読書感想


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洲之内徹の美術随想


 洲之内徹の美術随想を三冊読んだ。いずれも雑誌『芸術新潮』に連載されたエッセイを集成したもので、六十二年の十一月号(著者が七十四才で死去した翌月)まで書き継がれたものが、シリーズものの随想集として順次単行本化されている。著者は生前銀座にある現代画廊のオーナーだったという人で、エッセイの内容は、毎号何点かの画家の作品を写真で紹介しながら、その作品や画家にまつわる著者の体験的な逸話を語ってゆくという体のものだが、毎回たいていは話があらぬ方向にそれてゆき、その逸れ方のほうにいつも奇妙で無類な味があるといった文章なのだった。
 画廊のオーナーといえば、どうしても絵画を売り買いすることにつきまとう生ぐさいイメージが優先して、複雑な印象をもつのだが、洲之内徹のエッセイはそうした偏見をきれいに覆してくれる。あたりまえのことだが、どんな世界にもさまざまな人間がいるわけで、実際にその人柄に触れてみなければ本当のところはわからない。また、洲之内徹のような人はどんな世界でも希少な存在だろうが、それは専門的な思考の枠にとらわれない自由な感受性と洞察力においてなのである。それがどこからきたのかということよりも、さしあたり彼のエッセイの文中から、画家や絵画につて書かれた個所を引用してみよう。

 「はじめ私は、ワイエスの眼は普通の人が見ないもの、見過してしまうものを見ているのに驚嘆したが、考えてみると、そうではなく、普通の人は見ているのだが、近代絵画が見ようとしないもの、見ることをやめたものを、ワイエスは見ているのだ、ということに気がつくのだった。、、、
 たしかに、人生や物事の儚さとか、移ろい易さとか、私が感じたそういったものは今日では絵の領域から閉め出されて、文学に委されている。(文学からも閉め出されかかっているのかもしれない)。芸術の世界でも分業化と専門化が進んでいるわけだ。物語的であることは、いまの絵ではいけないことになっている。そして、つまり、ワイエスはそういうくろうとの眼から見ると、絵画はこうでなければならないというものではないのであろう。、、、こういうことは言えないだろうか。何か、ある事について、こうでなければならないという基準のようなものを心得ているのがくろうとで、そんなものにはお構いなしというのがしろうとだ、と。

 「私が考えるのはこういうことである。人はよく絵になるとか絵にならないとかいうが、それは物を見て感動しても、自分にそれが描けるかどうか考えてみるのだということ、そのうちに追い々自分の描けると思うものに自分の感動を限定するようになるのかもしれないということ、さらにまた、職業的な画家ともなればなおさら、自分の得意なもの以外は対象を真剣に見ようとも、探そうともしなくなり、逆に、自分の身につけた技術と様式に合わせてしか、物を見なくなるのではないかということである。

 「絵を書いていて困るのは、そして、見るほうでも見ていて困る絵は、絵が早くできすぎてしまうのである。ほんとうはまだ描けていないのに、画面の上だけで絵ができてしまい、もうそれ以上描けなくなってしまう。なんにも描けていないのにちゃんと出来上がっている絵くらい、いやらしいものはない。

 「「この前の、セザンヌの塗り残しの話、面白かったですね」
 「僕がいったの? 何を言ったっけ」
 いつも口から出まかせに思いつきを喋っては忘れてしまう私は、すぐには思い出せなかったが、言われて思い出した。セザンヌの画面の塗り残しは、あれはいろいろと理屈をつけて難しく考えられているけれども、ほんとうは、セザンヌが、そこをどうしたらいいかわからなくて、塗らないまま残しておいたのではないか。というようなことを言った気がする。
 そして、言ったとすれば、こういうふうに言ったはずだ。つまり、セザンヌが凡庸な画家だったら、いい加減に辻褄を合わせて、苦もなくそこを塗り潰してしまっただろう。凡庸な絵かきというものは、批評家もおなじだが、辻褄を合わせることだけに気を取られていて、辻褄を合わせようとして嘘をつく。それをしなかった、というよりもできなかったということが、セザンヌの非凡の最小限の証明なんだ。というふうに言ったと思うのは、実は、この頃私は、しきりに、辻褄を合わせようとする嘘ということを考えるからである。嘘というもののこの性格は、日常生活でも芸術の世界でも同じだが、芸術では致命的なのではあるまいか。

 「私はまた、この頃、眼の修練ということを考えている。絵から何かを感じるということと、絵が見えるということとは違う。これまた、これだけでは到底わかってもらえそうにもないが、私が身にしみて感じる実感なのだ。、、、絵から何かを感じるのに別に修練はいらないが、絵を見るのには修練が要る。眼を鍛えなければならないのだ。この頃になってやっと、私はそれに気が付いた。では、眼を鍛えるとはどうすることか。私の場合、それは、眼を頭から切り離すことだと思う。批評家に借りた眼鏡を捨てて、だいぶ乱視が進んでいるとはいえ、思い切って自分の裸の眼を使うこと考えずに見ることに徹すること。

 「いくら何十年絵をかいてきたからといって、また、描けば金になるからといってそれで自分が玄人だと思って安心しているような玄人は、玄人でも何でもない。いつ自分が見る影もない作品を描くようになるかもしれない、そういう、絵をかくということの恐ろしさ、絵かきとしての自分がいつ殺されてしまうことになるかもしれない(しかも、絵かきは剣術使いとちがって、自分が何に殺されるのかわからず、殺されてしまっても自分で気がつかない)という恐ろしさを知っている宮坂勝のような玄人が本当の玄人だと、「冷酷な洋画」を読んで私は思った。

 「第一室の、入口を入って突当りの壁に<刈り取る人のいる麦畑>が掛かっている。どちらかといえば燻んだ黄色の麦畑の向こうに塀があり、その向こうに山があり、山の端近く太陽が沈みかかっているあれだ。その前に立ったとき、一瞬、私は何か荘厳なものを見たと思った。荘厳なものではなく、荘厳というものを、確かにこの眼で見たのだ。しかし、あっと思って、更めていくら眼を凝らしても、もうそれは見えないのであった。そういうことがある。だから絵はやめられない。こういう一瞬が一年に一回でも、いや三年に一回でもあるといいと思う。それが絵を見るよろこびだ。


 これだけ並べると、洲之内徹がどういう姿勢で絵画を見たり反応したりしているかが、読み取れると思うが、その根底にあるのは、いわゆる悪しきプロ意識に対する激しい否定の感情である。画家でも批評家でも、自分の社会的な地位や評価を守る姿勢に入ってしまったとたん、駄目になってしまう。保身のために辻褄をあわせようと嘘をつくようになるからだ。あるいは自分の得意なことだけしかせずに他について関心や想像力を失ってしまうからだ。実際、本の中で、洲之内徹がとりあげている画家や絵画の多くについて、こちらに基本的な予備知識がないので、彼がどんな選択眼で対象を選別するのかわからないのが残念だが、彼の批評の姿勢の輪郭だけは、確かに鮮明に届いてくる印象を受ける。それは彼が絵について語っているようでいて、実は別のことを、さる批評家のひそみにならっていえば、絵をだしにして自分を語っているからである。
 ふつう美術評論家や職業画家の世界は、一般の世界から隔絶して感じられる。この隔絶した感じは、あらゆる特殊な分野の世界を一般的な視点から眺めた時に感じる感じ方としてありふれたものだ。現代では特殊な分野での専門的な修練や知識の累積が、ひとを一般的知識から、いかに遠くに連れ去ってしまうかということは、認識自体に織り込まれている。だれもがありふれた資質やなけなしの才能からはじめたことが、いつのまにか相互に理解できない分化された専門知識の世界に棲みこんでいる。同じ専門領域でも壁ひとつ隔てればそういうことが起こる。またそこに棲みこんでしまえば、もうどこにも抜け出すことができない。その世界を維持すること自体に過剰な修練が必要とされるからだ。ある専門体系を学ぶに要する人間的な時間は、知識の側から機械的に逆算され、生活の速度を決定してしまう。こういう現代の知識の累積が不可避的に作りあげてきた倒錯が苛立たしく矛盾として感じられないとしたらどうかしている。現代の一般的知識は、それを内容を括弧にいれた形式的言語としてうのみにすることで、ようやく成立しているのだ。それが言葉の記号化と呼ばれることの一側面を作り上げている。
 いりくんだ現代の規範的思考を揺すぶり覆してみせることは、ほとんど不可能に思えるが、まれにそんな言葉の体験にであうことがある。なぜそんなことが可能なのだろうか。洲之内徹の場合、絶妙な位置にいることがわかる。それは常に先入観をもたない素人の位置に自分を置くことといってもいいが、これはとても困難なことなのだ。現代では素人とは逆に先入観(規範的思考)そのものを生きるものだからである。美術史に名が残り評価の確定した画家や作品についてのみ批評する評論家と、まだ評価の定まらない現代の無名の画家や作品を批評し、判別することをなりわいにする洲之内徹の位置を比較してみるといい。彼には作品を美的で高邁な言葉で語る修辞も、西洋の学術書から借りてきた専門的知識を流用する才知もないかもしれないが、ただ現在に立ち現れてくる絵画の発生に驚く柔軟な精神だけはある。その感動を抽象的な観念に置き換えることで成立する普遍的な批評にも、洲之内徹が意味ずける以上の人間的な動機がかかえこまれているはずだといってみたい気もするが、そういう批評の位置ほど彼が嫌悪したものはなかっただろう。言葉が共同の権威やうわべだけの観念として振る舞おうとするときに生じる自己欺瞞や虚偽の匂いは、彼が生理的に反発したものであった。

 「、、こんなことをして(書いて)何の意味があるのだと言われた。要するに私の物好きに過ぎないのではないかというわけで、この人は大学の先生で真面目な美術史研究家だから、先の人のように寝てしまいはしないが、私のそういう姿勢は関根正二研究のために何等プラスするところがないと言って、苦々し気に私を非難するのである。言われてみればそのとおりで、私には返す言葉がない。しかし、そう言われるとやっぱり口惜しいから、考えてみたのだが、わざわざ猿江裏町の中を歩きまわってから関根正二の家の跡へ行ってみるということは、その人にとって、また近代美術史研究にとって意味はなくとも、私にとっては意味がある。何と言ったらいいか、うまく言えないが、言ってみれば、そうすることで関根正二が私の経験の中に入ってくるのである。改めて断るまでもなく、私は関根正二に会ったことはない。当り前だ。時間的にも空間的にも、彼は私と離れた存在である。ところが、そうやって自分の足で歩きまわるというそのことで、私は関根正二を経験している。関根正二についての私の経験を持つわけで、こいつがないと、私はどうも空々しくて、関根について何も言う気がしないし、書く気にもなれない。」

 対象が絵画だといっても、批評は言葉で書かれるのだから、対象を的確にとらえるか、拙劣にとらえるかの違いでしかない。すべて言葉の問題に還元されてしまうのではないか。そういう問いに対しての洲之内徹の答えも単純なものである。自分は作者(画家)が生きた生涯の環境を自分の足で確かめてみる、作者(画家)を知っていた知人や友人に話を聞いてみる。そうして初めてその人について物を書ける気持ちになれるというのである。これはいわゆる研究者の時代考証ということとは違っている。洲之内徹にとって、そういうことをして作者(画家)のイメージを自分の中に立ち上がらせ納得したうえでなければ、とても空しくて書く気になれないというのだ。いわれてみれば、青年期には誰でもおぼえがあるようなことかもしれないが、こういう情熱を老齢になって自分の生涯の方法のようにたんたんと語れる精神というのは稀であろう。それはただ対象に惚れ込むという純粋な情熱の所産だけではなく、我が身も含めて、実質的なものをよそおった観念的な言葉によって立つ位置に対する、激しい拒絶の意志の所産のように思える。
 洲之内徹のような画家(作品)に対するつきあい方は、本当は自己完結的な性格をでないのかもしれない。エッセイには仕事をかねて、気ままに旅行し、忌憚なく地方の若い画家たちと親交を結び、また彼等の作品を発掘し展示して世に紹介するという生活ぶりが、共感を誘うように描かれているが、その底には、打ち消し難い孤独な影のようなものがある。なぜこの作品はすぐれているのか、ということを論理や相対的な価値基準を排除してつきつめてゆくと、うまく言えないが自分にはどうしてもそう思われるからだという信念みたいな場所にいきつく他はない。またこの絶対感情は、あらかじめ言葉の説明をこばんでいるところがあって、ただ心情的な共感だけが了解できる世界なのである。ほんとうの絵画に感動する美的体験とはそういうものに違いないと洲之内徹は確信していたのかもしれない、そのためにも自分で画家(作者)を納得できるまで生きてみるという体験が必要だったのかもしれない。だがそれは、あたうかぎり作品を産み出した作者の感動に近似してゆくかもしれないが、ついに作者の感動そのものには重なりえない性格をもっている。三年に一度絵画に感動できればいいといいきる精神にとって(これは毎日何枚もの絵画を凝視し、絵画について思考を巡らせている人の言葉なのだ)、毎月絵画を雑誌に紹介する自分のエッセイの言葉自体がいつもそぐわないなにかのように感じられたに違いない。おそらく私は、その洲之内徹という場所がかかえている闇の深さに孤独な影などを読んでしまうのだ。こういう場所は望んで得られるような場所でもない。洲之内徹の死とともに、その場所は埋められて彼のかかえていた闇はもうどこにも無い。誰が埋めたのか知らないが、言葉が埋めたのは確かなことのようである。

 註) 洲之内徹の美術随想のシリーズは、新潮社から六冊出版されていて、引用個所は、いちいちことわらなかったが、『気まぐれ美術館』、『セザンヌの塗り残し』、『さらば気まぐれ美術館』の各冊に採録されたエッセイによる。他に『絵の中の散歩』、『帰りたい風景』、『人魚を見た人』がある。

付記) 洲之内徹のエッセイは、本当はこんな批評みたいな硬い言葉で論じるのがそぐわないほど、彼の暖かい人柄を写すしみじみとした文章である。規範的な思考に縛られない柔軟な精神というものがどういうものかは、縁のあるひとに読んでもらうしかないが、私は特に晩年に書かれたエッセイにひかれた。そこで彼は、傍目にはやみくもに映るほどの音楽狂いを演じている。私などには手放しで一緒に喜びたくなるような生活ぶりを描いた文章が続くが、それは老人のカルチャーショックだと、彼の若い知人が言う。その知人は、尋ねれば音楽についても美術に関してでも何でも即座に答えられるような、もの知りのカルチャー人間なのだが、自分はそんなふうに博識でなかったから、今、こんなふうに音楽を楽しむことができるのだ、と洲之内徹は書いている。そして、自分は残念ながら、そういう種類の人とは音楽も絵画も語る気がしないと書いている。これは皮肉でも何でもない。「なぜ絵の中にリズムがあるのか。」晩年の洲之内徹が音楽三昧の生活の中で拾い上げてきた、そんな素朴な疑問ほど彼等に届きにくい言葉もないだろう。
 最後に絵画とも批評とも関係ないけれど、これだけでわかってしまうような一節をエッセイからあげておく。なにがわかるのかといえば、なんと言えばいいのかわからないが、わかるのである。(と、これも、洲之内風文章でしめくくろう。)

 「どこでもいい、市街の方へ走ってきて、最初に見つかったのがその旅館だったのだから当然だが、泊まってみると、私の窓の下を、ひっきりなしに車が走り過ぎる、私も車で来たのであってみれば文句は言えないが、風呂の湯はぬるくて濁っていたし、トイレに行くと、スリッパが変に湿っぽく、おまけに底というのか表というのか、足の裏に触って気持ちが悪かった。部屋の中には漫画の本が数冊とポルノめいた写真だけの雑誌が一冊、壁際に積重ねて置いてあった。それでも私は、この旅館になんとなく好感を持ち、一種の満足さえ感じた。要するに、こういうところが私の柄に合っているのだろう。私は安らかな気持ちで、炬燵のなかでしばらくその漫画の本などを見、勿論ポルノ風写真集も見てから布団の中に入ったが、もう半分眠りながら、ふと、死を眠りと考えることができるといいなと思った。無論、これは私の新発見でも何でもない。昔から、永遠の眠りとか、眠るような大往生とか、眠っているような死顔とかいう言葉があるではないか。死とは、もしかするといまの私がそうであるように、ああくたびれた、寝よう寝よう、というようなものであるのかもしれない。それはやっぱり哲学の命題ではないようであった。


94.1

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