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走り書き「新刊」読書メモ(8)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(98.9.30〜99.1.2)

 広告批評別冊「淀川長治の遺言」 青山二郎『骨董鑑定眼』 ジャン・ボードリアール『完全犯罪』
 カレル・チャペック『マクロプロス事件』 柳美里『ゴールドラッシュ』 村上春樹『約束された場所で』
 ジョン・シーブルック『愛しのネット狂』 橋本治『貧乏は正しい! ぼくらの東京物語』 須永紀子『わたしにできること』
 増田みず子『火夜』 ニーリ・チェルコフスキー『ブコウスキー酔いどれ伝説』 中島道義『孤独について』
 工藤庸子『フランス恋愛小説論』 井村君江『妖精学入門』 鶴見済『檻のなかのダンス』
 青木雄二*宮崎学『土壇場の経済学』 吉本隆明『父の像』 櫻井よしこ『日本の危機』
 キンバリー・ヤング『インターネット中毒』 北村太郎『樹上の猫』 野口悠紀雄『無人島に持ってゆく本』
 柄谷行人『ダイアローグ 1990〜1994』 梁瀬光世『誰も書かなかった灰かぶり姫の瞳』 永井均『<子ども>のための哲学』
 谷口ジロー『遙かな町へ(上)』 村上龍『憂鬱な希望としてのインターネット』 古東哲明『現代思想としてのギリシャ哲学』
 池依依『池田満寿夫、もうひとつの愛』 田村隆一『1999』 田村隆一『女神礼賛』


広告批評別冊「淀川長治の遺言」(1998年12月4日第一刷発行・マドラ出版)は、雑誌「広告批評」の、98年11月11日に亡くなった映画評論家淀川長治氏の追悼特集号。未発表インタビュー他、これまで14年間に同誌に掲載された記事6本、インタビュー6本他を再録している。淀川氏がスローガンにした「私はまだかって嫌いな人と会ったことがない」(ウィル・ロジャース)というコピーに、そんな馬鹿な、と噛みついた評を読んだことがあったが、もちろんこれは反語で、インタビューを読むと、やはり色々な人生の修羅場を潜ってきた人なのだなあ、と感じさせられる。子供の頃に感じる、家族と社会との間の隔絶感。それを埋めようとして生きることは、当人にしか見えない闘いみたいなものだが、そこをすっと越えられるような場所に映画があった、というようなことなのだろう。こんな風に映画と出会い映画と骨がらみに生きることは誰にもできないに違いない。また自分のそういう場所を映画評論の場所に繋げることで、独特なスタイルを作り上げた人だったと思う。ピーター・グリーナウェイとの対談もあって、私には楽しい一冊だった。「どんなにうまく治められたとしても、よその人に治められるくらいなら、メチャクチャでも自分で治めたほうがいい」、そう思って映画をつくってる、とグリーナウェイは言っている。淀川さん「イエスイエス」。


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青山二郎『骨董鑑定眼』(1998年11月18日第一刷発行・角川春樹事務所)は、『青山二郎文集』(小沢書店)から、骨董に関するエッセイを集めた、文庫本サイズのコンパクトなランティエ叢書の一冊。古くは1929年から、晩年までに書かれた批評文やエッセイ、10数編が収録されている。責任編者は角川春樹、高丘卓氏。青山二郎(1901〜1977)は、様々な芸術ジャンルを横断した日本では珍しいタイプの文化人。骨董がわかるとはどういうことかを語って、実は人間が「美」にふれ、「美」を解するとはどういうことかを説いている。「どんな職業の人間でもそれで名乗りをあげて飯を食っていれば、世間では一通りそういう人間を専門家と見てます。だけどもそれは近頃の風潮だと思います。尊敬している訳でも信用している訳でもないんですから。あいつは政治屋だ、こいつは弁護士、あいつは坊主で、こいつは絵かき-そういった按配です。そうなると、こんな風に見られている人間が贋物なのか、そんなふうに決めつけて何とも思わない世間の方が贋物なのか-両方ともでたらめだといって了えば、つまり自業自得なのか。」(「贋物と本物について」)。青山節とでもいうしかない癖のある文体は、つぼにはまると、ぐぐっと引き込まれる魅力をもっています。読む人を心地よく眠らせるというより、覚醒させる文章は古びない。


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ジャン・ボードリアール『完全犯罪』(1998年10月22日第一刷発行・紀伊国屋)は、『透きとおった悪』、『湾岸戦争は起こらなかった』以来、7年ぶりの邦訳書で、90年代前半に書かれた20編ほどのテキストが収められている(原著は95年刊)。著者のアジテーターぶりは健在。現代には、かってあったようなリアリティが失われ、不安定で不確実な非現実感が漂っている。この、犯人も死体も発見されず、動機もないのに、「現実」が消去されてしまった事態が「完全犯罪」の成就であり、その真の犯人は、「現実」のわれわれ自身である、と著者はいう。バーチャル・リアリティとメディアに被われた世界で、他者性は、クローン化や際限のないコミュニケーションのなかに消え去ろうとしている。そうした現代の感受を、きらびやかで断定的な比喩(「運命とは自己と他者との交差点にしか存在しないのだから、もう誰も運命をもちはしない」、「社会全体が閉経期に入った」などなど)を駆使して過激に告発する著者のスタイルはかわらないが、本書後半では、他者のいなくなった同一性の世界で鏡像を演じていたものたち(モノ、子供、死者、イメージ、女性・・)の復讐(「他者性の復讐」)が始まっている、という指摘が新しいところ。「完全犯罪」は起こらなかった、か?


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カレル・チャペック『マクロプロス事件』(98年12月12日第一刷発行・八月舎)は、「ロボット」や「山椒魚戦争」で知られるチェコの作家カレル・チャペック(1890〜1938)の、ヤナーチェクの同名オペラの原作にもなった戯曲の新訳。100年にもなろうという遺産相続をめぐる訴訟沙汰が、ようやく最高裁で結審されることになった日、関係者のつめる弁護士事務所に、人気のオペラ歌手エミリアがやってきて、意外な申し出をする。話を聞いていると、エミリアは100年も前の出来事を、見てきたかのように話す。実は彼女、300年前に不老長寿の薬を飲んで以来若さと美貌を保ちながら生き続けている女性だった。ファンタジックな設定で、人間が長生きすることの是非を考えさせられる楽しい戯曲。
 この本は、入谷芳彰のページの田中秀幸さんが始められた出版社「八月舎」の出版第一号。田中さんのホームページから直接注文もできます。


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柳美里『ゴールドラッシュ』(1998年11月25日第一刷発行・新潮社)は、『新潮』98年11月号に初出の長編小説。主人公の「少年」は14歳。父親は全国展開しているパチンコ・チェーン店を経営しているワンマン社長で、後継者として育てられ、金に不自由のない「少年」は、親のコネで全国有数の進学校である私立中学に在籍しているが、学校にはろくに行かずに横浜の黄金町界隈を独りでうろついている。喫煙、飲酒、ドラッグ。父の経営するパチンコ店に行っては従業員に怒鳴り散らす毎日。新興宗教にかぶれて家をでた母親。ウィリアムズ病の兄、援助交際をしている姉。大人と子供の境界を彷徨う主人公には、なぜか親しさを示すラーメン屋の老夫婦や中年やくざがいる。負のカードばかりあつめて出来上がったような猥雑な物語世界の中で、名前のない「少年」が凶行をひきおこす。自分をコントロールできない粗暴な幼稚さ、思いこみの激しさと、冷め切った不信感や狡猾さが混じり合ったような「少年」の造形は、かってだったら、ひどく病的な怪物みたいに思われたかもしれない。また話が話として都合良くできすぎているところがないとも言えない。しかし「少年」に同化して関係を隔てる不透明な壁の向こう側にぬけたい作者の希求は、とてもリアルで不思議な手応えとして伝わってくる。

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村上春樹『約束された場所で』(98年11月30日第一刷発行・文芸春秋社)は、「文芸春秋」98年4月号から11月号に連載された「ポストアンダーグラウンド」に加筆した本。地下鉄サリン事件の被害者たちへのインタビューを収めた前著『アンダーグラウンド』の続編にあたり、オウム信者(元信者)たち8人への著者のインタビューと、河合隼雄氏との二つの対談からなる。オウム信者たちを、非難弾劾するためでも、かといって新しい視点から再評価するためでもなく、「明確な多くの視座を作り出すのに必要な血肉のある材料(マテリアル)」を提出したいと思って書かれたという本書は、たしかに現在様々な境遇におかれていたり、考え方も異なるオウム信者(元信者)たちの肉声を伝えていて、幹部だったわけでも、直接犯罪に関わったわけでもない、一般信者の証言集として、本書の価値は際だっていると思う。私の感じたのは、かれらの入信の動機の多様さだ。それは著者が「あとがき」で、取材中に強く実感したと書いている「あのひとたちは『エリートにもかかわらず』という文脈においてではなく、逆にエリートだからこそ、すっとあっちに行っちゃったんじゃないか」という感想と、微妙に食い違う。エリートだからこそ、あるいは、なぜあんなエリートが、、という捉え方が成り立たないような場所で、一般信者の入信が行われたのではないか。私たちと「カルト宗教」を隔てている壁は、「我々が想像しているよりも遙かに薄っぺら」、と著者は書く。その言葉に、ほとんど共感するが、それは、もしかすると、当時既に壁とさえ呼べないような空隙でしかなかったのではないか。


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ジョン・シーブルック『愛しのネット狂』(1998年10月30日第一刷発行・日経BP社)は、著者自らのインターネット体験を綴ったノンフィクション。「ニューヨーカー」の記者をしていた著者は、マイクロソフト社の取材をすることになる。文系人間の著者は、それまでまったくウェブの世界に暗くて、取材途中で、はじめて自分にもビル・ゲイツに電子メールが送れるはずだと思いたって、モデムを自転車で買いに行ったというほど。ゲイツとの電子メールのやりとり。そこからすべてがはじまり、著者はネットの世界の深みにはまっていく。罵詈雑言のメッセージを受け取って、パソコンの調子が悪くなり、そこにウィルスが潜んでいたのではないかという妄想にとり憑かれたり、プライベートなチャットを楽しんだり、論争にまきこまれたり、インターネット中毒症(IAD)のサポートグループに入ってみたり、、、という2年間の冒険の数々が綴られている。WELLというBBSでの体験についてふれた後半は、実感が湧かないのでやや疲れたが、著者のいう「ぼくなりに解釈したアメリカの物語」としても面白く読める。

 「ぼくは、電子メールによって沈黙の性質も変わったことに気づきはじめていた。メールがこないときの沈黙は、電話がこないときや郵便受けが空っぽのときとはちがっていた。それは途方もない沈黙だった。」うーむ。。

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橋本治『貧乏は正しい! ぼくらの東京物語』(98年7月1日第一刷発行・小学館文庫)は、96年1月に発売された単行本(親本)に前書きを加えた文庫化で、初出はコミック雑誌「ヤングサンデー」に連載されていた批評的なエッセイ。単行本としては「貧乏は正しい!」全5巻シリーズの第三弾にあたる。バブルがはじけた後の日本をどう生き抜くか、旧態依然の若者の反抗というパターンはもう古い。これからは建設だ。そのためには現状を見つめ直し、過去を振り返る必要がある。前書きによると、そういう構想で、17歳(これから社会に出る)の若者たちに向けたメッセージの書。21世紀の世界を見透かす「誰にでもわかる新・資本論」がめざされたという。本書で扱われているのは、地方(イナカ)とはなにか、東京(トカイ)とはなにかという問題。これは方言とはなにか、標準語とはなにか、というテーマにスライドして接続する。いずれも現代の日本人の誰にでもあてはまりそうな、社会的な価値(差別)意識の根底にある問題。これらを究明することで、なにが正しくなにがおかしいのか、どんなふうに考え方の道筋を立てるべきか、を明らかにしていく。かんでふくめるような口調はわかりやすいが、内容的には、そうとうに複雑なことが語られている。対象を若者むけに絞り込んで文体を工夫して、物事のことわりを明快に解きほぐすというような、こういう仕事をしている人を他にあまりしらない。


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須永紀子『わたしにできること』(98年3月17日第一刷発行・ミッドナイト・プレス)は、詩集。言葉が新しいかたちを求めていて、自分のなかに垂線を降ろしてみる。沢山のこぼれて逃げ去ってゆく言葉のあいだから、あたりのある感じ、つよい感じが浮かびあがってくるまで。なかなかそういうことができにくくなっているのは、表層の言葉どうしが意味の強い張力で引き合っているからだ。けれど、そういう作業がうまくいくと、きっと不思議なことがおこる。詩が読まれた遠くのどこかで、言葉がすっと生まれ出た心の深みに還っていくというようなことが。言葉の表層のすこし下にある記憶のひろがり。須永さんの恋の情感をうたった詩は、そこにまだ共感が通いあう豊かな世界があることを気付かせてくれる。凛とした言葉がたっています。

「自分の若さがもったいなくて
 おろかな恋にとびついた
 そこが加速の始まり
 早く早く、早く
 夕日が沈む前にいくつでも爆発するんだと決めて
 体から大人になっていく」
 (「草原の夕日」から)

須永さんの詩の幾つかは、関さんのホームページ「rain tree」で、読めます。
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増田みず子『火夜』(1998年10月30日第一刷発行・新潮社)は、「新潮」98年9月号に掲載された小説の単行本化。小説とはいえ、エッセイのような部分あり聞き書き風な部分あり、私小説風な部分あり、それらが混然となった自在な文章で構成されている。冒頭に著者の家系図が図示されていて、数代前からの増田家の人々の生涯をたどる、というのが大筋。増田家の血族には「幸福な家庭を築く能力が欠如している」と著者がいうように、個性的な生き方をした何人もの人物が描かれているが、その描かれ方は著者の自分を見据える視線と微妙に混じり合っていて、強い嫌悪や愛着の感情の振幅のなかでゆらいでいる感じがする。この作品の特徴は、そうした血族物語に塗り込めた自己感情の吐露を通して、著者がこれまで書き継いできた、自分自身(分身)の物語の由来を相対化してみせているところにあると思う。
 雨が降るかもしれないから、傘をもっていきなさい、と母親に言われて、そういわれなければ私は傘を持って出ただろう、と「私」が思う箇所があるが、そういうさりげないエピソードにこめられた人間の感情の強度へのこだわりが、この作家の持ち味だったような気がする。それが変わったというわけではないが、一方で、疎遠さや悪意や無関心に閉ざされたきつい場所の隣に、一種のユーモアさえまじえた自己相対化の場所をつくりはじめたという感じがして、これは楽しい驚きだった。
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ニーリ・チェルコフスキー『ブコウスキー酔いどれ伝説』(98年8月10日第一刷発行・南風社)は、詩人の初の評伝。チャールズ・ブコウスキーは自伝的な小説作品(『くそったれ、少年時代』など)も沢山書いた作家だったから、読んでいる人には、生い立ちや経歴に触れた部分はあまり新味が感じられないかもしれない。この破天荒な酔いどれ詩人の世界に、初めて接するという人には、全編大いに楽しめると思う。また詩人の私生活を離れて、60年代以降のアメリカで、彼の詩がどんなふうに受け取られ、若い世代に影響を与えていたか、というような事情にも触れていて、そういうところが、評伝ならではの興味深い読み物になっている。「イースト・コーストの詩人たちは、エズラ・パウンドやT・S・エリオットの影響で、ヨーロッパに眼を向けていた。またケネス・レックスやゲーリー・スナイダーといった後期のウェスト・コースト詩人たちの眼は、みなアジアを向いていた。そんななか、ハンクはLAの世俗にまみれることを選んだ。、、、」。評伝ならでは、といえば、彼の詩や書簡が多数引用されているのも特色。自分の処女詩集が出るのを待ちかねて、不安な心理状態の中でブコウスキーが編集者に送った手紙の冒頭。「その後いかがでしょうか。小生にとっては、節のないありふれた日々が続いています。より詩的な言い方をすれば、まるで生理用パンティを穿いている老女のように無意味で空疎な日々、といったところでしょうか。、、、」この凄まじい比喩。やはり手紙を書いても、ブコウスキーはブコウスキー!
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中島道義『孤独について』(1998年8月20日第一刷発行・岩波新書)は、「生きるのが困難な人々へ」という副題のある、著者自らの半生記。東京大学大学院修士課程修了、ウィーン大学基礎総合科学部哲学科終了、哲学博士。現電気通信大学教授。という裏表紙の著者の略歴を読むと、ちょっとユニークだが、なんとも典型的な学者先生の半生が想像されるが、その内実たるや、かくも波乱に富んだものであったかと、驚かせる私小説的な内容の暴露本になっている。「死」に対する恐怖感から発生したように描かれている少年時代からの幻想的な離人体験は本格的(折口信夫のケースを連想した)。それに加えて、ある種の真面目な優等生にありがちな受験病の後遺症。著者のかかえこんだ孤独や人間嫌いのスタイルは、家庭環境や職場環境など含めてとてもユニークなのに、なぜかとても現代の一人っ子たちの未来に共通しそうな要素が沢山ありそうに思わされる。そういう予感からすれば、自分は西行のように独りで生活するほど強靱ではないと謙遜する著者が、「孤独」を生かすための技術を、生活スタイルに組み込むことを奨励しているのが、とても現代的だ。あなたが人間嫌い(実は自分が嫌い)なら、それは仕方がないことだ。世間は当然そういうあなたを排斥するが、自分を改めようなどとせず、むしろ積極的な人間嫌い「能動的孤独者」になる道を選ぶべきだ、と著者は言う。
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工藤庸子『フランス恋愛小説論』(1998年8月20日第一刷発行・岩波新書)は、フランス近代の恋愛小説案内。ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』、ラクロ『危険な関係』、メリメ『カルメン』、フローベル『感情教育』、コレット『シェリ』の、5編が取り上げられている。この本の特色は、東大大学院の地域文化研究専攻という、「「大学」という制度」(あとがき)の内側にいる著者が、いわゆる「ヌーヴェル・クリティック」以降の様々な文学研究の潮流や方法論の成果をふまえて、フランスの近代恋愛小説を、分かりやすく読み解いてみせたところにあると言えそう。著者の構想は、作家の個性の反映・生産物としての文学作品、という発想をとらず(そういう発想はフローベル以降疑わしいテーゼとなっていると著者はいう)、「まず作品を読み、そのフォルムを捉え、背後に広がる時代を視野に入れ、そのなかで生きた人間として、あらたに作家像を浮上させる。」という構成をとったという言明によく現れている。批評の陥りがちな断定的なものいいを自ら禁じているふうなところがあって、豊かな奥行きのある小説ガイドとしても楽しめます。
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井村君江『妖精学入門』(1998年9月20日第一刷発行・講談社現代新書)は、「妖精」を単なる民俗学の研究対象にとどめず、それ自体を主題にした新しい研究分野としてとらえるために、あえて「妖精学」という言葉を採用したい、という著者による「妖精学」入門書。妖精の分類や語源の考察、口承物語や文学絵画彫刻演劇といった諸芸術に登場する妖精の解説などが、分かりやすく提示されている。読んでいくと、なるほど、妖精の研究も、「学」として体系化して考察するにたるだけの広がりや歴史をもった分野ではあるなあと思うが、やはり、妖精物語のほとんどの舞台が英国がメインになっているということもあり、「妖精学」という硬い言い方は、どうも日本語としてはなじみそうもないなあという気もする。ただ研究内容の面白さとは別で、興味のあるひとには、とても楽しめる本。妖精たちのルーツがケルトの文化というところも私にはなんだか親しみやすい。ところで、パソコンやテレビゲームのロールプレイングゲームの多くには、様々な妖精たちが登場する。ゲーム文化が世界的に流行して定着すれば、妖精の世界もまた世界普遍性をもつ人類共同の夢の世界に重なるのかもしれない。案外、近未来の「妖精学」にはそんな需要があるのかも。
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鶴見済『檻のなかのダンス』(98年7月21日第一刷発行・太田出版)は、『完全自殺マニュアル』の著者による、コラム・エッセイ集で、コミック評などもあり、バラエティに富んだ内容の本。表題の「檻」というのは近代(現代)社会そのものを指した喩だが、同時に著者が覚醒剤所持で収監された留置場の「檻」でもある。この「体をじっとさせる仕掛け」によって生じる辛さを和らげるのが、「ダンス」。あまり知られていないが、近年、世界中で、未曾有のダンス・ブームが起こっている、と著者はいい、第二章「ダンスという暴動」では、「レイブ紀行」という渡欧体験ルポを掲載している。この「レイブ(ラブ・パレード)」という聞き慣れない言葉は、野外などで行われる参加者数百人から数千、数万人といった大きな規模で行われるダンス・パーティのことで、日本でも毎年1万数千人規模のものが行われているという。かって楽な自殺のしかたを書いて物議をかもした著者だが、本書には「間違った睡眠薬の使い方」のマニュアルが掲載されているのも特色。オウムのことなんか関心ないし、阪神大震災は「東京だったら良かったのに」と思うし、いじめ自殺に、死ぬなというのは「無理だっつーの」。こういう著者のスタンスは、またしても大方の顰蹙を買いそうだが、自らも管理教育の深刻な後遺症(強迫神経症)に悩む著者が、巧まずして閉塞した時代感覚の本音を言い当てているようにも思える。また、著者の住むアパートに隣接する小学校の運動会やプールの授業!の騒音に数年に渡って苦情を言い続ける根性?は、哲学者の中島義道氏(『うるさい日本の私』)みたいで、ちょっと真似のできないところ。
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青木雄二*宮崎学『土壇場の経済学』(98年8月10日第一刷発行・南風社)は、ベストセラー・コミック『ナニワ金融道』の漫画家青木雄二氏(『さすらい』『ゼニの人間学』)と、『突破者』の著書のある宮崎学氏が、項目別に交互に書き下ろした「実体経済」についての過激なエッセイ集。両氏とも、かって自分の経営していた企業が倒産したことがあるという、きつい経験の持ち主で、リアルな体験談や豊富な見聞に基づく例をあげて、拝金主義のまかり通る現代社会の経済構造の仕組みや、そこで生じるトラブル、その対処法などが、迫力あるタッチで説かれている。マルクスを信奉する青木氏は、「決済先送り」という、一見美味しい資本主義社会のシステムのからくりは、「金持ちが貧乏人から生涯搾取する」構図だという。青木氏は、その内実を、金融業界の「菱形の構造」として絵解きしている。頂点には大手都市銀行を核とした銀行業界、中心部分にはクレジット会社や消費者金融、下部には、街金、さらに最端部には、紹介屋、年金屋、整理屋などの、多重債務者に「最後のとどめをさす」悪党たち。やむなく、この菱形構造にからめ取られ、転げ落ちそうになったとき、どこで踏みとどまるか。青木氏は、その仕組みをよく知って「ババ」をつかまぬように用心することを勧め、宮崎氏はいざとなったときには、逆に腹をくくって強く開き直ることを勧める。おりしも、不況下で「ゆとり返済制度」の返済額アップ時期に重なる「住宅ローン破産元年」のただなか。両氏の関西弁のたくましさ。
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吉本隆明『父の像』(98年9月10日第一刷発行・筑摩書房)は、著者の好きな文学者の父の像について書かれた4編の文章と、自分自身を素材に俎上にのせたというエッセイ「父の像」を併せて構成された本。好きな文学者として6人が取り上げられているが、その底には、彼らの作品を通して、時代と共に変遷してゆく「父性」のあり方を浮き彫りにしてみたい、というモチーフが潜んでいるようで、明治期(夏目漱石、森鴎外)、大正期(芥川龍之介、有島武郎)、昭和前期(宮沢賢治、太宰治)、というように、配列や取りあげかたに工夫がこらされている。「父性」というのは、子から見られた社会性(他者倫理)の雛形としての父、からはじまり、子に対する処し方(自己倫理)としての父に終わる広がりをもったイメージだ。この接続の間に理想化されたり卑小化されたりする様々な父性像が呼び込まれるが、接続はある種の転換を通してしか全うされない。父親像が時代と共に変遷していくのは、その転換に時代に固有な共同観念性が関与するからだ。著者はそれを明治以降「途方もないスピードと膨張の仕方」で進展した教育の普及に見ている。「この速度にたえる父と子の正常な関係はちょっと考えられません」。また、父性には、もうひとつの動物生としての無私(自己無化)の側面があって、それは著者のいう「父性像は悲劇によってはじめて輪郭をはっきりさせるものをさしている。」という言葉に当てはまりそうな気がする。「父の像」というエッセイは、既製の父親像に付随する「由緒」(恰好付け)をぬぐい去りたいというモチーフに貫かれていて、とても陰影深いものになっている。
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櫻井よしこ『日本の危機』(98年8月30日第一刷発行・新潮社)は、週刊新潮に98年2月から7月にかけて連載された文章に加筆した批評文集。異常な薬価基準に支えられて肥大化する医療費、無責任な年金資金の使われ方、借金漬けの地方自治体、郵政民営化が潰れた経緯、教育の荒廃、外交のお粗末さ、などなど、21のテーマ別に、日本の政治・社会の抱える様々な問題点にメスを入れる。寝る前に読むと、指摘されている実状のひどさに、驚いたり呆れたりして、目がさえてくるという類の本。この本の特徴のひとつは、政治社会問題を報道したり告発するマスコミの姿勢や体質そのものに対しても、果敢に批判の目を向けているところ。「新聞が絶対書かない」拡販競争の現状や、大新聞の偏向報道ばかりか、あまり聞かない地方紙の実態についての問題も指摘している。新聞・テレビなど巨大化したメディアには、一種のタブーがまかり通ってしまうところがある。こういう掘り下げに対する抵抗も大きいと思うが、誰でも薄々感じていることを、しっかりした取材で裏をとって明文化するという、明晰な報道への責任感と意志の形が伝わってきます。
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キンバリー・ヤング『インターネット中毒』(98年9月5日第一刷発行・毎日新聞社)は、心理学教授で「オンライン中毒センター」の創設者による、「インターネット中毒」の実状と、その対処法を、豊富な実例をあげながら紹介した本。副題に「まじめな警告です」とあるのは、インターネットに夢中になっている人が、その過剰な傾倒ぶりを面白可笑しく綴ったような類書と区別するためかと。インターネット中毒は、アルコール依存症や麻薬中毒と同様に、日常生活の基本的な要素である家庭、仕事、人間関係、学校などに大きな問題をもたらす、と著者はいう。その結果、成績不良から退学、離婚、解雇というケースが。インターネット・ユーザーが5600万人(97年12月時点)というアメリカ社会での話だが、日本でも近い将来、社会問題化しそうな趨勢にあるのは確かだろう。ただし、著者が、中毒の一番大きな要因としてあげているのは、チャット・ルームとインタラクティブ・ゲーム。ホームページを眺めたりすることは、あまり問題がない。毎日10時間もアクセスしないと居られないという風にはなりにくいからだ。中毒の処方箋は、時間管理や興味を現実に向けることなど、他の依存症の治療とあまり変わりない。中毒者には言い訳やごまかしの口実はいくらでもあり、むしろ周囲の人が中毒を助長している場合が多く、訴えも当人よりもその被害を被った家族のものが多いというところなども、従来の依存症に似ている。本書には中毒度を自己診断できる表がついている。
 著者のウェブ・サイト「Center for On-Line Addiction」(英語ですが)へ。
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北村太郎『樹上の猫』(1998年10月26日第一刷発行・港の人)は、平成4年に亡くなった著者の単行本未収録の新聞掲載コラムや雑誌掲載エッセイを集めて収録した本。付録として、詩の朗読を収めたCDが付いている。80年代に書かれた文章が中心だが、あまり時代の変転に左右されない生活の周辺を見つめて、微妙な色合いや肌合いの違いを感じ取ってくる著者の鋭敏な感覚や、飾らない気さくな人柄が暖かい言葉で伝わってくる。人生を飾るさまざまな装飾物。季節感だったり身近な動植物だったり、愛着のあるこまかな品々だったり。著者の愛したパスカルのように、ある種の深淵を覗き込んだ大きな瞳が、そうした物象に優しくそそがれている。
 横浜が、「ハイカラで軽佻浮薄な街」と呼ばれれるのを、「まさにそのとおり」と著者はいう。「しかし、だからこそ、わたくしは横浜が気に入っているのだ。つきあうのに気がおけない、とでもいうのか、ときに鬱状態に陥る身にしてみれば、横浜は、港も街も、かけがえのない<軽さ>でもって慰めてくれる場所なのだ。」(「軽佻浮薄」)。そういえば、「かけがえのない<軽さ>」による慰めが、太郎さんの後期の詩やエッセイの大きな魅力でもありました。こういうご時世で、没後7年にもなろうという現代詩人のエッセイ集がでるのは奇跡的と思ったら、やはり本書は書店で市販はされないとのこと。興味のある方は、直接「港の人」社(0467−60−1374)に注文を。1000部限定出版とのことです。
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☆野口悠紀雄『無人島に持ってゆく本』(1997年10月2日第一刷発行・ダイヤモンド社)は、「週刊ダイヤモンド」連載のエッセイ(96年4月から97年3月)を加筆した本。オペラ、インターネット、海外旅行、経済問題、と話題は様々。地図好きを自認する著者の美しい地図コレクションの図版入り。著者は市販されている地図や写真集を使って、未知の土地(外国の都市など)を探検する「バーチャル・ツアー」の楽しみを書いている。沢山の写真を並べて、同じ場所を様々な角度から眺め、断片を集めて全体を想像的に再現してゆくのは、ジグゾー・パズルを解くような喜びがあるという。こういう著者の推論の好みは、本書の付録についている「超カレンダー」に生かされている。毎月の7の倍数日(7,14,21,28日)の曜日を覚えておくことで、スケジュール管理に役立てる、という発想から、その補助手段として作られた特製カレンダーなのだが、指示どうりに利用してみると、これが便利。実用以外にも、その仕組みを辿ると、「AでありBだからCのはずだ」という推論ゲームの楽しさが満喫できる。
 野口氏のホームページ、「野口悠紀雄 ONLINE」へ。
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柄谷行人『ダイアローグ 1990〜1994』(1998年7月16日第一刷発行・第三文明社)は、表題にあるように九十年代前半に行われた対談(初出は当時の文芸雑誌が主)を集めた本で、ダイアローグ・シリーズの5冊目に当たる。対談相手は、小林敏明、大西巨人、中上健次、日野啓三、高橋源一郎、川村二郎、小森陽一、富岡多恵子、後藤明生、すが秀美、村井紀、紅野謙介の各氏。テーマは現代文学、マルクス、柳田圀男。漱石、と多岐に渡っている。92年に亡くなった小説家中上健次との対談(91年)が収められているが、中上健次の文学や人となりについての言及は、多くの対談にも登場していて、この時期、中上の死が著者にとって大きな衝撃であったことが伺える。そういう読みとりからすると、詩人の富岡多恵子さんとの対談が、とても興味深かった。親密な雰囲気のなかで、「カントにとってじゃなくて、あなたにとってでしょう?」という富岡さんのつっこみ姿勢に、ほぐされるようにして、著者にとって、「代入不可能な人格」としての中上健次のイメージが、カントの言う「理念」への関心に重なっていった道筋が示されて行く。この取り合わせの妙味。
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梁瀬光世『誰も書かなかった灰かぶり姫の瞳』(98年10月25日第一刷発行・幻冬舎文庫)は、古今の西欧の童話25編についての読み解き本。既刊の『誰も書かなかった白雪姫の復讐』(94年5月刊・学習研究社)、『誰も書かなかった眠り姫の罠』(96年7月刊・学習研究社)を再構成・再編集して、加筆・訂正を加えた、新たな文庫化ということで、キキハウスを訪問してくれた方から、本書の発売をメールで教えていただいて、さっそく。この本では、対象が西欧の童話に限られていますが、あらためて作品を読み解く著者の自在な発想に驚きました。「人魚姫」の結末と禅の公案「本来の面目」を結びつけたり、ユングの高弟マリー・フォン・フランツ女史を、おばさんと呼んだり。。よくある童話の新解釈の本と思われるかも知れませんが、そこに形式的な読み解きの方程式を当てはめないところが特色で、著者の場合は、作品と、そのつど、鋭い洞察と豊かな教養で向き合っているという印象。それこそ童話のお話みたいな、易しい文体で書かれていますが、心理学的な「相対化」に流れない芯のある文章が、多様な童話の読者に開かれています。できれば、ひとつの作品について、じっくり論じたものを読んでみたいなあと。
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☆永井均『<子ども>のための哲学』(96年5月20日第一刷発行・講談社現代新書)は、信州大学教授の著者が中学生に読んでもらいたいと思って書いたという哲学の本だが、ふつうの哲学入門書として書かれたという『翔太と猫のインサイトの夏休み』(ナカニシヤ出版)同様、かなり難しい内容の本だ。この難しさは、著者の哲学的な関心事(独我論の問題)を分かりやすく説明するときに、なかなか伝えがたいというところがあって、どうしても多くの言葉を費やしてしまうのでは、という印象からやってくる。素手で哲学することの大切さ、というのが、この本のメッセージ。「どんな<哲学>も、<哲学>として理解できる人は、特定の人に限られるし、それでいい。ある哲学の意味がわかるということは別の哲学の意味がわからないということだからだ。これは頭のよさとは関係ない。あらゆる哲学がいっぺんにわかるなんて、ちょうどあらゆる精神病にいっぺんにかかるのと同じほど、無理な相談なのだ。」
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谷口ジロー『遙かな町へ(上)』(1998年11月1日初版第一刷発行・小学館)は、「週刊ビッグコミック」に98年4月〜8月に連載されたコミックの単行本化。主人公の48歳のサラリーマンが、故郷の母親の墓前で、突然34年前の過去にタイムスリップ。気がつくと中学生になっていた。家庭も学校の環境も、昔の記憶と全く変わっていないが、主人公は、その世界で少年に戻って生活するうちに、すこしずつ記憶とのずれを見いだして行く。60年代の山陰地方の田舎町で主人公が送った青春時代のノスタルジックな雰囲気が満喫できるコミックです。タイムスリップというテーマは珍しくないですが(やはり過去にタイムスリップした少女が競馬の予想や、景気の予想をして大儲けをするという日本映画がありました)、細やかに主人公の心情の変化を描くことに重点を置くと、こんな瑞々しいファンタジックなコミック作品が産まれることに感動。はやく続きが読みたい。

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村上龍『憂鬱な希望としてのインターネット』(1998年9月16日初版第一刷発行・メディアファクトリー)は、第一章がインターネット全般と近作について、第二章が「tokyo DECADENCE」掲載のCGの紹介、第三章が「tokyo DECADENCE」の軌跡について、第四章が著者の選んだホームページの紹介という構成の本。「tokyo DECADENCE」というのは、村上氏が製作している有料サイトの名前で、この本はその宣伝本といってもいい感じ。少なくとも「tokyo DECADENCE」(これほど手間暇とお金がかかっていたとは)を10倍楽しむためには恰好の本ではあります。私もかってBitCash(プリペイドカード)を使って、数ヶ月間読者になっていましたが、随分変わった様子。もちろん本書では、インターネットについての感想や最近の自著の解説や関心事などにも触れていて、作家村上龍に興味がある人にも楽しめる内容になっています。俳句や短歌など全然受けつけないのは相変わらず。容量の大きさに寄りかかって「サイトのコンテンツをそのままもってくる」ようなCD製作についての批判(もしかして春樹氏のことかな)など、ちくちくと。。
 村上氏の「tokyo DECADANCE」
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古東哲明『現代思想としてのギリシャ哲学』(1998年4月10日初版第一刷発行・講談社選書メチエ)は、哲学とは、「世界の<存在>をそれとして経験する方式」(この世があり、生があること自体の神秘に覚醒すること)だとする著者の立場から、ギリシャ哲学を読み解く本。本書に登場する哲学者たち(タレス、パルメニデス、ソクラテス、プラトン、M・アウレリウス)の考え方は、すべていったん著者の思索の炉に投げ込まれ、新たな装いで鋳造された感じ。だから従来の解説書に載っているような解釈とは大いに違って、「存在神秘」の洞察という観点から読み解かれるのが、とても刺激的です。さらに、ギリシャ哲学と現代思想(バタイユやアドルノ、レヴィナスなどなど)との近縁を説くことで、「現代思想のコンテキストのなかでは、とても評判が悪い」と著者の言うギリシャ哲学に、現在に立ち返っての照明をあてる試み。読みやすく、たたみかけるような調子の文体に熱意と工夫が。
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池依依『池田満寿夫、もうひとつの愛』(1998年7月10日初版第一刷発行・河出書房新社)は、著者と画家池田満寿夫との出会いから死別に至るまでの五年の歳月を描いた追想記。池田満寿夫という人は、戸籍上の奥さんがいたのに、その後女性(パートナー)遍歴が多かったようで、そういうところは、ピカソみたいだが、私でも知っているのはバイオリニストの女性。しかし、こんな恋人もいたとは。著者の池依依(イケ・イーイー)さんは日本在住の台湾人画家。都会の片隅で、ひととき寄り添った、ふたつの影の交情をきれいにすくいあげているような読み物だが、他者もまた彼らの孤立の証のように切り捨てられている。その手放しなところが、良くも悪くも現代(こういう本を書いてしまうところも)。最終章で、著者が、雨の日に歩いていて車に轢かれそうになる場面がある。池田にプレゼントされたという傘が身代わりのように轢かれて、その出来事が池田の死のショックから立ち直るきっかけとなったように描かれているのだが、「襲ってきた車」という言葉があって、それが不在の「他者」の喩のように読めてしまう。
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田村隆一『1999』(1998年5月27日初版第一刷発行・集英社)は、著者の遺作となった詩集(97年1月から12月にかけて、雑誌「すばる」に初出)。詩集のタイトルは巻末におかれた「蟻」という詩の最終連、

「さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの
人間の世紀末
1999」

の最終行から取られている。思えば、梅雨時に書店で立ち読みしていて、思わず微笑んでしまった箇所だったが、なんとも暗示的な未来への別れの挨拶になってしまった。「蟻」は蟻の社会の高度な組織化の観察記録を読んで、人類社会との相似を連想した著者の快活な驚きが伝わってくるような詩。「遺伝子」と言う概念が、蟻と人間という古来からの比喩みたいな相似に、新しい認識を要請する。実際、「遺伝子」の発見の意味を私たちはまだ咀嚼しているとはいえない。それにしても、この作品の、蟻への連想が、過去の旅の情景の連鎖から広がっていくように、著者の目に映る蟻は「わが同類」なのだ。蟻と人の境界の融ける場所から、「さよなら」という、やわらかな日本語が届く。
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田村隆一『女神礼賛』(1998年5月15日初版第一刷発行・廣済堂出版)は、97年1月から12月に雑誌「週刊読売」に連載されたエッセイの集成。執筆が、ちょうど詩集『1999』の連載時期と重なっていて、詩集に収録された作品とテーマが共通するエッセイもあって楽しい。 著者が、「女神」というのは女性のことだが、「礼賛」するふりをして、けっこう悪口が書いてある。著者によれば、男は奴隷、女は奴隷を産む機械。「若いときは目の前のものしか見えないが、年をとるにつれて、遠くの水平線と近くのものが、同時に視界に入ってくるようになる。」という確かな遠近法の体得が、自由闊達な、うちとけた座談のような文章ととけあっています。読んでいて、この文体が誰かに似ていると思って、はたと北野たけし氏の書く文章に似ていると思い当たった。さらに読むと、「間の達人が言葉の名人」というエッセイで、落語の間の取り方から、文章を書く上で多くのものを学んだと著者は書いている。なるほど、と。これは著者の詩についても言えそう。
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