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走り書き「新刊」読書メモ(7)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(98.7.11〜98.9.26)

 呉善花『日本が嫌いな日本人へ』 大島一彦『ジェイン・オースティン』 高橋治『蕪村春秋』
☆トマス・エロイ・マルティネス『サンタ・エビータ』 タイモン・スクリーチ『大江戸視覚革命』 須賀敦子『遠い朝の本たち』
 飯島洋一『<ミシマ>から<オウム>へ』 冨田恭彦『哲学の最前線』 高橋睦郎『読みなおし日本文学史』
 村上龍『ライン』 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』 国立歴史民俗博物館編『銅鐸の絵を読み解く』
 村上春樹『夢のサーフシティ』 高間康史『図解・人工生命を見る』 長尾高弘『縁起でもない』
 土屋賢二『人間は笑う葦である』○ SE編集部編『Painter スーパーアートワークス』 馬杉宗夫『黒い聖母と悪魔の謎』
 田中聡『怪物科学者の時代』 鮎川潤『犯罪学入門』 上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』
 池田晶子『残酷人生論』 池田晶子『さよならソクラテス』 高澤秀次『評伝 中上健次』
 山本夏彦『死ぬの大好き』 カレル・ヴァン・ウォルフレン『なぜ日本人は日本を愛せないのか』 アイヴァン・ホール『知の鎖国』
 高橋裕子『イギリス美術』 赤瀬川原平『老人とカメラ 散歩の愉しみ』 新関公子『「漱石の美術愛」推理ノート』


呉善花『日本が嫌いな日本人へ』(1998年9月17日初版第一刷発行・PHP)は、95年9月から98年2月まで雑誌「THE21」に連載されたエッセイの集成。このところ、自由化や制度改革のスローガンを前に、日本人に自信と元気がなくなっているように見える、と著者はいう。このグローバル化の波は、何ら新しい未来をもたらすものではなく、これまでの西欧近代の制度を徹底化した、いわば近代最後の姿なのではないか。そこで、日本人が本当に元気になるためには、これまで全体と個の調和を理想として構築されてきた自国の文化を振り返り、西欧を超えた「超欧」のビジョンを獲得する道筋が必要ではないか。ということで、このエッセイ集は元気快復のためのヒント集。「超西欧的」(5章)とか、「重層的な都市イメージ」(3章)と言う言葉を読むと、吉本隆明氏の論考に通じるものを感じるが、著者の構想そのものは、すでに近代化が終わっているのにシステムが追いついていないという、村上龍氏の認識などにも関連していて説得的。ただ日本社会に甘いなあ。
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大島一彦『ジェイン・オースティン』(1997年1月25日初版第一刷発行・中公新書)は、高名な英国の小説家ジェイン・オースティン(1775〜1817)の作品解説、略伝、作品評価の紹介を収めた本。近年では、「いつか晴れた日に」や、「待ち焦がれて」など、オースティンの小説作品を原作にした映画を見ることができますが、映画を見るにせよ、小説を読むにせよ、両方愉しんでしまうにせよ、作家の生涯や代表作品のあらすじの紹介を簡明におさえた、こういう形のコンパクトな新書版の存在は嬉しい。専門的な文学批評ということでなく、オースティンの作品がそうであったように、ごく普通の一般読者に親しみやすい体裁で、「世界一平凡な大作家」(山本健吉)の魅力を伝える一冊になっています。
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高橋治『蕪村春秋』(1998年9月1日初版第一刷発行・朝日新聞社)は、93年1月から95年3月まで朝日新聞日曜版に掲載された俳句コラムの集成。蕪村の俳句は絵画的と評されるのが定説になっているが、著者は一歩すすめて映像的と評する。広角、望遠レンズを用いたような視覚効果や、流動のなかの一点のシャッターチャンスに似た視点という指摘は、元映画監督ならではの着眼と言うべきか。「写実的、技巧的、叙景派、客観派」とされてきた蕪村観に対する反撥や、今時の結社の主宰者たちについての辛辣な批判の激しさに驚かされるが、読んでいくと、テレビ嫌いの著者が、二人のご子息に毎晩夕食後に俳句を読み聞かせていたというようなエピソードがあって、なんだか、文は人なりではないが、著者の心根や人柄が伝わってきて楽しい。世俗の権威などから離れて、蕪村句が好きで自由に読み込んだ人だけが発見できそうな着眼や、意味のとりにくい句についての簡明な解説など、充実したコラム揃い。
 ところで私は、蕪村の「水桶にうなづきあうや瓜茄」の句を見て、俵万智の「白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる」(『サラダ記念日』)を思い浮かべました。しょうもない連想ですが(^_^;)。。。
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トマス・エロイ・マルティネス『サンタ・エビータ』(1997年2月1日初版第一刷発行・文芸春秋社)は、アルゼンチン大統領夫人エバ・ペロンの完全防腐処理された遺骸が、16年間行方不明だったという歴史的事実の背後にある謎を追う「小説」。「小説」とはいっても、実在の関係者への膨大なインタビューや調査がベースになっていて、歴史の真実を「小説」の形で探求するというアプローチ。映画「エビータ」に触発されて、3冊ほど関連書を読んでみたうちの一冊で、小説なれど資料的にも読み応えがありました。特に第8章の冒頭「どのような要素がエビータの神話を作ったのか?」は、エビータ神話の簡明な解説になっていて、これだけでもエビータに関心のある人には、お勧め。ボルヘスの作品が、ペロン政権への嫌悪や恐怖を下敷きにしているという指摘など、刺激的だし、ラテンアメリカ文学特有のファンタジックな描写もあって本格「小説」としても愉しめます。
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タイモン・スクリーチ『大江戸視覚革命』(1998年2月24日初版第一刷発行・作品社)は、著者の博士論文をもとにした主著『The Western Scientific Gaze And Populer Imagery in Later Edo Japan : The Lens within the Heart』(96年 ケンブリッジ大学出版)の翻訳。18世紀後半、江戸時代の民衆社会に、西欧移入の知識や物品が、どのような影響を与えていたのか、その規模や様相を、膨大な文献資料を読み解いて探求するというスリリングな内容になっている。著者は、「蘭学」として成立した西欧知移入の行く末よりも、それらが、民衆に勝手に受容され同化されてゆくプロセスに比重を置き、それを「蘭」と呼ぶ。覗きからくりや、望遠鏡や顕微鏡や幻灯や眼鏡。。。「蘭」がどれほど当時の社会に浸透していたか、その内容豊富な実状の検証が、ちょっと舌を巻くような充実ぶりで、本書には溢れているのだが、そればかりか、著者の歴史を読み解く自由なスタイルにも新鮮な驚きが沢山ある。共訳者のひとりである高田宏氏のあとがきによれば、本書は、ニュー・アート・ヒストリー(新美術史)と呼ばれる流れに位置するということだが、このジャンル、面白そうです。浅草の村野屋という有名な眼鏡店の名前が、ヴェネチアのムラーノ島と関連があった?そ、そんなことが。。。
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須賀敦子『遠い朝の本たち』(1998年4月25日初版第一刷発行・筑摩書房)は、「国語通信」(91〜92年)、「ちくま」(93〜94年・隔月)に連載されたエッセイ16編に加筆した本。著者が、少女時代、学生時代に出会い、愛読した本と人々にまつわる数々の想い出が、綴られているのだが、この本の与える感動の質は、愛書エッセイという枠を越えた無類のものがある。それを一言でいえば、人生への慈しみ、とでも言えばいいか。著者は今年(98年)3月に亡くなった翻訳家・随筆家だが、この稿に最後まで手を入れ続けていた、という。その心持ちに想いを馳せば、一見さりげない筆致でさしだされている記憶の物語が、半世紀の時を超えて、洗いたてられた神話のように輝いている理由がわかる気がする。中学生の頃に、アン・リンドバークの本を読んで、いつか「こんなふうにまやかしのない言葉の束を通して自分の周囲を表現できるようになれば」と感じたという著者の願いは、そのまま、この美しい随想集の中で達成されている。著者の少女時代に重なる戦時下や戦後期の暗い混沌を、不思議に時が浄化して、ひたむきに生きた若い日々の手触り肌触りだけが残る。そうであったとして、この浄福に縁どられた地上の想い出に、なにを付け加えることがあるだろう。
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飯島洋一『<ミシマ>から<オウム>へ』(1998年6月20日初版第一刷発行・平凡社)は、七〇年の作家三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地での割腹自殺事件と、九五年のオウム真理教による地下鉄サリン事件をめぐっての考察。本書では、それらの事件の背後にある「抑圧されたなにか」の正体を暴いて行くという作業が、日本の明治以降の近代化の過程の分析に重ねられている。本書がユニークなのは、明治以降日本が西欧化してゆく際の建築デザインの象徴ともいうべき「バルコニー」と、大嘗祭や伊勢遷宮に見られるという天皇制の「転生」システムを、「象徴空間」、「神話的な時間」として捉え、それらが交錯する場所の変遷を、考察の軸に据えているところ。近代日本を支えていたのは、天皇制という、空虚の秩序(転生)だったが、その秩序が失われてしまい、ただ「めちゃくちゃなだけの空虚」が残った。現在では、オウムにみられるように、その残骸(偽の転生)が様々な形で反復されているだけ、というのが、結論として本書の説くところ。三島が天皇主義者でも磯部浅一や北一輝のような改造主義者でもなく、自分自身の理念の方向に天皇をひきつけようとする「復古主義者」だったとする見解は、作家論としても興味深い。
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冨田恭彦『哲学の最前線』(1998年6月20日初版第一刷発行・講談社現代新書)は、60年代以降のアメリカの主要哲学を、ハーバード大学客員研究員の主人公を中心に、彼の同僚や学生たちとの対話・討論という形で、会話体の小説みたいに紹介した本。第一章では「根本的解釈」(ディヴィッドソン)や、「観察の理論負荷性」(ハンソン)の見解、第二章では、「指示理論」を中心にした、サール、ドネラン、クリプキ、パトナム、ローティらの見解、最終章では、ローティのメタ哲学的立場の紹介がされている。おおまかに言えば、他者を理解するとはどういうことなのか、という問いが、最初に示される先入観の問題(先入観を離れた理解というものがありえるか?という問い)から入って、色々な角度から吟味されていく仕組みの本。現代哲学者たちの様々な理論や解釈を紹介しながら、読みやすく工夫された文章展開に好感がもてる。最後に、ローティの説を肯うような、「自文化中心主義」(「自文化帝国主義」との違いは3章に詳しい)の考え方が提唱されている。関連主要書籍の紹介も充実しているので、議論を精密に知りたい人にも便利。本書と内容が重複する箇所も多々あるが、同著者の『柏木達彦の多忙な夏』(ナカニシヤ出版)も入門編として愉しい。
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高橋睦郎『読みなおし日本文学史』(1998年3月20日初版第一刷発行・岩波新書)は、ユニークな日本文学の読み解きの試み。古代の日本では歌は神のものとされていたが、その神聖な王座は、大陸から到来した、詩(人間のうた)によって奪われ、以来、神のうたは流浪漂泊を強いられることになった。その漂泊の歴史に日本文学史を重ねみる、というもの。古代の神のうたの特徴を、代作者の存在にみたり(著者は初期歌謡の天皇や皇族のうたや、人麻呂の作とされるものも、大部分が代作者によるものと推定している)、神のうたの本歌取りによって、歌物語から物語へと、様式が発展していったとする視点(著者は歌の始祖、速須佐之男のもつふたつの性格を、みやびお型とますらお型にわけて、それぞれ、「伊勢物語」「源氏物語」から「好色一代男」に至る流れと、「平家物語」「西行物語」「徒然草」などの系譜に分類する)が、斬新。なにしろ古代から近世に至る日本文学史全般を対象にされているので、やや急ぎ足になった感が惜しまれますが、壮大な構想がコンパクトに提示されています。漂泊と無名性こそ文学の理想の姿という、現代詩人たる著者の想い。
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村上龍『ライン』(1998年7月1日初版第一刷発行・幻冬社)は、「月刊カドカワ」に連載された作品に、加筆、書き下ろしを加えた連作小説。章ごとに主人公が入れ替わって、それぞれ別個の境遇に置かれた若者たちの現在に次々に照明があてられてゆく。生き方が違っても共通しているのは、内向した狂気と暴力に隣接した都会に生きる人々の孤独感や、腐りかけているような時代の雰囲気。生い立ちや肉親に関わるトラウマというテーマも色濃く描き込まれていて、そのことが、表層的な時代風俗一般に解消できない個々の閉塞感を浮き立たせている。普通の感覚の持ち主がいても、この世界では、背景の闇に溶かし込まれて判別できない。そんな倒錯した神の視線にリアリティが見いだされるところまで、文章に緊迫感が張りつめています。
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小林よしのり『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』(1998年7月10日初版第一刷発行・小学館)は、太平洋戦争(著者は「大東亜戦争」と呼ぶ)をテーマにした、描きおろしコミックの単行本。コミック版『大東亜戦争肯定論』(林房雄が懐かしい)といった趣で、あの戦争について、これまで、いかに偏った報道や解釈が意図的にされてきたか、と例証をあげて反駁する部分と、実際はどうだったかという聞き描き体験談、という二本立てを織り交ぜて構成されている。戦争のもつ多面性を具体的に描いた箇所では、中国軍の便衣兵戦略や、撫順の戦犯管理所の存在など、今まであまり知られていなかった興味深い指摘もあり勉強になります。しかし、そういう細部に踏み込んだ記述に釣り合わない、戦争評価の明快な割り切り方。もちろん著者は確信犯で、今や日本がアメリカと戦争したことも知らない人もいる、という若者世代を念頭においた戦略本とみました。
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国立歴史民俗博物館編『銅鐸の絵を読み解く』(1997年3月31日初版第一刷発行・小学館)は、表題どうりの内容の本で、佐原真氏(国立歴史民族博物館副館長)の解説文、歴史フォーラム「銅鐸の絵と子どもの絵」(6氏が参加)、佐原真、春成秀爾氏による対論「銅鐸の絵をどう読み解くか」、銅鐸絵画集成、の各章からなる。「銅鐸」は紀元前2世紀頃から紀元後2世紀頃につくられた祭祀用のカネで、これまでに430個ほど発見されたものの内、55個に絵が描かれているという(97年時点)。描かれているのは、トンボやカエル、カマキリ、といった昆虫、サギ、カメ、猪、鹿といった鳥獣、人物、高床の建物など。現在知られている銅鐸の絵すべてが資料編として収録されているので、シンプルな線描の絵そのものを鑑賞するのも面白いが、考古学者や専門家の人たちがそれらを文字通り絵解きするプロセスも面白い。子どもの絵や抽象絵画との比較など、あれこれ想像を交えて話が膨らんでゆくのは、学術的な討論ながら、どこか牧歌的な雰囲気があって和やか。歴史フォーラムには漫画家(だった)池田理代子氏も参加しています。弥生時代の人物の顔の絵の多くには、目に虹彩が描かれていない(白目)ということを、初めて知りました。
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村上春樹『夢のサーフシティ』(1998年7月1日初版第一刷発行・朝日新聞社)は、付録にCD-ROMがついているエッセイ集。というよりも、本文がCDの内容のダイジェスト版になっていて、実質的な内容は付録CDのほうにあるという体裁。CDには、インターネットで公開(96年6月〜97年11月)されていた「村上朝日堂ホームページ」が、ほぼまるごと収められている。メインは著者が読者のメールに応答した交換書簡の文章で、収録されているメールの総数は1858通、単行本に換算すると10冊以上の文字量になるという。読者からの多種多様なメールに、けして斜に構えずに丁寧に答えているのが、まさにこの作家の人柄、かつ持ち味で、全体がほのぼの系のなかで、「アンダーグラウンド」についての応答など読み応えがあります。CDは、ブラウザで読むようになっているので、なんだかアクセスしている気分。本書の見本版のある、「村上朝日堂」のホームページ
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高間康史『図解・人工生命を見る』(1998年3月2日初版第一刷発行・同文書院)は、ひろく人工生命関連の研究やその成果を、写真や図解入りで紹介した本。1987年ロスアラモスのサンタフェ研究所で第一回人工生命国際会議が開かれ、人工生命という言葉、概念が広く世界中に知られるきっかけとなったという。研究内容はウェットウェア(生物学)、ソフトウェア(コンピューター科学)、ハードウェア(ロボット工学)に大まかに分けられるというが、本書では、そのうちソフトウェア系を中心に紹介されている。ノイマンのセル・オートマンやコンウェイのライフゲーム、ドーキンスのバイオモルフ、Lシステム(形態の発生を規定する文法)を利用したフラクタル図形や、CGアート、学習ロボットや遺伝アレゴリズムなどの話題、はては「たまごっち」や、「森川君2号」、「フィンフィン」といったゲームまで盛りだくさんに紹介されている。それぞれの紹介は、科学雑誌のトピック記事といった感じの短文だが、人工生命研究の流れとその広がり、様々な分野への応用研究の成果の、おおまかなイメージをつかむのには適当な本。
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長尾高弘『縁起でもない』(1998年8月15日初版第一刷発行・書肆山田)は、長尾高弘さんの第三詩集。柔らかな、飾りのない言葉で、さりげない日常生活のひとこまから切り取られた感慨や驚きが味わい深く綴られています。なかには、シュールな味のある幻想的な作品群も収められていて、言葉の意外な運びを読む愉しみも。幾つかの作品にも登場するご子息ナオキ君の生誕を歌った美しい「夜の海から」、生活秩序に慣れることの安定感とうらはらな疎遠感・はがゆさを、的確な言葉でしたためた「宙吊り生活者」など、37編を収録。「ずいぶん透き通ってきたものだね」という語りかけではじまる「君の色」という作品は、歳月を確かな足取りで踏み越えてこられた作者の詩と生活の現在を明かしているように思えます。長尾さんのホームページ「Longtail Co., Ltd.」。
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土屋賢二『人間は笑う葦である』(1998年7月25日初版第一刷発行・文芸春秋)は、「お笑い哲学者」による、月刊誌、週刊誌、専門誌、新聞、通販雑誌などに掲載されたエッセイ、コラムを集めた本。内容は例によって基本的にユーモアエッセイ調だが、そういう事情で、なかに何編か肌合いの違う文章も紛れ込んでいて楽しめる。「ナンセンスの疑い」は有意味な問いと無意味な問いの違いについて、分かりやすく著者の考え方を述べた一文で、「ユーモアのセンスとは何か」では、著者のなんともおかしな文体の秘密を明かしているようなところがある。「首相になれといわれたら」には、橋本前首相と新聞記者のやりとりを読んでの感想が書かれているが、この観察は鋭く辛辣で、著者が普段ユーモラスな文体の底に静かに秘めている批評精神躍如というところ。そうとう、むっときたのだと推察しますが。。。おかしいほうでは「丈夫なものの運命」には小説の才能が、「写真うつり」では画才がほの見えて、すばらしい。「深刻なみせかけと闘い、できればそれを笑えるような形にしてみせること」。
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SE編集部編『Painter スーパーアートワークス』(1998年6月30日初版第一刷発行・翔泳社)は、パソコンのグラフィックソフト「Painter」のテクニック、表現集。類書と異なっているのは、18名の執筆者が、それぞれ自作のイラストを例にあげて、その製作過程や表現技法を分かりやすく解説しているところ。38作品に及ぶ掲載イラストの手法も多彩で、こういうタッチのイラストは、こんな技術で描かれていたのか、ということが一目瞭然。真似してすぐできるというわけではありませんが。。。執筆者の面々のホームページアドレスも掲載されていて、作品に興味を持ったら作者を訪問できるという愉しみも。実はこの本、キキハウスからリンクしている植田さんも参加しておられて、書店で見覚えのあるイラストを見つけて驚きました。植田さんのホームページ「TAR's ArtGallery」。
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馬杉宗夫『黒い聖母と悪魔の謎』(1998年7月20日初版第一刷発行・講談社現代新書)は、西欧中世のキリスト教美術の造形作品についての、図像学的な謎解きの試み。キリスト教美術といっても、造形作品をつぶさに眺めていくと、なぜ一部のマリア像は黒く塗られているのか、とか、目隠しされた女性像の意味は、とか、奇怪なガルゴイユ(ガーゴイル)はどうしてつくられたのか、とか、様々な素朴な疑問が涌く。本書は、そのように、キリスト教美術の中でも、ちょっと異様で、変わった印象をもたらす表現に注目して、図像の歴史的な由来を紹介しながら、その文化的な意味を探求する試み。本の表題がオカルト系みたいだが、内容は至って堅実で学問的。由来を辿ると、それらの多くは遠くケルト文化にいきつくというのが、大まかな流れで、著者は結構独自なな解釈も提出している。葉人間(グリーンマン)に一章が当てられているのが愉しい。
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田中聡『怪物科学者の時代』(1998年3月5日初版第一刷発行・晶文社)は、明治期以降の日本の産んだ異色の科学者列伝。電気神道を説いた明石博高、念写実験で有名な福来友吉、科学的仏教を提唱した井上円了など、総勢16名の小伝と、諸氏の提唱した主義主張や学説の概略が紹介されている。なかには、奇説の紹介に終始したような、トンデモ本の探求みたいなところもあるが、寺田寅彦、南方熊楠、稲垣足穂の3氏の紹介には、著者自身、すこし距離をつめて共感を示していて(そこには科学に通うエロスがあるという)、ふりかえって現代の科学のあり方を問い、そこに生じている断絶を憂うという著者の見解が、あとがきで述べられている。江戸時代以降、自然宗教思想を理念化した禅や易の世界観、宇宙観が、それなりに知識人に浸透していた風土に、西欧近代科学の横波が押し寄せた。そんな様相のなかで、理念相互の葛藤と融合という深刻で特異なテーマが浮上してくる。解答はそれぞれだが、翻って応用問題を解くというより、問題そのものを生きた人々の姿。。。
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鮎川潤『犯罪学入門』(1997年7月20日初版第一刷発行・講談社現代新書)は、広く犯罪行為一般について、犯罪学、犯罪社会学の立場から、具体的な事例をあげながら解説した本。殺人、薬物犯罪、性犯罪、企業犯罪(組織体犯罪)、少年非行、と章別に論じられていて、さらに犯罪者の処遇と司法制度との関わりや、被害者学についても別章で解説されている。折々に現代の犯罪学の考え方なども紹介してあるので勉強になります。全体に官公庁の発行する白書みたいな感じで、統計的な数字を駆使して、実状を紹介しながら、それなりの問題点を指摘するという手堅い筆致が特徴だが、論述が抑制されているだけに、日本の司法制度についての批判には重みがある。これほど国民のチェックがまったく働いていない裁判制度は世界でも珍しいと著者は言う。では、裁判官は良心と法律に従って判決を下しているのかといえば、そうではなく、10年ごとの、再任、昇格の権限を持っている最高裁事務総局の顔色を窺っているのが実状だという。ううむ。
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上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(1998年3月15日初版第一刷発行・青土社)は、「現代思想」96年10月号、「インパクション」97年7月号に初出の評論に加筆改稿したもの。第一部「国民国家とジェンダー」は著者の提唱する「反省的女性史」の考え方で、戦中戦後の女性運動家たちの足跡を検証したもの。第二部は、「従軍慰安婦」問題が、これまでに社会問題化されてきた経緯を追うと同時に、様々な立場からの観点を紹介・検証した論考、第三部「「記憶」の政治学」は一、二部の論点や成果をふまえた、歴史研究の方法論の考察、といった体裁になっている。全体を貫くモチーフは、フェミニズムはナショナリズムを超えられるか、という問題意識。いわゆる正史のなかに女性の主体性を再発見していったフェミニズムの試みは、女性を歴史の受動的な犠牲者とみなす観点から、皮肉なことに、歴史における女性の主体的な共犯性や加害責任を追求することに繋がっていった、と著者はいう。「反省的女性史」もそうした流れにあるが、それを問うことが一国のみに終われば、反省史はマゾヒズムで終わってしまう、とも。単一のカテゴリーの特権化や本質化を徹底して相対化するという著者の方法論は、類書から際だっています。
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池田晶子『残酷人生論』(1998年3月20日初版第一刷発行・情報センター出版局)は、「RONZA」に95年4月から97年6月にかけて連載された哲学コラム「新世紀オラクル」に同量の書き下ろしを加えたもの。人間の悩みは、「私とはなにか」「なぜ生きているのか」「死ぬとはどういうことか」といった、幾つかの問いの基本形に集約されてしまう、と著者は言う。そのうえで、それらの問いに正面から答えた試みが本書である。「子どもの頃から精神性以外のものを価値と思ったことがない」、という著者は筋金入りの哲学志向。その見返りに「死をを恐れないという特権を得た」という。死とは生を生たらしめている観念である。生とは、どこにあるかといえば「今ここ」にしかない。しかし「今ここ」は瞬間に過ぎてしまい、「ここ」というとき既に「ここ」にはない。したがって死も、生もない。。一見、言葉の遊びのように思える人は、本書を読むと、著者の論理の背後に沈潜する思念の奥行きや広がりが、きっと体感できるはずだ。道徳は学ぶことができるが、人は、内的直感をきたえあげることでしか、倫理的になれない、という美しくも恐ろしいメッセージ。
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池田晶子『さよならソクラテス』(1997年12月10日初版第一刷発行・新潮社)は、「新潮45」に連載されていた哲学コラムの集成に、書き下ろしを加えた本で、『帰ってきたソクラテス』、『悪妻に訊け』に続くシリーズ三部作の完結編にあたる。哲人ソクラテスと、本音の庶民感覚を代表するその妻クサンチッペのかけあい哲学漫談というかたちで、時事的な話題や本や映画についての著者の批評や見識が盛り込まれている。高名な歴史上の人物の口を借りて、自分の思うところや哲学的信条を述べる、という大胆な仕掛けは、下手をすると嫌みになりがちだが、このシリーズがそんな感じを抱かせないのは、演劇的な対話によって生まれるリズムが自然に言説を相対化していることと、なによりも圧倒的な共感と力業で、著者がほとんどソクラテスその人になりおおせているからだろう。実際のソクラテスがこのように考えるかと言えば疑わしいかもしれないが、彼と共有する理路からすれば真実だと著者はいいたげ。その信念が時に曲芸のように見える形式論理にも暖かい血を通わせている。
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高澤秀次『評伝 中上健次』(1998年7月10日初版第一刷発行・集英社)は、文芸誌「すばる」に5回にわけて掲載された評論の集成。著者は『中上健次全集』の年譜製作者でもあり、幾多の小説作品の舞台ともなった作家の故郷、熊野、新宮といった土地の風土や、作家の血縁関係などについての考証も精密。労作という一語につきる。「今生きている人々に、中上がどう生き死んでいったのか、彼がどんなにいい作家だったかを、分からせてやりたかった」(あとがき)という言葉にも共感。ただ、本書は、伝記的な資料を一般的な読者に提供して健次文学の世界に誘う「評伝」というより、むしろ作品論的な解釈が中心の文芸批評的な色彩の濃いものとなっているのが特色。
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山本夏彦『死ぬの大好き』(1998年6月30日初版第一刷発行・新潮社)は、週刊新潮連載の「夏彦の写真コラム」の99回分(96年2月〜98年4月)の集成。週刊新潮の連載も18年目になるという。この著者の文章を愉しんで、10年以上になると思うが、普段雑誌類を読む習慣がないので、たまに新刊のエッセイ集などを見かけて気が向くとその場で購入することにしている。いつも相変わらずの切り口と文体が壺にはまっていてあまり裏切られた覚えがない。「この世は生きるに価しないところだと私は子供心に天啓に打たれたから以後人間の見物人になったのである。」と書く著者は、その天啓の何たるかを明かさない。逆に、この「人間の見物人」という場所から、「告白なんてみんな自慢話」ではないか、ときりかえすのだ。著者の発想の底には、いつも「情け」とでもいうしかない情緒があって、それが人の偽善ぶりやあさましさを暴き立てる場合にも、歯切れのいい話体の中にひそんでいる。言葉で言葉を切って人を切らず、とでもいうべきか。
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カレル・ヴァン・ウォルフレン『なぜ日本人は日本を愛せないのか』(1998年3月10日初版第一刷発行・毎日新聞社)は、世界的なベストセラー『日本/権力構造の謎』(早川書房)や、『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)などで、長年日本社会の特殊性に言及し、数々の提言を続けてきたオランダ人ジャーナリスト(現アムステルダム大学教授)による、「日本というコントロール中枢を欠いた自己完結的なシステム」の特徴を辛口に指摘した本。著者が到達しているのは、たてまえや教条的な思想信条を排除したところに潜む裸形の日本人の国民感情によりそう場所だ。そのような場所への共感が、著者の考える普遍的な「個人」の創出の可能性への希求に重ねられている。大江健三郎から梅原猛に至る知識人たちの左右イデオロギー的な色彩に彩られた言説への批判や、昨今の藤岡信勝氏たちの提唱する「自虐史観」批判の盛り上がりに底流する庶民感情への心情的共感と運動そのものへの批判、江戸期の安藤昌益の思想や、自由民権運動家、植木枝盛の憲法草案への共感。こうした著者の思考は一方で、愛国心(むしろ郷土愛というイメージに近い)の必要性や、確固とした(世界と共有できる)歴史認識の必要性、日本憲法の改正を自明の国民の権利として説く。柔軟で、かんでふくめるような丁寧な文体が印象的。
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アイヴァン・ホール『知の鎖国』(1998年3月15日初版第一刷発行・毎日新聞社)は、著者が「心のカルテル」、「知のカルテル」と呼ぶ、日本社会のかかえる様々な分野の知的障壁について、問題の所在を具体的な経緯と共に指摘した本。日本の弁護士制度の外国人弁護士参入権をめぐる不公正さの問題、記者クラブや日本新聞協会にみられる外国人特派員排除や差別の問題、外国人大学教授の雇用や解雇に関する差別的待遇の問題、外国人科学者(技術者)の長期雇用や外国人留学生の被る物心両面での排他的待遇についての問題が章別に論じられて啓発的だが、本書では、文化交流事業や批評言論活動に関する障壁を論じた第5章が、ひとつの見えにくい問題の所在を、かなり煮詰まったかたちで明かしていて興味深い。そこでは日本の経済・政治システムについて批判的な著作・論文の外国人著者に対する、日本政府の有形無形の圧力という問題が指摘されているからだ(ウォルフレン氏の被った事例などもあげられている)。このことは、逆に、日本社会(文化)システムに迎合的なことを書いて、優遇されている一群の外国人著作家たち、という奇妙な囲い込み現象の存在も浮き彫りにしている。素朴な外国人(知識人)信仰と裏返しの畏怖や差別意識がその温床である限り、「知」のビッグバンは前途遼遠、というところか。
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高橋裕子『イギリス美術』(1998年4月20日初版第一刷発行・岩波新書)は、コンパクトな英国美術史。絵画の歴史だけでなく、庭園や建築やデザインなどといった側面からも英国美術の特徴をとりあげています。肖像画、風俗画、歴史・物語画、風景画、世紀末(19世紀)のイギリス美術、といったジャンル別の章だてになっていて、解説も平易で、難解な美術用語に悩まされることもなく、とても読みやすい。それでいて大陸とはひと味違う英国美術の歴史的な特徴とその魅力を的確に捉えているように思います。文中に記号が振ってあって、多々掲載されている絵画写真にとべるのも丁寧なつくり。今年(98年)は前半に、東京上野、神戸でテート・コレクションの美術展が開催されましたが、その前に出版されなかったのが惜しい。また、こういう本は若い頃に読みたかったなあ、という感じで、気軽に読めるオーソドックスな美術系入門書として、絵画に興味のある若い方にお勧めしたい。
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赤瀬川原平『老人とカメラ 散歩の愉しみ』(1998年4月25日初版第一刷発行・実業之日本社)は、「週刊小説」に5年間連載されていた「路上写真 キョロキョロ堂」というフォトエッセイの集成。見開きの片側が写真という構成で、カメラを片手に日本中(なかには外国も)を散歩して、路上で発見した変な風景やオブジェを撮影した写真に、短いコメントを付したという体裁。さらさらと眺め読むと、時々ぎょっとした変なもの、著者がトマソンと呼んだりするオブジェに出会って思わず立ち止まる愉しみ。週刊誌連載の5年ぶんなのでボリュームがあって、とても一度では見切れません。こういう写真は、実は作為性とすれすれの世界。被写体に、絶対作為を施さない、見たままを切り取ってくるというのが、作為だらけ、やらせ映像だらけの情報洪水の世界の中で、爽やかな著者の倫理みたいなものを感じさせる、とは考え過ぎかな。変なモノを変だと感じたり面白がれるのもセンスが必要で、押しつけがましいと感じたら心はてきめん白けます。ということで、こういう世界にも、存外きびしいものがある。著者と「きょとん感」を共有する紙上の散歩を堪能したら、デジタルカメラでも持って出かけませう。。
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新関公子『「漱石の美術愛」推理ノート』(1998年4月25日初版第一刷発行・平凡社)は、月刊美術雑誌『繪』に96年9月から連載された美術エッセイのうち、夏目漱石について書かれた15回分をまとめた本。従来、漱石と絵画美術とのかかわりは、ロセッティやミレイといったラファエル前派との関係が重要視され、研究もされてきたという実状がある。本書は、漱石の美術教養がそうした世紀末英国美術への関心に留まるものでなく、古典芸術の理解や印象派への関心など、より大きなスケールの中で捉え直すべきであるとしたうえで、作品にみられる引用という側面では、むしろ同世代の日本の近代美術の影響を指摘して、これまでの研究に一石を投じる刺激的な内容になっている。「ラファエル前派の時代錯誤の復古趣味と退廃的耽美主義がイギリス美術を偏狭なものにした」という著者の見解は、美術史家としては、あまりに紋切り型では、という感慨がないこともないが、『それから』を中心にした青木繁の絵画との関係や、『虞美人草』に登場する屏風の謎に迫るエッセイなど、実例をあげての数々の指摘は説得力に満ちていて、推理小説を読むようで面白く、質の高い美術・文芸批評として堪能できます。
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