映画感想


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「赤い薔薇ソースの伝説」

 舞台はメキシコのテキサスとの境に近い農場。裕福な農家の末娘として産まれたティタは、家のしきたりとして、一生結婚せずに母の面倒をみることを言い渡される。年頃になってティタに青年ペドロが求婚するが、母親エレーナは二人の結婚を許さず、代わりに2歳年上の姉ロサウラとの結婚を勧める。ペドロは軟弱かつ軽薄なことに、それが唯一ティタの近くで過ごせる方法だと思い、この申し出を受けてしまう。そこで理不尽で不幸な運命がこの一族にふりかかることになる。形式的に結婚しているロサウラとペドロ。心情では愛し合っているティタとペドロ、それを見抜いて二人の仲を裂きたがっている母親エレーナ。嫉妬や確執や憎悪が心の底では渦巻いて、緊張をはらんだ誰も幸福ではない家族関係が続いていく。やがてロサウラに子供が産まれて、その面倒をティタがみることで、よけいにこの関係はよじれていくが、、、。

 台所で産まれたティタは、家の台所女ナチャになついて育ち、ナチャが死んでからも家族の料理を一手に引き受ける。19世紀末から20世紀前半のメキシコ革命時代を背景に、メキシコの田舎の農場の暮らしぶりが描かれていて、この映画の特色になっているが、その中でも、料理を愛したティタのつくる、メキシコの伝統的な庶民的料理がおりにふれて登場するのが、この映画の魅力になっている。母娘の間の、古い因習をめぐる対立や、姉妹の間の神経をすりへらすような嫉妬心による不幸な葛藤を、大きく包み込んでいるのが、料理の魔法の力とでもいいたいようなものの存在だ。ペドロとロサウラの婚礼の披露宴をだいなしにするのもティタの涙の混じった「杏子のウェディングケーキ」であり、次女のヘルトゥルディスを革命軍兵士のもとへ出奔させるのも、官能的な「赤い薔薇ソースの鶉」料理であり、神経の病んだティタを一瞬のうちに回復させるのも肉スープ「牛の尻尾のシチュー」であり、最後にアレックスとエスペランサの婚礼の席でふるまわれて、皆に媚薬効果をもたらすのも結婚式のメイン料理「チリ・エン・ノガータ」である。もともとこの映画の原作小説では、12の章に別れていて、それぞれの章の始めに料理のレシピがついている料理小説とでも呼びたいような体裁をとっている。小説でもそれらの料理がうまくストーリーに組み込まれているのだが、この、料理がひとに及ぼす不思議な影響みたいなものが、とてもこの映画を楽しく魅力的にしているのだ。

 ちょっと脱線してみると、ティタのつくる料理とは、台所女のナチャ伝来のものであり、彼女は死後もたびたび姿をあらわしてティタに助言したりする智恵のある祖霊のような存在としても描かれている。つまり彼女は、伝統的な料理や薬草などの効能の知識の継承者として、古いメキシコの民俗的な世界観を象徴しているともいえる。もうすり切れてしまった言葉だが、「おふくろの味」といった時に含まれていたような「おふくろ」的な母性イメージのひろがりが、「かまどの神」みたいなものに直通している古代的な世界観とでも言えばいいか。
 では、母親エレーナとは何なのか。映画では、料理をまったく作らない母親、末娘を自分の老後の世話役にすることに固執する母親、娘たちを服従させ小言をいう権威的な母親として描かれている。映画で唯一彼女が家を守って勇敢に立ち向かうのは、農場に食料を調達(強奪)に来た革命軍兵士たちを相手にする場面だ。この母親は、私には、おそらくかってのインディオの征服者としてのスペイン的な価値観を体現しているように思える。もし実際に、末娘を嫁にださないという風習が、メキシコの地方の裕福な農家にあったのだとすれば、おそらく家の血縁が絶えることを恐れてのスペアみたいな役割をもっていたのではないか。
 だとすると、スペイン的な封建主義農家に末娘として産まれたティタとは、インディオ的(民俗的)なものとスペイン的(封建的)なものとの葛藤とその克服を体現しているといえそうだ。彼女は、自分たちの世界に属する悪しき非人間的な因習に苦しみ、同時に出自の異なる老婆ナチャから民俗的な精神文化を継承する。彼女はまだ近代(医者ジョンの象徴するアメリカ文化)とはまだ結婚できない。それは彼女の後の世代の仕事だ。医者ジョンの息子アレックスと、自分が料理を伝授した姉ロサウラの娘エスペランサの婚礼を終えて、はじめて彼女は自分の役割を終えて解放される。つまり一生愛し続けたペドロと結ばれ、家とともに安らかに灰になることができるのだ。この映画(小説)のメッセージは、ティタのような、伝統の継承と封建制との葛藤に苦しんで、ある意味でひたむきに一生を犠牲にした無数の無名の女性たちがいたからこそ、自分たちの現在のメキシコ文化があるという作者の思いに尽きるのではないだろうか。

 最後にこの映画のファンタスティックな楽しい想像力についてふれてみたい。私が泣いたから、雨がふる、といった人間の感情と自然現象を因果的に結びつける発想は、案外私たちにも親しいものだと思う。しかしラテンアメリカ系文学を読んでいて感じるのはちょっと違った印象だ。映画の冒頭でティタが産まれて洪水のような涙を流すシーンがある。涙が乾いて床に塩がのこった。この塩は袋に詰められて、その後長い間、屋敷で料理に使われた、というのだ。また次女ヘルトゥルディスが赤い薔薇ソースを飲んで興奮してしまい、身体の火照りを鎮めるためにシャワーを浴びていたら、熱気で水が蒸発して小屋が発火して火事になってしまうシーンがある。こういう想像力は、とても異質なものだ。人間のたかぶった感情が自然現象の変化を呼び起こすのではなくて、日常の自然には起こり得ないような(超)自然現象を呼び起こす。ティタがエレーナの亡霊と対決して追い払うと、彼女は腹いせに炎となってペドロを火だるまにするシーンがある。こういうところなどにも、投影されているのは、おそらく人間の感情の激しさが、平常の自然を超越してしまうような想像力だ。それは手におえないし、普通の人間の思惑を越えていて運命さえ狂わせてしまう。おとぎばなしや民話の世界だといえばそれで済むのかも知れないが、それらは私たちの心の古層にある神話的世界の想像力と微妙に違っている気がして、とても興味深く感じて楽しめた。

監督アルフォンソ・アウラ。主演ルミ・カバソス。
(92年メキシコ映画)
ラウラ・エスヴェル著『赤い薔薇ソースの伝説』(世界文化社)参照

97.4.12


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