読書感想


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村上春樹『アンダーグラウンド』の感想


 1995年3月20日に起きた「地下鉄サリン事件」の4000人近い被害者(公式発表は3700名)のうち、病院の入院者リストなどから、氏名の判明した700名、そのうち実際に連絡がとることのできた140名、さらに、そのなかで、取材の要請を承諾した62名の被害者たちのインタヴューを集めた本である。事件後9カ月の時点から約1年にわたり、個々の被害者に、著者が1時間半から2時間かけてインタヴューを行い、その録音を専門家がテープから起こした文章を、著者が、ある程度読みやすく編集して、被害者の承諾を得て掲載した旨が、まえがきにことわられている。
 著者はあとがき「目じるしのない悪夢」でも、この事件に関心を持ち、一冊の本をつくるに至った個人的な動機をいくつもあげているが、しばらく外国にいて日本社会を対象化したい時期に重なったことや、自分の今まで書いてきた小説のモチーフのひとつ「地下世界」との関連性といったこと、そうした著者の個人的な理由を、私たちが共有できなくても、この事件については、はっきりしていることがある。それは、「1995年3月20日の朝に、東京の地下でほんとうに何が起こったのか?」そこに居合わせた人は何を見てどんな行動をとり、何を感じたのか、が、知りたいと思ったが、マスコミ報道は教えてくれなかった、という著者の感慨の部分だ。確かに、私たちは、そこで何が起きたのか、どんな経緯があり公的機関はどんな対処をしたのか、を事実として具体的に知らされていない。私たちは当時の生々しいテレビの映像や新聞などの報道を通して、イメージとしてなんとなく知っている気になっていただけだ。そういう意味では、この本からは、60数名の被害者たちの証言を通して、今まで知られていなかった地下鉄サリン事件の全体の規模や輪郭についての、具体的な情報を得ることができる。全体を通して読むと、突発的に生じたサリン事件に対しての、警察や病院や鉄道会社の危機管理や連絡体制の薄弱ぶりが浮かび上がってくる。想定されていなかった事態に際しての当初の混乱や行き違いは仕方ないにせよ、そのことを通じて、こうした公の機関が、今に至るまで、そうした当時の実状を隠蔽したまま、機関として詳細な情報をいっさい公開していないという驚くべき側面も見えてくる。それは、この本が、結果的に投げかけることになった、ひとつの意義深い社会的な問いかけのように思える。
 当時のマスコミの大合唱のように、オウムは悪だという言葉だけで片づけるのでは、この事件から、何も学びとれないのではないか。また当時の論調のように、あちら側(オウム側)を狂気として否定したり、精密に分析したりするだけでは足りず、本当は、此方側(私たちの側)にも検証が必要ではないか。オウムのシステムと一般社会のシステムは合わせ鏡的な像を共有していたのではないか。著者はそのように言う。なぜなら、と、著者はオウム真理教のシステムについて、ひとつの見解(個人的な考えとして)を披瀝している。自由に生きたい個人のイメージとそれを阻害する制度的な社会システムの対立は、両者の歩み寄りの回路を自我のなかに独力で作り上げることによって、両者にあるバランスをもたらすこと(自分に固有の物語をもつこと)によってしか現実的に解決されないが、麻原は、血みどろの内的葛藤や懊悩の果てに、それなりに有効な閉じたシステム回路(固有の物語)を作り上げ、それに宗教の名を冠して世間にひろめ、商品化もした。彼に帰依したものたちは、自分で固有の物語をもつことを放棄して、率先して、そのシステムに自我を委ねてしまった。つまり、麻原のつくりあげた、彼らにとっては「他者の物語」を生きることにすりかえてしまった。というのだ。そのうえで、私たちは、その物語の幼稚さや愚劣さを嘲笑することはできるが、では、私たちはどんな有効な物語を手にしているのか、と、著者は問う。あなた(私たち)もまた、自我の一部をさしだし、その代価として「他者の物語」を受け取っては、いないだろうか、というのだ。
 この問いかけが、「オウムのシステムと一般社会のシステムは合わせ鏡的な像を共有していたのではないか。」という著者の視点に、直結しているのは言うまでもない。そして、著者の言うように、自我を他人の物語にすりかえることなく、自己意識と社会システムとのバランスのなかで、自分の固有な物語をつくりあげて生きることこそ、本来的な自己の姿なのだ、という文脈でいえば、私たちは、その暗示を、このインタヴュー集全体から受け取ることができるように思える。ここには、マスコミ報道などでは切り捨てられてしまう個人の率直な意見や、その人の固有な半生の記録が、自発的な、きどらない言葉で語られているからだ。被害者たちのオウムに対する感慨も、当然ながら、それぞれ多様で、マスコミの期待しているような大合唱(他人の物語)とはほど遠い。そのことを、著者も書き留めているように、私も、ひとつの「癒し」のように受け取った。
 事件の現場となった地下鉄の駅構内で、列車から降りて、何人かの男女が倒れていても、それを、てんかんや、貧血のせいだろうと判断してしまう。咳がでたり、異臭を感じたり、縮瞳がはじまって視界が暗くなっても、相当深刻になるまで、それは、自分だけの体質や体調のせいだろうと考える。危険なので駅から出るように指示があっても、パニックにもならず、階段を登って外界に出て、そこであちこちに人が蹲っているのを見る。それは現実感のない不思議な光景で、大変なことが起こったのらしいと思っても、道を隔てれば、日常の都市風景が拡がっているので、自分の不調を我慢して、まず会社に(這ってでも)向かおうとする。そういうプロセスのなかで、サリンの吸引によって被った影響の深さによって、ある人は、途中で意識を失ったり、その場に座り込んでしまったりした。ある被害者が、アメリカだったら、皆で相談したり、大声で意見をいいあうだろうが、異臭の漂う車両の中でも、みな個々に咳こんだり不調をこらえているだけだったいう意味のことを言っている。献身的に動いた駅員たちや、他者の介抱に積極的だった少数の人々の行動を除けば、いわば外界と個々が薄い膜でへだてられたような、寒々しいイメージを抱けないこともない。しかし少し考えれば、これはほとんど起こったかもしれない自分の行動として納得できる光景だ。個々をよそよそしく隔てているのは、そこが毎日通勤するために通過する場でしかないという判断力の慣性のようなもののせいだ。個々の顔がこわばり、内に閉じこもっているように見えても、その内面にはさまざまな人間的で個性的な想像力がめぐっていたことを、この本の数々の証言は教えてくれる。私は、人間の存在の根源の恐怖から発する闇の想像力の領域のようなものがあり、それがある者に体現されて、なにがあろうと「するべきでない」暴力を人々にもたらす、という発想には、なじめないが、優れた小説家であり物語作家である著者が、ある意味で畑ちがいの、こうした本をつくって世に問う姿勢に少なからず感動した。取材を拒否されたという半数以上の被害者の方たちのお気持ちに、著者の解説に込められた真摯なことばが、いつか届くといいと思った。


97.3.25

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