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「気まぐれ」映画メモ(4)


ここでは短い感想をのせてます。時々更新します。
☆印は、おおまかなストーリーが書いてあるので注意

index・更新順(98.1.6〜98.2.19)

「ミルドレッド」「コピーキャット」
「ミステリー・トレイン」「ラスト・ダンス」「ジキルとハイド」
「リトル・ブッダ」「魅せられて」「イタリア旅行」
「イングリッシュ・ペーシェント」「いつか晴れた日に」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」
「赤い航路」「パリのレストラン」「悲しみよこんにちわ」
「テルマ&ルイーズ」「ヴァンパイア・イン・ブルックリン」「ザ・ペーパー」
「好きと言えなくて」「アポロ13」「夢の涯てまでも」

「ミルドレッド」(原題 UNHOOK THE STARS )

 未亡人のミルドレッドは、長男は結婚して独立、娘アンも恋人と家を出ていってしまい、ひとりきりの生活に対面するが、そんなとき、向かいに住む一家の若い主婦モニカから、一日だけ6歳になる息子JJの世話を頼まれる。喜んで引き受けたミルドレッドは、毎日学校が終わると迎えに行って、JJの子守役に精をだす。JJも次第にうちとけ、感謝したモニカは、大型トレーラーの運転手ビッグ・トミーを彼女に紹介するが。。。

 子育ての時期を終えて、孤独と自由に対面した中年の未亡人が、新しい自分の生き方を求めて旅立つまでを描いたドラマ。長男は彼女と一緒に住んで欲しいというが、ミルドレッドは、その裏に子供の世話をさせたがっている息子夫婦の意向を読みとって、申し出を断り、家に帰って大学に通いたいという家出娘の申し出も、その裏に甘えを読みとって拒絶する。この映画を見ているとアメリカ社会の家族関係のシビアさが見えてきます。子供たちが独立したら、親の役目は終わりで、互いに、個人主義という超えられない壁をつくってしまう。そこでミルドレッドが、他人の子供JJに、母親以上に無償の愛情をそそぐ姿が美しく描かれるのですが、これはやはり偶然の所産。知性も教養もあって、子どもたちも全うに育て上げた、平凡で幸福な筈の主婦、ミルドレッドの寂しさ故に苦しむ様子は、やはりなにかおかしい。アメリカ型の価値観全体が抱える苦しみを、しっかり捉えている映画。ミルドレッドは、どこへ旅立つのか。ビッグ・トミーのもとへ、といいたいところですが、それがカルト宗教であっても不自然じゃない終わりかた。。。

 監督は、アメリカ・インディペンデント映画の父と謳われた、ジョン・カサヴェテスの子息。デビュー作で、主演のジーナ・ローランズは実母。しみじみとした彫りの深い演技に、とても説得力があります。共演のドパルデューは、フランスでJ・カサヴェテスの映画を配給しているほどのファンだとか。マリサ・トメイは、いかにも、いそうな単純軽率だが純真で憎めない奥さん。子役の困った顔もいい。主題曲はシンディ・ローパー。

「ミルドレッド」(監督 ニック・カサヴェテス 出演 ジーナ・ローランズ ジェラール・ドパルデュー マリサ・トメイ ジェイク・ロイド 96年アメリカ) 98.2.17
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「コピーキャット」(原題 COPYCAT )

 犯罪心理学者のヘレンは、講演会場のトイレで連続殺人犯のダリルに襲われ、それ以来、アゴラフォビア(屋外恐怖症)にかかり、マンションの一室に閉じこもってゲイの友人と暮らしている。そんなおり地元のサンフランシスコでは連続殺人事件が発生。ニュースで手口の詳細を知った彼女は、思わず事件担当のモナハン刑事に匿名電話してアドバイスを。それが機縁で、犯罪捜査に協力することになるが、捜査は後手後手にまわり、犯人がヘレンを標的に絞っていたことが、しだいに明らかになってくる。。。

 連続殺人事件を扱ったサスペンス・スリラー映画だが、行動派の女性刑事とインテリの犯罪心理学者を二大強靱女性俳優が演じていて、犯人との対決とは別のところで、火花をちらしています。ヘレンは外に出ると足がすくむという重度の屋外恐怖症という設定なのに、それ以外は、対人恐怖もなくて、至って健全。インターネットへのアクセスを心の支えにしていて、チェスやチャットを楽しんでいる。チャットで、私も屋外恐怖症なの、という通信相手がでてきますが、こういう設定がさほど不自然に感じられないのも現代風。
 行動派のモナハン刑事は、相棒の若い刑事に好意を持っているのに、彼がヘレンと親しくなるのを、すっと身をひいて見ているばかり。逆にヘレンは、あのちびの刑事は、などとインテリらしからぬ台詞を言ったりして、行動派とか知性派とかと、情緒の機微は別次元。連続殺人犯の心理に掘り下げはないですが、この辺の微妙な心理戦の演技が面白い。

「コピーキャット」(監督 ジョン・アミエル 出演 シガニー・ウィーバー ホリー・ハンター ダーモット・マルロニー 95年アメリカ) 98.2.10
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「ミステリー・トレイン」(原題 MYSTERY TRAIN )

 ある夏の晩に、テネシー州メンフィスの小さなアーケード・ホテルに泊まる、3組の人々のエピソードを、オムニバス形式で組み合わせたしゃれた映画。第1話「ファー・フローム・ヨコハマ」では、日本からエルビスに憧れてやってきた10代のカップルが、ふらりとホテルを利用する。第2話「ア・ゴースト」では、飛行機の事故でやむなくメンフィスに一泊することになったイタリア人女性と、恋人に愛想をつかせて町をでてゆく女性が相部屋で泊まる。第3話「ロスト・イン・スペース」では、恋人(第2話に登場)に振られた上に失業した男が、泥酔した勢いで酒屋の主人を銃で撃ってしまい、ほとぼりをさますために、友人たち3人で押しかけて一室に泊まる。それぞれが独立した話になっているが、同じ晩の出来事なので、ラジオ番組やホテルのフロント、客室のインテリアなど、共通性の反復が面白い効果をだしている。

 第3話が一番充実していて、このストーリーだけで、同監督の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(84)や「ダウン・バイ・ロー」(86)同様の広がりがもてる映画ができると思う。カメラを車のフロントグラスに向けて据えて、座席に収まっている男たちの仕草を撮影するというのは、よくある手法だが、この監督が撮ると、もう俳優がふてくされているだけで、雰囲気が出ていて、わくわくしてきます。第1話は、ストーリーというほどのものもない観光客の話ですが、工藤夕貴は、脳天気で、ものおじしない日本人の現代っ子ジュンの、世界共通の滑稽さ、可愛らしさを、「演じて」いて上手い。

 3つの話に共通するのはキング・エルビス。偶像になったり、幽霊になったり、ニックネームになったりして登場します。表題のエルビスの曲は、第1話のジュンのウォークマンから流れています。音楽担当はジョン・ルーリー。全編に流れるブルースやソウル・ミュージックなどもセンスあふれる映画。カンヌ映画祭最優秀芸術貢献賞

「ミステリー・トレイン」(監督ジム・ジャームッシュ  出演 工藤夕貴 永瀬正敏 スクリーミン・ジェイ・ホーキンス ニコレッタ・ブラスキ サイ・リチャードソン ジョー・ストラマー スティーブン・ブシューミ 89年アメリカ) 98.2.7
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「ラスト・ダンス」(原題 LAST DANCE )

 今まで人生をなげていたようなヤッピー弁護士リチャードが、知事の補佐官をしている兄の口添えで州の恩赦課に就職して、女性死刑囚シンディの担当をすることになる。彼女は、19歳の時に友人宅に押しいり、男女のカップルを殺害した罪で、12年間服役。これまで3度死刑執行命令がだされたが、その度に控訴して中止、新しい州知事の決定により、4度目の執行命令で、一ヶ月後の死刑が確定したばかりだった。リチャードは事件を再調査して、その背景に不当な取引があったことを知り、彼女を救おうと奔走するが。。

 死刑問題をテーマにしたシリアスなヒューマン・ドラマ。シャロン・ストーンが南部なまりとノーメイクで、改心した殺人犯を好演しています。ちょっと一昨年のニューズ・ウィーク誌の映画評を引っぱり出して見たら、展開にドラマチックな要素がなく、死刑囚の心理の深みが描けていないなどと酷評されてましたが、私には見応えがありました。ただラストシーンの、リチャードがタジマハールを訪ねるシーンは、「信じられない終わり方」とあり、その評言には共感。映画の孕んでいる重いテーマ性を、センチメンタルな甘い失意の情緒に、すり変えてしまっているように思えたからです。リチャードが、なぜ兄や上司の意向に逆らい、仕事を棒に振ってまで、彼女のために行動するのか、それがたとえ個人的な理由だとしても、もう少し過去のエピソードなど盛り込めば、起伏がうまれたかも。

 監督は「ドライビング・ミス・デイジー」の人。見所は、死刑執行直前にシンディが待機させられている場面の描写。シンディの心は明晰すぎるほどの正気の意識に満たされていて、自分に残された僅かな時が過ぎてゆくのを、ただ待つ姿勢でじっと耐えている。本当は叫びだしたくなるような、重苦しくて痛々しく、そして雄弁な場面です。

「ラスト・ダンス」(監督ブルース・ベレスフォード  出演 シャロン・ストーン ロブ・モロー ランディ・クエイド ピ−ター・ギャラガー 96年アメリカ) 98.2.7
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「ジキルとハイド」(原題 MARY REILLY )

解剖学者のジキル博士の屋敷に奉公し始めたメアリーは、少女時代に父親に虐待された過去を持っている。博士に見とがめられて、手首や首に残る獣の噛み傷の由来をうち明けたことから、二人は立場をこえた親しみを仄かに寄せあうようになる。そんな或る日、博士は新しくハイドという助手を雇ったので、出会ったら、私と同じように対応するようにと、奉公人たちに告げる。やがて、ハイドは、夜な夜な博士の研究室から外出しては犯罪を重ね、メアリーにも接近してくる。。。

 有名な「ジキルとハイド」の物語を、屋敷の奉公人メアリーと主人であるジキル(ハイド)氏との愛というテーマを軸に脚色したホラー・サスペンス映画。ストーリーを誰もが知っていることを前提に、新しい角度からとらえた作品といえそうだが、せっかく、メアリーが、紳士的なジキルと、粗暴なハイドの双方に、少女期に自分を性的に虐待した父親への愛憎を重ねて、無意識に惹かれていくという伏線があるのに、その掘り下げがないのが残念。そのために、終始おどおど、びくびくしながら、なぜか突如意志的に行動するメアリーの挙動にも、ちぐはぐさを感じてしまう。
この映画で印象的だったのは、顔のクローズアップが多いこと。終始笑顔を見せないジュリア・ロバーツは、本来結構こわい顔の人だし、ジョン・マルコビッチも、ずっと苦虫を噛みつぶしたようなジキル博士の緊張顔と、皮肉な笑みを浮かべる傲慢そうなハイド顔で怪演(メアリーに純粋に心を寄せているようにはとても思えなかったが)している。娼館の女主人に扮したグレン・クローズの顔も、もちろん、こわい。でも、いかにもそれらしい役の顔というのは、アップで見続けると単調だ。グロテスクなSFXもワンシーン見られるが、ストーリーからは、その必要性がわからない。。

「ジキルとハイド」(監督 リン・プレッシュ 出演 ジュリア・ロバーツ ジョン・マルコビッチ ジョージ・コール グレン・クローズ 96年アメリカ) 98.2.8
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「リトル・ブッダ」(原題 LITTLE BUDDHA )

ある日、シアトルに住むコンラッド一家のもとに、チベットからラマ僧が訪れて、一家の9歳になる息子ジェシーが、チベットの高僧の生まれ変わりである可能性が強いと告げる。彼らは、ジェシーを、他の生まれ変わりの候補者とともに、ブータンに招いて、本当の生まれ変わりが誰なのかを明らかにしたいと申し出るのだが。。。

 ごく普通の欧米の都市生活者が、ある日、アジア人の僧侶の訪問を受けて、息子が高僧の生まれ変わりかもしれないと告げられた時のショックには、ちょっと名状しがたいものがあるに違いなく、実際、映画で夫婦が示す反応も順当なものだ。その最初の興味深さから、混乱、忌避感に変わる落差の描写だけで、深い起伏ができているのだが、その矛盾をつきつめることなく、映画では、ジェーシーに送られた子供向けのブッダの生涯を描いたコミックのストーリーを、映像として中心に据えることで、無理のない流れがつくられている。友人の自殺をきっかけに父親が旅行に同意してから、舞台はブータンに移行するが、珍しい壮大な僧院の内部や宗教儀礼の様子がゴージャスに盛り込まれていて、異国情緒?を目で追う楽しみも味わえる。

 きらびやかな宝飾品を身につけたキアヌ・リーブスの演じる若い王子シッダールタは、モローの描く美青年をちょっと連想させる。SFXを使った幻影マーラとの対決の場面も幻想的で見所。この古典的なブッダの物語だけでも面白いファンタジー映画になると思うが、それを現在とからませることで、現代人の屈折した感覚にも応えている。ベルトリッチ監督の作品系列では「ラスト・エンペラー」(87)、「シェルタリング・スカイ」(90)に続く「オリエンタル3部作」の完結編とか。

「リトル・ブッダ」(監督ベルナルド・ベルトリッチ  出演キアヌ・リーブス  ブリジット・フォンダ アレックス・ウィーゼンダンガー イン・ルオチェン 93年英・仏) 98.2.3
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「魅せられて」(原題 STEALING BEAUTY )

19歳の少女ルーシーは、高名な女流詩人だった唯一の肉親の母親が自殺して、孤独な境遇に。心の傷を癒すためにアメリカから母の友人の住むイタリア、トスカーナにやってくる。その旅は同時に、4年前に同地を訪れた時の初恋の相手に再会したい望みと、残された母親の書簡を手がかりに、自分の実の父親を探すという目的も込められていた。芸術家のグレイソン夫妻とその家族、療養中の劇作家アレックスといった人々が彼女を歓待し、初恋の青年ニコロにも再会できたのだが。。。

トスカーナ地方の美しい自然を背景に、ひと夏の体験を通して、少女が大人に成長してゆく。焦点は男性を惹きつけずにおかないような、ルーシーの若々しい魅力の描写と、トスカーナの田舎の緑豊かな田園風景の賛歌というおもむき。病に冒された隣人アレックスとルーシーの、しっとりした心の交流が、この明るい光に満ちた映画に陰影をもたらしているが、ひたすらカメラはルーシー(リブ・タイラー)を追いかけることで、若い女性のもつ、ぎこちなさ、さりげなさ、恥じらいや大胆さがあやうい均衡を保っているエロスの輪郭を、映画の記憶に留めようとしているかのよう。

ベルトリッチ監督が15年ぶりに故国イタリアで撮影した映画。ハイライトは、屋外の遺跡みたいな場所で行われるパーティのシーン。あちこちに灯す燭台の炎が夕闇に映えて揺らめいて、とても美しい。

 ベルトリッチ作品は、いろいろな見方ができると言われますが、他の監督なら主題にするかもしれない重みのあるテーマを、さりげなく複数もりこんで、暗示するのに留めるのが特色かも。サービス過剰なほどの映像の美へのこだわりが前面に。

「魅せられて」(監督ベルナルド・ベルトリッチ  出演 リブ・タイラー  ジェレミー・アイアンズ シニード・キューザック ジャン・マレー レイチェル・ワイズ 96年イタリア) 98.2.3
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「イタリア旅行」(原題 VIAGGIO IN ITALIA)

 ロンドンに住む結婚8年目の夫婦が、別荘を売るという目的も兼ねて、南イタリアへ旅行。二人の関係は冷え切っているうえに、旅行先では、どうしても顔を合わせることになって、ことさら齟齬がめだつ。夫が別荘を売る商談のために別行動をとり、夫人は一人で、ローマの古代美術やカタコンベをゆっくり見て回る。合流して後も不仲は変わらず、夫はついに離婚を口に。現地の友人の強い勧めで、二人はポンペイの遺跡へ行き、抱き合ったまま死んでいる恋人たちの遺骸を見て夫人は吐き気を催す。帰りしなキリスト教の祭りの行列のため車が立ち往生、夫人は群衆に流され、ようやく夫のもとにたどりついたとき、夫人は意外にも、堰を切ったように愛の言葉を口にする。

 ほとんど劇的なことは起こらない。イタリアを旅行する子供のない倦怠期の夫婦が、互いにかいま見せる夫婦間の感情の振幅を、普段とはひと味違う旅先の時間の流れの中で、淡々と描いた映画。それでいて、不思議に印象深いシーンが心に残るのは、一見リアルな描写が心象風景のように描かれているからか。
 ネオ・リアリズムの巨匠の代表作で、ゴダール「勝手にしやがれ」に影響を与えた作品、というような先入観なしに、普通に見ればつまらない映画だという評を読んだが、なかなか、そうは思えなかった。登場人物たちの心の劇を暗示する情景が、醒めて後に残る夢の断片のように、見終わった後にも跡をひく不思議な感動の質は、つまらない映画から得られる類のものではないからだ。

 バーグマンがソファベッドの上で上体をを起こして、カード遊びをする時に使う小さなちゃぶ台みたいなテーブル。使いやすいように体に当たる側が、内側にカーブにえぐれている。あれは便利そう。互いに妻子や夫子をおいて恋愛した監督と女優の、短いが幸福だった時期の映画。

「イタリア旅行」(監督ロベルト・ロッセリーニ 主演 イングリット・バーグマン、ジョージ・サンダース 53年 イタリア)
98.1.30
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「イングリッシュ・ペーシェント」(原題 THE ENGLISH PATIENT)

 時は第二次大戦末期の1944年、北アフリカ。砂漠で撃墜された飛行機から、奇跡的に男が救出される。彼は全身焼けただれて虫の息だが、カナダ軍の従軍看護婦ハナによって、廃墟となった建物に運ばれ、手厚い看病をうける。男はハンガリーの伯爵アルマシー。最初は記憶も定かでなかったが、少しずつ回復して、北アフリカで遺跡を発掘調査していた時、知り合った英国人の人妻キャサリンと恋におちて、という、それまでの経緯が明かされて行く。

 2時間42分の映画だが、舞台設定の珍しさや、回想と現在がいりくんだストーリーを追っているうちに、さほど長さを気にすることもなく、すんなりと見終わった。砂漠や空の青さが美しい。この映画は、伯爵アルマシーと、キャサリンの不倫の恋愛が主体になっているが、それに重ねるようにして、献身的な看護婦ハナの物語も語られている。
 従軍看護婦が、一人の患者だけを隔離して特権的に看病する、という行為は現実的に考えれば不自然だが、たとえ規則に違反しても、ひとりの瀕死の患者を蘇生させることで、彼女は、愛するものを次々に失って行く不幸な自分の運命に、なんとか立ち向かいたいと願っている。それは彼女の必死のエゴだといってもいい。アルマシーの愛の物語を聞き終えた時、彼が目配せして、そっと手で押しやったモルヒネのカプセルを、ハナは、涙ながらに投与してやる。そのことで、不幸な運命への執着から彼女自身も解き放たれる、という運び。原作小説はブッカー賞を受賞。

 レイフ・ファインズもクリスティン・スコット=トーマスも、どこか顔立ちに品があって、私にとっては、好感度が高い俳優。顔が焼けただれた瀕死の男の回想という設定で、本当は情念まみれの不倫の恋愛も、人が自由に生きることの喩のように、美しく輝いてみえるという対比。本格派の恋愛映画でした。

「イングリッシュ・ペーシェント」(監督アンソニー・ミンゲラ 主演 レイフ・ファインズクリスティン・スコット=トーマスジュリエット・ビノシュ ウィレム・デフォー 96年 アメリカ)アカデミー賞9部門で受賞。
98.1.23
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「いつか晴れた日に」(原題 SENSE AND SENSIBILTY)

 19世紀初頭のイングランド。ダッシュウッド家の当主ヘンリーが、前妻の息子ジョンを呼んで、妻や娘3人の世話をする事を条件に、全財産を譲ると遺言して息をひきとる。だが吝嗇なジョンの妻ファニーの入れ知恵で、ヘンリー夫人と娘3人は、住んでいた広大な屋敷を立ち退かされることに。一家は、従兄弟のサー・ジョン・ミドルトンの厚意に甘えて、彼の小さな別荘に移り住むことになる。控えめでしっかりした長女エレノアと、可愛いくて情熱的な次女マリアンヌは、そんな経緯のなかで、それぞれ愛する男性と出会い、恋におちるが、いずれも相手は今となっては身分違いの貴族たち。果たして彼女たちの恋の行く末は。。。

 2時間16分の大作恋愛映画。お気に入りのアン・リー監督の作品ということで見ましたが、とても面白かった。もっとも、原作は19世紀の女流作家J・オースティンの小説で、脚本は主演しているエマ・トンプソン(彼女はこの作品でアカデミー脚色賞を受賞)。ということで、どこまで監督の味がでているのか言い難いですが、封建的な儀礼が、人々に感情の抑制を強いる場面や、性格の違う二人の姉妹の間の葛藤や深い絆の描写など、やはり「家族三部作」の監督ならではという感じ。
 当時の貴族階級の結婚といえば、家柄とか持参金がつきもの。それもつきつめれば親から相続される財産で、この映画では、そんな封建制度の矛盾に苦しむ恋愛の様相がテーマになっています。情熱的な恋をしても、親から禁じられて、遺産を譲らないと言われれば、結婚のためには無一文になる覚悟が必要。恋愛感情とリアリズムの関係が混線してるのは今でも同じですが、当時は、人間の欲望の形が、もっと鮮明に見えていたとは言えそうです。

 19世紀イングランドの家具や調度品、ピアノ、食器、衣服、何種類もの珍しい犬たち、そうしたストーリーを飾る道具立ての楽しさが、映画を豊かなものにしています。男たちはどこかたよりなく、女性問題で過去に苦渋を舐めているブランドン大佐だけが頼りがいがありますが、このひとも屈折していて、ちょっと得体のしれないところがある。この映画の特徴は、恋愛感情の中の、相手にあこがれたり、思い入れたりする情感が強調されていること。ラブシーンさえ登場しないのに注目。

「いつか晴れた日に」(監督アン・リー 出演エマ・トンプソン アラン・リックマン ケイト・ウィンスレット ヒュー・グラント グレッグ・ワイズ エミリー・フランソワ 96年アメリカ)98.1.29
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「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(原題 ONCE UPON A TIME IN AMERICA)

 ニューヨークに移住した貧しいユダヤ移民の子である少年ヌードルスは、近隣の仲間たちと自衛のためにグループを作っていたが、そこにブロンクスから引っ越してきたマックスが加わり、二人を中心に彼らは結束を固めて、しだいに地域のボスにのしあがってゆく。20年代の禁酒法時代から戦後の60年代にかけて、ヌードルスとマックスという二人の男性の半生を、彼らの友情、恋愛、裏切り、苦悩を絡めて、じっくりと描いた3時間24分の大河ドラマ。。

 この映画は、貧しい移民の子供たちが、ギャングにのしあがってゆく歴史を描いた大河ドラマという意味では、「ゴッドファーザー」(72)に似ているが、68年に企画されていたというから、その時、実現していればこちらが先ということらしい。ストーリーは、冒頭からしっかり組み立てられているので変えようがないが、後半の展開は、どうも劇的すぎる感じで、前、中盤の、骨の太い大河ドラマ的な印象をそいでいるような気がしないでもなかった。
 町並みや建物の映像もふくめて、彼らの少年時代の描写が、瑞々しく活気にあふれていて印象的。やがてヌードルスとマックスにとって、運命的な女性に成長する、幼なじみのデボラ(エリザベス・マクガバン)の少女時代を、この映画でデビューしたジェファー・コネリーが初々しく演じている。主役の3人がそれぞれ老人になった演技をしているが、後頭部を薄くして老人に化けているデ・ニーロの扮装の上手さがめだつ。、老女優になったデボラを演じるエリザベス・マクガバンが、素肌に皺のメーキャプをしたうえで、化粧を落とすシーンにアップで挑んでいるのも見所。。。

 この映画は、クリント・イーストウッドを世に出したマカロニ・ウェスタンのシリーズで知られるセルジオ・レオーネ監督が、10年の歳月をかけて製作した大作という。監督が87年に他界したことを知ると、一世一代の作品というべきかも。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(監督セルジオ・レオーネ 主演ロバート・デ・ニーロジェームズ・ウッズエリザベス・マクガバンダニー・アイエロジェニファー・コネリー 84年・英=仏)
98.1.23
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「赤い航路」(原題 BITTER MOON)

 舞台は、ヨーロッパからインドに向かう豪華客船。結婚7年になるイギリス人夫婦フィオナとナイジェルは、トイレで気分が悪くなっているフランス人女性ミミを介抱する。後に船のバーラウンジでミミに再会したナイジェルは、彼女の魅力に惹かれるが、その後、タラップで、ミミの亭主である、車椅子姿のアメリカ人作家オスカーに呼び止められ、話し相手になって欲しいと乞われる。ナイジェルは、同情と興味も手伝ってオスカーの部屋に赴くが、そこで、彼ら夫婦のこれまでのプライベートで性的な夫婦生活のいきさつを聞かされることに。ナイジェルはその描写と倒錯した二人の関係に嫌悪感を抱くが、一方でミミへの欲望もたちきれない。何日もかけて、オスカーが長いうち明け話を語り終えた時、おりしも船ではニュー・イヤーズ・イブのパーティ。夫ナイジェルの行状に不満と嫉妬を覚えていたフィオナはワインに酔い、ミミとダンスを踊り、二人は連れだって一室に消える。。。

 ナイジェルは、旅行先で知り合った小説家オスカーから、彼ら夫婦のなれそめを聞かされる。微笑ましい恋愛映画みたいな出会いから同棲生活、倦怠期を迎えて、二人が倒錯した性のゲームにのめり込んで行くあたりから、話は、不可解な領域へ。二人の愛憎の激しさや過剰な性的欲望への執着の由来が、うまくたどれないのだ。人はなぜそれほど人に対して、被虐的になれたり残虐になれたりするのか。その由来を主人公たちの出会い以前にたどる術は映画では閉ざされていて、作者は本来的な人間の欲望の姿とはそういうふうにできているとでもいいたげだ。
 知られているように、この映画を製作、脚本、監督をしたロマン・ポランスキーは、実生活で、幼くして母をアイシュビッツで失い、自らもナチの強制収容所から脱走して生き延びたという経験をもつ。成人して後も、狂信的なカルト集団に、妊娠中の夫人を惨殺されるといった度はずれた不幸に遭遇している。そのことを安易に関連づけてはならないだろうが、どうしてもそうした体験の痕跡を読み重ねてしまいそうになる。
 ミミを演じているエマニュエル・セイナーは監督の現夫人。

「赤い航路」(監督ロマン・ポランスキー 主演 ピーター・コヨーテエマニュエル・セイナーヒュー・グラントクリスティン・スコット=トーマス 92年・英=仏)
98.1.22
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「パリのレストラン」(原題 AU PETIT MARGUERY)

 パリの街角にある小さなレストラン「プチ・マルグリィ」の閉店前日の夜、店内の一画に常連客たちが招かれて、最後のささやかなディナー・パーティが始まる。映画では、30年続いたレストランとそのオーナーシェフの家族の歴史をまじえて、現在形で進行してゆくディナー・パーティに参加した客たちそれぞれの人間模様が、コース料理のメニューのように、丁寧に次々に紹介されて行く。。

 集まってくるのは、オーナーの息子と同世代の若いカップルたちばかりというのが、ちょっと気になりますが、彼らそれぞれが互いに関連しあう悩みや恋愛問題などとりまぜて、ワインと料理で賑わう明るい店内を舞台に、暖かい冬の夜の時間がゆっくりと進展してゆきます。当夜の客の中には肉が腐っているといって譲らない困った人や、現代らしく街角の哲学者(「ソクラテスのカフェ」ですね)らしき人も登場して賑やか。一家の歴史の回想の場面では、オーナーが浮気した時の話や、ひとり息子が(よくみると犬も)成長してゆく過程が、フランス映画らしい繊細さで語られていて、ほのぼのとした小品に。
 映画に登場する数々のフランス料理は、監督の父親が調理したものとか。

「パリのレストラン」(監督ローラン・ペネギ 主演ステファーヌ・オードランミシェル・オーモン、ジャック・ガンブラン、アニエス・オバディア 95年・フランス)
98.1.21
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☆「悲しみよこんにちわ」(原題 BONJOUR TRISTESSE)

 舞台は夏の避暑地リビエラの別荘。裕福な実業家でプレイボーイの父レイモンに溺愛されている17歳のセシールは、父親と婚約したとたん、教育ママに変身して、ボーイフレンドとの交際も禁じた女性アンヌに脅威を感じて一計を案じ、父の元愛人エルザとボーフレンドをたきつけて、プレイボーイの父親に仲のいいところを見せつけて嫉妬させ、浮気するようにしむけて、父たちの結婚を阻止しようと画策する。。。

 フランソワーズ・サガンの同名小説の映画化。有名な映画なので結末を書いてしまうと、セシールの計画は、絵に描いたように上手くいってしまって、父親の浮気を知ったアンヌが交通事故を装って、自殺してしまうという結果に。

 このショッキングな結末が、若さ故の軽はずみな行為がもたらした、取り返しのつかない過失の物語をうち明けられたような、やるせない印象をもたらすのだが、ちょっと考えると、数十年来の父レイモンの友達で性格も知り尽くしていて、有名服飾デザイナーで独立心もあり、道徳倫理も厳格そうなアンヌが、婚約者の浮気を知ったとたんに激情にかられて、自殺するというのはどうにも不自然だし、レイモンのほうも、愛人エルザ同伴の別荘に新たにアンヌを招いたり、婚約中に平然と浮気するというところなど、他人に対する感受性が欠如しているとしか思えないほど病的で不自然。
 それは脚本の問題としても、レイモンは事故後一年もたたないのに、しっかり立ち直って社交界で遊び暮らしているらしいし、娘セシールも父を真似て、今やボーイフレンドを取り替えて遊んでいるらしいし、二人で今年の夏は別の場所へ女性同伴で行こうなどと相談してるのは、どう考えるべきか。。。この映画のもつほんとうのおそろしさは、人が過去の過失や罪をいくら自覚しても、そうした記憶をきっかけに生活を変えられないという、人の生き方そのものに潜む欲望の傾斜や、そこから生じる現代的なニヒリズムを先取りしているところかも。それを、さりげなく映像として暗示してみせることで、この映画は、恋愛心理ドラマの枠をこえた深みのある作品に仕上がっているように思えます。

 生活感のないデビット・ニーブンの父親、気品があるが、どこか淋しそうなデボラ・カー演じる中年女性、軽薄で可愛い愛人役のミレーヌ・ドモンジョ、そして若さの絶頂で輝いているセシール・カットのジーン・セバーグ。カラーで映し出される追想の場面を、モノクロ画面の現在が、明るい夢のように反転するような仕掛けがあるという印象深い映画でした。。。。

「悲しみよこんにちわ」(監督オットー・プレミンジャー 主演デビット・ニーブンデボラ・カージーン・セバーグミレーヌ・ドモンジョ 58年・米国=英国)
97.12.30
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「テルマ&ルイーズ」(原題 THELMA & LOUISE)

 専業主婦テルマと、レストランで働いているルイーズは、仲のいい友人同士。ふたりは、週末二泊の予定で、ルイーズの友人が所有する山荘まで、車で小旅行に出発する。しかしドライブの途中で立ち寄った酒場で、酔ったテルマが男に言い寄られ、彼女を守ろうとルイーズは銃をとりだして。。。

 ごく普通の女性二人が、旅行中の行きがかりから犯罪を重ねてしまい、警察に追われながら続ける逃避行のプロセスを描いた、見応えのあるロードムービー。
 監督は「ブレードランナー」や「ブラックレイン」のリドリー・スコットで、風景描写にこだわりがあります。得意の雨の場面もでてきますが、やはり西部の抜けるような群青色の空や砂漠地帯の情景が美しい。こうした設定の映画は多いですが、脚本が女性(カリー・クオーリ)ということで、心理の細やかさに重点を置いたひと味ちがう仕上がりになっているのも特色。性格の対照的な二人の女性の、それぞれ異なる感情の振幅がよく描かれていて、それが二人のオスカー女優によって達者に演じられている感じ。
 テルマは可愛いくて調子のいい依存型主婦、ルイーズは大人びていて几帳面な自立女性。しかしこうした類型は平常のことでしかなく、非常事態には、互いに意外な面を見せることに。二人は友情で結ばれていたからというより、運命への諦めみたいなものでラストを迎える気がしました。彼女たちの無念さや、けなげさが、ずしんと胸に残る作品です。
 ブラッド・ピットは小悪党として脇役で登場。ハーベイ・カイテルは、お似合いの渋い顔の刑事。

「テルマ&ルイーズ」(監督リドリー・スコット 主演スーザン・サランドンジーナ・デイビスハーベイ・カイテルブラッド・ピット 91年・米国)アカデミーオリジナル脚本賞。
98.1.15
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「ヴァンパイア・イン・ブルックリン」(原題 VAMPIRE IN BROOKLYN)

 バミューダ諸島に隠れ住んでいた吸血鬼ノスフェラトゥ一族は絶滅の危機に瀕していた。ただ一人の生き残りマクシミリアンは、種族の子孫を残すべく、一族の血を半分受けついでいる女性が住む、ニューヨーク、ブルックリンにやってくる。その女性とは、殺人課に勤務する女性刑事リタで、彼女はまだ自分のおいたちを知らない。マクシミリアンは手練手管を弄してリタに近づこうとするが。。。

 監督は「エルム街の殺人」のひと。子供の頃から念願だった吸血鬼映画を、というエディ・マーフィが、原案、製作、主演を務めたという、入れ込み映画だそうですが、吸血鬼が、誰にでも変身できて、空も飛べて、魔法で部屋のインテリアも変えてしまえる、というのでは、あんまりでは。。。
 ホラーコメディとしては、最初にマクシミリアンの下僕になる青年ジュリアスが、しだいにゾンビ化していって、ストーリーの進行とともに、耳が落ちたり、腕がぽろりともげたりして、ぼろぼろになっていくという、ゾンビ映画のパロディみたいなブラックユーモアが笑えます。ジュリアスの早口はかってのエディみたいで、当のエディ・マーフィは、この映画では、もう貫禄充分。
 金色のコンタクトをいれたり、変装したり、メーキャップ技術には面白い見所がありますが、そういうことをしなくても、アンジェラ・バセットは、牙をつけるだけで完璧に吸血鬼に変身してしまうのが凄い。彼女のシリアスな女性吸血鬼ものを、ぜひ見てみたいと思いました。

 イエスが黒人だったという説もある位だから、吸血鬼が黒人であってもおかしくない。しかし、白人優先映画への反動なのか、この映画でも重要な配役は黒人が占めていて、最近、こうした傾向が、すこしはっきりしすぎているような気も。観客層の棲み分けの反映ということかもしれませんが。

「ヴァンパイア・イン・ブルックリン」(監督ウェス・クレイブン 主演エディ・マーフィアンジェラ・バセットアレン・ペイン、カディーム・ハーディソン 95年・米国)
98.1.11
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「ザ・ペーパー」(原題 THE PAPER)

 ニューヨークの地方紙「サン」の編集局次長ヘンリーは、出産まじかな妻をかかえ、将来のために大手新聞社への移籍を考えていて、職場ではやり手の女性上司との確執に悩まされているという、問題山積状態。その日は、朝から殺人事件の報道記事で他紙に出し抜かれてうんざりしていたが、移籍の面接に出向いた大手新聞社で、偶然その事件の背景についての手がかりを入手する。ヘンリーは、さっそく翌日の朝刊のスクープ記事を作るために記者たちを動員して奔走するが、ようやく重要証言をとれた時には締め切り時間をオーバー。上司の命令で輪転機は回り始めていた。。

 ニューヨークの地方新聞社で働く記者たちのハードな仕事ぶりを、彼らがスクープ記事を追う一日に焦点をあてて、テンポよく描いた業界もの映画。監督は、翌年「アポロ13」をつくったロン・ハワードで、やはりリアルさの再現にこだわりがあるのか、この映画では、ピート・ハミルなどのジャーナリストたちが実名で登場して協力しているのも特色になっている。
 グレン・クローズの演じる女性上司は、やり手だが、スタッフには嫌われている強引な性格の女性。仕事中にちゃっかり浮気もすれば、昇給を社主に直接直訴して、ルール違反だと、逆にたしなめられる一面も。きれれば催涙スプレーをもちだすところなど、「危険な情事」の鬼気迫る演技を思い出させてくれますが、男社会でつっぱって地位を築いてきたキャリアウーマンの寂寥感などもうまく出していて、映画をしっかり引き締めているのは流石。。

 この映画は、ラストのめでたい場面をのぞけば、最初からずっとみんなどなりあい、叫び続けといった感じ。新聞社はいかにもそうなのでしょうが、ヘンリーが一度に記者数人からの対応をせまられているのを、見かねた友人のコラムニストが新聞紙の束めがけてピストルをぶっぱなすシーンがありますが、さもありなんという感じ。編集会議のシーンは、雰囲気がよく出ていて納得しました。

「ザ・ペーパー」(監督ロン・ハワード 主演マイケル・キートンマリサ・トメイグレン・クローズランディ・クエイドロバート・デュパル 94年・米国)
98.1.8
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「好きと言えなくて」(原題 THE TRUTH ABOUT CATS&DOGS)

 ラジオでペット相談番組のコメンテーターをしているアビーは、話術も上手くユーモアもあって人気者だが、自分の容姿に自信がなくて、異性には引っ込み思案。ある日、番組で犬について相談をしてきた写真家のブライアンから、電話でデートに誘われるが、おそれをなしたアビーは、アパートの隣人のファッション・モデル、ノエルの容貌を自分のことのように彼に告げたうえに、デートの約束をすっぽかしてしまう。翌日、ブライアンは放送局にやってくるが、アビーは、偶然スタジオに遊びに来ていたノエルに、身代わりになってと頼んだものだから、ブライアンは美貌で長身のノエルを、アビーその人だと信じて、すっかり夢中になってしまう。ノエルとアビーは、なんとか真実をうち明けようと試みるが、そこはやはり複雑な恋愛心理がからんで。。。

 愉しく軽いラブコメディだが、それぞれ恋の悩みは深い。ブライアンはノエルとアビーが交代で演じる才色兼備した「アビー」にひかれている。アビーは、ブライアンが「アビー」の容姿に惹かれているのではないかと悩み、ノエルも、ブライアンが「アビー」の、自分にはない知性や人柄に惹かれているのではないかと悩む。ノエルとアビーが相談して、本当はブライアンはどっちが好きなのか確かめるための質問をするシーンがある。「もしバイオスフィアに一緒に行くとしたら、タイムズの記者みたいな女性と、プレイボーイのグラビアみたいな女性と、どちらと一緒に行きたい?」。この質問、あまりに典型的に設定されているから、どっちの答えもその余剰の部分で人を傷つけるように思えます。ちなみに、「バイオスフィア」とは実験施設のこと。

 ユマ・サーマンは美貌というより、のっぽで、ちょと個性的な顔立ちだし、映画にでてくるブライアンからのプレゼントがボーヴォアールのサルトル宛書簡というのも、なんだか出来過ぎていておかしい。ブライアンの飼っている犬がなかなか良い演技。動物が主役ものの映画は、ちょっと敬遠ですが、こういう脇役は好きです。

「好きと言えなくて」(監督マイケル・リーマン 主演ユマ・サーマンジャニーン・ガラファロ、ベン・チャップリン 96年・アメリカ)
98.1.7
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「アポロ13」(原題 APOLLO 13)

 月面着陸のために、1970年4月11日に打ち上げられ、途中で爆発事故を起こしながら、奇跡的に生還したアポロ13号の実話を、搭乗したクルーの船室での様子や、航空宇宙局のスタッフとの緊張感あふれるやりとりを中心に、SFX技術を駆使して再現した映画。

 この映画の見所はやはりアポロ13の船内の無重力状態の様子や、SFXを駆使した発進シーンや宇宙空間での司令船や着陸船の映像で、撮影には、NASAに機材を収めている会社に本物と寸分たがわぬモデルを発注して使用したというから、その力の入れ方がわかる気がする。つまり実際に起こった奇跡の生還ドラマの忠実な再現に主力が込められていて、NASAのスタッフや実際の13号の機長も映画に参加しているのを見ても、強力なチェックが入っているのだと思う。ただ、つくりものとは言え、これまで幾らかSFものの宇宙映画を見てきたものからすると、ドラマの展開に夢や意外性が入り込む余地がない感じで、緊迫感はよく伝わってくるのだが、映画としては、やや単調な感じがした。もっともこれはSF映画ではなく、SFX映画なのではあろうが。

 1970年前後というのは、世界的に学生運動や若者を中心にした様々な対抗文化運動などが興隆を極めた時期で、この映画でも、ジミー・ヘンドリックスの曲などがテレビから流れてくるシーンがある。そちらの方が実感的には懐かしくて、そういえば、日本では、小説家が切腹した年でもあったなあなどと思い出した。当時、アメリカに住む多くの人々は、この宇宙の出来事にみんな注目していたのだろうか。映画がそのように描かれているのは良くわかる。

「アポロ13」(監督ロン・ハワード 主演トム・ハンクスケビン・ベーコンエド・ハリスゲイリー・シニーズ ビル・パクストン 95年・アメリカ)
98.1.6
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「夢の涯てまでも」(原題 UNTIL THE END OF THE WORLD)

 南仏を車で旅行中のクレアは、事故にあって知り合った二人組の銀行強盗から、分け前を払うから強奪した金を運んでくれるようにと頼まれる。クレアは、話にのり、車でパリまで金を運ぶ途中で、何者かに追われていたトレヴァという男を助けて、同乗させることになる。無事にパリについたクレアは、強奪金の一部をトレヴァが持ち逃げしたことを知り、興味も惹かれて彼の後を追って旅にでるが。

 映画の前半は、トレヴァの居場所を追って、クレアと探偵が、パリ、リスボン、モスクワ、北京、東京、ロサンジェルスと世界各地を旅するロードムービーで、いかにもヴァンダース監督作品らしい活気があるが、後半はオーストラリアの辺境に腰を据えていて、別の映画かと思うような仕上がり。テーマもスパイ映画みたいな恋愛アクションといった感じから、いつのまにか、家族の愛憎がらみのシリアスなSF映画になっていて、ちょっと強引な印象は拭えない。

 舞台は近未来の1999年、映画には、脳の信号をデジタル画像に変換して記憶像や夢を他人が見ることができる装置というのがでてくるが、ちょうど、似たようなものが、「ストレンジ・デイズ/1999年12月31日」(95年制作)という映画では、もう開発されて闇ディスクとして出回っていたのを思い出しました。この映画にも小道具として登場するテレビ電話などは、普及間近のように思えますが、こうした装置も、もしかすると案外開発は間近なのかも。まさかとは思いますが。。。映画には、有名俳優や、情景では日本のカプセルホテルなども登場して、そういう意味で見所は多い(日本の描写は通念的過ぎますが)。構想は13年というのですが、やはり前半後半二本にわけて作ったのを見たいと思いました。

「夢の涯てまでも」(監督ヴィム・ベンダース 主演ウィリアム・ハート、ソルベイク・ドマルタン、サム・ニールジャンヌ・モローマックス・フォン・シドー、笠智衆 91年・アメリカ)
98.1.6
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