読書感想


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高井有一『夜の蟻』について


夜の蟻迷へるものは弧を描く  中村草田男


 会社を定年退職後、翻訳のアルバイトをしながら妻と二人で老後の自適な生活を送っていた主人公「私」は、子供二人をかかえて社宅住まいをしている一人息子毅夫の提案を受けて、長年住み慣れた家を建て替え、息子一家と同居することにする。やがて、完成した鉄筋二階建住宅の上下階を2家族が住み分け、そこで一見理想的な三世代同居の複合家族生活が始まるのだが、今まで独立した核家族として暮らしてきた彼等が、この唐突な生活環境の変化によってこうむる、相互の微妙な心理的な関係の変貌の様子が、すでに老いの境にいる六十四才の主人公「私」の目を通して、緻密に、そして、いくぶん辛辣にも描かれている。

 老いという問題は、たぶん生活意識や性の問題のように、個人のなかで個別的な系列の問題に属している。それは生理としての老いと、観念としての老いが、別ちがたいかたちで訪れるからである。やってみるしかわからないし、なってみるしかわからない、そしてなってみたところで、その体験を社会化された言葉で説明することはできない。誰も個別的に単独の老いしか老いることはできないのだ。だが、観念の個別的な系列に属する問題ほど、まるでその様相を隠微するかのように、社会的文脈では平易に語られることが多いという事情がある。生理としての老いの徴候は、誰にでも通用する見易い目安であり、社会的な印ずけであり、ときに揶揄や嘲笑のまとである。しかし観念としての老いは、おそらくそうした社会的な表面的な風評や規定から、程遠く生きられるしかないものだ。

 「私」が勤続していた会社を定年退職して数年もたつと、年賀状や季節の便りも減り、かっての同僚との交流もとだえがちになり、妻は、自分たちはやがて近い将来世話になるのだから、同居している息子の嫁に嫌われぬようにと「私」に釘をさす。「私」(たち)を取り巻いている周囲の事実や現実感が、ことごとく「私」の関係の縮小や衰退を示しているように思える。そこに気後れが生じて観念の老いが呼び込まれてくるように思える。作者は、これでもかというように、いかにも元サラリーマンの老齢者が体験しそうな、関係の縮小の事例を主人公の体験として綴っている。だが、関係の縮小ということは、この場合主人公の位置をよく象徴しているとしても、本当は観念としての老いを直接意味しているわけではない。それはただ当人の社会的関係の縮小自体を意味していて、そううながすものは必ずしも老いである必要はない。つまりここで露呈しているのは、社会的関係の落差であって、そのことに骨がらみに捉えられている「私」なのだ。昨日まで疑いようもなく取り結ばれていた社会的な関係の絆が、ある事件を契機に衰退してしまう。その関係にのめりこみ拘束されて生きていたぶんだけ、その衝撃は当人の内面をおびやかす。無意識であったぶんだけ、納得できない理不尽な印象として感受される。

 作者は、「私」の縮小した社会関係が呼び込むかすかな気後れが、屈折した被害感に傾斜してゆく様子を描いている。かっての同僚や後輩と話していて、彼等がすでに会社をやめた自分を軽くみているのではないかと考えたり、本当は面倒でしかたがないのに、口先だけ丁重に自分をあしらっているのではないかという思いにかられる。そうした相手の挙動は、かって「私」が退職した先輩(たち)に対して当然のことのように偶してきたふるまいに類することに違いない。そのことが察知されるぶんだけ被害感は動かしがたい現実味を帯びて感受される。しかし、それが今の自分には、他人に対する配慮の欠けた、軽薄で利己的な唾棄すべきふるまいのように見えてくる。確かなもの、実質はなくても社会や家族関係が暗黙に自分にもたらしていた権威や、かって、それを言外にちらつかすことで相手に沈黙を強いることのできたような特権的な位置は、もうどこにも無くなっている。こういう被害感を感受する度合いも、それを処理する方法も、老いにとって本当は多種多様で類型化できないはずだ。それが説得力をもつようにみえるのは、誰も似たような関係の落差に対面する情景に遭遇しているからである。けれど、そのことがまるで現在の老いが対面する当然の事態のように、描かれている。その現実感を促しているのは、実は老いとは無関係なまま「私」を今まで支えていた機能的な社会論理の水路なのである。

 作者は、けして性格的な破綻も関心の放棄もせずに、わきあがる故しらぬ不当な苛立ちや被害感を意思の手前でおしとどめて小出しにしているような人物を、またそのぶんだけ他人の行動や心理の深読みや解釈に関心をうながされているような「私」を緻密に造形している。相手の自分に対する日常的な所作の本心はどこにあるのか、こういう問いに確かな答えがあるはずがないのは、普段の自分のふるまいを振り返れば分かるはずなのに、そう問いを発せずにいられない観念の場所がある。そこにあるはずのない過剰な悪意を思い描くことで、あるはずのない過剰な善意を現実に想像して、ひとつの調和の物語を生きたいのだ。だが日常はそんな物語の存続しうるような場所では無くなっている。

 作者が造形したがっているのは、かなり無意識で無防備な意外に古めかしい自己像の投影のように思える。作品のなかで唯一事件らしい事件として、息子の嫁の問題がもちあがる。深夜、嫁のアルバイト先の男から電話があって、翌日、嫁の帰宅も遅くなる。息子が問い詰めると男との恋愛を白状したという。その顛末を息子が母親に話し、母親は夫である「私」(主人公)に話し、「私」は叔父に相談する。嫁がさっぱり男との関係を精算すると決心したことで最悪の事態はまぬがれ、家族は一見平安をとりもどすが、微妙なしこりが残る。主人公の妻は息子をだまそうとした嫁をけして許そうとしない(いままで、妻が息子の嫁の名をさんずけで呼んでいたのを、よびすてにするようになるという変化は象徴的である)。

 この挿話が妙に古典的なのは、話の重心が当事者から離れて、傍観者たちに回し読みされる倫理的な物語としての了解におかれているからだが、ここには、本当はもう介入する余地のなくなっている隔絶された他者の世界に自分(たち)をひきこみたい物語への著者の無意識の欲求が認められるように思える。皮肉なことに、薄い被膜を通してしか了解できなくなってしまっていた他人(息子の嫁の満智子さん)の像はここで一瞬たちきえて、肉体をそなえた女(満智子)としての輪郭があらわになる。だがそのとたん現在という実質は失われて古典的な物語みたいな形式が残るのだ。なざすことはできても、その物語はけして現在(当事者)とともに生きられないからである。登場人物はそのしつらえられた枠から自由ではない。それが作品に「私」の古典的な感情吐露の爽快感と、他者の言動のくすんだぎこちなさの対照を与えている。


90.7.20

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