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ストーリー解説あり。注意。

「東京日和」

 勤めていた広告代理店をやめてフリーの写真家になった島津巳喜男は、定収がなくなり、「妻に食わせてもらっている」と陰口をたたかれる状態。そのぶん銀座の旅行代理店で働く妻ヨーコが生活を支えている。映画では二人の日常の生活ぶりが描かれるが、しかし、のっけからヨーコの挙動が少し変だ。夫の知人の名を言い間違えたことを、過剰に気に病んで、キッチンで胡瓜を際限なく細かく刻んでいたり、突然家をでていって三日も帰らない。夫が心配して会社を訪ねると、主人が交通事故にあったので休むと嘘の言い訳をしていたことが知れる。また耳もとで蚊の飛ぶ音が聞こえるという幻聴を訴えたり、時々、同じアパートに住む男の子を相手に遊んでやるが、その子を連れ出して無理に女ものの服を着ることを強要したりする。要するに、どうも精神に変調をきたしているのだ。しかし映画では、なぜか彼女の病変の原因は示されず、夫も内心は妻の謎めいた挙動に対処しかねていながら、翌日には、そんな病態がなかったかのように二人は振る舞う。映画には、散歩中に偶然石のピアノを見つけ、雨の中で二人で無邪気にはしゃいだりする幸福な時間も描かれている。レストランでの会食、二人で仲良く空き缶を蹴りながら帰宅するシーン、新婚旅行で訪れた九州柳川を再訪する旅。そこには親密な会話を交わす仲むつまじい夫婦がいるだけだ。このコントラストの中から、どんな感想を持ち帰るか、が、この映画の見所になっているように思える。

 この映画は監督の竹中直人が、写真家荒木経惟のフォトエッセイ「東京日和」を読んだのがきっかけで、映画化の構想が始まったらしいが、製作段階で荒木夫妻の物語をなぞるのをやめて、独自な別の夫婦の人生を描こうと変更したという。だが、見るものはどうしてもイメージを重ねてしまうし、そう見られてもしかたがないほどシチュエーションは似ている。荒木氏自身も映画に登場するし、写真集にでてくる風景も沢山取り入れられている。そうすると何が変換されていて、監督は、何が描きたかったのだろうか。

 芸術家肌で仕事をやめてまで好きな写真を撮影したい写真家と、彼をけなげに支える実際的なワーキングウーマンの妻という取り合わせ。これは事情は少し違うが、実際にあったことのようだ。「二年ほど知り合いの事務所に勤めていたことがある。それも一日おきの勤めで、朝9時に家をでれば良い、という呑気な勤めであったが、、、」(『荒木経惟写真集3』)。映画では、ヨーコは、銀座にある小さな旅行代理店のデスクで、電話の応対でスペイン語を流暢にこなし、会社の上司からも頼りにされている、という設定に変えられている。なぜこのことに注目するかといえば、そういう設定を借りながら、映画では、夫婦の関係が、妙に直情的で現実感覚のあふれる夫と、やることなすこと非現実的な雰囲気の漂う空想家の妻というように変えられているからだ。この変換には残念なことに統一感がない。冒頭から与えられる彼女の病的な挙動から想像されるのは、むしろ、世間的なつながりが不慣れで苦手なまま、若くして専業主婦になってしまったような、大人しくて空想癖の抜けきれないような自閉気味の人物類型だからである。見るものは、事務的で良識的な判断と責任を要求される接客業務をそつなくこなしていただろう彼女が、なぜ、ささいな言葉の間違いから対人恐怖みたいな症状を呈したり、夢遊病みたいな症状におそわれるのかわからない。この謎は最後まで宙づりにされたままなのだ。

 もうすこし言ってみよう。二人が散歩したり、ホテルのレストランで会食したり、旅行したりするシーンは、荒木夫妻の物語の中で、実際のエピソードや写真として沢山登場する、幸福感あふれる場面や、美しい風景や、モダンで楽しげな夫婦の生活記録をなぞっていたり、変奏している場面に思える。石のピアノを雨の中で連弾するシーンや、空き缶を執拗に蹴り続けるシーンなど、やや誇張的に感じられるとしても、それらのあたえる夫婦間の親密な情感は、とても自然なものだ。しかし映画は同時にヨーコの異常とも思える挙動のエピソードを織り込んでいる。それが映画に緊張感や別のテーマ性をもたらしているのだが、おそらく制作者がつけ加えたものだ。そのテーマ性をひとことでいえば、人間同士が、分かり合うことの難しさというようなことになるのかと思う。

 夫の挙動に注意してみよう。彼は、彼女がさまざまな精神的な変調をきたしても、実際に精神科の病院に相談した様子がみられない。ヨーコが夜遅くまで、人気のない草むらにアパートの男の子を連れ出して、女児の服を着せて懇々と理屈にならない理屈をこねるシーンがあるが、あれは一種の誘拐罪だし、情緒不安定な精神状態で子供に危害を加える可能性さえあるように思える。しかし映画はその異様な情景の中のヨーコの狂態を、この世ならぬものの美としてとらえたがっているだけのように思える。夫はただ、妻の病態に、腫れ物に触るように、手をこまねいている。一方で夫は、幻聴の治療に病院に行った妻を尾行して、後で医者に診察結果を聞きただしたり(何故夫婦一緒に相談に行かないのか?)、散歩中の妻が男と出会って会話を交わすのを、のぞき見していたりする。要するに妻の病変の進行が存在しないかのように表面的にふるまいながら、実際には、妻に悟られないように、かなり彼女の挙動を観察し執着している。しかし、おそらくこうしたエピソードを、妻との直接的な深い人格的な交流をさけて、彼女の外見的な、カメラの視線を通した被写体としての美を偏愛するだけの、屈折した主人公の写真家の性格が批評的に掘り下げられている、ととらえると間違ってしまうだろう。おそらく制作者の意図として、妻の病態は具体的な意味をもたないような関係の断絶の象徴であり、夫の対応も具体的意味をもつものでなく、気遣いながら理解しあえないような男女の境界をめぐる象徴なのだ。

 こう考えると、この映画は、リアルにいえば、かなり深刻な症状の病妻をかかえた男の物語のように描かれながら、彼女の病の原因や、つきつめた葛藤の場面がきれいに消去されていて、ベースに美しい夫婦の哀歓の映像に支えられたもうひとつの物語を借りてきているために、誰にも覚えのあるような他人を分かり合うことの困難さを、謎めいた「若くて美しい女性」をだしにセンチメンタルに描いてみせたというような印象になる。

 映画は様々な楽しみかたができるし、色々な人々との出会いや協力で映画を制作していくプロセス、そのものの中にも作る側の楽しみがあって、それを見る側と分かち合おうという作り方もできる。原作者や監督や俳優仲間や各界の著名人が作品中に登場したりすることで、意外な楽しみや魅力的なシーンが出来るし、そういう奥行きを知っていれば居るほど、映画の印象には厚みがでてくるだろう。そういう意味では、この映画には随所に意外で楽しい配役陣が登場している。往年の名俳優の諸氏、荒木経惟氏の素敵な笑顔や、演技過剰気味の中島みゆきさんのにこやかなバーのマダムに感激しているのだから、ミーハーの私としては充分楽しめたということで良いのだが、別の思いいれから、勝手なことを書いておきたくなった。

 映画は11月1日(土曜)午前、新宿で見ましたが、上演直前に入場して満席(90シート)、入場者100人ほどで、立ち見(床に座りましたが)という状態でした。

「東京日和」(監督竹中直人 主演竹中直人、中山美穂 97年・日本)
97.11.3
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