読書感想


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喩としてのフィリップ・マーロー

  私の頭は濡れた砂を入れたバケツのようだった「かわいい女」


 レイモンド・チャンドラーの探偵小説には、読んでいておもわず相槌をうちたくなるような、卓抜な比喩が挟みこまれている。作品のストーリーはもちろんだが、そんな細部の描写の魅力にひきこまれて何編かを読みついだ。作品のなかでの一人称の語りては、ロサンゼルスに住むフィリップ・マーローという独身中年の私立探偵である。だから作品の世界はマーローがあたかも自分の眼をとうして観察し、表現したように描かれている。それが比喩に的確でぶれのない印象を与えている理由のひとつである。もうすこし踏み込んでいってみよう。ふつう私たちは言葉を通して世界を感受している。ただ言葉は私を世界につなぎとめるが、それはたよりない約束事によっている。言葉によってしか自己の証明ができず、しかも言葉は自己の確証をもたらすことができない。そのずれをとびこえようとする機制を、創造的な比喩表現のなかにみておこう。そうすると、そこには心的機制が言語規範ときしみをあげるさいの難解さや不透明感がつきまとうことになる。だが、この表現につきまとう原初的な困難は、世界と自己を仮構することで解消される。つまり自分が誰であり何をどう感受するべきかを知ってさえいればいいのだ。このことは、作品では、読者は何が語られているかということより先に、誰が語っているかということを知っている、というように現れる。

「雨は歩道のはずれのみぞにあふれ、膝の高さまで跳ねた。銃身みたいに光った雨外とうを着た大きな巡査が、げらげら笑う女の子たちを抱いて水たまりを越させ、大いに楽しんでいた。」(A)

「八十五セントの定食は捨てられた郵便行のうのような味だった。私にサービスをした給仕は、二十五セントで私をピストルで撃ち、七十五セントで私の咽喉を斬り、一ドル五十セントで私をコンクリートの樽につめて海に捨てそうな男だった。」(B)

「目をさますと、口の中が自動車工の手袋をおしこんだみたいだった。」(A)

「ダンスフロアでは、六組の男女が関節炎にかかった夜警のように勝手気ままにからだを動かしていた。」(C)

病気のあぶらむしが這うように、一時間がすぎた。」(E)

 雨に濡れた警察官の外とうが、てりを浮かべた銃身のようにみえたり、血にまみれてなまぐさい口の中の感触から油臭い自動車工の手袋を連想しているのは、主人公マーローであって作者ではない。その比喩が奇妙な実在感をもっているのは私立探偵として設定された主人公がいかにも感じそうなたとえが選ばれているからで、読者がそんな情景に投げ込まれたら、同じように感じるかどうかが問題なのではない。ひとりダンスフロアにまぎれこんだ場違いで疎遠な印象を、こんなたとえで語ることは、身近に身体の不自由な夜警の動作を良く見知っている探偵にしか不可能だろう。彼はまた、時間がなかなか経過していかない感受を、このように語ることで、自分が病気の油虫がのろのろと壁を這いまわるのをいつも見てきた男だと主張している。俺はしがない探偵屋だと比喩は告げる。そんな男はどこにもいない筈なのに、比喩によって彼は実在しはじめる。

「私たちはリトルフォーン湖に車を走らせ、私は泥のパイをつくれるほどの埃りをまともにかぶった。」(E)

「キャッシュレジスターのうすい色の髪の男は水っぽいマッシュポテトのように雑音だらけの小型ラジオで、戦争のニュースを聞こうと悪戦苦闘していた。」(E)

「長い白の上っぱりを着たやせた男が角をまがってやってきた。眼鏡をかけ、皮膚は冷たくなったオートミールのような色で、眼はくぼんで、疲れていた。」(C)

「ベルボーイは背が高く、やせて、顔が黄色く、若くはなく、肉汁ジェリーに入っているチキンの一片のようにそっけなかった。」(E)

「セントラル街にははでな服装をした人間は珍しくないが、それでも、この男はエンジェルケーキのうえの毒蜘蛛のように人目をひいた。」(B)

「ドラッグストアのカウンターで、コーヒーを二杯と、水を乾したプールの底の隙間の魚の死骸のような模造ベーコンが二きれはさまっている練りチーズのサンドイッチを流しこむ時間があった。」(F)

「八十五セントの定食は捨てられた郵便行のうのような味だった。」(B)

「コーヒーは煮つまっていて、サンドウィッチは古シャツをひきちぎったような強い匂いがした。」(D)

 泥のパイや、水っぽいマッシュポテト、冷たくなったオートミール、等という表現が適切かどうかはもう誰にとっても問題ではない。それはもう情景に適合するから選ばれたわけでも、主人公の探偵という職業からくる連想でもなくなっている。強いて言えば、それは語り手フィリップ・マーローという男の口癖にすぎない。事象を料理にたとえること。これから作者はマーローものを書くときには、事象を料理にたとえたがるというマーローの癖を模倣せずにいられないだろう。それは別に、作者チャンドラーの口癖ではないのだから。逆に料理の味覚を、それとかけはなれたうんざりする事象にたとえることも、マーローの口癖だ。いったい彼以外の誰がベーコンを、水を乾したプールの底の隙間の魚の死骸にたとえるだろう。ある意味では自己模倣によって成り立っている彼のこの種の喩法を、他人が単純に真似すれば鼻もちならなくなるのは当然のことだ。当人は探偵の語り口を模倣しているつもりで、マーローという男の口癖を模倣しているに過ぎないのだから。

「ウェバーはいきなりからだを前に乗り出した。とがった顎が巡洋艦の船首のように空気を切り開いたように見えた。」(E)

「丘の下で自動車の音が聞こえた。しかし、火星の音のように遠く、ブラジルの密林の猿のなき声のように意味がなく思えた。」(F)

「パイプに煙草をつめると、ゆっくり火をつけてから部屋を出て、イギリス人が虎狩りから帰ってきたときのように悠々と階下へ降りて行った。」(F)

 これらは主人公にひきつけてみれば、出所がわかりにくい。いずれも情景の印象を良く捕らえているが、そのぶんだけ物語の情景から切り取ると恣意的な印象をあたえる。もっといえば、このように的確に観察し、文飾している目の持ち主は本当にあの私立探偵マーローだろうかと疑念をいだかせる。比喩自体はいずれも明解な像を喚起してわかりやすいが、どれもが登場人物や主人公の覇気や孤独や安堵といった心理状態をうまくとらえている。マーローの影が薄くなり、パイプをくゆらせながら修辞を楽しんでいる作者の影がみえる。

「黄いろいハンケチが胸のポケットかららっぱずいせんの小さな花束のようにとび出していた。」(C)

「小鳥たちはきらきらと輝く梢で、雨のあとの歌を夢中でさえずり、芝生はアイルランドの旗みたいに緑だった。地所の全体が、十分前にできたみたいに新鮮だった」(A)

「煙は相変わらず部屋に残っていた。少しも揺れることなく、千匹の蜘蛛が編んだ灰色の網のように立ち上がっていた。」(B)

「かきのように白いレインコートと手袋、無帽、白い髪が小鳥の胸のようにきれいになでつけてあった。」(D)

「私は彼女に軽く微笑して見せた。交換台の小柄な金髪娘が貝殻のような耳をそばだてて、薄笑いを浮かべた。興味を覚えていたのだが、あまりネコに関心のない家に入りこんだ子ネコのように、どうふるまってよいのかわからないのだった。」(E)

 こうした比喩にはもうおれはマーローだという語り手の主張はどこにもない。対象を戯画化したり、機知の溢れるたとえの飛躍で読者を驚かせたりもしない。出所をいわなければ誰も探偵小説の一節とは気付かないほど、繊細な印象がつずられている。実際中年のタフな主人公が一人称で語る探偵物にはあまりそぐわない描写といえるかもしれないし、ここには作者チャンドラーが素顔をみせているといってもいいのだ。たとえば芝生を見てアイルランドの旗を連想するのは、アイルランド人チャンドラーにこそふさわしいし、魅力的な子猫の比喩も、愛猫家であったチャンドラーが直接語っている気がする。もっとも読者はストーリーを追い作品全体をとうして印象を形成するのだから、別段気に掛けることでもないのだろうが、そのおかげで主人公フィリップ・マーローは一方で白髪から小鳥の胸のふくらみを連想し、一方で肌の色から冷たいオートミールを連想するという複雑で魅力的な想像力の持ち主になったのも確かのようである。

A...「大いなる眠り」  双葉十三郎訳 創元推理文庫
B...「さらば愛しき女よ」清水俊二訳 ハヤカワ・ミステリ文庫
C...「プレイバック」  同     同
D...「長いお別れ」   同     同
E...「湖中の女」    同     同
F...「かわいい女」   同      創元推理文庫

付記)数年に一編というテンポで生み出されたチャンドラーの長編作品は、書かれた時から探偵小説の古典たることを目指したかのように、練りに練られている。その読み物としての醍醐味は、本当はその機知にとんだ会話描写にあるのだろうし、そのことを書かなければなにもならない気がしないでもない。でもそれは今までにどこかで書き尽くされているだろう。ただここでは物語という仮構の水準を濾過することで、自己表出としての喩が変貌を遂げ、逆に物語の実在を保証するものになっていく、その表現層の喩の微妙な揺らぎについて語ってみたかった。


個人誌「断簡風信」6号から転載

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