memo3
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走り書き「新刊」読書メモ(3)
ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。
index・更新順(97.7.10〜9.3)
○ファビオ・ランベッリ『イタリア的考え方』
○ロバート・M・ブラムソン『「困った人たち」とのつきあい方』
○中野翠『ふとどき文学館』
○デーヴァ・ソベル『経度への挑戦』
○田中千世子『イタリア・都市の歩き方』
○J・キャロル『パニックの手』『黒いカクテル』
○リービ秀雄『アイデンティティーズ』
○瀬田川昌裕『日本社会の病理とオウム真理教』
○小俣和一郎『精神医学とナチズム』
○☆岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』
○小林よしのり・竹田青嗣・橋爪大三郎『正義・戦争・国家論』
○パスカル・パリョー他『ジャン・レノ』
○竹内整一『日本人は「やさしい」のか』
○筒井康隆『筒井康隆かく語りき』
○土屋賢二『哲学者かく笑えり』
○宮台真司『世紀末の作法』
○川崎洋『かがやく日本語の悪態』
○新しい歴史教科書をつくる会編『新しい日本の歴史が始まる』
○小浜逸郎『子どもは親が教育しろ!』
○岩明均『七夕の国 1』
○吉本隆明『思想の原像』
○小浜逸郎『大人への条件』
○福岡正信『<自然>を生きる』
○福田和也『続 なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』
○桜井邦朋『地球外知性体』
○手塚治虫『ぼくのマンガ人生』
○田中克彦『名前と人間』
○関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』
○森岡正博『自分と向き合う「知」の方法』
○村上龍『オーディション』
ファビオ・ランベッリ『イタリア的考え方』(1997年2月20日初版第一刷発行・ちくま新書)は、イタリアについて関心のある読者向けの総合的な解説書。現代のイタリア社会の習慣や諸制度、庶民の日常生活の紹介に留まらず、その背景にあるイタリアの人たちの考え方の特徴を、文化的な側面から考察しています。日本語に堪能なイタリア人学者(著者の専門は、密教の曼陀羅の記号論的解釈とか)によって書かれた、歯ごたえのある本で、紋切り型の表層的なイタリア・イメージの洪水に対する批判も含まれています。近年のイタリアブームに象徴されるイタリア的な価値観への評価や賛同は、むしろ日本社会にとって、なにを意味するのか。明治期に中・北欧の近代国家制度を導入する以前には、もしかすると日本はイタリア的な生活重視の価値観をもつ、相似的な社会ではなかったのか。著者が提起する問いかけは、とても刺激的です。
ロバート・M・ブラムソン『「困った人たち」とのつきあい方』(1997年6月20日初版第一刷発行・河出書房新社)は、対人関係のトラブルについての処方箋。著者は、職場でトラブルをひきおこす「困った人」の性格を7つのタイプに分類して、それぞれに章を割り当て、その具体的な症例?と対処法を詳細に記述しています。攻撃型、不平家、貝型、過剰同調型、否定型、自身過剰型、決定回避型。俗に言う、あの人は親分肌だとか、官僚タイプだとか、お調子者だとか、たいこもちだとか、といった評言に似ていて、読んでいて人物像が、髣髴としてきます。本書は全米で300万部を超えるベストセラーになった(著者は哲学博士号を持ち、ジャーナリズムでも活躍する経営コンサルタント)とのこと。背景にある個人意識や習慣が違うので、日本の企業社会の上下関係にうまく応用できるか疑問ですが、特定の頑強な困った人(上司・部下)に悩まされている人には、関係改善のために一読の価値あり。ただし対処法ですから、結果は此方の働きかけの努力次第。いろいろな読み方のできる、かなり強力な実用書。
中野翠『ふとどき文学館』(1997年6月10日初版第一刷発行・文芸春秋)は、書評コラムと対談の本。取り上げる本の対象領域をぐっと拡げた『ムテッポー文学館』(文芸春秋)に続く第二弾で、伊藤整、中里介山、林不忘、広津柳波、岡本一平、深沢七郎、寺田寅彦、森鴎外、三島由紀夫、などなどの著者の「昔の本」を取り上げた書評コーナーが特色。もちろん後半では「今の本」も取り上げられていてバランスが取られている。バランスといえば、この著者のバランス感覚は好きで、ちょっとした時事的発言などにも確かなものがある。かって、オウム批判かまびすしき頃、『偽隠居どっきり日記』所収のエッセイを読んで、当時の、どうみても過剰なマスコミ報道の姿勢についての反発も、オウム信徒たちのどうみても病的な無感動状態に対しての反発も、同様に率直に書き連ねてあって、硬化しがちなこちら側の頭を柔軟にしてくれたという記憶がある。上辺だけ軽快な口調のコラムニストは多いが、こういう人は貴重です。
RETURN
デーヴァ・ソベル『経度への挑戦』(1997年7月25日初版第一刷発行・翔泳社)は、海上で経度を知るための精密な時計を独学で作り上げた男の評伝。18世紀イギリスの時計職人、ジョン・ハリスンがその人。当時、海上で航海中の船舶が自分の位置を知るためにひどく苦労し、そのため、ある精度で経度を測定する方法を見つけた者に二万ポンド(現代の数百万ドル相当)の賞金がだされたという(1714年・英国・経度法の制定)。そのために考案された様々な手法や、天文学者を巻き込んだつばぜり合いの様子など、当時の資料を駆使して、ハリスンが一生を費やして完成した驚嘆すべき海上時計にまつわる物語が、きめこまかに語られています。こんなことがあったのか、という興味に満ちた歴史読み物ですが、当時の航海の記述も多々あり、海風のそよぐ場所で読むと楽しそう。ちなみに私はベッドで、のたうちながら読みました。著者は元「ニューヨーク・タイムズ」誌の科学欄担当の女性記者。
田中千世子『イタリア・都市の歩き方』(1997年3月20日初版第一刷発行・講談社現代新書)は、イタリアの都市情報を映画の名場面と共に紹介したガイド風エッセイ。とてもスピード感のある文体で、いかにものって書いているという感じが伝わってきます。ヴェネチア市長のインタヴューやら共産党のことやら話題があちこちに飛ぶので、やや印象は散漫ですが、イタリアが好きで、映画も好きで、という読者にとっては、話題を外していません。イタリアの都市や地方を舞台にした高名な映画作品の紹介は文中でしっかり押さえてあり、最後に映画(百数十編)の表題リストがあって便利です。著者はアルベルト・モラヴィアの小説を読んだのがきっかけでイタリアに関心を持ったという映画評論家の人だと知り、私も愛読者だったので、親近感がわきました。モラヴィアの小説『ローマへの旅』の感想文はここに。
J・キャロル『パニックの手』『黒いカクテル』(1996年11月30日初版第一刷発行・東京創元社)は、どちらも幻想的な短編小説集(姉妹編)。ウィーン在住の著者ジョナサン・キャロルは、いわゆるダーク・ファンタジーの作家。幻想小説の分野で好きな作家をあげてゆくとポーやブラッドベリが思い浮かぶが、数年前に、資質の似た、この現役作家を知って以来、ファンになって、おりおりに読んでいます。デビュー作『死者の書』(1980)以来の長編作品、『月の骨』、『炎の眠り』、『空に浮かぶ子供』は、いずれも創元推理文庫に収録されているので、じっくり楽しみたい方は是非そちらを。平凡な日常が、ありえない世界に変貌してゆく繊細な言葉の魔術を堪能できます。さしずめ、真夏の夜の友というところ。スティーブン・キングがキャロルの処女作を読んで、ただちに長いファンレターを書いたというのは有名な話。
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リービ秀雄『アイデンティティーズ』(1997年5月28日初版第一刷発行・講談社)は、「本」や「GQ」、「月刊現代」に連載された随筆をまとめた本。「日本」、「万葉集」、「新宿」、この作家から、そういう言葉への思い入れを聞くと、いつも魔法がかかっているような、不思議な気分になる。なんども生活のなかで反芻され、思慮された果てに繰り出され、またいつもそこに回帰してゆくような言葉。そんなふうな言葉を私たちは持っているだろうか。それはこの本の表題のように「アイデンティティー」に関わる言葉の場所ではあるに違いない。「江戸間八畳」といった空間への著者の執拗なこだわりの記述を読んでいるうちに、私たちが生得的に思いこんでいた場所のイメージが静かに揺らぎ始める。著者のようにカルフォルニアワインでも飲みながら、じっくり読みたい本。ちなみに、随想に登場する「お前なんか文学者じゃない」と叫んだ人は柄谷行人氏です。
瀬田川昌裕『日本社会の病理とオウム真理教』(1997年3月20日初版第一刷発行・白順社)は、記号論の手法でオウム真理教を読みとく試み。オウム真理教は日本社会の雛形であるという視点から、その機能や構造を検討する。「聖と賎」、「エロスとタナトス」という、「俗」を中心に交わる二つの軸からなる同心円で、オウム真理教団と日本社会の構造を図表化して考察しているのが興味をひく。同様に戦時中の731部隊の構造も図表化されていて、これらを重ねあわすことによって、その奇妙なほどの類似点が指摘されていて、とても説得力があった。第二部では、既成仏教教団や天皇制や反ユダヤ主義との関連、オウム食についてなど、様々な視点からオウム教団の性格が多面的に論じられている。事件から二年たつが、こうした地味な考察を持続して、「<私>という主体との関係のなかで、「オウム」という社会現象を<わがこと>として考えてみたい」という著者のスタンスに共感する。
小俣和一郎『精神医学とナチズム』(1997年7月20日初版第一刷発行・講談社現代新書)は、ナチ政権下でドイツ精神医学の果たした役割を見直す本。ナチスドイツのユダヤ人絶滅作戦はよく知られているが、それに先立つドイツ国内やポーランドの精神病患者を対象に実施された安楽死作戦の実態が、近年、解明されはじめた。ガス室殺人は、最初アイシュビッツに先立つこと二年、精神障害者を対象にドイツの州立病院で行われていたという。両者の連続性を、それを支えた精神医学の思想や、参加した医学者たちの行動の実態に即して、明らかにすること。本書はその過程で、ユングやハイデガーなどとナチズムとの関係にもふれている。一時期、話題になったハイデガーについてはともかく、ユングとナチズムの関係について正面から言及したのは、日本では、本書が初めてではないかと思う。人は生きるために平然と身体の悪い部分を切除するが、共同体(国家)を人格化(擬人化)したときに、何が起こるか。。
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☆岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』(1995年12月5日初版第一刷発行・朝日新聞社)は、オタキングなる異名をもつ著者の情報社会論。トフラー『第三の波』や堺屋太一『知価革命』をベースに、現代が、第三の文明の転換期、「自由経済競争社会」から「自由洗脳競争社会」へというパラダイムシフトの転換期にあたっていると説く。著者が「洗脳」と呼ぶのは、子供のしつけや教育からマスコミ情報に至るまで、その実質は、すべて「洗脳装置」だ、というような意味においてであり、「パソコン通信」や「コミックマーケット」などの例をあげて、誰でも個人が情報を発信できるようになって到来するのが、個人の自由な洗脳競争に価値を置くような新しい社会だという。つまり「洗脳」という言葉に否定的な意味は少しも込められていない。そういう機能主義な発想が私には新鮮で面白かった。若い世代を中心にした社会の価値感覚の変化の大きな流れを分かりやすく捉えた本。
小林よしのり・竹田青嗣・橋爪大三郎『正義・戦争・国家論』(1997年7月23日初版第一刷発行・径書房)は、ゴーマニズム思想講座という副題のついた鼎談集。表題のテーマを巡って、休憩もとらず12時間に及んだという熱っぽい対論(97年3月)が読める。コミックシリーズ「ゴーマニズム宣言」以来、小林氏がトリックスター的に提起し続け、若い読者を中心に広く関心を呼んできた様々な社会、歴史、文化に関する問題群の広がり、とりわけマスメディアや「市民」運動との関わりについて、これまで独自の思想的な方法論や哲学の構築を模索してきた(今や熟年世代の)優れた社会学者や批評家が、どのような見解を披瀝するのか、という読者の関心に応える鼎談になっている。ホットな話題でいえば、小林氏も参加している「新しい歴史教科書をつくる会」の提起した「自虐史観」批判をめぐって、市民主義と保守主義の潮流のせめぎあいが激しくなってきた現状(もちろん膨大な無関心層の存在を前提にしたうえでの話だが)をふまえて、どのような本質的な理解の道筋が可能なのかという問いかけ。答えは微妙に鋭く割れている。
パスカル・パリョー他『ジャン・レノ』(1997年7月18日初版第一刷発行・ソニー・マガジンズ)は、フランスの映画俳優ジャン・レノのインタヴュー。生い立ちから、カサブランカで過ごした幼少時代、父との確執、軍隊生活、監督リュック・ベッソンとの運命的な出会いに至る、役者志望青年の劇的な半生のエピソードも面白いが、この本の魅力は、やはり映画「グラン・ブルー」や「レオン」、「ニキータ」といった出演映画の裏話。ジャン・レノの映画での存在感の裏にはただならぬものがあると思って、そのひととなりを知りたくなって、珍しくこういう本を読んでみたのだが、やはり役作りの秘密は努力と精進。人生を変えたという海洋ロケ映画「グラン・ブルー」では、当初ダイビングもできなかったという。イタリア語講座に通い、きびしいフリー・ダイビングの特訓を受け、「18カ月もの間、私は、バーベルを振り回し続け、にんじん畑を片っ端から食い荒らし尽くしていった(にんじんの千切りと砂糖無しのシリアルというダイエットメニューのため)」。うーむ。それであの逞しい海の男エンゾが。。
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竹内整一『日本人は「やさしい」のか』(1997年7月20日初版第一刷発行・ちくま新書)は、「やさしい」という言葉の多面的な研究の本。「やさし」の語源が「ヤセ(痩せ)」、「ヤス(痩す)」にあり、古代には、身もやせるように感じる(恥ずかしい)、やせるほど辛い、というような意味であったとは驚き。著者は、第二章「「やさし」の精神史」で、古典文献の用例につぶさに当たり、恥ずかしさ、から、優美さ、けなげさ、情け深さ、を意味するようになる、「やさし」の意味のダイナミックな時代的な変遷を辿っていて、圧巻。また、現代のポップスや小説に登場する「優し」という言葉の、個々の文脈での使用のされ方の分析を通じて、その倫理的な意味を考える。「地球にやさしい」で、判断停止状態にならないための思索の本です。やはり太宰治は凄い。
筒井康隆『筒井康隆かく語りき』(1997年6月25日初版第一刷発行・文芸社)は、インタビューと対談集。86年から今年にかけての対談9編、インタビュー3編が収録されている。インタビューでは神戸の自宅で震災に被災された体験について触れられているが、対談のテーマはさまざまで、和田誠氏とは演劇や映画(著者には映画化された作品も多数あり、役者志望だった)、中村正三郎氏とはインターネット(パソコン通信を使った小説『夜のガスパール』は話題になった)、小林よしのり氏、井上ひさし氏とは断筆宣言や出版社の自主規制や差別語の問題、丸谷才一氏とは文芸批評について、などなど盛り沢山の内容になっている。基本的にブラックユーモア系のSF作家なので、話術もたくみで、読んでいて楽しい。かって、著者の作品が大好物だった時期があり、私には、どこかでいつも気にかかり、懐かしい作家です。筒井康隆のホームページへ。
土屋賢二『哲学者かく笑えり』(1997年7月10日初版第一刷発行・講談社)は、ユーモア・エッセイの第三集。「小説現代」に連載されたエッセイに加え、どこまで手を入れているのか分からないが、友人の佐藤悦久氏との傑作な往復書簡集が付録についている。相変わらず、前著『われ笑う、ゆえにわれあり』、『われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う』(ともに文芸春秋)ともども、おかしすぎる文章だ。白を黒に言いくるめる、ということがある。前提1「人間の細胞2、3個はくずである」前提2「くずの集まりはくずである」結論「ゆえに人間はくずである」。この場合、細胞が物質として屑とみなされることと、個人が人格を否定されて屑と罵倒される場合があることが、故意に混同されているところからおかしさがやってくる。そういう錯覚はありふれているし、宣伝文句や評論家の詐術としても応用例にはことかかない。しかし形式論理学に習熟した哲学者として、著者はその手の輩の具体的な批判には赴かない。いやきっと批判が渦巻いているのだと思うが、いかにもへんてこな例を表示することで、なにごとも錯覚しがちな人間の常識のあわれさを、やんわりと笑い飛ばす。快調。
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宮台真司『世紀末の作法』(1997年8月1日初版第一刷発行・メディアファクトリー)は、雑誌新聞に掲載された短めのコラムや時事的なエッセイなどを、60数編集めた本。著者はテレクラやブルセラショップといった若者(女子高生)風俗を研究対象にした意欲的な著作で注目されている社会学者。この本で明かされている、著者の研究者としての戦略的なスタンスも、フィールドワークの現場からとりこんできた若者風俗の現状報告も、とても興味深い。若者の倫理観、道徳観の喪失を嘆く年長世代が多いなかで、著者は徹底した若者擁護派。日本は、本当は売春天国だと知った女の子たちが、男性の半分が女性の身体を買っているなら、女性の半分が身体を売っても当然と気付き行動し始めた。それに脅威を感じて道徳や倫理を持ち出す者こそ、男性売春天国社会の実態を隠蔽し、擁護する「うそ社会」信者であろうと著者はいう。極端な主張には、いくらか違和感があっても、著者の仕事は、貴重な情報の窓口。
川崎洋『かがやく日本語の悪態』(1997年5月26日初版第一刷発行・草思社)は、いろいろな悪態を集めて解説をつけた本。詩人である著者が、落語、遊里、芝居、映画、文芸、方言、キャンバスなどから採録した悪態集である。ことわざ集のように、どこからでも読み始めることができる。人をけなすにも様々な表現があって、それが日本語の豊穣さを現す。けれど、悪態の面白さが生き生きと感じられるためには、その言葉が、発せられる場所で生きていることときりはなせないのではないか。「おこぜが、桟橋にぶち当たったような顔」(南伊予)という例をあげて、日本語の文化だと著者はいう。ブスなどというより、「ずっとユーモラスで、言葉のセンスが働いている」と。いいたいことはわかるが、現代という場所では、少しく牧歌的に響くのを如何ともしがたい。試しに手元の少年コミック雑誌から悪態を採録してみよう。「てめえ。このガキが。イエローモンキー。薄汚ねえジャップのくせに。小僧。守銭奴。カマ男。変質者。ガキ。性獣。ハイエナども。バカ野郎。犬ふん君。クサレ外道女。ゴリライモ。タコガキ。死ねよ。とっとと くたばっちまえよぉ。このアマァ。」(少年マガジン8月13日号)。こういう言葉の照射を大きな規模で浴びて、現在がある。
新しい歴史教科書をつくる会編『新しい日本の歴史が始まる』(1997年7月10日初版第一刷発行・幻冬社)は、「新しい歴史教科書をつくる会」主宰の97年3月31日朝日生命ホールでのシンポジウム、討論、資料など、これまでの会の活動記録が収められている。この本を書店で手にとらなければ、そんな会が結成されたことも活動内容も知らなかった。活動の中心は、西尾幹二、藤岡信勝、高橋史朗、小林よしのり、大月隆寛、といった諸氏で、賛同者は5月末で200名。阿川弘之、井沢元彦、石原慎太郎、内村剛介、江藤淳、大宅映子、桶谷秀昭、小田晋、、著名な作家、評論家だけでもと、挙げていってきりがない。会員数は五千名弱(5月末)という。自分の無知故に言うのではないが、昨年末の会の旗揚げの記者会見には報道陣が200 名近く集まったらしいのに、報道したのは産経新聞社だけだったという。なにか奇妙な話ではある。私としては、教科書はいろいろあって良いと思っているので、出来上がるのが楽しみ。
RETURN
小浜逸郎『子どもは親が教育しろ!』(1997年7月16日初版第一刷発行・草思社)は、ユニークで戦闘的な教育論。冒頭から、巷にあふれる教育論議(偏差値批判、道徳教育の奨励、個性尊重、校則批判、教師批判、体罰批判、、といった子供中心の教育論)の論者たちの発言がひきあいにだされ、「バカ教育論」の見本として、撫で斬りにされている。学校は子供のためにあるわけではなく、社会参入のための強制的な制度にすぎないというのが、著者の立場。現在の学校の荒廃の原因は、70年代半ばに戦後の公教育制度の目的がひととおり達成されて、誰もが高校に通えるようになり、学校の価値や権威が信じられなくなったところから来ている、という。著者が提案しているのは4.4.4制の導入であり、授業を午前中だけにするといった、思い切った公教育の縮小だ。ようするに、現在の教育現場での緊張感のない停滞した拘束時間(荒廃の温床)を削って、学生たちの個別的な意欲を外部にふりむけられるような教育環境に制度的に作り替えてやれ、という論旨で、とても明快に思えるのだが。
岩明均『七夕の国 1』(1997年8月1日初版第一刷発行・小学館)は『週刊ビッグ スピリッツ』の連載中の長編コミックの第1巻。ちょっと文化人系に誉められすぎの感のあった前作『寄生獣』の作者の新作。やはり面白い。コミックは基本的に絵だと勝手に思っている。好みの絵柄でないとまず手にとって読む気がしない。その意味でこの作者の線もセンスも気に入っています。超能力ものの長編ストーリーは始まったばかりだが、平凡な学生である主人公が、自分の潜在能力(超自然的な能力)と葛藤する、というテーマは前作と同じ。その葛藤が、白けた現代のなかで、どれだけ出自を含めた自分を発見する物語として、軽快かつリアルに描けるか、というところかも。続編が楽しみ。
吉本隆明『思想の原像』(1997年6月30日初版第一刷発行・徳間書店)は、時評集。95年から97年にかけて雑誌「サンサーラ」に掲載された時事的な情勢論を中心にまとめられていて、系列としては『超資本主義』(95.10 徳間書店)の続編にあたる。
経済問題(経済指標、「住専」問題、景気動向)、政治問題(フランス、中国の核実験、集団自衛権、沖縄基地、総選挙、従軍慰安婦問題)、社会問題(エイズ、オウム裁判、いじめ、餓死老人)等々、いまもマスコミの紙面に余韻を残している時事的な話題が論じられている。
著者の本としては、行動派のジャーナリスト辺見庸氏とのくだけた対談集『夜と女と毛沢東』(文芸春秋)なども刊行されたばかりだが、本書は、とりあえず現在(97年半ば)の、著者の情況全般についての感想や考えを、ある程度精密に知るには格好の著書だと思う。
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小浜逸郎『大人への条件』(1997年7月20日初版第一刷発行・ちくま新書)は、子供が大人になる心のプロセスを、独自の視点から分析した本。人間の記憶の在り方をいくつかに分類したうえで、そのうち生活経験に彩られた狭義の記憶が、情緒性(ハイデガーのいう「気分性」)として存在する、という著者の主張が、とても印象に残った。著者は、人間の生活意識は、この情緒の止むことのない運動とともに、たえざる自己物語化として持続している、と規定して、なぜ、ある特定の記憶が心に残るのかといったメカニズムを、精神分析的な解釈によらず説明している。3章では、ジャンルの異なる4つの作品(宮崎駿『となりのトトロ』、芥川龍之介『トロッコ』、つげ義春『紅い花』、大江健三郎『不満足』)を、クロスオーバー的に発達心理の視点から分析しているのが面白い。また、本書には著者の私生活的な記憶の情景の記述が濃密な影を落としていて、この心の成長過程論を味わい深いものにしている。自己物語化の実践というべきか。
福岡正信『<自然>を生きる』(1997年2月10日初版第一刷発行・春秋社)は、NHKの番組での福岡氏へのインタヴュー(聞き手・金光寿郎)を集めた本。福岡氏が50年実践してきた自然農法が紹介され、氏の徹底した自然観に立脚した人生哲学が述べられている。それを一言で言えば、自然と人間との無作為の共存ということになろうか。多種多様な種子をこねた粘土団子を作って撒くだけ、という氏の提唱する自然農法の手法は、科学農法や有機農法とも違い(肥料も農薬も、土地を耕すことさえ否定される)、まさに革新的だ。しかも粘土団子の組成には、近代農法の技術(病虫害、肥料、農薬の問題の対策)が全て生かされている、という驚き。この本は編集に携わった友人から送っていただいたのだが、こうした分野に暗い私にも、実践に裏打ちされた説得力が感じられて、刺激的な収穫だった。福岡氏の農法は、むしろ砂漠化などで環境破壊の深刻な海外で注目され、インド、フィリピン、ソマリア、タンザニア、ベトナム、、、等々、諸外国で、広く採用されている、という。知らぬは私だけだったか。
福田和也『続 なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』(1997年7月8日初版第一刷発行・角川春樹事務所)は、オピニオン色の強いエッセイ集。リマ人質事件についての日本政府の対応についての義憤からはじまり、気概、名誉、正義、誇り、という観念が消失してしまった日本人社会、若者についての憤り、嘆き、、が全編をおおっている。丁寧でソフトな語り口調と、内容の右派的な言辞がそぐわない感じがして、ちょっと恐い。ただ、リアルな暴力についての想像力が必要だという主張には、共感できる。この本では触れられていないが、薄い皮膜に隔てられていて見えないだけの「暴力」を、歴史の隠蔽から暴こうとする情熱、ちょっと世代的には由来の知れないような情熱が、著者の仕事には、あるように思う。
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桜井邦朋『地球外知性体』(1997年6月5日初版第一刷発行・クレスト社)は、地球外知性体(ETI)の探索研究の現状報告。著者は高エネルギー宇宙物理学の権威で、現在は金沢大学学長。長年、宇宙物理学、宇宙生物学などに携わってきた著者の、1950年代からの関心事であったという、ETI(Extra-Terresrial Interlligence)に対する、人類の科学的な取り組みとその成果の現状を、わかりやすく紹介した本。ETIの可能性を論じると、生命とはなにか、という進化や分子生物学の領域にも触れることになり、本書は、そうした広範な現代科学の諸分野の成果を押さえた、丁寧で見通しのいいガイドブックになっている。本書でも少しだけふれられている「宇宙の人間原理」や、著者の宇宙観や生命観について書かれた『宇宙には意志がある』(クレスト社)の感想はこちらに。
手塚治虫『ぼくのマンガ人生』(1997年5月20日初版第一刷発行・岩波新書)は、著者の生前の様々な講演記録(86~88年)を、手塚プロダクションの森晴路氏が収集して編集しなおした本。子供時代の思い出から戦後の虫プロ時代のことまで、また、著者がマンガにこめたメッセージや、若者や大人たちへの呼びかけといった、様々な性格の文章が収録されている。講演をおこしたものでもあり、すっと入ってくる破綻のない文章なのだが、生前の手塚氏を知る、妹さんや友人、知人の談話も織り込まれていて、それらが微妙に手塚氏のイメージに異なるゆらぎをあたえていて、この巨大な漫画家の人格の複雑さや奥の深さを窺わせるものになっている。肝心な時にコマーシャルが入るのが、テレビの大きな欠陥で、見るものは、そこでいったん醒めてしまう。その醒めかげんで、ある世界を客観的に覗いているという錯覚を持ってしまう。そういうテレビ世代の子供たちは、何を考えるにも、自分と距離をおいて考えるくせがついてしまう、という手塚氏の指摘は、するどく現代的。
田中克彦『名前と人間』(1996年11月20日初版第一刷発行・岩波新書)は、言語学者の固有名詞談義。著者は、まえがきで、歴史学などの「知識と特権的な教養のかたまり」のような固有名詞だらけの学問に対する不信と憎悪をあらわにしている。それに対し、数学、哲学、言語学などを、固有名詞を必要としない「清潔な学問」と呼ぶのだが、本書は、言語学でオノマシオロギー(名前学)と呼ばれる分野を中心に、固有名詞についての著者の見解や内外の言語についての話題を披瀝したものだ。固有名詞特有の機能は、西欧の論者たちが指摘した、その弁別性だけにあるのでなく、逆の側面としての、共同体への帰属性にもある、というのが印象的な主張で、その詳細が豊富な例によって興味深く紹介されている。著者の固有名詞(中心主義)についての憎悪は、大国によって抹殺されつつある国々のエスニックな固有名詞への愛着と重なって、複雑で深いものがある。固有名詞は教養主義の名のもとに知の選別や知の平準化に利用されるが、それに抵抗しうるのもまた言語や民族にかかわる固有名詞でしかない。けだし、「固有名詞は帰属を示す」。
RETURN
関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』(1996年11月30日初版第一刷発行・文芸春秋)は、明治に生きた文学者の人物評伝。小説家二葉亭四迷の青年期から晩年までの生活の軌跡を、同時代に生きた、魯庵、一葉、独歩、逍遥、漱石、啄木、、、といった文人たちのそれに重ねて詳細に描きだしている。膨大な近代文学史や近代史の資料からこと細かく採取され、編集された事実の集積が、関川・夏彦調?の味わいのある文体と解け合っていて、明治という、遠くて近い時代の世情を、身近に感じさせてくれる愉しい読み物に仕上がっている。文士にも役人にも教師にもジャーナリストにも収まりきれなかった二葉亭の生き方に、著者の思いいれが共振していて、抑制された章句のあわいに確かな熱が伝わってくる。
森岡正博『自分と向き合う「知」の方法』(1997年6月19日初版第一刷発行・PHP)は、産経新聞に連載されたコラムと書き下ろし文を集めたエッセイ集。オウム事件以降、自分を棚あげにする思想は終わった、という著者の考え方の展開を述べた第1章に、欲望、性愛、生命(老いと死)、などをテーマにした2章以降のエッセイが並ぶ。著者の構想する「生命学」は、生命倫理や、エコロジー、フェミニズム、宗教研究、といった様々な領域を対象にしながら、それらをあくまでも自分の生や死に引きつけて解明しようとする。著者の倫理性へのこだわりは、エッセイを読むと、固有な死への憂いや傾斜のような資質からやってくる気がするが、まだよく分からない。「こわれていない」(養老孟司)、透明感のある思索が魅力的。
村上龍『オーディション』(1997年6月1日初版第一刷発行・ぶんか社)は、映画「危険な情事」みたいな、現代版の怪談小説。たしかに一気によませる力があって、ラストでは作者のいつもの細部だけがひどくリアルな悪夢のような映像的な描写も堪能できる。しかし、欲をいえば、もうすこし女性心理のもつ多面性やプロセスを、種明かしのあとでもよいから、書き込んでほしかったという印象をもった。「あとがき」を読めば、作者の意図は伝わってくるが、そうであるならなおさら、美化したり幻想化する以上の説得性が欲しい。物語をあわれな中年男性の過剰な憧憬とその幻滅や女性恐怖の喩のように読めば、また別の現代版ホラーが見えてくる気もするが。龍声感冒のHome Pageへ。
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