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走り書き「新刊」読書メモ(9)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(99.1.5〜99.4.6)

 荒木経惟『荒木経惟の写真術』
 柏木博『20世紀をつくった日用品』 吉本隆明+中田平『ミシェル・フーコーと『共同幻想論』』 桝野浩一『ますの。』
 村上龍『ワイン 一杯だけの真実』 村上龍『フィジカル・インテンシティ'97-98 season』 高井有一『高らかな挽歌』
 吉田直哉『脳内イメージと映像』 諸星大二郎『夢の木の下で』 宮垣元+佐々木裕一『シェアウェア』
 井上一馬『ブラックムービー』 鈴木光司『家族の絆』 鈴木光司『リング』
 鈴木光司『らせん』 鈴木光司『ループ』 鈴木光司『バースデイ』
 宮台真司『これが答えだ!』 鈴木康也『ただいまこの本品切れです』 松井孝典+横山俊夫『二十一世紀の花鳥風月』
 呉智英『ロゴスの名はロゴス』 中井久夫『最終講義』 岡田斗司夫『東大オタク学講座』
 シオラン『シオラン対談集』 柳美里『言葉のレッスン』 山本ひろ子『中世神話』
 パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』 山田風太郎『いまわの際に言うべき一大事はなし』 レイ・ブラッドベリ『バビロン行きの夜行列車』
 ディーノ・ブッツァーティ『石の幻影』 中島義道『うるさい日本の私、それから』 辻邦夫+水村美苗『手紙、栞を添えて』


荒木経惟『荒木経惟の写真術』(1998年12月25日第一刷発行・河出書房新社)は、「フォト・リーヴル」シリーズの5冊目にあたる対談集。笠井爾示、ニック・ワプリトン、ホンマタカシ、といった若手写真家との、写真(術)をテーマにした対談3本が、専門用語の簡単な解説つきで、多数の参考写真とともに収録されている。帯に、本書の効用として、カメラやレンズの選び方、被写体との接し方まで具体的なアドバイスが満載とあるが、そうした実用性もさりながら、やはり全般が荒木ワールド創作の解説になっているところが面白い。写真は自分の意志でいろんな効果を計算して撮るのだけれど、出来上がった作品には、どうにも無意識や偶然の要素(時に神がやったこと、と著者はいう)が入ってくる。写真術というのは、技術的なことを指すようで、実はそういう要素に対しての撮影者の向き合い方も含まれる。そこまでいくと著者の「写真術とは人生術だ」という言い方がしっくりくる。職人気質ながら、けして専門家をきどらない著者のきさくな人柄や、写真表現に関する自由な着想が開陳されていて、読みやすくて奧の深い本。

 「荒木経惟写真展」(於、現代美術館・4.17~7.4)も見てみたい。


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柏木博『20世紀をつくった日用品』(1998年11月10日第一刷発行・晶文社)は、身近な日用品の起源を探るコラム集。日本経済新聞に96年7月から98年3月まで「日用品の思想」として連載された文章がもとになっている。「ゼム・クリップからプレハブ」まで、と副題にあるように、扱われている対象は幅広く、文章も簡潔、図版も豊富なので、適当にページを開いて寝る前にふむふむと読むことができる。こういうふうに事物の由来を調べて明かしたものには、石井研堂『明治事物起源』(春陽堂)という明治時代に出版された決定版みたいな本があって(本書でもなにかと引用されている)、そちらは辞書みたいに重く牢固だが、試みとしては、そのスマートな現代版(20世紀版)のような感じがした。日用品といっても、コーラやラーメンやハンバーガーの起源までのっている。ちょっとモノの溢れる世紀末の場所から今世紀の産んだ道具文化・産業システムを振り返ってみるのもいいかもしれない。


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吉本隆明+中田平『ミシェル・フーコーと『共同幻想論』』(1999年3月20日第一刷発行・丸山学芸図書)は、二本の対談と散文、論考からなる本。散文は中田氏が吉本氏の著書『共同幻想論』をフランス語に訳した経緯を明かした文章で、論考はフーコーの仕事全体と『共同幻想論』を比較しようとした試み。
 徹夜して本を読み終えて、朝の窓を開けたとき、どこか風景が違って見えるような書物との出会いというものがある。何が違うのかうまく言えないのだが、今まで知らなかった何かが自分に見いだされたという確信のために、風景から何かがさっぱりと取り払われたり、陰影になにかがつけくわわったりしているようなのだ。そういう体験はおそらく読む側の観念的な渇望感と無縁ではないから、誰にでもいつでも起こりえるようなことではないとも言える。ただ私にとって『共同幻想論』は、若い頃にそういう類の出会い方をした本のひとつだった。
 フーコー・吉本のすれちがい対談(雑誌『海』・78年)や、「フーコー・シンポジウム」(91年)などを巡る刺激的なエピソードを折り込んで『共同幻想論』の仏訳の経緯をつぶさに紹介し、併せてフーコーの思想とのその類縁を明かした中田氏の論考を含むこの本は、個人的にはそういうことも思い起こされて、とても面白く読んだ。
 仏訳も収録されているというCD-ROM版「吉本隆明『共同幻想論』を語る」(ブラザー販売・96年)、エキスパンドブックで製作されたとは。


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桝野浩一『ますの。』(1998年12月10日第一刷発行・実業之日本社)は、短歌集。『てのりくじら』、『ドレミふぁんくしょんドロップ』(いずれも実業之日本社刊)についでの、著者の第三短歌集にあたるという。短歌集といっても従来のイメージとはレイアウトからして大いに違う。ページをひらくと見開きでゴチック体の大売り出しのちらしみたいな巨大活字の短歌がどーんと目に飛び込んでくる。それを読むとまた、文字のふてぶてしさに釣り合った迫力の内容。現代青春感覚が描かれている感じの作品を選んでみる。

「君の死は「完全自殺マニュアル」の15ページにあるような死だ」
「いちぬけた君を時々思いだすためだけにでもこちらにいよう」
「わけもなく家出したくてたまらない 一人暮らしの部屋にいるのに」
「ファミリーがレスってわけか 真夜中のファミレスにいる常連客は」
「一人でも眠れるけれどデニーズで一人で明かす夜はひもじい」

 全般的にいえば、日常の言葉の使い回しに対する抵抗感から繰り出される、諧謔、風刺、悪意、本音への衝動。その表現衝動を凝集するというより、ころがして短歌形式にまるめこんでいく手際にデジタル世代の才能を感じるというところか。本当は〜なんじゃないの、といいきりたい感覚(言い終わったときに衝動は終息してけろりとしている風なのだが)は、案外俵万智さんの短歌の表現感覚に類縁があるように思える。「こわいのは生まれてこのかた人前であがったことのない俵万智」という、絶句するような歌も収録されているが。
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村上龍『ワイン 一杯だけの真実』(1998年12月10日第一刷発行・幻冬社)は、短編小説集。それぞれワインの銘柄を表題にした8つの短編小説が収録されている。舞台はリゾート地や高級ホテル、道具立ては豪華なディナーや高級ワインと若い女性主人公の取り合わせといえば、ハーレクイン的なロマンスの世界を想像するかもしれないが、読むとワインの酔いと言うより、得体の知れないドラッグの酔いに似た、壊れかけた自我のゆらぎにあえぐ女性心理をテーマにした作品が多い。関係を閉ざした心がワインの味わいに唯一この世界との接点を見いだす、という物語は痛ましくも美しいが、そこでほとんどワインはドラッグの喩となって自己完結してしまうようにさえ見える。もちろんそこからどこかへ出向こうという話ではないのだが。


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村上龍『フィジカル・インテンシティ'97-98 season』(1998年12月20日第一刷発行・光文社)は、エッセイ集。「週刊宝石」に97年11月から98年10月末までに連載されたエッセイを収録した本。なかには著者のウェブサイト『tokyo-DECADANCE』に掲載するために女子高生50人にインタヴューした時の感想などしたためたものもあるが、ほとんどがスポーツ、それもサッカーをテーマにしたエッセイが主で、後半は、実生活でも親しいらしいペルージャで活躍中の中田選手へのオマージュみたいな内容になっている。著者が、中田選手の性格や言動に、新しいタイプの若者の姿をかいまみながら、日本のスポーツ・ジャーナリズムの報道姿勢を厳しく批判している趣旨は分かる気がするが、紋切り型になってほしくないなあと。それは別にして著者のサッカーについての見識はかなりのもののようで、日本代表チームの編成について、こうすべきだというようなエッセイでの発言が、後日実際の監督采配として実現していく様子は読んでいてちょっと小気味がよい。

 私もたまにゆく「中田英寿オフィシャルホームページ」のHide Chaserという近況報告では、いつも気持ちのいい文章が読めます。彼のジャーナリズム批判は我が身のこととしてなので、とても説得力がある。


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高井有一『高らかな挽歌』(1999年1月30日第一刷発行・新潮社)は、小説。大手映画会社で企画部長として腕を奮った香貫晨一郎という男の半生が描かれている。章別に交錯するように変えられている年月の経過は、全体を通すと1958年から75年にかけての長いものだが、70年前後、映画会社が経営に行き詰まるなかで、香貫が最後に企画製作に携わった三億円事件を題材にした一本の映画をめぐるエピソードを中心に、香貫を取り巻く当時の映画業界の様々な人間模様が描かれる。なんというか、渋い渋い作品。一種のモデル小説、業界小説といった感じもあり、当時の映画業界に詳しいひとなら、かなりつっこんだ読み方ができると思う。時代の風向きに翻弄された映画関係者たちの栄枯盛衰、人間の危うさ酷薄さをよく描きながら、読後に残るのは、報われずとも懸命に生きたことを肯うような一種哀切さの漂う充足感。こういう時代にこういう作品を書くことの意味がいかにも伝わりにくく思うが、遠ざかって行く戦後期の昭和という時代への著者の鎮魂歌とでも解すべきか。新潮社のいわゆる「純文学書き下ろし特別作品」の一冊。


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吉田直哉『脳内イメージと映像』(1998年10月20日第一刷発行・文春新書)は、映画やテレビの映像をテーマにしたエッセイ集。紹介には「画期的な映像論」とあるが、そう思って読むとちょっと外される感じ。著者は武蔵野美術大学教授で、かってNHKでドキュメンタリーを制作していたひと。「映像」とは「目をつぶったら見えないもの」で、幻覚や臨死体験、夢、心象といったものを「脳内イメージ」と呼んで、著者は区別する。映像と音楽、映像と言語など興味深いテーマをめぐって話題は展開してゆくが、テーマの難しさもあってか、ベースになっているように思える養老孟司氏の『唯脳論』の枠組み以上に、映像の本質論としてはもうひとつ先が見えてこない気がした。むしろ本書で印象に残るのは、著者の古今の映画表現についての見聞や、自ら番組制作に関わった時の豊富な体験談、苦心談が披瀝されているところ。悲惨な映像に美しい音楽をつけることの意味など、考えさせられる話題も。


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諸星大二郎『夢の木の下で』(1998年7月23日第一刷発行・マガジンハウス)は、コミック。この人の絵柄や作風は大好きで、単行本化されたらいつでも新作が読んでみたい作家のひとり。しかしコミック本が書店でビニールカバーで梱包されて売られるようになって久しいが、そのせいで随分買い求めにくくなった。書名だけ変えて内容は古い作品という体裁の単行本が結構あって、購入してみると重複することが多いからだ。そうした事情はともかく、この本ではパート1の幻想的な紀行コミックの連作がすばらしい。奇妙な惑星の辺境を旅する男の物語だが、全編独特の詩情と楽しい想像力に満ちている。

 検索エンジンで調べたら、書誌などとても充実している「諸星大二郎のページ」というサイトを発見。


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宮垣元+佐々木裕一『シェアウェア』(1998年9月1日第一刷発行・NTT出版)は、シェアウェア(コンピューター・ネットワーク上に存在して利用者が原則的に自由にコピーできる、いわゆる「オンライン・ソフトウェア」のうち、価格表示のあるもの)、の制作者たち21名へのインタヴュー集。もともと、シェアウァア現象のもつ、「気に入ったら代金をお支払い下さい」式のボランティア的経済システムの特異性に興味を持った研究者たちが、その実際を具体的に実感したいということではじめた数珠繋ぎ方式インタヴューがもとになっているという。読むと当然ながら、シェアウァアの代金だけで生計をたてている人から、使用した人からの反応が楽しいのでシェアウァアにしてます、という人まで千差万別。シェアウェアは、売りっぱなし、買いっぱなしではなく、後々のバージョンアップに制作者利用者双方が参加してネットで育てる「生き物」みたいだと著者たちはいう。これを「表現」にまで拡張して考えれば、ネットに固有なバーチャル世界の一見実在性のあるような性格(共同幻想)に重なって見えてくるところが面白い。


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井上一馬『ブラックムービー』(1998年11月20日第一刷発行・講談社現代新書)は、ハリウッドのブラックムービー(黒人映画)の歴史を解説した本。アメリカ映画史のごく初期、1910年代から現代に至る、ブラックムービーに登場した俳優や監督たちの経歴やエピソードが、代表的な映画の紹介とともに簡潔にまとめられている。ふだん映画はほとんどケーブルネットの映画専門チャンネルで楽しんでいるのだが、映画が好きで、特にそういう環境にある人には大いにお勧め。映画専門チャンネルで放映されるのは、近年(2,3年前)のハリウッド映画が最も多くて、そのなかでもこの本で言われているブラックムービーの比率も高いように思える。テレビを見ているうちに自然に覚えた黒人俳優や監督の作品の印象を、映画史の流れの中に置き直して確かめて読むという楽しみ方ができます。作品評価のほうでは、偶然最近見たジョン・シングルトンの「ローズウッド」(97)。井上氏によると、近年のブラックムービーを代表する傑作とあるが。。。


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鈴木光司『家族の絆』(1998年8月12日第一刷発行・PHP研究所)は、家族をテーマにした語りおろしのエッセイ集。『リング』、『らせん』、『ループ』が書き終えられた時点での企画で、3部作についての自己解説も聞けて面白い。著者はユニークな子育て主夫業の実践体験を語る一方、ヨットでの太平洋横断の夢を持ち、普段から筋力トレーニングを欠かさないという行動派の側面も。
 日本は母性中心社会だが、最近あまりにも偏向していないだろうか。これからは、強い父親、新しい父性をつくりあげることが必要ではないか、というのが本書で説かれているメッセージ。人類社会よりも家族が大事という究極の選択をするホラーSFの主人公たちから受け取る印象とは似ているようで少しちがう。本書では、小学校5年生の時に見初めた同級生の女の子と紆余曲折を経て結婚した、という映画のような純愛サクセスストーリーも披瀝されている。著者は、自分にはストレスもコンプレックスもないと言い切っているが、そういう得難い経験をお持ちなら、さもありなん。。。


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鈴木光司『リング』(1993年5月24日第一刷発行・角川ホラー文庫)は、ホラー小説。姪の変死に関心をもった週刊誌記者の浅川が調査すると、別の場所で同時刻に三人の若者男女も同様に変死していたことが判明。彼ら四人の死亡前の足取りを辿っていくと、あるリゾート施設で彼らが一緒に見たらしい一本のビデオテープの存在に辿り着く。浅川は友人の大学講師高山竜司と共にその謎を追う。。


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鈴木光司『らせん』(1997年12月1日第一刷発行・角川ホラー文庫)は、ホラー小説。『リング』の続編として書かれた作品。前作の主人公浅川の後をついでテープの謎を追うのは高山竜司の友人だった監察医の安藤。彼は変死した人々の遺体から発見された天然痘ウィルスに酷似した新種ウィルスを解析する。平行して明らかにされる超能力女性山村貞子の秘密と高野舞の悲劇。オカルト系ホラーものの前作がSF風のミュータントものに変身したという感じ。だが、SFというには説明が強引すぎる気がする。骨の太い雰囲気は昔の半村良の伝奇SF小説に近いかもしれない。。。


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鈴木光司『ループ』(1998年1月31日第一刷発行・角川書店)は、ホラー小説。『リング』、『らせん』の続編。ここでの主人公は、二見薫という青年。舞台は前作の事件から20年後の近未来。「世界」には新種のガンウィルスが猛威を奮っている。その発信源とされる「ループ・プロジェクト」(地球規模の生命圏を仮想世界として作り出す試み)の秘密とはなにか。ここにきて3部作全体が一種のパラレルワールドものであったことが明かされる。というより、作品の枠組みがそういう方向に転じるというほうがいいかもしれない。著者によると一作ごとに書き継いでいるうちに、新たに構想が膨らんでいった、ということらしいが、無理が通れば道理がひっこむという感じで、複雑系や人工生命といったテーマを盛り込んでの奇想天外なストーリーは面白い。転生物語の味わいも。。


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鈴木光司『バースデイ』(1999年2月5日第一刷発行・角川書店)は、ホラー小説。『リング』、『らせん』、『ループ』3部作の完結編。これまでのストーリーの細部の補足という感じで3編に別れている。「空に浮かぶ棺」は、『らせん』に登場して処女懐胎してミュータントを産んだ高野舞の物語の細密版。「レモンハート」では、念写能力をもつ山村貞子のこれまで描かれていなかった劇団員時代のストーリーが明かされる。最後におかれた「ハッピィ・バースデー」の杉浦礼子の話はめでたしめでたしだが、「ループ界ではありえる筈のない」山村貞子の数々の超能力の謎は解かれていない。まだ続くのかな?


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宮台真司『これが答えだ!』(1998年12月19日第一刷発行・飛鳥新社)は、著者に講演やトークイベントで寄せられた質問、感想文等での質問、編集プロセスで中森明夫氏から出された質問を、100問集めて、Q&A形式で答えるという内容の本。トークイベントの臨場感を紙上に再現してみたかったという。著者の本を、これ一冊をあげろと言われればこの本で、これは「宮台入門書」だと著者自らあとがきで書いている。内容は、性愛、家庭、学校、社会、国家と、テーマ別に分けられた多岐に渡る質問に手際よく簡潔に答えていて、よどみがない。著者のセルフ・ストーリー(中高時代からマルクス主義者だったが、大学時代の失恋を契機に、自らの観念性の枠組みを解体する「愛なき性の修行」に邁進したという物語)と、著者の専攻する社会学・社会システム論からの切れ味のいい現状把握(「成熟社会」としての現在の日本社会の分析)の両面が、原稿用紙3枚分ほどの解答のあちこちにちりばめられていて、現在に向き合う生身の演技者?の姿が浮かび上がってきて、ぐっと親しみをまします。宮台氏って、こういう人だったの。。。


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鈴木康也『ただいまこの本品切れです』(1998年11月22日第一刷発行・ミオシン出版)は、書店の裏話を集めた本。今時の書店事情や書籍流通関係の話題などが、読みやすいエッセイタッチで、満載されている。「私」は全国展開している大手書店の支店長、ということにしてあるが、本当は著者は書籍編集者というのが面白い。かなりきわどい業界の裏話まで掲載したかったので、関係者に迷惑をかけないため、著者が店長になりかわって書いた新ジャンル(著者は「イタコエッセイ」と呼ぶ)の本なのだという。「本の雑誌」の『匿名座談会』を個人名でまとめた感じといえば近いと思う。
 確かに新聞別の書籍広告掲載費や、本の利益率の内訳など、こうなっていたのか、という話が多くて面白い。万引き対策や、無理をいう客の話なども。最後に、書店員サイドの意見としては、断然「再版制度見直し」に賛成が多いという箇所が、なかなか聞けない本音という感じ。案外、その辺をはっきり言い切ったところが、この本、「イタコエッセイ」にせざるを得なかった理由かもしれない、などと。


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松井孝典+横山俊夫『二十一世紀の花鳥風月』(1998年12月10日第一刷発行・中央公論社)は、惑星物理学専攻の松井氏と、文化史専攻の横山氏が、毎回ゲストを招いて行った鼎談4回分を収録。初出は96年〜97年にかけての『中央公論』誌上。「二十一世紀の花鳥風月」(人間と自然の関係)を、京都学派風?に「風流」に論じあってみようという試み。ちなみに松井氏によれば、「花、鳥」は、「生物圏」、「風」は「地球環境」、「月」は「宇宙時代におけるわれわれの存在」を象徴するとのこと。
 ゲストは書家の石川九楊、陶芸作家の樂吉左衛門、熱帯生態学の井上民二、遺伝子工学の四方哲也の各氏。なんといっても様々な学術分野の最新の成果が分かりやすい言葉で語られているのが興味深い。とりわけ熱帯雨林の地上から70メートルの林冠の研究で、これまでの生物分類学が書き換えられている(昆虫はこれまで地球上に80万種程度いるとされていたのが、現在では2千万〜5千万種いると推定されるらしい。)という話(井上氏)や、遺伝子操作を施した大腸菌の実験研究で、いわゆるダーウィンの適者生存原理に当てはまらない結果がでた(四方氏)と紹介されている箇所に驚きが。いずれも生物圏の「共生」という観念を考え直すヒントに満ちている。6500万年前の巨大隕石衝突説がユカタン半島で検証されつつある(松井氏)というのも凄い。


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呉智英『ロゴスの名はロゴス』(1999年1月15日第一刷発行・メディアファクトリー)は、「就職ジャーナル」誌に94年11月から98年10月合併号までに連載された言葉についてのエッセイに加筆した本。舌鋒鋭い異色の評論家として知られる著者だが、こうした言葉をテーマにしたエッセイを読んでも、その柔軟で行き届いた博識ぶりに驚かされる。しかも学者的な構えたようなものいいではなく、しっかりした教養の下地からすいすいでてくるような批評が小気味よい。著者は博識などと言われると照れてしまう、自分は疑問に思ったらすぐ辞書・辞典をひくこと、新聞記事をスクラップすることを心がけているだけだ、と書いている。これは地味なことのようで、情報に流されないために有効な方法かと思う。本書のメッセージは言葉(ロゴス)は論理(ロゴス)である、ということ。言い間違いは誰にでもあるが、その出所をたどると、笑ってすませられないこともある。そこでばっさり切る。取り上げられている中には著名な歌人などもいて、切られた人は可哀想な気もするが、言葉が言葉において切られるというこの劇に、けれんみはなくて、読後の印象は爽やか。


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中井久夫『最終講義』(1998年12月21日第一刷発行・みすず書房)は、97年3月に神戸大学医学部第五講堂で行われた最終講義の内容に図版や解説を付した本。著者は、主に分裂症の回復過程の問題に取り組み、「風景構成法」をはじめとする治療療法を編み出した他、数々の研究・医療活動を重ねてきた。また一方で『ギリシャ詩選』などの海外の詩・詩集の翻訳者としても知られる。本書では、著者自ら30年の分裂病研究の成果や展望を、専門研究者、医療従事者の他、一般の聴衆にも分かりやすく語りおろした内容となっている。
 本書の魅力のひとつは、夢や睡眠、身体症状や幻覚などについて、著者の経験に基づく様々な知見が、さりげなく、ちりばめられているところ。それが症状の時間的な推移(急性期・回復期)の枠組みの中で把握されていることが、とっさの症状にまつわる多くの不透明で過剰な観念を軽減する貴重なヒントになるように思える。また、著者が分裂症をセルフの崩壊と捉えたうえで、サリヴァンの「セルフ・システム」(自己組織・自己の統合性を守るためにそれを脅かすものを意識から解離するシステム)という考え方を、多田富雄のいう免疫系の「スーパーシステム」になぞらえているのは、興味深いところ。


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☆岡田斗司夫『東大オタク学講座』(1997年9月26日第一刷発行・講談社)は、96年に東大教養学部で行われた「オタク文化論」というゼミ講座の紙上ライブ版。二部に別れていて前段ではアニメ、まんが、オカルトといった「オタク文化の光の部分」、後段では言うも憚る犯罪すれすれの闇の部分にもスポットを当てる。後半の講義には怪しいゲストも出演していて、げげっと思うような対談も含まれている。出版されて2年も経っていないのに、ちょっと古びた感じがするのは、それぞれのジャンルで当時もっとも話題性のあったことを取り上げているからだろうか。「オタク文化」とは、「アニメ文化」「まんが文化」等々の、各ジャンルを統合した概念だが、オタク化とは一方で細分化の傾向そのものを指すから、その浸透や拡散によって、総体の把握はますます難しくなってきていると言えそうだ。著者は、オタクとは、「学ぶ」ものでなく「なるもの」であり、自己求道に近い、実践的なものだという。対話のフォロー部分など読んでいると、「オタク」という言葉から、皮肉めいたニュアンスを脱色して、「マニア」とはひと味違う、人間味を加味したスタンスを含意した言葉として立てたい著者の心持ちが伝わってくる。


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シオラン『シオラン対談集』(1998年7月24日第一刷発行・法政大学出版局)は、ルーマニア出身の異色の思想家シオラン(1911〜95)の死後編纂された対談集。18本の対談と1本のアンケートが収録されている。表題に対談集とあるが、インタヴューと言ったほうが良いような内容のものが多い。こういう印象は、基本的に対話者がシオランに向かって彼の著作や経歴について尋ねるという形式から対話が始まるということにもよるが、相手がまっとうな議論を持ちかけようとしても、肩すかしをくわせてはぐらかしてしまう、という、シオランの弁舌スタイルにもよるだろう。まっとうに答えないかわりに、そういえばこんなことがありました、と、かって印象に残った人々との出会いや関わり合いのエピソードを具体的に語る。その短い小話のような挿話が小説のワンシーンのようで面白い。集中、フリッツ・J・ラダッツという人との対話が、かなりシオランの言説の矛盾やファシズムとの関わりをついていて刺激的で、シオランをして、ノン、ノン、と言わせるのに成功している。しかしやはり、シオランは矛盾のかたまり、カメレオン人間だが、その人間理解の深さ、洞察力は、なみの知識人の比ではないことを確認するばかり。本書では18名に及ぶ対談者個々についての解説がまったくと言っていいほど省かれているのが惜しまれる。


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柳美里『言葉のレッスン』(1998年7月1日第一刷発行・朝日新聞社)は、95年12月から97年8月にかけて「週刊朝日」に連載されたエッセイの集成。電話も嫌いだし勿論人になんて会いたくない。一人きりでマンションに暮らしていて、時には地方の温泉に単身で旅行して小説を書いている。著者はそういう内向的なタイプの作家には違いないだろうが、すこし違って見えるのは、そういう自分の生活スタイルをどこかではみ出すような関係への渇望が伺えるからだ。散歩していたり喫茶店にいたりして、その場で聞こえてくる他人の話から、物語の芯のようなものを聞き取ってしまう。それが本書では、多くの簡潔なエッセイに仕立て上げられている。疎遠でも親密でもない他者のエピソードに、人間の情感を汲み取ろうとする著者のエネルギーはどこから来るのだろう。書き留められたエピソードは「ちょっといいはなし」になるようで、どこかで拒絶されているような不安な感じに揺らいでいる。


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山本ひろ子『中世神話』(1998年12月21日第一刷発行・岩波新書)は、中世神話の世界への招待。日本神話と言えば『古事記』、『日本書紀』などを思い浮かべるが、著者は、これらの記紀神話や仏教神話などに基づいて、「中世に作成された、おびただしい注釈書・神道書・寺社縁起・本地物語などに含まれる、宇宙の創世や神々の物語・言説」を、「中世神話」と呼ぶ。本書では、それら膨大なテキストの中から中世神道書の世界にスポットを当てる。天地開闢、国生み、天孫降臨。これら三つの神話の中世的変容のドラマが、3章に別けて論じられていて、それぞれ興味深い内容になってるのだが、とりわけ刺激的だったのは第一章の開闢神話を論じた箇所であった。そこでは、伊勢神宮の内宮と外宮の現世的な確執を背景に、本来記紀神話にも登場しない一地方神に過ぎなかった豊受大神が、皇祖神である天照大神に対峙して、神話を武器に己の優位性を主張してゆくドラマが描かれている。
 古代神話の変容、中世神話の成立とは、言葉を変えて言えば、事跡の捏造や、書き換えや偽書の作成といった一部の特権的な受益者たちの作為の歴史と無縁ではない。それをしも神話的想像力の達成と呼ぶべきなのか、躊躇しないわけではないが、著者はそこに性急な倫理を挟み込まず、徹底しした学問的なアプローチで文献を踏査して異同を指摘し、結論を読者に委ねている。そういう意味でも、とても強靱な破壊力を秘めた現在的なモチーフに貫かれた研究書という印象を受けた。けだし「中世神話」とは、「方法意識的なカテゴリー」であると。


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パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(1998年7月25日第一刷発行・作品社)は、ドキュメント風の断章・散文集というべきか迷うが、優れた文学作品というのが一番しっくりきそうな本。小説家の著者は、1988年に、偶然、41年版の「パリ・ソワール紙」に掲載されていた、ドラ・ブリュデールという名前の15歳のユダヤ人少女を探している「尋ね人広告」を見て、いたく関心を促されて、その後10年にも及ぶ個人的な調査を開始する。その過程で明らかになったことを、様々な感慨もこめて書き留めた文書を集めたものが本書ということになる。今では当時の建物の多くも姿を消し、人々の記憶も霞んでしまったように思える1941年のパリ。ドイツ軍占領下、ヴィシーかいらい政権のもと行われた苛烈なユダヤ人狩りの様相が浮かび上がってくる。45年生まれのユダヤ人作家が、父の生きた苦難の時代、封印された時代の狭間に、生き、死んでいった、無名の人々の記憶を、誠実に蘇らせようとした試み。著者の孤独な執念の記録が、文学的営為とはどういうことかを考えさせる。


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山田風太郎『いまわの際に言うべき一大事はなし』(1998年11月8日第一刷発行・角川春樹事務所)は、荒井敏由紀、小山晃一氏という二人のインタヴュワーが、96年末から98年4月にかけて、計12回、山田風太郎氏宅を訪問して聞き取った、のべ24時間に及んだというインタヴューを編集した本。同様の前著『コレデオシマイ』(未読)の続編にあたるという。主に新聞テレビなどを賑わした、芸能、社会、政治経済その他、多種多様な話題について、どう思うかという質問に対して、「僕は、いま、本気でボケてるの。」とおっしゃる77歳になる老作家が、たんたんと返答する。無類に味のある答えの場合も、へんてこな場合もある。返答の矛盾を指摘されると「無言、、、」になってしまう場合もある。「で、インタヴューに来て、何が聞きたいんですか?」、というような、乗り気のような、乗り気でないような、山田翁の答えのたんたんさが実に面白い。池田外相(当時)は、口元が「ロバかラクダに似てる」。橋本首相(当時)は、「結婚詐欺師みたい」という評言、的確というか。。


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レイ・ブラッドベリ『バビロン行きの夜行列車』(1998年10月8日第一刷発行・角川春樹事務所)は、訳し下ろしの短編小説集。あとがきで訳者の金原瑞人氏は、中学高校時代にブラッドベリの小説『十月はたそがれの国』や『火星年代記』をバイブルのように読んだと書いている。バイブルとまではいかなくても、私にも似たような体験があって、この作家の当時の作品は、夏の木陰の机の上で泡立つサイダーの色あいといった、妙に懐かしく親しい私的な記憶と切り離せない。それが、なんと四半世紀ぶりに戻ってきた。しかも、どこをきってもブラッドベリで。レイ・ブラッドベリは1920年生まれだから、この最新小説集の衰えをしらない瑞々しさは驚き。双子の少女の形容。「よく冷えた二本の牛乳瓶や、リンカーンの肖像画入りのま新しい二枚の一セント硬貨にも負けないほど、ふたりはそっくりだった。」(「鏡」)。彼以外の誰も、こんなとびきりの比喩を、小説のなかに、ちりばめることはできそうにもない。そんなことないだろうか?きっと私はまだ、彼に子供の頃にかけられた魔法から醒めていないのだ。


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ディーノ・ブッツァーティ『石の幻影』(1998年12月4日第一刷発行・河出書房新社)は、中編小説「石の幻影」に短編小説5編を合わせた幻想小説集。ディーノ・ブッツァーティ(1906〜1972)は、既に10冊近く邦訳のあるイタリアの作家で、帯には「イタリア幻想文学の巨匠が描く寓意に満ちたカフカ的世界」とあった。中編小説「石の幻影」では、ある大学教授が、ある日突然国防省から呼び出しを受けて、さる極秘プロジェクトに参加しないかと勧誘される。強制ではないのだが、そこに行けば2年間は社会と隔絶された生活を余儀なくされるという。教授は妻ともども参加することを決心して研究施設に向かうのだが、いったい何の研究が行われているのか。小説を半分くらい読み進めても、その出だしの謎が明かされない。。。カフカ的なのはそこまでだが、後半は50年代SFの風味が懐かしい作品。他の収録作品も、作者の複数の短編集から選別された短編小説集『コロンブレ』から5編を選んだというだけあって、短いながらそれぞれ読み応えがあり、奇想に富んだ幻想小説ならではの楽しさが味わえます。


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中島義道『うるさい日本の私、それから』(1998年12月8日第一刷発行・洋泉社)は、『うるさい日本の私』の続編。身辺にあふれる騒音公害に憤る哲学教授が、実際にあちこちの騒音元に抗議に出向いて孤軍奮闘する様子を描いた前著は、一部マスコミでも好意的に取り上げられたが、本書では、そうした評価の多くに、著者は猛然とかみついている。「あなたのような問題意識だけをもって何もしない人に向けて私は書いたのですよ!」と。行動と思考の矛盾をあまり強調されると、自分から言葉の交通の世界に問題を提示しておきながら、、と、ちょっとたじろいでしまうが、それでも投げださずに読んでいると、この著者は、そういう一種の頑なさを持ってしか生きられないという、自分の姿を「鑑」として伝えたいのだなあと、納得させられそうにもなる。そこにはやはり、ぎりぎりの正しさ(不快を感じている自己という動かしがたい事実への直視)があるからだ。


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辻邦夫+水村美苗『手紙、栞を添えて』(1998年3月1日第一刷発行・朝日新聞社)は、朝日新聞読書面に96年4月から97年7月まで掲載された往復書簡に、書き下ろしのプロローグ、エピローグを加えた本。二人の小説作家が、新聞紙面という公開の場所での手紙形式のやりとりを通じて、古今の小説作品についての感想を書きあっていく。話題に上るのは、世界文学全集に入っているような高名な古典作品が多い。しかし、手紙の文面はスムースで、そういう作品の選択が、自然な思いつきのようになされている。もちろん名前が出たから改めて作品を読み返してみた、というようなやりとりもあって、長丁場の舞台裏は、思わぬ読書の楽しみも含めて、さぞや大変だったと思うが、破綻のないお互いのフォローは流石。この感じ、インターネットのゲストブックを読む感じにちょっと似ている。現実には顔を合わせたことのない二人の人が、かなり個人的な体験や嗜好にまつわることを、不特定多数の読者に読まれることを配慮して抑制した筆致で書きあう。水村氏の感情のこもった一筆書きのような感想は鋭いし、辻氏の教養豊かな文体の修辞は楽しい。ただ興味深い話題が、惜しげもなくさっと変わってしまうのは、書き手があくまでも相手の方を向いているせいで、読者は、自分がこの情感溢れる往復書簡集の傍観者に過ぎないことに、ふと気付かされてしまう。


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