言葉の小部屋にもどる



ある少年の供述調書を読んで

「人を殺す楽しみがどんなものかアンタが知りたければ、自分で殺してみることだ。それ以外の方法を俺は知らない。」(カール・パンズラム)

 少年(14歳)は、平成9年2月10日、小学6年生の女児にショックハンマーで暴行を加えた二件を皮切りに、同年3月16日小学4年生の女児を八角玄翁で殴打(後死亡)、同23日、小学3年生の女児にくり小刀で重傷を負わせ、同年5月24日小学6年生の男児を運動靴の紐で絞殺、金鋸で頭部を切断し、頭部を中学校正門前に投棄した。
 この事件の少年の供述調書7通分が、『文芸春秋』3月号の「少年A犯罪の全貌」という特集記事の中に、編集部の見解、立花隆「正常と異常の間」という文章を付したうえで転載されていた。立花隆は、この供述調書が、少年が語ったことをそのまま速記風に書き写したものでなく、文中で一問一答形式になっている箇所も、取調官が、メモを元にまとめたものであることに、読み進むうえでの注意を促している。




 少年は自分にとって、大切な存在だった祖母が死んだことが死について考えるきっかけになったと供述している。以下「」内は供述調書より引用。

「何故、僕が人間の死に対して、この様に興味を持ったかということについて話しますが、僕自身、家族のことは、別になんとも思っていないものの、僕にとってお祖母ちゃんだけは大切な存在でした。ところが、僕が小学生の頃に、そのお祖母ちゃんが死んでしまったのです。僕からお祖母ちゃんを奪い取ったものは死というものであり、僕にとって、死とは一体何かという疑問が湧いてきたのです。」

 このことは、「祖母は、厳しい躾を受けていた少年をときにかばってくれ、少年は祖母の部屋に逃げ込んだりしていた。」(少年の処分決定要旨)という背景を考えあわせると、理解できるが、問題はそれに続く供述だ。

「そのため「死とは何か」ということをどうしても知りたくなり、別の機会で話したように、最初は、ナメクジやカエルを殺したり、その後は猫を殺したりしていたものの、猫を殺すのに飽きて、中学校に入った頃からは、人間の死に興味が出てきて、人間はどうやったら死ぬのか、死んでいく時の様子はどうなのか、殺している時の気持ちはどうなのか、といったことを頭の中で妄想するようになっていったのです。」

 ここには、ちょっと驚くべきことが書かれている。普通に考えれば、祖母の死をきっかけに「死とは一体何か」と考えはじめたということと、自分でナメクジやカエルを殺してみることが結びつかないからだ。時に自分をかばってくれた祖母の死は、人間の存在の儚さや恐怖、やがて自分も死ぬのだなというような、漠然とした死のイメージをもたらすことはあっても、ナメクジを殺してみることとは結びつきそうにない。しかし少年の言葉を信じるとしたら、祖母の死による「死とは一体なにか」という関心が、普通なら、ある時期の少年なら誰でもやってみて、無意味なのですぐに飽きてしまうような小動物の殺害行為に、過剰に付け加えられたというような理解になる。
 この場合、少年にとってナメクジを殺すことは、無意味な行為ではない。そのプロセスの中には「僕からお祖母ちゃんを奪い取った死」というものが、どこかで顔をのぞかせている筈だからだ。このとき注意すべきなのは、少年にとっての「死」とは言葉で語られるような観念ではないということだ。それは「死んでゆく時の様子」であり、「殺している時の気持ち」の中に手応えとして確かに感じられるものだった。だから、記憶として薄れれば、再現する必要があったし、対象が違えば、その様子も手応えも違うのだから必然のように、ナメクジ、カエル、猫というように、エスカレートしてゆく体験だった。
 少年の死の実験対象がナメクジやカエルから、猫に変わるというのは、普通に考えると一種の観念の飛躍がなければ超えられそうにない壁があるように思える。悪ガキだったらカエル位は悪戯に殺して平然としているかもしれないが、猫となると、現代なら露見すれば社会通念的にも病的で異常な行為とみなされるといっていい(数十年前だったら、そうした小動物に対する、虐待はありふれていた、という認識が無いではないのだが、ここでは、そうした行為が社会通念的に排除された「現在」を想定している)。そういう抵抗感を小学校6年生の少年は感じなかったのだろうか。思うに、少年は「死とはなにか」という最初の関心から、動物を殺すプロセスに感じられる興奮のもつ魅力のほうに、しだいに傾斜していったのではないだろうか。新しい「猫」という対象を相手に、「死んでゆく時の様子」や「殺している時の気持ち」を確かめてみたい、という誘惑に。その誘惑に比べれば、社会通念的な動物愛護精神といった言辞は、少年の耳には、希薄な言葉のように届いたかもしれない。また対象に哀れみを感じなかったのかという疑問が湧くが、注意してみると、少年はその対象の選別を無作為に行っているのでなく、周到に計算しているように思える。

「僕が殺していた猫というのは、僕の家の庭から見て右側の家の人が猫を飼っていたのですが、その飼い猫が子供を産んだりし、その子猫が大きくなって野良猫となり、僕の家の付近には、野良猫や子猫がたくさんいました。その猫を小学生の頃は殺していたのです。しかし、中学校に入った頃には、あまり猫を見かけるようなことはありませんでした。」

 少年は、家の付近でよく見かける野良猫を選んで殺している。彼が殺しつくしたせいか判然としないが、猫をあまり見かけなくなったのと、殺すことに飽きたから中学校に行くようになって猫を殺すのをやめたとも、別の供述箇所で言っている。近所で見かける野良猫を対象に選んで殺していたというのには、ちょっと浮浪者をリンチする「おやじ狩り」の少年たちの話を思い出したが、背景にあるのは似たような自己合理化の心理の様に思える。猫(人)を殺してはいけないという社会通念に対して、野良猫(浮浪者)だから殺してもよい、というように。もちろんこの少年が自覚的にそう考えたという記述はないのだが、少年の一貫した犯罪に対する供述内容を読んでいると、こうした幼稚だがそれなりの理屈が自覚されていたことがリアルに想像できそうな気がする。ただひとつ言っておくべきなのは、それが少年にとって消極的な理由付けだということだろう。飼い猫でなく野良猫を選んで殺すことにには、簡単に捕獲できて、さほど良心も痛まずに殺害できたし、また露見もしにくいというような、現実的な理由があったと思えるが、そうしたことは少年の本心にしてみれば、二次的なことに過ぎない。少年は自分が本当は何を目的としているか、よく自覚していたように思える。

「僕は、以前猫を殺した時に、やはり「殺した時の興奮を思い出すための記念品」として、猫の舌を切り取ったことがあり、確か、3枚の猫の舌を塩水につけて、瓶に入れ、僕の部屋に置いていました。」

 切り取られた猫の舌は、撮影されたホラービデオみたいに、「殺した時の興奮」を再現するための道具のように見なされている。瓶入りの猫の舌は、見かけ上の薄気味悪さというイメージは排除すれば、ビデオテープと変わらない。そして、その舌が人間のものであっても同じという場所は、すぐ近くだ。

「何故、B君の舌を切ろうと思ったかというと、それは、「殺人をしている時の興奮を後で思い出すための記念品」として持って帰ろうと思ったからでした。」

 おそらく、B君殺害の犯行時の供述の異常性とみえる所作や感情の動きの多くは、少年の犯行時の冷静さが、非人間的な冷酷さに見える印象から来ているが、少年にとっては、猫を殺して、その興奮を再現するために舌を切り取って保存した、そういう過去に習熟した行為の繰り返しとして、当然の行動とその帰結のように思われたに違いない。中学生になった少年が人間を標的として実験対象として選んだのは、

「、、、実験する対象については、勿論、僕が傷付いたりしてはいけないので、僕に反撃出来ない人間であること、また、逃げられたり、誰かに助けを求められても困ることから、逃げ出したりしないような人間でなければならないと思いました。」

という物理的な条件をクリアするということだけであり、いわば少年にとって、対象は捕獲しやすい野良猫と同じ位相で選ばれている。少年の心には、「人間はどうやったら死ぬのか、死んでいく時の様子はどうなのか、殺している時の気持ちはどうなのか」という関心だけが中心にあったように思える。



「僕が一生懸命B君を殺そうとしているのに、なかなか死なないB君に対し、腹が立ったりしましたが、同時にB君を殺しているという緊張感、あるいはなかなか死なないB君に対する怒り等も含めて、殺していること自体を楽しんでいました。そして最終的に、B君が死んだと分かった時、僕は、B君を殺すことが出来、B君を支配出来て、B君が僕だけのものになったという満足感でいっぱいになりました。その満足感は、それまで僕が人を殺した時のことを考えて、得られるであろうと思っていた満足感よりももっと素晴らしいものでした。」

 供述調書には、それが取り調べ官の作文だということを割り引いても、少年が、自分の感情も含めて、事実起こったことを、ありのままに語っていると感じられる箇所がある。自分を守ったり粉飾するという意図は感じられず、幼ささえ感じられる。ここにあるのは、人を殺すことにつきまとう恐れや逡巡ということではなく、ただ熱中して自分の予定通りに思い描いていたゲームのプロセスを実現して楽しんでいるような気分だ。B君が死んで自分のものになった。自分の「もの」とは、所有物であると同時に死体(モノ)であり、それ以外の意味を剥奪されている。

「 糸ノコギリがあるということを思い出した僕は、自然にフッと僕の頭の中にその糸ノコギリで人間の首を切ってみたいという衝動にかられました。もっと具体的に言うと、人間の身体を支配しているのは頭だから、その司令塔の頭を胴体から切り離してみたい、その時に手に伝わってくる感触や、切った後の切り口も見てみたいと思ったのです。」

「 地面に置いたB君の首を正面から見ましたが、しばらくは、この不可思議な映像は僕が作ったのだという満足感に浸りました。」

 死体には、あらかじめ人間的な意味が剥奪されているから、死体を人体模型のように加工しても何の痛痒も感じることがない。そして加工するプロセスの感触や、視覚的な興奮を得ることだけが目指されている。これは見かけほど異常なことではない。ある合理的な意味を優先して、対象に付与された人間的意味を剥奪してしまえば、人はいつでも、こういうことをなしうる存在だからだ。ただ合理的意味というところで、私たちは、食肉用の動物の死体の切り分けとか、検死体の解剖といった納得できる、社会的な理由付けを与えているのだ。そしてそこに人間が人間であることの倫理の境界もしつらえられている。少年を動かしているのは、首を切断する手応えや切断面を視覚的に確かめたいという欲望だけで、社会的な合理的意味に届かない。子供が盗んできた調理用の魚を食べるわけでもないのに、無邪気に切り分けて、手応えや形態の面白さを遊んでいるという感じに近い。

「ところが、しばらくすると、B君の目は開いたままで、眠たそうな目をして、どこか遠くを眺めているような目をしていたのです。更に、B君が、僕の声を借りて、僕に対し、よくも殺しやがって。苦しかったじゃないか。という文句をたれました。 それで、僕は、B君に対し、君があの時間にあそこにいたから悪いんじゃないか。と言い返しました。 すると、B君は、更に文句を言ってきました。
 その時、僕は、死体にまだ魂が残っているので文句を言うのではないかと思い、魂を取り出せば黙るだろうと考えました。、、、この様にして(目、瞼、口をナイフで切り裂いた供述)B君の口等を切り裂いた後、更にB君の顔を鑑賞し続けましたが、その後は、B君は文句を言わなくなりました。」

 B君が、「僕の声を借りて」不満を言う。この幻聴は、おそらく少年がB君の首を地面に置いて、「不思議な映像」だと鑑賞している時に現れていると思う。いわばこれまで熱中していた対象との間に、ふっとした距離感が生じて、それがB君の眠たそうな目を見ていて、内省の意識のように少年に訪れたのだ。しかしB君が言うのは、おどろおどろしい怨みの言葉でも呪いの言葉でもなく、「苦しかったじゃないか」という言葉だ。この言葉の位相が少年のB君に対する罪の意識の裏側にあたっている。つまり少年の共感能力は、ついさっき馬乗りになってB君を苦しめた、という自覚に届いているが、それ以上でも以下でもない。少年は、おそらく、ただその幻聴を振り払いたいという理由だけで、B君の頭部を傷つけている。

「そこで、僕は、ビニール袋の中に溜まったB君の血を飲もうと考えました。その理由は、「僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められる」と思ったからでした。」

 供述書の中で、一問一答形式で、「どうして、そう思うのか。」と取調官から聞かれて、「それは、幼い子供の命を奪って、気持ち良いと感じている自分自身に対する自己嫌悪感の現れなのです。」と少年は答えている。この答えはちょっと正しすぎる気がする。血を飲む行為は、B君の頭部を見る影もなく切り裂いてしまった自分の行為への、代償だと考えたほうが分かりやすい。少年は、B君の切断された頭部にも、死体から流れた血にも、恐れや、汚れの感じや、嫌悪感を持っていないことに注意すべきだ。少年にとって死体は「僕だけのものになったという満足感」を満たす、自分と等価のモノであるべきであり、その関係をうち消すような幻聴を黙らせるために、傷つけたり、血を飲み干したりする行為がなされるので、それ以外の意味は与えられそうにない。少年が血を飲んだことは、直接には、ただどんな味がするか、飲むとどんな気になるか、という興味に促されてということで、おそらく、それは同時に、B君の象徴的な魂を身体にとりこむことで、この陰惨な儀式の総仕上げをしたことを意味していた。
 少年はB君の首を持ち歩き、再び別の場所で鑑賞したり、1日後に死後の変化の様子を見たくなって同じ場所を訪れる。また捜査を霍乱するために首を利用することを思いつき、自宅に持ち帰って風呂場で綺麗に洗い、髪なども櫛できれいに撫でつけたりする。そうした経過の途中ににあるのは、首をビニール袋に入れて持ち歩いている時、機動隊の隊員と出会ったが、べつに平常心でしたとか、首を改めて眺めても大した感動もなかったというような、一種無感動状態に陥ったような、事後の言いぐさだ。首自体にもう関心はなくなっていて、次には、いかに自分が、捕まらないでいられるかという算段に少年は熱中する。



 一時期、中学校正門におかれたB君の首に添えられた手紙や、新聞社に送られた挑発的な手紙の内容の報道によって、この事件の最初の犯人像がかためられてしまった感があったが、供述調書には、少年が、何度も、それらの手紙にこめられた反社会的な意図や、後に発表された宗教儀式めいたノートの記述内容を否定する記述がでてくる。

「小さい頃から親に、人に自分の罪をなすりつけては駄目だと言われて育ちました。それで、僕は、B君を殺したことに対し、一方ではそんな僕自身に対して嫌悪感があったので、何とか責任逃れをしたいという気持ちもありました。しかし人に罪をなすりつける訳にはいかないので、僕自身を納得させるために、学校がB君を殺したものであり、僕が殺した訳ではないと思いこみたかったのです。単に、学校に責任をなすりつけるための理由であり、実際に学校に対する怨みや学校の教育によって、こんな僕が出来てしまったと思っているわけではありません。」

「僕自身、心の中では、B君を殺したりすることに満足感を覚える僕自身に嫌悪感を感じたりすることもあったので、その嫌悪感を何とか正当化するための理由を考えました。そして考えついたのが、本当は僕がB君を殺したり、B君の首を正門前に置いたにも関わらず、あたかも僕の他に犯人がいるとして、その犯人像を、僕がイメージして、僕が今まで持っている僕の知識を駆使して、僕がイメージしている犯人像に僕自身がなりきって、手紙を書くことにしたのです。従って、僕が書いた手紙の内容は、あくまでも僕がイメージした犯人像が持っている動機を書いたものであり、いわば僕の作文であって、僕がB君を殺したりした理由とは全く違っているのです。」

「僕は、別の機会で話しているように、バモイドオキ神という神の存在を信じているのですが、その「バモイドオキ神」とこの3月16日の事件とは、一切関係ありません。しかし、僕は、「人の死を理解して、僕のものにする」ための実験だといって、女の子を殴ったり、刺したりしたのですが、そんなことをしてはいけないという気持ちもあったのです。それなのに、何故、女の子を殴ったり、刺したりしたのかという理由付けがほしくなりました。そこで、僕は、僕が信じている「バモイドオキ神」と「僕がやった行為」とを結びつけようと考えた訳なのです。」

「どんな感情も持っていません。、、、勿論、僕の心の中には、この様に思う心に対し、嫌悪感を抱く気持ちもあったのです。今思うと、その気持ちというのが、僅かに残っていた僕の良心と理性だったと思います。この様な嫌悪感を抱く気持ちがあったことから、僕は、僕がやった行為を何とか理屈付けるために、既に別の機会で話したように、本来全く別個のものであった「バモイドオキ神」や「神の審判」あるいは「悟りのための聖なる儀式」という勝手な理屈付けを作るようになっていました。、、自分の行為を理屈付けるために僕が考えたストーリーなのです。」(殺した女の子に、どんな感情を持っているかと聞かれて)

 前の二つの供述は、手紙に書いたように、学校や社会に対する怨みが、自分の犯罪の理由ではないと述べている箇所、後のふたつの供述は、宗教的な儀式みたいに犯罪の経過を「バモイドオキ神」に報告するという形でノートに書き留めていたが、それが自分の犯罪の理由ではないと述べている箇所で、整理すると、少年の中には、人を殺すことに満足感を覚える自分がいて、一方で、そのことに嫌悪感や罪悪感を感じる自分がいた。そして、自分はその矛盾をうち消すために社会的な動機、宗教的な動機といった架空の理由づけを考え、学校や社会を糾弾する手紙や、神への宗教的な報告の形をとったノートの形で表現してきた。だからそれらは、自分の本当の犯罪の動機ではない、と言っていることになる。なんども反芻されたような、とても正確な認識に思えるが、こうした供述は、少年の中に生じた激しい犯罪への衝動が、本当はどんな社会的な理由付けもできない特殊な性格のものだと、少年自身によく自覚されていることを明かしているように思える。

 「前回話したように、僕は、平成9年2月10日に、何の理由もなく、またきっかけもない女の子ふたりのそれぞれの頭をショックハンマーで殴り付けたことから、僕は、到底超えることが出来ないと思っていた一線を超えたのです。超えることの出来ない一線というのは、人の道ということです。その人の道を踏み外したことから、僕にとっての理性とか良心というものの大半をその時落としてしまいました。それからというもの、一旦人の道を踏み外したら、後は何をやっても構わないと思うようになり、人の死を理解して、僕のものにしたいという、僕の欲望を抑えることが出来なくなってしまいました。、、、僕は、僕の欲望を満たすための手始めとして、まず人間がどれ程の攻撃で、どの程度のダメージを受けるものなのかということを実験することにしました。」

 ここで、少年に、一旦踏み外したから「後は何をやっても構わない」と思わせた出来事とは、直接には、通りすがりの小学生女子をショックハンマーで殴りつけたことを意味している。確かにここで少年は、初めて法的な犯罪に踏み出し、幼いながらその自覚が、「人の道」を踏みはずしたという気持ちにさせたのだろうが、注意したいのは、そういう思いが、もう自分は犯罪者なのだから、「後はなにをやっても構わない」という開放感の踏み台にされていることだ。ここに超えてはならない「人の道」の境界があるというのは簡単なことだが、ここにあるのは法的に犯罪に該当するという一線だけで、少年(取調官や法律家も)が思い描きたいような「人の道」の境界があるわけではない。刑務所では重罪を犯したものの方が尊敬されるということを、ジュネが書いていた気がするが、現実には無意味で卑小なことにすぎない物理的な殺傷行為が、ちんぴら少年の空想の中で超人になったかのようなナルチシズムや自在感と結びつくという倒錯した構図は、どんな時代でも後をたたない。
 しかし、少年の場合、こうした感情のありかたや、無防備な対象を標的に狙うという手口は似ていても、「人の道」を踏み外して「おやじ狩り」を楽しむ同年輩の少年たちとは、その動機がかなり違っている気がする。おやじ狩りの少年たちは、僅かな金品をかすめ取ったり、そのついでにサンドバッグのように身体を殴打することで得られるストレスの発散を目的にしているように思えるが、この少年の場合、最終的には相手を「自分のものにする」プロセスから得る興奮が目的であり、殺害も頭部の切断も、そして血を飲むという行為さえ、そのための手段なのだ。おやじ狩りの少年たちは、屁理屈をこねながら無防備な大人を集団でリンチして、人間の体は壊れやすいから、結果的に殺してしまうことがあり得たとしても、無報酬の殺人そのものを目的にはしていない。この少年にとっては、逆にその対象が何か社会的な刻印や意味合いを帯びている必要はない。むしろ「純粋な子供」、少年のイメージの中では、なんの社会的な記号も理由づけもない純粋な「人間」という位相を定めて犯行が行われているように見える。
 そんな純粋な人間はどこにもいないから、いつも犯罪には社会的な意味がついてまわるのだが、この「純粋な殺人」への願望は彼の観念の幼さを示しているだけなのだろうか。私には少年の野良猫殺しがどうしても気にかかる。少年の観念の中で飛躍が行われたならその時であり、その時形造られた世界が、潜在化していただけではないのか。少年の供述がいうように女の子を殴ったのは「何の理由もなく、またきっかけもない」というのは、表面的な言い訳であり、欲望の水路は既に引かれてあって、少年は、ある日何かのきっかけで思い立ち、潜在化していた欲望をただなぞっただけのように思えるのだ。
 殺す猫を選ぶ時に少年は、周到に近所の誰もいなくなっても気にとめないような野良猫を選んでいたと書いた。それには確かに計算もあっただろうが、それは二次的なことだったように思えるとも書いた。それをもう少しいえば、この時少年は、飼い猫、野良猫という区別を、入手しやすいから、と打算的には考えても、本当に自分の行為の対象としては同等に考えていたのではないか、というのが私の推察だ。もっといえば、少年の中で、飼い猫、野良猫という「倫理的」な区別は無化されていたのではないか。ここのところの背景が供述調書だけでは本当はよくわからない。ただ、もしそうだとすれば少年は、この時、現代がつくりあげている「人の道」の寒々しい境界に少しだけ身を乗り出していたのだ、ということになる。

付記)  もともと人間と自然の境界が曖昧な古代的な世界認識が、ゆるやかに人々の観念や生活の輪郭に纏わり付いていたところに、西欧近代的な人間中心の世界観が接ぎ木されて、まだ百数十年程度の歴史しかない。またこの僅かな時間の間に大規模で急激な社会や諸制度の変革が起こって人々に認識の変化を強いているが、それにもかかわらず人々の精神史の古層は、様々なかたちで「日本的」な延命をはかっている。というのが、私にとっての、おおまかな「現在」のイメージで、人間と自然の境界ということを、現代の「人の道」(倫理)の境界と考えないと、まだ上手く解けない問題が沢山あるような気がする。そして、その輪郭はまさしく揺らいでいて、飼い猫、野良猫の区別でいえば、本当は(精神の古層では)その区別はないのに、そこに人為的な線(アジア的集団社会の社会関係的な規範)がひかれ、さらに近代法的な線(法的処遇の規則)が引かれている。その線引きがとてもきつくなっていて、さまざまな情念の揺り返しが起こっているという気がする。少年の凶行は、抽象的にいえば、そういう逆流の噴射のひとつとして特異で重要な意味をもつ犯罪だという印象をもったが、そういう言い方は、なにも言ったことになっていないと言われれば返す言葉はない。
 「死」を確かめたいという少年の欲求が、そのプロセスに憑く、ということは「死」の共有というモチーフが必要な気がする。だが、それは少年が、生きているかぎり、「死」の観念的な所有という形でしか実現できない。この所有というのは近代的な意味ではなく、むしろそのなかに溶け込むような体験、人間と自然の区別の付かなくなったような体験を意味している。少年の亡くなった祖母は、厳しい母親(社会的な規範)から少年をかばってくれる「大切な人」だった。本当は厳しい母親から、というより、変な言い方だが、祖母以外の全ての現実的なものから少年を守り許容してくれる場所だったかもしれないと言ったほうが、私のいいたいことに近い。
 少年の死の実験はエスカレートしていったが、そこに通底するモチーフは古代的でアミニズム的な感じを受ける。失われた「祖母的なものの場所」、それがなぐさめや倫理の言葉でなく、現実の「場所」として少年に残されていれば、と思う。おそらく少年はその場所をナメクジやカエルの死に行く姿の中に探し求めたのだ。それがどれほど私たちからみて奇怪な所行に思えようとも。



98.2.29
言葉の小部屋にもどる