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走り書き「新刊」読書メモ(10)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(99.4.10~8.14)

 松山巌『日光』 瀬戸内寂聴+齋藤慎爾『生と死の歳時記』 チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』
 出口裕弘『帝政パリと詩人たち』 吉本隆明『少年』 西村肇『見えてきたガンの正体』
 林道義+小浜逸郎『間違えるな日本人!』 オリヴァー・サックス『色のない島へ』 下田治美『やっと名医をつかまえた』
 吉沢久子『ひとり暮らしのおいしい食卓』 平野啓一郎『一月物語』 さそうあきら『神童』(1〜4)
 斉藤美奈子『あほらし屋の鐘が鳴る』 小谷野敦『もてない男』 吉田敦彦『水の神話』
 吉本ばなな『ハードボイルド/ハードラック』 谷山浩子『浩子の半熟コンピュータ』 阿部謹也『日本社会で生きるということ』
 吉福伸逸『流体感覚』 池田晶子『魂を考える』 平野啓一郎『日蝕』
 吉本隆明『匂いを読む』 大野晋『日本語練習帳』 吉本隆明『詩人・評論家・作家のための言語論』
 姫野カオルコ『整形美女』 ☆フレデリックL・ショット『ニッポン・マンガ論』 水上勉『電脳暮し』
 吉田知子『箱の夫』 竹田青嗣『プラトン入門』 町沢静夫『わたしの中にいる他人たち』


松山巌『日光』(1999年7月1日初版第一刷発行・朝日新聞社)は、長編小説。月刊誌「アサヒグラフ」に98年中に毎月連載されたものが初出。「荒唐無稽」、「ドタバタ喜劇」というのは帯の紹介文にある言葉だが、なるほど読んでいて、思わず藤枝静男や筒井康隆の小説を連想するようなところがあった。でも野心的に仮構性を追求した文学作品という感じはあまりしなくて、作者のうちでは、むしろ重心の低い生活者的な視線を溶かし込んだ感受性の文体がベースになっていて、そこからどこまで「文学」という気圏を突き抜けて遊べるか、という試みなのかもしれないと思った。「ハムレット」のセリフというつなぎを縦糸に、千姫や藤村操やフランケンシュタイン(もどき)の登場跋扈するストーリーに、読者は、ほとんど予想できない意味や場面の唐突な転換にふりまわされる仕組みになっていて、ふりきられるか、ついていけるか、というぎりぎり体験をせまられる。後半の日本の民話をベースにした破壊的な記述はなんというべきか。私はふた晩かけて読んだが。しかし出だしや最後と中身とは、すごい落差だなあ。


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瀬戸内寂聴+齋藤慎爾『生と死の歳時記』(1999年7月1日初版第一刷発行・法研)は、ちょっと変わった体裁の俳句の歳時記(詞華集)。共著者である深夜叢書社編集長で俳人の齋藤氏が、ページレイアウトに趣向を凝らしたもののようで、一ページの中に、俳句六句、瀬戸内さんのエッセイから抜き出された文章、それに齋藤氏の蘊蓄あるコラムのような小文が配されている。それらに共通しているのが、巻末に「生と死のキーワード」として網羅収録されている言葉。つまり、同一のキーワードについて、俳句的、エッセイ的、コラム的と、いろいろ違う味わい方ができるように工夫されているのだ。読んでみると、同じ言葉がテーマになっていても、とりあげ方が違うと、そのつど頭の切り替えをしなくてはならず、予想外にくたびれる。もっとも、それは私のように図書館から借りて焦って読むからで、手元に置いて少しずつじっくり読む「歳時記」としては、そんな心配は無用かと思う。宮沢賢治、谷崎潤一郎、三島由紀夫、太宰治など文人の句も収録されているのも、この種のアンソロジーでは新趣向という。。


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チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』(1999年6月30日初版第一刷発行・講談社)は、日記。94年に73歳で亡くなった著者の、晩年期にあたる90年代に書かれた日記33日分が集められている。内容は日記という体裁をとりながら思いに浮かぶままを書き連ねたエッセイという感じで、小話小説風あり、思弁思索風あり、辛辣悪態風あり、懐古回想風あり。何度も自分の老いを話題にする箇所がでてくるが、そうでなければ、とてもこれが70を過ぎた人の文章とは思えないほど、活力にあふれている。対象の輪郭を暖かくて大きな手でがっしり捕まえるような、生活感溢れるこういう文章の魅力をどういっていいかわからないが、「ものを書く時は、すらすらと書かなければならない。稚拙でとりとめのない文章になってしまうかもしれないが、言葉がすらすらと流れ出ているのであれば、書く喜びから生まれる勢いがすべてを輝かせてくれる。」という日記の一節そのものが、読後の印象に重なる。晩年も競馬場通いを日課とした筋金入りの酒飲み詩人は書いている。「朝の六時にしゃんとしてものを書ける者など誰であれユーモアのセンスを持ち合わせているわけがない。そういう人間は何かを打ちまかしたいと思っているのだ。」


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出口裕弘『帝政パリと詩人たち』(1999年5月25日初版第一刷発行・河出書房新社)は、詩人論集。19世紀末のフランスをあたかもバトンタッチするランナーように駆け抜けた3人の天才詩人たち、ボードレール、ロートレアモン、ランボーが章別に論じられている大冊。注意したいのは、この本がかって出版された同著者の『ボードレール』(69年紀伊国屋書店刊・83年新版小沢書店刊)、『ロートレアモンのパリ』(83年筑摩書房刊)という2著と、新たに書き下ろされたランボー論との合本であるということ。分量にして8分の1ほどのランボー論だけが純然たる書き下ろし。前二著を持ってる人は(私は持ってるが)、図書館から借りて読もう、といえば怒られるかな。初めてという人は(もちろん、扱われている詩人たちや帝政期のパリに興味があればだが)、是非買って読むと楽しいと思う。4800円もするが、3冊分と思えば。。。

 とくに著者の滞仏日記をかねた『ロートレアモンのパリ』は、愛読して、「きまぐれフランス旅日記」の冒頭にも引用させてもらった。この本、今では入手しにくくなってるかもしれない、と思っていたので、こうした形で新装出版?されたのは嬉しい。書き下ろしのランボー論からは、著者が詩人の作品と、長い間じっくり親密に向き合って読み込んできた感じがよく伝わってくる。


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吉本隆明『少年』(1999年5月31日初版第一刷発行・徳間書店)は、インタヴューをもとに書き起こされた少年期の回想記で、後半は現代の教育問題や少年犯罪、援助交際といったテーマについても触れた社会批評的な色彩の濃い文集になっている。「初期ノート」を初めとして、これまで公表されてきた著作の端々から、おりにふれて窺い知ることのできた著者の少年期(時代的には昭和10年代)の様相を、系統立てて語りおろした文章と言えると思う。前半は、追憶のまとう豊かな抒情性と、少年期に固有な感受性の意味合いを論理的に対象化しようとする批評性が溶け合って、例によって、独特というしかない艶を帯びた表現世界が形作られている。後段の、現在への社会批評的な発言との折り合いの難しさ。。。思うに、戦争期、戦後期を挟み込んだこの間にはとてつもない「少年期」をめぐる社会的な価値観の変動や亀裂が横たわっているのだ。にもかかわらず、そういう体裁をあえてとったところに、著者が本書にこめたい現代的な意義のようなものを読みとることができる気がする。。


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西村肇『見えてきたガンの正体』(1999年5月20日初版第一刷発行・ちくま新書)は、医学啓蒙書。どういっていいのか分からないので、そう書いたが、本書は架空の読者との質疑問答をかりた形式で、とても読みやすく、最先端の現代医学のガン理解についての輪郭を伝えてくれる内容になっている。「メタファーによる理解」という手法を著者はとっていて、要するにたとえ話が効果的に随所に登場するのが本書の特色。分かり易いと言えば分かり易いが、それをいざ要約しようとすると何も思い出せなくて困難をきわめる(^_^;)。。。自分の任務を放棄して、ひたすら増殖だけを続ける集団暴走族としてのガン細胞。これがどのように発現するか、その仕組みはどうなっているのか。ここ20年位の間の研究で分かってきたことが山ほど紹介されていて、目が覚める感じ。遺伝子複製の時の1個の読みとりミスで、ガンが起こるとされていた定説が覆されたというところなど、ううむと。正しくは5個ミスが繰り返されないとガンにならないという。その解説は、本書に。。。。


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林道義+小浜逸郎『間違えるな日本人!』(1999年6月30日初版第一刷発行・講談社)は、対談集。「戦後思想をどう乗り越えるか」という副題がある。とくに両氏のこれまでの著作に関心のあったひとには、いろんなふみこんだ発言があって興味深く読めると思う。私が驚いたのは、ユング思想の研究者として著名な林氏が、はじめて公にというか、ご自分の青年期からの政治・思想的な遍歴を開陳されているということ。60年安保の時、全学連中央執行委員会の組織部長だったということなど、まったく知らなかったことだったので、ううむ、とうなってしまった。それはともかく、対談者の小浜氏ともども、そうした青年期の政治思想体験を披瀝しあって、60年安保、全共闘運動の、時代的な意味合いの検証・総括を試みるというところから始まって、対談は、宮台真司氏の発言、フェミニズム、吉本思想、小林よしのり『戦争論』など、いわゆる「戦後思想」を批判吟味するという流れを経て、未来への展望というテーマで終わる。扱われているテーマについて、それぞれ著作もあり、各種論争もされていて、本書もその反映という色彩が濃いので、この本だけ読むと一方的になる気がするが、思考の結論よりその道筋(意見をつくるまでの方法論)が大切(林氏)であり、不毛に流れない生産的な議論の場の構築が肝心(小浜氏)だとする指摘に共感。


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オリヴァー・サックス『色のない島へ』(1999年5月20日初版第一刷発行・早川書房)は、ミクロネシア探訪記。帯には医学エッセイともある。ミクロネシアの島民に多く発現するという先天性全色盲、原因不明の神経病に関心をもった脳神経科医が、実際に島を訪れて書き留めた旅行記録。先天性全色盲というのは劣性遺伝によるもので、普通10万人にひとり位しかみられないが、閉じた共同体などで、保因者同士が結婚する確率が高くなると、比率は増加する。そういう地域が世界にふたつあり、ミクロネシアのピンゲラップ島はそのひとつ。色というものがなくて、黒から白に至る明度の変化だけがある世界。この旅行記は、そういう世界を生きる人々の心が、色付き世界からは体験できない別の豊かさ(通常の視力では判別できない模様の織物!)に満ちていることを教えてくれる。他にも、海上の巨石建築ナン・マドール遺跡や、幻覚作用のあるシャカオという飲み物の話など印象的で、生き生きした自然描写も素晴らしいと思って読んでいたら、この著者、デニーロ主演の感動映画「レナードの朝」の原作者なのだった。「レナードの朝」にも似た症状が登場するが、後半の旅にでてくる、原因不明の神経症(筋萎縮性側索硬化症とパーキンソン病、痴呆を加えた複合的な疾病という)の患者が多いのは、グァム島。この島の悲惨な歴史には日本軍の占領期も含まれていて、記述はほろ苦くて重たい。


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下田治美『やっと名医をつかまえた』(1999年4月25日初版第一刷発行・新潮社)は、闘病記。深夜、頭痛が始まる。原因は先刻一人でワイン二本を空けた罰で、当然二日酔いだろうとは思いはするが、それにしては、症状がどうもひどい。二時、三時と時間は過ぎて行き、とうとうこらえかねて、救急車を呼ぶことに。。。そんな出だしから始まって、最終的に自分(たち)で探し当てた病院で「未破裂動脈瘤クリッピング手術」を受けるにいたった、著者の77日にわたる闘病生活が描かれている。自分がいかに病気と闘ったか、医者はいい人ばかり、という闘病記は沢山あるが、著者が闘ったのは、むしろ現代の医療現場の非人間的なシステムや、ろくでもない医者やナースたち、そして、気後れして、医者の前で言いたいことが言えない、自分の中の「弱い患者という立場」、というのが、この本の読みどころ。手術日の直前に入院していた病院から逃げ出す場面や、その後もめげずに、友人たちとチームを組んで、名医(執刀医)を探す経過など、この著者の決断力や、非常事態に向き合う真剣さ、 子育てエッセイ時代と変わらないのが頼もしい。巻末に医師ふたりの読後感想対談も付す。


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吉沢久子『ひとり暮らしのおいしい食卓』(1999年3月10日初版第一刷発行・講談社)は、料理エッセイ集。気楽に読めるからといって、こういう本をベッドで寝しなに読むと大変なことになる。おいしそうな料理の描写に空腹感がつのって、深夜ついつい冷蔵庫を開けてしっけていないクラッカーなど探し回る(誰かの詩みたいだが)はめになるのだ。著者は80代の方で、本書では夫君に先立たれた後の独り暮らしの食卓にのぼる気取らない料理の数々が紹介されている。年齢を重ねると食が細くなると言われるが、著者は健啖家。時々外出先で、カレーや豚カツなど無性に食べたくなる、というのが、なんだかうれしい。庭で育てた香草を使ったり、旬の野菜に目を配ったりと、ちょっとした工夫で、毎日の料理を楽しむヒントが満載。読み終わった人は、マヨネーズと蜂蜜をあえたドレッシングをかけたフルーツサラダや、お酒の友のごぼうチップス、さっそくつくってみよう。


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平野啓一郎『一月物語』(1999年4月15日初版第一刷発行・新潮社)は、小説。舞台は明治三十年奈良県の十津川村の往仙岳山中。神経衰弱の養生の目的で、東京からやってきた青年詩人、井原真拆は、迷い込んだ山道で毒蛇に足を噛まれて気を失うが、通りがかった老僧円祐に介抱されて、傷が治癒するまで、円祐の棲む山寺の小屋に逗留することになる。病の癒えはじめた真拆に、円祐はライ病の老婆が住むという離れの小屋にだけは近づかぬように言うのだが。。。

 旅先で青年が数奇な出来事に巻き込まれるというストーリーの枠組みは、前作『日蝕』とよく似ている。主人公の造形には、北村透谷を借りたことが、作品で語られる真拆の経歴や、「情熱」という言葉を案出したというエピソード、透谷の後期の詩を連想させる「蝶」のイメージの配し方などでわかる。劇詩『蓬莱曲』のエッセンスも投影されていると思えるが、当然ながら透谷その人の思想詩人的な面影はさっぱり削られている。なんというか影の薄い青年が、夜毎みる美女の夢と現実の境を彷徨うような話ということもあるが、老僧円祐にしても読んでいて年齢を感じさせないのはちょっと不満。興味は、やはり凝った地の文体や語彙のきらめきにある。ある古典的なイメージを伝えたいために、古語みたいな言葉を使うという趣旨はわかるが、それが、おそらく別の効果も生んでいて、文章に不思議な緊張感や弛緩、由来の知れないつっぱった雰囲気をつくっているのだと思う。


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さそうあきら『神童』(1〜4)(1998年6月28日~9月28初版第一刷発行・双葉社)は、全4巻のコミック。菊名和音(かずお)は名門音楽大学のピアノ科をめざす受験生。そんな彼が気晴らしに公園でボートを漕いでいて、野球ボールを探しに来た小学5年生の少女成瀬うたと知り合う。帰り道、ものおじしない現代っ子のうたは、和音の部屋にあがりこんで、即興でピアノを弾くが、その音色の美しさに感動した和音は、うたに弟子入りすることを決心して。。。ピアニスト志望の茶髪の現代青年と、英才教育ママに育てられたピアノ弾き天才少女コンビがおりなす騒動を描いたハッピーな青春音楽マンガ。絵柄も爽やかでストーリーにも起伏があって、思わず一気に読めてしまう。さらりと描いているようで、ふたりの生活環境や音大生の学生生活ぶりなど、背景がしっかり書き込まれているので、ひっかからずにすらすらとストーリーに専念できるのが楽しい。最近のマンガ読み体験のヒットです。手塚治虫文化賞優秀賞、文化庁メディア芸術祭優秀賞受賞作。


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斉藤美奈子『あほらし屋の鐘が鳴る』(1999年2月1日初版第一刷発行・朝日新聞社)は、軽快なエッセイ集。96年から98年にかけて、雑誌「pink」、「uno」、朝日新聞夕刊「ウォッチ文芸」に掲載された文章がもとになっている。それぞれ、掲載誌・紙の性格にそって、きれいにかき分けられているのが特徴。「pink」掲載のものは、毎回、特定の女性誌を取り上げて、その特色や履歴をまとめて、面白おかしく紹介した文章。「uno」連載のものは、その時々の文化風俗社会現象というか、いわゆる話題性のあるテーマを取り上げて、その底にある「おやじ文化」の延命回路のあほらしさを指摘批判するもので、このつっこみ、毒舌ぶりが過激でとてもおかしい。朝日新聞初出のものは、毎月3冊のおすすめ本の紹介をするという、簡潔なブックガイド。それぞれ色合いが違うのだが、底に流れるのは権威的な言説を嫌う柔軟なものの見方。でもただ撫で切りというわけではない。著者はかの『妊娠小説』の作者。女性誌の中で「セイ」のスタンスを評価してるひと、といえば、雰囲気が伝わるのかな。


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小谷野敦『もてない男』(1999年1月20日初版第一刷発行・ちくま書房)は、エッセイ集。最近書評で読んで面白そうだと思って求めたら、もう第七刷。それだけ好評の本なのだろうが、書店の平積みの台から本を取るときに、周囲の女性と目が合わないかとふと気になる本。「エッセイ集」と記したのは著者あとがきによるが、内容は「研究か評論か啓蒙書か」ともいうように、テーマを特定した文芸批評といった感じ。特色は、あくまでも「もてない男」の立場から、童貞とか自慰とか、恋愛とか、嫉妬、愛人、強姦といったタブー含みの「男性問題」?を正面から論じたところ(従ってフェミニズム思想とも、しっかり向き合っている)。著者のいう「もてない」とは好きな(理想の)女性にもてない状態であって、女性全般にもてない状態を指すわけではない、と聞けば、なんだ、そういうことならほとんど誰でも当てはまりそうという感じになる。学者仲間の楽屋おちみたいなところもあるが、「もてない男」を自認する著者の「法界悋気」ぶりは、結構徹底していて楽しく読んだ。各章の末尾には、関連書が挙げられていて、その章のテーマに興味のあるひとには便利。


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吉田敦彦『水の神話』(1999年6月5日初版第一刷発行・青土社)は、民俗学、神話学系の研究誌に初出発表された文章に、加筆された論稿集。著者は比較神話学の研究者で、著作も多数。本書には文献や世界各地の伝承から採られた、水に関連した神話伝説が多数収録されていて、その類似性や、差異をつぶさに確かめながら読み進むことができる。比較神話研究の方法論的な枠組みがどうなっているかというより、人類のつくりあげた水に関わる多様な神話世界を並列したダイジェスト版という興味で楽しく読める。深く知りたいひとは、さらに研究書の世界へどうぞという感じ。なかでは「『高野聖』の中の水と母神」(1の第3章)という論稿だけが、近代の日本の文学作品に言及したもので、ちょっと変わっている。それは、泉鏡花の小説『高野聖』に登場する森の中の「狐家の女」を、後期旧石器時代にヨーロッパで作られた「ヴィーナス像」をはじめとする、いわゆる「大地母神」のイメージに重ねてみるという試み。著者によれば、それを繋ぐのは泉鏡花の「激しい亡母追慕の念」ということだが、それにしてもスケールの大きな話。心理学者のユングが自分の夢の中に見いだして驚き、後に元型や集合無意識といった考え方へと発展させていった、神話的な形象のエピソードに通じるものがあるかと。


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吉本ばなな『ハードボイルド/ハードラック』(1999年4月26日初版第一刷発行・ロッキング・オン)は、短編小説二本組。単身で山深い僻地に旅行して、当地のホテルに泊まった「わたし」が、かって一緒に暮らし、若くして事故死した女友達の思い出を回想しながら、そのホテルで心中自殺した女性の幽霊に遭遇するという、怪談みたいな出来事を描いた「ハードボイルド」。結婚を目前にひかえながら、会社で脳出血で倒れて、意識が戻らないまま徐々に死んで行く脳死状態の姉を、見守る妹の心の葛藤や、新しい恋愛感情のめばえを描いた「ハードラック」。いずれもキーワードは、不条理に人間の関係を断ち切るものとしての「死」。人は愛する人の不慮の死をどんなふうに受け入れ、生きる意欲に繋げてゆくことができるのか。この深刻で暗くなりがちなテーマを、いかに現代を生きる若い女性の生活実感や、本音の部分をそこなわずに、明るくも内実のある文体として潜っていけるのか、というのが、著者のめざしたところと思えて、その試みや感性の広がりにとても共感できる。いつもながら、著者の思いこみの強さ、感受性の深さ、というのが健やかに伝わってきて、とりかえがたい、ばななワールド。。。


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谷山浩子『浩子の半熟コンピュータ』(1999年4月10日初版第一刷発行・毎日コミュニケーションズ)は、エッセイ集。パソコン雑誌「PCfan」に94年1月の創刊号から4年間連載されたエッセイが掲載順に70編収録されている。著者が熱心なファンの多いピアノの弾き語りをするシンガーソングライターで、オフィシャルとは別にご自分でホームページもつくっているひと、ということはなんとなく知っていたが、マイコン時代からはじまるという、そのパソコン歴の長さやパソコンゲーム愛好家ぶりが、これほどのものだったとは初めて知った。エッセイからは、多忙な音楽活動の合間にいかに著者がパソコンライフを本気で愛し楽しんでいるかが伝わってきて、読後爽やかな気分にひたれます。私にはパソコン(テレビ)ゲームに熱中する話が特に楽しかった。ドラクエシリーズで、「ドラクエ3」がとびぬけて偉大なゲームだったという指摘など、なかなか、なまなかなつきあい方でできるものではないと思う。ううむ、これは誘惑だ。。。

GOOで見つけた「谷山さんのホームページ」。。。


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阿部謹也『日本社会で生きるということ』(1999年3月25日初版第一刷発行・朝日新聞社)は、講演集。東日本部落解放研究所、人権問題指導者養成研修会などの主催で行われた講演5本を収録。著者がかって『「世間」とはなにか』(講談社新書)で提起した日本社会の特殊な人間関係のありかたについて、豊富な具体的な例をあげて語られている。日本の社会で実質的に機能しているのは、いまだに欧米人には理解の難しい「世間」という考え方なのに、初等中等教育では欧米と同等の「社会」や「個人」が実現され機能しているかのように教え込まれる。その結果若者はギャップに悩み、「嘘」をかかえこむことで「大人」になることを強いられる。と、著者は言う。
 また一方で、日本の「世間」のもつ排他性、差別性、アミニズムなどをとかしこんだ世界観というものが、中世(キリスト教の「告白」制度浸透以前の)西欧社会のそれにとても相似していると著者は指摘する。ここに、問題の孕んでいる歴史的な根深さがあって、ただ「世間」のもつ暗黒面を強調して批判する立場を著者はとらず、むしろ実生活とうらはらな「個人」主義者的なポーズのもつ欺瞞性に言及する。著者はまた、これから社会(実は世間にだが)にでる若い人たちに、まずそのあり方をじっくり観察して、その中での自分の位置をみきわめ、そのうえで自由に生きる道を選ぶ、という生き方をすすめている。そうすんなりいくかどうか別にして、射程の長い「史学的」な捉え方かと。


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吉福伸逸『流体感覚』(1999年4月15日初版第一刷発行・雲母書房)は、対談集。松岡正剛、見田宗介、中沢新一の各氏とのそれぞれ2本づつ、つごう6本の対談が収録されている。著者紹介を見ると、吉福氏はちょっと変わった経歴の持ち主のようで、ジャズプレーヤーから転じて、トランスパーソナル心理学の研究、セラピー、ワークショップなどにも携わっていたというひと。カプラの『タオ自然学』(工作舎)などニューサイエンス系の本の翻訳や著作も多い。現在ではハワイ在住、サーフィンの振興!に力をそそいでいるという。対談相手はそれぞれ著名といっていい文化人(編集者)や学者(社会学、宗教学)で、対談の内容は心理学や現代思想、宗教思想関連と、多岐に渡っていて、とても一言で言い表せないが、おおきくいえば「自己とはなにか」というテーマを巡ってなされる、現在の諸氏の関心事や、文化的学問的アプローチの情報にあふれたフリートークという感じ。
 本書の構成で面白いのは、3氏との対談が、それぞれ80年代後半と、98年という、ほぼ10年を隔てた時点でなされたものを並列して収録していることだ。その間には神戸の震災とオウム事件に象徴される日本社会の大きな屈折があり、その変化を諸氏がどのように感じ取っているのか、というのが、それぞれかなり忌憚なく語られていて、本書の読みどころのひとつになっている。ところで、後で気が付いたが、本書の帯にも「魂の航海術」とあった。「魂」。。。


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池田晶子『魂を考える』(1999年4月10日第一刷発行・法蔵館)は、「魂」をテーマにした論考。96年10月から季刊「仏教」に連載された文章を中心に、巻末には木村敏、養老孟司氏との鼎談「五感を超えるもの」を収録。私たちは自他の心というものを理解したり説明するために、「たてまえ」では何と言おうとも、どうも2種類の異質のとらえ方をしているのではないだろうか。あるきっかけで、そんな事が気になりはじめた。私の感じでは、「魂」という言葉は、その一方を象徴するキーワードのひとつ。哲学者である著者は、「私は考える」という以前に「(気配を)感じる」ということがなくてはならないはずで、その感じているそのものを指すのに「主体」とも「意識」ともちがって、「魂」という言葉を当てはめるのが適当ではないかと考えつめてゆく。考察は、かって小林秀雄がその批評でくりかえし語ろうとした意味での、ひとの宿命、固有性ということにも及んでいて、とても面白く読んだ。著者の論旨はいつもある種の達観に裏打ちされているところがあって、晴れやかで明快なのだが、では、すんなりと納得できたかというとまた難しいところ。直感と洞察にあふれた言葉の網からも、「魂」はするりと身をかわす。「<魂>を「書く」のが、こんなに大変なことだとは思わなかった。」と著者も書いている。
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平野啓一郎『日蝕』(99年「文芸春秋」3月号)は、小説。既に単行本化もされている芥川賞受賞作品だが、図書館から借りて受賞作発表誌で読んだ。舞台は15世紀のフランス。パリ大学に籍をを置いて神学を学んでいた若いドミニコ派の学僧が、リヨン近在の村で遭遇した数奇な出来事が、一人称主人公の回想のかたちで物語られている。エーコの『薔薇の名前』みたいな舞台設定だなあという感じで読み始めたが、言いたそうなことが分かるようで、すっと入ってこない。クライマックスの前後で、ようやく目が覚めるような感じがしたが、この不透明な壁につきあわされている感じは最後までつきまとった。それは擬古典的な凝りまくった文体のせいかとも思ったが、もっと別の理由があるように思える。「三島由紀夫の再来」というのは、年若く(二十三歳)してこういう作品を書き上げた作者への驚きや賛辞をこめた宣伝文句だろうが、仮構の物語への志向性は共通していても、三島の作品のもつ官能性や独特の美意識はこの作品からは感じられなかった。西欧キリスト教社会が中世末期に直面した深刻な宗教思想上の問題が本気で取り上げられているともちょっと信じられない。著者が「週刊読書人」(5月21日号)のインタビューで語っているように、「『日蝕』で目指したものは、ボッシュとかファン・ダイクに見られるような中世的な、ちょっと偏執的な細密描写です。、、」というのが、今のところ一番ふにおちる答えの感じだ。ともあれ、作品の構築プロセスと文体に相当意識的なひとのようで、これからどんな仕事をされるのか楽しみ。


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吉本隆明『匂いを読む』(1999年4月30日第一刷発行・光芒社)は、「匂い」をテーマにした散文集。香水専門季刊誌『パルファム』に90年から96年にかけて断続連載された文章で、雑誌の主催者平田幸子氏との対談「現代における匂いとはなにか」が巻末に付されている。「匂い」とはどういうものなのか。著者は、万葉集から、おもろさうし、古今集、源氏、正徹、西行、漱石、芥川と、古典や近代文芸作品に現れる言葉としての「匂い」の記述を訪ね、一方で、生理学や心理学などから得られる匂いについての様々な現代的な知見を織り交ぜながら、「匂い」とはなにかを考察する。「匂い」という表現は、かっては「音」や「色彩」といった感覚的体験をもとかしこんでいたり、同一とみなされたりしていた。匂いと味覚(味)ということも、胎児のときの内感覚まで辿ると同じとみなされる時期があったかもしれない。などなど、香水の雑誌掲載の文章なのでそれぞれ短く読みやすいが、内容ははっとさせられる驚きに満ちていて楽しい。対談では、平田氏の香水業界の話や調香師の話など、特殊分野の奥深いこぼれ話が聞けて面白い。著者はたまに微香性のリキッドをつけるそうだが、平田氏によると、香水をいちばんつけない年代の人が、だいたいリキッドを使う年代と一致するという(男性の話)。ふーむ、そうだったのかと。
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大野晋『日本語練習帳』(1999年1月20日第一刷発行・岩波新書)は、日本語の読み書き能力や理解を深めるためのトレーニング本。著者は著名な文法学者(現学習院大学名誉教授)。全体は5章からなり、1章の「単語に敏感になろう」では、「思う」と「考える」という表現では何処が違うのか、またどんな場合に適切と言えるのか、といった具体的な設問が提示されている。2章の「文法なんか嫌い」は、日本語の独特な助詞「は」と「が」の使い分けについて。3章の「二つの心得」は、文章を書くとき、「である」、「が」の濫用は戒めるべきだ、というアドバイス。4章の「文章の骨格」では、文章表現技術を高めるための「縮約」「要約」の練習を実践例とともにあげる。5章の「敬語の基本」では、いかにもややこしい敬語表現についての解説。いずれの章も、自己採点もできるテーマに即した問題つきで、それらを解きながら読みすすめてゆけるという体裁が楽しい。
 ところで、古代人の心性では、他人に対して、「自然のこと、遠いことと扱い、自分はそれに立ち入らない、手を加えていない」とするのが、最高の敬意の表明だったが、それが言語形式のうえに定着されて伝承され、現在にも尊敬語として残っている、とする見解を著者は披瀝している(「敬語の基本」)。これは日本語を生きることが、ある意味で古代的な世界観自然観に直結した(骨がらみの)体験であることを、文法学の側面から照明をあてているようで、とても興味深かく読めた。
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吉本隆明『詩人・評論家・作家のための言語論』(1999年3月10日第一刷発行・メタローグ)は、講演集。メタローグ社主宰の創作学校(みたいなもの)で行われた連続講演が、もとになっていると、あとがきにある。全体は3部に別れていて、それぞれ、「言葉以前のこと」、「言葉の起源を考える」、「言語論からみた言葉の世界」と表題がついている。著者の言語論の代表作といえば『言語にとって美とは何か』、『初期歌謡論』。本書の後半でもそれらの著作で提出された基本的な概念や考え方を、かみくだいて説明した内容になっている。ただ第一部は言語論ということでいえばちょっと異色で、「言葉以前のこと」とあるように、人間の言語習得以前の段階に起源があるとされる「内コミュニケーション」に着目して、個人の成育過程や、広く言えばその生涯変わらない資質が決定される時期の重要性を、教育制度や家庭内暴力の問題などにも触れながら、くりかえし説くという内容になっている。これは、言語論以降の著作で考えつめられてきた著者の現在の思想的な関心のありようをわかりやすく語ったものと言えるだろう。
自己表出性・指示表出性という概念を機軸にして、「韻律、選択、転換、喩をみていけば、すべての文学表現について、(理論的には)よしあしが言えてしまう」という著者の言語の基礎理論が若い人にどう届くのかわからない。興味がある人は是非原著に取り組んで、てぶらで、がりがりと著者の理論につきあってみられるのもいいと思う。


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姫野カオルコ『整形美女』(1999年1月20日第一刷発行・新潮社)は、小説。22歳の繭村甲斐子は身長169センチ、バスト98、ウェスト54、ヒップ94というスタイルで、そのうえ「絶世の美女」。そんな彼女が往年の天才整形外科医大曽根を訪ねて、整形手術を懇願する。彼女の願望は「豆粒のような目、上向き加減の低い鼻、小さな口に、ぽてっとしたほっぺたをもち、バストは小さく、ウェストはくびれず、O脚のの足をもつ」容姿になることで、大曽根に拒否されても独自の「美人化計画」を実行にうつす。もうひとり甲斐子と同郷で幼なじみの望月阿部子という女性。彼女は逆に甲斐子のような容姿になりたいと整形手術をうけて変身する。この二人の対照的な女性の生き方を対比させながら、整形外科業界の内部事情や外科手術の詳細などとともに描いた異色の長編小説。容姿が変わるにつれ化粧も服装も考え方も変わってゆくプロセスの恐るべき心理描写が見事。登場人物男女をとわずどこか戯画化されていて、随所に辛辣な風刺も効いていて楽しい(人の意見をさも自分の意見のように信じ込んで感覚的にこなして喋る男は現代人の典型みたいで傑作)。美容整形を考えているひとは、絶対手術前に読んでみて損はないと思える元気いっぱいの教養小説。
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☆フレデリックL・ショット『ニッポン・マンガ論』(1998年3月5日第一刷発行・マール社)は、「Dreamland Japan」(1996)の翻訳で、日本のストーリーマンガを中心にしたマンガ論集。巻末には小野耕世氏との対談を付す。「過去16年間の日本まんが産業の観察記」というだけあって、この一冊の内容の濃さに驚かされる。もともと日本マンガを知らない(日本という国もよく知らない)英語圏の読者を念頭に書かれたもので、「マイニチ・ディリー・ニューズ」に初出のコラムを焼き直した記載もあるというように、全体の印象は、新聞コラムをテーマ別に集成したような感じで、作家のインタヴューなども含め、事実関係の記載にもよく配慮されていて、独りよがりな思いこみに流れていない。著者は生前の手塚治虫の海外取材などにも同伴した人のようで、すじがね入りのニッポン・マンガマニアという感じ。つげ義春や杉浦日向子、内田春菊、山岸涼子、藤子不二雄といった有名漫画家から、花輪和一、丸尾末広、岡野玲子、秋里和国、森園みるく、土田世紀、石井隆や寺沢武一まで網羅していて、一章まるまるが手塚治虫に当てられている(オウム真理教のマンガは図版が不許可になったというのが残念)。日本のマンガ雑誌界の紹介や、性表現規制の問題、他のメディアとの関連などにも触れられていて、総合的な視野からとらえた現代日本のマンガ評論・ガイドとしては完璧という感じ。本書は鳥羽僧正の霊に捧げられている!。
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水上勉『電脳暮し』(1999年4月1日第一刷発行・哲学書房)は、エッセイ集。95年以降に雑誌に掲載された文章に、書き下ろしを加えた3部編成の体裁になっている。七十歳で心筋梗塞を患い、以来、心臓は3分の1しか機能していない。そんな状態で著者は、筆圧が高くて息切れしてしまう条件をクリアするためにワープロを導入したのを手始めに、パソコン(マックのG3!)に取り組み、ボランティアをつのって重度障害の人からメール相談を受けるという「電脳学校」を開設するに至る。七十七歳で眼底出血にみまわれ手術を受けたが、片目を失明。これを機に、本格的に音声入力ソフト導入に取り組み始める、、、。第一部では、以上のような、なんとも凄まじい「電脳暮し」に至った経緯が淡々と報告されている。二部、三部は、未来過去を思い煩わずに「一日だけを生きる」という思念のもたらす喜びを、禅宗の教えとの出会いにからめて語ったエッセイで、一部とは対照的。後半、内容の重複がやや目につくが、それも著者の幼い頃の原型的な母のイメージ(天秤棒をかついで歩く後ろ姿)と仏教的な宿命観念をつなぐテーマを中心に、内省のなかで行きつ戻りつしている観念の振幅がかいまみえて、味わい深く読める。
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吉田知子『箱の夫』(1998年12月7日第一刷発行・中央公論社)は、短編小説集。この10年くらいの間に書かれ文芸雑誌に発表されたつごう8編の小説作品が収められている。この作家の作品を読むのは初めて。なんといえばいいのか奇妙な幻想味のある作品集。
 小さな夫を箱に入れて買い物や音楽会に持ち運ぶ主婦の話「箱の夫」。とある縁から秘書みたいに世話をするようになった頑固な老書家と主婦の交情を描いた「遺言状」。自宅のガレージに貼り紙を出して不要品を処分することを思いついた主婦が、しだいにエスカレートしてゆく事態にまきこまれるという、筒井康隆ばりの「泳ぐ箪笥」。身元不明の死体の特徴の記載のある新聞記事を見て、それは私の体だと警察に届け出?に行く女性を描いた「天気のいい日」など、不思議な味わいの作品がならぶ。
 書かれているのはいわゆる「物語」なのだが、その芯となる古典的な骨格が抜き取られているために、思いを巡らせながら迷路をたどったあとに突然道が断ち切れて終わる、という感じだ。多くは子育てを終えた世代の熟年主婦が主人公で、その事物人事を見透かしたような平坦で重心の低い日常世界が、あれよあれよと浮遊しはじめる。しかも何が起きても動じないのが物語の(主婦の?)強み。
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竹田青嗣『プラトン入門』(1998年12月25日第一刷発行・ちくま新書)は、プラトンの哲学思想の意味を独自の視角から読み解いた入門書。初出は雑誌「ちくま」連載の論文で、その稿を大幅に改訂したもの。「たとえば、現代の趨勢では、近代哲学は、総じて「主観ー客観」という虚妄な問題を作り出した観念論的な営みだとされている。、、そして極めつけに、プラトンは、この近代哲学における形而上学的性格の絶対的源流とされているのである。ところが、わたしの考えからいうと、これらの主張は、困ったことに、ひどい冗談、とんでもない中傷、白を黒といいくるめるような真っ赤な嘘、一切が”反転させられた”奇怪な「あべこべ」哲学像、ということになる。」(あとがき)。本書に通底する著者の問題意識を明かしていると思えたので、ちょっと評言の過激なところを抜き出してみたが、もちろん本書の本当の過激さは、「悪しき西欧形而上学の源流として批判されてきた」プラトンの著作を、「普遍性」という理念を核とする(に至る)方法的思考の営みとして、丁寧に読み解いてゆくそのプロセスそのものにある。門外漢にも大枠の論旨は明快で曇りがないが、細部でたちどまったことろもあり(「善のイデア」と「美のイデア」は平行関係にあるという指摘など)、そのへんはしっかり著作と対照して考えるべきだろうなあと留保。第四章「エロス、美、恋愛」は、フーコーやニーチェのプラトン理解との対立点なども含み、刺激的な論述となっているが、著者のエロス論の最新版としても読めて、説得力のある「恋愛論」として読み応えがあります。
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町沢静夫『わたしの中にいる他人たち』(1999年3月10日第一刷発行・創樹社)は、いわゆる多重人格症(解離性同一性障害)の症例を紹介した本。精神科医である著者は、この10年ほどに11例ほどの多重人格の症例の治療にあたったという。この数字だけでちょっとした驚きだが、本書では、そのうちの2例、8重人格と、12重人格の女性患者のケースが詳しく取り上げられている。

 多重人格については、小説も含め、これまで多くの一般向けの書籍(『24人のビリー・ミリガン』など)が訳出されていて、日本でも、かって幼女連続殺人事件のM君が、そのように鑑定されたことで話題になったが、この本のように、日本人の症例についてのまとまった記録を綴ったものは、珍しいのではないだろうか。治療記録を読んでいて、欧米で一般的だと言われる、患者にその原因となったトラウマを直視させるという方法ばかりでなく、主人格の成長を手助けしながら根気よく見守っていくという手法が取られているのが目をひいた。いたずらに他の人格を発現させることは、かえってその人格を強化してしまいかねないという。デリケートなこの病の一端が伺えるエピソードでなるほどと。

 著者によれば、アメリカでは幼児虐待や性的虐待、暴力虐待からその94%が生じるという多重人格は、日本ではいわゆる一般的ないじめによって発病したケースが半数以上を占めるという。このことはどんなストレスが人格交代を引き起こすほどの誘因になりうるのか、ということの彼我の文化的差異について様々なことを考えさせる。ともあれ、本書の記録はまだまだ謎の多い人間の心のメカニズムをかいまみるドラマとしても興味深いし、近年の家庭崩壊現象の増大に伴って日本でも増加するかもしれない、この劇的でやっかいな心の病について理解を深める一助となる本だろうと思う。


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