読書感想


文学系にもどります!   言葉の部屋にもどります!

   

中上健次『軽蔑』について

   1

 新宿歌舞伎町のトップレスバーの踊り子真知子と、地方の旧家の一人息子として生まれながら、上京して女のヒモになって遊び人暮らしをしていたカズさんが出会い恋におちる。都会暮らしを精算して、二人はカズさんの故郷に帰って新しい生活を始めるが、放蕩息子だったカズさんに対する親族や周囲の視線はきびしく、真知子にもぶしつけな好奇の視線が浴びせられて、二人はそれぞれの異なる生きがたさに対面する。カズさんの将来を思って真知子が身をひいて東京に帰り、追っていったカズさんと再会するという事件があり、その出来事を契機に両親の承諾を得て二人の挙式もかなうのだが、結局博打をやめられないカズさんは莫大な借金をかかえた末に自殺してしまう。

 物語の他者の視線の中では、カズさんは、地方の有力者の跡取り息子として育ち、周囲の取り巻きにちやほやされた悪ガキの少年時代を過ごして、長じても若い頃の気分が抜け切れずに、都会で女に貢がせて「飲む打つ買う」といった欲望の赴くままに生きている箸にも棒にもかからないような性格の崩れた男である。ある日、これから真面目に働くと言って、女性を同伴して生まれ故郷に帰ってきたカズさんの行動は、昔のとりまきには男っぽい兄貴分の派手な凱旋のように映ったかもしれないが、六百万円にもなる野球賭博の借金の返済を無心されたばかりだったカズさんの親族にとっては、にわかにはとても信用できる話ではなかったに違いない。帰郷してからもカズさんが酒屋で真面目に配達の仕事をしていたのは最初のうちだけで、やがて人目を盗んで昔関係のあった女と密会したり、またぞろ懲りずに野球賭博に熱中して莫大な借金をかかえて破滅してしまうという経緯を見ても、カズさんは、およそ周囲の迷惑など考えたことのない放蕩好きな性格破綻者のように描かれている。

 けれど一方で、物語の自己の視線の中でのカズさんは価値の源泉なのだ。自己の視線というのは、直接にはカズさんに惚れぬいている真知子の包みこむような視線なのだが、それが物語の地の文体と溶け合っているために、物語の現実の中ではカズさんの存在が価値の源泉であるかのようにみなされているのである。どこから引用してもいいが、たとえば、階段を降りてゆくカズさんの後ろ姿に真知子が寄り添う情景は、「踊り場に立ち、背筋をぴんとのばし、股を広げたカズさんの背後に寄り添いながら、自信に溢れ、若さに溢れ、男らしさに溢れたカズさんに物言うように体を寄せ、背中に手を当てる。」と描かれ、カズさんが電話をかける仕草は「何の変哲もない動作だが、一つ一つがきびきびしているので、体全体から男の色気が浮きあがる」と書かれる。カズさんは、美男で筋骨たくましく、清潔な男らしさに溢れていた、と、物語はいう。他者の視線は、そう思い込んでいるのは真知子の視線でしかないというだろう。しかし、注意して読めば、そう告げているのは物語の自己の視線なのであり、「一彦は清潔だと、真知子は思った。」というような、限定された心理表現なのではない。こういう仕組みに、読者を英雄神話や説話的な世界にひきこんでゆく著者の独特の文体の特徴があるのだ。

 たとえば福間健二は、週刊読書人の書評のなかで「カズさんは中上健次が描いてきたヒーローの系譜につながるチンピラ的侠気をもった「いい男」なのだろう。真知子は彼の中に、今日のたいていの男が失った高貴さと「牡の性」としての美を感じとっている。カズさんの描写からほんとうに「牡の性」の魅力を感じとれるかどうか、女の読者に聞いてみたいところだ。私の感じ方では、カズさんは、真知子もふくめた女性たちと兄貴分の暴力組織の幹部から可愛いと思われるような甘えと殊勝さで、かろうじて男になっている。単純に考えれば、一度ぐらいは人間としてましなことをやってくれたらどうだと言いたくなる。」と率直な感想を書いている。カズさんの造形にどんな印象を持つのか、評者ならずとも女性の読者に聞いてみたいところだが、そんなこととは別に、物語の他者の現実(カズさんが人間としてましなことをしないこと)と、物語の自己の現実(カズさんの「牡の性」の魅力)が、無関係にすれちがってしまいながら、至上の価値を産むという物語の構造こそが著者の積年のこだわりであった。

   2

 「相思相愛、男と女は、五分と五分」というのが、この書物の帯に記されたコピーである。本文中に何度もくりかえして真知子の述懐として現れるこの言葉は、最初には、カズさんと真知子が初めてホテルで関係を結ぶ場面で、真知子の服に手をかけて脱がそうとしたカズさんを真知子が制止したとき、怪訝そうな顔をしたカズさんに向かって真知子が「五分と五分だから」といった時に顔を出している。カズさんは、一瞬とまどった後に判ったというように自分で自分の衣服を脱ぎ終えて、これで「五分五分だろ。」と言う。

「「違うの」、真知子はカズさんに、自分が考えている五分五分の意味を納得させるのは至難の業だと思った。
 五分五分とは、もう子供ではない大人の男と女の恋愛なのだから愛し合う事も五分と五分、先行きに波風が待ち受け、たとえ難破するはめになっても五分と五分。」

 つまり、カズさんは真知子のいう「五分と五分だから」という言葉の意味を、衣服を自分で脱ぐという男女の対等な関係の主張のように受け取っているのに、真知子はこれから始まる二人の関係に対する自分の決意をこめて「五分と五分だから」と言っているのだ。だが、これは一見彼女が自分たちの運命を受け入れる決意の表明のようでいて、それにつきているわけではない。ここでも、そう語っているのは、先の言い方をすれば物語の現実の自己なのだ。たとえば中沢けいは朝日新聞の書評で、この言葉は呪文だと書いている。

 「単純で易しいこの表現、相思相愛の男と女として五分と五分という言い方が、この小説の語り手でありまた女主人公であるところの真知子の心に呪文(じゅもん)として宿っている。それがなぜ呪文なのかと言えば、人の力では解くこともできなければ、位置を移動させることもできない点として、くり返し登場するからである。真知子の固定観念と見ることができないのはそれゆえである。彼女の観念であれば、彼女自身の手で解くことができたであろう。より正確な言い方をすれば、この呪文は、真知子とカズさんの間柄に固定されている。」

 呪文とはいい得て妙だが、ちょうど物語の中でカズさんが「人間としてましなことをすること」だけを禁じられている自由な存在であるように、真知子も又この呪文ゆえに、いったん好きになったカズさんを見捨てることだけを禁じられた自由な存在になっている。実際、物語の中で真知子は一途にカズさんだけにすがる女として描かれているわけではない。スナックで懇意になった銀行員に「恋心」を抱いて、関係をもち、彼にネクタイを送ろうとして、カズさんにみとがめられたり、カズさんとの結婚式の直前には、車から声をかけられた行きずりの若い男の誘いにのって、ホテルでベッドをともにしたりしている。だが、そんな真知子の「雌」としての行動を合理化するために「五分と五分だから」という言葉が用意されているのだと理解すれば、カズさんの誤解と同じことになってしまうだろう。物語の他者の目からみれば、「相思相愛」という言葉の普通の意味を、カズさんも真知子も行為として裏切っている。互いに隠れて浮気しあっているような男女の関係を「相思相愛」の仲と呼ぶのは途方もない皮肉のように思えるし、そのたびに物語はきしみをあげ、かすかな不協和音をたてるように思える。行為の倫理にも道徳にも無関係なところで人間の生の絆が輝くという一見不条理な物語の場所が可能でないとすれば。

   3

 帰郷の途中に二人が立ち寄ったホテルで、甘えるつもりで微熱がでたと嘘をついた真知子の言葉を真に受けて、看病しようとカズさんがホテルの調理場からメロンを調達して真知子に差し出す場面がある。

 「「なに、これ」
 半分のメロンを受け取って言ってから、自分の言葉が、恋人の労力を労うには貧しすぎると気づき、カズさんに言葉の貧困を隠すように、メロンに顔を近づけて匂いをかぎ、「メロン。おいしそう」と呟く。
 「一個、まるごと持ってけって言うけど、一個じゃ多いからって半分に切ってもらった」
 真知子は心の中で、一個まるごとだっていいじゃない、それより皮つきのメロンをどう食べるの? スプーン、借りてきた?と言葉がわくが、踊り子の順子やマリアにならそのまま言えても、男のカズさんに言えば、たとえそれがどんなにトンチンカンなものであれ、男の優しさや親切のあらわれであるものを否定し、攻撃することになってしまうと抑えこみ、「ありがとう」と言う。」

 こういう真知子の恋人に対する繊細な心遣いが定着されている場面は他にもあるが、ちょうど、週刊読書人に掲載された中上健次追悼の文章の中で、三浦雅士が「『軽蔑』には、女としての中上健次が男としての中上健次を、切ないほどに優しく見守っているというようなところがある」と書いている個所のひとつにに当っているのだろう。カズさんは真知子のそんな気遣いや、押し殺された内心を知らないし、関心もない。ただ真知子の表面の仕草に現れる嬉しそうな顔や、感謝の言葉だけを信じている。そして、真知子にしてみれば、そのように素朴に自分の言動を信じてくれるカズさんが好きだからこそ、自分の本心を隠してさえも、相手を思いやることができるという構図になっている。私もこういう場所に何のけれんみもない著者の繊細な感情や人柄が、恋人を思う女の心ばえを借りて表現されていると思う。ただ物語では、カズさんが真知子にひかれたのは、その容姿の美しさであり、性的な魅力についてであり、要するに遊び人のプレイボーイがとびきりの美形の踊り子に一目惚れしたということになっている。だから、それまで女のヒモになって遊び暮らしていた男が、女たちの投げる即物的で攻撃的な本音の言葉の世界に、いりびたっていなかったはずがない。カズさんは演じられた真知子の言葉に落差を感じなかったのだろうか。物語では真知子の心遣いの裏側をカズさんは察知して地上にひきおろす事を禁じられている。ただ、心遣いを無意識のように呼吸して無限に救われている。


92.9.20
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