読書感想


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吉本ばなな『アムリタ』(上下)の感想


 大学を卒業してOLをしていたが、上司と喧嘩して会社をやめてから、アルバイトでスナックのウェイトレスをなどをしながら、家族と同居して気ままな独身生活を楽しんでいる、どこの街にでもいそうな、一見ごく普通の経歴をもった20代後半の若い女性、私(若林朔美)が、この小説の主人公である。だが、例によって、ごく普通なのは、ここまでで、一歩彼女の心の世界や家庭環境に足を踏み入れると、相当に特殊な物語の輪郭が設定されているのがわかる。
 まず、彼女の母親は、若くして十代で結婚し、彼女と、妹の真由を出産してから最初の夫と死別し、再婚した2番目の夫との間に男児(由夫)を設けてから離婚した、とされる。さらに現在では、たまに遊びにくる若い恋人とつきあっている。妹の真由は、十代の頃から芸能界入りして映画女優になったが、ノイローゼの果てにリタイアして、小説家と同棲していたが、飲酒とドラッグに溺れて、数年前に自殺まがいの自動車の衝突事故で死亡している。そこで、現在の彼女の家族構成は、母親と小学生の弟、下宿して大学に通っている従姉妹の幹子、母の幼馴染みで、理由あって(夫の友達と浮気したのが発覚して別居し、現在子供の引き取りをめぐって離婚訴訟中)同居している純子さん、それに私(朔美)、の5人ということになる。定型を失って、我が家は下宿屋と化したというのが、主人公の感想だが、一見賑やかな「女の園」のようで、実は、どこかよるべなく、いつ離散してもおかしくないような不安定な場所に、彼女の家族の位置が置かれていて、そのことから心理はいつも潜在的に不安なゆらぎを与えられている、といっていいだろう。それに加えて、彼女の心に大きな場所を占めているのは、まだ、なまなましい妹の自殺という事実である。
 こうしたシチュエーションのもとで、主人公の朔美が階段で転倒して頭を打ち、手術後回復するが、後遺症で一時的な記憶喪失にかかる、という事件の前後から、物語は展開してゆく。過去の出来事を、物語のようにしか思い出せない、自分が自分を他人のように思える、半分死んでいるような不確かな状態、しかも突然過去の断片が、生々しくフラッシュバックしてきて、とまどうような、時間感覚の異常に悩まされる状態。主人公朔美を、こうした病変の引き起こした不安定な心理状況に置くことで、作者は、現代の若い都市生活者の感じている不安感やとまどいや孤独感の所在に重ねあわせようとしているように思える。現在では朔美の家庭のようにではなくても、だれでもどこかで定型家族の解体した以後の風景を見知っているし、懐かしい親密感の喪失や、近親の関係につきまとう隙間風をあたりまえのことのように感じている。現在の感受や享楽以外を、迅速に無意味な過去としてきりすててゆく現代社会のシステムは、そのまま、生きている実感や自然性というイメージも、人間の意味からきりすててゆく。膨大できらびやかな情報の感受のなかでは誰もが、なにがしかの記憶と固有の位置の喪失を強いられるのだ。
 朔美が、失われた記憶をとりもどそうと、古い家族のアルバムを覗き込むとき、それが脳の損傷によって失われた記憶なのか、現在を生きていることによって失われた記憶なのか、わからなくなる。死んだ父や妹や、まだ定型を保っていた頃の暖かい家族や、みずみずしい幼年や少女期の記憶があふれる。記憶や感動をとりもどすことが、病からの自己の回復の意味であり、生きることの意味の発見であるような場所に朔美は立たされている。小説の文体の印象は、ずっと明るく、あけすけで、しなやかで、いつもの、ばなな節、としかいえないものだ。軽快で楽天的な生の肯定性のなかで、深刻な話題がとりあげられる。軽くて多彩な変化球の中に強烈な直球が投げ込まれてくるという感じだ。「人生」、「愛」、「宿命」、といった「人生論」風テーマが、これでもかというように、こまぎれに並べられるのは、正直苦痛なところもあったが、この味はこの作家しかだせないのだから納得するしかない。
 この小説が、記憶回復の小説、もうすこし言えば、記憶の印象を通じて自分の感動を確かめて、生きている感覚を呼び戻そうとする小説であるという印象を言えれば、いいたいことは半ばつきているのだが、小説のストーリーは始まったばかりであり、そこにはオカルトというテーマが顔をだす。
 朔美は、退院後まもなく、旅行先から帰ってきた、かって妹の恋人だったカルト作家竜一郎と恋におちる。二人はサイパンに旅行に行くが、そこで竜一郎の友人夫婦コズミ君とさせ子さんと知り合いになる。このふたりが霊媒気質であり、とくにさせ子さんは、サイパンの海や山を今でもさまよっているらしい戦没者の霊たちに歌を歌って鎮魂するという特技の持ち主なのだ。もうひとつの線は、朔美の弟の小学生の由夫が、ある日神の声を聞いたといって、突然小説家になるといいだすところから始まる。話を聞くと、頭の中で他人の声がするのだという。弟は母親が若い恋人とバリに旅行するというのに反対する。乗っている飛行機が墜落するのだという。母親はそれでもふりきって旅行にでて、無事にバリに到着するが、実際1時間の差で飛行機事故が起きたというニュースに皆が驚く。また弟の頭の中の声が神社にいけというので、それに従って朔美と弟が行ってみると、二人は円盤を目撃する。弟は、やがて朔美の夢にあらわれたり、先のサイパン旅行では、幽体となって出現して皆の前を通過したりする。物語の後半では、最初弟の知り合いだった、きしめん、メスマ氏という超能力者が登場して主人公に出会うことになる。
 このオカルトテーマに作者の好みが投影されているのは疑いなく、リアルな幽体離脱現象の描写や、サイパンでの戦死者の霊が霧となって押し寄せてくる幻想的な描写や、雲の切れまに永遠を見るという神話の一こまのような個所など、印象的な場面はいくつかあって、ストーリーに起伏をつけているが、あまり重要な意味はあたえられそうにもない。ストーリーからすれば、この作品は、主人公朔美が、弟と恋人を導きの糸として、現代のオカルト現象巡りをする物語のように読めないことはないが、書いている作者が、その現象そのものに本気で身をのりだしているとは、とても思えなかった。むしろ、作者が現代の霊能者たちに見いだしたがっているのは、人の心の内面や出来事の未来が見えてしまう不幸や寂しさといったもので、彼等と共に、世界を感受してしまう特異な共感能力のもたらす不幸や驚きをわかちあう姿勢のようなものである。

  「、、、頭を打ってからのあなたの人生は、まったくの白紙、おまけ、予想外のもので、なんのシナリオもなくて、そのことをあなたはどこかで知っている。それが淋しかったり空しかったりしないように、ものすごい注意を払っている。すごい孤独です。恋人は、かなり頭のいい人で、お人好しだし、かなり近い線であなたの孤独に迫っているし、でもあなたの個人の混乱に際しては、その存在もなぐさめにすぎない。本当の絶望に至るのは簡単です。そうならないことが今のあなたのすべてです。一度、死んだのです。前の人生に用意されていた花や実は、すべて変化しました。
 多分、お母さんのほうにすごく変わった血があって、弟さんもその影響でしょう。
 夜中に、自分が誰なのかわからなくて目覚めることがあるでしょう。
 それが、あなたです。
 すごく、もろい状態なのです。
 別れも出会いも、過ぎて行くだけで、見ていることしかできない。
 さまようしかない、生きている間ずっと。多分死んでからも。そのことに本当に気づかないように、内面ですごい奮闘とか混乱とか、起こっています。
 もっとほめてやってもいいくらいに。」

 これは超能力者のメスマ氏が、初対面の主人公に向かって言うセリフだ。なにもかもお見通しという口調と、生まれかわりの説話や、血縁についての話者の思い込みがしっかり入っていて、この種のご託宣にありがちな強迫的に畳み込んでゆくところもリアルによくでている。私と他者との間に築いた境界の内側に、どしどしと、メスマ氏が土足で踏み込んで入りこんできた。朔美はかろうじて踏みこたえて、次のような感情をいだく。

  「淋しくて、淋しくて、この人が見る私も、同じ夜、淡い星空、渡っていく風。ビルもテーブルも、鉄でできた重い椅子の感触も、だるそうに働くいくつものジョッキを持ったウェイターも、この人の位置から見たら、違う。
 わかってしまうということは、何とかわいそうなことだろうか。
 私が(彼のいうようにではなくとも)、あえてハートに入れまいとしているすべてのことが、風景のように見えてしまう、その透明な、瞳。
 ひとをかわいそうになんて思いたくない私が、すっかりやられてしまった。夜と、この悲しい半生に。弟と同じく、きしめんと同じく。
 重すぎる、救えない。わかりすぎる、受け流せない。」

 ここには、一見驚くべき逆転がある。自分の内面を見通されたショックよりも、見通してしまう相手の内面の不幸に即応して、哀れに感じている、というような。こんな共感能力というか、一種宗教的な感性がありえたとしても、けしてありふれたものでも現代的なものでもないだろう。本当をいえば、他者に踏みこまれたショックで、内面のなにかが反射的にショートして特異な察知能力が憑依した場面のようにさえ思える。けれど、こういうところが、この作家の基本のもち味なのだ。朔美が竜一郎の部屋に戻ってからの、「言葉にしてはいけない、人生だとか、役割だとか、そんなことは。限定された情報に還元してはいけない。そのままにして、そっとして、見ているしかない。こんなこと、あの人も知っているに決まってる。でも言いたかったのだ。伝えたかったのだ。淋しいから、淋しい書き割りのなかに生きているから」という感想や、ショックで発熱して寝込み、「私は私を「描写」されたことがすごく、ショックだったのだ、でも決して負けおしみなんかじゃなくて、彼が言うほど捨てたものじゃない、なにもかもが。」と回想するのも、ごく普通の女性の反応としてとても説得的に書き込まれていると思う。けれど、未知の他人に心に踏み込まれて、即座に、相手を思いやって淋しい心がこう言わせているのだ、という回収の仕方で切り返して、瞬時に自己劇化(内面化)して納得してしまえるのは、とても強固で特異な資質のように思える。
 おおげさにいえば、主人公(作者といいたいところだが)のほうが善良で天使的な気質なのだ。こういう気質は小説の始めのほうの部分で、主人公が脳の手術後、始めて母親らしき人と対面するときの心理描写にもあらわれている。自分の前にいる人が、母なのかまったく実感がわかない。「それでも、この役割でここにいるなら−この人を傷つけてはいけない」という一瞬の判断が朔美をおそう。「朔美」という呼びかけに、覚悟をきめて「お母さん。」と答える。「私は今、人がこの世で一番始めに知る世にも暖かい単語を口にしたのに、なんだか結婚詐欺をしているちんぴらのように寒々し」いと感じながら。
 最後にいうと、吉本ばななの小説では、主人公の潜在能力にたくされたものの中に、読者が、しっかりと作者の影を読み取ってしまって、どう転んでも事態がきっと好転して、夕焼けや、星空を眺めながら、主人公が独特の倫理で登場人物たちの不幸をすくいあげてくれるように期待させてしまうところがあるが、この作品では、主人公の肉親たち(弟、死んだ妹)に対する親密の情と裏腹な否定面も丁寧に書き込まれていて印象に残った。

 「自分では平静を演じているつもりなのだろうけれど、緊張や、不安や、それに気づいてほしいという甘えが透けて見える。
 身内であるということから、失望から、かすかな嫌悪を感じる。反射的な嫌悪なので、どうしようもない。過敏な彼にはそれが伝わる。だから寄ってこない。何となく気まずい。このところそういう悪循環が続いていた。
 彼は、内心いらいらしながらごろごろ寝ている私を一瞥して、
「今日はプール行かないの?」
 といきなり痛いところをついてきた。
 偶然ではない、こんなことばかりだった。目を読むのだ。私と話したいという気持ちよりも、好意よりも何よりも先に彼は今、自分を防衛する。瞬時にあらゆるデータを解析して、私に分析される恐怖を回避する。情けない。
 「もうあきたんだよん。」私は言った。「ふーん。」弟はこびるような目をしていた。
 私をむかむかさせる、弱者の目だった。」

  「上手に抑えているだけで私にもそういうところがあるが、ああいう人は男を自分という泥沼の中に引き込んで逃がさない。あまりに独特の価値観を生き抜いているので、一度つきあうと、どんなにくたびれはててももう他のリアリティに魅力を感じなくなるシステムになっている。真由には自覚がない分、より暗いおそろしい面があって、その媚態を見るたびに私は、自分が男でなくてよかった、と思った。
 決して平和につながらない技術、女の友達がいなくなって、男にしか相手にしてもらえなくなるやり方。自分だけがこの世で苦しみ、傷ついていると無意識のうちに思い込んでいる小さな宇宙の女王様。」

 妙に人の目を気にして、卑屈になって相手にこびたり、他人を受け付けないほど尊大で思い込みが激しかったり、と、弟や死んだ妹の挙動を、そう捉えているのは、人間にはもっと自然な親密さがあるべきだと感じている主人公の資質めいた嫌悪感なのだが、こういう現代の「文学」小説にはいくらでもありそうな、関係心理がどうしようもなく悪意でささくれているような場面の描写には、ちょと意外な感じをうけた。この作家が資質の違う他者(死者ではなく)の現前というテーマに、正面から取り組むというようには、今のところ、とても思えないが(私としてはオカルトやホラーものを本格的に書いてくれたほうがずっと楽しい)、かなりきつい場所にさしかかっているのかもしれないと思えた。


94.1
ARCH
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