読書感想


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パンズラムの言葉


トーマス・カディス、ジェームス・ロング著『第一級殺人』(扶桑社)



 1891年にミネソタ州の農家にドイツ系移民の子として産まれたカール・パンズラムは、12歳で少年院に入所したのを皮切りに、生涯に11種類の重罪判決を受け、刑務所に服役した期間はつごう20年に及ぶ。生涯の半分以上を刑務所の中で過ごしたが、出所していた時期に、21人の人間を殺害した。犯行には、通りすがりの11歳の黒人の少年を強姦後、岩で撲殺した事例や、刑務所内で監督を鉄パイプで撲殺した事例も含まれる。
 死刑が確定するであろう裁判をまじかに控えて、パンズラムは親しくなった看守ヘンリー・レッサーに、獄中から自分の半生を綴った手記や書簡を書き送った。1930年9月にパンズラムがカンザスの刑務所で絞首刑で処刑された後、レッサーはその手記を出版しようと奔走したが、引き受け手が無く、30年近くたってようやく陽の目を見たというのが本書『第一級殺人』だという。
 アメリカでは当初、限定300部で発行されたが、「あまりの衝撃的内容」に、全米メディアが沈黙し続けた、と本の帯にある。パンズラムの手記が、多くの出版関係者の目に触れながら、出版されなかったという当時の実状はよくわからないが、読んでみると、手記の記述が、当時のキリスト教的な社会倫理や道徳観念に触れたり、刑務所内で横行していたリンチや拷問の実態や、劣悪な環境を赤裸々に暴露していることが大きな理由のように思える。
 この本の出版の契機となったのが、68年のオレゴン刑務所での囚人暴動であったというのは象徴的だ。それは戦前の刑務所の不正の実態を囚人の側から描いた手記が、当時のマスコミや出版ジャーナリズムにとってエポックメーキングな商品価値をもったということだろう。
 この大量殺人犯の手記や書簡には、ひとつの大きな特徴がある。それはパンズラムが一貫して自らの行状を不可避で当然なことと考えていることだ。

 「俺はこれまでに21人殺した。押し込み、強盗、窃盗、放火は数千件。少なく見積もっても千人以上の人間のオスどもを犯してきた。だが、なにひとつ後悔はしていない。俺には良心がないから改心する必要もないわけだ。俺は人を信じないし、神も悪魔も信じない。俺は人類ぜんぶが憎いし、俺自身も憎い人類のひとりだと思っている。」(序文より)

 出獄する機会があればまた殺人を犯すだろう、と彼は言う。そして、早期に死刑になることを自ら望み、起訴された罪状を全て認めて望みどうり死んだ。だが、パンズラムがあまり悪ぶらずに、社会に向けて書き残した手記のメッセージは、明解で実直なものだ。

  「すべての子どもに犯罪者としての素質が備わっているものだ。人格が形成されている若いうちに、その習性を直して、まっとうな生き方を教えるべきだ。そうすりゃ子供たちが成長し、自分で考えて行動できる年齢になったときに、ごく自然に清潔で、真っ正直で、りっぱな人生を送ることができる。それでこそ犯罪に手を染める前に根っこで抑えることができる。、、、落ちこぼれの本当の原因は社会にある。だから社会の一員としてあんたにも責任がある。おれの場合も、他の悪党と似たようなもんだ。ふつうの人間として生まれたが、俺の両親は無知だった。やつらの誤った教育と誤った家庭環境のために、俺はしだいに間違った生き方に導かれていった。だんだん悪さがひどくなって、十一歳で少年院に送られちまった。それ以来、今に至るまで俺はずっと落ちこぼれたちのなかで生きて来た。俺の仲間や環境のすべてが、嘘や、裏切りや、残虐行為や、強姦や、偽善など、のあらゆる悪でいっぱいで善のカケラもなかった。当然のように俺はそれを吸収して今の俺になった。俺は裏切り者で、性倒錯者で、残虐で、野蛮な人間だ。あらゆるまともな感情が欠落している。良心や、道徳や、憐れみや、同情や、正義などのような善のかけらもない人間だ。
 俺が、なぜこんな人間になってしまったのか。知りたけりゃ、教えてやろう。俺は好きこのんで今の俺になったわけじゃない。世の中が俺をこんな男にしたんだ。
 もし誰かが檻の中に虎の子を飼っているとしよう。そいつを虐待してどう猛で血に飢えた虎にしたところで檻から出したとする。虎は世の中のやつらを餌食にするだろう。好きな所で好きな相手を殺したいだけ殺すだろう。狂った虎の恐怖におびえるやつらが大声で騒ぎ立てるだろう。だが、だれにだってそいつが間違っているとわかるはずだ。、、やつらがまず俺にそうしたから、俺はやつらにお返しをしたまでだ。、、、俺はこう信じてるぜ。『社会が俺にしたように他のやつらにも教え続けるなら、社会もまた、俺のように苦しまなくちゃならないってな』」

 パンズラムは、犯罪者には更正するものもいるが、自分のような常習犯罪者になてしまった者もいて、そうした連中は更正のみこみはないから隔離しておく他ないという。この考えは確信に近い。レッサーとパンズラムの手紙のやりとりは、死刑がほぼ確定しているパンズラムが、唯一人間的な友情を抱いていた看守レッサーの質問に率直に答えるという形をとっていて、とても貴重で印象深い文章になっている。

  「、、、次に俺が「殺人を楽しんだのか」という質問だが、もちろん俺は楽しんでいる。わからなきゃ俺と同じような目にあってみるがいい。あるとき五、六人のがさつな大男たちがやてきて、アンタを殴り倒して意識を失わせる。それから、倒れたアンタを地下室に引きずって行って柱にチェーンで縛り付け、ねんごろに料理する。もしそれでもみんな許して忘れてしまいたいと思うなら、その気持ちを手紙に書いて俺に伝えてくれ。俺は22年間もそんな目にあってきたし、アンタもそれを良く知っているはずだ。ところが、それでもアンタは、なぜ俺が今のようになったのか、と間抜けな質問をしていやがる。馬鹿はよしてくれ。、、、
 アンタは俺の動機について尋ねているが、知っての通り、俺はとても衝動的だし、執念深い極めつけの悪党だ。それだけで俺の行いは十分説明できるだろ。ところで、俺が人を殺すことに感じる楽しみというのは、文字どおりの楽しみじゃなくて、たとえのつもりだ。しかしだ、俺たちが人を殺したり家に火をつけたりするときに性的に興奮していると考えるアンタはどうかしてるぜ。そういった感情を認識する知性は俺にもあるが、そいつをあんたにも分かるように説明する知識が足りない。人を殺す楽しみがどんなものかアンタが知りたければ、自分で殺してみることだ。それ以外の方法を俺は知らない。」

 レッサーは、「もし君が」恩赦を得て、経済的な援助や道徳的な支援を人々から受けることができたら、改心して生産的な生活を送ってくれるだろうか、とパンズラムに手紙を書き送った。「すっかり、感傷的になっていやがる。目をさませ、若いの。アンタが見ているのは悪い夢だ。」というのが、パンズラムの最初の返答だった。キリスト教徒以上に偽善や虚偽の達人としてふるまうのは簡単だが、今のところ、俺は社会やアンタや自分を騙そうとは思っていない。「アンタは人が自分を変えたいときにしなきゃならないのが、ただ生活様式を変えることだけだと思ってるようだな。誰もがそれだけで心を改められると。そいつはまったく単純な理論じゃないか。」とパンズラムは書く。自分には、改心する気などなく、出獄できたら、説教するやつらを殺して惨めな人生からおさらばさせてやるのだ、と。ただ、もうすこし丁寧に書かれた別の手紙のなかで、パンズラムは、核心にふれている(ように思える)。

  「、、、それは、たとえ望んだとしても俺は自分を変えることができないということだ。俺は三十八年間かけて今の俺になった。そうやってこれまでの人生すべてをかけて習慣も身につけた。一生涯かけて身についた習慣から、俺が自由になるためにゃ、きっと俺の生涯以上の時間が必要だろうさ。俺の考えはほとんどだれも持ったことのないものだし、深く身に染み込み、焼き付いてる。だからもう変えられない。世の中が俺にした仕打ちや、俺が世の中に返した仕打ちは、俺にとっても世の中のやつらにとっても、忘れることも、許すこともあり得ない。これはいつでも変わらないルールだ。」

 パンズラムは、刑務所で暮らすより死ぬほがましだし、死刑にならなきゃ自分で自分を処刑する(後日、実際に裁判の遅延に苛立って、獄内で自殺を計った)といい、自分には、この文明社会で生きていたいという欲求がまったく無い、と書く。ただ、最後に、レッサーの好意を気遣ってか、もし自由が手に入れば、以前行ったことのあるパナマの孤島(彼は出所中の数年の間に南米やヨーロッパ、アフリカと30ヶ国を放浪している)で暮らしたいと書いている。「俺が生きて行くには、人が誰もいない場所に独りで暮らすほかない。」と。パンズラムはこの頃しきりにショーペンハウエルの『エッセイズ』や、カントの『純粋理性批判』のさしいれを望んでいるが、こういう感慨に前者の思想との、かすかな共鳴を感じる。しかしそれは本当はレッサーが示したような善意の問いかけがなければ、人に語ることもないような淡い厭世の夢のようなものだったに違いない。
 パンズラムは並外れた体力や筋力を持っていた。皮肉なことにそれは刑務所の過酷な労働やリンチで鍛えられた。彼は怒りや怨恨から人を殺したし、そうでない場合も金品を強奪したり自分の欲望を処理した後に殺した。そうした事例や見聞は、少年院に入所した当時から彼の生きる環境の周囲にありふれていただろう。キリスト教の倫理や道徳は題目のように形骸化していて、彼は出所する口実に利用しただけだった。自分がいかにキリストを愛していて、将来牧師になりたいと切望しているかを言えば、「山師のはったりのように」ききめがあって仮釈放になったと、パンズラムは書いている。

「人を騙そうと思ったり、人を騙せる権力や知性を持った者たちに、人が騙されるのは当然だ。人は信じたいことだけを信じるもんで、真実を求めていないからだ。」
「拷問について、これまで見たり読んだりしてきたすべてを通して、俺は確信した。時代と方法は変化するが、人間はずっと同じままだし、その人間が生み出す結果も同じだと。」
「人はより賢くなるわけじゃなく、ただより多くのことを知るだけだ。」

 パンズラムがこのように手記に書いているからといって、彼がニーチェの超人思想のようなものにとりつかれて(愛読はしていたが)、平然と殺人を犯したようには思えない。犯罪小説や犯罪映画に、ニーチェ主義が格好の良いブランド品みたいに登場するのは悪い冗談みたいなものだ。パンズラムは自分が殺す相手が、自分と同じ、惨めな人間だということを知っていた。ただ悪党か善良であるか、弱いか強いか、馬鹿か狡猾か、そうした実際的な判断をよすがに、欲望と憎悪のおもむくままに、ようするに、虐待されて檻から放たれた「血に飢えた虎」が襲うように人を襲ったに違いない。
 私たちが人間的感情だと考えているもの、市民的感情とか理性的判断と考えているもの、そうしたものの底にあって共有できると考えているもの、そういうものの限度を人間は超えて、しかも人間で在り続けることがありうる、ということを、パンズラムの言葉は教えてくれるように思う。そして、そうした境位を産み出すのは、なにも恐ろしい暗黒のような力や超越的な鍛錬や理念ではないことを、パンズラムは、体験を通して、よく知っていて、人間の心の領域の理解をすこしだけ未来にむけて拡張してくれているような気がした。


この書籍『第一級殺人』(扶桑社刊)は同名で映画化されているそうですが、そちらは未見。
97.4.16

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