読書感想


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三木成夫の生命の思想について


「形はリズムである」三木成夫



 著者の生命についての思想を貫いている考え方には2つの柱があるように思う。ひとつはゲーテの形態学に関連をもつ「生命の原形」という考え方であり、ひとつはクラーゲスのリズム論に関連をもつ「生命のリズム」という考え方である。前者は「構造の原形」をたどるというところまでは、比較解剖(発生)学の範疇にあると思えるが、その先で両者が融合して、ひとつの巨大な生命観をつくりあげていように思えるといえば、この希有な解剖学者に宿った生命像の印象の片鱗を記したことになるだろうか。

 三木成夫の『比較解剖学』の方法とはどのようなものだったのだろう。その背景を含めて、宮木考昌氏が『生命形態の自然誌T』の月報で分かり易く述べている。

  「三木成夫先生は、人体の構造を理解するため、「構造の原形」を想定して、その原形から成体の変貌した「構造の成り立ち」を説明するという比較解剖学的方法をとられた。ヒトは脊椎動物であり、その祖先は、今から5億年前に海の中から出現して、上陸の歴史を辿ってきたと言われる。これはヒトの歴史でもある。脊椎動物は、それぞれ各動物の家系とも言うべき宗族の歴史を秘め、ヒトはヒトという宗族の歴史を持っている。ヒトの宗族発生を解明すること、それはこの想像もつかない長い時間的経過により変貌した現在の人体構造の成り立ちを原形から説明することである。三木先生は、現存する脊椎動物の比較解剖と比較発生の研究によって、この新しい概念を実証された。」

 三木成夫自身の言葉では「『比較解剖学』とは、各種の動物を系統的に解剖し、その根底に横たわる『構造の原形』を一つのシェーマとして表す学問である」(『胎児の世界』)ということになる。

 実際の三木成夫の比較解剖学の学問的な足跡は、学位論文に結実するオオサンショウオの脾臓の発生の研究(論文「オオサンショウウオに於ける脾臓と胃の血管」)から開始されたことが知れるが、それが、数百個の卵を採集して研究室で育て、全長数ミリの幼生の拍動する心臓に極細のガラス針で墨汁を注入して血管系の標本を作り、これを顕微鏡下で丹念に解剖して写真撮影し、これを焼きつけた印画紙に観察しながら記録して原図を完成する、、、。というような気の遠くなるような根気と技術を要する過程であったことは、『胎児の世界』などに詳しい。

 この研究対象は両性類から始まり脊椎動物のすべての系列についてなされるべく構想されたようだが、次に行われたニワトリ(鳥類)の研究(論文「脾臓と腸管2次静脈との関係−ニワトリの場合」)の過程でひとつの心的な事件があったとされる。「頭の中には巨大な竜巻が巻き起こり、終日うなりつづけていた。それは、わたくしの研究上の人生で初めて経験するひとつの感動だった。」と三木は書いている。著作から、それがニワトリの胎児の発生の4日目から5日目にかけての24時間に「古生代の終わりの一億年を費やした上陸のドラマが見事に凝集されていた」と感得した、その衝撃であったことが知れるが、ここでそのことを書き留めておきたいのは、この衝撃が三木の関心を当面の脊椎動物の進化における脾臓の移動という研究課題とは別に、この「上陸の再現」を人間の胎児において確かめたいという思いに傾むかせてゆき(そのドラマチックな解剖研究の体験は『胎児の世界』にリアルに描かれている)、やがて、従来の「解剖学」や「形態学」の地平をこえて、著者が独自な「三木学」(平光)の構築に向けて足を踏み出すきっかけになったと思われるからだ。さて、「『構造の原形』を一つのシェーマとして表す」とは、具体的にはどういう手続きなのか、もうすこしその先を前出の宮木考昌氏の月報から引用して見よう。

  「またこれら(註:標本の原図)の正確な描写をもとに、成体の段階にまで発展させて比較し、それをもとに想定した原形をシェーマ化して原図を完成する。このシェーマには、常に腮腸の筒状像と体幹の断面図を使い、これに循環系の通路を配置する。そして「心臓と脳、循環系と神経系とは人体構造の双極である」と論述され、人体の造りの中に「構造の原形」を探求された。この研究は脊椎動物の人類から円口類、そして無脊椎動物、さらに植物、生物の自然構造へと発展し、そしてそこには、「生の原形」論が展開される。」

   ここまできて、三木解剖学でいう「構造の原形」という概念にこめられた意味を推しはかることができる。あるいは、たとえば「心臓と脳、循環系と神経系とは人体構造の双極である」という論述にこめられた背景をおぼろげに推察できる、というべきだろうか(註1)。このようにして把握された「生命の原形」はもうひとつの柱である「生命のリズム」という概念の中に放たれる。



  「植物のからだは、動物の腸管を引き抜いて裏返しにしたものだ。根毛は露出した腸内の絨毛となって、大気と大地にからだを解放して、完全に交流しあう。両者のあいだには生物学的な境界線はない。このことは、動物のからだが、肝臓および腎臓という入・出の厳しい関所によって外界から完全に遮断されているのと対照的である。植物のからだが、太陽を心臓にして、天地をめぐる巨大な循環路の末梢毛細管にたとえられるのは、これに由来する。植物とは、だから自然の一部というより、自然の「生物学的な部分」といいかえることができる。(葉の表面は腸管と肝臓、肺胞の内面に相当し、根毛の先端は腸管の内面に生えた絨毛に相当する。)

   これに対して動物のからだは、その発生が物語るように、最初から宇宙の一部を切り取っておのれの体内に封じ込め、さらに体長に深い入江をつくって、それを体内に誘導する。前者が「体腔」に、後者が「腸腔」に当たり、そこからそれぞれ性と食にたずさわる内臓系がつくられる。このなりたちは、動物の食と性がまさに内蔵された宇宙との交流によって行われることを物語るものであろう。古来これは「小宇宙」と呼ばれ、本来の「大宇宙」と対比さられてきたのである。小宇宙とは、このように丸め込まれた宇宙で、動物のからだには、これを大宇宙から仕切る、からだの壁、すなわち「体壁系」とよばれる器官ができてくる。これは、自力栄養のできない動物たちが獲物をキャッチするために特別にあつらえた感覚−運動の四輪駆動車で、身の周りの、いいかえれば「近」のいちいちに反応するという特徴をもつ、、、。

 ここでは動物の食と性の波は、植物的な内蔵系が、この体壁の殻を貫いて、直接宇宙と交流することによって産み出されることが明かとなった。そこでは、宇宙リズムに乗って、内蔵系の中心が食の器官系と性の器官系のあいだを果てしなく往復するのである。わたしどもはこれを内蔵波動とよび、動物のいのちの波をからだの奥底から支えるはらわたの根源の機能として眺めている。動物の持つ宇宙生命を最も端的に表現したものであろう。」

 ここで語られている動物と植物のイメージは新鮮な驚きを誘う。その驚きは(私のような門外漢が)生物学系の諸科学の一般読者向けの啓蒙書などから得ることのできる、新しい知識や発見の記述などに巡り会えた時の感動とは別の種類のものだ。ひとつの独自で総合的な自然観と生命像を前にした時の驚きなのである。

 著者のリズムというイメージに即して、この「宇宙生命」観の背景を注釈してみれば、宇宙の根源形象は渦流であり、この永遠回帰の運動により、宇宙の天体相互の間にはそれぞれ「時の波動(リズム)」が生み出される。地球では年の巡りによって四季が回り来るが、この時、地球上の生命もめいめいの「生の波動(リズム)」によって、その四季の推移に色どりを添える。つまり、宇宙のリズムと生命のリズムの交響こそが、生命現象の本質である、というようなことになるだろうか(註2)。

 ここで著者が宇宙のリズムと呼んでいるものは素粒子の振舞から天体の運行によって生ずる多様な波(水の波、光の波、電磁波、音波、地震波、周期的気象変動・地殻変動、、、。)までを網羅しており、生命のリズムと呼んでいるものは、心臓の鼓動や呼吸の波動、細胞波、睡眠と覚醒や季節的な活動と休息のリズムなどを含んでいるが、前者では年月日と月齢のリズムが、後者では性と食のリズムの交代が「いのちの波」のシンフォニーの中心に関連づけられている。

 ところで著者は晩年のゲーテが「生の根本原理」と直感したという「蔓のらせん、渦」や、クラーゲスが宇宙の根源現象と考えた「リズム、波(波動、律動)」に、こうした把握の仕方の直接の根拠を求め、その由来を明かしている(「『生命形態論序説』〈1〉生の原形」の章に詳しい)。そういう意味からいえば、比較解剖学で求められた「構造の原形」とここでいう「生命の原形」は少なくとも由来を異にする概念ではないのか。しかし著者の構想力の独自性はその独自な融合(註3)においてこそあるのだとはいくらでも強調しておいてよいことだ。性と食の位相交替こそが、生命現象の根源のリズムををかたちづくる、と著者はいう。単細胞生物における分裂(増殖)の相と(接合)の相、多細胞生物における成長の相と生殖の相を、波形を異にするが連続した生のリズムの双極性のあらわれとしてとらえるこの考え方は新鮮で、いろいろな示唆を与えてくれる。

  「われわれ人間をも含めた一般の生物は、ふつう食と性の二大本能に支えられて、それぞれ個体維持と種族保存をはかるといわれている。このことは人間のみに見られる”自 分”と”子孫”の双方に対する持続の欲望が、人間以外の動物に対してまで、いわば感情移入されたことを意味するが、こうして見ると、そこでは本来、生のリズムを構成する双極的な営みが、じつは”並列的”に置き換えられていることがうかがわれる。いいかえれば、生の波に乗って互いに交替する二つの過程を、ひとびとはいつの間にか同時進行の、しかもひとつの願望にすり変え、結局は、知らぬ間に”二足の鞋”をはく始末となったものであろう。

 人間は、植物でいえば”多年生”のそれに相当する。したがってその性成熟以後は、食の相の延長の上に性の相が周期的に”重複する”かたちをとる。しかもその場合、前節で述べた「自我」の固必的動向がこの重複する二つの位相を同時に堰止め、それぞれのピークをいつまでも持続させようとする結果、その世界では”寿命の延長”や”性の氾濫”など、固有リズムを喪失した数々の混乱がしだいに積み重ねられてゆく。上述の二足の鞋とは、とりもなおさず、こうした人間独自の条件が生み出したそれはまことに当然のなりゆきと見なければなるまい。」(『生命の形態学』)


註1)シェーマの含む意味について養老孟司氏が書いている。「比較解剖学は、きわめて多様な動物の構造を、みごとに整理する。三木先生のお好きだった、腮弓血管の模式図がその典型である。この模式図は、現実にはどこにもない。われわれの頭の中にあるだけである。自然選択説を採るなら、進化とはすなわち、まったくバラバラ事実の寄せ集めである。そこになにかの原理を発見しようとするなら、それは頭の中を探って見るしかない。だからメタ科学になる。しかし、メタ科学でない科学とは、単なる専門技術に過ぎないかもしれないのである。」(月報「三木・比較解剖学」)

註2)独力でユニークな「いのち」についての思索を展開している村瀬学さんの『「いのち」論のはじまり』(JICC)は、宇宙と共振する生命という捉え方で、著者の思考と一致している個所が多く、とても興味深かった。

註3)比較解剖学の構造の原形という考え方と、生命リズム論の見事な融合の例:鮭の一生では、前半の「食」、後半の「性」の2相にわかれるが、それに応じて内臓系も変化する。食の相の内臓は、消化・循環・排泄の3種の器官からなるが、その大半が、はちきれそうな「消化管」で占められるのに対して、性の相の内臓は、はちきれそうな卵巣・精巣の「生殖器」で占められ、さきの消化管は肝臓の貯蔵に後事を託して消失してしまう。

参照:三木成夫著『海・呼吸・古代形象』『生命形態学序説』『生命形態の自然誌T』(うぶすな書院刊)
『内蔵のはたらきと子どものこころ』(築地書館刊)、『胎児の世界』(中公新書)


93.3.10
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