスト教的なイメージ。ベロニカは分身の死の悲しみから、恋をすることで生きる力を取り戻すが、そのきっかけとなるのが、踊れなくなったバレリーナが蝶に変身するという人形劇。これは死んでしまった分身が、精霊(天使)になって、残された彼女を手助けすることの「喩」のように受け取れる。全キリスト教会賞を受賞したというのも、なるほどと思わせる映画。
細部が丁寧に仕上げられていて、つなぎみたいなショットも映像的な魅力に富んでいる。標題音楽というのがあるけれど、音楽(とても美しい)の効果的な使い方など、標題映画的な映画といってもいい感じ。カンヌ映画祭女優賞。国際批評家連盟最優秀賞。
「ふたりのベロニカ」(監督 クシシュトフ・キェシロフスキ 出演 イレーヌ・ジャコブ ハリナ・グリグラシェスカ 91年 仏=ポーランド)
99.6.26
「トリコロール 赤の愛」(原題 TROIS COULEURS : ROUGE )
大学生で、パリでモデルの仕事もしているバランティーヌは、英国に恋人がいるがなかなか会えない。そんなある日、運転していた車で犬をはねてしまったバランティーヌは、犬の飼い主の老人と知り合う。老人は独り暮らしの元判事で、隣人たちの電話を盗聴器で盗み聴くのを、生きるよすがにしているような偏屈な人物。しかし彼がバランティーヌに聴かせる盗聴の世界には、苦い人生の真相があるのも事実。老人を卑劣漢と罵るバランティーヌにむかって、君が正しいと思うなら、私が盗聴していることを隣人たちに伝えろ、と老人はせまる。後に、老人が自分で自分を密告して、自ら法律の裁きを受けたことを新聞で知ったランティーヌは、老人を再訪し、二人には不思議な愛情がめばえていくのだが。。。
3部作の完結編で、監督の遺作。赤い車体のジープとか、バランティーヌの横顔がひきのばされた巨大なコマーシャル用の赤い垂れ幕とか、赤い色彩が効果的に使われている。愛とはいっても、男女の激しい恋愛感情というより、人間相互の様々な心のふれあいや理解といった、ひろい意味の「愛」の回復がテーマの映画。荒廃した暗い室内に、窓から光が射し込んで、思わず二人が会話を中断して陽射しを浴びるシーンが美しくて印象的。
注意してみていると、老人とバランティーヌの話のあいまに、見え隠れながら進行する別の若い法律家の失恋ストーリー(老人が語る自分の過去の恋物語と酷似している)があって、その青年がバランティーヌの伴侶となるかのような予感を孕ませておわる幻想的な脚本(輪廻みたいな時間構造)が見事。
「トリコロール 赤の愛」(監督 クシシュトフ・キェシロフスキ 出演 イレーヌ・ジャコブ ジャン・ルイ・トランティニヤン 94年 仏=ポーランド=スイス)
99.6.22
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「トリコロール 白の愛」(原題 TROIS COULEURS : BLANC )
パリで美容院を経営していたポーランド人のカロル。性的不能を理由に妻ドミニクに離婚を宣告される。トランクひとつで家を追われたカロルは、地下鉄構内で寝泊まりしていたが、同郷の男ミコライと知り合い、彼の手助けでトランクに身を隠し、どうにかポーランドに帰国して、曲折をへて企業家として成功する。しかしドミニクのことが忘れられないカロル。奇抜な手段をこうじて、彼女をポーランドに呼び寄せようとするが。。。
妻を愛しながらも邪険にされ、すかんぴん状態になりながら、それでもめげずに才知を絞って生き抜いていく中年男を描いた愛の物語。主演の役者が違えばイメージが全然ちがった映画になったかもしれない。ズビグニエフ・ザマホスキは小柄で、ちょこまかした動作に自然とコミカルな感じがにじみ出てきて、失意のどんぞこから、社会的成功までを描いた映画の忙しいテンポにあっている感じ。カロルがパリの地下鉄でポーランドの曲を演奏して小銭をかせぐシーンや、小道具として登場するフランスの角張った模様のある2フラン硬貨が、私ごとながら懐かしい。
青、白、赤のトリコロール(自由、平等、博愛)3部作の2作目。白のイメージは、ドミニクの着るウェディング・ドレスやトイレの便器や石膏の彫像や雪景色などに、あるといえばあるのかも。ベルリン映画祭監督賞。
「トリコロール 白の愛」(監督 クシシュトフ・キェシロフスキ 出演 ジュリー・デルビー ズビグニエフ・ザマホスキ 94年 仏)
99.6.19
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「トリコロール 青の愛」(原題 TROIS COULEURS : BLEU )
家族三人が乗った車が衝突事故で大破。高名な作曲家だった夫、幼い一人娘は死亡。唯一重傷を負いながら生き残ったのは33歳なる妻ジュリーだけだった。ジュリーは退院すると、広大な屋敷を売りに出し、資産を処分して、夫の親友で彼女に好意をもっていた作曲家と、区切りのように一夜を共にしてから、アパートに独り住まいすることに。しかし、楽譜も処分したというものの、夫が引き受けて完成まじかだった欧州統合のためのシンフォニーのフレーズが頭について離れない。実はこの曲ほとんどの部分に彼女が手を入れていたのだった。傷が癒えても彼女のかたくなな気分はぬけなかったが、そんなおり、愛していた夫に別の恋人がいたことを知って。。。
青、白、赤のトリコロール(自由、平等、博愛)3部作の一作目。夫と子供を同時に失った女性が、絶望のすえ、曲折をへて人を愛する感情を取り戻すまでを描いた映画。ブルーは、青い部屋、天上から吊された青いガラスの装飾品、プールのシーンや、ジュリーの顔のうえで揺らめく青い影などとして登場する。単純といえば単純な話なのに、厭世気分になった主人公のつっぱねたような挙動の行く末がどうなるかと気がかりで、最後までひきこまれる映画。ラストの「愛こそすべて」式(訳では愛を信仰より上位においているのが微妙なところ)の大円団の終わりかたは、めでたい欧州統合の象徴とはいえ、今時ちょっと珍しいと思う。
裁判所の法廷シーンがわずかに出てきて、そこのセリフが、そっくり2作目「白の愛」にひきつがれている。瓶類を入れる巨大なゴミ箱に、通行人がやっとこさと瓶を入れるユーモラスなショットも3編共通。出演俳優の顔ぶれにも共通性があって、なぜか3作目から逆順に見た私の印象に残ったのはその程度だが、他にも共通モチーフが沢山あるらしいので、正しく3作まとめて見る機会がある人は、探してみたら楽しいかもしれない。。。ヴェネチア映画祭金獅子賞。主演女優賞。
「トリコロール 青の愛」(監督 クシシュトフ・キェシロフスキ 出演 ジュリエット・ビノシュ ブノワ・レジャン 94年 仏)
99.6.15
「愛を乞うひと」
山岡照恵は高校生の娘深草と二人で暮らす勤労女性。ある日照恵は、幼い頃に結核で亡くなった台湾国籍の父親、陳文雄の遺骨を探すことを思いたつ。遠い記憶をたどって父が入院していた病院、役所へと彼女の探索は続き、やがて亡父の言い残したわずかな地名をもとに、彼のふるさと台湾へと赴くことに。一方この探索は、照恵にとって、忘れることの出来ない幼少女期の辛い思い出を呼び覚ますもので、映画は、戦後まもない頃から始まる彼女の少女時代の家庭や生活環境についての回想シーンを丁寧に挟み込みながら、母子ふたり力をあわせての遺骨探しの旅路を描く。
回想シーンで中心になり、照恵の遺骨探しの旅の背後にも影を落としているのが、実母でありながらなぜか鬼のような仕打ちを繰り返した豊子という女性の存在。幼い娘は理不尽に折檻されながらも母親に愛の言葉を求めるが、豊子はとうとう最後まで憎悪の言葉しか口にしない。こういうひとがいると思うと、性善説や母性本能などという言葉が空しく感じられるが、おそらく観念で人を類型化するほうが危うい話で、この母親、原田美枝子(照恵と二役)が熱演していて、とても存在感がある。
折檻シーンの暗くて重いイメージのせいか、映画の興行成績は惨憺たるものだったらしいが、実際ビデオで見て、とても丁寧につくられていて説得力のある日本映画の秀作だと思った。回想シーンに見られる、貧困と隣り合わせながら明るい活力にあふれた戦後期の背景描写からは、制作者たちのひそかな記録への意志みたいなものさえ感じられて楽しかった。
監督は「学校の会談」シリーズのひと、脚本の鄭義信は「月はどっちに出ている」のひと。原作は下田治美(この小説、映画化されたと聞いたとき、私はひそかに喜んだのだが、その理由は、「文学系」コーナーにある「呪い3部作」という古い感想文を読んでいただければわかると思う)。日本アカデミー賞8部門を受賞。
「愛を乞うひと」(監督 平山秀幸 出演 原田美枝子 野波麻帆 小日向文世 98年 日本)
99.6.12
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「去年マリエンバードで」(原題 L'ANNEE DERNIERE A MARIENBAD )
広大な庭つきの城館でであった男と女。男は女に去年のことを忘れたのですか、と問いかけるが、人妻である女性のほうはそんなことは知らないといいつつも思い出せないような覚えているような。はたしてそこがどこだったのか。セリフではここの庭には樹木がないと説明されながら映像には綺麗に刈り込まれた樹木が映っているし、夢かうつつか幻覚か、という、譫言みたいなセリフで構成された不思議な味わいのある映画。。。
脚本が小説家のロブ・グリエで、その実験的な手法を映画に持ち込んだところから、上演当時おおいに話題になった作品という。最初のほうの複数男女が静止した絵画のようなショットの積み重ねがなんとも異様で印象的。幻想みたいな筋書きが本当のことだったとすると、大きな城館のようなホテルに静養のために逗留しているブルジョワ夫婦がいて、妻のほうがひとり庭園に佇んでいる時に独身者らしきやはりホテルの宿泊客と出会い恋におちて逢瀬を重ね、とうとう駆け落ちしようと男は言うが、女は1年待ってほしいと言って別れることに。その1年後のふたりの再会、というような恋愛映画であるらしいのだが、そのかろうじてたどれるロマンらしきものが、意志疎通不全状態の不分明なシーンの積み重ねのなかで、あいまいなまま移行してゆくという感じ。
カードやマッチを並べて相互にルールにしたがって取り去っていき、最後の一枚(一本)をひいたものが負けというゲームの場面が何度もでてくる。規則を知っていると絶対勝てるという他愛のないゲームだと思うが、紳士淑女が集まってみんな変に神妙なのが面白い。ヴェネチア映画祭金獅子賞受賞。
「去年マリエンバードで」(監督 アラン・レネ 出演 デリフィーーヌ・セイリグ ジョルジュ・アルベルタッツィ 61年 仏)
98.6.8
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「GIジェーン」(原題 G.I. JANE )
男女差別撤廃論者の上院議員デヘイブン女史は、軍隊における男女差別を問題にして軍幹部とやりあい、もっとも苛酷とされる海軍偵察部隊SEALの訓練に女性兵士をテスト入隊させるということで、折り合いがつく。デヘイブンが白羽の矢を立てたのは海軍情報部に勤務していたオニール大尉。湾岸戦争でも第一線の兵士志願者であった彼女、屈強の男たちに混じって12週に及ぶ地獄の訓練に参加するが。。。
デヘイブン上院議員は、一見信念の人のようで、やはり次回選挙で当選するのが最重要という考え。軍は軍で、予算獲得のためなら、或る程度政治家への譲歩もやむを得ないという考え方。そういう双方の思惑を含みながら、実験台になったオニール大尉の孤独でひたむきな訓練生活での奮闘が描かれる。どろどろした「政治」についての批判的な視線はあっても、結局は実在の米軍の協力なしでは作れない翼賛映画。訓練現場には鬼隊長も嫌み男も善意の友も登場する。そこでいいたいのは、きびしい規律と達成感、オフには開放感あふれる軍の兵隊生活そのものの実在性ということではないだろうか。ただ、こういう宣伝映画の効能というのもまたあると思う。これもアメリカ的現実の一面であることは確かで、日本の自衛官の生活でも、描かれないより描かれたほうがいいと思うからだ。
デミ・ムーアが途中から坊主あたまにして迫力。大昔には弓をひくために乳房の半分を切り取ったという女性ばかりの部族(アマゾネス)がいたという。訓練で身につく女性の肉体的な戦闘能力や耐久力なら、ずっと昔から証明されてると思うのだが。。。
「GIジェーン」(監督 リドリー・スコット 出演 デミ・ムーア ヴィゴ・モーテッセン アン・バンクロフト 97年 米)
99.6.5
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「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(原題 SEVEN YEARS IN TIBET )
第二次大戦前夜、オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーは、当時ドイツの国威をかけたヒマラヤの山への登山隊に要請されて参加するが、悪天候のため下山、おりしも大戦が勃発、インド駐留の英国軍のため捕虜収容所に収容される。やがて仲間と共に脱走を企て、逃げ延びた友人と二人で中国をめざすが、途中足を踏み入れたチベットで、ハラーは当時少年だったダライ・ラマと運命的な出会いをする。。
実在の登山家のベストセラーになった体験記に基づく映画という。オリンピックで金メダルもとった優秀な登山家ハラーが、不思議な縁で、チベットの聖都ラサで7年間ダライ・ラマの家庭教師をした、というのはなんだか凄い話だ。映画では、故郷に残した妻子のことをたえず気にかけるハラーの心理的な葛藤を伏線のように置きながら、チベットへの中国軍の侵略という歴史のうねりを大きく描いている。虫も殺さぬ、とはいうが、映画ではチベットの人々が土を掘るとミミズが死んじゃうと訴える。これは実際にあったことなのだろう。浮き世離れしていると見るか、案外似たような感覚が私たちにもあるように思うか。
この映画のみどころはチベットの風物だろう。良家のお坊ちゃんみたいなダライ・ラマ役の少年も爽やか。ただハラーという人の性格がいまひとつ分からない。人づきあい(妻とも)があまりうまくない、孤独好きで利己的な登山家タイプといえばいいのか。しかし、チベットの仕立屋の若い女性が寸法を取りに来るシーンの嬉しくてたまらなそうなダンディなにやけかた。これはとてもそういうタイプの人とは思えない。思わず地が出たような自然な演技。。
「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(監督 ジャン・ジャック・アノー 出演 ブラッド・ピット デビッド・シューリス 97年 米)
99.6.1
「愛しすぎて 詩人の妻」(原題 TOM & VIV )
時は第一次大戦中。英国オックスフォード大学で反戦教授ラッセルに師事していた詩人学生トムと勝ち気なビビアンは恋におちて駆け落ち同然の婚前旅行に出発。トムはアメリカ人留学生で、奨学金で暮らしている身分だが、ビビアンは上流階級の娘。当然彼女の家族は吃驚するが、そればかりでなく、ビビアンは、人に言えぬ難病をかかえていた。この二人、愛し合って順調に結婚するが、しだいに詩人として有名になってゆくトムと、生理的な変調からくるアンバランスな行状のために、周囲から変人扱いされるビビアンとの間の溝は深まって行く。
ノーベル賞詩人T.S.エリオットの半生を、彼の最初の伴侶ビビアンとの不幸な夫婦生活に重点を置いて描いた映画。原作があるという話なので、かなり真実味があるが、有名な「荒れ地」という詩集の題名、ビビアンが考えたとは。。。ビビアンの奇病は脳下垂体のホルモン異常ということらしいが、躁状態のときには自己制御できなくて、奇矯な行動に及ぶ。結婚は破局を迎え、ビビアンは精神病院に強制入院、以降は隔離され、エリオットは見舞いにもいかず10年音信不通のまま47年にビビアンはそこで病死。それでも彼女は一途にエリオットを愛していた、というのが、この映画の切ない愛のテーマなのだが。
エリオットの実像近く描いているかどうかはともかく、内気で文学に没頭にしていた貧乏なエリート留学生が、資産家の娘と結婚して、彼女の親のこねで英国社会にもとけこみ、文学的な名声も得る一方で、一種家庭内離婚みたいな殺伐とした夫婦生活を営むことになる。そのプロセスや、そういうエリート人間によくありそうな性格的な冷たさや上辺だけの取り繕いをよく描いていて、それはそれで納得できる映画。性格穏和なビビアンの弟(ティム・ダットンが好演)を配することで、しょせんはエトランゼである主人公の終始緊張している隙のなさ、抑圧的な感じがよく浮き彫りにされていると思う。しかし言うもせんないが、この夫婦、妻の行状の異常は病によるものだと割り切って二人して立ち向かえなかったものなのか。
「愛しすぎて 詩人の妻」(監督 ブライアン・ギルバート 出演 ウィレム・デフォー ミランダ・リチャードソン ティム・ダットン 97年 米)
99.5.29
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「羊たちの沈黙」(原題 THE SILENCE OF THE LAMBS )
FBI訓練生のクラリスは、若い女性を殺した後に皮を剥ぐという異常な手口の連続女性誘拐殺人事件の捜査に加わり、犯人像のヒントを得るために、やはり凶悪な連続殺人犯として監禁中の元精神科医レクター博士に面会するが。。
殺人事件を捜査する俳優に感情移入しながら、ときに推理を働かせて見るというのが普通の刑事探偵物映画なら、この映画は、監禁中の凶悪な犯罪者に推理のお伺いをたてるというのが変わっている。そのため、否が応でも見る側の注意が、彼の動静に振り向けられる仕組みになっているのだ。若いFBI女性捜査官の卵と、老練な殺人鬼の心理的なかけひきにたっぷりと時間を割いて、これ以上ないというストレスを味あわせてくれる映画。レクター博士の造形には実際のモデルがいるらしいが、不気味な拘禁衣や、檻のなかでグールドの弾くバッハのカセットを聞きながら、脱獄を楽しむ様子など、一度みたら忘れられない(二度見たが)。。。
トマス・ハリスの同名原作小説にも拮抗しているのではないだろうか。ジョディ・フォスターはいうに及ばず、演技陣が充実。シートに座った後ろ姿の首筋でも演技している(ようにみえる)、スコット・グレンも渋い。アカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞。ベルリン映画祭監督賞。
「羊たちの沈黙」(監督 ジョナサン・デミ 出演 ジョディ・フォスター アンソニー・ホプキンス スコット・グレン 91年 米)
99.5.8
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「フラート」(原題 FLIRT )
半年位恋人とつきあっていたが、その相手が3ヶ月ほど仕事で外国に旅立つという日のこと。渡航先の国には相手の昔の恋人が待っていて、おそらく二人はよりを戻すだろう。それがわかっていながら、ひきとめられない。実は自分にも別の不倫相手がいるのだ。しかし、旅立つまえに恋人から自分たちの未来についての気持ちが知りたいと言われ、心はゆれる。一時間半後に返事をすると言って、「私」はもっかの不倫相手に電話をかけて、会うために出かけて行くが、そこには嫉妬に苦しむその相手のパートナーがやってきて、拳銃を持ち出す。
この地球上で今もどこかで演じられているかもしれない恋愛模様の一場面。このショートストーリーがおなじセリフで、配役と人種と性別と、その背景になる都市をかえて、3度異なるバリエーションでくりかえされる、という趣向をこらした実験的な映画。場所はニューヨーク、ベルリン、東京。主人公は男性だったり女性だったり、ゲイだったり。同じシチュエーションでありながら結果が違うのが映画の見所と、第3話の日本編にも出演している監督は言う。。
面白い試みだと思うが、成功しているかというと、難しいところ。ニューヨーク編ができがいいが、後は役者の演技が総じてぎこちなくて、白塗り前衛舞踏家も登場する日本編はとくに不自然。フラートという言葉、いい加減とか、いろいろ訳されているのが面白い。
「フラート」(監督 ハル・ハートリー 出演 ビル・セイジ パーカー・ポージー 永瀬正敏 95年 米=独=日)
99.5.4
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「O侯爵夫人」(原題 DIE MARQUISE VON O )
フランス革命直後の、北イタリアのMという都市のカフェ。新聞に不思議な広告記事が載っているのを男たちが回し読みしている。身に覚えもなく妊娠したO公爵夫人が、自分を妊娠させた男を探しているというのだ。O公爵夫人といえば、戦争で夫を失い、二人の子供とともに、当地の元司令官だった父親の邸に身を寄せているはず、と噂話は続く。。。
身に覚えのない妊娠という事実に驚愕する夫人、彼女を愛していながらも、そんな奇跡のようなことが起こる筈がないと、彼女を義絶同然にしてしまう両親。そこにかって彼女が兵士に襲われそうになった時に救い出したロシア人将校の求愛事件がからんで。。ロメール作品の特徴で、例によって葛藤をはらんだ饒舌な会話が延々と続くが、古典劇を見るようで楽しい。いかにも劇的なセリフまわしは、原作のクライストの短編小説を、忠実に再現したというせいかと。
この映画の特色は、やはり場面描写の魅力。フェルメールの絵画を思わせるような美しさに満ちているのは、室内では蝋燭、屋外では自然光だけによって撮影されたせいと知ってなるほどと。調度品なども見応えがあり、ワンシーン、他の映画(思い出せない)でも見て気になった柄のついた湯たんぽアイロンのようなものが登場します。
カンヌ映画祭審査員特別賞受賞。
「O侯爵夫人」(監督 エリック・ロメール 出演 エディット・クレバー ブルーノ・ガンツ ペーター・リューア 75年フランス=ドイツ)
99.5.1
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「フィラデルフィア」(原題 PHILADELPHIA )
フィラデルフィアの青年エリート弁護士アンドリューは、突然勤めていた法律事務所を解雇される。その表向きの理由は仕事ぶりの怠慢さということだが、実は彼がエイズに罹患していることが会社上層部に発覚したせい。失職したアンドリューは不当解雇の訴訟を起こそうと奔走するのだが、相手がフィラデルフィア最大の法律事務所とあって、おいそれと弁護をかってでる者はいない。そんななかでテレビで人気の黒人弁護士ミラーは彼の熱意にうたれ、弁護をかってでて裁判が始まるのだが、審理中にもアンドリューの健康は日毎に蝕まれていって。。。
エイズによる不当解雇裁判を描いて同性愛者差別の問題にも踏み込んだ法廷ドラマ。フィラデルフィアは、アメリカの建国精神にゆかりある歴史的な都市。その地の最高の法律事務所で起きたエイズや同性愛者差別に基づく不当解雇の事例が法廷で争われるということで、この映画の表題、とても象徴的な意味がこめられているように思える。弁護を引き受けた黒人弁護士ミラーの逡巡や葛藤、彼をとりまく周囲の対応や視線の変化に代表されるように、いろいろな立場からの言い分をはさみこんで、問題がとても根の深いものであることを示しながら、告発調に終わっていない。トム・ハンクスの熱演もいいが、アンドリューの病床に集まる親族や、彼の死後のホームパーティに集まった親族友人たちの様子を淡々と映しだすラストの長い描写にこめられたメッセージをどんなふうに読みとるか。
トム・ハンクスがアカデミー主演男優賞、ベルリン映画祭主演男優賞。アカデミー主題歌賞(ブルース・スプリングティーン)
「フィラデルフィア」(監督 ジョナサン・デミ 出演 トム・ハンクス デンゼル・ワシントン ジェイソン・ロバーズ メアリー・スティンバーゲン アントニオ・バンデラス93年アメリカ)
99.4.27
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「ボディ・バンク」(原題 ENTREME MEASURES )
ニューヨークの病院の緊急医療室で働いていた英国籍の若い医師ガイは、ある晩不可解な症状の患者を担当する。介抱のかいなく患者は突然死。死因に疑念をもったガイは、新種のウィルスを疑って調査をはじめるが、ホームレスだったらしい患者のデータは消えていて、そのうえ上司からは調査をやめるように忠告される。さらには、何者かにしくまれて麻薬所持の容疑で逮捕され、そのため医師の資格も剥奪されてしまう。保釈されたガイは手がかりを求めてホームレスたちの住む地下道へと向かうが。。
種を明かしてしまうと、事件の背後にあったのは、おおがかりな医師たちの実験プロジェクトで、彼らはホームレスたちを実験材料にして、脊椎損傷から生じる全身マヒを治療する研究を手がけていた、というもの。その組織の研究の中心には神経外科の世界的権威がいる。それにしても何故ひとさらい人体実験をする研究組織にスタッフが集まっているかというと、スタッフたちの多くは、それぞれ身内に障害者をかかえている、という設定になっている。つまり悪いと知りながら近親者のために人倫を踏み越えた人々というわけだ。主人公ガイの信念は、まっすぐな正義感。しくまれたトリックで、ガイが半身不随になったと思いこまされて絶望するシーンがあるが、そのとき治るためなら、どんな代償を払う気があるかと問われる。。思わず「何でもします」と言ってしまったガイのその先の行動はストーリーではうまく回避されて、正義が勝つようにできているが、このシーン、聖書だったらさしずめ悪魔の誘惑というところで、娯楽映画としての制約のなかで、よくできたピークをつくっていると思う。
ヒュー・グラントが初めてサスペンス映画に出演。役もイギリスからやって来ている医師ということで、無理がない。非協力的な検死官に「ただ無能なだけかと思ったら、陰湿ですね」と凄い嫌みを平然というシーンがある。このセリフ、青年エリート医師のいかにもな英国風しんらつ生意気感覚を表していて味わいがあるなあと。
「ボディ・バンク」(監督 マイケル・アプテッド 出演 ヒュー・グラント ジーン・ハックマン サラ・ジェシカ・パーカー 96年アメリカ)
99.4.24
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「ザ・ロック」(原題 THE ROCK )
米海軍の将校ハメル准将が部下を率いて海軍兵器庫を襲撃して神経ガスロケットを強奪。現在では観光地になっている監獄島アルカトラズに観光客を人質をとって立てこもった。要求は一億ドルで、のまなければ40時間後にサンフランシスコにロケットを発射すると米国政府を脅迫する。そこで、FBIの化学兵器の専門家グッドスピードと、アルカトラズの地下道に詳しい元英国諜報員メイソンをメンバーに加えた海軍の特殊部隊が同島に潜入するが。
ハメル准将はベトナム戦争などで武勲の誉れ高い英雄的軍人で、彼の一見無謀な米国への反逆行為は、これまで軍の上層部がいろいろな軍事作戦での失敗を公表せず、遺族への補償もしてこなかったことに怒っての義憤にかられての行動、ということになっている。つまりそれなりの理をもった熱血軍人たちのクーデターみたいなところがある。この設定は軍の秘密主義に対する国民の不信や遺族会の不満を代弁しているようで、ちょっと面白いと思った。しかし考えさせるのはそこまでで、この映画全体は何も考えなくていい派手な乱闘シーンを満載した徹底した娯楽アクション映画。こわいのはぷよぷよした丸い寒天みたいな薄緑色をした神経ガスの塊。それが数珠繋ぎになってるのだが、あの形状、まったくの空想の産物だろうか。それとも本当にああいう形状をした神経ガス兵器があるのだろうか、気になる。
3人の主演俳優が、それぞれの持ち味を出していて楽しい。老いた元英国諜報員メイソンの前歴は007ではないのだろうか、と思わず思うタフガイぶり。監督は「アルマゲドン」のひと。
「ザ・ロック」(監督 マイケル・ベイ 出演 ショーン・コネリー ニコラス・ケイジ エド・ハリス 96年アメリカ)
99.4.20
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「奴らに深き眠りを」(原題 HOODLUM )
1930年代、ニューヨークのハーレムでは不況のあおりをくってナンバーズ賭博が流行。賭博の元締めは、クイーンと呼ばれる初老の黒人女性だったが、賭博のあがりに目をつけたダッチ・シェルツ一家が、しま荒らしに乗り込んでくる。そんなおり二年間の服役を終えて出所してきたバンビーという黒人が、逮捕されたクイーンの後釜を引き受けてダッチに立ち向かったことで、事態は血みどろの抗争に発展していく。
バンビーは黒人のゴッドファーザーと呼ばれた人物というので、実話に基づいているもののよう。
派手なギャングたちの抗争を描いたやくざ映画には違いないが、やはり90年代の作品だなあと思わせるのは、当時の黒人差別の風潮をあちこちにおりこんだうえで、ハーレムの利権を残忍な白人ギャングの手から守る孤独なインテリ黒人(詩を書く!)のギャングスターを一面英雄のように描いているからだ。もちろんギャング同士の利権を巡る抗争に人種問題を単純にオーバーラップさせているわけではなく、暴力の残虐さ非道さを訴えるような仕組みになってはいるが、そういう周囲の非難に沈黙で答えるバンビーのするどい目のアップで映画は終わる。
ローレンス・フィッシュバーンの存在感は独特。ティム・ロス演じるダッチ・シェルツは、凶暴で短慮で、すぐきれてしまう男に描かれているが、実際こんな人でもボスになれたのだろうか。人望がすごく薄そう。。。ガルシアは貫禄。
「奴らに深き眠りを」(監督 ビル・デューク 出演 ローレンス・フィッシュバーン ティム・ロス アンディ・ガルシア 97年アメリカ)
99.4.17
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「眺めのいい部屋」(原題 A ROOM WITH A VIEW )
英国の上流階級の娘ルーシーは、従姉のシャーロットと共に観光旅行でフィレンツェへ。予約してあったペンションの部屋の窓の景色が悪いと嘆いていたところ、部屋の交換を申し出てくれたのがエマソン親子。やがてルーシーは市内を見物中に、喧嘩の現場を見て失神し、偶然エマソンの息子ジョージに助けられたことで彼に好意を抱く。そんな経緯で親しくなった宿の客たちはフィレンツェ近郊へのピクニックに行くが、そこでジョージがルーシーに突然キスをする。それを見つけたお目付役シャーロットがあわてて、旅行を中断して二人は急遽帰国。淡い恋の芽生えはいったん幕となるが。舞台は英国に転じて。。
前半のフィレンツェでの観光シーンが美しい恋愛映画。そのことがよく話題になるが、この映画の特徴はやはり性格描写。口で言わず身振りで相手に思うところを察知させようとするシャーロットが一番おかしいし、貴族趣味の唯美主義者みたいなルーシーの婚約者もおかしい。別に皮肉られてはいないが、最初はベートーベンばかり弾いている箱入り娘の主人公ルーシーも、バイロンかぶれの自然主義者のジョージも、人の良い牧師も、男まさりのジョルジュ・サンドみたいな女流小説家も典型的な造形。みなそれぞれが人間的な弱点を抱えながらも個性的な存在として暖かく描き出されていて、映画に爽やかな印象をもたらす出来映えになっているかと。
フォスターの原作の小説の映画化。アカデミー脚色賞、美術監督装置賞、衣装デザイン賞を受賞。
「眺めのいい部屋」(監督 ジェームズ・アイボリー 出演 ヘレナ・ボナム=カーター ダニエル・デイ=ルイス マギー・スミス ジュリアン・サンズ 86年アメリカ)
99.4.13
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「フェイク」(原題 DONNIE BRASCO )
1978年、おとり捜査官として宝石鑑定人を装い、ニューヨークのイタリアン・マフィアの組織末端に入り込んだピストーネ。やがて彼を気に入って家族同然に面倒を見るようになったうだつのあがらない初老のやくざレフティとの友情がめばえてゆく。
家庭を犠牲にして、おとり捜査官という特殊任務に携わる青年のハードな二重生活が描かれている映画。イタリアン・マフィアの家族主義みたいな共同生活ぶりは日本の同業者に似ていて、マイアミの砂浜で無邪気に遊ぶシーンなど、北野武監督の「ソナチネ」のワンシーンとほとんど地続きの感じ。
この映画のみどころはやはりアル・パチーノの渋い渋い演技。失策を演じたあとで、ボスから個人的に呼び出しがかかれば死を意味するが、それでも高価な装身具などは体から外して家族に内緒にそっと家を出て、組織の掟に従順に従うシーンなど、義理に殉じる美意識はどこも変わらなくてあわれ。
おとり捜査官ジョセフ・D・ピストーネの回想録に基づく映画だという。ピストーネは今でもマフィアから高額の懸賞金をかけられ、家族と偽名で暮らしているというから恐ろしい。
「フェイク」(監督 マイク・ニューウェル 出演 ジョニー・デップ アル・パチーノ アン・ヘッシュ 97年アメリカ)
99.4.10
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