映画感想


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「もののけ姫」

   日本の中世、室町時代を時代的な背景として、自然の神々と人間の相剋を描いた、迫力あるファンタジー・アニメーション映画。

 かって人間が自然にまみれて生活していた時代があり、そこでは生き物の生と死の境界が、神々の媒介によって想像力のなかで連続しているような、豊かな共同幻想のなかに人々が生きていた。それをここでは乱暴に縄文的な世界観と言ってみれば、そうした世界観を体現する集団として、この映画では、大和王朝との戦いに破れ、北の果ての土地に隠れ住んでいるというエミシ一族(アイヌ部族)が設定されているといってよい。そして、その一方に、山を削り、砂鉄を採取して溶かし、中国伝来の石光矢(鉄砲)や鉄器を改良して製造する、エボシ御前率いる、タタラ集団が登場する。こちらは、いうまでもなく近代産業(第二次産業)の世界観を象徴する。この世界観は自然を人間中心主義的に合理的に解釈するもので、現代にも持続しているから、観客である私たちの社会の価値観を規定するものであるといってよい。

 この映画は一見、ふたつの価値観の対立を描いた映画のように思える。砂鉄の採取のために山を削り、製鉄のために木材を伐採するタタラ集団にとっては、山野に棲息して作業者に危害を加える獣の存在は脅威であり、エボシ御前は、山の主である猪を鉄火矢で撃つ。深手を負った猪(ナゴの守)は、その苦痛と人間に対する憎悪のためにタタリ神となって暴走し、遠く離れたエミシの隠れ里を襲う、という場面から物語が始まるからだ。しかしなぜ、タタラ場のモデルとされた出雲地方から、遥か遠方の青森県の白神山系まで列島を縦断するようにタタリ神は暴走しなくてはならなかったのか。

 ここにこの映画の時代設定の緻密な構成意識があるように思える。室町時代の民衆の世界観とはどんなものだったのだろう。 先に触れずにいたが、エミシ一族と、タタラ集団の近代意識の発生との間には、弥生文化や大和朝廷の象徴する農耕社会的な世界観があった。それは、基本的に自然を開墾する集団主義社会の価値意識であり、自然と対立するという意味では、タタラ集団的な近代意識を準備するような世界観である。もちろん山の神、田の神に対する信仰や畏れは習俗習慣として残っていたにせよ、縄文的世界観の持っていていた自然との色濃い結びつきは、希薄となり、山野の神々の実在は、むしろ言語による象徴化によって人々の意識の古層に追放されつつあったと考えてみよう。それはまさに先住民族であったエミシ族の追放や、映画ではシシ神(生と死を司る森林の神)を殺して、その首から不老不死の力を得ようとする時代(師匠連)の権力意志に象徴されている。

 つまり室町時代とは、この三つの世界観がはげしく競合したり、まだ緩やかに共存しあっていた、過渡期として設定されている。というよりも、自然に対する畏れや信仰が薄れ、人間が自然を思うように加工して、自分たちが人間らしく生きることを望み始め、さまざまな職能集団が分化して、ゆるやかな統一王権の支配のもとで、ある意味ではとても闊達に人間らしく生きていた時代、そんな時代が舞台として設定されているのだが、そんな時に、すでにはらまれていた近代化という未来の予兆のように、その犠牲者たる、ナゴの守は、一散に走るのだ。まだ神々と共存している古代の部族のもとへ。

 とすれば、タタリ神としてのナゴの守は、遠い私たちの意識の古層へと走る使者なのだと考えてもいい。エミシ族はタタリ神は殺してはならないという戒律を生きている。アシタカは部族の少女を守るためにやむなく矢で射殺すが、その報い(呪い)を受ける。このことは、使者としてのナゴの神が、その役目を無事にまっとうしたことを示している。アシタカは、神々の憎悪を刻印として身にまとい、西国に赴くことになる。アシタカの役目はあくまでも傍観者であり、すなわち矛盾がきわまり破壊に至る自然と人間の対立を見とどけることだ。それが作者が観客に求めたこの映画の視線の位置に重なるような気がする。

 絶滅したという古代のアカシカに乗った眉の太い少年アシタカが存在することで、私たちは山の神々と人々の対立の構図を自然に受け入れることができる。彼が、谷に落ちた牛飼の甲六を助け、コロボックルみたいな山の精霊コダマに導かれて森を抜け出すところに彼の自然との親和性が象徴されているというべきか。アシタカは、もう職能分化の進んだ社会集団のどこにも属していない。帰属していないが故にアシタカは、映画の視線として、分化した職能集団をある距離から見据えることになる。侍、ジバシリ、牛飼い、タタラ者、唐傘連。またタタラ踏みの女たちの娼婦であったという来歴や、エボシ御前が隔離して看病しているハンセン氏病患者たちなどのそれぞれ異質の集団、そればかりでなく、人間と対立する山の神々も分化している。たとえば、モロの君(白い山犬)や乙事主(猪)といった山の主たちは、コダマのような無害な精霊や、夜毎に樹木を植えるというショウジョウ(猿の神)、森の神であるシシ神(ディダラボッチ)とは、あきらかに由来や性格が違う。

 本当に古代的な超自然的な性格を付与されているのはシシ神だけで、モロの君や乙事主の率いる猪の集団は、狂暴化した野獣の集団暴走といった戦いかたしかできない。つまり時代の共同幻想は、天変地異として神々が荒ぶることを、もはや受け入れなくなっているのだ。この自然と人間の対立の描きかたも、作者の映画にこめたひそかな要請だと思う。私たちは、さまざまな職能集団の中に、境遇や生き方の相違や、自らの生き方を肯定して殉じる人間の健康さのようなものを読みとるし、乙事主たちの戦いかたの中に、もう近代の視線によって矮小化された(人々は仕掛けた爆薬や、動物たちの鼻をきかなくするために煙を炊くという方法で、猪たちをせん滅する。あたかも農薬で害虫を駆除するように。)自然の力ようなものを受け取ってしまう。

 シシ神も天変地異を起こすような神ではないが、生と死を司る太古の森の神で、不老不死の存在として、ほとんど人間と無関係に生きている。自然に対する古代人の畏怖の象徴とでも言ったらよいだろうか。彼を殺すことは本当はできない。ただそのイメージを殺すことが出来るだけだ。シシ神の首が落ちるところ、その首を返すところ、そこがこの映画の一番幻想的な場面だが、解釈の難しいところでもある。ディダラボッチの半透明な巨体はシシ神の夜の姿で、昼にはシシ神(鹿)の姿に戻らないと死んでしまう。エボシ御前によって撃ち落とされた首は、ちょうどディダラボッチが朝日を浴びる瞬間にもとにもどる。結局、首が戻ったことで、自然は再生した。しかし畏怖の対象としてのシシ神(森)は死んでしまった、ということになるのだが、これは、ほんとうは、象徴的な物語として理解すればわかりやすそうで、実感的には、わかりにくい話だ。シシ神の性格が伝承になく作者の想像によるものだから、という言い方もできるかもしれない。

 獣の神は、日本神話では下級の神である。またパンフレットのインタヴューで作者宮崎氏もそう発言している。「シシ神というのは、この映画の中では恵みをもたらす優しい存在なんてことではでてこない。僕は下級の神様として描いたんです。」(パンフレット・監督インタビュー)しかし同時にシシ神は「生命の授与と奪取を行う神獣」(パンフレット)ともされている。さらに日本各地にあるディダラボッチとかダイダラボウといった巨人伝説を複合させて創造されたために、ちょっと矛盾した性格になってしまったというところではないだろうか。

 最後に、この映画のヒロインである、もののけ姫「サン」について。彼女は人間の子供でありながら、犬神モロの君に育てられた、狼少女である。森の侵略者である人間を憎み、タタラ集団の長であるエボシ御前を憎んでいるが、タタラ場を襲ったときに、深手を負いながら身を守ってくれたアシタカに心惹かれる。「類似を探すなら縄文期のある種の土偶に似ていなくもない」(パンフレット)と、作者は暗示的な発言をしているが、狼に育てられ、森に棲むそのままの姿は、エミシの末裔であるアシタカとは親和性があるとは言えよう。しかしこの恋は実らない。「アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない。」とサンは言う。「それでもいい。私と共に生きてくれ。」とアシタカは言葉を返す。作者によれば、彼らの相互理解のプロセスこそ、この映画で描きたかったのだという。アシタカは里に、サンは森に。そして時々会いにゆく、という言葉で映画は終わる。

 サンもまた、アシタカのように帰属を持てない存在で、神を失った代償に人間くさい職能分化社会に自由に生きる中世の人々のような現実感は希薄だ。しかし作者はここで、「許すことのできないものとの共存」という困難なイメージを、これから私たちの現在が、引き受けなくてはならないと伝えたいのではなかっただろうか。それが自然と人間という対立の構図だけではないことは、最近の民俗学や歴史学の成果を取り入れて、室町時代を物語の舞台にした作者の意図からして、明白なことのように思える。

 この映画のアニメーション映像の迫力や見事さについては、多くの人が感想を書かれると思う。タタリ神の全身いとみみずの巣のようなおぞましい姿、映画のスチールになっているサンが狼の傷口の血を口に含んでぷっと吐き出すところ、切り落とされ射落とされて飛んで行く首や腕、屋久島がモデルというシシ神の森の描写など、印象に残る場面が沢山あった。

監督宮崎駿。ボイスキャスト 松田洋次、石田ゆり子、田中裕子、小林薫他
(97年日本映画)

97.8.13


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