読書感想


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水村美苗『私小説 from left to right』


 主人公の私(水村美苗)は、イェール大学仏文科に在学中の大学院生。十二月半ばの雪の降る夜に、大学から程近いアパートの自室で、彼女が今朝がたマンハッタンのソーホーに住む姉(奈苗)からかかってきた電話の内容を回想する場面から、この小説ははじまる。
 姉からの電話は、ちょうどその日が、父母と自分たち姉妹という四人家族がアメリカに移住してきて二十年目にあたる特別な日だということを告げるものだったが、そんなきっかけから主人公の過去の追想がはじまり、回想は別の連想を呼び、という形で、主人公の少女時代の記憶や、家族や友人や教師をめぐる逸話や、学生時代の思い出が、とりとめもない自由連想のような形で語られて行く。そんななかに、主人公の、雪に降り込められたその日一日に生起した出来事の記憶が、とめどない遠い過去の追想に区切りをつけて、時折、現在に立ち返るように順序よく挿入されていて、記述に時間の経過の奥行きと緊張感を与えている。主人公の恣意的にさえ思えるさまざまな過去の追憶の記述は、彼女の気がかりである現在進行形の問題との接点を保ちその輪郭をあらわにしながら、やがて雪に降り込められた一日の終わりという現在に収れんされてゆき、姉と交わす小説末尾の電話での会話で、ささやかなカタルシスをむかえる。
 色々な意味で味わい深い小説だった。『私小説』とはそのものずばりで、随分思い切った表題だが、読んでみた印象は、いわゆる主観的な心情吐露におもむきがちな日本の私小説とはひと味違う、むしろ抑制の効いた自伝的な家族小説といった感じがした。30代前半にさしかかった女性が、クリスマスまじかな冬の夜に、アパートの自室にひとりきりでいて、窓の闇に降り込める雪に誘われるようにして、過ぎ去った遠い少女時代や、いま過ぎて行こうとしている自分の青春時代の思い出をとりとめもなく回想しはじめる。12歳まで過ごした美しい日本の記憶、アメリカで始まった新しい生活、自分たち家族を快く受け入れてくれたアメリカという風土と隣人たち、またたくまに学生生活に順応していった姉、日本語の本(近代文学)ばかり読んでいた自分、始めてできたおちこぼれの友人、キャンプの思い出、印象に残った教師たち、白人中心社会の暗黙の差別、姉の恋愛遍歴と自殺未遂、父の病気と入院、母の出奔、取り残された姉妹、、、。
 ものごころがつき、思春期にはいりかけた年代で、赴任した父親を追って家族揃って渡米し、アメリカ社会の中産階層の一員として、そこそこの裕福で幸福な家庭環境に育って、順調な学生生活を送り、大学院にまで進学した。現在ではもうある意味ではありふれているかもしれない、そういう著者の少女時代から青春期にかけての体験がこまやかな情景や感慨とともに語られるだけで、なにか心がざわつくのを覚える。なぜだろう。私たちは日本にいて、その単色な文化に浸っていて、そんな場所からすれば、彼女の体験の場所が、どうしても特殊で解きあかせない未知の部分をはらんでいるように思えるからだろうか。彼女の異文化体験が特殊なのは、それが留学体験のように意思して選択されたわけでもなく、かといって、二世としてアメリカで生まれ育ったというような順応した場所からのものでもないからだ。そこには柔軟な若い心が異文化に対面するときに生じる問題が、ちょうど思春期の悩みのように自然さとすれすれの距離で出現している。これは希なことのように思える。2歳年上の姉の奈苗が、自分たちの新しい生活のはらむ無意識の不安の代償を、娘に振り向けるような母親の期待を過剰に負わされて、その重圧から逃れるように、むしろアメリカ社会に過剰適応する方向に自己を投げ出して行く。親たちの期待がないぶんだけ気楽な私(美苗)は、うちに閉じこもって、学校でも授業中に日本語の本を手放さないような内向的な、そのぶん地味だが安定した適応をみせる。だが、この姉妹の無意識にあるのは、いつも、かって生きられた日本という原光景なのだ。その日本のイメージとは、言葉で作り出された観念的なものではない。またいつでも実質を持って蘇るような現実的なものでもない。思春期のとばくちまで、確かに肌で知っている日本であり、一方では、もう神話的な幼児期の記憶と区別が付かないような日本のイメージである。そこには選択はなく、むしろ刻印とでも呼びたいものがある。十代なかばの少女たちが、そういう日本のイメージを心の底に抱えながら、アメリカ社会の中で成長するとはどういうことなのか。
 この家庭にことさら日本的なものを排除する気風があったわけではない。むしろ娘たちの将来の夫は日本人に決まっているという母の意向は自明のことだったという。姉は日本人男性と親しくなり家族にも紹介する。やがて彼を追って日本に行くが、そこで男性の両親につきあいを断られる。煙草を吸うような娘さんでは、というのが表向きの理由だったらしいが、その結果、姉は狂言もどきの自殺未遂をして、その後しばらくは男に狂ったような生活を送る。このエピソードは、姉奈苗にとっての日本というイメージの解体の物語のように読める。母親への反発から同年輩の白人の女学生たち以上に過剰に解放されたアメリカ人のように振る舞っていた彼女が、母や内なる日本的なものとの和解するためにぎりぎりの選択したのは伴侶に日本人を求めることだった。しかし皮肉なことに彼女の日本との和解の試みは、あなたはアメリカ人のようで理解できないという理由で拒絶されてしまう。妹の美苗(私)の場合はどうか。アメリカの生活に慣れるにつれて薄れて行く日本的なものを、彼女は少女時代から、日本近代文学の世界、漱石や一葉の小説世界に浸ることで維持してきた。これも特異なことに思えるが、明治や大正という近くて遠い時代的な距離は、彼女の内なる日本という神話的なイメージにちょうど適合していたように思える。彼女が姉のように現実の日本にそれを重ねていれば、破綻は目に見えていたかもしれない。
 アメリカと日本という対比で彼女たちが考えていたものは、アメリカの深層意識のなかでは、アメリカとアジアという対比でしかない。もっといえば白人とそれ以外の誰かという対比でしかない。この問題はむしろ現在のものだ。私たちはアメリカ文化やアメリカ人に憧れるという。しかしそれが実現されたとして、それは私たちが、日系アメリカ人の文化に浸る日系アメリカ人になる、ということしか意味していない。小説では、私(美苗)が、親しい白人の友人から、容姿の似ている筈もない中国人学生に間違われてショックを受ける場面が描かれているが、私たちが異文化に生きるということはそのような驚きに常に対面しながら生きることを意味するだろう。

「でも、アメリカ人もつらいんじゃない。
私たちは幾度も同じせりふをくり返して慰めあった。だが本当にアメリカの女たちも私たちと同じように淋しいのだろうか。」

 深夜に姉妹の交わす孤独な電話の途絶えたあとに残る、こんなささやかな呟きが現在の未知をいいあてている。私たちもまた、日本という内部にいて無邪気な白人の少女のように振る舞っているに違いない。


96.1
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