スター97



ピーター・グリーナウェイの愉しみ



ARCH

「映画のおぞましき“美”をつかみとる勇気と楽しさをこそ抱いてほしい。」淀川長治




断片的な感想と作家の紹介

  グリーナウェイの映画について

  グリーナウェイとナイマン

作品の鑑賞

月曜日 庭園のスケッチ 「英国式庭園殺人事件」

火曜日 腐って行くリンゴの観察 「ZOO」

水曜日 イタリア式腹痛 「建築家の腹」

木曜日 海辺のゲーム 「数に溺れて」

金曜日 アスパラガスは手づかみで食べること 「コックと泥棒、その妻と愛人」

土曜日 プールに浮かぶ難破船 「プロスペローの本」

日曜日 枢機卿になった牛 「ベビー オブ マコン」

そして 水瓶の中の女 「ピーター・グリーナウェイの枕草子」

さらに 棒状のものの並び替え 「「垂直構造」のリメーク」

さらに 水彩画の旅 「Hを通り過ぎて」




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グリーナウェイの映画について

 グリーナウェイほど、極端に好き嫌いの別れる監督はいないとは、よく言われることらしい。嫌われる理由として、その衒学趣味とも思えるほどの過剰な知の身振りや、死の弄びかたや、残酷だったり過激だったりする性の描写などがあげられるようだ。私はというと、ビデオ化されている長編映画8作品を、まとめて短時日のうちに見たばかりなのだが、とても面白く刺激的な作家だと思った。リリカルで妙に扇情的なマイケル・ナイマンの映画音楽の旋律も効果的で、すばらしかった。普段、映画専門チャンネルを見ているせいで、どうもハリウッド映画の近作ものばかりに慣れてしまっていたせいもあるだろうが、久々に映画のイメージの枠組みを拡張してくれる作品に出会ったという感じだ。枠組みの拡張というのは、映画美術に関することと、倫理的な規制に関することのふたつである。

 映画美術についていえば、この監督が、もともと実験映画の制作者であったらしいということと、画家でもあるということが関連していると思えるが、私もまた、おそらく誰でも指摘したくなるような彼の映画技法の特色、色彩の使い方とかカメラの移動とかシンメトリーの多用、遠近法の取り入れ方とかいったことの鮮やかさに、やはり魅了された。特にフレームの中に小さなフレームをつくりこんでひとつの画面に多重な意味をもたせる手法は興味深いもので、これは「ZOO」(85)で実験映画みたいな仕方で取り入れられているが、「プロスペローの本」(91)でいっそう洗練されていき、最新作の「ピーター・グリーナウェイの枕草子」(96)では、主人公の過去を入れ込むことで心理的な多重な時間の同時的な表現に挑戦しているように見える。この新たな試みは、うまく成功しているとはいえないと思ったが、一部で芸術映画の巨匠のように呼ばれても、こうした反撥を招きやすいような新しい試みへのチャレンジ精神が衰えない、そういう姿勢に共感を覚えた。

 倫理的な規制に関することといえば、死や性の表現についてである。ハリウッドのホラー映画や、異常犯罪をテーマにした映画などにも、ただ残酷だったり性をあからさまに描くという映画は沢山ある。しかしそれらの多くには、制作者に暗黙の規制が働いていて、映画表現を貧しくしているように思える。その暗黙の規制をなんといえばいいのかわからないが、この一線を超えては反感を買って商売にならないというハリウッド映画の倫理規制のようなものだ。それはアメリカ社会の大衆心理と通底していて、そうした映画が世界中に流れていく。その速度と規模はますます増大していっているのは周知の事実で、世界のアメリカ化ということに関連しているだろう。

 映画表現には何でも許されるというようなことがいいたいのではない。ある種の表現は許される、などと言ったとたんにそれは安全なもの、暗黙の規範的な思考の中に囲い込まれてしまうという表現にまつわる事情について、少し考えを巡らせてみたいだけだ。大げさに言えば、私たち人間の人間であるという観念の輪郭はいつも揺らいでいて、今のところ、そこに確定した境界線は引かれていない。そこに境界を引いて確定したい言説と、その先まで人間という観念を拡張したい意志がせめぎ合っている見えない領域がある。そのどちらにも根拠があって、単純な正邪の決めつけはできないのだが、映画表現もまた、その表現形式の限界に囲われたなかで、同じ見えない領域で境界を巡って模索している。そういうようなことだ。

 グリーナウェイの映画の魅力は、過剰な博物学的な知性の行使する暴力のようなものだ。この知性は、ある異質なもの同士が暴力的に出会うときの驚きや美やおぞましさの印象をもたらすために、あらゆる映画的な装置や手法を動員する。登場人物もまた、そのための道具に他ならず、むしろ時として恰好の素材として登場する。グリーナウェイが若年時に、シュールレアリズムやダダイズムの影響をどれほど受けているのかしらないが、私にはかなり本格的な場所で、そうした芸術思想をくぐり抜けた人のような気がする。

 ロートレアモンの「手術台の上でのミシンと蝙蝠傘の出会い」ではないが、異質なものの出会いに遭遇したときの衝撃、あるいは名状しがたい想念には、どこか人を笑いに誘うところがある。私たちの意識は、実のところとても保守的で習慣になじんでいるので、その想像力の糸が途切れたり類推のたがが外れたとき、一瞬エアポケットが生じるのだ。異なるイメージの衝突しあうところにこそ美が生まれるという考え方が、一見わかりやすそうなのは、そうした異質なものの取り合わせに新鮮で意外な感じを抱くような経験を誰でももっているからだろう。

 しかし、この取り合わせはミシンや蝙蝠傘といった目に見えるモノどうしとは限らないし、いつも安全で笑いを誘う言葉の遊戯に終始するというわけでもない。「死」や「性」といった人間の倫理がからむ領域にまで表現が拡張されたとしたらどうなるのか。グリーナウェイは「死」を弄ぶと言われる。しかしどこまでがブラックユーモアとして許される、と言えるような境界は芸術表現には存在しない。ことは映画という限定された表現形式の中での美の探求にあるのだ。シュールレアリズムの思想の根本に抱えている過激な部分が、芸術形式の枠を超えて現実意識の変革に向かう可能性にあるとしたら、グリーナウェイは優れて芸術志向の強い作家のように思える。

 グリーナウェイの映画には必ず数えられる事象が繰り返し登場して、その数としての存在を主張する。それは庭園のスケッチの枚数だったり、腐っていく動物の映像だったり、シンメトリーの建築の風景だったり、繰り返される殺人だったり、開かれる魔法の本の数だったり、強姦した男の数をカウントする声だったり、肉体に描かれて届けられる手紙の数だったりする。その対象が何であるのかよりも、それらが数えられ、くりかえされることが重要なのだといいたげに。「数に溺れて」に仕組まれた数字遊びが典型的だが、そこでは盥にペンキで描かれた数字から、標識、紙片に書かれた文字、ジョギングする人のゼッケンナンバーに至るまで、この数のカウントゲームに参加している。

 なるほど、それはちょっと楽しげな試みだが、そんなことに何の意味があるのか。確かにそのこと自体に重要な意味があるようには思えない。しかし、数えられることを契機にして、このとき対象は微妙にその意味を変えるのだ。無意味だと思っていたものが意味あるものへと。また逆に意味あるものと思っているのが無意味なものへと。私たちは、あるひとつの対象の意味について考えているとき、そのバリエーションや複数性のことを考えていない。逆に対象の複数性や、類としての側面を考えているときに、その単数性や固有性のことを考えていない。そして、私たちはどうやら対象がひとつで、単独性として考えられることに、価値を見いだしたり、意味を見いだしたりする傾向のうちに捉えられているのではないか。私たちはグリーナウェイの事象を数えることへの偏執に、こうした微妙な意味の変質へのこだわりを見いだす。

 そしてまた、何と数多くの、数え集める人、蒐集家たち、そしてマニアックに対象に情熱を傾ける人々が彼の映画には登場することか。家族を顧みずに庭園への趣味に没頭する貴族(「英国式庭園殺人事件」)。愛人に絵画の扮装をさせるフェルメールの愛好家、動物の腐敗してゆくプロセスの撮影に没頭する双子の兄弟(「ZOO」)。過去の建築家の回顧展の準備に入れあげて破滅してしまう建築家(「建築家の腹」)。多種多様なゲーム、とりわけ死の儀式に熱中する少年(「数に溺れて」)。レストランでも本を手放さず、最後には愛読書を口に押し込まれて殺されてしまう本屋の主人(「コックと泥棒、その妻と愛人」)。24冊の魔法の本に耽溺する元ミラノ大公(「プロスペローの本」)。異性の肉体に筆で文字を描く歓びに中毒している愛書家の娘(「ピーター・グリーナウェイの枕草子」)。。。。

 数として数えることは、本当は、生成変化しているものを、無時間的な瞬間の意味に閉じこめようとする時に生じる空虚さをまとう。対象はいつも数から逃れさり、それは私ではないと主張する。この虚しい囚われの中で変幻する意味を生きたい願望もまた、蒐集家のものだ。グリーナウェイは人が数に溺れ、蒐集に憑かれることを手放しで礼賛してはいない。映画では、先にあげた登場人物たちのほとんどが殺されたり破滅して自殺してしまう。かれらはけして幸福な生を生きるようには描かれていない。ミラノ大公プロスペローと、ナギコだけが生き延びるのだが、どちらの映画にも、愛書家だった彼らが、その書籍を焼き捨てたり水に投げ捨てて再出発してゆくシーンが挿入されているのは象徴的だ。

 映画「プロスペローの本」の出だしで、プールに浮かんだ帆船の模型に向かって、空中ブランコに乗った子供が小便小僧のように長々と放尿をしているシーンが登場する。孤島に落ち延びた元ミラノ大公が、自分を追放した弟たちに復讐するために、彼らの乗った船を島に呼び寄せる。そのために魔法で操っている妖精に嵐を起こさせているという場面だが、およそ、グリーナウェイ以外の誰が、シェークスピアの戯曲「テンペスト」の原作から、こうした荒唐無稽で、俗悪かつユーモラスな、奇想に満ちた場面の映像化を考えつくだろうか。そう思うと。。。


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ARCHピーター・グリーナウェイ 1942年、ウエ一ルズに生まれる。1946年にロンドンに移住。ウォルサムストン美術学校で絵画を学ぶ。1965年、セントラル・オフィス・オブ・インフォメーション(COl)で映画編集に携わり、絵画を描き、小説を執筆する一方で、実験映画を製作するようになる。「Hを通り過ぎて」(78年)で、シカゴ映画祭ヒューゴ賞を受賞。80年に英国アカデミー賞を受賞。1982年、「英国式庭園殺人事件」で長編劇場用映画に進出した。小説作品に『ローズ』。ドローイングの作品集『ペイパーズ』などがある。






ARCHマイケル・ナイマン 1944年3月23日ロンドンに生まれる。王立音楽院で、ピアノ、ハープシコード、作曲を学び、卒業後は、主にバロック音楽の研究に専念。その一方で、前衛的な実験音楽等にも親しみ、1976年、ブライアン・イーノのオブスキュア・シリーズの1枚として、「ディケイ・ ミュージック」を発表して以来、音楽家としての活動を開始。これまでに世界の様々なレーベルから10 枚以上のCDが発表されている。1982年以降は、ピーター・グリーナウェイの 「英国式庭園殺人事件」「ZOO」「数に溺れて」「コックと泥棒、その妻と愛人」の他、「ピアノ・レッスン」(1993年カンヌ映画祭でグランプリを受賞)など映画サウンドトラックを手掛けている。
 「ナイマン・サイト」へ。
 


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「英国式庭園殺人事件」(原題 THE DRAUGHTSMAN'S CONTRACT )

 17世紀のイギリス。地方の貴族ハーバート氏の館に招かれた若い画家ネィビルは、ハーバート氏の妻バージニアから、氏が館を留守にする12日の間に、12枚の庭園の風景画を描いてほしいと依頼される。退屈な絵は描きたくないというネィビルに、夫人は、絵画1枚につき8シリングの報酬と、従者ともども滞在中の寝室や食事の提供、さらに自分が画家の情事の相手になることを条件として、書面で秘密契約を交わすことを申し出る。仕事を承諾したネィビルは、館に逗留、様々な角度から、館と庭園の絵を描いているうちに、自分が選んだ構図のなかに、奇妙なものが紛れ込んでいるのに気付く。誰が置いていくのか、寝室の窓に立てかけられた梯子や、不在の筈のハーバート氏のマントや靴など。ネィビルは、忠実に、それらを絵画に描きこんでいくが、これはなんの謎なのか。。。そうして、或る日、発見されるハーバート氏の溺死体。館に住む貴族たちにも遺産をめぐる思惑がありそうで、どうにも怪しい。。。

 殺人事件の謎を解くというより、そのプロセスの描写に重点を置いた映画。庭園風景をネィビルがスケッチするシーンで、映画のスクリーンの中に別のフレームを持ち込むという構図へのこだわりは、異なるバリエーションで後の映画作品にも現れるところだが、その頻度がかなり高くて、ただではすまない感じ。ところで、この映画の殺人犯は最後まで謎。犯人を、暗示するようなエピソードが、沢山でてくるが、制作者自身、犯人を特定しているのかどうかも怪しい。庭園の彫刻が動き出すのも謎で、ストーリーと関係のないお遊びのようだが、ワイルドの短編やら、シラノやらを連想させる文学趣味との関連はありそう。

 英国の美しい人工的な庭園風景を背景に、遺産相続をめぐるどろどろした人間関係を描いたグリーナウェイ監督の長編第一作。監督が画家でもあるということで、映画の中で、これほど線描で描かれたスケッチ画の瑞々しさが際だっている作品も珍しい。

「英国式庭園殺人事件」(監督ピーター・グリーナウェイ 出演 アンソニー・ヒギンズ ジャネット・スーズマン アン・ルイーズ・ランバート 82年英国)


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「ZOO」(原題 A ZED & TWO NOUGHTS )

 通りを横切った白鳥のせいで自動車事故が起こり、後部座席に乗っていた二人の主婦が死亡、運転していた女性アルバも片足切断の重傷に。亡くなった二人の主婦の亭主は、動物園に勤務していたオズワルドとオリバーの兄弟で、二人揃って妻の死のショックで意気消沈。BBC制作の生命の誕生と歴史を解説したドキュメントドラマに没頭して気をまぎらわすところが同じなのは、実はこの兄弟、双子だったという設定。映画は二人が最初は憎しみからアルバの入院している病室に訪ねていって言葉を交わすうちに、やがて親密な感情を抱くようになっていく過程と、失意のうちに、動物の死のプロセスに興味を持ち始めるようになって、別の病?が昂進していく様子を描く。

 工夫というか趣味というか遊びというか、いろんな映画的しかけが沢山しかけられていてボリューム満点の作品。もっともその多くは悪趣味というか顰蹙を買いそうなものなのだが。基本的に多用されているのがシンメトリーという構図。シンメトリーは美しいという主張が、これでもかというように登場するが、この映画の場合それだけに尽きない。兄弟は双子だし、アルバの出産するのも双子。フェルメールを偏愛するアリバの主治医は、アリバの残った足も切断してしまうが、これもシンメトリーが美だからこそ、といいたげな徹底ぶり。もうひとつのしつこい描写は、いかにも顰蹙を買いそうな、動物(生物)の腐敗のプロセスの高速度写真での描写。被写体もリンゴから、白鳥や縞馬、しだいにエスカレートしていって最後には案の定いきつくところまで行ってしまう。死骸には、蛆虫や蝸牛が這い回り、とても苦手な人にはお勧めできない。

 言葉の遊びも随所にあって、アルバの主治医の名前メーヘレンは、フェルメールの贋作で有名な実在の人物と同じ。その愛人カテリーナとはフェルメール夫人の名前だし、「赤い帽子の女」のファッションで登場する。アルバにも「ヴァージルの練習」のポーズをとらせるという徹底ぶり。この映画で連想したのは、キューブリックの「シャイニング」(80)の双子やシンメトリーの構図、そしてクローネンバーグの「戦慄の絆」(88)でジェレミー・アイアンズの演じた双子。この映画に出演している双子は、ブラザーズ・クエイとして有名なアニメーション作家兄弟という。

「ZOO」(監督ピーター・グリーナウェイ 出演 アンドレア・フェレオル ブライアン・ディコーン エリック・ディコーン 85英国)


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「建築家の腹」(原題 THE BELLY OF AN ARCHITECT )

 アメリカ人の建築家クラックライトは、10年間かけて計画していた建築家ブーレの回顧展の実現のために、若い妻ルイザを同伴でローマに赴く。ローマでは関係者から歓迎を受けて、クラックライトは、さっそく展覧会のパンフレットの作成や準備に没頭するが、しだいに原因不明の腹痛に襲われるようになる。忙しさにかまけて自分の相手をしてくれないのが不服で妻ルイザは若い青年と浮気。クラックライトは、腹痛への気がかりも高じてガンノイローゼ状態。スポンサーは、大衆に迎合する展示方法を毛嫌いするクラックライトのやり方に、回顧展の成功を危ぶんで、彼に仕事から降りることを要請するが。。。

 ブーレという18世紀の建築家に魅惑されたアメリカ人建築家の異国イタリアでの苦渋と破滅を描いた作品。ローマの壮麗な建築や、室内描写の構図にシンメトリーが、これでもかというように多用されていて、この映画のきわだった特徴になっている。クラックライトが、原因不明の腹痛から、しだいに自分の腹部への気がかりにとり憑かれるようになっていって、ローマ時代の彫像の肥満した腹部の写真のコピーを部屋中にならべるシーンなども、異様ぶりを印象的づける効果をあげている。膨らんだ腹というのは、妊娠した妻ルイザの腹部の写真を撮影するというエピソードにも出てきていて、これもこだわり。

 苦渋する建築家クラックライトを演じたブライアン・デネヒーは、この映画でシカゴ映画祭最優秀主演男優賞を受賞。

「建築家の腹」(監督ピーター・グリーナウェイ 出演 ブライアン・デネヒー クロエ・ウェッブ ランベール・ウィウソン セルジオ・ファントーニ 87年英=伊)


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「数に溺れて」(原題 DROWNING BY NUMBERS )

 舞台はイギリスの田舎町。亭主の浮気に業を煮やしたシシーは、自宅に連れ込んだ愛人と戯れ、泥酔している夫を浴槽に沈めて溺死させてしまい、さっそく友人で検死官のマジェットに頼み込んで心臓発作による事故死ということに。話はそれで終わらず、彼女の娘のシシー(母と同名)も今度は海で夫を溺死させ、それにならったように、その娘シシー(同名の孫娘)も結婚したばかりの夫をプールで溺死させてしまう。いずれの場合もマジェットが彼女たちの殺人の尻拭いを頼まれるが、これではいくらなんでも。。。

 英国風のブラックユーモアというか、遊び心満載の映画。気に入らない夫を溺死させた女に、殺人の片棒をかつがされた友人の検死官。その女性には同名の娘、孫娘がいて、彼女たちも同じ手口で夫を殺して彼に虚偽の検死報告を頼み込む、といえば、これはもうマンガチックな設定だが、監督がこの映画で本気で遊んでいるのは、もっと別のところといえそう。検死官マジェットの息子スマットが変わった少年で、いろいろなゲームに夢中なのだが、特に、死にまつわる儀式ゲームに凝っているという風変わりさ。彼は動物の死骸などを路上で発見するとペンキで目印をつけたり、死を記念して花火を打ち上げるのを常習にしている。
 規則をみつけて遊ぶということがゲームの基本なら、数を数えるというのもそうで、この映画には、いろんな場面に1から100までの数字がちりばめられている。ただし、数える人はいるのかどうか。。。この映画、屋外のシーンが多くて、草深い田舎道や海辺のシーンも美しい。そして基調は夜の闇の暗さ。ヘッドライトと花火も、夜の闇に映えています。

 原題は、次々に溺れてという意味にもとれるとのこと。夫を海で溺死させたばかりのシシー(娘)が、室内に横たわった夫の溺死体と共にいる場面に登場する、ジョギング中のゼッケンをつけた青年たちは、なぜかヴァン・ダイクと名乗るが、このショットよく見ると、、、。カンヌ映画祭芸術賞。

「数に溺れて」(監督ピーター・グリーナウェイ 出演 ジョーン・プローライト バーナード・ヒル ジュリエット・スティーブン 88年英国)


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「コックと泥棒、その妻と愛人」(原題 THE COOK,THE THIEF,HIS WIFE & HER LOVER )

 英国のフランス料理店。店のオーナーはギャングのボスのスピカで、毎日のように取り巻きの子分連中と美しい妻ジョージナを同伴で、ディナーを食べにやってくる。スピカは粗暴さを絵に描いたような暴力亭主で、食事のマナーもなにもあったもんじゃないという、幼児性まるだしの、がさつな場違い男。ジョージナは、ディナーの席を抜け出して、独り者の常連客で上品な本屋の主人と情事を繰り返すという構図。しかし、そんなレストランでの食事中の逢い引きが、いつまでも発覚しない筈がなくて。。。映画は一週間の事態の推移を追う。

 レストランの大がかりなセットを横から壁をすり抜けて行くようなレールワークの撮影の仕方が印象的な映画。およそ居そうもない権勢欲と悪意の化身のような人物を造形することで、ひたすらフランス風の優雅な食事のマナーをぶちこわしてみせるブラックな笑い。フランス史をまとめているという本屋の主人が、口にフランス革命の書物のページを押し込まれて殺されるのは笑えない苦いユーモア。しかし少年に無理矢理ボタンをちぎって食べさせるシーンや、デカダンスの究極のカニバリズム(人間の丸焼き!)までいきついてしまう徹底ぶりには唖然とするばかり。

 前作「数に溺れて」が自然の光と闇の色彩を強調した映画だとすれば、この映画は、人工的な照明のかもしだす雰囲気のある色彩感にあふれている。レストランの裏通りの闇に滲む青い街灯のひかり、緑がかった薄暗い厨房、落ち着いた赤の配された食堂、食堂とトイレの間の廊下の強烈な赤が、白で統一されたトイレルームの壁にピンク色の影を映す。。。もの静かなコックを演じているのはリシャール・ポーランジェ。スピカの手下役でティム・ロスも出演している。ギャングたちの服にあしらわれた赤や、はっとするようなジョージナの下着のデザインなど、衣装担当は「キカ」や「フィフス・エレメント」も手がけたジャン=ポール・ゴルチエ。

「コックと泥棒、その妻と愛人」(監督ピーター・グリーナウェイ 出演 リシャール・ポーランジェ マイケル・ガンボン ヘレン・ミレン アラン・ハワード ティム・ロス 89年英=仏)


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「プロスペローの本」(原題 PROSPERO'S BOOK )

 弟アントーニオやナポリ王の謀略によって、位を簒奪され、幼い娘ミランダとともに荒海に小舟で追放されたミラノ大公プロスペローは、運良く絶海の孤島に落ち延びた。そこで身につけた魔法の力で、もともと島にいた魔女の息子キャリバンや空気の妖精エアリエルたちを支配し、十数年後、弟たちの乗った船を魔法の嵐で呼び寄せて復讐をとげるという物語。

 シェイクピアの戯曲「テンペスト(あらし)」をモチーフにした作品で、ストーリーもおおむね踏襲されているが、プロスペローが友人から託された「自分の国より大切に思う」魔法の書物が二十四冊あったとして、それぞれの内容が魅力的な映像として、ストーリーに折り込まれているのが、いかにもこの監督らしいところで、それらのシーンが独特な効果をあげている。この映画の前半の細密な映像美術といったら、ちょっとした見物で、画面が流れていってしまうのが惜しいと思うような素晴らしいショットが沢山ちりばめられている。また原作劇では四幕にあたる幻想的な婚約祝いの場面も壮麗だが、後半の流れは、原作の古典劇の骨格がむきだしになった感じで、やや退屈に思えてしまうのも、前半のすばらしさゆえかも。。魔女シコラクスの息子で、嫌々プロスペローに使えている怪物人間キャリバンを前衛舞踏家みたいな姿態で表現しているのが面白い。

 音が出たり画像が動いたりする魔法の本というのは、なんだかエキスパンドブックを連想してしまった。主役のプロスペローは、高名なシェイクピア役者兼演出家でもあるジョン・ギールグッドが演じる。微妙に笑う表情が実によいです。黒沢明監督の「乱」で、アカデミー賞受賞した和田エミが衣装デザインを担当。

「プロスペローの本」(監督ピーター・グリーナウェイ 出演 ジョン・ギールグッド イザベル・バスコ マイケル・クラーク 91年 英=仏)


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「ベイビー・オブ・マコン」(原題 THE BABY OF MACON )

 17世紀イタリアで、スキャンダラスな芝居が上演される。老いた母親の産んだ赤ん坊を、その娘が、処女懐胎して自分が出産した子供だと触れ回り、信じた町の人々に祝福を与えるみかえりに、貢ぎ物を要求して金持ちになるのだ。しかし司教の息子を誘惑して死なせてしまったために、彼女は、子供からひきはなされてしまう。次に赤ん坊を利用するのが教会で、赤ん坊の血や涙や小水といったものを競売にかけて売りに出す。戻ってきた娘が赤ん坊を窒息死させてしまった罪で裁かれ、彼女は、処女は死刑にならないという法律をたてにとって開き直るのだが。。。

 映画では、この一種、風刺劇ともとれる贋の聖母子のドラマと、それを観劇する観客の反応を交互に捉えていくのだが、観客たちのなかに当時の大公コジモの一行がいて、舞台にあがりこんで口をだしたりしはじめて、様相は猥雑かつおぞましい展開になっていく。民衆の無知や素朴な信仰心につけこんで金儲けを目論む女性、それを諫める教会も権威を盾に同じことをさらに大規模に行うという構図のなかで、観客の反応は感情的なものばかり。監督は、「映画(劇)が実に強力なプロバガンダの手段だということを、この映画で示そうとした」と、インタビュー(94年・ニューズウィーク誌)で語っているが、もちろんそれは一面の教訓でしかないだろう。やはりなんといっても色彩感豊かな舞台美術の絢爛さや、キャメラの大移動を駆使した密度の高い画面構成の中で演じられるスキャンダラスでエロチックな映像そのものが圧倒的。劇中劇として行われる冒頭の老女の出産シーンをはじめとして、この監督のタブーに挑戦する試みは、「無意識によって、抑圧していたものを、見せられてしまう」という私たちの悪夢の映像化に、限りなく近づこうとしているように思える。

 殺されて内臓の露出した牛を枢機卿に任ずるというのは苦いユーモア。大公の名前がコジモという名前なので、舞台設定は、どうも中世の自由都市フィレンツェではないかと思われるが、こういうエロティックな笑いと教訓の入り交じった民衆劇が、上演されていてもおかしくないように思えてくるので不思議。拝金主義者で、司教の息子まで拐かそうとして破滅する、妙にバイタリティあふれた中世の女性を演じるジュリア・オーモンドは熱演で、死体になってごろりところがるシーンはショッキング。R指定の映画です。

「ベイビー・オブ・マコン」(監督ピーター・グリーナウェイ 出演 ジュリア・オーモンド レイフ・ファインズ フィリップ・ストーン ジョナサン・レイシー ドン・ヘンダーソン 93年 英=独=仏)


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「ピーター・グリーナウェイの枕草子」(原題 THE PILLOW BOOK )

 日本人の書家と中国人の子供として産まれた主人公藤原ナギコは、「枕草子」の著者と同姓同名の娘。誕生日になると、きまって父親に顔に筆で名前を書いてもらうという、変わった儀式を習慣にして育った。成長したナギコは父が出入りしていた出版社の社長の息子と結婚するが、夫は読書と日記に耽溺するナギコに無理解で、諍いの果てにナギコは住居に火を放って出奔してしまう。やがてナギコは香港に身を隠して、自活して働き、苦労の末、ファッションモデルになって成功する。様々な男たちと愛の遍歴を重ねるが、一方で、体に、筆で文字を描く(描かれる)という変わった体験にこだわり続け、数カ国語に堪能なジェロームという青年に運命的に出会い、二人は愛しあうようになるが。。。

 人間の肌に文字を描くシーンが、さまざまなシチェーションの中で、繰り返しオブセッションのように描写される、徹底して映像の喚起するイメージの美や鮮烈さにこだわった映画といえそう。この映画は、私のはじめて見たグリーナウェイ作品で、よくこういう映画がつくれるなあと、あっけにとられて見ていました。出版社の社長に男色行為を強いられ続け、映画ではいつのまにか消えてしまう緒方拳扮する父親に対する、過剰な憧憬とコンプレックスとして考えれば、ナギコのこだわりは一応説明がつくのですが、それはこの監督の場合いつものことながら、ショッキングで官能的な数々の映像を、繋がりを保って表現するための舞台装置に過ぎないといえそう。

 あるインタビューの中で、清少納言と私とは、リストアップが好きなところが似ている、と監督が語っていたのには、なるほどと思わず笑ってしまった。同じインタビューで、表意文字には視覚と内容が一致している魅力があると言っていたのはいかにも西欧の人、もうすこし体に書かれた書体が美しければよかったが。

 肉体的なエロスと、観念のエロスとしての文字表現が、とけあう「本としての肉体」という夢想。また「耳無し法一」や「刺青」の美と微妙に交錯する世界です。脇役で出演の吉田日出子が叔母、メイド、清少納言の3役をこなしている。「プロスペローの本」に続き、和田エミが衣装デザインを担当。

「ピーター・グリーナウェイの枕草子」(監督 ピーター・グリーナウェイ 出演 ヴィヴィアン・ウー ユアン・マクレガー オイダ・ヨシ 吉田日出子 緒形拳 ジュディ・オング 96年英=仏=オランダ) 98.5.27


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「「垂直構造」のリメーク」(原題 VERTICAL FEATURES REMAKE  )

 かって、タルス・ルーパーなる鳥類学者がつくろうとした実験映画作品を、残されたフィルムや資料から、再生復興協会なる団体がリメークした。その過程を、ドキュメンタリー風に描いた映画作品。と言う体裁をとった、虚構のドキュメント映画。
 リメークされた映画が終わると、映像が関係者のスナップに切り替わり、ナレーションが入って、新事実の発見やら、協会メンバーの意見などが紹介され、この作品は、そうした検討を経て、さらにリメークされたと告げられ、新たに製作されたバージョン2が放映される。その繰り返しが、バージョン4まである。映画の内容はそのつど変化していくのだが、短い自然風景(植物の茎、樹木の幹や電柱など、垂直なオブジェのフォルムにこだわったもの)のショットが細切れに重ねられて、それに現代音楽風のナイマンの音が加わって機械的なリズムをつくるといういかにも前衛芸術的なもの。

 紹介される映画制作にかかわる事実関係がすべて虚構(うそっぱち)だという、しかけも面白いが、くりかえし短く切り替わる単調な映像の耐え難さ、思わぬ美しさの発見など、見続けることの苦痛と魅力の同居した不思議な作品。

「「垂直構造」のリメーク」(監督 ピーター・グリーナウェイ  78年英) 98.12.15


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「Hを通り過ぎて」(原題 A WALK THROUGH H )

 白っぽい壁に額入りの絵画(すべてグリーナウェイの手になる水彩画という)がずらりと並んでいる画廊。陳列されている絵画の一枚一枚に走る線条を辿る旅の道行きが全編のストーリー。カメラは絵柄の表面をなぞるように移動して行き、バックにはナイマンの音楽、そして絵の由来や旅程についてのナレーションがとぎれなく続く。時折はさみこまれる野鳥の生態を映した瑞々しい映像。虚構の旅程をなぞるナレーション全体が散文詩の朗読を思わせる。細部の説明や数にこだわった、しかもすぐに消えてしまうような軽くて心地よい饒舌。この作品にも、「「垂直構造」のリメーク」の架空の鳥類学者タルス・ルーパーが旅の先導者として名前だけ繰り返し登場するというしかけが、しゃれています。

 グリーナウェイの個性的な世界が開花した記念すべき映画、といわれる。この映画のナレーション全編の翻訳が、『グリーナウェイ』(月刊イメージフォーラム92年1月増刊号・ダゲリオ出版)に掲載されている。映画を見てからシナリオを読んでいると、完璧に向こう側にいってしまいます。。。

「火曜日の早朝、2時15分前に私は出発した。」と始まる、この視線の旅行は、「とうとう到着した。火曜日の早朝、2時15分前。地図の使用数92枚、全旅程1418マイルの旅だった。」と終わる。あ、時間がたっていない。。。

 シカゴ映画祭ヒューゴ賞受賞。

「Hを通り過ぎて」(監督 ピーター・グリーナウェイ  78年英) 98.12.15
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