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映画「フォレスト・ガンプ」の感想

 94年にアメリカで大ヒット(96年現在歴代興収成績4位)して、アカデミー賞6部門を制覇したという映画「フォレスト・ガンプ」を、最近ようやくテレビ(映画専門チャンネル)で見る機会があったので、すこし古いが、その感想を。
 主人公フォレスト・ガンプは、アラバマ州のグリンボウで産まれたが、生まれついて知能指数が人並みより低く、曲がった背骨のために足に矯正ギブスをはめられて育つというハンディキャップを負っていた。もともと南北戦争の英雄フォレスト将軍の血筋をひくという旧家に産まれたが、今では母ひとり子ひとりの母子家庭で、母親が広い屋敷の一部を旅行者に部屋貸して生計をたてているという暮らしぶりだった。ガンプは母親の奔走で、なんとか普通の小学校に入学できたが、知能が低いこともあって、同年の悪ガキ連中にいつもいじめられる。そんなある日、いつものように悪ガキに追いかけられているとき、小学校入学以来唯一の友達だったジェニーという女の子が「走って」と叫ぶ声に励まされて、ガンプは脱兎のごとく走りだす。途中で矯正ギブスも外れてしまうほどの勢いで走った結果、ガンプは見事に悪ガキ連中から逃げおうせる。そればかりか、長年の足の束縛から自由になった自分を発見する。その事件以来、ガンプはいつも走ってばかりいる子供として町ではめだつ存在になる。ハイスクルール時代に、やはり悪友たちに車で追いまわされて必死で走って逃げている姿が、フットボールチームの監督の目にとまり、選手に抜擢され大活躍、そのおかげで大学にも進学できたが、別の大学に進学したジェニーとは、この頃から疎遠になりはじめる。やがてガンプは俊足のフットボール選手として全米代表に選ばれ、大統領からも激励を受け、無事に大学を卒業するが、すぐに陸軍に入隊。ヴェトナムに出征することになる。配属された小隊では、黒人兵士と親友になり、毎日のようにジェニーに手紙を書き綴るという日々を送るが、ある日、ヴェトコンの攻撃を受けて隊は壊滅する。このときもガンプは健脚ぶりを発揮して負傷した小隊長以下、隊員数名を救出するが、自らも臀部に被弾して入院し、本国に送還される。英雄として大統領から勲章をもらい、また入院していた病院で暇つぶしに覚えた卓球の腕前が卓越していたので、これも全米代表に抜擢されて中国と親善試合を行い、大統領に激励され、ジェニーとも再会するが、、、。
 ストーリーはこれでようやく映画の中盤にさしかかったところだが、要するに、生まれつき知能が低いというハンディを背負った青年が、自分では本気で望んでもいないのに、不思議で好都合な偶然のめぐりあわせで、社会的に成功して、その結果、アメリカンドリームを実現してしまうという、結構痛快でファンタジックな筋立ての愉しい映画だった。
 この映画で話題になったのは、トム・ハンクス扮する主人公フォレスト・ガンプが、アメリカの戦後史や文化を象徴するような歴史的人物と出会ったりする場面で、まずそのことに触れないわけにはいかない。彼が出会ったり話をしたりするのは、ケネディ、ニクソン、ジョンソン、といった歴代大統領や、とっくに撃たれて死んだはずの歌手のジョン・レノンで、画面はコンピューター技術によるデジタル合成で、SFXを駆使して作られたというが、その臨場感というのはなかなかのものだった。もしガンプが出会うのが、現実には故人だったとしても、その事実を事前に知らない限り、おそらく映像からは合成とは判別できないだろう、というところまでSFX技術は確実に進んでいる気がした。
 ところで、ガンプが、こうしたアメリカ現代史を飾る知名人たちと、つかの間の出会いを重ねて行くショットの挿入が、この映画の背景に厚みを与えていることは間違いないが、私の印象では、それはむしろお遊びという感じで、そういう意味でこの映画に身近な歴史を感じたのは、ガンプとジェニーの生き方の対比だった。ガンプは全米代表に選ばれるようなフットボール選手として大学を卒業後、陸軍に入隊してヴェトナムに出征し、名誉の負傷を受けて帰国、再び全米代表の卓球選手として活躍する。一方ジョン・バエズのような歌手になって、有名になりたいと願っていたジェニーは、大学卒業後、最初はストリップ小屋まがいのキャバレーで歌手デビューするが、やがてヒッピーみたいな放浪生活を送り、ブラックパンサーなどとも関わった末に、麻薬に手を出し、最後はエイズに罹患して死ぬ。この二つの人生(終生変わらぬガンプのジェニーに対する想いは、というべきかもしれないが)は、映画の後半の部分で、奇跡的に交錯するように演出されて、しばし幸福な一致をみて、見るものに慰めを与えるが、実際には私たちが、ヴェトナム戦争以降のアメリカの文化のなかに見るものの二面性の見事な象徴になっている。国民的なスポーツの英雄崇拝や愛国主義に代表されるようなアメリカの保守性、楽天性や健全性と、層の厚いカウンターカルチャー、数々の反差別社会運動に象徴されるような個人の独立主義や自由主義、その二つの生き方の深刻な亀裂や価値観の混乱や振幅が、アメリカ社会に、いかに癒しがたい傷を産み出したか。映画では、現実には和解できそうにもない、この二つのアメリカを、時代の波を被って生きた男女それぞれの異質な青春に象徴させて、あえて宿命の糸で結び合わせることで、二人のかたみとなった小さな子供に、アメリカの未来の希望を託そうとしているように思えた。
 「フォレスト・ガンプ」で、もうひとつ感じたことは、ガンプの他者とのつきあい方である。彼は、母親、ジェニー、軍隊で知り合った黒人、小隊長、の4人の他者に深い思い入れを抱いていて、他のことは眼中にないといった感じがする。これが、ガンプの純粋さにうたれる、というような評価になるのかもしれないが、そう考えないとしたらどうなのか。ガンプは、大学時代にはジェニーに抱きつこうとした彼女のボーイフレンドを殴り、キャバレーではジェニーに手を出そうとした酔っぱらい客を殴り、ブラックパンサーのアジトではジェニーの同棲相手を殴りと、その場では、迷惑がられながら、一方で有り難がられる、という、しつこい友人を演じるのだが、これは純粋さというより、一種のジェニー・コンプレックスではないかと思えたのだ。ヴェトナム戦線に配属されてもガンプはしつこくジェニーに手紙を送り続ける。また、また後にエビ釣り船の商売を初めても、自分の船はジェニーという名前にするし、成功して持ち船が増えたら、すべてをジェニー号にするという徹底ぶりだ。一方ジェニーの反応の方は至って冷淡で、あれはもう過去の人と思っていた節がある。このへんはとてもリアルだ。
 ガンプの純粋さと映るものは、いわば過去の絶対化から来ている。同僚の黒人兵士との生前の口約束を忠実に果たすところしかり、両足を切断されて人生に絶望してしまった小隊長に対する忠誠の感情しかり、それは、ガンプが直面している現在の情況に対応していないで、過去にずれているのだ。
 普通私たちは、振られた恋人を諦めたり、時に過去のしがらみを断ち切って人生の新しい局面に対応しようとする。そうしなくては生きていけないと感じるからで、別に彼等のことを記憶から抹消するわけではなく、思い出のなかにしまい込んで置くだけだ。しかしガンプの場合は、ジェニーはいつまでも子供時代に初めて知り合えたジェニーであり、死んだ黒人の親友は今でもありありと生きていて、上官は復員しておちぶれても、いつまでも上官のままだ。つまり、かって親しい心の交流があり、いったんその親しさを心に焼き付けたら、それがいつまでも持続してしまうのだ。これはガンプの心のメカニズムとしてそう設定されている(ように見える)ので、純粋さということとは違う。それが純粋さに見えるためには、現実には、多くの偶然が荷担しなくてはならないだろう。つまりは、ある現代人の願望を、このファンタジックな映画の制作者はうまく言い当てたのだが、それはとても心の古層にある、親密な記憶への固着の場所、とでもいえばいいだろうか。


「フォレスト・ガンプ」(監督ロバート・ゼメキス 出演トム・ハンクスサリー・フィールド、ロビン・ライト、ゲイリー・シニーズ 94年・米国)

個人誌「断簡風信」108号から転載。

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