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走り書き「新刊」読書メモ(5)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(97.12.15〜98.3.13)

 上野千鶴子『発情装置』 竹田青嗣『現代社会と「超越」』 筒井康隆『敵』
 中野翠『無茶な人びと』 ラルフ・ヴィーナー編著『笑うショーペンハウアー』 森雅秀『マンダラの密教儀礼』
 吉本隆明『アフリカ的段階について』 舛添要一『母に襁褓をあてるとき』 立花隆『インターネットはグローバル・ブレイン』
 関富士子『蚤の心臓』 日高敏隆『プログラムとしての老い』 林信吾『イギリス・シンドローム』
 テリー伊藤『お笑い大蔵省極秘情報』 村井章介『海から見た戦国日本』 谷口ジロー・久住昌之『孤独のグルメ』
 ウィリアム・カルヴィン『知性はいつ生まれたか』 白洲正子『おとこ友達との会話』 夏目房之介『マンガと「戦争」』
 青山南『英語になったニッポン小説』 魚住昭『特捜検察』 渡辺武信『銀幕のインテリア』
 金井美恵子『柔らかい土をふんで、』 別役実『満ち足りた人生』 吉本隆明『食べ物の話』
 村上龍『イン ザ・ミソスープ』 吉本ばなな『ハネムーン』 テリー伊藤『お笑い外務省機密情報』
 野本陽代、R・ウィリアムズ『ハッブル望遠鏡が見た宇宙』 黒鉄ヒロシ『坂本龍馬』 富岡多恵子『ひるべにあ島紀行』

上野千鶴子『発情装置』(1998年1月25日初版第一刷発行・筑摩書房)は、ここ10年ほどの間に雑誌新聞等に発表された、セクシュアリティをめぐる論考やエッセイの集成で、近代の恋愛風俗の変遷や、少年愛マンガや造形作家ニキ・ド・サンファルを論じた文章、著者がレズビアン、ゲイの人々から受けた批判に応答する文章など、様々な性格の論考が収録されている。特に「コギャル」や「ブルセラ少女」を問題にするとき、社会学者も含めて、なぜ男の側の問題を取り上げようとしないのか、と問う、書き下ろしの巻頭のエッセイが歯切れがいい。「エロスとは発情のための文化的装置である」という観点から、エロスを本能や自然性とみなす「本質論」的な言説を批判し、その歴史的な起源を問う、という著者の立場は、必ずしも現代のフェミニズムを代表するものではないが、その理念は、究極には「性と人格を切り離す」ところまで届いている。
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竹田青嗣『現代社会と「超越」』(1998年1月20日初版第一刷発行・海鳴社)は、竹田青嗣コレクション4巻の完結編で、この10年程の間に雑誌誌上や講演会などで行われた対談集。対談の相手は、吉本隆明、笠井潔、島弘之、すが秀美、加藤典洋、岸田秀、橋爪大三郎、姜尚中、小浜逸郎、廣松渉、永井均、立川健二、前田英樹の各氏。普通、対談集というと、結構硬い著者の本でも、独特の話法のリズムに乗って読みやすいのが通例と思うが、この本はじっくり書き込まれていて、読み飛ばせない。現象学やニーチェの理解に独特な視座をもつ著者と、専門の研究者が火花を散らしているのが、ひとつの見所で、こういう直裁な意見の交換の場面は、私のような一般読者にとっては、大いに歓迎したいところ。著者の、「問題」に、どう対処すべきか、でなく、どう考えれば納得できる道筋を発見できるか、という思考の方法からは、多くの示唆を受け取ることができる。
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筒井康隆『敵』(1998年1月30日初版第一刷発行・新潮社)は、書き下ろしの長編「純文学」小説。元大学教授の渡辺儀助は75歳。とうに妻に先立たれ子供も無く、一軒家での独り暮らし。彼の人間関係や、日常の暮らしぶり、住環境の説明や、身辺雑記といった細々とした事柄の記述が前半を占める。儀助は一見独身老人の悠々自適の暮らしぶりだが、毎月の支出が多くて、年金だけではとても足りない。毎月これまでの預貯金を食いつぶしていて、計算では10年位で立ち行かなくなるのは目に見えているが、その時はすっきり自裁する覚悟でいるというのが、凄いというかリアル。小説の後半は夢や妄想の記述が多くなり、いつの間にか現実と混線する筒井ワールドに。本筋とは別に、私も自炊しているせいか、細々と描かれた独身老人の生活ぶり、特に炊事や買い物の描写が異様に面白く、ためになりました。「老い」はまだ舞台装飾で、やはり「自意識」がテーマの作品かと。実際の著者は34年生まれで、主人公より、10年程若いです。
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中野翠『無茶な人びと』(1997年12月25日初版第一刷発行・毎日新聞社)は、96年11月から一年間の間に各種雑誌に掲載されたコラムやエッセイを集めた本。時事的なニュース、映画や読書、テレビ番組など、いつもながら話題は多彩で愉しく、コメントの歯切れもいい。著者は、日本人の心根はなぜこんなに卑しくなってしまったのか、と慨嘆して、論理や倫理や道徳の必要性でなく、「感覚的美感」の重要性を説く。例えば、「少女売春」という言葉に対して、「世間体といったものを除外してもなお何か不快・嫌悪・恐怖といった感覚が残るとすれば、それは正しいもの、頼りにしていいものなのだ」、と。「サルに与えちゃいけません」、というポケベル批判(というよりマナー批判ですが)も鋭くも可笑しい。
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ラルフ・ヴィーナー編著『笑うショーペンハウアー』(1998年1月15日初版第一刷発行・白水社)は、ショーペンハウアーの著作、遺稿、書簡などから、640数カ所の章句を抜粋して、テーマ別に区分けしたうえで、それぞれの文章に逐次編者のコメント、解説をつけた、ひと味違うショーペンハウアー語録。19世紀前半にドイツに生きた「稀代の偏屈」哲学者の、毒舌と鋭い洞察、はたまた無茶苦茶な罵詈雑言が満載の本。編著者ヴィーナー氏は、この哲学者を師と仰いで50年、法政史の教授資格をもつ弁護士でありながら、演劇の脚本家、舞台のコメディアン、作家、批評家と多彩な顔をもつ人とあり、『危険な笑い-第三帝国におけるブラック・ユーモア』という著作もあるという。なるほど、そうした人でなくては、考えつかない本かもしれない。「そもそもダンテは地獄のための素材をこのわれわれの現実世界以外のどこから得たというのだろうか。それでいてそれは紛れもない地獄そのものになっているのである。、、、」(「よき旋律にこそ音楽が」)。深いものがあります。
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森雅秀『マンダラの密教儀礼』(1997年12月20日初版第一刷発行・春秋社)は、インド密教におけるマンダラの研究書。宗教的な「宇宙の縮図」を表現する「マンダラ」は、ある意味で、私たちにも、なじみ深いもので、近年では、デザイン美術的な鑑賞対象とされたり、その仏教教理的な意味背景とは別に、ユングを初めとする、様々な宇宙論的な解釈も施されてきた。これまで、そうした鑑賞、受容、研究の歴史に、抜け落ちていたものがあるとすれば、その儀礼的な側面の研究である。ということで、本書は、マンダラが本来儀礼のための「装置」であったという視点から、儀礼とマンダラの関係について、インド密教の文献を手がかりに詳細に考察した本。やや専門的な研究書という感じだが、チベット密教でのマンダラの作図法、灌頂儀礼のプロセスの記載など、図像学的興味や、水を使用する儀礼のもつシンボリックな意味(再生や浄化)についての関心にも応える内容になっていて、関連分野への広がりも。
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吉本隆明『アフリカ的段階について』(1998年1月20日初版第一刷発行・試行社)は、終刊になった個人誌「試行」の定期購読者にむけて配布された非売品だが、記念の意味もこめてここで紹介。近代の発達史観は19世紀後半の特殊な時期に成立したために、歴史区分として、人類の精神史の基層の部分にある「アフリカ的段階」に対しては、やがて文明化されるだけの後進地域や、野蛮で迷妄な世界として切り捨てられてきた。氏は「アフリカ的段階」という概念を、ちょうど高度な産業社会の変貌を通して未来に目を向けた時の課題に重ねあわせて、「アフリカ的段階」を母型とする歴史観の可能性を模索する。本書は、マルクス、ヘーゲル、モルガン、デュケムなどの古典的著作の歴史認識についての批判的検討、北米インディアンの作家カーターの『リトル・リー』や、アフリカ神話、日本神話などの読み解きを通して、「アフリカ的段階」というイメージの輪郭や、その感受性の特質の一端を明らかにする試み。芹沢俊介『主題としての吉本隆明』(春秋社・98年2月10日刊)が、この著書についての評論を収めています。
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舛添要一『母に襁褓をあてるとき』(1998年1月25日初版第一刷発行・中央公論社)は、「婦人公論」97年11、12月号に連載された「痴呆症の母を守って家族崩壊」に、書き下ろしを加えた単行本。国際政治学者で、マスコミ出演も多い著者は、これまで出身地の九州の長姉夫婦のもとに母を残して、主に東京で活動。母君の痴呆化が進み、地元施設に入居させることになるが、その後の処遇を巡って親族間で激しい争いが生じる。氏の事態への精一杯の対処の仕方は見事なものだと思うが、そのこととは別に、この本の意義は、氏が介護に取り組んで遭遇した、様々な老人を取り巻く福祉環境、行政制度の矛盾や問題点を具体的に指摘していること。老人介護にまつわる様々な法的手続きの際に、どんなに面倒で不合理なプロセスを踏むことを強制されるか。きつい体験の冷静な記述が、価値あるアドバイスにもなっています。
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立花隆『インターネットはグローバル・ブレイン』(1997年12月24日初版第一刷発行・講談社)は、著者の仕事の流れからいえば前作『インターネット探検』(講談社)の続編で、東大の先端科学技術研究センターにおける講演、月刊「ヴューズ」掲載のホームページ紹介の連載記事、「週刊現代」や「文芸春秋」誌初出の対談からなる。著者のインターネットや先端技術に対する関心や熱意の程は、ビル・ゲイツ氏との対談を読むと、その執拗で専門的な質問姿勢に見て取れるが、やはり本書の圧巻は、世界のホームページを著者自身が探索して紹介した第二章だろう。著者が、この連載記事を書くためにダウンロードして、プリントアウトしたページを重ねると、軽く2メートルを超えるという。そしてその労力に見合った、実用的な情報、面白サイトの情報が沢山集められている。私たちを取り巻く、おびただしい情報の質や意味を、広い視野から振り返るのに、こういう情熱に支えられた活字の仕事は嬉しい。インターネット探検記は、講談社のサイト「立花隆の電脳広場」でも読めます。
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☆関富士子『蚤の心臓』(1994年7月1日初版第一刷発行・思潮社)は、詩集。日常のなかで、ふと心に浮かぶ、奇妙でどこか懐かしい言葉のしっぽを捕まえて、とりおさえ、周囲を膨らませて精密で簡潔な物語をつくる。するとその言葉は、いきいきと息を吹き返して、ずっと以前からそこにいたような顔をして構築された作品の中ですましている。関さんの詩は、日本語の性格になじんだ機知やブラックユーモアの可能性に開かれていて、読みやすく楽しめますが、本当は、とてもしっかりした方法意識と知的な技術に支えられています。すっと詩の中に身をひそめたり、するりとすりぬけてくるようなセンスも独自。難解なだけの現代詩なんてどうも、という人に勧めたい詩集です。『蚤の心臓』の抄録が関さんのホームページ「rain tree」に収められています。
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日高敏隆『プログラムとしての老い』(1997年11月15日初版第一刷発行・講談社)は、雑誌「正論」に、96年5月から97年4月にかけて連載された「老い」についてのエッセイを中心に加筆した本。平易な言葉で、動物行動学が近年まで辿ってきた動物観・自然観の理解の変遷が、語られている。60年代後半から報告されはじめた、猿やライオンに見られる「子殺し」をどう理解するか。この解答を、R・ドーキンスの利己的遺伝子説に求めたところで、従来の動物観・自然観は大きく変貌を遂げた。「種族維持のための社会システム」という考え方も、自然の掟といった捉え方も否定され、それぞれの個体が自分の血をひいた子孫をどれだけ多く残すかということだけが実相だとされる。それを決定するのは遺伝子のプログラムであり、「老い」もまた例外ではない。本書は、そうした知見からどんな新しい意味を汲み出してくるかという現在の地平への入門書。著者は現滋賀県立大学学長で、著書、訳書多数。
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林信吾『イギリス・シンドローム』(1997年10月20日初版第一刷発行・ちくま新書)は、昨今の「イギリス(本)・ブーム」を批判した本。英国は階層社会の棲み分けがライフスタイルにまで徹底しているので、数年の滞在経験で、上流知識階級との限られた交流から得たイメージだけを膨らませて英国を紹介すると、理解が現実ばなれしてしまう、という趣旨で、ブームの火付け役となったとされる林望氏など、実名、書名をあげての罵倒攻撃はかなりのもの。著者は在英10年、『地球の歩き方・ロンドン編』など著作多数の人で、つけ焼きの「英国礼賛本」の蔓延に対する具体的な義憤の言葉には説得力があります。指摘のような事実誤認が修正されれば、大いに読者の益するところ。ただ、「英国礼賛本」を読んだからといって、著者のいう「イギリス真理教徒」になってしまうというわけでもなく、私としては、かって林望氏の本から、スコーンのつくり方を教わって大いに益するところがありましたが。。
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☆テリー伊藤『お笑い大蔵省極秘情報』(1996年7月10日初版第一刷発行・飛鳥新社)は、匿名大蔵省官僚3名へのインタビュー集。一昨年に出版された本だが、前に読んだ『お笑い外務省機密情報』が面白かったのと、時節柄関心があって、ということで、書店で見かけて入手。第13刷とあった。インタビューというより、官僚の独演会といっていい感じ。自分たち少数エリートが、実質、日本を支配しているとでもいいたげな、特異な現実感覚が伝わってくる。主税局で税金を見積もり割り当てをして、主計局で、使い道を分配する。それらの組織が連携しているので、前者は、民間の個人やマスコミ・企業に対し、後者は、政治家や、他の官庁に対して、有形無形の圧力として利用できるらしい。われわれがその気になれば、すぐに検察庁の予算を締めることができる、とか、佐高信がこれ以上つっこもうとすれば、身辺を洗って、徴税の際に必要経費を認めないとか、脅しとも取れる発言は、まさに国家の財布のひもを握っていて、同時に、いつでも批判者の所持品検査もできることを言外に匂わす、ゴッドマザーの口振り。自分たち以上の組織も人材もないので、分割されても強固になるだけ。恐いものは無いという。大蔵省は、旧帝国陸軍のエリート組織のシステムを継承しているそうで、そういえば軍務は厳しく、団結心はかたく、裏側はルーズでも許容しあっている。組織がひとを作るという典型を見る思い。
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村井章介『海から見た戦国日本』(1997年10月20日初版第一刷発行・ちくま新書)は、16世紀から17世紀前半の日本を、周辺地域、海域との関わりから考察した本。戦国の乱世をはさんで、中世から近世に移行する社会の変動期を、蝦夷地、琉球、対馬といった周辺地域に目を向けて、世界史的な視野からとらえ直す試みは、新しい歴史への展望として興味深い。北方交易のターミナルであった津軽の十三湊を中心とする同心円を描くと、ナホトカやウラジオストックまでの距離が、京都までの距離にほぼ一致する。また東アジアと東南アジアを結ぶ交易ルートのかなめにあった琉球の那覇を中心にすると、マニラやマカオまでの距離が京都までの距離に相当する。そういう図表が収録されていて想像力を刺激してくれる。交易や密貿易において、岩見産出の倭銀の果たした役割に触れた「日本銀と倭人ネットワーク」の記述が、遠くは中国やヨーロッパなど、当時の「世界」に繋がる具体的なイメージを伝えてくれる。
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谷口ジロー・久住昌之『孤独のグルメ』(1997年10月30日初版第一刷発行・扶桑社)は、谷口ジロー作画、久住昌之原作の単行本コミック。月刊「PANJA」に94年から96年にかけて漸次連載された作品の集成。個人で輸入雑貨業を営む独身の中年男性が、仕事の合間や出張旅行先で空腹を覚え、ふらりと飲食店に立ち寄って食事をする。そんな外食風景を描いたエピソードが1話ずつ完結して、18話分収録されている。登場するのは、ほとんど都内や東京近郊の実在の店で、表題のグルメという言葉から連想されるような有名店もあるが、回転寿司とか、デパート屋上のうどん屋といった店がほとんど。現代の都市風景にまぎれて今にも消えそうな、下戸で甘党の中年男の日常を描く繊細な絵柄がすばらしい。あとがきは不要では。
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ウィリアム・カルヴィン『知性はいつ生まれたか』(1997年11月10日初版第一刷発行・草思社)は、知性(知能)の脳内メカニズムについて書かれた科学啓蒙書。著者は高名な理論神経生理学者で、神経外科医、動物行動学者たちと協力して、脳と進化の関係をマクロな視点から研究しているという。本書の主張の眼目は、「ダーウィン的プロセス」が脳内でも進行(ニューロンの活動におけるパターンの複製、変異体の出現と、その競争による選択)しているというもので、とても興味深い。同じく脳進化の研究者である訳者の澤口俊之氏は、あとがきで、著者の主張は、部分的には具体的な証拠もあがってきていて、魅力的な仮説だが、まだ充分といえるだけの証拠は、得られていない、としている。脳内メカニズムを量子力学と関連ずける「意識物理学者」批判もあり、神経生理学の理論家の旗印が鮮明。
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白洲正子『おとこ友達との会話』(1997年10月25日初版第一刷発行・新潮社)は、90年から96年にかけて雑誌に掲載された対談の集成。対談相手は、尾辻克彦、前登志夫、仲畑貴志、青柳恵介、ライアル・ワトソン、高橋延清、河合隼雄、養老孟司、多田富雄の各氏。手慣れて親しい能や骨董や古典文芸がテーマという場合もあるが、話題は対談者の顔ぶれを見ても察せられるように、そういう枠からはみ出していて、今年で88歳になるという著者の関心の拡がりを証している。中でも横断的な科学者L・ワトソン氏との対談「日本談義」で意気投合して盛り上がっているのが愉しい。「ひとり相撲」などというと、もう言葉としてしか判らなくなっているが、そこに相撲のルーツがあるという指摘など、ワトソン氏の意外な日本通の一面にも驚かされます。美は語れないし、言葉で判っても駄目、そういう批評の逆説を体得している批評家の爽やかな対談集。
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夏目房之介『マンガと「戦争」』(1997年12月20日初版第一刷発行・講談社現代新書)は、書き下ろしの戦後マンガ論。手塚治虫からエヴァンゲリオンに至る戦後のマンガの歴史の中で、「戦争」がどのように表現され、日本人の身体観がどのように変化てきたかを、おりおりの代表的な作品に具体的にふれながら、やや硬派の批評の言葉で論じた本。いろいろな芸術文化の表現ジャンルにも共通に言えることだが、表現をになう世代の交代に従って、「戦争」の表現は、戦後当初もっていた体験的意味から離れて、薄められ、イメージとしては拡散し、多様化、抽象化してゆく道筋をたどってきた。戦後の消費文化に支えられて、豊饒で高度な達成を産んだマンガというジャンルは、そうした変遷を、まさに絵解きしてみるには格好の素材といえるのかもしれない。著者はマンガ・コラムニストで、解説が詳しい。個人的には、60年代の戦記物ブーム(「紫電改のタカ」!)の記述が懐かしかった。
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☆青山南『英語になったニッポン小説』(1996年3月30日初版第一刷発行・集英社)は、雑誌「すばる」に、94年1月号から95年6月号にかけて連載されていた評論を集めた本。現代の日本の小説で、ここ10年ほどのうちに英訳本が出版されたもの11冊を取り上げ、原書と比較対照して論じたもの。作家の特徴的な文体や、日本語での実験的な作風が、どのように工夫して翻訳されているのか。著者は、単に誤訳箇所をあげつらったりすることなく、文化的な差異から不可避的に生じる言葉の壁の問題に、丁寧に鋭く踏み込んでいて、興味がつきない。文章の読みが深く、作品論、作家論としても、充分読み応えがあります。取り上げられているのは、吉本ばなな『キッチン』、村上龍『69』、小林恭二『迷宮生活』、李良枝『由熙』、高橋源一郎『虹の彼方に』、津島佑子『山を走る女』、村上春樹『象の消滅』、島田雅彦『夢使い』、金井美恵子『兎』、椎名誠『岳物語』、山田詠美『トラッシュ』。
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魚住昭『特捜検察』(1997年9月22日初版第一刷発行・岩波新書)は、元共同通信記者で司法記者クラブに在籍していたフリー・ジャーナリストが、東京地検特捜部の成立の背景やその戦後の足跡を、数々の政財界の汚職脱税事件の捜査経緯に具体的に触れながら、簡明に解説した本。ロッキード事件、リクルート事件、ゼネコン汚職事件など、検察が、政財界の腐敗ぶりや癒着構造の一端を暴いて、喝采を浴びた事件は多いが、一方で、起訴を見送ったり、略式起訴ですませて疑念をもたれた事例もある。本書は、そうした二面性をもった検察の「栄光と挫折の歴史」を関係者の証言などもあげて、生々しく紹介している。文体も簡潔かつ事実の重みを伴った緊張感があって、なまじフィクション仕立ての暴露小説などを読むより面白い。検察の機能は、あくまでも既存の法や権力システムの秩序維持のための、組み替え、合理化にあって、それを越えるものではないが、いつも競争原理に促されて、なんとか自前の利権システムを作ろうとする個別の欲望と対決している。そのドラマのプロセスは透明なほど風通しがいいだろう。
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渡辺武信『銀幕のインテリア』(1997年10月16日初版第一刷発行・読売新聞社)は、91年末まで2年9ヶ月にわたって読売新聞水曜日に連載されたコラム、「透視図」を加筆再構成した単行本。著者は建築家で、音楽(ジャズ)評論、映画評論、現代詩など幅広い著述活動で知られる人。このコラム集では、様々な映画のシーンに登場する建築や室内装飾についての話題が、とても丁寧かつ簡明に書き下ろされている。ハリウッド映画では刑事がドアを蹴破って室内に突入するシーンがあるが、あれはドアが内開きになっているからで、日本だったら骨折してしまうという指摘など、愉快。200本近い映画のシーンが「椅子」「寝室」「照明」などテーマ別に紹介されていて、時に情景を思い出しながら愉しく読み進むうちに、快適な住まいとはなにかということも考えさせられます。普段そういうことに心を砕いている個人住宅の設計者ならではのヒントにも満ちていて実用的。また、なによりも著者自身の映画への深い愛着が伝わってきて、暖かい印象が残ります。
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金井美恵子『柔らかい土をふんで、』(1997年11月20日初版第一刷発行・河出書房新社)は、91年から97年にかけて、様々な文芸雑誌に掲載されてきた連作小説の集成。あとがきにあたる文章を読むと、この作品が著者が映画雑誌に書いて未完になっているジャン・ルノワール論をきっかけとして生まれたことが明かされている。自分がこれまで映画によって受け取ってきた感動(著者は「愛の歴史」と呼ぶ)を、批評というスタイルではなく、自分の言葉で語り、むしろその感動と合体してしまいたい、という欲望にかられた、と。しかし、そうした、魅力的だがある種の明快さの印象を読者に与えかねない解説と、作品の内容は、いつもながら対照的。同性愛者らしい「私」の彼女が、私のもとを去って行き手紙をくれる。というおぼろげなストーリーの前面にあるのは、例によって装飾的で絵画的な切れ目のない饒舌な文体であり、まさに少女期の記憶と映画シーンと精密な細部描写の洪水のような言語に飲み込まれる「小説」の体験だ。
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別役実『満ち足りた人生』(1997年7月24日初版第一刷発行・白水社)は、人が「人生」において経験する様々な出来事について、主題別に書き下ろしたエッセイ集。テーマは「誕生」「入学」「成人」「結婚」「出産」、、、と言えば、ありきたりに思われるかもしれないが、「借金」「窃盗」「売春」「手術」などというものもあり、さらには「排便」「断食」「投石」「混浴」「落馬」というものまであるから、とても変だ。変なのは、もちろんタイトルだけではない。日本の代表的な不条理演劇作家が、とても不条理な理屈を、一見条理をつくして、すまして語っているところが無類に面白い文章。ノンセンスだからといって読み飛ばそうとしても、そうはいかない「人生」の深淵さに立ち止まらせられます。そういえば、人間がはじめて、立ち止まった時の感動が考察してある「歩行」というエッセイは珠玉のおかしさ。
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吉本隆明『食べ物の話』(1997年12月15日初版第一刷発行・丸山学芸図書)は、マルイグループの広報誌に連載された「食べ物のはなし」や、料理人道場六三郎氏との対談など、これまで著者が食べ物について語り、書いてきた文章の集成。大きい活字で組んであり、愉しく気楽に読める体裁になっている。ただ、この著者から、豪勢なグルメ談義を期待してもお門違い。本書は、本当に好きなのは、普段の生活になじんでいるような、カレーライスとカツ丼だと言い切るスタンスからの、料理についての発言集なのだが、若い人には、それが逆にこだわりに見えてくるかも。
 自分がうまいと思うものが、うまい料理で、それは染みついた個別の記憶と無縁ではない。染みつかせるところに男女の関係が持続する秘密があり、料理には、人が考えている以上に「空恐ろしい重さ」があると言う「わたしが料理を作るとき」(初出は73年)という一文を、以前に読んで驚いたことがある。あれから、もう四半世紀。テレビでは「これを我が家の味に決めます」というカレールーのCMが流れている。
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村上龍『イン ザ・ミソスープ』(1997年10月16日初版第一刷発行・読売新聞社)は、今年の前半期に読売新聞夕刊に連載された小説の単行本化。外国人観光客相手に東京のナイトスポット(風俗店)の観光ガイドをしている20歳の青年ケンジは、フランクという奇妙な雰囲気の男に、三日間の夜のガイドを依頼される。フランクは、言うことが矛盾しているし、最初に入ったランジェリーパブで、料金の支払いに彼がが差し出した一万円札に付着していた血痕がなぜか気になる。ケンジは嫌な予感に苛まれながら彼を案内するが。。。
 この作品の新聞連載中、大量殺戮シーンが描写されている時に、神戸の事件が起こり、少年が逮捕された時に、作者は犯人の告白シーンを執筆していたという。この時、「想像力と現実」が闘っていたと作者はあとがきで書いている。文学が現実の声無き叫びの翻訳なら、もう現実(崩壊してゆく共同体の速度)に追いつかないとも書いている。作者が翻訳と呼ぶところは、ちょうど本文218ページの、ケンジの想念として描かれている激しい現実嫌悪の記述に対応している。そして、この箇所は「現実」に「想像力」が追いつこうとしている白熱した場所の所在を証しているように思える。
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吉本ばなな『ハネムーン』(1997年11月25日初版第一刷発行・中央公論社)は、書き下ろしの長編小説。主人公(まなか)は23歳。隣家に祖父と二人で住んでいた幼なじみの裕志と、ふたりが18歳の時に結婚した。今でも裕志とは垣根を隔てて自由に行き来する関係で、まなかは、普段は、母の翻訳の仕事や家事を手伝いながら、両親と共に住んでいる。晴れた日には、庭にでてぼんやりと瞑想したり、空や草花や昆虫を眺めているのが好きな、おっとりとしているが、しんのしっかりした女性と、幼なじみの無口で内向的な青年という若いカップルの、運命みたいな関係の絆が、二人の家族の過去や現在形の事件にまつわる、様々な感情の起伏を中心に描かれている。人は、特殊な運命や境遇をどうやって受け入れるのか。大きく地球を鳥瞰するような視線から、すべてを包み込んで肯定したい、という願望と、壊れやすい自他の心に対する繊細な配慮や気遣いの大切さ、というメッセージの拮抗。この小説では、それを繋ぐものとして、たとえば「オリーブ」(ペットの犬)の死のエピソードがある。小動物(の死)への愛着(固着)は、ちょっと最近気になるテーマ。
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テリー伊藤『お笑い外務省機密情報』(1997年10月16日初版第一刷発行・飛鳥新社)は、複数の現役外交官や関係者への取材、インタヴューに基づいて、外務省及び外交官の海外での業務や生活実態を紹介、暴露(^_^;)した本。証言者の総数が示されていないのは、その数字を示せば「その最後の一人がわかるまで、外務省の全勢力を上げても、喋ったやつを特定して処分せざるを得なくなる」と、著者が外務省幹部に言われたからだという。海外の日本大使館というのはどんなことをやっているのか。そういう単純な疑問から踏み込んでいって、その背後に、どうにも特異としか言えないような外交官たちの特権意識や、へんな身内意識に凝り固まった特殊な省庁の内部構造が見えてくる。生々しいうえに理不尽きわまる話が多くて、「お笑い」とあるが、どうにも笑えない。外交官の世襲制というのも奇妙な話で、著者は外務官僚が(身内に有利なように)採否を決める、現行の外交官試験制度を改革せよと主張。
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 野本陽代、R・ウィリアムズ『ハッブル望遠鏡が見た宇宙』(1997年4月21日初版第一刷発行・岩波新書)は、ハッブル宇宙望遠鏡が、これまでにとらえた100点以上の天体写真を解説つきで紹介した本。ハッブル宇宙望遠鏡は、1990年4月にうちあげられて以来、高度約600キロの軌道を回っている。最初は問題をいくつか抱えていたが、反射鏡のゆがみに「コンタクトレンズ」をはめることで、最大のトラブルが解決した94年以降、素晴らしくシャープな画像を見ることができるようになった。本書に掲載されている中で、驚くべき画像は多々あるが、いわゆる「ディープフィールド」をとらえた最深宇宙像(現在可視光で見ることのできる最も遠い宇宙像)が、カラフルで美しい。赤、青、白色に発光する銀河の様子は宝石をばらまいたようで、宇宙のイメージをちょっと変えてくれます。へび座のワシ星雲の写真も凄い。
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 黒鉄ヒロシ『坂本龍馬』(1997年12月22日初版第一刷発行・PHP)は、前作『新撰組』に続く、幕末を舞台にした歴史漫画の第二弾。今回も近年発見された写真資料などの考証をふまえたうえで、独特のユーモアを交えた軽快なタッチで、幕末の風雲児、坂本龍馬の半生が、当時の変転する時局の動きに重ね合わせて再構成されている。幕末もの、龍馬ものの愛読者なら、すっと踏み込んで、伝記的な事実や、史実の細部に加えられた著者の新解釈などを堪能できると思うが、まったくそうでない私のような者にも、おぼろげながら、政治的理念や価値観の変動する幕末の動乱期に、龍馬という不思議で魅力的な人物の果たした役割の一端が見えてきたようで愉しかった。
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 富岡多恵子『ひるべにあ島紀行』(1997年9月10日初版第一刷発行・講談社)は、95年1月から97年4月にかけて雑誌「群像」に連載された長編小説の単行本。『ガリヴァー旅行記』の作者スィフトの生涯についての伝記的な記述を紹介した部分と、著者がアイルランドの小さな島に逗留にした折りの体験を、ハンナという女性との交流を通じて紀行文ふうに綴った部分、さらに空想の国「ナパアイ国」での体験を物語風に記した部分、そうした異質の文章が章別に入り組んで、全体が進展してゆく。中盤から、主人公の男友達数人の挿話も加わって、物語と現実が交錯しはじめる。対象との距離感の異なる複数の異質な文章を、筆力でまとめた感じだが、輪郭のくっきりした著者の視線のなかに、老いというテーマが、少しずつ顔をだし始めているという印象。二年以上に渡って書き継がれた力作。。
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