西帰行・抄


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囁き  饒舌な就眠のためのエチュード  植樹 

夕光  残像  西帰行



囁き


赤らんだ雑木林を抜けるとき
夕映えが目に痛くて 影が
魅入られてはいけないと 告げるなら
悔いもしよう 浅瀬のような歳月を

なぜ僕が君でなく 君が僕でないのか
そんなはかない懐疑と証明のために
むすうの理路と情念を費やしてきた

ひどく貧しい 心も 欲望も
そして 希望さえ貧しい

力が欲しいのだ と 影が囁く
世界を転位させるためでなく
沈黙が許せるだけの 力が欲しいのだと

登りつめてみても
風ばかりはげしい空だった



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饒舌な就眠のためのエチュード


僕は存在しているのだが
(ちょうど 灰皿やコップのように)

僕は抜くであろう一本の虫歯
僕は治癒するであろう指先の擦傷
僕は洗うであろう空のコップについて
考えている 流れて
留まりはしない日々の泡について

僕は腸壁に住みついた
無数の微生物たちと空腹を共有している
僕は眠られぬ夜の大気を
鳩や生まれたての子犬たちと共有している
僕は絵画の中の女を
髭づらの画家の瞳と共有している
僕は食べこぼしたパン屑をゴキブリと
流した汗を下水管と共有している
僕はすみれ色の血を 重たい
秋の蚊と共有している
けれど

明日になれば僕は
白い雲に包まれて丘を登るだろう
夢みられた明日には
いつも光背のようなものが燃えている
こうして冷えてゆく身体に
ずれかけた毛布を羽織っているのが
いつも明日の実現であるのに変わりはないのだが

昨日の僕は どこにもいない
破られた約束 ねじれた煙草
僕は空に浮かぶ巨大な
赤い唇として存在していたか
泳いでいるアヒルの尻尾のようなものとして
皿に溜まったソースの痕跡として
壁に押しつけられた子猫の手形として
包帯のうえの鮮やかな血の染みとして
僕は存在していたか

昨日の僕はどこにもいない
おお 時は劇場であり病院であり
僕たちはみな 暖かい肉の時計なのだが

埃のように闇がつもり
ココアは砂袋のように胃にあふれ
眠りが身体の隅々まで
パスカルの原理のように拡がって行く
こんな夜には たとえ
母を演じているのが灰皿だったとしても
誰も驚きはしないだろう

僕は何度もベッドのうえで寝返りをうつ
椅子のうえには傾いたコップ
その釉薬のうえに映るスタンドライトの
機械の瞳のような澄んだ光



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ARCH




植樹


鳥のさえずり
低い洗濯機のうなりさえ
全てが心地よく
疲労の耳に届けられる

汗が流れ尽くすと
身体は火のように熱くなる
ひとすくいの土の重さが
世界の重さを量っている

木と言葉を交わし
かすかな香りの応答を確かめ
僕はちいさな植樹の儀式を終えるが
ほんとうは 何を運び
何を終えたのか
遂に 知らされぬままである



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夕光


吹き寄せた落ち葉のたまりに
野鳥の羽根が混じっていて
美しい縞模様の蜂のむくろも
澄んだ大気のなかで震えている

不意に訪れた秋の残照
僕は歩みを止めて眺め見る

目と耳と指で世界をなぞりながら
勤勉な蜘蛛のように仕事をする
そんな罪のない憧れが
死に瀕した季節の淵で
何故 不意にたちあらわれる?

拙いフーガも老犬の影も
やがて夕日のなかで燃え尽きるだろう
終わってしまった未来について
何を 惜しむことがあろうかと



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残像


自由であることが
凶暴な意志の突出ではないと
信じさせるのは
冷酷な美意識だけかもしれぬが

展かれた窓から
外部をかいまみてしまったものに
どんな自由が在り得るのだろう

あの朝の緑の中へ
滴に濡れたまま参入したいと
僕はそう思い
そう思うことから
いつから逃れられなくなったのか

隠されたこだわりが
救えぬことが哀しみであるかのような

生のさなかに 生を愛惜する
白雨にうたれて笑まう人の残像を
温かいベッドに運ぶ



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西帰行


島を巡る
不信心な僕らの参拝路は
中腹の 暗い
簡易食堂の一偶に行き果てたのだが

海を臨む
窓からの眺望は素晴らしく
夕凪のたいらかな水面に
落日が太い光の柱となって
燦然と貫いているのが見えた

そうして僕らは
鮮やかな朱色の真円が
青灰色の山の端に沈むのを
長い間みていた

心は海にとけ
そうして僕らの心も
海に溶けたか
騒ぎ立つ波の想いを
その時だけは脱ぎ捨てて

どこからか
こみあげるものを抑えながら
ひんやりしたビールを口に運び
僕も また
明日の勇気について
語ろうとしていたのではなかったか



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ワープロによる小詩集「西帰行」(1986年11月)より抜粋転載。