読書感想


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石川九楊『筆蝕の構造』


 表題にある〈筆蝕〉という語句は、つい「筆触」と読み過ごしそうな言葉だが、実は著者の独特な造語で、その意味は、ほぼ従来の「筆触」という言葉のもつ、ふでざわり、書き味、に近いが、それに、「筆触」の所作に必ず随伴するところの、被書字物である対象(紙であれ石板であれ)を蝕むという側面を加えたものと考えていいようだ。つまり「筆触」を〈筆蝕〉といいかえることで、従来の「筆触」という言葉に秘められていた、より本質的な意味あいを明るみにだしたいということのようなのである。
 〈筆蝕〉ということのもつ本質的な意味あいとは何か、といえば、著者によれば、それは「書く」ことの本質にあたっている。ペンであれ鉛筆であれ毛筆であれ、その先端が被書字物(紙面)に触れて痕跡を産み出すこと、そこで生じる物理的な摩擦や抵抗を含めた微妙な作用、反作用の過程的な構造の全体が「書く」ことの本質を決定しているというのである。いうなれば「書かれた言葉を生み出している渦中では、作者が考えているのではなく、本質的には〈筆蝕〉が考えている」のだ、というように。

 「、、「書く」表出、表現では、作者の身体の少し先の外部に生起する〈筆蝕〉が考える。言葉が発火誕生している場、つまり〈筆蝕〉の生じる場が書き手の身体、指先よりわずか数センチずれて間接化しているだけのことが表出の上では決定的なことなのだ。もしも書き手の脳が考えるというなら、考える脳は、作者の外部に摘出され、筆記具の尖端と紙の接触の場、〈筆蝕〉の場にあって活動している。」
 「小説家が小説を書く。原稿用紙に向かったとき、むろんおぼろげな構想はできていようが、それはいまだ言葉ではない。あらかじめ言葉として固まっているものは、せいぜい書き出しの一フレーズかキイワードくらい。それだってどうだか解らない。鉛筆をもって書き始める。ここから言葉が生まれてくる。その過程は、書きながら考えていると言うより、書くことが考えていると言ったほうがよい。鉛筆の芯の尖端から絶えず反応してくる手応えの〈触覚〉と、その〈触覚〉が〈痕跡〉として確実に定着され、進行していることが確認されるからこそ、脳も働き次の言葉も引き出されてくる。〈触覚〉と〈痕跡〉を水先案内人にして「書かれた言葉」は生まれるのだ。」

 ここで書くことについて言われているのは、芸術的な表現論のレベルでは、という留保つきで了解することができる。一般的な、たとえば他の文書を書き写すこと、成文化されているような規範的な諸概念を論理的に記述すること、そういうことは、この〈詩〉の発生現場の記述のような魅力的な「書く」ことの定義からはこぼれおちてしまうだろう。
 ともあれ本書は、そのような〈筆蝕〉という概念を「書く」ことの中心に置き直したユニークな言語の表現論の試みとして読みすすむことができる。〈筆蝕〉という造語にあらわれているように、著者の構想は独特で興味深く、読む者をさまざまな場所で立ち止まらせて、思索に誘うような魅力に満ちている。たとえば、従来の芸術の分類法は正確ではなく、聴覚芸術とか視覚芸術というように享受(消費)する側からの区分に過ぎないことが多い、と著者は指摘する。そこで逆に芸術を生産、創造する側からの、人間の意思の表現の行動様式に即した区分が提唱されるのだが、その区分がちょうど著者の表現論の構想の基礎の部分をなしているので、すこし書いておきたいところだ。
 人間が対象である自然に働きかける、というところから考えると、まず、直接な身体の表現が考えられる。これは著者によれば「はなす」表出、と定義される。「はなす」表出とは、話すこと、放つこと、放出すること、などの本質と考えられており、目に見えるかたちでは自然を変形せずに、意識を中空に放つようなありかたで表現することであるとされる。ここには歌唱や演説や落語などの話芸や演劇、舞踊などの芸術表現が包括される。人間が自然を変形して働きかける表現のありかたには、自然を減算的に変形するものと、加算的に変形するものが区分される。前者は、「かく」表出であるとされる。「かく」表出、とは書く、欠く、掻く、というような表現動作の本質であり、彫刻、絵画、文様、打楽器、書、文学などが含まれる。後者の、もっとも目にみえる形で自然を加算的に変形する表現は、「つむ」=「くむ」表出(積み上げる、組み上げる)であるとされ、建築、造園、織物、陶芸、塑像などが含まれる。
 この3つの区分のユニークさは、著者も書いているように、落語と舞踏がおなじ「はなす」表出に含まれ、歌唱や原始的な吹奏楽器と打楽器の演奏など一般に「音楽」としてくくられているジャンルや、彫刻と塑像のように造形芸術の「立体」として一括されているジャンルが、異なる区分に含まれてしまうような、いわば従来の芸術ジャンルの分類や常識とまっこうから対立するところにもあらわれているが、これは芸術表現を人間の自然への働きかけの方法の差異として捉え直したときに、著者の目にうつった分類の例であり、一見奇異に見えても、だれでも同じような方法的な枠組で思考実験をしてみると、案外似たような区分に落ち着くのかもしれない興味深い試みのように思える。ともあれ、こうした見方を表現の歴史のなかに置き直してみるならば、話し言葉の後に書き言葉が成立したというような従来の歴史観も否定されることになり、著者が人類の誕生と同時に「はなす」表出と「かく」表出(書く、ではない)が共存していた、という斬新な視点を提示しているのは、ひとつの恣意的な思考実験という枠をこえた成果というべきだろう。
 書く、ということの本質には、「かく」表出の歴史がひそんでいる。地面をなぞり、岩板を欠き、木板を刻み、というような、〈筆蝕〉の歴史である。本書にある著者の略歴の紹介欄によると、著者は大学の研究者であると同時に、専門の書家でもあるらしく、書くことが、いかに〈筆蝕〉の歴史から逃れられず、あるいは〈筆蝕〉そのものにその本質をおっているかという自説を、修練から得た経験的な体得や、繊細な比喩やを交えて明解な論理の線に沿って語ってゆく。文章を解剖するという場合、常識的には文章を章の単位で区分し、その下位に節を区分し、さらに句を区分して、語に至る、というところで理解は終わるのだろうが、著者は、さらに語の下位に文字を、文字の下位に字画を、さらに字画を起筆、送筆、終筆に区分し、それぞれの全過程がさらに下位の〈筆蝕〉によって支えられている、としている。いわば一般的には筆跡や書など、前言語帯域として、文学や文体から区別されていた領域も言語帯域に包括して考えるべきだという立場にたっているのだが、そこで提示されている図は、ちょっとした圧巻である。ここでは図示できないので著者の解説を引用してみよう。

 「いま、ここに示したものは、ひとつの文章が三つの章、ひとつの章は三つの節、一節は三つの句、一句は三個の語、一語は三個の文字、一字は三個の字画、一字画は起・送・終の三個の部品、起・送・終筆はさらに微小な〈筆蝕〉の集積から成立するという単純な図式にすぎない。実際にはもっと複雑な構造で成立している。しかし、この単純な例でもひとつの詩文は鼠算式に七二九の字画から成立し、起筆、送筆、終筆の単位は二一八七という厖大な単位にのぼる。、、ひとつの字画は実際には起・送・終の三単位によってできているのではなく、無数の質の〈筆蝕〉と〈筆蝕〉の変化率から構成されていることを思えば、「書く」ということ、つまり図上の文字という水位以下の部分、とりわけ無数と考えていい〈筆蝕〉が、ひとつの詩文にどれほど重大な意味をもっているかは容易にわかるはずだ。」

 たしかに図には圧倒され、論旨もよく分かるのだが、身体を構成している細胞の数は百兆あるといわれて、その一部を拡大した図をもとに身体の運動機能を説明されているようで、もうひとつ実感がわかないのが正直なところだ。それは案外私が実際に筆やペンで文字を書くという習慣から遠ざかってワープロを使うようになったところにも原因があるのかもしれないが、そこのところが、この本の中で、書くことが直面している現在の現象としては著者も一番こだわっている個所のように思えて印象も深かったところだ。著者は書くことにおける〈筆蝕〉の役割の重要性を指摘する一方で、ワープロの登場とその意味についても何度も触れている。

 「この一見徒労とみえるような字画や〈筆蝕〉の部分を省略する発想に基づいてワープロが誕生した。肉筆とワープロ印字とを字面の上での違いと漠然と考えてきた人もこの厖大な〈筆蝕〉の欠落という事実を、この図で確認するとき、その重大な質的な差に気づいてくれるに違いない。ワープロ作文では、鎖線以下の厖大な表出や表現(註:前出の図における文字、字画、起筆、送筆、終筆、〈筆蝕〉、の表現領域のこと)がすべて欠落し、既製品の印刷文字を単位に出来上がっている。手で書くこととワ  ープロで作文することの差はこの一枚の図から明らかではないだろうか。」
 「ワープロ言葉は「話し言葉」でありながら、疑似的〈痕跡〉だけはもつという「書き言葉」の形式を真似た疑似「書き言葉」にすぎない。いまはまだ、「書き言葉」の形式がワープロの文章に、「書き言葉」風のタガをはめているが、いずれもう少しワープロが普及すれば、ワープロに固有の文体と思考が露出し、通行しはじめるにちがいない。ワープロは指を使って、印刷文字を出現させる機械だが、それは「はなす」おしゃべり機械であって書字機械ではない。ワープロは大量の文字文書を流通させるが、それは書く人を増やしたのではなく、話し言葉、おしゃべりが書く領域に侵入しているに過ぎない。」
 「私自身としては、この事態に別に感傷的でもなく、さりとて肯定的でもない。私自身は、いまはワープロを使用してはいないけれども、ある必然に追い込まれれば、使用するかもしれないと考えている。けっして使わないと決意するわけではない。、、だが〈筆蝕〉の終焉は、〈筆蝕〉から生まれるスタイル、、、つまり文体の終焉であり文体の終焉は〈筆蝕〉から生まれる表現の美質、たとえば表現の全体から生まれる旋律や骨格、香り、色彩の終焉である。、、「話し言葉」を「書い」た話体の文学は、快いリズム、軽やかな跳躍という種類の文体をもつ。ワープロ作文は、この種の話体のよさをさらに伸張させるだろう。しかも〈筆蝕〉から解放された分だけ、「話し言葉」や話体の美質は飛躍的に新しい表現を獲得するにちがいない。しかし、〈筆蝕〉を喪うことによって自省と歯止めがなくなるのもまた事実であろう。現在、私たちは確実にこの種の文学の終焉という殺伐たる時代の渦中にあるという事態を興味をもって見守っている。」

 著者のように、書くことの本質が〈筆蝕〉にあるとするなら、その過程を欠如させたワープロの作文技術が書くことであるはずがない。それは「おしゃべり機械」に過ぎない、と著者が言い放つときに、一方で感傷はないとしながらも、書くことと、筆触りの意味を吟味し追求した末に、その〈筆蝕〉文化の終焉を実感しているらしい著者の、書家としての息の乱れが聞こえてこないこともない。私などには著者の主張がとても説得的なのは、皮肉なことに私たちがまだまだ〈筆蝕〉信仰の文化(著者の言葉でいえば特殊な東北アジア文化)のただなかにいるからであると思える。私にも著者のいうような〈筆蝕〉の美の世界が実感できるとすれば、それはごく特殊な文芸の芸術表現の世界をおいてない。そういう特殊な芸術の世界をのぞけば、ワープロであろうが肉筆であろうが、表現手段を云々する以前に、つまらないものはつまらないと言えるだけの見識をもつことのほうが重要ではないのか。著者もいうように、書くことの特権は、かって政治や支配と結び付いていた歴史を持っていた。それが民間にとけこんでいまだに特異で権威的な〈筆蝕〉の文化をつくりあげている。〈筆蝕〉の修練が人格を向上させるなどということが信じられているとすれば、業務命令でしかたなく楷書の達人になっている警察官諸氏はみんな人格者になってしまうだろう。もっともこんな戯れごとを著者に向かって言いたいというわけではない。書という一見縁遠い世界から、思いがけない深さにまで表現論の垂線を降ろしてみせてくれたこの本の著者は、私などにも良く共感できる感慨を書き留めている。

 「定年退職後の企業戦士やいわゆる知識人、さらには一部若者をも巻きこんでの近年の習字ブームを私はにがにがしく見つめている。ほんとうは〈書体〉の世界以前に、言葉と文体の世界を磨き上げるほうがよいのだ。毛筆手紙の書き方を教わるよりも、手紙の文章講座でも受講するほうが、日本語を厳密にし、豊かにする。達筆で書かれた「謹賀新年」だけの年賀状よりも、近況報告や年頭の抱負が一言でも書き添えてあるほうがずっといい。「習字でも教わってみようか、習字でもやってみようか」という思いがふと沸き上がるのは、いまだにこの国から言葉への不信が払拭できずに、アジア的だらしなさ、アジア的いかがわしさを思想的に克服しえていないことの証明なのではないだろうか。」


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